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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

秋本番

2012-10-12 19:38:57 | 小説
 つい最近まで30℃近くあったのが、10月も中旬となり、めっきり涼しくなってきました。

 昨日、弥勒山に行きました。

  
 
 先週はまだ稲穂は実をつけて、頭を重そうにしていましたが、昨日はかなり刈り取られていました。

 ずいぶん涼しくなりましたが、蚊がまだたくさんいました。鬱陶しいメマトイは、最近は真冬でもいます。

 今回は『幻影』第23章です。篠島の旅館での出来事を描きました。今回で全体のほぼ3分の2になります。



          23

 陽がかなり西に傾き、海がオレンジ色に輝き、燃え上がるようだった。遠く対岸の三重県の山並みに、真っ赤な夕日はどんどん沈み込んでいく。
「わあ、きれい。ねえ、安藤さん、私、こんなきれいな夕日見たの、久しぶり。山での夕日もいいけど、海もすてきね。海がきらきらきらめいて、とてもきれい」
「ああ、そうだね。本当に燃えいりそうな夕日だ」
 篠島の夕日は、県内では唯一、日本の夕日百選に選ばれている。夕日が美しい歌碑公園や牛取公園まで行く時間的余裕はなかったが、港の近くからでも、十分夕日の美しさは堪能できた。二人はフェリー乗り場から南に歩き、小さな漁港をぐるりと巡るように、西に向かった。目の前には小さな木島があった。左手の方角は小高い丘になっており、その上の方に、知多四国霊場の三つの札所がある。
 美奈はカメラを取り出し、何枚も沈みゆく夕日の光景を撮った。
 夕日を写してはカメラのモニターを覗き、なにやら調整している美奈に、「何をしているんだい?」と安藤が問いかけた。
「夕日が最もきれいに写るように、ホワイトバランスを調整しているんです」
「ホワイトバランス? 何ですか、それ。僕はあまりカメラのことはよく知らないな。シャッターを押すだけで写る、というのじゃなくっちゃね。美奈さんはカメラに詳しいんですね」
「ホワイトバランス、というのは、一言で説明するのは難しいんですけど、太陽の光、電球の光、蛍光灯の光などは、独自の色を持っていて、人間の目だと脳が無意識に補正してくれますが、カメラはそうはいかないので、変な色に写ることがあるんです。それを修正するんです。普通はオートでいいのですが、夕日を夕日らしく赤っぽくするために、ちょっと調整してるんです。もっともロウで撮って、パソコンで処理すれば、こんな調整する必要ないですけど」
「難しいな。僕はあまりカメラに興味ないから、全然わからないですよ。僕にとっては、シャッター押すだけできれいに写っていれば、それでいいですからね」
 陽が沈み、空の色が少しずつ変化していった。オレンジからピンク、そして徐々に紫色が勝っていった。空には半月と満月の中間程度の月が昇っていた。
 気温がぐっと下がってきた。鼻から吐く息が白く見える。
「美奈さん、そろそろ宿に行きませんか。寒くなってきた」と安藤が促した。
「そうですね。私も寒いですわ」と美奈も応じた。
 予約しておいた潮屋(うしおや)という民宿は、すぐに見つかった。民宿といっても、三階建ての大きな宿だった。
 フロントというより、帳場といったほうがふさわしいところで宿泊の手続きをした。宿帳には安藤が、安藤茂、美奈と夫婦を装い、住所は高蔵寺の美奈の住所を記入した。
 手続きを終え、部屋に案内してもらった。部屋は二階だった。和風の作りだ。部屋は暖房が効いていて、暖かかった。
「お食事は六時半からでございます。それまで、お風呂にでもお入りになって、おくつろぎください。お風呂は三階でございます。お食事は、本日はこちらのお部屋に用意させていただきます。明日の朝食は一階の食堂でございます」
 案内をしてくれた仲居さんが言った。
「なかなかきれいな部屋じゃないですか」と安藤がほめた。
「バス、トイレはついてないのですね」と美奈が尋ねた。
「トイレは階段の近くにありますよ。すぐそこです」と仲居さんが答えた。
 美奈は座卓に用意されたお茶のパックを湯飲みに入れ、ポットの湯を注いだ。それに和菓子を添えて安藤に勧めた。
「ありがとう。美奈さんはいい奥さんになれますよ」
「いやですわ。ただポットのお湯を注いだだけなのに」
「僕のいい奥さんになってほしい、ということです」
「私みたいな女でよかったら」
 美奈は頬を赤くした。そう言いながら、美奈の脳裏には三浦の面影が揺らめいた。
「え、本当にいいんですか? 本気にしますよ」
「はい」
 美奈は自分が何を言っているのか、わからなくなった。そんなこと答えてしまっていいのか、という気持ちと、ぜひそうなってほしい、という気持ちの二つが入り乱れた。少なくとも、安藤が千尋殺害に無関係だとはっきりするまでは、安易に結論は出さないほうがいい、と心のどこかで警告していた。
 一休みした後、安藤が、風呂に行こう、と言った。
「いれずみ、大丈夫かしら? 小さなタトゥーならともかく、全身だから」
 美奈は入浴を断られるのではないかと不安だった。
