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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影2 荒原の墓標』第2回

2014-01-24 10:33:57 | 小説
 昨日、お米を買いに行ったら、アメリカカリフォルニア産の米が非常に安く売っていました。
 大丈夫かな、と少し不安を抱きながらも、一度試してみようと買ってみました。
 今朝、さっそく炊いて食べてみました。私は柔らかいご飯より、多少歯ごたえがあるものが好きなので、いつもより若干水を少なめにして炊きました。
 それでも炊きあがりはダラッとした感じでしたが、まずいというほどではありませんでした。
 値段を考えれば、なんとか及第点かなと思いました

 今回は『幻影2 荒原の墓標』第2回目を掲載します。


       第一章 墜ちた鳳凰

            1

「はい、ミクちゃん、またご指名だよ。少し休んで、三〇分後に高村(こうむら)さん」
 オアシスのナンバーワンコンパニオンのミクは、客を送り出すと、フロントの沢村にそう声をかけられた。最近は接待が終わるとすぐまた次の指名があり、なかなか身体も心も休まらない。これもナンバーワンコンパニオンの宿命なので、仕方がない。
 ミクは名古屋市中村区にあるソープランド、オアシスの売れっ子コンパニオンだ。背中一面に美しい騎龍観音のタトゥー、腕や太股などにも牡丹の花や蝶が入っている。ミクにとって、全身のタトゥーはトレードマークになっている。

 ミク――本名木原美奈――は、オアシスにもう二年以上勤めている。つい最近、親しくしていた同僚のミドリ、ルミが退職し、少し寂しい思いをしている。ケイを加えた四人娘は、常にオアシスの人気の上位を占め、一生変わらぬ友情を誓い合っていた。しかし、そのうち二人が先月末でオアシスを退職した。
 ミドリは結婚し、新しい生活を始めるため、故郷の静岡に帰っていった。ルミはタトゥーアーティスト、さくらとして、新しいスタートを切る。
 四人は生涯の友情を誓い合うため、マーガレットのタトゥーを入れた。花言葉は 「真実の友情」 だ。最初はケイ、さくら、美奈と、タトゥーアーティストのトヨの四人が入れた。そのときは、ミドリは婚約者の手前、入れることはできなかった。だが、静岡に行くミドリは、みんなと離れるのが寂しく、ぜひとも一生消えない友情の印として、一つだけ、マーガレットのタトゥーを入れたいと婚約者の中村秀樹を説得し、退職前にトヨに彫ってもらった。
秀樹も 「君一人だけに痛い思いをさせられない」 と名古屋までやってきて、ミドリと同じ場所、右の脇腹に紫紺の牡丹の花を入れた。マーガレットはいかにも少女趣味だと言って、牡丹にしたのだった。そのとき初めて、美奈たちはミドリの婚約者に会った。眉目秀麗な美男子とはいえないまでも、優しく、誠実そうな人柄が感じられた。秀樹に牡丹を入れたのは、トヨではなく、師匠の卑美子だった。卑美子とトヨの施術室は別々だが、そのときは卑美子の計らいで、トヨの施術室で、二人同時に施術を行ったのだった。
 ミドリが右の脇腹にしたのは、美奈がマーガレットを入れた場所と同じだからだ。それに脇腹なら、ワンピースタイプの水着で隠せるので、子供が生まれても、プールや海に一緒に入ることができる。ただ、脇腹は痛みが激しく、タトゥーの施術のとき、ミドリは歯を食いしばって苦痛に耐えたのだった。
ケイとさくらは、マーガレットのタトゥーを、左の太股に入れている。トヨはタトゥーの練習のため、自分で自分の手足に彫り、身体のあちこちがタトゥーで埋まっているため、まだ何も彫らずに残っていた右の太股に入れた。トヨは自分自身でマーガレットを彫った。美奈はすでに左右の太股に、牡丹の花が入っていたので、まだ空いている脇腹に彫ったのだった。
 六月にミドリは結婚式を挙げる。ジューンブライドだ。マーガレットの花を入れた四人と卑美子は、結婚式に招待されている。美奈はミドリ――今では本名で葵と呼んでいる――に会うのを楽しみにしている。

 最近、高村がミクの常連になった。本人は高村と名乗っているが、ミクは彼が北村弘樹という作家であることを知っていた。しかし、ミクのほうからはいっさいそのことを言い出さなかった。客のプライバシーに触れないのは、プロのコンパニオンとして、当然のことだった。
 去年の一〇月下旬、初めて北村から指名を受けたミクは、どこかで見たことがある人だ、と薄い記憶があった。しかし、そのときは誰だったか思い出せなかった。客のことをあれこれ詮索するのはよくないと思い直し、ミクはサービスに努めた。
 北村は東京に転居する以前に、オアシスには何度か来店したことがある。もう五年以上も前のことだ。久しぶりにオアシスに来たのは、自殺を決行しようとした前日だった。自分へのこの世との餞別のつもりで、最後に女を抱こうと思い、北村はオアシスに足を運んだ。以前よく指名したコンパニオンは、とうに店を辞めていた。店頭に置いてあるアルバムを見て、ミクの華麗なタトゥーに目を奪われ、ミクを指名したのだった。人生の最後に抱くのなら、全身を美しく飾った女性がふさわしいと思ったからだ。ふだんなら、前もって予約をしなければ、ナンバーワンの売れっ子、ミクが空いていることはめったにないのだが、そのときはたまたま空いていた。
 北村はミクの心づくしの応対に満足し、帰っていった。この世の最後の思い出だ。もう二度と女性を抱くことはない。
 その翌日に北村は南木曽岳の中腹で自殺を試みた。だが、不思議な声のおかげで、北村はもう一度やり直すことを決意した。
 ミクのことが忘れられない北村は、ミクの常連客となった。
 その後、ミクは殺人事件の容疑者ということで、週刊誌を賑わしたことがあった。ミクと付き合っていた男が殺害された事件だった。警察がミクのアリバイは成立していると断定したにもかかわらず、全身タトゥーのソープレディーという話題性につけ込んだ一部のマスコミは、あることないことを週刊誌や娯楽夕刊紙などに書き立てた。この件では、ミクは非常に辛い思いをした。
 ミクに同情しながらも、その事件に北村は興味を持ち、事件に対し、いろいろな推理を話して聞かせた。そのとき、ミクは彼が、かつて推理小説作家として、話題をさらっていた北村弘樹だということを思い出した。だがミクはあえてそのことには触れなかった。客のプライバシーはいっさい詮索しないというのが、コンパニオンとしてのマナーだった。

 それからしばらくして、北村弘樹は一冊のミステリーを自費出版で発表した。北村はかつて築いた人脈を利用し、多くの知人にその本を贈呈した。それが何人かの評論家の目にとまり、鬼才の復活ということで、話題になった。これまで全く忘れられていた作家だったが、鬼才の復活と宣言するに値する、優れた作品だと評価された。こうして彼は、文壇に復帰した。

