写真:牧野富太郎「ムジナモの図」(日本植物志図篇第12集第70版)、高知新聞
朝ドラ「らんまん」では、ちょうど槙野万太郎がムジナモを学会誌に発表し、それが契機となって、東大植物学教室の田邊教授から、植物学教室への出入り禁止を命じられる場面が放映されました。
これは、実話のようです。
槙野万太郎のモデル、牧野富太郎が書いたエッセイが、青空文庫(著作権フリー)にありましたので、紹介します。田邊教授のモデルは、矢田部良吉教授です。
ムジナモ発見物語り(リンク)
牧野富太郎
じつとしていて静かに往時を追懐してみると、次から次に、あの事この事と、いろいろ過去の事件が思い出される、何を言え九十余年の長い歳月のことであれば、そうあるべきである筈なのである。
しかし、ふつうのありふれた事柄は、たとえ実践してきた自身のみには、多少の趣きはあるとしても、他人には別にさほどの興味も与えまいから、そこで私はその思い出すものが、広く中外の学界に対して、いささか反響のあつたことについて回顧し、少しくその思い出を書いて見ようと思う。それは、時々思い出しては忘れもしないムジナモなる世界的珍奇な水草を、わが日本で最初に私が発見した物語りである。
今から、およそ六十年ほど前のこと、明治二十三年、ハルセミはもはや殆ど鳴き尽してどこを見ても、青葉若葉の五月十一日のこと私はヤナギの実の標本を採らんがために、一人で東京を東に距る三里許りの、元の南葛飾郡の小岩村伊予田に赴いた。
江戸川の土堤内の田間に一つの用水池があつた。この用水池は、今はその跡方もなくなつている。この用水池の周囲にヤナギの木が繁つていて、その小池を掩うていた。私はそこのヤナギの木に倚りかかつて、その枝を折りつつ、ふと下の水面に眼を投げた刹那、異形な物が水中に浮遊しているではないか。
「はて、何であろうか」と、早速これを掬い採つて見たら、一向に見慣れぬ一つの水草であつたので、匆々東京に戻つて、すぐ様、大学の植物学教室(当時のいわゆる青長屋)に持ち行き、同室の人々にこの珍物を見せたところ、みな「これは?」と驚いてしまつた。
時の教授矢田部良吉博士が、この植物につき、書物(多分ダーウィンの「インセクチヴホラス・プランツ」であつたろう)の中で、何か思いあたることがあるとて、その書物でその学名を捜してくれたので、そこでそれが世界で有名なアルドロヴァンダ・ベンクローサであることが分つた。
この植物は、植物学上イシモチソウ科に属する著名な食虫植物で、カスパリーやダーウィンなどによつて、詳かに研究されたものであつた。
しかし、この植物は、世界にそう沢山はなく、ただ僅かに欧洲の一部、インドの一部、濠洲の一部にのみ知られていたが、今回意外にもかくわが日本で発見せられたので、ここに新しく一つの産地が殖えたわけだ。その後、さらにシベリア東部の黒竜江の一部にもこれを産することが分かり、遂に世界の産地が飛び飛びに五カ所になつた。
日本では、上記の小岩村での発見後、それが利根川流域の地に産することが明らかとなり、更に大正十四年一月二十日に山城の巨椋おぐら池でも見出された。この発見者は当時京都大学の学生だつた三木茂博士であつた。この池のムジナモは干拓のため不幸にして、その影響を蒙り、惜しいことには、遂に絶滅してしまつた。
ムジナモは「貉藻」の意で、その発見直後、私のつけた新和名であつた。即ちそれはその獣尾の姿をして水中に浮んで居り、かつこれが食虫植物であるので、かたがたこんな和名を下したのであつた。
このムジナモは緑色で、一向に根はなく、幾日となく水面近くに浮んで横たわり、まことに奇態な姿を呈している水草である。一条の茎が中央にあつて、その周囲に幾層の車輻状をなして沢山な葉がついているが、その冬葉には端に二枚貝状の嚢がついていて、水中の虫を捕え、これを消化して自家の養分にしているのである。故に、根は全く不用ゆえ、固よりそれを備えていない。また、葉の先きには四、五本の鬚がある。
前に書いたように、明治二十三年五月十一日にこのムジナモが発見せられた直後、私はこの植物のもつとも精密な図を作らんと企てた時に当つて、不幸にして私にとつては甚だ悲しむべき事件が、私と矢田部教授との間に起つた。