「気にしないで行きましょう。何か言われたら、言われたときのことです」
 二人は三階の浴場に行った。浴場の前で男湯と女湯に別れた。
 すぐ近くの南知多には多くの温泉があるが、海を隔てた篠島には温泉が湧き出ない。だからこの民宿も普通の沸かし湯である。宿の中には、南知多から源泉を運び、天然温泉を謳っているところもある。
 女湯の中には誰もいなかった。誰か入っていると、いれずみがある身体で浴場に入るのは気が引けるが、誰もいなかったので、美奈は脱衣場で服を脱ぎ、気兼ねなく入っていった。
 二日前に彫ったばかりのマーガレットの傷口は、まだ生々しかった。
 卑美子の針は、彫る場所にもよるが、浅すぎず、深すぎず、適度な深さに刺し入れるので、インクの入りもよく、傷の治りも早い。その卑美子の指導を受けたトヨの針も、傷の治りがいいようだ。
 針を刺す深さというものは、教えてもらってわかるものではない。最適な深さを会得するためには、かなりの経験、試行錯誤が必要だ。トヨがもうそのコツをかなりつかんでいるというのは、天賦の才というものだろうか。卑美子の域に達するまでには、まだかなりの経験を積む必要があるだろうが、デビューしたばかりのタトゥーアーティストとしては、十分に評価をしてよいと、美奈は考えた。
  美奈の処置も適切なので、もう傷口からリンパ液が滲み出るようなことはなくなっていた。
 湯船に浸かる前、美奈は必ずお尻の前後を石けんできれいに洗う。入浴前にお尻をきれいに洗うことは、当然のエチケットだと考えているし、汚れたまま湯に入るのがいやだった。 湯船は広く、お湯は適温だった。美奈は気持ちよく湯に沈んだ。心の底までリラックスできるような気分だ。仕事で湯船に浸かるのとは、天と地の違いだった。
 浴場の外で何人かが話す声がした。誰か入ってくる。いれずみをまともに見られてしまう。タオルで隠せるものでもないし。
 まあ、いいわ、と開き直ることにした。
 入ってきたのは三人の初老の女性だった。三人は身体を十分に洗わず、お湯を申し訳程度にかぶっただけで湯船に入ってきた。
「どうも、ご無礼します」と一人が挨拶した。美奈も「今晩は」と挨拶を返した。
「あらー」
 湯の中に沈んでいる美奈の身体を見た一人が、大声をあげた。
「ごめんなさい、こんな身体で。驚かすつもりは全然ないのですけど、もし不快になるようなら、すみません。すぐあがりますので」
 美奈はまず謝った。
「あら、あなた、同じ船にいた人ね。それ、本物のいれずみ?」
 間近で顔を見て、視力が悪い美奈は、三人が高速船の中にいた、お遍路さんの格好をしていた人たちだと気がついた。篠島には旅館、民宿の数が多い。美奈たちが予約した潮屋は、特に人気が高い宿というわけでもなく、同じ宿に泊まるというのは、偶然とはいえ、確率が低い巡り合わせだった。
「はい、本物です」
「すごい。本物のいれずみだって。きれいねー。よく見せてよ。背中にもやってるの? 見せて見せて。痛いんでしょう、これするの」
 一人がこう叫んだら、三人が美奈を取り囲み、キャーキャー騒いだ。三人は一糸まとわぬ美奈を立たせたり、回転させたりして、美奈の肌に描かれた絵をじっくり見ていた。
「あ、足にも鳥の絵が描いてある」
 左足の鳳凰を見て、一人が言った。
 三人は美奈の乳首とへそのピアスにも気づき、「こんなところに輪っかが入ってる」と、興味深げに見ていた。乳首のピアスはリングで、へそはカーブしたバーベル型である。
「いれずみって、きれいなもんですね。こんなの、初めて見たわ。いれずみは怖いお兄さん方がするものだと思っていたけど、こんなきれいなお嬢さんがしているなんて。これはまさに芸術ですね。肌をキャンバスにした芸術。きれいなもんだわ」
「ほんと。いいものを見せてもらいました。ほんとに芸術ですね。私もいれずみに対する偏見、なくさなきゃ。痛くなくて、簡単に消せるものなら、私もやってみたいぐらい」
 三人はいれずみの芸術性に初めて気づき、感動していた。
「おばさんたち、あ、失礼しました。ごめんなさい。あの、知多四国霊場の巡礼をしているんですか?」と今度は美奈が三人に問いかけた。
「いえいえ、おばさんでけっこうですよ。私たち、お遍路さんやっているの。今日は大井や師崎の周辺、三〇番から三六番まで七つ回ったの。明日は篠島、日間賀島を回って、最後に豊浜の方に行って、満願なの」
「明日で満願なんですか。おめでとうございます」
 三人は名古屋市内や、その近郊に住む仲良しグループで、何度かに分けて、日帰りで知多四国霊場巡りをしている。一回一〇カ所程度をバスやタクシーを利用して、日帰りで巡礼しているという。健康のため、寺と寺の間が一時間以内で歩ける距離なら、なるべく歩くようにしているそうだ。今回は離島であり、最後だから、記念に贅沢をしようと、一泊旅行にした。
「やはり離島が最後に残ってしまいました。年内に満願するつもりでしたが、越年してしまって。でも、そのおかげで、いいもの拝めましたよ」
「今日は別嬪さんの背中にある、きれいな観音様も拝めたし、最高だわ」
「いやですわ、私の背中なんか拝まれちゃ。それに別嬪だなんて」
「でも、あんた、何でそんな大きないれずみ、しちゃったの? 腕の牡丹の花だけでやめときゃよかったのに」