「ミクさん、久しぶりですね」
 個室に入ると、高村と名乗っている北村が、声をかけた。
「そうですね。この前見えたのは、私が殺人犯だと嫌疑をかけられていたころだったので、もう一ヶ月以上お会いしてないですね。あのときは、いろいろご高説を拝聴させていただきました」
「あれからいろいろあって、忙しくてね。ところで、ミクさん、ひょっとして僕のこと、知っているんじゃないですか?」
「え、何のことですか? 私が高村さんのこと、存じ上げているって」
 ミクはあえて知らないふりをした。
「いや、ミクさんなら、きっと僕の正体に気づいているでしょう。ミクさんも推理小説ファンだと言ってましたからね。この前は森村誠一先生や内田康夫先生の大ファンだと聞きましたが、北村弘樹はご存じですか?」
 ここまで言われれば、もうとぼける必要はないと思い、ミクは 「はい、五年ほど前、『幻想交響曲』という作品でデビューされて、最近また新しいご本が話題になってますね。実は、高村さんのこと、どこかでお目にかかったことがあるかしらと思っていましたが、この前、いろいろな推理を聞かせていただいて、先生のことを思い出しました」 と応えた。
デビュー作はベルリオーズの幻想交響曲をモチーフとした、覚醒剤と幻覚を絡ませた印象深い作品だった。テレビドラマ化されたときは、原作のイメージ通りに、効果的に幻想交響曲のいくつかの楽章が、BGMとして挿入されていた。
「ははは。やはり気づかれていましたか。でも、ミクさんならほかでべらべらしゃべったりしないと信じてますので、僕も安心しています」
「はい。お客様のプライバシーについては、決して口外いたしません。コンパニオンには、医者や弁護士のような守秘義務があるわけではありませんが、お客様のプライバシーを口外しないのは、当然のマナーですから」
「僕は新しい作品で、タトゥーがある女性を重要人物として登場させましたが、ミクさんを無断でモデルにさせていただきました。でも、殺される役にしてしまい、どうもすみませんでした」
「私の先輩があの作品を読んで、『この人、ミクみたい』と言っていました」
 ミクこと美奈は高村が北村弘樹と気づき、最近新しい本を出したので、さっそく読んでみた。登場人物の、背中に鳳凰を彫った久美という女性は、自分をモデルにしているのだな、ということに気づいた。親友の恵(めぐみ)――オアシスでの源氏名はケイ――が、美奈が読んでいる本を見て、 「あ、この本、今話題になってる本ね。読んだら、私にも貸して」 と言った。そして、本を読み終えた恵が、登場人物が美奈にそっくりだと気がついた。名前もミクを逆にして“久美”。ただ恵は、ある事件で美奈のことが週刊誌などで報道されたので、それでモデルにされたのだなと思っているようだった。その作品が、事件が起きる以前に書き上げられていたことに、恵は気づいていなかった。
「いや、ほんとにすみません。モデルにするのなら、やはり事前に許可を取るべきだったかもしれません。でも、自分が作家だなんて、ちょっと言いにくかったもんで。作品のモデルにするつもりで、取材として、タトゥーを彫るときの様子もいろいろ訊いてしまいました」
「いえ、気になさらなくてもけっこうですわ。私は何とも思っていませんから。先輩も、週刊誌などに出てしまったから、それでモデルにされたと思っています。私のお客様が書いただなんて、全然気づいていませんから」
 ミクは微笑みながら言った。
「ところで、高村さんは、作家として復帰なさったら、また東京のほうに行かれるんですか? 以前は東京にお住まいだったそうですが」
「いや、やはり住み慣れた名古屋がいいので、当分はこっちにいるつもりです。今は東京にいなくても、パソコンメールなどで簡単に原稿が送れる時代ですから。でも、なぜ?」
「いえ、高村さんが東京に行かれたら、もう会えなくなると思いまして」
「大丈夫ですよ。これからもときどき、会いに来ますから。でも、僕も少し顔を知られちゃったので、これからは変装してこなくては。やはり作家がソープランドに出入りしてる、なんてすっぱ抜かれてはいやですから。ところで、もう本名を知られてしまったけど、ここでは高村にしといてください」
 ミクはいろいろな話をしながら、北村の身体を洗ったり、本番のサービスをしたりした。この仕事に就いて、もう二年以上が経ち、ミクの仕事ぶりは堂に入ったものだ。オアシスのナンバーワンを張るのに恥じないものだった。

 美奈は北村に会ったことにより、自分も小説家を目指してみようと思った。美奈は高校生のころ、作家になりたいという夢を持っていた。作品もいくつか書いた。だが両親の死もあり、高校を卒業すると、大学への進学を諦め、OA機器を扱う商社に入社した。さらにはタトゥーを入れる資金を貯めるために、ソープランドのコンパニオンとなり、小説を書くどころではなかった。
 しかし、ソープランドのコンパニオンをしていられるのも、若いうちだけだ。その気になれば三〇歳を超えてもできる仕事ではあるが、美奈としてはそういつまでも続けるものではないと思っている。コンパニオンを辞めたときのために、何か自分の特性を活かせる仕事を見つけておきたいと考えていた。
 けれども、ほとんど全身にタトゥーを入れてしまった今、なかなか美奈を雇ってくれる会社がなかった。美奈は最近公休日に、いくつかの会社の面接を受けてみたが、大きなタトゥーがあるとわかった段階で、すべて断られていた。美奈は採用決定後にタトゥーがあることを知られ、トラブルになるのがいやなので、面接の際、事前にタトゥーがあることを申告していた。中には、事件で週刊誌に書き立てられてしまったので、美奈のことを知っている面接官もいた。やはり当分はオアシスで頑張るしかないと思った。
 店長からも、ミドリ、ルミという貴重な戦力が退職してしまったので、ケイ、ミクにはさらに頑張ってほしいと期待されている。最近オアシスにも新しい若い娘(こ)が何人も入店し、新陳代謝も激しいが、やはりケイ、ミクは得がたい人材だった。
 それで、しばらくは今の仕事を続けながら、小説を書いていこうと思った。すぐに小説が売れなくても、当座の生活には困らない。まずは、自分が巻き込まれた殺人事件をモチーフにして、創作をしてみるつもりだ。ペンネームは、オアシスでの源氏名、ミクをそのまま使い、木原未来(みく)にした。ソープレディーとしての名を使うことに抵抗はあったが、葵、恵、さくらという生涯の友に巡り会った、出会いの場を大切にしたいという思いがあった。“未来(みらい)”という字も、希望に満ちているようで、気に入っていた。
 作家になろうという希望を親友の三人に話したら、大賛成してくれた。
「美奈は才能があるから、いつかきっとデビューできるよ」 と三人は美奈を励ました。
 葵が静岡に帰ってからも、毎日のようにメールのやりとりをしている。葵は早くいい作品を書いてデビューできるよう、祈っているよ、と言ってくれる。
 さらに美奈の守護霊となっている千尋からも、それはとてもいいことだから、ぜひおやりなさい、というメッセージがあった。
 北村と出会ったことが、美奈に一大決心をさせたのだった。


『幻影2 荒原の墓標』第1回

2014-01-16 12:40:08 | 小説
 新しい年になり、はや半月が過ぎました。
 地球が温暖化しているといいながら、今年は寒い日が続きます。
 厳寒も温暖化の影響ともいいますが。
 今年は『幻影2 荒原の墓標』を掲載します。本を出版したときから、さらに文章や内容を見直し、加筆や修正をしたので、一部単行本とは違った表現があります。
 もし興味を持っていただければ、本を読んでくださると嬉しいですが。

 
        プロローグ

 男は死ぬ気だった。
 かつては大型新人、新しい推理小説の旗手ともてはやされ、華々しくデビューしたのに、最近は全く書けなくなってしまった。何とか書き上げた作品も、評論家にこき下ろされ、ファンからも愛想を尽かされた。
 最初のうちこそ、自分で何も書けないくせに、他人の作品をけなすことしか知らない評論家に、俺の真価がわかってたまるか、と強がっていたのだが、ファンから見放され、新作を出しても、販売冊数が激減したのは響いた。
 最近ではアイディアが浮かばず、作品が書けなくなった。書き出しさえ何とかなれば、あとはうまく展開させることができるだろう、と書き始めても、途中で続かなくなってしまう。
 出版社からの注文にも応じられず、せっかく依頼が来ても途中でキャンセルすることが続いた。もはや推理作家、北村弘樹の名は、文壇から葬り去られてしまったかの感がある。

