ここで歴史を学校以外で学んだ人達、宗教中心に学んだ人達(確か、そこまで学校教育では深堀りしていないと思っているが、今は違うのかな??)にはわかると思うが、カトリック教会の腐敗がプロテスタント勃興の契機である。
そもそもカトリック教会は、当時、無学文盲の一般民衆などまともに相手にしていない。勿論、信者が増え、教会の権威が高まり、ひいては自分達の栄光となり、そうすることで自分達が「神」に近づいた、いや、教皇以下神父によっては自分達が「神」と同格、超えたと盲信した者も居たかもしれぬくらいで、一般民衆が教会に通うことは歓迎していたはずである。
本来、聖書に記述が無い「戒律」を設けたり、勝手な妄想、寄進すればするほど神の国に近づくとか言い出す権威者が増えた。ネポティズムなど腐敗も進んだ。
そこをウィクリフやフスは批判するのだが、神の栄光を汚す涜神者として逆にその思想とともに焼き殺されるのである(焚書、焚殺)。
ジャニー喜多川に逆らう者を社会的に抹殺したり、鹿児島県警の腐敗・不正を告発した警察職員を別件逮捕するより、ものすごい残酷ぶりである。だから宗教というものは怖いのである。基本的には同根だが権威とか規範基盤が違う。
その後はルターやカルヴァンによる宗教改革、いや聖書回帰運動がおこることは学校教育でも有名である。ここで信仰の研磨や純化がなされたわけである。神意に沿う正当性に関する議論も育つわけである。
現代日本が深刻なのは、その神意に相当するものが存在せず、勝手な縄張り争い、現存する地位や権力による抗争を繰り広げ、混乱の坩堝と化す。「八百万の神」の国の致命的弱点である。
しばしば、日本は多神教の国だから、中東みたく深刻な宗教戦争にならず助かっているということが言われているが、実際は「ジャニー喜多川は冤罪」「麻原彰晃は陰謀で死刑にされた」と妄執している者達も居る。それもあるが元々信仰の域まで到達していないだけの話である。宝塚などは完治失敗し星組では相変わらず、またはいじめスパルタ体質が亢進しているというではないか。多神教国では各団体・組織・同盟に「神(天主でない)」が存在しカルト症状をこじらせる弊害は残り続け、いつまで経っても普遍的な一般市民規範の構築と浸透はできないままなのである。形式的に「法律」はあるが「権力」によって比較的容易に罰を逃れることができる。
(続く)