「何で、と言われても困りますが。小さいころから、きれいだな、と思ってて、どうしても自分の肌をきれいに飾りたくてたまらなくなってしまったんです」
「確かにきれいですよね。親からもらった肌を汚すなんて、ってよく言われるけど、こんなきれいないれずみを見たら、私もちょっとだけやってみたくなりましたよ。でも、痛いし、二度と消せないし。そう思うと、実際に入れてみようとまでは踏ん切りつきませんけど」
「でも、ほんとにきれいな観音様だこと。その絵にしたのは、やっぱり観音様信仰しているからですか?」
「私、お寺の娘なんです。だから、昔から仏様を彫りたい、という気持ちはありました。でも、うちは真宗だから、本当は観音様ではなく、阿弥陀様にしないといけないのですけど」
「え、お寺さんなんですか。お寺の娘さんが仏様のいれずみしてるんですか。思い切ったこと、しなさったんですね」
「やっぱり私は普通とはちょっと違って、変わっているんです」
 三人の初老の女性は美奈が身体を洗うとき、背中をタオルでこすったりしてくれた。観音様が彫ってある美奈の肌に触りたがった。
 最初は引け目を感じていた美奈も、三人の開けっぴろげな言動に、心から楽しく思った。
 湯からあがるとき、「今日はいいものを見せてもらいました。またどこかで会ったら、見せてくださいね。袖振り合うも他生の縁ですから」と声を掛けてくれた。
 最後に、一人が、記念に写真を写させてください、と脱衣場で携帯電話のカメラで、裸の美奈の背中や腕を何枚か撮影した。
 私たち四人の仲良しグループも、あの人たちのように、三〇年後、四〇年後も仲良くやっていければいいな、と思うと美奈はうらやましかった。いや、私たちだって、きっと臨終を迎えるその日まで、ずっと友情で固く結ばれているに違いない。美奈はそう信じた。
 部屋に戻ると、もう食事の支度ができていた。美奈が戻ったのは、食事の時間の六時半ぎりぎりだった。
「長湯でしたね」と安藤が言った。
「ごめんなさい。お風呂で、霊場巡りの人たちに出会って、話が弾んでしまいました」
 仲居さんがいるので、美奈はいれずみのことで盛り上がったことは言わなかった。
「最近、この辺の旅館は霊場巡りのお客さんも多いんですよ」と仲居さんが相づちを打った。
 夕食の海の幸は素晴らしかった。特に、菊の花の形に皿に盛ってある、ふぐの刺身のてっさは絶品だった。三河湾や伊勢湾も、このあたりに来ると、水もきれいだ。この民宿のご主人は漁師とのことで、三河湾で捕れたばかりの新鮮な食材が豊富だった。
 美奈は食べきれないほどの海の幸に、十分満足した。食いしん坊のルミさんなら、大喜びするだろう、今度は仲間のみんなと来てみたいと思った。
 安藤は日本酒を注文し、美奈にも勧めた。最近、付き合いで多少は飲むようになったとはいえ、酒にあまり強くない美奈は、食事が終わった後、酔って眠り込んでしまった。
 最近は酒の力を借りなくても、よく眠れるので、自宅で寝る前にワインを飲むこともやめてしまっていた。
 目が覚めたのは九時半ごろだった。二時間近く眠っていた。部屋には二組の布団が敷かれていた。美奈は布団の中ではなく、部屋の隅で毛布を掛けられて眠っていた。暖房が入っているので、寒くはなかった。メガネをかけたまま眠っていたので、レンズに指紋や脂などがついて、汚れていた。美奈はティッシュでレンズを拭いた。
 安藤は部屋のテレビを見ていた。
「やあ、目が覚めましたか」と安藤が声を掛けた。
「私、酔っぱらって寝ちゃったんですね」
 美奈は大きくあくびをした。
「大きな口を開けて。美人が台無しだ」
「やだ、恥ずかしい」
 そう言いながら、美奈は安藤から顔を背けた。
「風呂にでも入ってきたらどうですか? すっきりしますよ。美奈さんが行くなら、僕ももうひとっ風呂浴びてきます」
「そうですね。それじゃあ、行ってきます」
 さっきは風呂に入ることに、多少の抵抗があったが、巡礼の人たちと話したことにより、心の垣根は取り払われていた。
 今度は誰も入ってこず、浴場には美奈一人だった。洗髪などはもう済んでいるので、今度はよく温まって、早めに風呂からあがった。さっきの巡礼の三人以外の誰かが入ってきたらいやだな、という意識も多少はあった。
 部屋に戻ると、二人は自然と交わった。
 美奈の右の脇腹を見た安藤は、「あれ? また新しい絵を入れたんだ。きれいな花だね」と彫ったばかりのマーガレットの花を褒めた。
「まだ入れたばかりで、傷口が治ってないから、優しくしてくださいね」
 マーガレットのタトゥーには、薄いかさぶたができかけていた
 安藤は美奈の身体に新しくタトゥーが増えたことで、さらに燃え立った。しかし、なぜか三浦に対する後ろめたい気持ちがあり、美奈は完全に陶酔することができなかった。
 なぜこれほどまでに三浦のことが気になるのだろうか? 私が本当に好きなのは、安藤ではなく、三浦なのだろうか。
 でも、三浦とは二回会っただけ。それも血なまぐさい殺人事件関連で。
 安藤と交わりながらも、美奈は安藤を裏切っており、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

