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今日もArt & Science

写真付きで日記や趣味を勝手気ままに書くつもり!
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ちょっといっぷく30 ユリカモメが帰ってきた?

2011-11-11 13:14:55 | ちょっといっぷく

 

2011

 

図1 白い翼を広げて、優雅に舞うユリカモメ(京都新聞よりコピー)。

 ユリカモメがやっと帰って来たらしい。!らしいというのは。まだこの目で確認していないのである。例年であれば、散歩の折に、ユリカモメに遭遇するが、今年はまだである。ユリカモメ保護基金のHPに「昨日(11/9)、今期も鴨川で初飛来が確認されました」と報じられたのである。一日千秋の思いで待っていた。上賀茂橋の近くにある野鳥楽園(中洲)に遣ってくるのはまもなくであろう。

 北風が吹き始める初冬、枯葉がすっかり落ちて、テラスから賀茂街道や賀茂川が目立って見えるようになった。例年、京都市内を南北に流れる鴨川は冬の使者・ユリカモメの楽園に変わる。賀茂(鴨)川はまた新しい顔をのぞかせる。真っ黒な瞳に赤いくちばしと赤い足を持つユリカモメ。鴨、サギ、カラス、トンビ、そしてハト、の食べ物争奪戦を展開する。ユリカモメは興に乗ると、白い翼をいっぱいに広げて 数十羽が円舞してくれる。川面や浅瀬で羽を休める姿は、京都の冬の風物詩としてすっかり定着した。

 ユリカモメは、ロシア東部のカムチャツカ半島から越冬のため日本に渡ってくるらしい。鴨川でその姿が初めて確認されたのは1974年1月。例年、10月下旬に初飛来し、翌年5月上旬まで、琵琶湖をねぐらにして、毎日、鴨川に餌を求めて通ってくるのである(これを通勤カモメという)。

 ユリカモメの別名「都鳥」は、『伊勢物語』東下りの一節にある。京の都を旅立ち、隅田川に着いた在原業平(ありわらのなりひら)らが、そこで京では見たことがない鳥を見かけた。渡し守に名を聞けば「都鳥だ」と言う。そこで業平が詠んだのが、

“名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思う人はありやなしやと”(都という名前をもっているなら、さあ聞いてみよう都鳥よ。都に残してきた私の思い人は元気でいるのかどうか)

という歌である。平安時代には京都で見られなかったこの鳥が、鴨川の風物詩にまでなるようになったのは、意外にも近年のこと。誰かが餌付けをしたらしい。

 鴨川でユリカモメの個体数調査を続ける市民団体「ユリカモメ保護基金」(北区)によると、南の七条大橋から北の志久呂橋にかけてが観察ポイント。琵琶湖に戻る夕方前(午後4時ごろ)には、荒神橋~四条大橋付近で、群れが輪を描きながら舞い上がる「鳥柱」が見られる。東山連邦を背景にして、数百羽の鳥柱が立つ様は壮観な眺めである。近年その個体数の斬減傾向を心配していた。

 今年1月、鴨川流域のユリカモメの飛来数を調査している自然保護団体「ユリカモメ保護基金」(京都市北区)が京都市の鴨川と高野川で数量調査を行った。調査地点は、鴨川は桂川合流地点(伏見区)から志久呂橋(北区)までの17キロ、高野川は鴨川合流地点から三宅橋(左京区)までの3キロ。この日は、15人が区域を分担し、午前11時から約1時間、着水したり、飛来している個体を数えた。1993年の調査開始以来、減少傾向にあったが、初めて増加に転じた。個体数調査で二千羽以上(精確には2036羽)が確認され、保護団体の努力がやっと実った。ユリカモメ保護基金事務局は北区小山下内河原町(北大路橋西詰)のメンズサロンカワムラにあり、ユリカモメの個体数保護のために、えさ用パンくずも無料配布している。パンくずの入ったビニール袋を持った親子が川原に近づくと、ユリカモメは何処からともなく目ざとく見つけて集まってくる。数百メートル離れた川の上流、下流から集合するので不思議である。リーダーによる信号(超音波か?)を聞くと一斉に集まってくる。今日は見られるかな?!

