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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影2 荒原の墓標』第7回

2014-02-28 14:59:39 | 小説
 2月も今日で終わり、明日からはいよいよ3月です。
 最近は暖かくなりました
 昨日、国道19号線で春日井市の郊外を走っていたら、道の脇にある表示板の気温表示が12℃となっていました。少し前は0℃とか-2℃でしたが。
 ところで、昨日、このブログの閲覧数が、100,000PVを超えました。訪問者数も55,000IPです。多くの方に見ていただけ、嬉しいですが、さらに楽しいページ作りをしたいと思っています。よろしくお願いします

 今回は『幻影2 荒原の墓標』7回目の掲載です。



            

 夜遅く、美奈は 「これから行ってもいいですか?」 と三浦から電話を受けた。美奈にとっては、断る理由など、全くなかった。
 アイリと別れてから、恵は美奈と同じように、へその下に牡丹と蝶を入れた。左肩の蝶、左の太股のマーガレットに続く、三つめのタトゥーだった。さくらは恵の肌に、フリーハンドで下絵を描いた。牡丹の花は何百枚と描いていて、描き慣れているものの、さくらは真剣にペンを運んだ。
 下絵が完成し、いよいよ施術に取りかかった。途中から、仕事を終えたトヨがさくらの施術を見に来た。
 四時間程度で、赤い牡丹と青っぽい蝶は完成した。和彫りのような様式化した牡丹ではなく、実物を写し取ったような、美しい花だった。恵も美奈の腕や太股に彫られている、写実的な牡丹を希望していた。
「うまいわ。それに彫るのが少し早くなったし。夏ごろには、さくらもプロとしての許しが出ると思うよ。これは、私もうかうかしていられないな」
 トヨは弟弟子のさくらを褒めた。卑美子は来年には子供を産むつもりで、年内にトヨ、さくらの二人でもスタジオを運営できる体制を作ろうとしている。だから、早くさくらを一人前のタトゥーアーティストに育て上げたいと思っている。さくらなら、その期待に十分応えてくれそうだ。
 恵をマンションまで送っていったので、美奈は少し前に自宅に戻ったところだった。三浦は今篠木署にいるとのことだ。篠木署からなら、三〇分とかからない。美奈は大急ぎでシャワーを浴び、着替えをした。
 しばらくしてチャイムが鳴った。三浦だった。美奈は三浦を部屋の中に招じ入れた。
「またタトゥーに絡む事件が起きたのですか?」
 美奈はコーヒーを淹れながら三浦に尋ねた。
「ああ。今日の早朝、犬を散歩させていた人が、浅宮公園で、女性の遺体を見つけましてね。死因は絞殺。背中に大きな鳳凰のタトゥーがあったので、その写真をさくらさんに見てもらったんですよ」
「そうだったんですか。それでまた鳥居さんと一緒に捜査をすることになったんですね」
「ええ。鳥居さんとは前回、コンビを組んで、人柄はわかっていますからね。僕も最初はでーれーおそぎゃあ(とても恐ろしい)人と組まされたもんだと思いましたが、今では鳥居さんの良さをよくわかっています」
 三浦は鳥居がよく使う名古屋弁を真似た。その言い方に、美奈も笑ってしまった。美奈も初めて鳥居に会ったときは、この人、刑事というよりやくざじゃないのかな、というような怖さを感じた。しかし、何度も会ううちに、鳥居は気むずかしそうに見えても、実は気さくな、優しい人だということがわかってきた。かつて、手がつけられない不良だった卑美子や彼女の夫を更生させたのも、鳥居だった。だから卑美子は鳥居には恩義を感じている。
「さくらさんがその被害者のタトゥーが、岐阜の冥さんの手によるものだと教えてくれたので、被害者の身元がわかりました。徳山久美という人でした」
 三浦は美奈が淹れてくれたコーヒーをすすりながら言った。
「相変わらず、美奈さんが淹れてくれたコーヒーはうまいですね」
 三浦がコーヒーを褒めたとき、美奈は別のことを考えていた。背中に鳳凰のタトゥーをした徳山久美が絞殺された。どこかで聞いたことがある。どこでだったかな。そう心の中で呟いたときに思い出した。
「そうだ。北村弘樹の『鳳凰殺人事件』だわ」
 美奈が突然叫んだので、三浦は驚いた。
「三浦さん、その被害者の名前、北村弘樹さんが書いた小説と同じなのよ。背中に鳳凰のタトゥーがあるということも」
「え? それ、どういうことですか?」
 美奈は一瞬、なじみ客である北村のことを告げるのをためらった。しかし、北村の『鳳凰殺人事件』はけっこう売れており、どのみち他の読者から指摘されるだろうと思った。だから、美奈も類似性に気づいた一読者として、三浦に話すことにした。もちろん、北村がミクの常連であることは話さなかった。少し三浦に申し訳ない気もしたが。
 美奈は『鳳凰殺人事件』の本を三浦に示し、作中に登場する“徳山久美”のことを話した。
「なるほど。作品の中では東京都内の公園の近くで絞殺されたことになっていますが、よく似ていますね。作中の久美は美奈さんと同じく、お寺の娘となってますが、美奈さんがモデルみたいですね。実際には父親はサラリーマンです」
 何となく三浦は北村が美奈の客であることに、気づいたようだった。しかし、そのことについては、お互い、それ以上触れなかった。
「明日の捜査会議で、このことも提案してみます。この本、しばらく貸してもらえますか?」
「はい、どうぞ。でも、この作品が書かれたのは、今年の初めごろだったので、たぶん、偶然が重なったのだと思います。それとも、誰かがこの作品を真似て事件を起こしたのかもしれません」
 美奈は北村が事件に無関係ならよいが、と祈った。もうこれ以上自分の客が事件とかかわってほしくないと思った。
「いちおう北村さんには、アリバイを確認してみます。一読者から類似性の指摘があったということにして、美奈さんの名前は出しませんから、安心してください」
 そこまで言うと、三浦は捜査本部に戻ろうとした。
「でも、もう捜査本部には誰もいないんでしょう。今日はもう遅いから、よかったら今夜はうちでゆっくりしていきませんか? 間もなく日付も変わりますし」
 美奈ははにかみながら、三浦に尋ねた。三浦はこれまで事件の関係で一度、プライベートで一度美奈の家を訪れたことがある。しかし、泊まっていったことはなかった。
「しかし、女性の家に突然来て泊まるというわけにも。それに、着替えも持ってきてないので……」
「そんなこと、気になさらないで。自宅だと思って、ゆっくりくつろいでください。明日も捜査で多忙になると思いますから、あまり迷惑はかけませんわ。警察署の仮眠室よりは、よく休めますよ。でも、やはり全身いれずみのソープレディーのところに泊まるのは、いけないかしら」
 最後に美奈は少し寂しそうな顔をした。それは演技でも何でもなかったが、三浦はその寂しそうな顔を見て、泊まっていくことにした。

 その夜、初めて二人は交わった。以前、三浦がオアシスに客として来たことがあった。しかしそのときは美奈は三浦の胸の中で泣くばかりで、コンパニオンとしての仕事が果たせなかった。その日は、結局時間まで、二人はベッドに腰掛けたまま、話をしていた。
 今は美奈の守護霊となっている千尋の遺体が発見された現場で、初めて三浦に出会って以来、片時も忘れることがなかった三浦と、とうとう身体を交え、美奈は感激で涙が止めどなく流れた。
 美奈はオアシスに勤める前は、性的に潔癖すぎるぐらいだった。それがソープランドのコンパニオンとして働いているうちに、性に対する潔癖性やストイックさは失われていった。しかし、性に対してだらしがなくなったわけではない。コンパニオンとしての対応は、あくまで仕事として割り切り、心まで性奴と化すことはなかった。
 もちろんコンパニオンとしては、真心でもって客に尽くしていた。だからこそ、ミクはオアシスのナンバーワンに登り詰めることができたのだ。それでもコンパニオンとしての対応と、心から愛する人に対する姿勢は、全く違っていた。その夜、美奈は今までにないほどに燃えていた。仕事を離れたときの、清楚な美奈のイメージからは考えられないほどの乱れようだった。しかしそれは淫らなものではなく、崇高な愛の表現だった。
 ただ、三浦は殺人事件の捜査で、多忙な身なので、あまり夜遅くまで無理をさせなかった。
 三浦は翌朝早く美奈の家を出て、着替えのために名古屋市北区の自分のアパートに帰っていった。

『幻影2 荒原の墓標』第6回

2014-02-21 19:40:27 | 小説
 今日、久しぶりに弥勒山、大谷山に登りました。

  
 
 先週の金曜日に大雪が降りましたが、もう1週間が過ぎ、もう雪は残っていないかと思ったら、まだ大量に残っていました
 このところ気温が低かったので、日陰にはたくさん雪がありました。