 北村は東京で借りていたマンションを解約し、名古屋の実家に戻った。家賃も大きな負担になっていたのだ。死ぬのなら故郷の名古屋の近くでと思い、以前、よく登った南木曽岳(なぎそだけ)に来た。
 中央本線で南木曽まで行き、読書(よみかき)小学校、等覚寺(とうがくじ)の前を通り、 上の原から南木曽岳登山道に入った。名古屋を発ったのが午後になってからで、南木曽駅に着いたのは、午後二時近かった。山に登るには遅すぎる時間だ。
「これから登るのですか? もう遅い時間ですが、大丈夫ですか?」
登山道の途中で出会った下山者に不審がられ、声をかけられた。
「はい。ちょっとそのへんを歩くだけで、すぐ戻りますから」
北村はこのように応えておいた。
この辺りは広大な森林に覆われている。北村は、ある程度の高度まで登ったところで、森林の奥深くに入り込み、そこで睡眠薬を飲むつもりだった。山ではもう晩秋といってもいい時季で、夜はかなり冷え込む。睡眠薬と寒さの相乗効果で、確実に死ねると思った。
 北村は“巨大樹の森”と呼ばれる、標高一三〇〇メートルほどの、ブナやカシ、ミズナラなどの巨木が林立する辺りから、登山道を逸れて、斜面を下った。人知れず巨木の森の中で、自らの命を絶つつもりだった。

  
 巨大樹の森 女型の巨人が出てきそうです?(笑)


 もう時刻は午後四時を回り、釣瓶落(つるべお)としの秋の日は、夕暮れが迫りつつあった。特に深い山の中では、日が陰るのが早かった。
 ずいぶん森の中を歩き回った。もうすっかり暗くなり、ヘッドランプがなければ辺りが全く見えなかった。
「もうこの辺りでいいか」
 北村は呟いた。あまり登山道から逸れても、自分の遺体の発見が遅くなってしまうだろう。自宅の部屋には両親宛の遺書を遺しておいた。遺書には南木曽岳で自殺する旨を書き残した。今日は友人の家に泊まると言っておいたが、二、三日も戻らなければ、両親は机の上に置いてある遺書を発見するだろう。そのときのために、あまり奥深く入り込まないほうがいい。今夜さえ発見されなければいいのだ。
日が沈み、ずいぶん寒くなった。彼はフリースのジャケットを羽織った。
「これから死のうというのに、寒くてジャケットを着るとはな」
 北村は自嘲した。
「俺の命もあと数時間。生涯最後のひとときを大事に過ごそう」
 そう言って、北村は麓のスーパーで買った弁当と酒を取り出した。暗いので、キャンドルに火を点けた。幸い風がなく、キャンドルの火は安定していた。
「これが最後の晩餐か。それにしては、しけてやがるな。まあ、人生最後の食事だから、味わって食べるとするか」
 北村は紙パックの日本酒の封を開け、プラスチックカップに注(つ)いだ。弁当と酒を、時間をかけ、じっくり味わった。食べ終わると、酒の酔いも回り、しばらくぼんやりしていた。猛烈な寒気が襲ってきた。
「では、この辺りで始末をつけるか。自分の人生は、いったい何だったのかな。せっかく公務員としてそれなりにやってきたのに、なまじ書いた小説が新人賞の次点となり、注目されたのがいかんかったのか。結局それで天狗になってしまい、人生を棒に振ってしまったのだ。しかしまあ、三五年の人生で、いろいろな体験もでき、それなりによかったのかもしれん」
 北村は五年前、三〇歳のときに書いた推理小説を、ある文芸誌の新人賞に応募した。初めて投稿した作品が、奇抜なトリックと怪奇な作風で最後まで最優秀新人賞を争った。結局次点だったが、選者によっては、受賞作より高く評価された。その作品が単行本として出版され、新人ながらベストセラーとなった。北村は両親の反対を押し切り、地味な公務員を退職して上京した。
 矢継ぎ早に出版した二作目、三作目も高く評価され、大型新人として一躍文壇の寵児ともてはやされた。さらに発表した作品も好意を持って迎えられた。しかし、幸運もそれまでだった。八作目以降は、それまでのトリックの切れ味がなくなり、アリバイ崩しも陳腐なものとなった。また、殺人手段として、呪いの藁人形を使ったことが顰蹙(ひんしゅく)を買った。ホラー小説ならまだしも、いくらオカルトふうな作風に仕立てても、呪いを推理ものに使ったことはまずかった。作中で、人間の強い念は、人を斃(たお)すほどの力がある、と説明しても、受け入れてもらえなかった。そして、犯人は、人を呪わば穴二つという諺(ことわざ)の通りに、自滅してしまうのだが、それも安易に過ぎると批判された。
 推理小説のトリックには、双子、秘密の通路、超自然現象や超能力などは禁じ手とされている。人気アニメの主人公のように、瞬間移動ができれば、どんなアリバイでも可能になってしまう。
 それでも最初の勢いだけで、何とか売り上げは維持できた。だが、いつまでも過去の遺産、燃え残った燠(おき)でやっていけるような、甘い世界ではなかった。
 やがては読者からもそっぽを向かれ、本の売り上げも激減した。六作目まではベストセラーとなり、印税も以前の公務員の年収以上であった。だが、その勢いがこれからもずっと続くものという幻想を抱いていた北村は、収入を蓄えようとはせず、かなり贅沢をした。
 作家デビューから五年、今ではすっかり名前も忘れられてしまった。そういえば、そんな作家もいたね、と本人を目の前にして残酷に言われ、北村は生きていく気力を失った。
 メンタルクリニックでは、軽い鬱病と診断された。夜眠れないからと処方してもらった睡眠薬も致死量以上に溜まったので、睡眠薬自殺をすることにした。どうせ死ぬなら、東京のマンションより、故郷の近くで、何度も登り、お気に入りの南木曽岳で死のうと考えた。最後に両親の顔を見たいと思い、少し前に実家に戻ったのだった。
 夜も更けて、気温がぐんと下がってきた。フリースのジャケットでは、もはや寒さに耐えられなくなった。キャンドルもまもなく燃え尽きる。では、そろそろ睡眠薬を飲み、永遠に目覚めることのない眠りに就こうかと思った。
 北村は用意したペットボトルのグレープの果汁飲料で、大量の睡眠薬を飲もうとした。
 いざ睡眠薬を口に含もうとしたとき、頭の中に、 「死ぬのはやめろ。おまえには輝かしい未来がある。こんなところで死んではいけない」 という男の声が響いた。
「誰だ? 誰かいるのか?」
 北村は叫んだ。こんな山奥の森の中に、しかももう夜の一〇時近い時間に人がいるわけがない。登山道からかなり離れているはずなのだ。それにその声は、耳に入ってきた音声ではなく、直接頭か心に響いてきたような気がする。
「もう一度言う。死ぬな。おまえにはまた作家として、輝かしい未来が再び訪れるのだ。夜が明けたら、山を下り、もう一度やり直せ」
 この声は人間のものではない。直接俺の頭の中に聞こえてくる。北村はこう判断した。
 ひょっとしたら、これは俺の守護霊の声なのではないか? 自殺しようとしている俺を救おうとする、守護霊なのではないか?
 北村は作品の中では、霊的な現象を取り扱っているとはいえ、それはあくまで作品上のことであり、霊の存在を積極的に信じているわけではなかった。作品を書く必要上、心霊学の本はよく読んだ。しかし常識的、科学的に考えれば、霊とか死後の世界は否定すべきではないか、というスタンスを取っている。
だから守護霊がいる、ということは信じていなかった。ある種の書物によれば、人は生まれたときから、誰もが守護霊を持っている、という。また、強力な守護霊が主人公を数々の危難から守る、という漫画を子供のころに読んだことがある。それでも彼は守護霊の存在を確信できずにいる。しかも自分に守護霊が付いているなんて、とても信じられなかった。守護霊がいるのなら、なぜ俺はこんなに落ちぶれたのだ?
 高額な御供養料を払えば、守護霊を授けてくれるという、大きな教団もあるが、そんなものはインチキだと北村は思っていた。彼は作家として人気が凋落したころ、その教団の信者である知人から、御守護霊様をいただけば、また作家としての栄光を取り戻すことができるので、入信しないか、と“お導き”を受けたことがある。そのとき北村は、そんないかさまみたいな宗教は信じられないと、知人を一蹴した。
 しかし、 「死ぬな」 という声は、ひょっとしたら守護霊の声なのではないかと思えた。耳に届いた声ではなく、テレパシーのように、直接頭に響く声。人間であるはずがない。そうでなければ、山奥に棲むキツネかタヌキの霊なのか?
 それとも本能的に死を恐れる自分の心が作り出した、幻覚のようなものなのかもしれない。それが一番合理的な解釈かと北村は考えた。
 とにかく北村は、もう死ぬ気を失っていた。両親の顔が脳裏に浮かんだ。両親を悲しませないためにも、もう一度頑張ってみよう。声が言うように、やり直してみよう。死ぬのはいつでもできるのだ。
何とか夜中の寒さをしのぎ、北村は翌朝、無事に下山した。