 

 

 

 

 

 


五山の送り火

2011-08-09 09:45:18 | ちょっといっぷく

 五山の送り火の中でも特に字の風格があるのはやはり(右)大文字である(図1参照)。三次元のうねった山肌に,75個の[点]を連ねて二次元の漢字を表現しようとするので大変である。卑近な例が左大文字で素人の書いた大の字そのものである。元々、北山の各村々が送り火を燃やして死者を送迎した名残が五山の送り火である。

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図1 如意が嶽の(右)大文字(クリックして拡大)。他の送り火に比べて格段の風格がある。

●大文字送り火

 京都市東部、東山三十六峰に属する如意ヶ嶽の支峰・大文字山にある。大文字は五山送り火に二山あり、左大文字との対比で右大文字と呼ぶ。山麓には銀閣寺、法然院等の名刹が連なる。

【起源】以下の3つの説が伝わっている。(1)平安時代初期に、弘法大師(空海)が始めたという。 かつて大文字山麓にあった浄土寺が大火に見舞われた際に、本尊・阿弥陀佛が山上に飛翔して光明を放った。この光明を真似て実施した火を用いる儀式を、弘法大師が大の字形に改めた。(2) 室町時代中期、足利義政が始めたとする説。1489(延徳元)年、足利義政が近江の合戦で死亡した実子・義尚の冥福を祈るために、家臣に命じて始めた、という。大の字形は山の斜面に白布を添え付け、その様子を銀閣寺から相国寺の僧侶・横川景三が眺め定めた。 (3)江戸時代初期に、近衛信尹(のぶただ)により始まったとする説。 1662(寛文2)年に刊行された「案内者」には、「大文字は三☆院(さんみゃくいん)殿(信尹を指す)の筆画にて」との記述がある。信尹は本阿弥光悦、松花堂昭乗とともに当代の三筆といわれた能書家だった。
☆は「貌」にくさかんむり
【所在地】京都市左京区浄土寺七廻り町
【火床数】75基
【大きさ】一画80メートル、二画160メートル、三画120メートル
【点火時間】午後8時

●松ヶ崎妙法送り火

 「妙」「法」から成る。西側に位置する「妙」は万灯籠山(松ヶ崎西山)、東側の「法」は大黒天山(松ヶ崎東山)にそれぞれ浮かび上がる。

【起源】「妙」は鎌倉時代末期、松ヶ崎の村で、日蓮宗の僧・日像が、西の山に向かって「南無妙法蓮華経」の題目から「妙」の字を書き、それを基に地元で山に点火を始めたのが起こりとされる。  一方、「法」は、約350年前の江戸時代初期から行われた、とされる。当時は地域の西側にしか送り火がなかったため、僧の日良が東の山に向かって新たに「法」を書き、これにならって火をともしたのが始まりと伝えられる。
【所在地】京都市左京区松ヶ崎西山(妙)、同東山(法)
【火床数】103基(妙)、63基(法)。現在は鉄製の火床の上にアカマツの割木を高さ約1メートル積み上げて点火している。
【大きさ】「妙」は縦横の最長約100メートル
     「法」は縦横の最長約70メートル
【点火時間】午後8時10分

 

※松ヶ崎題目踊り=8月15日午後8時、16日午後9時・涌泉寺(京都市左京区松ヶ崎)
 送り火に合わせて行われる盆踊り。日本最古の盆踊りとされる。1306(徳治元)年、村の住民らが日蓮宗へ改宗したことを喜び、地元の寺の僧・実眼によって始まったという。現在は、地元の保存会が踊りを受け継ぎ、守っている。  境内では、太鼓に合わせ、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら老若男女が踊る。また、京都・洛北地域に伝わる盆踊り「さし踊り」も披露される。

●船形万燈籠送り火

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図2 形も物語りも申し分なし(クリックで拡大)。書斎の窓を開ければ一面に広がる。8月16日の密かな楽しみの一つ。

 京都市の北東部・西賀茂の明見山にあるが、明見山の真下で船形を見ることは難しい。

【起源】西方寺の開祖、慈覚大師が847(承和14)年、唐留学の帰路で暴風雨にあったが、南無阿弥陀仏を唱え、無事帰国できたことから、その船を型どって送り火を始めたとも伝えられる。
【所在地】京都市北区西賀茂船山
【火床数】79基
【大きさ】縦約130メートル、横約200メートル
【点火時間】午後8時15分。西方寺で鳴らす鐘を合図に点火。送り火終了後、西方寺六斎念仏が行われる。

●左大文字送り火

 京都市西部、大北山にある。字形は右大文字と酷似しているが、規模から点火手法に至るまですべての面で異なる。西大路通のわら天神交差点を北に越えると視野に入る。ふもとには金閣寺がある。

   【起源】1662(寛文2)年刊行の「案内者」に記述はないことから、大文字、妙法、船形の3山より遅れて登場したと考えられる。大の字に一画加えて「天」とした時代もあった。
【所在地】京都市北区大北山鏡石町
【火床数】53基
 左大文字は、岩石が多くて火床が掘りにくいため、以前は全部かがり火を燃やしていたが、現在は斜面に栗石をコンクリートで固めて火床をつくっている。
【大きさ】一画48メートル、二画68メートル、三画59メートル
【点火時間】午後8時15分

●鳥居形松明送り火

 京都市西部・北嵯峨の水尾山(曼荼羅山)にある。嵐山・広沢池の近郊にあり、市内で見える場所は限定される。山麓へは新丸太町通を西に向かった後、清滝方面へ北上する。 薪を井桁に組まずに、薪を合わせた松明を燭台に乗せる。親火の所で松明に火を移し、一斉に松明をもって走り各火床に突き立てられるが、あらかじめ各火床に点火準備されていないところが、ほかの四山と異なっている。

