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ちょっといっぷく 9. 葵祭(一部追加)

2008-05-16 14:39:00 | まち歩き

2008051515502  5月15日は、京都3大祭の一つ、葵祭りの日である。朝から堀川通りが何となく賑やか。上賀茂神社の縁日ともなると御薗橋から渋滞の車が並ぶのは何時ものことであるが、地図やガイドブックを持った旅行者がひときは目立つ。葵祭りの行列が御所を出発するのは確か10時頃で、下鴨神社で昼になり、賀茂街道を北上して御薗橋に近づくのは午後3時頃になるはずである。まだ朝の9時だと言うのにもう既に車の渋滞が始まり、人の話し声が華やいでいる。そういえば、葵祭の賑わいは今に始まったことではない。古墳時代後期の欽明天皇(540 ~571年)のとき、凶作に見舞われ飢餓疫病が流行したため、天皇が勅使をつかわし「鴨の神」の祭礼を行ったのが起源とされている。 「源氏物語」(葵の巻)に、斎王列見物にでかけた葵の上と六条御息所の車争いが起こった。今を時めく光源氏の正妻、葵の上と、源氏の愛が冷めた御息所の衝突。御息所の車は見物の列からハジキ飛ばされた。気のすまない御息所のうらみは生霊となって、やがて葵の上にとりつくのである(京都新聞より)。

2008051515422(蛇足1)この有名な場面の「葵祭の車争い」について、「源氏物語車争図屏風」(京都市歴史資料館所蔵)をもとに精密拡大印刷した大型パネル(4m×18m)が製作され、斎王代の御禊の儀が行われる5月4日から葵祭当日の5月15日まで上賀茂神社に掲示された(写真の出来があまりよくないので掲載は取りやめ。本物を見て頂きたい)。

 また、「今昔物語」(巻ニ八ノ二)には、葵祭の翌日、斎王列が帰るというので、頼光四天王で名高い坂田公時ら3人が見物に。でも、馬では野暮だし徒歩では人目がある。「牛車で見物としゃれ込んでは…」。1人の提案に全員が同意。早速に出かけたが、慣れない車にゆられて強者も車酔い。車の中でグウグウ、スウスウ。目を覚ましたときは、行列は過ぎたあとで、文字どおり、あとの祭り!!!

 葵祭りでは、装束の着付け、調度など平安期の文物風俗を忠実に保っている。これが葵祭りの魅力。本来、勅使が下鴨、上賀茂両神社で天皇の祝詞を読み上げ、お供えを届けるのが目的の祭りで、天皇が在京の時代には、行列の飾り馬と出立の舞を見学したりしていたそうである。行列は路頭の儀といい、長さ約1kmにも及ぶ。行列が下鴨神社、上鴨神社に到着すると、勅使の御祭文の奉納、東遊舞の奉納など社頭の儀が神前で行われるのが慣わしになっているらしい。

 上の写真(クリックで拡大)は平成20年5月15日午後3時過ぎ、賀茂街道を北上する斎王列の斎王代(上)と牛車の様子(下)である。今年は一年に一度あるかどうかというほどの天気に恵まれた。並木の緑が眼にも眩しい。賀茂街道の並木の緑を借景にして平安装束、牛車の藤の花が一際映えている。庶民による祇園祭とは異なり、上賀茂、下賀茂両神社による儀式であるから静々と進行する。動く「雅」の世界である。

 

 (蛇足2)「枕草子」に出てくる(葵)祭の記述(第4段途中より):

「・・・

四月、祭のころ、いとをかし。上達部(かんだちめ)、殿上人も袍(うへのきぬ)の濃き薄きばかりのけぢめにて、白襲(しらがさね)など同じ様に、涼しげにをかし。木々の木の葉、まだいとしげうはあらで、若やかに青みわたりたるに、霞も隔てぬ空のけしきの、なにとなくすずろにをかしきに、すこし曇りたる夕つ方、夜など、忍びたる郭公(ほととぎす)の、遠く、そら音(ね)かとおぼゆばかりたどたどしきを聞きつけたらむは、なにここちかせむ。
 祭近くなりて、青朽葉、二藍(ふたあい)の物どもおし巻きて、紙などにけしきばかりおし包みて、行き違ひ持てありくこそ、をかしけれ、末濃(すそご)、むら濃(ご)なども、常よりはをかしく見ゆ。童女(わらはべ)の、頭ばかりを洗ひつくろひて、なりは皆ほころびたえ、乱れかかりたるもあるが、屐子(けいし)、沓(くつ)などに「緒すげさせ、裏をさせ」など持て騒ぎて、いつしかその日にならむと、急ぎおしありくも、いとをかしや。あやしうをどりありく者どもの、装束き(そうぞき)したてつれば、いみじく定者(ぢやうざ)などいふ法師のやうに、ねりさまよふ、いかに心もとなからむ。ほどほどにつけて、親、叔母の女、姉などの供し、つくろひて率てありくもをかし。」