文書貢献度比率はぶらいやWATTY:AI = 70:30
(構想・視点・核心はぶらいやWATTY氏に帰属、AIは構成整理・言語化・接続句に貢献)
(構想・視点・核心はぶらいやWATTY氏に帰属、AIは構成整理・言語化・接続句に貢献)
平野紫耀に欠けているのは、表現力でも、カリスマでもない。十分以上のものがある。では、何が足りない。明確に告げよう。
“通訳者”としての永瀬廉だったのではないか。
“通訳者”としての永瀬廉だったのではないか。
King & Prince時代、トーク等において、永瀬は明らかに言葉の整理と伝達を担っていた。平野の「感覚的すぎる表現」「構築されない言葉たち」「肥大する顕示欲や得体の知れぬ不満や野心」を、ファンに“理解可能な形”で届ける翻訳者、緩衝材、媒介者として機能していた。
芸能というのは、表現者の“個”だけでは成り立たない。
そこには常に、“関係性の芸”がある。
それが「しょうれん」なるコンビであり、「King&Prince」というグループであり、補完関係なのだ。
そこには常に、“関係性の芸”がある。
それが「しょうれん」なるコンビであり、「King&Prince」というグループであり、補完関係なのだ。
平野と永瀬の関係性には、
- 天然と理性
- 感覚と知性
- カリスマと言葉
という芸能的バランスがあった。
それが崩れたとき、多くのファンはこう思ったはずだ。
それが崩れたとき、多くのファンはこう思ったはずだ。
「永瀬と別れた今、もはや、この人をファン一人一人では支えられない」「支える気もない」と。
Number_iが今、孤高の頂きに登り始め、表現が空転し、既存ファンが距離を取り始めたのは、単なる地上波ドラマ配役無しや事務所の違いではない。
“平野を理解できる者”がいないという、根本的な構造不全が原因だ。
“平野を理解できる者”がいないという、根本的な構造不全が原因だ。
芸能とは「個の才能」ではなく、「関係性と共演性」そのものが芸なのである。
🎤 平野は永瀬と別れるべきではなかった。
それは、表現者としての自壊を意味する分岐点だった。
では、それは防げたか、というと無理だろう。
所詮、ありえぬ夢である。私自身の当初の願望(約2年前)なら、永瀬・髙橋のTOBE移籍による、新生"Number_i"であったが(それなら別名案があった)、どうも平野・永瀬両者が互いを避けていた。しかも宿命的である。
今、苦労は約3倍増しだろうが永瀬・髙橋は充実している。対して、平野の怒りと野心は空転している。神宮寺・岸はソロもありどちらかと言えば満足しているだろう。
(追記)
- 平野は「夢を本気で信じる人」信念の人ではある
- しかし単独で立つことはできず、仲間が必要である
- 彼にとって妥協は悪であり、ストイックは美徳である
- だが、他人の意思や疲弊を想像できない野心と欲望に囚われている。
- だから、永瀬は何かと楯突くので、最終的に“歩めなかった”のではなく、“一緒に歩きたくない相手”になった。しかし永瀬もおそらくはそう思っていたのである。周囲のスタッフも分裂となる。
だが、もっと致命的なことは、平野のセンスが。。。。。。。
少なくとも、疑似恋愛に夢を託す乙女達には、王子様どころか粗野な野蛮人であったことがいけない。粗野な男に見えて繊細ならば良かったのだが。