『ミッキ』最終回

2013-11-12 11:03:34 | 小説
 最近寒くなり、昨夜は毛布を1枚重ねましたが、それでも寒く感じました。
 昨日から咳き込むようになったので、風邪を引いたようです。

 今回はいよいよ『ミッキ』最終回です。長い間、読んでくださり、ありがとうございました。


     エピローグ

 私は目を覚ました。伊勢市内の病院の一室だった。もう夜になっていた。母と伯母、慎二がいた。そして松本さんと河村さんも。私には何が何だかわからなかった。
 母は伊勢市の警察署から、私が交通事故に遭ったという連絡を受け、驚いて駆けつけてきたそうだ。寮の仕事はパートの山川さんたちにお願いしてきた。名古屋支社からも応援が来ている。
「あんな猛スピードで突っ込んだのに、よく軽い打撲とかすり傷程度ですんだもんだな。車の前はぺしゃんこだったからな」
 松本さんが驚いていた。そう言われて、少し思い出してきた。若林さんの車に乗せられ、県道を走っていたら、運転をしていた若林さんが急に苦しみだしたのだ。そして、私は怖くて、一心に光のお御霊に祈った。そのあと、大音響がして、何もわからなくなった。
「若林さんは?」
「若林さんと鈴木さんは亡くなったわ。いくら拉致をしたとはいえ、最後はあまりに悲惨だった」
 河村さんが目に涙を溜めて言った。
「今、波多野さんと大井さんは警察に行っている。事故の目撃者として」
「そうなの、二人は亡くなったの?」と言いながらも、私の頭は混乱して、まだ事態を十分に理解できなかった。事を認識できるようになったら、たぶんじわじわと悲しみが押し寄せてくるだろう。いくら私を拉致監禁した人たちとはいえ、心霊会の先達として、深い関係を持った人たちだったから。それに、鈴木さんとは同じ寮に住んでいたのだし。
 若林さんは即死だったが、鈴木さんは事故の直後はまだ意識があったそうだ。運転中、若林さんは急に頭が痛いと苦しみだしたと証言した。若林さんはくも膜下出血だった。
 私はジョンが来た日に、パートのおばさんが「あんたたちだって、いつかはくそばばあになるんだよ」と鈴木さんたちに言っていたことを思い出した。鈴木さんはお婆さんになるどころか、二二歳の若さで命を散らしてしまったのだ。
 セレナに激突された軽トラックは、荷物の積み降ろしの最中で、ちょうど運転手がトラックから離れており、事故に巻き込まれなかったのは、不幸中の幸いだった。
 河村さんは、二人が亡くなった責任の一端は自分たちにあるのではないか、と悩んでいた。くも膜下出血で倒れた若林さんはともかく、鈴木さんは河村さんたちが訪れさえしなければ、自動車事故で死なずにすんだのだ。若林さんにしても、スピードオーバーで車を運転するという強い緊張感に苛まれなければ、くも膜下出血を起こさなかったかもしれない。
 松本さんは「これも運命だったのだから、彩花が気にすることはない。それにもし俺たちが行かなければ、ミッキが大変なことになっていたかもしれないんだから」と河村さんを元気づけた。松本さんの心がこもった慰めが、河村さんの沈んだ心をいくぶんか軽くした。
「私はとっさに光のお御霊に祈ったんで、助かったんだ」
 私は光のお御霊に改めて感謝した。
「そうよね。こんなこと言っては不謹慎かもしれないけど、二人は助からなかったのに、ミッキだけ軽い怪我ですんだのは、光のお御霊のおかげだわ。本当に奇跡としか、言いようがない」
「お父さんね、もう意識も回復して、早く美咲に会いたがってるよ。夢の中で、美咲が輝く光という字から、まばゆい光を送ってくれた、と言っていたけど、やっぱりお札の力、すごいんだね。心配していた後遺症も大丈夫みたい。彩花ちゃん、お札、本当にありがとう。私もお札の力、信じてる」
 母は涙を流しながら、河村さんにお礼を言った。
「いえ、私の力じゃありません。光のお御霊の力です」
 河村さんも泣いていた。
「それから、今回はジョンもお手柄でした。ジョンにもご褒美で、おいしいものをたくさん食べさせてあげてくださいね」
 松本さんはジョンへの賞賛も忘れなかった。
「そういえば、ジョンは?」と私は母に尋ねた。
「ジョンは大活躍で疲れたのか、大井さんの車の中で、気持ちよさそうに眠ってるわ。残念ながら、ジョンは病室には連れてこられないし。ジョンがミッキの匂いを嗅ぎつけて、私たちにあの道場の中にミッキがいることを教えてくれたの」
 河村さんが母に代わって答えてくれた。
「匂いといえば、私、ずっとお風呂に入ってないので、臭くない? ずっと着替えもしてないし。いやだ、松本さんの前で、恥ずかしい」
 私がこう言って布団の中に顔を隠したので、みんな大笑いをした。