タトゥーイベント

2012-10-10 08:39:18 | 日記
 10月6~8日の3日間、東京のKING OF TATTOO 2012で、書籍の販売をしました。

 『幻影』は、大きくタトゥーを入れた女性主人公が大活躍をする、というストーリーで、そのことが縁となり、主催者の方より、タトゥーイベントで本を販売しませんか? と誘われたことがきっかけでした。

 以前、京都のCATCLAWさんや豊橋の彫鯉さんのイベントなどに行ったことがあり、そのときの経験をもとに、『幻影』で、卑美子が属する“彫波一門”のタトゥーイベントの様子を書きました。

 過去のイベントでお会いした日本一、いや、世界一の彫り師といわれる三代目彫よし先生から、「久しぶりだね、元気かね?」と声をかけてくださいました。そして奥様が本を買ってくださいました。

 知り合いの名古屋のサバドさんも参加していました。『幻影2 荒原の墓標』に出ているS氏のモデルは、サバドさんです。

 このブログを見てくださっているという方に、本を買っていただきました。

 また、多くの方より、大阪の橋下市長のタトゥーに関する調査についての感想を訊かれました。話の中で出た意見としては、「公務員が見える部位に大きく入れるのは不適切だが、何かの記念や決意として、見えないところに小さく入れる程度ならいいのではないか? 少しずつでも“タトゥー=悪、やくざ”というイメージが薄らいできて、ファッションとして受け入れられつつあるのが、またわるいイメージに戻ってしまうのが残念だ」ということでした。

 3日間で本は20冊売れました。『幻影』が一番多く売れました。「『幻影2 荒原の墓標』はその続編なので、まずは『幻影』から読んでみる」という方が多くみえました。

 タトゥーイベントに初めてブースを出させていただき、とても疲れましたが、多くの方と知り合いになれ、とても楽しい3日間でした。

残暑

2012-10-05 10:45:00 | 日記
 もう10月だというのに、暑い日が続きます。昨日は名古屋市で、10月としては7年ぶりに30℃を超えたそうです。

 昨日は運動のため、弥勒山に登りましたが、暑くてかなり汗をかきました。顔にまとわりつく、不愉快なメマトイや、蚊もまだたくさんいます。10月だというのに、ツクツクボウシが鳴いていました。

 この写真は先月末ですが、大谷川の川岸に、コスモスが咲き乱れていました。ここにはもう秋が来ていました。

 

篠島

2012-10-02 16:11:28 | 小説
 10月になり、涼しく、秋らしくなってきました。9月は名古屋では過去数十年で、3番目に気温が高い、残暑が厳しい秋だったようです。

 今回『幻影』第22章を掲載します。篠島旅行の前半部分です。篠島への旅行の章は、『幻影』の中でも、もっとも楽しく書けた部分でもあります。

 私自身、4年前、知多四国霊場巡りをしました。長いこと勤めた仕事を退職し、また、霊場開創200年の年ということで、日帰りで数回に分けて、霊場巡りをしました。最初の寺の最寄りの駅までは名鉄電車、またはJR武豊線を使い、その後は1回平均で10ヶ寺ほど歩いて回りました。1回で20~30kmは歩きました

 そして、最後に日間賀島、篠島の霊場を訪れました。その日で満願、という日に、日間賀島で船から降りるとき、桟橋が揺れた瞬間、愛用のデジタル一眼レフPENTAX *istDLを落とし、ボディーもレンズもだめにしてしまいました。安易な気持ちで霊場巡りをしたので、バチが当たったのでしょうか?