その時分、私は「日本植物志図篇」と題する書物を続刊していたが、にわかに矢田部氏が私とほぼ同様な書物を出すことを計画し、私は完然植物学教室の出入りを禁じられてしまつた。
その時は、まだ私が大学の職員にならん前であつたが、どうも仕方がないので止むを得ず、私は、農科大学の植物学教室に行つて、このムジナモの写生図を完成した。後に、それを「植物学雑誌」で世界に向つて発表した。そして、このムジナモはわが国の植物界でも極めて珍らしい食虫植物として、いろいろの書物に掲げられて、日本でも名高い植物の一つとなつた。
ここに、このムジナモに就て、特筆すべき一つの事実がある。それは世界に向つて誇つてもよい事柄である。即ち、それはこの植物が、日本に於て特に立派に花を開くことである。私はこれを、明瞭に且つ詳細に私の写生図の中へ描き込んで置いた。
どうした理由のものか、欧洲、インド、濠洲等のこのムジナモには、確かに花が出るには出るが、一向にそれが咲かないで、単に帽子のような姿をなし、閉じたまま済んでしまう。ところが、日本のものは、立派に花を開く。
そこで、私の写生した図の中の花が、欧洲の学者へは極めて珍らしく感じた訳であろう、後にドイツで発刊された世界的の植物分類書エングラー監修のかの有名な「ダス・プランツェンライヒ」にはその開いた花の図を、上の私の写生図から転載して、私の名と共にこの檜舞台へ登場させてあつた。
私は、これを見て、かつて私の苦難の中でできた図が、かくも世界に権威ある書物に載せらるるのは、面目この上もないことであると、ひそかに喜んだ次第である。
『日本の名随筆94 草』1990年、作品社
ドラマの中では、ムジナモを発表した「植物学雑誌」の論文に、田邊(矢田部)教授の名がなかったことが教授の逆鱗に触れたことになっていますが、別の資料では、牧野が自費出版していた「日本植物志図篇」が、研究室の資料を参考にしていたのに、それに対する謝辞がなかったことを、 矢田部教授が問題視した、となっていました。
朝ドラ「らんまん」では、ちょうど槙野万太郎がムジナモを学会誌に発表し、それが契機となって、東大植物学教室の田邊教授から、植物学教室への出入り禁止を命じられる場面が放映されました。
これは、実話のようです。
槙野万太郎のモデル、牧野富太郎が書いたエッセイが、青空文庫(著作権フリー)にありましたので、紹介します。田邊教授のモデルは、矢田部良吉教授です。
ムジナモ発見物語り(リンク)
牧野富太郎
じつとしていて静かに往時を追懐してみると、次から次に、あの事この事と、いろいろ過去の事件が思い出される、何を言え九十余年の長い歳月のことであれば、そうあるべきである筈なのである。
しかし、ふつうのありふれた事柄は、たとえ実践してきた自身のみには、多少の趣きはあるとしても、他人には別にさほどの興味も与えまいから、そこで私はその思い出すものが、広く中外の学界に対して、いささか反響のあつたことについて回顧し、少しくその思い出を書いて見ようと思う。それは、時々思い出しては忘れもしないムジナモなる世界的珍奇な水草を、わが日本で最初に私が発見した物語りである。
今から、およそ六十年ほど前のこと、明治二十三年、ハルセミはもはや殆ど鳴き尽してどこを見ても、青葉若葉の五月十一日のこと私はヤナギの実の標本を採らんがために、一人で東京を東に距る三里許りの、元の南葛飾郡の小岩村伊予田に赴いた。
江戸川の土堤内の田間に一つの用水池があつた。この用水池は、今はその跡方もなくなつている。この用水池の周囲にヤナギの木が繁つていて、その小池を掩うていた。私はそこのヤナギの木に倚りかかつて、その枝を折りつつ、ふと下の水面に眼を投げた刹那、異形な物が水中に浮遊しているではないか。
「はて、何であろうか」と、早速これを掬い採つて見たら、一向に見慣れぬ一つの水草であつたので、匆々東京に戻つて、すぐ様、大学の植物学教室(当時のいわゆる青長屋)に持ち行き、同室の人々にこの珍物を見せたところ、みな「これは?」と驚いてしまつた。