 父が階段から滑り落ちて、瀕死の重傷を負ったのは、酒井愛美さんの細工のせいだった。鈴木さん、酒井さん、永井さんの三人組は、父か母に怪我をさせて、私が退転した罰だと脅そうと計画した。それで、酒井さんが大学を休んで、階段に滑りやすくなるようにワックスを塗ったのだそうだ。せいぜい足を滑らせて、捻挫か軽い骨折をさせる程度のつもりだったのが、あのような惨事になってしまった。酒井さんは自分がしでかしたことの罪の大きさに、怯えていたそうだ。いくら若林さんや鈴木さんに、心霊会のためにしたことだから、徳を積みこそすれ、罪の意識に苛まれる必要はない、と言われても、心安らかではいられなかった。
 そして、突然の若林さんと鈴木さんの死。多大な御守護をいただいているはずの法座長と班長が、なぜあんな酸鼻を極めた最期を遂げなければならなかったのか? 心霊会で説かれているような、安らかな臨終とはとても思えなかった。同じ車に乗っていて、退転していたはずの私が軽い打撲やかすり傷程度ですんだのに。
 そう思うと、恐ろしくなり、酒井さんは母に自分がやったことを告白した。母は「私は酒井さん個人を咎めないけど、でもやってしまった罪は罪として、償ってもらわなければなりません。酒井さんももう責任ある二〇歳(はたち)の大人なんだから」と諭した。それで母と、元教師の伯母に付き添われて、春日井市の篠木署に出頭した。酒井さんは傷害罪もしくは殺人未遂罪を問われたが、父が死んでもかまわない、という未必の故意(殺意)まではなかったとされ、傷害罪で起訴されるようだ。母は、父は助かったことだし、酒井さんは非常に改悛しているので、罪を軽減してくれるように訴えた。自首が認められたことでもあり、おそらく執行猶予がつくだろう。
 また、永井さんも鈴木さんと三人で共謀したとして、共謀共同正犯で事情聴取された。気が弱い永井さんは、「それではやり過ぎよ」と言って、この計画には最初からあまり乗り気ではなかったと酒井さんが証言した。永井さんはたぶん罪を問われることはないだろう。
 平田信子さんと彼女の導きの子たちは、心霊会を脱退した。寮にいた信者も全員脱会した。
 死者二人を出した妙法心霊会の事件は、日本でも有数の大教団が起こした女子高校生拉致監禁事件として、全国的に報道された。そして、宗教のあり方がまた問題視された。かつての某宗教団体によるテロ事件以来、宗教関係の事件は、マスコミでよくクローズアップされる。私は未成年なので匿名で報道されたが、若林さんと鈴木さんは拉致監禁をしたとして、一部の報道で、顔写真まで出てしまった。宗教教団によるマインドコントロール、洗脳だとして、話題にもなった。
 妙法心霊会は、今回の事件は一部の信者が勝手に暴走したものであり、教団としては、いっさい関知していない、とのコメントを発表した。だが、本部直轄の施設である鍛錬道場の使用を許可したことで、教団本部が関与をしていない、という言い分は通らず、教団としては苦しい立場に追い込まれた。教団のために殉じた人に対し、むち打つような冷たい本部の態度に不満を持った幹部が、内部告発をしたのだ。
 若林さんのご主人は、『心霊会に家庭を破壊された』という手記を、週刊誌を通して発表した。家族全員が心霊会の会員ではあったが、家庭を顧みず、宗教活動にのめり込んでいた若林貴美子さんのことを、家族は快く思っていなかった。毎年一〇〇万円近いお金をご供養金としてつぎ込み、経済的にも大変な負担だった。心霊会は先祖供養を説き、一家和楽を主張しているはずなのに、若林さんの家庭は、崩壊寸前だったそうだ。
 しばらくはテレビや新聞、雑誌記者などの取材が続き、私は落ち着かなかった。乗っていた車が大破する大事故だったにもかかわらず、私はほとんど無傷の状態だったことも、奇跡として報道の対象となった。ジョンは主人の窮地を救った忠犬として紹介された。
 宏美が、大捕物のとき現場にいなかったことが残念だとぼやいた。宏美もその場を見たかったそうだ。宏美はそのころ、合唱部の文化祭の準備、練習で大忙しだった。でも、一歩間違えば、大怪我をしていたかもしれなかった。みんな軽傷ですんだのは幸いだった。大井さんは大男との格闘により、打撲傷や首、肘の関節への軽い怪我を負っていた。
 慎二は私を連れ戻すときに大活躍をした大井さんのことを、兄貴と呼んで慕っている。脚が快復すれば、大井さんに空手の手ほどきをしてもらうことになっている。

 そんな中で、一一月上旬の文化祭は無事終了した。歴史研究会の部室は、例年になく多くの人が訪れ、評判も上々だった。顧問の小林先生もよくやったな、と褒めてくれた。伯母も私たちの文化祭を見に来てくれた。そのとき、小林先生は初めて伯母と言葉を交わした。かつての反戦平和運動のリーダーに会い、小林先生は年に似合わず、大いに照れて、部員たちに冷やかされていた。私は今年の文化祭にはあまり協力できなかったが、来年度は部長として頑張ってほしいとみんなに励まされた。
 宏美が所属する合唱部の発表も体育館で行われ、私も伯母、松本さんや河村さんと聴きに行った。曲目は高田三郎作曲の『水のいのち』だ。ピアノ伴奏は守山先生、合唱指揮は三年生の前部長が担当した。県の合唱コンクールでは惜しくも全国大会進出を逃したものの、見事な合唱だった。
 文化祭のころには、父はもう歩けるまでに回復した。後遺症ももう心配ない。年内には仕事に復帰できるそうだ。

 紅葉の時季、私たちは弥勒山に登山した。河村さんをリーダーに、大井さん、松本さん、宏美、そして今回は波多野さんも参加した。宏美はボーイフレンドの野中明男君も連れてきた。
「いつも私は河村さんやミッキに当てつけられてばかりだったから、今日は私も明男君との仲を見せつけたげる」と宏美が明男君と手を組んでしなだれかかった。明男君は恥ずかしそうに顔を赤らめた。
 定光寺駅から東海自然歩道に入り、外之原(とのはら)峠、桧峠を経由して、道樹山、大谷山、弥勒山の四〇〇メートル級の山を縦走し、内津(うつつ)峠に下るという、弥勒山方面としては今まででいちばん長いコースだった。
 気温も下がり、鬱陶しいメマトイもぐっと数が減り、快適だった。ただ、いくら涼しくなっても、私は歩けば大汗をかいた。河村さんが「最近は冷房の完備などで、汗をあまりかかず、体温調節が十分できない人が増えているけれども、汗をかくことは、体温調節や代謝もスムーズにできているので、とてもいいことよ。それに、汗をよくかく人は、さらさらの汗で、臭いも少ないのよ」と言ってくれた。
 残念ながら、今回歩くコースはそれほど紅葉に恵まれてはいなかった。それでも所々できれいな紅葉を見ることができた。また、その日は晴天で、弥勒山の山頂からは、御嶽山、乗鞍岳、中央アルプス連峰、白山などがきれいに眺められた。三〇〇〇メートル級の高山はもう白く雪化粧をしていた。

   

 弥勒山頂上からの中央アルプス 左は木曽駒、宝剣岳。右は空木岳、南駒ヶ岳。

  

 御嶽山と恵那山。

 涼しくなり、熱いコーヒーやカップ麺がおいしかった。今日は車ではないからと言って、大井さんが缶ビールを持参していたので、河村さんに「まだ一九歳になったばかりでしょう」とたしなめられていた。それにトレッキング中の飲酒は危険でもある。さすがの大番長も、将来は奥さんのお尻に敷かれそうだ。
 寮に戻れば、またジョンがみんなに散歩をねだるだろう。大好きな人たちが大勢いるので、ジョンは大はしゃぎしそうだ。
 五月のゴールデンウィークに初めて四人で弥勒山に登り、それ以来固い友情で結ばれた私の素晴らしい仲間たち。今回の事件をきっかけに、さらに固く固く結ばれていくだろう。そして松本さんと私の愛情も……。
(完)

『ミッキ』第32回 緑内障 網膜剥離

2013-11-05 11:44:04 | 小説
 先ほど、眼科に行きました。私は緑内障や網膜剥離を患っているので、定期的に検診を受けなければなりません。
 緑内障は網膜の一部に感度が悪いところがあるが、眼圧は正常で、悪化はしていないとのことです。点眼薬は毎日忘れないように、との注意を受けました。
 網膜剥離も、今のところはレーザーで凝固手術をする必要はないそうです。7年ぐらい前に、右目に手術を受けました。
 最近、目が非常に疲れます。パソコンでの原稿執筆には支障が出ますが、2時間書いたら、十分に休憩を取るようにいわれました。

 今回は『ミッキ』第32回です。いよいよ次回で完結です。



            10

 私が行方不明になり、母は大きな不安に陥った。私と一緒に散歩に出たジョンが、永井さんと帰ってきたことに母は不審を抱いた。永井さんは「美咲ちゃんは散歩の途中、鈴木さんと一緒に出かけたので、私がジョン君を預かってきました」と伝えたが、母は何となく腑に落ちなかった。ジョンがぐったりしていたことにも、何かひどいことをされたのではないかと、疑念を持った。
「美咲ちゃんはお父さんがよくなるよう、強力な御守護霊がいらっしゃる道場で、祈願をしているから心配しないでください。私も一緒にいるから、大丈夫です。来週には帰るので、しばらく待ってください。学校、少し休むことになりますが、でもお父さんのためにしていることですから」
 夜八時過ぎに鈴木さんからこんな電話があり、その後もときどき鈴木さんから安心してくださいという電話があったそうだ。寮生の鈴木さんが責任を持つと言っているので、警察に通報することだけは控えていた。母は学校にも、父のことが心配なので欠席する、と連絡していたそうだ。
 私が学校を休んでいるので、松本さんたちも心配していた。このあとのことは、事件が終わったあとで私が河村さんや松本さんから聞いたことをもとに、私が再構築したことである。