 今回の章には、霊場巡りの思い出なども込めて執筆しました。


             22

 店の公休日に誘いを受け、美奈は久しぶりに安藤に会っていた。年が明けて初めてだった。二週間に一度は安藤から誘いがあったが、このところ美奈はときどき誘いを断っていた。
 今回は新年ということもあり、知多半島の沖の三河湾に浮かぶしのじま篠島で一泊し、ふぐ料理を賞味しようということになった。
 松の内も過ぎ、平日のため、間近での予約だったが、旅館の部屋は空いていた。安藤は年次休暇をあまり消化していないので、二日間の休暇を取得したという。
 昨夜は仕事で遅くなり、朝は一〇時過ぎに起きた。ベッドに入ったのは午前三時ごろだったので、七時間ぐらいは眠っている。今日は知多半島の先端の師崎まで、長距離車を運転するので、十分睡眠をとっておきたかった。朝食はとらず、シャワーだけ浴び、出かける準備をした。荷物などはもう前日に赤いザックに詰めておいた。
 美奈は愛車のミラで、安藤と待ち合わせの、名古屋市南区のレストランに向かった。
 そこで二人で昼食をとり、名四国道から大高で知多半島道路に入った。
 知多半島道路、南知多道路は高速道路並みの規格で、快適なドライブが楽しめる。以前は片側一車線だったが、日本道路公団から愛知県道路公社に事業譲渡されてから、二車線となり、制限時速も八〇キロとなった。
 車の流れに乗って走っていると、ついつい速度が一〇〇キロを大きく超えてしまうことがある。美奈はときどきスピードメーターを確認し、速度が出過ぎると、後続車の様子を見ながら、エンジンブレーキを効かせて減速した。半年ほど前、スピード超過で走り、あわや事故を起こす寸前で、千尋に助けられたことが常に頭の片隅にあった。
 安藤は運転免許証を持っていない。以前、人身事故を起こし、免許取り消しとなってから、もう取得する気をなくしたとのことだった。
 篠島に渡るには、師崎港から高速船に乗る。師崎港に行くまでに、野間大坊と野間灯台に寄ることにしていた。
 南知多道路を美浜インターチェンジで降り、県道二七四号線を上野間方面に走った。杉本美術館に寄りたかったが、残念ながらその日は水曜日で休館日だった。それで上野間から国道二四七号線に入り、野間大坊に向かった。
 野間大坊は源義朝の最期の地として有名だ。一一五九年、京都六条河原で平清盛に敗れた義朝は、東国に逃れようとして、東海道を下る。その途中、尾張国の長田忠致(おさだただむね)のもとにたどり着いた。しかし、入浴中に長田父子に襲撃され、非業の最期を遂げたという。そのとき、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば、むざむざ討たれはせん」と叫んだと伝えられている。それゆえ、野間大坊の境内にある義朝の墓には、多数の木刀が供えられている。
 車を付近の駐車場に置き、野間大坊の表通りを歩いた。気づかず通り過ぎてしまいそうな陰気な池があった。それが義朝の首を洗ったという血の池だった。折しも雲が出て日が陰り、薄暗くなったので、鬼気迫るような妖気を感じた。
 美奈は赤い小型のカメラバッグから、最近買ったデジタル一眼レフカメラを取り出した。
「あ、美奈さん、いいカメラ持ってますね」と安藤が美奈のニコンD50を見て話しかけた。
「僕はあまりカメラに興味がないから、シャッターを押すだけできれいに撮れるデジカメで十分ですよ」
「このカメラもオートのモードにすれば、シャッターを押すだけでいいですよ」
 美奈はよく山に登り、山の写真を撮っていた。これまでフィルム使用のカメラや、コンパクトデジカメを使っていた。最近は自由になるお金もできたので、デジタル一眼レフのうちでも価格が安くなった、エントリーモデルといわれるカメラを買ったのだった。
 美奈は高校時代、星や山岳の自然の美に引かれていたので、天文部に入っていた。登山などを行うワンダーフォーゲル部は、母親から危険だから、と止められていた。
 それで天体を見たり写したりする望遠鏡、カメラなどには興味を抱いていた。カメラは天体ばかりではなく、山も写すことができる。美奈はカメラにも多少のこだわりを持っていた。
美奈が所属していた天文部には、古いニコンの八センチ天体望遠鏡があった。もう三〇年以上前の望遠鏡だ。今ではEDやフローライトを使ったアポクロマートという、すこぶる性能が高いレンズが当たり前になっている。その中で、ニコンの望遠鏡のレンズは、古いタイプのアクロマートという色消しレンズだった。しかし、古い設計のレンズでありながら、その性能、見え味は素晴らしいものだった。レンズを支える架台もまだしっかりしていた。