時の教授矢田部良吉博士が、この植物につき、書物(多分ダーウィンの「インセクチヴホラス・プランツ」であつたろう)の中で、何か思いあたることがあるとて、その書物でその学名を捜してくれたので、そこでそれが世界で有名なアルドロヴァンダ・ベンクローサであることが分つた。
この植物は、植物学上イシモチソウ科に属する著名な食虫植物で、カスパリーやダーウィンなどによつて、詳かに研究されたものであつた。
しかし、この植物は、世界にそう沢山はなく、ただ僅かに欧洲の一部、インドの一部、濠洲の一部にのみ知られていたが、今回意外にもかくわが日本で発見せられたので、ここに新しく一つの産地が殖えたわけだ。その後、さらにシベリア東部の黒竜江の一部にもこれを産することが分かり、遂に世界の産地が飛び飛びに五カ所になつた。
日本では、上記の小岩村での発見後、それが利根川流域の地に産することが明らかとなり、更に大正十四年一月二十日に山城の巨椋おぐら池でも見出された。この発見者は当時京都大学の学生だつた三木茂博士であつた。この池のムジナモは干拓のため不幸にして、その影響を蒙り、惜しいことには、遂に絶滅してしまつた。
ムジナモは「貉藻」の意で、その発見直後、私のつけた新和名であつた。即ちそれはその獣尾の姿をして水中に浮んで居り、かつこれが食虫植物であるので、かたがたこんな和名を下したのであつた。
このムジナモは緑色で、一向に根はなく、幾日となく水面近くに浮んで横たわり、まことに奇態な姿を呈している水草である。一条の茎が中央にあつて、その周囲に幾層の車輻状をなして沢山な葉がついているが、その冬葉には端に二枚貝状の嚢がついていて、水中の虫を捕え、これを消化して自家の養分にしているのである。故に、根は全く不用ゆえ、固よりそれを備えていない。また、葉の先きには四、五本の鬚がある。
前に書いたように、明治二十三年五月十一日にこのムジナモが発見せられた直後、私はこの植物のもつとも精密な図を作らんと企てた時に当つて、不幸にして私にとつては甚だ悲しむべき事件が、私と矢田部教授との間に起つた。
その時分、私は「日本植物志図篇」と題する書物を続刊していたが、にわかに矢田部氏が私とほぼ同様な書物を出すことを計画し、私は完然植物学教室の出入りを禁じられてしまつた。
その時は、まだ私が大学の職員にならん前であつたが、どうも仕方がないので止むを得ず、私は、農科大学の植物学教室に行つて、このムジナモの写生図を完成した。後に、それを「植物学雑誌」で世界に向つて発表した。そして、このムジナモはわが国の植物界でも極めて珍らしい食虫植物として、いろいろの書物に掲げられて、日本でも名高い植物の一つとなつた。
ここに、このムジナモに就て、特筆すべき一つの事実がある。それは世界に向つて誇つてもよい事柄である。即ち、それはこの植物が、日本に於て特に立派に花を開くことである。私はこれを、明瞭に且つ詳細に私の写生図の中へ描き込んで置いた。
どうした理由のものか、欧洲、インド、濠洲等のこのムジナモには、確かに花が出るには出るが、一向にそれが咲かないで、単に帽子のような姿をなし、閉じたまま済んでしまう。ところが、日本のものは、立派に花を開く。
そこで、私の写生した図の中の花が、欧洲の学者へは極めて珍らしく感じた訳であろう、後にドイツで発刊された世界的の植物分類書エングラー監修のかの有名な「ダス・プランツェンライヒ」にはその開いた花の図を、上の私の写生図から転載して、私の名と共にこの檜舞台へ登場させてあつた。
私は、これを見て、かつて私の苦難の中でできた図が、かくも世界に権威ある書物に載せらるるのは、面目この上もないことであると、ひそかに喜んだ次第である。
『日本の名随筆94 草』1990年、作品社
ドラマの中では、ムジナモを発表した「植物学雑誌」の論文に、田邊(矢田部)教授の名がなかったことが教授の逆鱗に触れたことになっていますが、別の資料では、牧野が自費出版していた「日本植物志図篇」が、研究室の資料を参考にしていたのに、それに対する謝辞がなかったことを、 矢田部教授が問題視した、となっていました。
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