  
  

 

 山頂からは中央アルプスや御岳がみえましたが、透明度はいまいちでした。

  

  弥勒山の山頂は、日が当たるため、雪はほぼ溶けていました。

 今回は『幻影2 荒原の墓標』6回目を掲載します。
 『幻影』シリーズの登場人物は、けっこうスタジオジブリから名前を借りています


            

 卑美子のスタジオを出た二人の刑事は、三浦が運転する車で、岐阜市に向かった。近くの交番で殺鬼のスタジオを確認し、一時間半ほどで目的地に着いた。四〇キロほどの道のりだが、夕方の渋滞にさしかかり、道がやや込んでいた。
 岐阜市は人口約四〇万人、広大な濃尾平野の北にある、岐阜県の県庁所在地だ。市内を清流長良川が流れている。かつて織田信長が天下布武の印章を用い、天下統一への足がかりとした地である。
皐月タトゥースタジオに到着したとき、殺鬼は施術中だったが、冥は空き時間だったので、さっそく尋ねることができた。“殺鬼”ではインパクトが強すぎるので、スタジオ名は“皐月タトゥースタジオ”にしている。
 三〇歳をいくらか超えた殺鬼に対し、冥はまだ二〇代半ばぐらいの年齢で、トヨと同程度に思われた。しかしトヨは実際の年より若く見られがちだが、二七歳だ。丸顔でかわいい感じのトヨやさくらに比べ、冥は面長で気が強そうな顔立ちだ。長い髪を栗毛色に染めている。左目尻の下に、小さな赤いバラのタトゥーがあった。一生タトゥーアーティストとしてやっていくという強い決意を示すため、女性にとっては大切な顔に、消すことができないタトゥーを殺鬼に彫ってもらったのだった。
 二人は警察手帳を示し、訪問した理由を告げた。そして、さっそく被害者の背中の写真を見せた。冥は二人の刑事を事務室に案内した。
「ああ、これは去年の春先に彫った、徳山久美さんです。三回来てもらいました。この感じの鳳凰は、久美さんにしか彫ってないので、間違いありません。私がお客さんに彫り始めて、初めての大きな仕事だったので、よく覚えています。それまではワンポイントが多かったですから」
 冥は写真を見て、すぐに反応した。冥は刑事の求めに応じて、久美の免許証や同意書のコピーを渡した。免許証の写真はコピーなので、やや不鮮明ではあるが、写真は間違いなく被害者のものだった。免許証や同意書にある住所は、愛知県一宮(いちのみや)市になっていた。年齢は二七歳。同意書に書かれた電話番号は、被害者が持っていた携帯電話のものだろう。しかし携帯電話や免許証など、身元を示すようなものは持ち去られていた。
「刑事さん、私が一生懸命になって彫ったお客さんが殺されただなんて、無念でなりません。特にそのころはプロとして彫り始めて間もないころだったので、すごく思い入れがあるのです。その人は自分を強くするために、ぜひとも背中に鳳凰を入れたいと言っていて、私も彼女が強くなれますように、と心を込めて彫ったものです。協力は惜しみませんので、どうか、犯人を捕まえて、久美さんの無念を晴らしてあげてください」
 冥は三浦の腕をとって、目を潤ませながら懇願した。きつそうな顔立ちだが、意外と優しいのかもしれない。
「ところで、こんなことを訊いてお気を悪くされないでほしいのですが、冥さんは昨夜一〇時から一二時の間、どこにいましたか? 冥さんを疑っているわけじゃないですが、被害者に関わりがある人すべてにお訊きしていることですから」
 三浦は申し訳なさそうに、アリバイを尋ねた。
「はい、私もミステリーのファンですので、わかっています。昨日のその時間、先生がまだお客さんに彫っていたので、私もこのスタジオに残っていました。先生が証明してくれますし、何ならお客さんにお訊きくださってもけっこうです。そのお客さん、とても気さくな方なので、このようなやむを得ない場合なら、きっと証言してくれると思います」
 そのとき、客に施術をしていた殺鬼が手を休め、弟子の冥のところにやってきた。殺鬼はショートヘアで、メタルフレームのメガネをかけた、クールな感じがする美人だった。彫り師というよりは、冷徹な学者か研究者を思わせた。首筋や、長袖から露出する手首から手の甲、指にかけて、タトゥーが入っているので、彫り師だと知れる。本名は皐月(さつき)で、漢字の表記を“殺鬼”としている。
「お話は仕事をしていても、聞こえてきました。私が今使っているマシンは、ロータリー式で音が静かですからね」
殺鬼のスタジオは、冥と二人で切り回している。他に雑用をしている、鬼々(きき)という彫り師見習いの若い女の子がいる。鬼々も冥と同じ理由で、左のこめかみに、小さな桜の花を入れている。
 殺鬼にはかつて男性の弟子がいたが、冥が弟子入りする前に独立して、今は別のところで、“皐月ファミリー魄(はく)”という名で、仕事場を構えている。
 殺鬼の店は、施術するブースが二つと、事務室、待合室、トイレ、狭いキッチンがあるだけの、小さなスタジオだった。卑美子のスタジオの3LDKの間取りよりかなり狭く、2DK程度の広さだ。それでも将来鬼々がプロのアーティストとなり、自分のブースを持っても、まだ余裕がある。事務室はパーティションで仕切られているだけなので、話していれば、施術中の殺鬼にも聞こえてしまう。
「冥の言うとおり、冥はその時間帯には、このスタジオから一歩も外に出ていません。それは私が証明しますわ。私では信用できないのなら、そのときのお客様の電話番号もお教えしますが、でもやはりタトゥーを彫るということは、他人(ひと)には隠したいということもありますので、冥が疑われて、どうしようもない場合以外は、お問い合わせは遠慮していただきたいのですが。まあ、そんなことは決してないでしょうが。冥は昨夜は確かにずっとこのスタジオにいましたから。刑事さんだからこそ、お客様の電話番号をお教えするのですからね。でも、お客様のプライバシーを守ることは、私たちにとって大切なことですから、そのへんのことはお含みおきください」
 理路整然と話す殺鬼の言葉に、さすがの三浦もたじたじだった。
「いえ、冥さんを疑っているわけではなく、これは関係者すべてにお伺いする、儀式みたいなものですから。お話を聞いて、僕は冥さんは犯罪とは関係ないと確信しました。お客さんの電話番号も、必要ありません」
「もう少し言わせていただくなら、冥はただ去年の二月から三月にかけて、その方にタトゥーを入れたというだけで、事件の関係者ですらありません。単に彫り師とお客様という間柄でしかありませんわ。そんなことで疑うのなら、その方がよく行く店の店員は、すべて疑われなければなりません」
 そう言ってから、殺鬼は顧客ファイルの中から、昨夜の客の名前と携帯の電話番号を探して書き写し、三浦に渡した。

 殺鬼のスタジオを出てから、二人は意見を述べ合った。
「トシ、おみゃーさん、どう思やーす? 冥のこと」 と鳥居が尋ねた。
「僕は事件には関係ないと思います。アリバイを尋ねたのも、疑っていたからではなく、単に消去するための確認でしたから。殺鬼さんが言っていたように、冥さんと徳山久美は、単なる彫り師と客の関係だと思いますよ。昨日彫っていたお客さんの電話番号、不要だと言ったのにくれましたが、わざわざ確認とる必要はないと思います。ただ、資料としては保管しておきますが」
「そうだな。俺も同感だがや。去年の春に三回施術した、というだけの、彫り師と客の間柄でしかなかったんだでな。まあ、ギャー者の身元がわかっただけでも、来た甲斐(きゃー)があったというもんだ」
 鳥居も今回は冥は無関係だと判断した。
 104の電話番号案内に、一宮市の住所と徳山の名字で問い合わせた。その電話番号は、登録されていた。教えられた番号に、三浦は電話した。
「私(わたくし)は県警の三浦と申しますが、徳山久美さんのお宅でしょうか?」
「はい。徳山でございますが、久美は今おりません。警察がどんなご用件でしょうか?」
 電話に出たのは母親のようだった。おどおどした感じの話し方だった。
「実は、久美さんと思われる方が春日井市の浅宮公園で、遺体で発見されましたので、その件でお電話しました」
 三浦は努めて事務的な口調で言った。こういう場合は、なまじ感情を出さないほうがいい。すると相手は受話器を落としてしまったのか、大きな衝撃音が聞こえた。電話の向こうでは、 「ちょっと、お父さん!」 という慌てふためいた声が聞こえた。そしてしばらく無言が続いた。電話の声は男性に替わった。
「私は久美の父親です。久美は二年ほど前から、うちを飛び出して、行方がわからなくなっていましたが、そうですか。やはりそんなことになってしまったんですね……」
 父親の声も力なく、消え入りそうだった。
「ご遺体は、今春日井市の篠木署に安置してあります。娘さんに間違いないか、ご確認いただきたいのですが」
「わかりました。これから家内と参ります。夜遅くなりますが、いいですか?」
「かまいません。辛いこととお察ししますが、どうかよろしくお願いします」
 鳥居と三浦は、一宮には行かず、篠木署に戻ることにした。篠木署に戻れば、両親に会える。鳥居は今日の捜査でわかったことを、捜査本部に報告した。
 二時間ほどの後、憔悴しきった徳山夫妻が篠木署にやってきた。遺体は司法解剖を終え、篠木署に戻っていた。両親は五〇歳を超えた、初老の夫婦だった。三浦は両親の様子を見るのが辛かった。篠木署の地下の霊安室で、父親が遺体の確認をした。母親は、変わり果てた娘と対面できる状態ではなかった。
「間違いありません。娘の久美です」
 父親は泣き崩れた。
「昔は素直でとてもいい娘(こ)だったのに。名古屋で一人住まいをしていましたが、悪い男と付き合い始め、突然行方がわからなくなりました。最初のうちはときどき電話もあったのですが、その後、しばらくして、連絡が取れなくなってしまいました。背中に大きないれずみをしていたなんて、信じられません。やくざにでもだまされたのでしょうか。家出人の捜索願を出したとき、警察がもう少し熱心に捜してくれれば、こんなことにはならなかったんです」
 父親は涙を流しながら、少々恨みがましく三浦に訴えた。三浦は申し訳なく感じた。家出人捜索といっても、事件性がなければ、警察はあまり力を入れて捜すことはしない。家出人をコンピューター登録し、自殺の恐れや事件性がある場合は手配も行うが、事件の指名手配のような、徹底したものではない。この両親に報いるためにも、絶対に犯人を捕まえてやる、と三浦は心に誓ったのだった。