 天文部の顧問の先生が、高校時代、ニコンの天体望遠鏡に憧れ、ようやく貯金が目標の額に達したので、さあ、八センチ望遠鏡を買おうとした矢先、価格が二倍近くに跳ね上がり、泣く泣く他メーカーの望遠鏡に変更した、という逸話を話してくれた。美奈の高校に赴任したとき、ニコンの八センチ天体望遠鏡があり、初恋の人に再会したような気分だと、感激したそうだ。
 天文部員の間では、高価ではあるが、非常に高性能な天体望遠鏡を製造している高橋製作所が垂涎の的として、圧倒的な人気を得ていたが、美奈はニコンの製品に思い入れがあった。デジタル一眼レフカメラにキヤノンなどではなく、ニコンを選んだのはそのためだった。もちろんカメラとしての性能も考慮した上でだった。美奈の小さな手には、ややボディーが大きいが、その分しっかりカメラをホールドでき、手ぶれがあまり出なかった。まだ手ぶれ軽減機能が珍しいころだったので、手ぶれしにくいのはありがたかった。
 美奈は新しいカメラで、血の池を写した。
「こんな陰気な池を写すと、心霊写真でも写りそうだ」と安藤が美奈に気味が悪そうに話しかけた。心霊写真でも写りそう、というおかしな表現に、美奈はクスリと笑った。
 大門の近くに、「新四国第伍拾番霊場 大御堂寺(おおみどうじ )」と記された石碑があった。
 野間大坊は知多四国八十八カ所霊場の五一番札所で、五〇番札所の鶴林山(かくりんざん)大御堂寺の一坊として建立された。だから野間大坊と大御堂寺は隣接した境内にある。義朝の子であり、鎌倉幕府を開いた源頼朝が、父の霊を弔うために野間大坊を建てたとされている。
 近くの五二番密蔵院(みつぞういん)、五三番安養院(あんよういん)も同じ鶴林山という山号だ。
 美奈は写真を撮りながら、安藤と並んで大門、鐘楼堂(しょうろうどう)と過ぎ、本堂まで歩いていった。
 ときどき参詣に訪れた人にお願いし、安藤と二人並んで写真を写してもらった。
 大御堂寺の本尊は、阿弥陀如来だ。真言宗の本尊は大日如来だが、ここは阿弥陀如来になっている。美奈の生家の光照寺の本尊も阿弥陀様だ。野間大坊は開運延命地蔵尊が本尊となっている。
 後に美奈が調べると、知多四国霊場の真言宗豊山派(ぶざんは )のお寺は、大日如来以外の仏様を本尊として祀っているところが多かった。
 本堂のすぐ近くに義朝の御廟がある。御廟には写真で見た光景のとおり、たくさんの木刀が奉納されていた。討たれる間際に、「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言ったという義朝の恨みが伝わってきそうだった。
 野間大坊の本殿には、平日とはいえ、たくさんの参拝者がいた。知多四国霊場巡礼の人は、ここの納経所で納経帳を提示し、五〇番と五一番の納経印をいただく。
 本殿の前の参道には、本四国八十八カ所巡りのお砂踏みが造られている。霊場巡りの本場である四国まで行けなくても、ここでお砂踏みをすれば、四国の霊場をお参りしたのと同じ功徳が得られるそうだ。
野間大坊を後にして、美奈と安藤は国道二四七号線を南下し、野間灯台に行った。車を近くに停め、灯台まで海沿いの国道を歩いていった。
 天気がよく、伊勢湾に揺らめく波が、太陽の光を反射し、きらきらきらめいた。明るい海の光景は、美奈の心も明るく照らした。寒い冬ではあったが、明るい太陽の陽射しを受けた海辺は、とても暖かく感じられた。
 伊勢湾の向こうには、かすかに三重県の山並みが見える。これがもし夕方なら、伊勢湾を赤く染め、遠い対岸の山に真っ赤な夕日が沈む光景は、何ともいえぬロマンチックなものだろう、と美奈は心の中で、その情景を想像した。
 空をオレンジ色に染めて、対岸の山並みに落ちようとしている夕日、真っ赤にきらめく海をバックにした白い灯台。名古屋港や四日市港など、大きな港を持つ伊勢湾は、船の航行が多い。沖には大きな船が何隻も浮かび、赤い夕日を浴びながら、ゆっくり進んでいる。もう少し遅い時間なら、そんな光景が見られたであろう。
 美奈はカメラで、思い出作りのための場面を切り取った。
 他にお願いする人がいなかったので、三脚とセルフタイマーを使い、灯台を背景にした二人の写真も写した。カメラの液晶モニターを見て、二人の思い出の写真を確認した。

