売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

秋本番

2012-10-12 19:38:57 | 小説
 つい最近まで30℃近くあったのが、10月も中旬となり、めっきり涼しくなってきました。

 昨日、弥勒山に行きました。

  
 
 先週はまだ稲穂は実をつけて、頭を重そうにしていましたが、昨日はかなり刈り取られていました。

 ずいぶん涼しくなりましたが、蚊がまだたくさんいました。鬱陶しいメマトイは、最近は真冬でもいます。

 今回は『幻影』第23章です。篠島の旅館での出来事を描きました。今回で全体のほぼ3分の2になります。



          23

 陽がかなり西に傾き、海がオレンジ色に輝き、燃え上がるようだった。遠く対岸の三重県の山並みに、真っ赤な夕日はどんどん沈み込んでいく。
「わあ、きれい。ねえ、安藤さん、私、こんなきれいな夕日見たの、久しぶり。山での夕日もいいけど、海もすてきね。海がきらきらきらめいて、とてもきれい」
「ああ、そうだね。本当に燃えいりそうな夕日だ」
 篠島の夕日は、県内では唯一、日本の夕日百選に選ばれている。夕日が美しい歌碑公園や牛取公園まで行く時間的余裕はなかったが、港の近くからでも、十分夕日の美しさは堪能できた。二人はフェリー乗り場から南に歩き、小さな漁港をぐるりと巡るように、西に向かった。目の前には小さな木島があった。左手の方角は小高い丘になっており、その上の方に、知多四国霊場の三つの札所がある。
 美奈はカメラを取り出し、何枚も沈みゆく夕日の光景を撮った。
 夕日を写してはカメラのモニターを覗き、なにやら調整している美奈に、「何をしているんだい?」と安藤が問いかけた。
「夕日が最もきれいに写るように、ホワイトバランスを調整しているんです」
「ホワイトバランス? 何ですか、それ。僕はあまりカメラのことはよく知らないな。シャッターを押すだけで写る、というのじゃなくっちゃね。美奈さんはカメラに詳しいんですね」
「ホワイトバランス、というのは、一言で説明するのは難しいんですけど、太陽の光、電球の光、蛍光灯の光などは、独自の色を持っていて、人間の目だと脳が無意識に補正してくれますが、カメラはそうはいかないので、変な色に写ることがあるんです。それを修正するんです。普通はオートでいいのですが、夕日を夕日らしく赤っぽくするために、ちょっと調整してるんです。もっともロウで撮って、パソコンで処理すれば、こんな調整する必要ないですけど」
「難しいな。僕はあまりカメラに興味ないから、全然わからないですよ。僕にとっては、シャッター押すだけできれいに写っていれば、それでいいですからね」
 陽が沈み、空の色が少しずつ変化していった。オレンジからピンク、そして徐々に紫色が勝っていった。空には半月と満月の中間程度の月が昇っていた。
 気温がぐっと下がってきた。鼻から吐く息が白く見える。
「美奈さん、そろそろ宿に行きませんか。寒くなってきた」と安藤が促した。
「そうですね。私も寒いですわ」と美奈も応じた。
 予約しておいた潮屋(うしおや)という民宿は、すぐに見つかった。民宿といっても、三階建ての大きな宿だった。
 フロントというより、帳場といったほうがふさわしいところで宿泊の手続きをした。宿帳には安藤が、安藤茂、美奈と夫婦を装い、住所は高蔵寺の美奈の住所を記入した。
 手続きを終え、部屋に案内してもらった。部屋は二階だった。和風の作りだ。部屋は暖房が効いていて、暖かかった。
「お食事は六時半からでございます。それまで、お風呂にでもお入りになって、おくつろぎください。お風呂は三階でございます。お食事は、本日はこちらのお部屋に用意させていただきます。明日の朝食は一階の食堂でございます」
 案内をしてくれた仲居さんが言った。