『幻影2 荒原の墓標』第5回

2014-02-14 19:49:26 | 小説
 今日は朝からまた大雪でした。午後には雪から雨に変わりましたが、けっこう積もっていました。
 雪がシャーベット状になった道路は歩きにくく、靴がびしょ濡れになってしまいます。
 今日は近くのスーパーマーケットに買い物に行った以外は、家の中にいました。

 今回は『幻影2 荒原の墓標』の5回目の掲載です。


            

翌日は恵も美奈も出勤だった。午前中、美奈は新しい車の契約のことで、役所や中古車店に行った。今乗っているミラは、結局ほとんど下取り価格は出なかった。かなり走っているので、それは仕方がないと美奈は思った。
 出勤前、美奈は静岡の葵に、さくらの練習で、足の甲にバラの花を彫ったことをメールした。すぐ葵から電話がかかり、新しいタトゥーのことや、さくらのことなどをいろいろ聞き出した。
「仕事を辞めて、家でのんびりしていると、速やかにオバサン化しちゃいそうなので、エステとか行こうと思ってるの。小さなタトゥーなら大丈夫、というところ見つけたから」
 葵は今、まもなく夫となる秀樹のアパートで、一緒に暮らしている。一五分ぐらい葵はしゃべり続け、「そういえば、美奈、もうすぐ出勤時間ね。メグたちによろしくね」 と言って電話を切った。
 オアシスの待機室で、さくらが彫ったバラのタトゥーを披露すると、コンパニオンたちが集まってきた。つい一週間前まで同僚だったルミが彫った作品というので、みんなが興味を持っていた。まだ彫って一日も経っていないので、かさぶたが張ったりせず、彫ったばかりのきれいな状態を保っていた。
「へえ、これ、ルミが彫ったの? すごーい。でも足の甲だと、人前で裸足(はだし)になれないね」
「きれい。これならもうプロで通用するんじゃない?」
「今なら練習で、無料(ただ)でやってくれるの? それじゃああたしも小さな花でも、やってもらおうかしら。ねえ、ミク、あたしもそこに連れてって。あたしもルミがタトゥーアーティストになる、というんで、ルミになら何かやってもらおうかな、と思ってたんだ」
「私も左腕のリスカの傷痕が目立たなくなるように、バラの花入れてもらおうかしら」
 さくらが彫ったタトゥーを見て、みんなが感想を述べ合った。私もルミの練習のために肌を提供してあげよう、と何人かのコンパニオンが申し出た。
「みんなの気持ちはとても嬉しいけど、一度やっちゃったら、もう消せないんだから、よく考えてね。私も肩に蝶を入れちゃったし、ルミにも練習として彫ってもらうつもりだけど、やっぱりそれなりの覚悟は必要だから」
 去年の暮れに、卑美子に初めて蝶を彫ってもらった恵がみんなに注意を促した。オアシスのコンパニオンたちにとっては、さくらより、以前の源氏名のルミのほうがしっくりいくようなので、恵も「ルミ」と言った。恵も美奈も、それほどルミがみんなに慕われていたんだと思うと、嬉しくなった。美奈は他のコンパニオンたちにいじめられていた時期があったが、殺人事件に巻き込まれたことがきっかけとなり、多くのコンパニオンが美奈を励ましてくれた。今ではみんなと仲良くやっている。
「あたしは大丈夫だよ。次の月曜日は公休日だから、ルミのところに連れてって」 と、アイリが言ってくれた。その日は恵も美奈も公休日だ。
 そうこうしているうちに、ミクを始め、何人かに指名がかかった。