 私が二日も学校を休んでいたので、松本さんと河村さんは寮まで様子を見に来た。寮生の夕食の準備中だった母は、ちょっと仕事を抜け出して、二人に会った。そして、母はどうやら心霊会の人にどこかに連れて行かれたらしいと二人に伝えた。ただ、連れて行った人の中には鈴木さんという寮生もいて、あまり手荒なことはしないだろうから、しばらく様子を見ていると母は不安げに言った。
「寮生で、波多野さんという方、今見えますか? 波多野さんも心霊会の信者ですけど、辞めたがっていて、ミッキにもいろいろ情報の提供をしていたそうです。だから、ひょっとしたら何か知っているかもしれません」
 河村さんにそう尋ねられて、母は「そういえば、最近美咲は波多野さんと親しく話し合っていることがあったわね」と思い出した。母は「まだ大学から帰ってないけど、まもなく戻ると思うわ」と言った。
「それなら、待ってる間、ジョン君を散歩に連れて行きましょうか」と河村さんが申し出た。
「そうしてくれると助かるわ。今、お父さんも美咲もいないんで、ジョンを散歩させる人がいないんですよ。ジョンが大きくなったので、慎二ももてあましているようだし。やっぱり事故の影響で、慎二もまだ思い切り走れないようです。私も昔、交通事故で膝を傷めているんで、ジョンが満足するまで付き合ってやれないし。義姉(あね)がときどき散歩させてはくれるけど」
 母は部屋の中からジョンを連れてきた。松本さん、河村さんを見て、ジョンは喜んでじゃれついた。
「美咲がいなくなったのは、ジョンを散歩に連れて行っていたときだったけど、ジョンひとりだけが帰ってきたの。それもジョン、何かひどいことをされたのか、ぐったりしていて。たぶん美咲を守ろうとして、殴られたか何かされたんでしょうね」
「ひどいことをしますね。やはりその鈴木さんという人がやったんでしょうか」と、松本さんが憤懣やるかたないという感じで言った。
 一時間ほどの散歩を終えたころには、波多野さんはもう帰っていて、食堂で食事をしていた。波多野さんが食べ終えるのを待って、母は松本さんと河村さんを波多野さんに紹介した。四人は応接室に入った。
「初めまして。私は美咲さんの友達で、河村と申します。今日は突然お呼び立てして、すみません。美咲さんから、超神会のことを聞きたがっている人がいるから、一度会ってみて、と言われていたものだから、失礼を顧みず、お呼び立てしました」
 河村さんは丁重に波多野さんに自己紹介をした。そして松本さんも自分の名前を告げて、挨拶をした。
「あなたが河村さんね。よく遊びに来てるので、知ってます。美咲ちゃんにも、私も超神会のこと知りたいから、一度会わせて、なんて頼んでたのよ」
「私も父が亡くなってから超神会のことを知ったので、まだあまり十分勉強していませんが」
 河村さんは謙遜した。そして、「今日お伺いしたのは、超神会のことより、心霊会のことでお訊きしたくて」と本題に入った。
「美咲ちゃんのことね。行方不明になって、寮母さんも心配していて。私、同じ信仰をしている鈴木さんたちが関係してるみたいで、心苦しくて」
「波多野さんはよくミッキに心霊会のことで助言してくれていたそうですね。それで、今回のことも何かご存じのことがあるのかなと思いまして」
「うーん。私も美咲ちゃんと同じように、心霊会、辞めたいと思っていたのよ。だから、美咲ちゃんには私が知っていること、いろいろ教えてあげてたんだけど、最近私も辞めたがっていることを鈴木さんたちに気づかれて、何も話してもらえなくなって。スパイみたいに思われて警戒されてるの。実際スパイと言われてもしかたないけど。今、鈴木さんも寮にいないから、たぶん美咲ちゃんと一緒にいると思う。それから、若林さんも」
「やっぱりミッキのいそうな場所、見当つきませんか?」
 波多野さんはしばらく考え込んでいた。
「春日井道場にはいないみたいね。私もちょっと探してみたけど。あそこは多くの人の目があるから、いればわかるでしょう。地下牢みたいなところがあればともかく。名古屋の東海本部は、なおさら大勢の目につくから、連れてかないでしょう。若林さんの自宅には、家族もいるから、二日も監禁しておけないでしょうしね。たぶん三人組や若林さんは、美咲ちゃんを辞めさせないような算段をしていたと思うの。ちょっと聞いた話では、美咲ちゃん、霊能者として、すごい素質があるそうなの。だから、辞められちゃあ困る、と言ってたから」
「美咲が霊能者の素質があるんですか?」
 母が驚いて聞き返した。
「はい。私たちのリーダーの、若林さんというおばさんが言っていました。あ、そうだ。素質がある人は鍛錬場で修行をするというので、ひょっとしたら鍛錬場という道場に連れて行かれているかもしれません」
「鍛錬場ですか? それ、どこにあるの?」
 母は藁にもすがる気持ちで波多野さんに尋ねた。
「心霊会の鍛錬道場は全国に四か所あります。仙台、高崎、伊勢、福岡です。この辺だと、たぶん伊勢に行っていると思います。もし鍛錬場に行っているなら」
 四人はしばらく押し黙った。そして、沈黙のあと、河村さんが「もし今夜ミッキが帰らなかったら、明日、そこに行ってみましょう」と提案した。
「明日は土曜日だから。私の友達の大井さんに頼んで、伊勢まで車を出してもらいます。松本君も一緒に行きましょうよ」
 母の前なので、河村さんはいつものようにマッタク君とは言わず、松本君と呼んだ。大井さんのことは母も知っている。
「当然僕も行きますよ。もしそこにミッキがいれば、連れ戻してきます」
「でも、伊勢は遠いですし。それにあなたたちに、もしものことがあったら、大変だし。そんなことになったら、彩花ちゃんや拓哉君の親御さんになんてお詫びすればいいのか。私が行ければいちばんいいんですが」
「大丈夫ですよ。暴力団の事務所に殴り込みに行くわけじゃあないですから。相手は宗教団体なので、そんな手荒なことはしないと思います。もっとも一〇年ほど前にあった何とかいう教団は殺人まで犯したそうで、ひどかったようですが」
 母を安心させるために言ったことが、かえって不安を増幅させてしまったようで、松本さんは一言多かったことを反省した。河村さんからも軽くすねを蹴られた。
 母は悩んでしまった。しかし河村さんは「今夜中にミッキが戻らなければ、明日の朝、大井さんにお願いして、伊勢まで行ってきます。大井さんには協力をお願いするかもしれないことを、もう話してあります。波多野さん、伊勢の鍛錬場の場所、ご存じですか?」と行くことを決めてしまった。
「ええ、調べればすぐにわかるわ。それから、私も一緒に連れてってくれない? 私もなんかの役に立ちたいのよ。やっぱり心霊会の会員として、責任感じちゃうから」
「いえ、波多野さんが責任感じる必要なんて、ありません。でも、波多野さんが来てくれれば、心強いです。私たち、心霊会のこと、全然わかりませんから」
 結局母の不安を押し切って、翌朝、大井さんを含め、四人で伊勢の鍛錬道場に行くことになった。
 母は最後に、河村さんに光のお御霊のお札のことでお礼を言った。医者は助かる可能性は五分五分と言ったが、実際は非常に厳しい状態だった。それが奇跡的に助かったのは、河村さんからいただいたお札のおかげだと思っている、と母は感謝した。父はもう意識を取り戻している。まだ集中治療室にいるが、まもなく一般病室に移ることができそうだということだった。父は私に会いたがっているので、早く連れ戻さなければと母は思っていた。