「なかなかきれいな部屋じゃないですか」と安藤がほめた。
「バス、トイレはついてないのですね」と美奈が尋ねた。
「トイレは階段の近くにありますよ。すぐそこです」と仲居さんが答えた。
 美奈は座卓に用意されたお茶のパックを湯飲みに入れ、ポットの湯を注いだ。それに和菓子を添えて安藤に勧めた。
「ありがとう。美奈さんはいい奥さんになれますよ」
「いやですわ。ただポットのお湯を注いだだけなのに」
「僕のいい奥さんになってほしい、ということです」
「私みたいな女でよかったら」
 美奈は頬を赤くした。そう言いながら、美奈の脳裏には三浦の面影が揺らめいた。
「え、本当にいいんですか? 本気にしますよ」
「はい」
 美奈は自分が何を言っているのか、わからなくなった。そんなこと答えてしまっていいのか、という気持ちと、ぜひそうなってほしい、という気持ちの二つが入り乱れた。少なくとも、安藤が千尋殺害に無関係だとはっきりするまでは、安易に結論は出さないほうがいい、と心のどこかで警告していた。
 一休みした後、安藤が、風呂に行こう、と言った。
「いれずみ、大丈夫かしら? 小さなタトゥーならともかく、全身だから」
 美奈は入浴を断られるのではないかと不安だった。
「気にしないで行きましょう。何か言われたら、言われたときのことです」
 二人は三階の浴場に行った。浴場の前で男湯と女湯に別れた。
 すぐ近くの南知多には多くの温泉があるが、海を隔てた篠島には温泉が湧き出ない。だからこの民宿も普通の沸かし湯である。宿の中には、南知多から源泉を運び、天然温泉を謳っているところもある。
 女湯の中には誰もいなかった。誰か入っていると、いれずみがある身体で浴場に入るのは気が引けるが、誰もいなかったので、美奈は脱衣場で服を脱ぎ、気兼ねなく入っていった。
 二日前に彫ったばかりのマーガレットの傷口は、まだ生々しかった。
 卑美子の針は、彫る場所にもよるが、浅すぎず、深すぎず、適度な深さに刺し入れるので、インクの入りもよく、傷の治りも早い。その卑美子の指導を受けたトヨの針も、傷の治りがいいようだ。
 針を刺す深さというものは、教えてもらってわかるものではない。最適な深さを会得するためには、かなりの経験、試行錯誤が必要だ。トヨがもうそのコツをかなりつかんでいるというのは、天賦の才というものだろうか。卑美子の域に達するまでには、まだかなりの経験を積む必要があるだろうが、デビューしたばかりのタトゥーアーティストとしては、十分に評価をしてよいと、美奈は考えた。
  美奈の処置も適切なので、もう傷口からリンパ液が滲み出るようなことはなくなっていた。
 湯船に浸かる前、美奈は必ずお尻の前後を石けんできれいに洗う。入浴前にお尻をきれいに洗うことは、当然のエチケットだと考えているし、汚れたまま湯に入るのがいやだった。 湯船は広く、お湯は適温だった。美奈は気持ちよく湯に沈んだ。心の底までリラックスできるような気分だ。仕事で湯船に浸かるのとは、天と地の違いだった。
 浴場の外で何人かが話す声がした。誰か入ってくる。いれずみをまともに見られてしまう。タオルで隠せるものでもないし。
 まあ、いいわ、と開き直ることにした。
 入ってきたのは三人の初老の女性だった。三人は身体を十分に洗わず、お湯を申し訳程度にかぶっただけで湯船に入ってきた。
「どうも、ご無礼します」と一人が挨拶した。美奈も「今晩は」と挨拶を返した。
「あらー」
 湯の中に沈んでいる美奈の身体を見た一人が、大声をあげた。
「ごめんなさい、こんな身体で。驚かすつもりは全然ないのですけど、もし不快になるようなら、すみません。すぐあがりますので」
 美奈はまず謝った。
「あら、あなた、同じ船にいた人ね。それ、本物のいれずみ?」