 月曜日、恵、美奈、アイリの三人は卑美子ボディアートスタジオを訪れた。事前に連絡を受けていたとはいえ、アイリが 「ルミ、あたしの肌も練習に使って」 と言ってくれたことに、さくらは驚き、感激した。さくらより一歳年上のアイリは、オアシスでは一年先輩だった。久しぶりにさくらに会ったアイリは、桜色の作務衣姿に、「ルミ、その着物、かっこいい」 と声をあげた。
「でも、いいの? 一度彫ったら、もう二度と消せないんですよ」
 さくらは今一度、アイリに注意を喚起した。
「うん、いいよ。実はあたし、前からルミの胸の蝶見て、自分もやってみたいな、と思っていたんだから。遠慮なくやってちょうだい。無料(ただ)でやってくれるなら、あたしも大歓迎」
 アイリは舌(タン)にピアスをしているせいか、やや舌足らずなしゃべり方をする。客には高めのハスキーボイスでの、そのしゃべり方がまたかわいいと評判だ。いろいろな見本の絵を見ながら、図柄などの相談をして、アイリは腰に紫の蓮の花を入れることに決めた。蓮の下には、黒と水色の曲線で、水を表す装飾を入れる。
恵もさくらの練習に自分の肌を使ってもらうつもりだったが、せっかく来てくれたアイリに先に彫ってもらうことにした。
「このへんの、お尻の少し上ぐらいにやってくれない? 女性って、腰のこの辺りに入れる人、多いんでしょう」
「うん。そこに彫る女性(ひと)、けっこういますよ。ただ、そこはしゃがんだときに服がはだけて、見つかっちゃうこともあるんだけど、大丈夫?」 とさくらは忠告した。
「でも、そこがまた色っぽくていいんじゃない? チラッとちょい見えするところが」
 アイリは意にも介さないようだった。
 アイリは下着だけになり、腰の辺りを露出した。暖房を入れてあるから、下着だけでも寒くはない。さくらはグリーンソープをスプレーし、蓮を入れる部分を洗浄した。背筋を伸ばして立つよう、指示をしてから、筆ペンで蓮の絵を描き始めた。赤の筆ペンで、全体のバランスをとるための補助線を入れ、黒の筆ペンで、細部を描いていった。
「へぇ、さくらは転写じゃなくて、直接肌に描くんだ。さすが漫画が得意なだけあって、うまいもんね」と恵が感心した。
「私のときも、直接描いてくれました。複雑な図柄のときは転写も使うけど、描き慣れた絵なら、直接描くそうです」
美奈がさくらに代わって説明した。
 肌用のマーキングペンで清書をして、いよいよラインを彫ることになった。初めてのタトゥーに、アイリはかなり緊張しているようだ。さくらはオアシスのころの思い出話をして、アイリの緊張をほぐした。
 筋彫りが終わり、休憩の後に、蓮の花びらに紫を入れているときだった。インターホンのチャイムが鳴った。さくらが手を休め、玄関に向かおうとすると、 「私がひとまず応対しますから、さくらさんは続けていてください。私では対応できなかったら、さくらさんを呼びますから」 と美奈が申し出た。美奈は卑美子ボディアートスタジオにときどき遊びに来ているので、対応の仕方も多少身についている。
「ありがとう、美奈」
さくらは礼を言った。
 玄関に出ると、美奈がよく知っている二人の男が立っていた。
「おう、おみゃあさんか。今日はこっちに遊びに来とるんか」 と懐かしい名古屋弁が響いた。
 来訪者は篠木署の老練な刑事、鳥居と、県警の若い刑事、三浦だった。
「美奈さん、久しぶり。また会えましたね」
「三浦さん。今日はどうしてここに?」
 美奈は三浦を見て、心がときめいた。鳥居の手前、三浦は久しぶり、と言ったが、先月の下旬、二人の非番と公休日が重なった日に、猿投山(さなげやま)に登っていた。ミドリ、ルミがまもなくオアシスを退職するので、寂しい思いをしていることを知っていた三浦が、美奈を登山に誘ったのだった。三浦と美奈は登山が共通の趣味だ。
 二人は以前の殺人事件を通して知り合った。美奈が三浦に一目惚れをしてしまったのだが、全身いれずみのソープレディーと県警の敏腕刑事では、決して成就することのない恋だと美奈は諦めていた。しかし、捜査の必要上、何度か会っているうちに、三浦も美奈の純情さに惹かれるようになった。そして今では、ときどきこっそり会っている。
「今日はまた何かの事件のことで?」
「ああ、また背中に鳳凰のいれずみをした女が殺されてまったんで、雅子にいろいろ訊きたいことがあってな。またこの前とよく似たパターンだがや」
 雅子というのは、卑美子の本名だ。鳥居は二〇年近く前から卑美子を知っていて、卑美子のことをこう呼んでいる。
「ちょっと待ってくださいね。スタジオの人を呼んできますから」
 自分ではとても対応できないと思い、美奈はさくらを呼びに行った。その前に、二人の刑事を待合室にしているリビングに案内した。
 さくらも鳥居と三浦の来訪に驚いた。そして、アイリに一言詫びて、作業を中断した。アイリは 「ひょっとして、前にオアシスに来たことがある、二人のデカさん? 若い、背の高いデカさん、かっこよかったな」 と好奇心旺盛だった。
「すみません。先生は今仕事中で、あと三〇分ぐらいで終わる予定なんですが」
 さくらは恐る恐る言った。
「おう、さくらか。おみゃーさんも元気でやっとりゃーすか。この前は世話になったな。三〇分だったら、ここで待っとろまいか」
 鳥居は思いがけない言い方をした。さくらは、てっきり 「すぐ呼んでこい」 と怒鳴られると覚悟していた。この前の事件で、美奈の機転と、さくらが描いた似顔絵が、犯人逮捕の緒(いとぐち)になり、鳥居も二人には感謝している。鳥居は温和な言葉遣いになった。そして、三枚の写真を取り出して、さくらに見せた。
「おみゃーさん、ひょっとして、その写真のいれずみを彫った彫り師に心当たりはないか?」
 さくらは写真をよく見た。三枚の写真は、それぞれ違った角度から写されていた。遺体の写真かと思うと、少し気持ち悪かったが、ぐっと我慢した。この作風はどこかで見たような気がすると思った。卑美子の絵に少し似ているが、卑美子のような優雅で繊細なタッチではなく、男性彫り師のような力強さがあった。彫波一門の作風に似ている。さらに目を凝らして見ると、左の肩のあたりに、小さく“冥(めい)”という銘が入っているのに気づいた。
「これは岐阜の彫り師の、冥さんの絵です」とさくらは断言した。
「岐阜のメイ?」と鳥居が確認した。
「はい。彫波一門の殺鬼(さつき)先生のところにいる、若い女性彫り師です。ここに小さく“冥”と名前が入っています」
 さくらは写真の銘が入っている部分を示した。鳥居はそれを見るために、老眼鏡を取り出した。さくらは、さすがの鬼刑事も年には勝てないのだな、と妙な感心の仕方をした。鳥居は髪にも少し白いものが目につくようになってきた。
「確かに冥王星の冥だがや。岐阜のサツキとかいう彫り師のところにいるんだな。あれ? サツキとメイといったら、どっかで聞いたことがあるがや。そうか、どっちも五月のことだな」
 となりのトトロの主人公の姉妹だが、さくらも三浦も、そのことについては、口出ししなかった。
 さくらは卑美子に弟子入りしてから、彫波師匠を始め、一門の人たちに挨拶に行っている。岐阜市にスタジオを構える、殺鬼のところにも、卑美子と一緒に訪れた。そのとき、殺鬼の弟子の冥に会っている。殺鬼は彫波一門では、卑美子の後輩だった。
 彫波一門といっても、正確には、卑美子と殺鬼は一門ではない。この二人の女性彫り師は、一門から破門されている。
 卑美子の師匠である彫波の一門は、ある暴力組織の構成員になっている。彫り師の世界で仕事をするため、やむを得ず、名目だけは某組の一員となっているのだ。任侠の世界と言えば、聞こえはいいが、しょせん暴力団だ。しかし彫波は、女性彫り師である卑美子と殺鬼に対しては、やくざとはいっさい関わりを持つな、と言って、形の上では一門から破門した。彫波の一門に籍を置けば、有無を言わせず、その組の構成員にされてしまう。そうさせないための、いわば彫波師匠の思いやりだった。
 絶縁はもう二度と復帰することを許されないが、破門の場合は絶縁よりは軽く、場合によっては復縁もあり得る。だから一門で開催する催しや集会に、卑美子たちが参加することを許可している。
「これでここに来た僕たちの目的は達成できましたね。岐阜のサツキさんのスタジオだとわかれば、さっそく行って聞き込みをしましょう。昔のやくざ専門の彫り師ならともかく、今のタトゥースタジオなら、年齢確認のためにきちんと身分証明書のコピーをとっているところがほとんどだから、被害者(がいしゃ)の名前や住所などはわかると思います」
 これまで発言していなかった三浦が、鳥居に言った。
 最近のタトゥーアーティストは、衛生管理や年齢確認などをきちんとしている。都道府県の青少年保護条例などで、一八歳未満の青少年に対するいれずみ、タトゥーの施術を禁じているところが多い。だからきちんとしたタトゥースタジオでは、年齢確認のため、顔写真がついた証明書の提示を求める。しかし中には、客が組の関係者の場合、一八歳未満でも彫ってしまう、昔ながらの彫り師もいる。そういうところでは衛生面も不安がある。
 卑美子の師匠の彫波が、三〇年ほど前に初めて彫ってもらった彫り師は、衛生管理がずさんで、針や絵の具は使い回し。前の客を彫った針は、水で洗ってそのまま使っていた。残った墨や絵の具も、捨てずに次の客に使った。そのころの彫り師の多くは衛生面の知識が乏しく、当たり前に考えていた。しかし後にHIVや肝炎ウイルスの感染が問題になり、彫波は青くなった。当時は彫り師から、肝炎の知識はなくても、経験則として、 「墨を突いた場合は肝臓が弱くなることがあるから、食生活には気をつけろ」 と言われていた。
実際彫波は肝臓がわるく、祝賀会など特別な場合を除いて、酒を断っている。当時の不衛生な環境での施術で、肝炎に罹患したのだ。非ウイルス性肝炎と診断され、過労が原因だろうと言われて、一ヶ月以上入院した。当時はまだC型肝炎ウイルスが知られていなかった。ひょっとしたら、C型肝炎に感染していたのかもしれない。そんな経験があるので、彫波は彫り師になってから、衛生面に関してしっかり勉強し、弟子には衛生管理を厳しく指導している。
「はい、殺鬼先生のスタジオは、うちと同じように、きちんとしているから、きっと大丈夫だと思います。岐阜の柳ヶ瀬(やながせ)通の方で、スタジオはすぐわかります。五階建てのマンションの、一階の店舗を借りて、スタジオにしています。サツキは殺す鬼と書きます。スタジオ名は五月(ごがつ)のほうの皐月ですが」
 さくらは殺鬼のスタジオへの道順を、手際よく説明した。
「殺す鬼と書いて、サツキですか。読みはかわいいのに、漢字にすると、殺人鬼みたいですね。冥さんもそうですが、さすがにタトゥーアーティストだけあって、すごい字を使いますね」
 三浦が感心した。
「ゆっくり雅子と話もしたかったが、そういうわけにもいかんし。事件が解決したら、また改めて寄らせてもらうがや。雅子によろしく言っといてちょう。トシ、おみゃーももっとあの娘に会っとりたいだろうが、今は我慢しろ。それじゃあ、すぐ岐阜まで行ってこよまいか」
 鳥居のこの言葉に三浦が少し顔を赤らめたので、さくらは何となく微笑ましく思った。さくらが初めて鳥居に会ったときは、その迫力に圧倒され、まるでやくざを目の前にしているような恐怖を感じたのだった。今は鳥居に対しての印象は全く違っていた。
トシというのは、三浦俊文のトシだ。鳥居は最近、三浦のことをトシと呼んでいる。三浦が新米刑事のころは、先輩たちから 「ドジフミ」 と呼ばれることもあった。
 二人の刑事がスタジオを出て行くとき、美奈は三浦に目で挨拶をした。三浦も目礼を返してくれた。それだけで二人の思いは通じ合った。
 さくらは簡単に二人の刑事が来訪した理由を話した。恵と美奈はリビングの近くにいて、おおよその話は聞いていた。二人の刑事も、恵と美奈のことをよく知っているので、排斥することはしなかった。タトゥーの施術の途中で、下着姿のアイリだけは、さくらの施術室から出るわけにはいかなかったので、そこで聞き耳を立てていたが、あまりよく聞こえなかった。それでさくらの話に聞き入っていた。
「ごめんなさい、長らく中断しちゃって。さっそく続きを始めますから」
 さくらは手指を消毒用ジェルで洗浄し、新しいニトリルのグローブと、不織布のマスクをつけた。そして施術を再開した。
 しばらくして、客を送り出した卑美子が、さくらの部屋に入ってきた。
「さっき、鳥居さんたちが見えてたみたいだけど、どういうご用だったの?」
 卑美子はアイリに、さくらの練習に協力してくれたことについてお礼を言ってから、さくらに尋ねた。
「背中に鳳凰の絵を入れた女性が殺されたんで、その絵を入れた彫り師に心当たりがないか、尋ねに来たんです。岐阜の殺鬼先生とこの冥さんだということが、私でもわかったんで、わざわざ先生のお手を煩わすこともないからと、帰っていきました。鳥居さん、事件が解決したら、またゆっくり挨拶に来る、と言ってました」
「そうですか。またいやな事件が起こったものですね。せっかく丹精込めて彫ってあげたお客さんが不幸な目に遭うというのは、彫り師として、本当にやりきれないことですね」
 以前、客の千尋が、背中の騎龍観音が未完成のままで殺されたという事件を経験している卑美子は、実感を込めて言った。間もなく次の客が来るので、準備のため、卑美子は自分の施術室に戻った。卑美子に会って、アイリは 「ルミの先生、美人でかっこいい。あたし、憧れちゃう」 と絶賛した。
 さくらはアイリのタトゥーに専心した。長い中断があったが、精神力を途切れさせないように、目の前の蓮の花に集中した。
 アイリのタトゥーが完成した。初めてのタトゥーでもあり、アイリはその苦痛にかなり参っていたが、歯を食いしばって耐えた。尾てい骨のあたりは、特に痛く感じるところだった。
「ごめんなさいね。私、まだ彫るのが遅いんで、苦痛が長引いちゃったりして。この前の美奈は、四時間近くかかっちゃって」
 今回は、中断の時間を差し引けば、先日の美奈よりはいくぶん早くなっている。腰は足の甲よりは彫りやすい、ということもあった。先日美奈の足の甲に彫ってから、さくらは二人肌を提供してくれる人がいて、練習を重ねていた。
「ううん、気にしなくていいよ。タトゥーが痛いというのは、前々からわかっていたんだし。ミクからも聞いてたけど、タトゥーはやっぱり痛いという代償があるからこそ、尊いんだもんね。一生消えない絵を肌に刻むのに、苦痛も何もなければ、彫ったという感激が薄らいじゃって、シールを貼ったみたいな感じになるから。それより、ルミこそ長い時間、疲れたでしょう。ありがとう。あたし、このタトゥー、大切にする。今度は正式のプロになったら、また何か彫ってね」
アイリは鏡で腰を飾っている蓮の花を眺め、出来映えに満足した。
 彫り終わったあと、黒いスクリーンをバックにして、デジタルカメラで写真を撮った。撮影室はリビングルームの一角を衝立で仕切ってある。ストロボを焚かなくてもいいように、照明を工夫してある。ストロボを使うと、反射光や影が写り込んでしまう。小さな作品なら、撮影室ではなく、自分の施術室で写すこともある。
さくらも卑美子のような、本格的なデジタル一眼レフが欲しいと思っているが、プロになるまでは、コンパクトカメラで我慢するつもりだ。コンパクトカメラとはいえ、きれいに写るので、タトゥーの記録を残すには十分だ。トヨはプロになった今でも、コンパクトデジタルカメラを使っている。
それから彫った部分にワセリンを塗り、傷を保護するパッドを貼った。そして、アフターケアの説明をした。タトゥーをきれいに残すためには、ケアが大切だ。それをまとめた説明書も手渡した。
 さくらは施術中のトヨにちょっと出かけますと了承を得て、客との連絡用の携帯電話を預けた。そして四人で近くのファミレスで、少し早めの夕食をとった。そのあとアイリと別れた。
「タトゥーは大きな傷を負うのと同じで、かなり体力を消耗するから、今日はゆっくり休養してね。かさぶたができると、かゆみがひどくなるけど、掻いてかさぶたをめくらないでくださいね。特に仕事で入浴すると、かさぶたがふやけてはがれやすくなるから、気をつけてください。もし色が抜けてしまったら、また彫り直します」
さくらが別れ際にアイリにアドバイスした。