 その夜、とうとう私は戻らなかったので、翌朝早く、大井さん、河村さん、松本さんは寮に集まった。義理人情に厚い大井さんは、河村さんの依頼に、二つ返事で車を出してくれた。大井さんのお父さんも、河村さんの頼みだからということで、車を貸してくれた。
 大井さんの両親は、息子を不良から立ち直らせてくれた河村さんのことを、非常に気に入っていて、もう息子の婚約者と見なしていた。大井さんが「彩花は一人娘だで、俺は婿養子だぞ」と言うと、お父さんは「熨斗(のし)つけて持ってってもらう」と答えたそうだ。大井さんにはお兄さんがいて、家業の工場を継ぐことになっている。
 ただ、以前入道ヶ岳に行ったときのウィッシュは、お父さんが使う予定があるので、今回は車体に「(有)大井電工」と社名が入った、ライトバンの商用車だった。だから乗り心地はやや劣る。
 寮で波多野さんも乗り込んだ。母は波多野さんに、「これ、ガソリン代や高速道路代、みんなのご飯代にして」と三万円を手渡した。河村さんや大井さんだと、遠慮して受け取ってもらえないと考えて、波多野さんにそっと渡したのだった。
 ジョンが出てきて、一緒に行きたいと盛んにアピールした。
「ジョン、おまえはだめだよ」と松本さんが言い聞かせても、なかなか聞こうとしなかった。ジョンも私の危機を敏感に感じているのだろうか。
「ねえ、ジョン君も連れて行ったら?」と河村さんが提案した。
「ジョンは鼻がいいから、もしミッキがいれば、すぐ嗅ぎつけてくれると思うから。教団の人は素直にミッキがいるなんて言わないと思うけど、ジョンなら匂いでわかるわ」
 河村さんのその提言で、ジョンも連れていくことになった。
「それじゃあ、ジョン、ここに乗りゃあ」と河村さんは車の後ろのドアを開けた。ジョンは後ろの荷室に喜んで飛び乗った。ときどき父が会社の車を借りて、ジョンも一緒にドライブに連れて行ってくれたので、ジョンは車に慣れている。きれいな海や川へ行くと、ジョンはよく泳いでいた。
 母はくれぐれも無理しないでね、と心配顔だった。伯母が「皆さん、気をつけてくださいね。絶対に無理をしないでください」と声をかけた。
 慎二も「僕もお姉ちゃんの敵(かたき)を討つんだ」と、一緒に行きたがったが、母がだめだと止めた。
「よう、慎ちゃん、威勢がいいな。でも、姉ちゃんの敵討ちは俺たちに任せとけよ。絶対連れて帰るからな」と大井さんがしゃがんで慎二の目線で応え、頭をなでた。
「お母さん、先生、きっとミッキを連れ戻してきます」と松本さんが宣言した。
 波多野さんに教えてもらい、大井さんが心霊会の伊勢鍛錬道場の住所をカーナビにインプットした。
「それじゃあ、行くぞ」と大井さんが車のエンジンをかけた。前の席は大井さんと松本さん、後ろは河村さんと波多野さん。そして荷室には毛布を敷いてもらい、その上でジョンが寝そべっていた。
 車は国道一五五号線から一九号線に入り、勝川で東名阪自動車道に乗った。木曽川を渡るあたりから、鈴鹿の山並みが間近に迫ってきた。波多野さんが迫力ある鈴鹿の山を見て、きれい、と言った。八月にみんなで入道ヶ岳に登ったことを河村さんが教えると、波多野さんが「私も山が好きだから、今度行くとき、誘ってね。私の故郷は北アルプスの近くなのよ」と頼んだ。松本さんが「ミッキが戻ったら、一緒に行きましょう」と答えた。まもなく紅葉がきれいに色づく時季になる。
 河村さんは車の中で、いろいろ波多野さんと話をした。それで二人はぐっと親しくなったようだ。河村さんは心霊会の鍛錬道場のことも尋ねた。ときどきジョンが後ろの荷室から顔を出し、二人の話に割り込んだ。
「伊勢の鍛錬道場って、どういうところなんですか?」
「私も行ったことがなくて、よく知らないのよ。何でも、才能ある信者を霊能者にするために修行させる道場だそうだけど」
「霊能者の養成道場なんですね? でも、心霊会には守護霊を出せる霊能者って、一〇〇〇人以上もいるんでしょう? そんなに大勢、優れた霊能者を養成できるなんて、信じられない。そんな促成栽培の霊能者に、本当に守護霊なんて、出せるのでしょうか?」
「さあ? 私もよくわからないけど。でも私も超神会の『霊界の真実』シリーズの愛読者だけど、それを読んでると、心霊会の霊能者は低級霊を相手にしているとしか思えないの。だから私に出してもらったという守護霊も、本当に守護霊なのか、怪しいもんだわ。ひょっとしたらおかしな低級霊なのかもしれない。それともまだ成仏しきれていない先祖霊とか。低級な霊でも、多少の通力(つうりき)は持っているそうだから、何かいいことがあれば、守護霊様のお力だ、と信じちゃうのよ」
「そうですよね。力がないから、すぐ罰が当たるとか死ぬぞとか言って脅すのよね」
「それと、気になることがあるんだけど。鍛錬道場は、幹部クラスの人が退転しようとすると、無理やりそこに送り込んで、辞めないように洗脳したりする、という噂を聞いたことがあるの。美咲ちゃん、聞いた話では、すごい霊的素質があるそうなんで、辞めないよう、洗脳しようとしているんじゃないかしら?」
「え、それじゃあ大変じゃないですか? もしそんなところに連れていかれたのなら、絶対連れ戻さなきゃ。でもひどいです。私、本当に腹が立ってきました」
 河村さんは驚いた。二人の話を聞いていた大井さんと松本さんも、「そいつはひどい、そんなことは絶対させないぞ」と怒った。
 車は東名阪から伊勢自動車道に入り、さらに南下した。
 波多野さんはそれから心霊会について、知っていることをいろいろ話した。開祖妙山、二代目会長妙観のころは、妙山を守護していた守護霊を心霊会の、そして全信者の御守護神として崇めていた。そのころはまだ会員数も少なく、教義も本尊である守護神に法華経を読誦して供養し、その徳を先祖霊に回向(えこう)するという、先祖供養を主とした、地味な信仰だった。
 ところが三代目会長の妙賢の時代になり、昭和五〇年代の守護霊ブームに便乗し、供養料を取って、会員一人一人に守護霊を授けるようになった。教義も大幅に改められた。高額な供養料が必要とはいえ、心霊会に入信すれば、すぐに守護霊を持てるというので、会員数が飛躍的に増大した。そして妙賢一人では対応できなくなり、霊能開発講座を開設し、大量の霊能者を養成した。
「結局、三代目妙賢のときから、心霊会は先祖供養より、金儲け主義になってしまったのよ。妙賢は宗教家というより、商売人ね。今の会長も妙賢の路線をそのまま引き継いでるの。それに引き替え、超神会の会長先生は、とても清廉だわ」と波多野さんは批判した。
 途中のサービスエリアで昼食を取り、休憩したので、鍛錬道場まで三時間以上かかった。ジョンがおしっこをしたがり、サービスエリアの奥の林に連れて行った。伊勢自動車道を玉城(たまき)インターチェンジで降りた。
 ナビゲーションが目的地と示唆するすぐ近くに、鉄筋三階建ての大きな建物があった。
「あ、あれよ。あれが鍛錬場だわ」と波多野さんが断言した。近くの空き地に車を停め、みんなは車から降りた。