 間近で顔を見て、視力が悪い美奈は、三人が高速船の中にいた、お遍路さんの格好をしていた人たちだと気がついた。篠島には旅館、民宿の数が多い。美奈たちが予約した潮屋は、特に人気が高い宿というわけでもなく、同じ宿に泊まるというのは、偶然とはいえ、確率が低い巡り合わせだった。
「はい、本物です」
「すごい。本物のいれずみだって。きれいねー。よく見せてよ。背中にもやってるの? 見せて見せて。痛いんでしょう、これするの」
 一人がこう叫んだら、三人が美奈を取り囲み、キャーキャー騒いだ。三人は一糸まとわぬ美奈を立たせたり、回転させたりして、美奈の肌に描かれた絵をじっくり見ていた。
「あ、足にも鳥の絵が描いてある」
 左足の鳳凰を見て、一人が言った。
 三人は美奈の乳首とへそのピアスにも気づき、「こんなところに輪っかが入ってる」と、興味深げに見ていた。乳首のピアスはリングで、へそはカーブしたバーベル型である。
「いれずみって、きれいなもんですね。こんなの、初めて見たわ。いれずみは怖いお兄さん方がするものだと思っていたけど、こんなきれいなお嬢さんがしているなんて。これはまさに芸術ですね。肌をキャンバスにした芸術。きれいなもんだわ」
「ほんと。いいものを見せてもらいました。ほんとに芸術ですね。私もいれずみに対する偏見、なくさなきゃ。痛くなくて、簡単に消せるものなら、私もやってみたいぐらい」
 三人はいれずみの芸術性に初めて気づき、感動していた。
「おばさんたち、あ、失礼しました。ごめんなさい。あの、知多四国霊場の巡礼をしているんですか?」と今度は美奈が三人に問いかけた。
「いえいえ、おばさんでけっこうですよ。私たち、お遍路さんやっているの。今日は大井や師崎の周辺、三〇番から三六番まで七つ回ったの。明日は篠島、日間賀島を回って、最後に豊浜の方に行って、満願なの」
「明日で満願なんですか。おめでとうございます」
 三人は名古屋市内や、その近郊に住む仲良しグループで、何度かに分けて、日帰りで知多四国霊場巡りをしている。一回一〇カ所程度をバスやタクシーを利用して、日帰りで巡礼しているという。健康のため、寺と寺の間が一時間以内で歩ける距離なら、なるべく歩くようにしているそうだ。今回は離島であり、最後だから、記念に贅沢をしようと、一泊旅行にした。
「やはり離島が最後に残ってしまいました。年内に満願するつもりでしたが、越年してしまって。でも、そのおかげで、いいもの拝めましたよ」
「今日は別嬪さんの背中にある、きれいな観音様も拝めたし、最高だわ」
「いやですわ、私の背中なんか拝まれちゃ。それに別嬪だなんて」
「でも、あんた、何でそんな大きないれずみ、しちゃったの? 腕の牡丹の花だけでやめときゃよかったのに」
「何で、と言われても困りますが。小さいころから、きれいだな、と思ってて、どうしても自分の肌をきれいに飾りたくてたまらなくなってしまったんです」
「確かにきれいですよね。親からもらった肌を汚すなんて、ってよく言われるけど、こんなきれいないれずみを見たら、私もちょっとだけやってみたくなりましたよ。でも、痛いし、二度と消せないし。そう思うと、実際に入れてみようとまでは踏ん切りつきませんけど」
「でも、ほんとにきれいな観音様だこと。その絵にしたのは、やっぱり観音様信仰しているからですか?」
「私、お寺の娘なんです。だから、昔から仏様を彫りたい、という気持ちはありました。でも、うちは真宗だから、本当は観音様ではなく、阿弥陀様にしないといけないのですけど」
「え、お寺さんなんですか。お寺の娘さんが仏様のいれずみしてるんですか。思い切ったこと、しなさったんですね」
「やっぱり私は普通とはちょっと違って、変わっているんです」
 三人の初老の女性は美奈が身体を洗うとき、背中をタオルでこすったりしてくれた。観音様が彫ってある美奈の肌に触りたがった。
 最初は引け目を感じていた美奈も、三人の開けっぴろげな言動に、心から楽しく思った。