『幻影2 荒原の墓標』第4回

2014-02-07 09:20:03 | 小説
 立春を過ぎ、また真冬に戻ってしまいました。名古屋地方も連日厳しい寒さが続きます
 今回は『幻影2 荒原の墓標』第4回です。
 いつもは作品掲載の部分は一目で区別がつくように、オリーブ色に変更してありますが、今回はなぜか色を変更するとエラーが出てしまうので、黒い文字のままにしておきます。


            3

 美奈は新しい車を買ったことを、葵、恵、さくらにメールした。しかし、車に関する因縁話は書かなかった。
 さくらから、今日から練習で他人の肌に彫ってもいいと許可が出た、という返信があった。
「私のほうも、ビッグニュース(V)o\o(V)。今日の午前中、卑美子先生のおなかに牡丹の花を彫って、これならもう人様の肌に彫ってもよい、って許可が出たの(^o^)。いきなり先生のおなかに牡丹を彫って、と言われ、ドキドキしちゃった(>_<)。まだ修業中だから、お金は取れないけど、頑張るよ!(^o^)/。美奈もいつでも彫ってあげるね。龍もバッチリ練習してるよ(^_^)v。葵さん、メグさんにも、メールしとくね」
 バルタン星人の顔文字は、Vサインを二つ連ねたつもりのようだ。
 卑美子の腹部には、トヨがプロになるための試験で彫った鳳凰が入っている。その鳳凰にマッチした牡丹を彫るのが、さくらの課題だった。
 美奈はさっそく卑美子ボディアートスタジオを訪れた。
 さくらは三月まで入居していた、オアシスの近くのワンルームマンションを引き払い、今はトヨとさくらの師匠である卑美子のスタジオに住んでいる。卑美子のスタジオは、JRや地下鉄の千種(ちくさ)駅の近くにあるマンションの一室だった。3LDKで、間取りはゆったりしている。以前は卑美子夫婦が住んでいたのだが、今は近くに一戸建ての家を建て、そこに移ったので、マンションをスタジオとして使っている。
 さくらの兄弟子であるトヨが修業中のころは、ときどきスタジオに泊まったりしていたが、正規のアーティストとなった今は、スタジオから車で五分ぐらいのところにマンションを借りて、そこから通っている。夜はスタジオが無人になるので、さくらがスタジオに住み込むことになった。家賃や光熱水費は無料である。今まで待合室にしていた洋室を卑美子の施術室にして、卑美子が使っていた部屋を、きれいに掃除をした上で、さくらに譲ってくれた。今はリビングルームを待合室にしている。
 さくらは以前の狭い待合室を師匠の卑美子の施術室にして、広い卑美子の部屋を自分の部屋とすることに、非常に申し訳ない思いをして、 「私は待合室でいいです」と辞退した。しかし、 「私は産休育休で、しばらくスタジオから離れるので、遠慮することはないですよ。それにさくらには当分スタジオに住み込んでもらうから、少しでも広い部屋のほうがいいでしょう」と言って、卑美子は自分の施術室をさくらに譲った。さくらはこんな師の配慮を、非常にありがたく感じた。