「最近どうしたの? 忙しいの? なかなか僕の誘いに応じてくれないけど」
 美奈が運転するミラの中で、安藤が言った。美奈の車は海岸に沿って、師崎に向かっていた。
「ごめんなさい。最近、仕事が忙しくて、疲れ気味なの。今は週五日出勤で、ゆっくり休養も取れないし」
「美奈さんはトップクラスの人気だそうですね。時々店のホームページを見ますけど、最近はいつもナンバーワン、ってあります。一日何人もの男を相手にするなんて、大変でしょう。僕としては、早く仕事を辞めて、僕と一緒になってほしいな。仕事とはいえ、他の男と寝ていると思うと、さすがに心安らかではないですからね」
 安藤はすねたような口調で言った。
「私も因果な商売だと思うんですが、以前勤めていたマルニシ商会は、クビ同然で退職したし。やはり全身にいれずみしてると、普通の会社には勤めづらいですから、どうしても今の仕事を頑張らなければ、と思うんです」
「だから、僕と結婚してくれれば、一生君の面倒は見てあげる。しがない公務員とはいっても、収入は安定しているし、贅沢さえしなければ、不自由なく暮らしていけますよ」
「でも、私ってけっこう贅沢で、お金がかかる女なんですよ。ソープ嬢は一般の会社勤めのOLより、ずっと収入がいいから、つい金遣いも荒くなってしまうんです」
 美奈はわざと自分を卑下するような言い方をした。しかし実際は美奈は倹約家で、多くの収入を得ているわりには、生活は質素といえた。
 いれずみに関しては、軽く百万円を超える金額を費やしているが、もう大きなものを彫ることはない。まだ肌が白い部分に、もう少し増やしてもいいかな、と思わないでもないが、彫るとしても、胸や腹、足に小さなものを入れる程度で、今後いれずみに何十万円も使うことはない。肘から先の前腕部は目立つので、やめておいたほうが賢明だと思う。
 美奈はいつまでも今の仕事を続けるわけにもいかない、と考えている。身体はけっこうきつかった。あと何年続けられるだろうか。
 このことに関しては、ケイやルミも同様の不安を抱いている。ミドリが三月いっぱいで店を辞めるのは、結婚が理由だが、やはり体力の限界を感じているので、ちょうどいい潮時だ、とも言っていた。
 しかし美奈にとっては、一般の会社勤めは、全身にいれずみを彫ってしまった今では、難しい。
 ケイやルミなら、まだそれほど広範囲に入れていないので、タトゥーを隠して一般の会社などでも勤務することができるかもしれないが、隠すのが困難なほど大きく入れてしまった美奈は、かなりの制約がありそうだった。
 もっとも最近のルミは、トヨの背中の天女に目を奪われて以来、美奈やトヨに負けないように、自分も背中をきれいな絵で飾りたい、と言い出している。
また、ルミはタトゥーアーティストに挑戦してみようかな、と意欲を燃やしている。卑美子に弟子入りしたいという希望を持っている。ルミは絵を描くことが好きで、けっこう上手に描く。高校時代、ルミは漫画家になりたくて、よく漫画を描いていたという。
 その点、美奈は絵が下手で、いくらタトゥーが好きでも、タトゥーアーティストへの夢は持てなかった。
 タトゥーがファッションとして、少しずつ市民権を得てきている、と考えている人もいるが、実際まだまだ「入れ墨」に対する世間の偏見、風当たりは強かった。
 美奈やルミのように、タトゥーに理解がある若い世代が、社会の中心となる時代になれば、タトゥーに対する社会的な見解も、多少変わってくるだろう。だがそれはまだずっと先のことになりそうだ。
 ファッション関係や芸能界など、それほどタトゥーが障害にならない業種もあるが、そのような世界に打って出られるほど、自分に才能があるとは思えなかった。トヨのように、好きなタトゥーを仕事としてやっていければいいが、絵にも自信がなかった。
 だから、稼げる今のうちに、少しでも貯金しておきたかった。無駄な出費はできるだけ抑えるようにしていた。
 それでも安藤に、自分のことをお金がかかる女、と言ってしまったのは、安藤に対する牽制のつもりもあった。
 最近、今ひとつ安藤が信用できない。いくら否定しても、どうしても安藤は千尋を殺害した犯人なのではないか、という疑惑を抱いてしまうのだ。
 確たる証拠があるわけではない。千尋の霊も安藤が犯人だと示唆していない。しかし、最近気になることを思い出していた。
 初めて安藤と、店以外で会ったとき、あれは藤が丘の居酒屋でのことだった。
 美奈が、高蔵寺近郊の山に一緒に登りませんか、と誘ったとき、安藤の顔がこわばったことがあった。そのときは高所恐怖症で、山が苦手だからだと思ったが、今考えてみると、ひょっとしたら春日井市、多治見市の県境の山という場所に反応したのではないかと思う。
 いくら高所恐怖症だといっても、登山に誘った程度で、あのように血相を変えるだろうか? それより、千尋の遺体を遺棄した場所だからこそ、驚いたのではなかろうか。
 そう考えると、疑心暗鬼に陥ってしまう。
「いや、これまで何度も君と会った印象だけど、君は決してそんな金遣いの荒い女性とはとても思えませんが。君は元々真面目な女性なんだ。部屋には贅沢なものなどなかったし、車だって、失礼ですけど、こんな中古の軽ですしね。美奈さんほどの収入があれば、もっといい車に乗れるはずです」
「それは買いかぶりです。私、最初は車にはそれほど興味がなかったので、通勤用に動けばいい、という程度の気持ちでこれを買ったんです。今ではけっこう車が好きになったけど、このミラにも愛着があるので、ずっと乗ってます。何となく私の名前に似ているし。今は猫かぶってますが、そのうち地が出てしまいそうです。そうなったとき、安藤さんに捨てられるのが怖い」
「大丈夫ですよ。僕は決して美奈さんを捨てません。それは信じてください」
「でも、こんないれずみのある女と結婚するなんて言ったら、ご家族に反対されるんじゃないでしょうか?」
「家族は関係ないですよ。僕たちは大人だ。二人の意志さえしっかりしていれば、周りがどう言おうと、困難は必ず乗り越えられる」
「だけど、まだ私たち、一生添い遂げることができる、と確信持てるほど、付き合ってもいませんし。やがて私は安藤さんに愛想を尽かされるんじゃないかと思うと……」
「だからこれからじっくり二人の歴史を作りましょう。二人の愛の歴史を。僕を信じてください」
 安藤の言葉で、この会話は途切れた。しかし、美奈は胸の内で、ひょっとして私も千尋さんと同じ運命をたどるのではないかしら、と考えずにはいられなかった。
 万一安藤が犯人と仮定してのことだが、元日に外之原峠で女性の遺体が見つかった、ということは、新聞、テレビなどで報道されているので、そのことは安藤は知っているだろう。しかし、その遺体の身元がわかったという報道は昨日の時点ではされていない。白骨化した身元不明の女性としか知らないはずだ。
 あれから二年以上経過しているのだから、よもや、遺体の身元がわかるはずがない、と安心しているだろう。それに、美奈と千尋に接点があるなんて、思ってもいないだろう。
 しかし、千尋の怨念がなせる業か、遺体は完全に白骨化せず、一部屍蝋化し、背中にいれずみがあることがわかった。そのいれずみが身元の割り出しに決定的な役割を果たした。
 昨夜、三浦より、遺体が橋本千尋であることが確定した、と電話があったのだった。
 着信があったのはちょうど接客が終わり、待機室で休憩しているときだった。登録していない番号からかかってきたので、誰だろう、といぶかりながら電話に出ると、「あ、木原さんですか。県警の三浦です」と名乗られ、美奈はビクッとした。そして同時に、胸のときめきのようなものを感じた。
「確認できました。歯の治療のカルテから確認できたのです。やはり、あの遺体は橋本千尋さんに間違いありませんでした。これから千尋さんの交友関係に重点を置いて捜査を開始します。ご協力感謝します。もしまた気づいたことがあれば、どんな些細なことでもけっこうですから、いつでもこの携帯まで連絡してください」
 美奈にはわかっていたことだが、いよいよ警察も被害者が千尋ということで捜査を開始する。一日も早く事件が解決することを、美奈は祈らずにはいられなかった。
 ただ、証拠もない今の状態で、安藤のことを三浦に話すことはできなかった。
 美奈はせっかくの旅行なのだし、今は安藤とのデートを楽しもう、と自らに言い聞かせた。千尋を殺害した犯人でなければ、安藤はむしろ好ましい相手なのだ。