【起源】弘法大師が石仏千体を刻み、その開眼供養を営んだ時に点火されたとも伝えられる。鳥居の形から、愛宕神社との関係も考えられている。
【所在地】京都市右京区嵯峨鳥居本一華表町
【火床数】108基
【大きさ】縦76メートル、横72メートル
【点火時間】午後8時20分

出展:京都新聞より

 


ちょっといっぷく28 加茂街道の新緑が目に沁みる

2010-05-08 10:36:54 | ちょっといっぷく

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図1 2匹のアマゴ。20cm前後の大きさが一番うまい!味は渓流の女王だけあってアユよりも格段に良い。

 ゴールデンウィークが終わったあたりから加茂街道の並木が俄かに新緑に覆われ、目に沁みる季節になってきた。ケヤキ、ムク、サクラ、カエデが入り乱れて「春もみじ」を呈する。山形にいたころは「春もみじ」という言葉を何度となく聞いた。全山一斉に赤、黄色、そして萌黄の新芽があたかも秋の紅葉を連想するのでこの名がついたのだろう。加茂街道の木々の緑がほんのひと時、錦を呈するのもこの時期である。旅行会社の広告記事に「青もみじ*1ツアー」が企画されていた。同じことを言ってるのかどうか定かではない。もうすぐ葵祭(5月15日)である。この滴る緑を借景にして王朝絵巻衣装がひと際映える。

200805151542

 

*1 googleで「青もみじ」で検索してください。写真入りの素晴らしい青もみじが拡がります。貴船もその一つ

 この頃、ひと際映えるものにアマゴの体色がある。冬の寒さに耐え、錆の付いたアマゴは痛々しいが、5月に入るとあの群青のパーマークが目にも鮮やかで、朱色の斑点は命の証し。貴船のアマゴを食べたくなってきた。上賀茂神社からタクシーで20分程度遡れば貴船である。むかしは貴船川と鞍馬川の合流点近くに小生だけの格好の釣り場があり、よく渓流釣りの真似事に行ったものである。帰りは貴船駅の売店のおばさんと世間話をするのが楽しみだった。いまは食い気だけが残っているのみ。


ちょっといっぷく26 イワナを描くのには時間がかかる

2010-01-28 11:16:30 | ちょっといっぷく

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図1 ちょっといっぷく3 の絵に加筆して、顔を中心にコントラストを強くしたもの(クリックで拡大)。

 イワナの虫食い模様はことのほか時間がかかるがこの重量感が堪らない。深緑と焦げ茶と金泥!端的にいえば迷彩色である。この3色を組み合わせて虫食い模様を作り上げていくと図1のようになる。この模様は満天の星空にも見えて三次元空間を連想する。イワナの神秘性はここから来るかもしれない。

 イワナの背中が迷彩色になったのは何億年もの自然淘汰の結果であろう。深緑と焦げ茶と金泥!始めは大まかに魚体を素描し、虫食い模様を背中の首筋に沿って描き始める。模様の大きさは大きすぎても、また小さすぎてもだめ!描き始めてしばらくすると違いに気付き、極細消しゴムで修正を加える。この時三次元空間の位置も加味して修正しているようである。他人事のように表現したのは意識に従って表現している部分と、無意識にセレクトして描いている部分があるようだ。でも、DNAの情報に従って作り上げていく模様がなんと不思議な世界なのか?!

 科学的に解き明かされようとしているこの模様のメカニズムは西陣織の機織りに似てミクロの細胞の中でいとも容易く作られている。


ちょっといっぷく27 水中写真

2010-01-28 09:33:59 | ちょっといっぷく

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図1 アマゴの水中写真を模写。

 水中写真の良さは表情がリアルで姿形が自然なことにある。しかし、残念なことに色彩が空中のときと異なる。特に、水深がある場所での写真はどこか色抜けした雰囲気になるのは否めない。図1は水中写真の模写の例である。釣り上げられたアマゴと異なり、姿形がすごく自然である。色彩も惚れ惚れするほど色鮮やかである。最近はIEにもふんだんに水中写真が掲載されるようになり好みの写真が選べる。図1もその一枚で水の動きが分かるように意識して描いた。

 渓流釣りの経験者は理解していただけると思うが、釣り上げた魚は一分もしないうちに色が変わり、死んだあとは見るも無残な体色になる。生きた自然な姿を願うのは筆者ばかりではなくたいていの山釣り経験者が願うことだと思う。ここに、水中写真願望の原点があり、イラストの動機もある。Googleを使って「イワナ(アマゴ)、イラスト」を検索すると同じ動機の人がいかに多いか理解できる。