「あ、おはよう、美奈。あ、いけない。また言っちゃった」
 夕方にもかかわらず、さくらはおはようと挨拶した。そして、ペロッと舌を出した。水商売の世界では、一日中 「おはよう」 と挨拶することが多い。まださくらはそのくせが抜けきれず、卑美子から注意されていた。
「さくらさん、おめでとうございます。今日から一段階前進ですね。さっそく、私に何か彫ってください」
 さくらが他人の肌で練習してもいいという許可をもらえれば、恵も美奈も、練習として肌を提供すると約束していた。美奈はさっそく練習台第一号になるためにやってきた。
「今、卑美子先生もトヨさんも仕事中だから、私の部屋に来て。つい最近、以前の先生の部屋を私がもらったの」
 さくらは自分の部屋に美奈を案内した。さくらはいつもの桜色の作務衣(さむえ)を着ていた。卑美子は藍色、トヨはえんじ色の作務衣だ。血液やインクで汚れる仕事なので、作務衣は何着も用意し、頻繁に着替えている。作務衣の洗濯もさくらの仕事だった。オアシスを辞めてから、さくらはミディアムだった髪型を、ショートカットにしている。
「ここがさくらさんの部屋ですか? それじゃあ、卑美子先生はどこで仕事してるんですか?」
「先生は、以前の待合室を仕事場にしているの。そこは狭いからと言って、私にここを譲ってくれたの。そのとき、私、ありがたくって涙が出ちゃった。私、一生先生について行くよ。今はリビングが待合室になってるよ」
 今月よりさくらが卑美子のスタジオに住み込むことになったから、高畑のワンルームマンションを引き払ったことは美奈も聞いていた。引っ越しの手伝いをすると申し出ると、 「業者に頼むから大丈夫」とさくらは辞退した。恵と一緒に陣中見舞いに行こうと言っていたが、美奈が抜け駆けをした形になってしまった。恵は今日オアシスに出勤している。
「美奈も新しい車買ったんだって。パッソなの? エンジンは一リットル? もうちょっと大きな車にすればよかったのに。三気筒は振動が大きいんじゃない? 色は何?」 など、さくらは矢継ぎ早に美奈の新しい車のことを質問した。
 美奈の仲間は、みんな車が好きで、それぞれマイカーを所有している。さくらは二年前に買った、青いフィットに乗っている。トヨの車は日産のキューブ、恵はセレナだ。卑美子に至っては、単車が好きで、二〇年近く前、暴走族のレディースに入っていた。その頃知り合った卑美子の夫は、かつて暴走族のヘッドを張っていた。もちろん今は、暴走族や、その上位の暴力団とは、完全に手を切っている。卑美子ボディアートスタジオは、暴力団とはいっさい関係ない。
さくらは美奈との雑談が終わると、さっそくタトゥーの話に入ろうとした。そのとき、携帯電話が鳴った。客の問い合わせ用にさくらが預かっている携帯電話だった。非通知ではなかったので、電話番号はわかっている。それで、相手の名前と希望する図柄、タトゥーを入れる場所などを尋ねた。図柄についてのお話を聞きたいので、一度ご来店ください、わたくし、さくらが承りました、というような話をして、電話を切った。必要事項はメモしてある。客との電話対応も、さくらの重要な仕事だった。
「電話の対応も大変ですね」 と美奈はさくらに言った。さくらはどちらかというとため口なのだが、最近は卑美子の厳しい指導で、客に対しては、しっかりした対応ができている。
「うん。でも、もう慣れたから、対応もスムーズにできるようになったよ。相談に来たお客さんはまず私が対応して、話を聞くことになってるの。その上で、先生かトヨさんの指定があれば、空き時間に希望のアーティストに取り次いで、特に希望がなければ、まずトヨさんに話をしてみるの。何せ、先生は来年からしばらく休業するとタトゥー雑誌なんかで発表しちゃったので、予約が殺到しちゃって、今、最低でも三ヶ月待ちなの。葵さんの旦那に彫ってくれたのは、特別の計らいなのよ」
 しばらくすると、また携帯が鳴り、さくらが要領よく対応をした。今度は埼玉県からの依頼人のようで、気安く一度来てください、とも言えないので、要望などをじっくり聞いていた。アーティストはぜひ卑美子先生にお願いしたいとのことだ。今からの予約だと、施術は七月初めになりますが、いいですか、などと話をして、とりあえず卑美子の予定表を確認しながら予約を入れた。相手はパソコンのメールで、希望する図柄の、おおよそのイメージを送ってくれるそうだ。客が遠方の場合は、事前に会って図柄の相談をするのも難しいので、対応に苦労する。さくらの仕事も、大変なんだな、と改めて美奈は感じた。
 美奈はさくらが他人に彫ってもよいと許可がもらえたら、一番に彫ってもらうと約束している。恵もさくらの作品第一号は美奈に譲ると言ってくれている。さくらは、美奈から頼まれていた、右脚に彫る赤い龍の下絵を見せた。さくら自身も、練習で自分の右の太股に、赤い龍を彫っている。
「わぁ、かっこいい。この龍を彫ってくれるのですか?」
「うん。美奈さえ気に入ってくれれば、練習として彫ってみたい。だいたい膝の辺りから足首まで、ぐるっと龍が巻いちゃうんだけど。かなり大きいけど、大丈夫?」
「はい。ぜひこれをお願いしたいです。さっそく今日からやってもらえますか?」
「そうねえ。でも、これだけ大きいと、私、まだ先生やトヨさんより彫るのがずっと遅いから、かなり時間かかっちゃうのよ。最初はもう少し小さいのからやらせてくれない? 龍は少し練習して、もっと早くなってからにしたいの。そのほうが美奈の負担も少ないだろうし」
 さくらは遠慮がちに言った。
「私が初めて練習で自分に彫った足の甲の桜を見て、美奈、こんなのも彫ってみたいって言ってたでしょう。足の甲に花なんかどう?」
「足の甲ですか。いいですね。サンダル履いたとき、アクセサリーとしてかわいいな、って思っていたんです」
「それじゃあ、ちょっと絵を描いてみるから、靴下脱いでみて」 とさくらは美奈に依頼した。美奈は左右の靴下を脱いだ。
「右と左、どっちにやる?」
「そうですね。それじゃあ、右にお願いします」
 さくらは美奈の右の甲を、殺菌作用があるグリーンソープで洗浄した。グリーンソープ特有の強い臭いが漂った。この臭いをかぐと、美奈はタトゥースタジオにいるんだなと実感する。
「バラの花なんかどう?」と言いながら、さくらは筆ペンでバラの花を描き始めた。さくらはさらさらと描いているようだが、きちんとしたバラの花になっていた。
「わぁ、すごい。簡単に描いてるようなのに、とてもうまいですね。せっかく描いてくれたんだし、これならそのまま彫ってほしいです」
「これ、試しに描いただけなので、別にこれにこだわらなくてもいいよ。牡丹でも桜でも、菊でも蓮でも、何でも描いてあげるよ。筆ペンだから、簡単に消えるし」
「牡丹はたくさん入ってるので、足の甲はそれ以外の花がいいです。このバラ、とてもすてきです。これ、お願いしたいです」
「じゃあ、いったん消して、今度はじっくり描き込んでみるね。蕾や葉っぱも加えてみる」
 さくらは今度はじっくり時間をかけてバラの花を描いた。蕾と葉も付け加えた。バラの花一輪で、美奈の小さな足の甲はほぼ埋まってしまった。
「これでどう?」
「きれいです。ぜひお願いします。色は赤がいいかしら」
「それじゃあ、消えないように、肌用のペンで輪郭なぞるね」
 肌用のペンというのは、手術のときのマーキングに使う、紫色の安全なインクを使ったペンだ。そのインクは、水やアルコールで拭いた程度では、簡単に消えることはない。
「はい、これで下絵は完成ね。今からちゃっと(すぐ)彫るまわし(準備)しちゃうから、ちょっと待ってて」
 さくらは祖母がよく使っていた名古屋弁を、無意識に口にした。
「でも、すごいですね。転写じゃなく、直接肌に描いちゃうだなんて。卑美子先生やトヨさんも、直接手描きすることもあるけど、やっぱり転写が多いですから」
「私、フリーハンド、直接肌に下絵を手描きできるアーティストになりたいと思っているの。だから、美奈、その練習台にしちゃった」
 さくらは二〇分ほどかけて準備をした。マシンの針やチューブなどは、すでにオートクレーブで高温高圧滅菌し、密封してある。手が触れる器具などは、すべてラップした。針やインクなど消耗品は、すべて使い捨てだ。練習とはいえ、衛生には万全を期している。
「いちおう、練習でも同意書は必要だから、これ、サインしてね。内容は卑美子先生やトヨさんのと全く同じだから、もう説明しなくてもいいよね。アーティストの名前がさくらになっているだけの違いだから」
 準備中に、次の卑美子の客が来て、さくらは客を待合室になっているリビングルームに案内した。若い女性だった。さくらは待合室で、しばらくその客の接待をした。美奈は卑美子が仕事を終え、その客を引き継ぐまで待たされることとなった。あと一〇分ぐらいだ。
 卑美子ボディアートスタジオは、女性客が多い。今は女性でも、けっこう大胆な図柄や、大きな図柄を彫る。ときどき首筋や手の甲など、目立つ場所を希望する人がいる。そんな人たちには、まず、一生消えない絵を、隠しようのない、目立つところに彫ってしまっていいのかを、じっくり話し合う。その上で、覚悟が決まっている客に対しては、図柄の相談をする。だから、せっかく大きな絵を彫ろうとしている客も、話し合った結果、小さいものを目立たないところにと変更したり、彫ること自体をやめてしまうことがある。他のスタジオでは、せっかく大きな図柄を彫ろうという客を逃がさないように、客が希望するとおりに施術するところも多いが、卑美子のスタジオでは、客本意で考え、本当に彫ってしまっていいのかをまず確認する。
卑美子は服で隠せない場所は、基本的には断っている。その結果、せっかくの客を逃がしたとしても、それはそれでかまわない、という方針だ。