 湯からあがるとき、「今日はいいものを見せてもらいました。またどこかで会ったら、見せてくださいね。袖振り合うも他生の縁ですから」と声を掛けてくれた。
 最後に、一人が、記念に写真を写させてください、と脱衣場で携帯電話のカメラで、裸の美奈の背中や腕を何枚か撮影した。
 私たち四人の仲良しグループも、あの人たちのように、三〇年後、四〇年後も仲良くやっていければいいな、と思うと美奈はうらやましかった。いや、私たちだって、きっと臨終を迎えるその日まで、ずっと友情で固く結ばれているに違いない。美奈はそう信じた。
 部屋に戻ると、もう食事の支度ができていた。美奈が戻ったのは、食事の時間の六時半ぎりぎりだった。
「長湯でしたね」と安藤が言った。
「ごめんなさい。お風呂で、霊場巡りの人たちに出会って、話が弾んでしまいました」
 仲居さんがいるので、美奈はいれずみのことで盛り上がったことは言わなかった。
「最近、この辺の旅館は霊場巡りのお客さんも多いんですよ」と仲居さんが相づちを打った。
 夕食の海の幸は素晴らしかった。特に、菊の花の形に皿に盛ってある、ふぐの刺身のてっさは絶品だった。三河湾や伊勢湾も、このあたりに来ると、水もきれいだ。この民宿のご主人は漁師とのことで、三河湾で捕れたばかりの新鮮な食材が豊富だった。
 美奈は食べきれないほどの海の幸に、十分満足した。食いしん坊のルミさんなら、大喜びするだろう、今度は仲間のみんなと来てみたいと思った。
 安藤は日本酒を注文し、美奈にも勧めた。最近、付き合いで多少は飲むようになったとはいえ、酒にあまり強くない美奈は、食事が終わった後、酔って眠り込んでしまった。
 最近は酒の力を借りなくても、よく眠れるので、自宅で寝る前にワインを飲むこともやめてしまっていた。
 目が覚めたのは九時半ごろだった。二時間近く眠っていた。部屋には二組の布団が敷かれていた。美奈は布団の中ではなく、部屋の隅で毛布を掛けられて眠っていた。暖房が入っているので、寒くはなかった。メガネをかけたまま眠っていたので、レンズに指紋や脂などがついて、汚れていた。美奈はティッシュでレンズを拭いた。
 安藤は部屋のテレビを見ていた。
「やあ、目が覚めましたか」と安藤が声を掛けた。
「私、酔っぱらって寝ちゃったんですね」
 美奈は大きくあくびをした。
「大きな口を開けて。美人が台無しだ」
「やだ、恥ずかしい」
 そう言いながら、美奈は安藤から顔を背けた。
「風呂にでも入ってきたらどうですか? すっきりしますよ。美奈さんが行くなら、僕ももうひとっ風呂浴びてきます」
「そうですね。それじゃあ、行ってきます」
 さっきは風呂に入ることに、多少の抵抗があったが、巡礼の人たちと話したことにより、心の垣根は取り払われていた。
 今度は誰も入ってこず、浴場には美奈一人だった。洗髪などはもう済んでいるので、今度はよく温まって、早めに風呂からあがった。さっきの巡礼の三人以外の誰かが入ってきたらいやだな、という意識も多少はあった。
 部屋に戻ると、二人は自然と交わった。
 美奈の右の脇腹を見た安藤は、「あれ? また新しい絵を入れたんだ。きれいな花だね」と彫ったばかりのマーガレットの花を褒めた。
「まだ入れたばかりで、傷口が治ってないから、優しくしてくださいね」
 マーガレットのタトゥーには、薄いかさぶたができかけていた
 安藤は美奈の身体に新しくタトゥーが増えたことで、さらに燃え立った。しかし、なぜか三浦に対する後ろめたい気持ちがあり、美奈は完全に陶酔することができなかった。
 なぜこれほどまでに三浦のことが気になるのだろうか? 私が本当に好きなのは、安藤ではなく、三浦なのだろうか。
 でも、三浦とは二回会っただけ。それも血なまぐさい殺人事件関連で。
 安藤と交わりながらも、美奈は安藤を裏切っており、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。