 美奈は海沿いのドライブを楽しみながら、愛車の赤いミラをゆっくり走らせた。ときどき後ろの車にもっとスピードを上げろ、とせっつかれた。この地域の国道二四七号線は、片側一車線で追い越し禁止なので、後ろに車が接近してきたら、美奈はスピードを上げた。内海、山海など、美奈も行ったことがある海水浴場の近くを通過した。
「私、小学五年生のとき、内海の海水浴場で、タトゥーをした人たちを見て、自分もいれずみで身体をきれいに飾りたい、と思うようになったんです。そのことは前にも話しましたけど。だから、ある意味、ここは私の原点、といえるかもしれません。今の仕事に就いたきっかけも、背中に観音様を入れるための、資金稼ぎのつもりでしたから。彫るお金が貯まったら、仕事を辞めるつもりでしたが、お店にすてきな仲間ができたので、ずっと続けているのです」
 美奈は安藤に懐かしい思い出を語った。
「僕としては、店の仲間より、僕のために店を辞めてもらいたいな。もちろん、今すぐに、とは言わないけど。君にもいろいろ事情があるだろうから」
 内海の市街地を走るときは、国道二四七号線は、少し海岸線から離れていて、直接運命の出会いの場ともいえる海水浴場は見えなかった。肌に絵を描いてみたい、という願望は、それ以前から抱いてはいたが、はっきり自分の身体にいれずみを刻もう、と決意したのは、内海海水浴場で、四人の男女の身体を彩った、アメリカンタトゥーといわれる、日本伝統の彫り物とは違う、ライトでファッショナブルな絵を見たときだった。
 冬の太陽は西に傾きかけ、海辺のきらめきにもかげりが見えてきた。先ほど野間の海で見られたような太陽の明るいエネルギーは、ずいぶん衰退した。やはり冬の海は、物寂しい。
 途中、駐車できるスペースを見つけ、車を停めて海を眺めていたので、師崎港まで一五キロの道のりに、四〇分ほどかかった。海の見晴らしがよく、快適なドライブだった。山好きな美奈だが、海もいいなと思った。
 師崎港の駐車場に車を駐(と)め、高速船で篠島に向かう。所要時間は一〇分ほどだ。篠島に向かう便は三〇分に一便ほどだった。ちょうど前の便が出たばかりなので、時間待ちの間、二人で羽豆岬(はずみさき)を歩いてみた。陽はずいぶん西に傾いた。篠島に着くころには、海の向こうの山並みに沈む夕日が見られそうだった。
 三河湾を隔てた対岸の渥美半島、伊良湖岬が、これから行く篠島を挟んで、間近に見える。篠島の港の向こう側に、渥美火力発電所の高い煙突があった。三河湾よりずっと広い伊勢湾は、湾口に近いため、対岸までの距離が長く、三重県の山並みは霞んで見えた。
 美奈はカメラのシャッターを何枚も切った。
 羽豆岬付近は小高い山になっており、羽豆神社を経由して、山の上に展望台がある。しかし展望台まで行っては、次の船に乗り遅れそうだった。二人は途中で切り上げ、フェリー乗り場に戻った。美奈はまた別の機会に、仲間のみんなと訪れたいと思った。
 高速船が着岸したので、二人は船に乗り込んだ。船の中にはお遍路さんの格好をした三人のおばさんがいた。もっとも、寒い時季なので、三人とも白装束の上に、上着を羽織っていた。
 美奈は知多半島には、弘法大師ゆかりの知多四国霊場があることを思い出した。さっき寄った野間大坊も知多四国霊場の札所だった。篠島にも番外を含めて、三つの札所がある。この人たちは、今日一日、知多半島の霊場をいくつも巡り、今夜は篠島の宿に泊まって、明日篠島や日間賀島(ひまかじま)の霊場を訪ねるのだろう。
 美奈もいつかは知多や本場四国の霊場巡りをしてみたいと思った。やはりお寺に生まれ育ったためか、宗派を超えて、お遍路さんをしてみたい、という希望はあった。すてきな男性と一緒に巡礼できれば、最高だ。でも、全身にいれずみが入っている私に、そんな素晴らしい男性(ひと)が現れるのだろうか。今美奈の隣にいる安藤が千尋殺しに無関係で、これからずっと一緒に幸せに生きていけたら、どんなにいいだろうか。美奈は安藤が無実であることを一心に祈った。
 しかし、美奈の脳裏に真っ先に浮かんだ男性像は、結ばれることがまず不可能だと思われる、刑事の三浦だった。まだ二度、それも事件関係でちょっと話をしただけだというのに、なぜ三浦のことがこんなに気にかかるのだろうか。
 先日、ルミが「無理無理、全身いれずみの泡姫とデカさんでは、絶対結ばれっこない」と言っていたが、まさにその通りだと思った。やはり安藤が無実であるなら、最も美奈にふさわしい相手だろう。
 船が動き出した。海は穏やかで、船の揺れは少なかった。
 幼いころ、熱海から初島に渡ったとき、船の上から海を見ていたら、ひどく酔ってしまった記憶がある。それで、美奈は船がすっかり苦手になってしまった。
 高校の修学旅行で四国に行ったときは、本州四国連絡橋を使い、船には乗らなかった。美奈はもうずいぶん長い間、船に乗っていない。わずか一〇分ほどの船旅なのに、幼いころの苦い記憶がよみがえってきた。
 しかしまったく船酔いをする間もなく船は篠島に着いた。