去年、背中一面に、自分の生まれ年の護り本尊である、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を希望していた女子大生がいた(拙著『ミッキ』)。卑美子は背中一面に大きな絵を彫ってしまって、これからの人生、就職や結婚のとき、大丈夫なのかをよく考えなさい、としばらく考える猶予を与えた。その結果、その客は、左肩に手のひらぐらいの大きさの蓮の花と、その上に炎と虚空蔵菩薩の梵字をあしらった宝珠の図柄に変更したことがある。この女子大生は、後になって、 「やはりあのとき、先生が言われるように、小さな絵にしておいて、よかったです」 と、卑美子にお礼を言いに来た。背中一面の菩薩像では、ファッションとしてのタトゥーの領域を超え、日本伝統の彫り物の範疇となってしまう。それでは他人が見る目も厳しくなるだろう。
また、背中に破壊と創造の神、シヴァを彫りたいと言っていた若い男性客は、その顔を、以前大きな事件を引き起こした教団の教祖の顔に似せてほしいと申し出た。卑美子が理由を問うと、奇抜なものを入れて、他人(ひと)を驚かせたいからだという。このときは、そのようないい加減な動機で一生消せない絵を肌に刻んでしまえば、将来必ず後悔すると諭し、思いとどまらせた。結局その人は、気まずい思いをしたので、別の彫り師のところに行ってしまったようだ。しかし卑美子はそれでもいいと思っている。最初にもし他の彫り師のところに行き、注文通りに彫られていたなら、その人はやがて後悔することになるかもしれないのだ。良識ある彫り師ならそのような依頼は断るだろうが、中には大きな仕事にありつきたいため、客の注文を受けてしまう彫り師だっているのだ。背中一面の図柄なら、数十万円の仕事になる。
 せっかく全霊を傾けて彫った絵を、後になって後悔されたり、消されたりするのは、アーティストとして、とても残念なことだ。それに、タトゥーを消すということは、客に経済的にも、肉体的にも大きな負担を強いることになる。それでも完全に消えなかったり、大きな傷痕が残ったりすることが多いのだ。傷は肌の上だけではなく、心にも残してしまう。
 間もなく卑美子が施術を終え、客を送り出してから、待合室に入ってきた。そして、新しい客を迎え入れた。さくらは卑美子に、これまでかかってきた電話の報告をした。埼玉県からのお客さんがあり、七月×日に仮予約を入れましたが、パソコンのメール添付ファイルで、希望の絵のイメージなどを送ってくれるそうです、ということも要領よく伝えた。卑美子はさくらの労をねぎらった。
 卑美子は自分の施術室に入る前に、美奈に会い、さくらの練習台として、肌を提供してくれることにお礼を言った。足の甲に描かれた下絵を見て、 「まあ、きれいに描けていますね。さすが漫画家を目指していただけあって、さくらは絵の基礎がしっかりできてるわ。デッサン力は、入門当時の私よりはるかに上だから、さくらなら、フリーハンドで下絵を描くアーティスト、なれそうね」 とさくらを褒めた。
 ようやく施術となった。さくらは施術中、CDラジカセでモーツァルトの『クラリネット協奏曲』や『フルートとハープのための協奏曲』をかけていた。さくらはロックなどが好きだが、タトゥーの施術中はバロックやモーツァルトなどのクラシック音楽のほうが落ち着くそうだ。
しばらくして、仕事を終えたトヨが、さくらの部屋に入ってきた。トヨは黒縁のメガネをかけている。
「あら、美奈さん、いらっしゃい」 とトヨは美奈に挨拶した。美奈も 「ご無沙汰しています。今日はさくらさんに許可が出たそうなので、さっそく彫ってもらいます」 と返事をした。
トヨはさくらが管理している日程表を受け取り、待合室に行った。先ほど彫り終えた客の次回の予約日を決めるためだ。卑美子とトヨの日程表は、予約の電話受付をする必要上、さくらが管理している。
次回の予約日を決め、客を送り出したトヨが、さくらの部屋に戻ってきた。
「ねえ、さくら。私、次の時間、空きだから、さくらが彫るところ、見せてもらっていい? それとも、私がいると、緊張しちゃうかしら?」 とトヨは尋ねた。
「かまわないですよ。午前中、先生に牡丹を彫ったときは、緊張しまくりましたから、それよりは楽です」
 正直に言うと、トヨがいると少し緊張するのだが、一人だけで彫るのも心細いので、トヨが見ていてくれるほうが心強かった。
 さくらは彫る前に、緊張を解いてリラックスするため、たばこを一本吸いたかった。以前、卑美子も施術の前後にたばこを吸っていた。しかし、卑美子は子供を産むことに備え、禁煙していた。だから、弟子であるトヨもさくらも、この際たばこをやめることにした。さくらにとって、禁煙はなかなか難しく、いらいらすると、つい甘いものに手が伸びてしまう。禁煙して少し体重が増えた、とさくらはぼやいていた。
 さくらは深呼吸をして、心を静めた。そして、卑美子の許可を得てから、初めての針を美奈の肌に下ろした。緊張していた割には、マシンはさくらの意思通りに動いてくれた。足の甲は皮膚が硬くて、彫りにくいところだが、美奈の肌は柔らかかった。さくらは慎重にマシンを運んだ。一時間近くかけて、筋彫りが完成した。卑美子やトヨなら、半分以下の時間で彫ってしまうだろう。
施術する場所が足の甲なので、施術台の上に横になるのではなく、体育座りのような格好になった。それで、美奈は自分の足の甲に施術される場面を、じかに見ることができた。
 しばらく休憩して、色を入れることになった。バラの色は赤からピンクへと、グラデーションをつけることにした。花びらの先端には白を入れる。陰になる部分は、黒の薄ぼかしを入れ、立体感をつける。ムラにならないよう、さくらは注意深く色をつけていった。
 色を入れているときに、携帯が鳴った。さくらが作業を中断して、電話に出ようとすると、 「私が出るから大丈夫。さくらは作業を続けて」 と、さくらの仕事である電話の応対を、トヨが代わってくれた。その後も二件電話があったが、トヨが出てくれた。
 仕事を終えた卑美子も、さくらの施術を見に来た。入れ替わりに、トヨが次の施術の準備のために、自分の部屋に戻った。四時間近くかけて、ようやく施術が終わった。身内の卑美子を除いて、初めて他人の肌に彫り、さくらは精根尽き果てた、という感じだった。
 時間はかかったが、出来映えは上々だった。
「この出来なら、プロとしてのデビューは近いでしょうね。ただし、もうちょっと早く彫れるようにならなければ。この程度の絵なら、二時間ぐらいで彫れないと、お客さんにも負担がかかるから。まあ、だんだん慣れて早くなるでしょうけどね」 と卑美子は評価した。
「私もさくらに何か彫ってもらおうかな」
自分の仕事を終え、さくらの出来映えを見に来たトヨも、練習として肌を提供することを申し出た。
 さくらが後片付けをすませると、卑美子が 「遅くなっちゃって、おなかが空いたわね。何か食べに行かない? 今日はさくらが初めて他人(ひと)に彫ったことを記念して、ご馳走してあげます。お寿司でもステーキでも、何でも好きなものをおごりますよ。美奈さんも一緒にどうぞ」 と誘った。それで、夜遅くまで営業している、栄の有名な寿司屋に行くことになった。もう一一時を回っていた。トヨが運転する、赤いキューブで移動した。トヨはキューブの四角張った独特のデザインを気に入っている。プロのタトゥーアーティストとして認められたことを記念して、今年の初めに買い換えた車だった。
足の甲にタトゥーを彫った美奈は、靴を履くと、足が痛くて、歩くのに苦労した。
 車の中で、美奈も新しくパッソを買ったことを、卑美子とトヨに伝えた。今日の昼間に契約し、来週納車です、と言った。しかし、車にまつわる因縁話はしなかった。そんなことを話せば、車に乗せたとき、いくら守護霊となってくれるといっても、人が死んだ車では、気味悪がられるだろうと思ったからだ。寺で生まれ育った美奈は、人の死と向き合うことも多く、あまり気にならなかった。
「パッソもかわいいデザインで、私は好きですよ。女性に人気がありますね」
トヨが美奈の新しい車の感想を述べた。
 有名店の寿司はおいしかった。食いしん坊のさくらが一番たくさん食べた。
「先生のおごりなんだから、少しは遠慮しなさいよ」
トヨがさくらに注意した。
「いいですよ、トヨ。今日はさくらの記念の日なんだから。たくさん食べさせてあげなさい」
卑美子は笑って応えた。
 仕事を終えた恵から、 「美奈、新しい車を買ったんだって? さくらも人に彫ってよいと許可が出たそうだけど」 とメールが入った。それで卑美子に了承を得て、美奈が恵に電話すると、 「抜け駆けはずるい。私もこれから合流するね」 と応対した。卑美子も 「メグさんもどうぞ」 と言ってくれたので、恵はびっくりした。恵は寿司屋にいるのは、さくらと美奈だけだと思っていた。これからすぐタクシーで向かいます、と言って、店の名前を尋ねた。
 しばらくして、恵がやってきた。
「すみません、遅い時間に押しかけてきて」
 恵は卑美子とトヨに謝った。
「いいえ。今日はさくらの記念日ですからね。私のおごりだから、メグさんも遠慮なく注文してください。メグさんもさくらの練習に付き合ってくれるそうだし」
 それから一時間ほど、歓談は続いた。トヨと美奈は運転があるので、酒は飲めなかったが、他の三人は軽くビールを飲んだ。
 タクシーで帰るという恵に、栄からならそれほど遠くないから、家まで送ってあげます、とトヨが申し出てくれた。
「ただ、後ろに三人乗ると、少し窮屈ですが」
「すみません。トヨさんに送らせてしまって。先生も帰宅が遅くなるのに」
恵は詫びた。
「かまいませんよ。遅くなるのはよくあることですから」
卑美子が応えた。
恵は別れ際に、 「明日、いやもう今日か。オアシスでさくらが足に彫ったタトゥー、見せてね」 と美奈に頼んだ。

『幻影2 荒原の墓標』第3回

2014-01-31 09:43:18 | 小説
 今日で1月も終わり。つい最近正月を迎えたばかりと思っていたのに、月日が経つのは本当に早いと思います。
 今回は『幻影2 荒原の墓標』の第3回目を掲載します。


            

 美奈の愛車、赤いメタリック塗装のミラは、まもなく車検だ。二年前、オアシスに入店してしばらくしてから、通勤用として買ったのだった。オアシスで閉店間際に客が入ると、店を上がるときには帰りの電車がなくなってしまう。美奈の家は、春日井市の高蔵寺ニュータウンの団地で、終電に乗り遅れると、帰るすべがない。タクシーを使えば、非常に高くつく。まだ勤め始めたばかりで、あまり指名もなく、収入も少なかったころだから、帰りのタクシーに一万円近い出費を費やす余裕はなかった。それで終電に乗り遅れたときは、葵や恵、さくらのマンションに泊めてもらっていた。しかし乗り遅れる都度泊めてもらうのも気が引けた。そのため通勤用に、中古の軽自動車を買ったのだった。

 今は車が大好きになったが、そのころはあまり車に関心がなかったので、ただ通勤用に走ればいい、ということで、総額で三〇万円以下だった中古のミラを買った。前の所有者が七万キロ近く乗り、美奈も買ってから二年弱で、すでに三万キロ以上走っている。通勤だけで往復五〇キロ以上になる。
 一回だけ車検を通し、あと二年乗ろうかなと思いながらも、公休日に家の近くの中古車店を覗いてみた。その中古車店は、数十台の中古車を揃えた、大きな店だった。今の美奈なら、新車でも買えるだけの経済力があるが、とりあえず近くの中古車店を見に行ったのだった。
 すると、何となく気になる車があった。まだ新車といってもいいトヨタのパッソが、車体価格わずか二四万八〇〇〇円となっている。車検が一年以上付いている。色はパールホワイトだ。明るいいい色だと思った。しかし、値段や色のことだけでなく、何となく引きつけられるようなものがあった。美奈が買わなければならないような、何かを感じた。
 美奈がその車の窓から内装などを見ていると、後ろから 「その車、とてもお買い得になっていますよ」と女性の声が聞こえた。
「確かにすごく安いと思いますが、まだ新しいのにこんなに安いということは、事故車なのですか? ほかの同じぐらいのグレードの車は、安くても四〇万以上の値が付いていますのに」 と美奈は尋ねた。需要が多いためか、軽自動車はさらに高価だった。
「いえ、事故車ではありませんよ。元オーナーの方が、とても安く売ってくれたので、この値段にできたのです。お買い得ですよ。まだ一年ちょっとしか乗っていませんし、走行距離も五〇〇〇キロほどです。丁寧に乗っていたので、傷みもほとんどありません」
 その女性販売員は、名刺を美奈に渡しながら言った。名刺には、丹羽敦子(にわあつこ)とあった。三〇代前半と思われる女性だった。
「でも、この車からは、なんか不思議な気を感じるのです。他の人が乗ると、大変な事故を起こしそうなので、私が買わなければならないような」
 美奈のその言葉に、丹羽はギクリとしたようだった。
「立ち話も何ですので、ちょっとお店の中に入られませんか?」 と丹羽は勧めた。
 店の中で、きれいな応接セットに案内された。丹羽はコーヒーを出してくれた。
「木原様は、今お車を探してみえるのですね」
 丹羽は美奈の名前を聞き出し、姓で言った。
「はい。今乗っている車が、まもなく車検だし、もう一〇万キロ走っているので、もう一回車検を通そうか、それとも買い換えようかと迷っています。軽で燃費はいいけど、何人か乗せて走ると、ちょっと狭いし、パワー不足も感じますし。いい車があれば、買い換えようかとも考えています」
「今日はお車でみえたのですか?」
「いえ、この近くなので、歩いてきました」
「そうですか。お車だったら、拝見したかったのですが。わたくし、二級整備士の資格を持っていますから。一度、お見せいただけたら、買い換えるべきか、もう一回車検を通すべきか、アドバイスもできますよ。さっきのパッソは特別ですが、それ以外にも、お値打ちな車をたくさん揃えてございます」
「はい。それでは、一度車を持ってきます。でも、さっきのパッソ、何となく気にかかるのです。さっきも言いましたが、他の人が乗ると、事故を起こしそうなんです。こんなこと言っては申し訳ないのですが」
 美奈は浄土真宗のある宗派の寺で生まれ育った。とはいえ、特に霊感が鋭いということはなかった。最近、ある事件にかかわったことが契機となり、その事件の被害者の霊が美奈の守護霊となった。その守護霊の名は千尋という。そのような気配を感じるのは、もしかすると千尋からのメッセージなのかもしれない。
「木原様は霊感が強い方のようですね。正直に申しますと、あの車の前のオーナーの方は、車の中で亡くなったのです。でも病気で亡くなったのであり、決して事故は起こしていません。運転中に心臓発作を起こし、車を安全に路肩に停め、そのあとで亡くなったのです。ちょうど高校生の娘さんが同乗しており、車を停めたあと、携帯で救急車を呼んだのですが、間に合いませんでした。それであのような価格で売り出したのです。もちろん車の中は、きれいに清掃してあります。でもその話をすると、気味悪がられて、なかなか買い手がつかなかったのです」
 丹羽はそのような説明をした。すると、美奈の心の中に、 「美奈さん、あの車を買ってください。もし、他の人が買えば、前のオーナーの憑依(ひようい)により、必ず大事故を起こします」 という声が聞こえた。
「千尋さんですね。でも、私があの車に乗って、大丈夫なのですか?」
 美奈は心の中で尋ねた。
「はい、美奈さんなら大丈夫です。亡くなった女性はこの世に未練を残し、霊界で救われていないため、あの車に乗った人に救いを求めます。しかし、救いを求められた人は、十分にその意図を受け止めることができず、重圧に負けて大きな事故を起こしてしまうのです。でも、美奈さんなら大丈夫です。それほど凶悪な霊ではないので、私がその霊を説得、浄化し、美奈さんを交通事故から守る、あの車の守護霊にしてあげられます」
 美奈は瞬時にそれだけのことを聞いた。丹羽は、中空を見ながら何かと話をしているような美奈に驚いていた。
「あの車、買います」 と美奈は決断した。
 その日のうちに美奈は契約をした。ETCとカーナビをつけてもらうことにした。支払いは全額現金だ。今乗っているミラの下取り価格の見積もりをした上で、支払いをすることとし、手付け金として、二万円を置いてきた。明日、住民票等必要書類を持参することとなった。オアシスでの仕事は午後からなので、午前中に役所に行ける。団地のすぐ近くに、春日井市役所の出先機関がある。車庫証明などの手続きも簡単だ。丹羽に勧められ、防錆処理やボディーのコーティングなどのオプションも頼んだので、納車は一週間後となった。丹羽敦子は 「これからも末永くお付き合いをお願いします」 と言った。