「あの建物にミッキがいるのかな」と松本さんが言った。ジョンが盛んに辺りを嗅ぎ回っている。最近、秋の長雨の季節も終わり、ここ数日移動性高気圧に覆われて、天気が安定しているので、私や鈴木さんの匂いが残っているのかもしれない。若林さんのことをジョンは知らないが、鈴木さんの匂いなら知っている。特に、スタンガンの一撃を食らった恨みがあるので、鈴木さんの匂いは忘れないだろう。
 ジョンが何かを見つけた。河村さんがジョンがくわえているものを受け取った。
「ミッキのハンカチだわ。やっぱりここにいるようね。ジョンを連れてきたのは、正解だったわ」
 ジョンは一目散に建物の入り口に走っていった。四人もジョンのあとに続いた。
 河村さんが鍛錬道場の入り口のインターホンを押した。
「どなたですか?」とインターホン越しに男性の声で尋ねられた。
「私は河村という者ですが、ここに鮎川さんがいると思うんです。ちょっと会わせてもらえませんか?」
 中でざわめいている様子が、インターホンを通して察知された。しばらくして、「そんな人、いませんよ」と断られ、インターホンの通話が途切れた。
 河村さんは何度もインターホンのボタンを押した。
「うるさいな、そんな女、いないと言ったらいないんだ」
 インターホン越しに怒鳴られた。
「いいえ、いるはずです。私は鮎川さんとしか言っていないのに、なぜ女だとわかったのですか? 私たち、鮎川美咲さんに会うために、名古屋の方からわざわざ出てきたんです。ぜひ会わせてください」
「いちいちうるせえな。いい加減にしないと、警察を呼ぶぞ」
 相手の男は、ちょっとした言葉の齟齬(そご)を突かれ、頭に来たようだった。
「どうぞ、呼んでください。もし鮎川さんを監禁しているなら、あなた方のほうが不利になりますよ」
「うるせえ、とっとと帰れ!」
 そう怒鳴ると、もうインターホンは応答しなくなった。それで大井さんが力を込めて、ドンドンとドアを叩いた。
「さっきから何をドンドンやっているんだ」とドアから大男が姿を現した。私を担当している、海坊主のような霊能インストラクターだ。体格は元番長の大井さんよりも大きい。この男を見て、松本さんが「わぁ、でかい」と驚いた。
 ドアが開いた際に、ジョンがするりとドアの隙間をすり抜けて、中に侵入した。そして、地下室への階段を駆け下りていった。
「あ、こら、そっちに行っちゃだめだ」
 大男はジョンを追った。大井さんたちも「よっしゃ、俺たちも行くぞ」と言って、道場に入っていった。玄関の近くには若林さんと鈴木さんが騒ぎを聞きつけて来ていた。そして、波多野さんと鉢合わせになった。二人は波多野さんを見て、驚いた。
 ジョンは地下室の扉の前でワンワン吠えた。
 私は真っ赤な部屋で、不眠、空腹などで極端な疲労状態で、「心霊会の会長先生、並びに御守護霊様に私は帰依します」と何度も何度も繰り返して唱えさせられていた。もう精神的にはボロボロで、私の心は崩壊寸前だった。しかし、部屋の入り口のところでワンワンと吠えるジョンの鳴き声が耳に入った。私はまさかと思った。そして、「おい、ミッキ、いるか?」という松本さんの声を聞いた。いくらぼんやりした頭でも、松本さんやジョンの声を聞き間違えることはなかった。みんな、助けに来てくれたんだ、と思ったら、涙がぽろぽろと零れ落ちた。部屋にいる二人の女性霊能インストラクターはおろおろしていた。
 玄関の近くでは、大井さんと巨体のインストラクターが戦っていた。さすがの大井さんも、巨体のインストラクターには手こずっていた。空手の大井さんに対し、大男は柔道が得意なようだ。組み止められたら勝ち目がない。スピードで勝る大井さんは、捕まれないように動き回って、打撃で大男を攻撃した。河村さんと波多野さんは、やってきた何人もの修行者に取り押さえられていた。
「何するのよ、放してよ」と河村さんが押さえつけている修行者に怒鳴った。河村さんを押さえつけているのは、複数の女性修行者だった。松本さんも修行者に囲まれた。
 みんなが押さえられている間に、私は若林さんと鈴木さんに腕を引かれて、出入り口に連れて行かれた。大井さんが鈴木さんに飛びかかろうとしたが、大男に後ろから羽交い締めにされた。
「この野郎、放しやがれ」と大井さんが叫んだ。そのとき、押さえつけている修行者を振り払って、ジョンが大男に飛びかかり、丸太ん棒のような太い左腕に噛みついた。しかし、大男はジョンの攻撃に耐えて、大井さんをがっしりと締め上げていた。ジョンは修行者二人に取り押さえられた。その間に、私は若林さんのミニバンに乗せられた。
 大男はジョンに噛まれた激痛のためか、大井さんを締め付けている腕の力が少し弱まった。その隙を逃さず、大井さんは大男の顔面に頭頂部で頭突きを入れ、大男は羽交い締めを解いた。そして大井さんは大男の頸椎に手刀を浴びせた。頸椎は人間の急所であり、そこへの攻撃は、ひとつ間違えば、相手を死に至らしめてしまう。そのことを十分わきまえている百戦錬磨の大井さんは、相手をひるませる程度に手加減をした。そして、動きが止まった大男の腹部や顔面へ突きや蹴りを食らわし、やっとの思いで倒すことができた。大男が倒されたことで、松本さんや河村さん、波多野さんを押さえつけていた修行者たちは、戦意を喪失して引き下がった。
「おい、おみゃんたー(おまえたち)、大丈夫か?」
 大井さんは松本さんたちに声をかけた。
「ミッキが連れてかれてまったがや。追いかけるぞ」
 四人とジョンは大井さんの商用車に乗った。今度は若林さんの車を追いかけるため、波多野さんが助手席に乗った。
「美咲ちゃん、たぶん若林さんの車に乗せられていると思うわ。白のセレナよ。玉城インターの方に向かったんじゃないかしら。三重県だと、津と四日市に道場があるのよ」と波多野さんが推測した。
「セレナか。いい車に乗ってやがるな。まだそれほど遠くまでは行っとらんはずだがや。早く追いつかなくては」
 そう言って大井さんは車を発進させた。若林さんの車を追っているとはいえ、大井さんは三人とジョンの命を預かっているので、そう無茶な運転はできなかった。鍛錬道場の前の道路はしばらく一本道だ。
「あ、あの車よ。ちょうど今右折のウインカーを出している。間に合ってよかった。もう少し遅かったら、右折したことに気づかず、まっすぐ玉城インターの方に行っちゃってたところよ」
 波多野さんが若林さんのセレナを発見した。右折する直前に見つかったのは、幸運だった。
 若林さんは、県道二二号線に入り、伊勢神宮の外宮(げくう)の方角に向かってセレナを走らせた。ひとまず伊勢市内の幹部宅に行く予定だった。
「ちくしょう、麻衣のやつ、やっぱり裏切りやがったんだ」
 ふだんは気位が高い鈴木さんが、乱暴な言葉遣いで波多野さんをののしった。松本さん、河村さん、大井さんに加えて、波多野さんも私の救出に来てくれたことが嬉しかった。そして、ジョンまでも。私が伊勢鍛錬道場にいることを推理したのは、たぶん波多野さんだろう。
「あ、追ってきましたよ。あの車です。さっき道場の近くに駐まっていた、ライトバンですよ」
 助手席にいる鈴木さんが後ろを振り向いて、若林さんに大井さんの車が迫ってきたことを教えた。
「オンボロのバンじゃないの。こっちのほうが、ずっと加速性能はいいはずよ。振り切ってやるから」
 若林さんはルームミラーで大井さんの車を確認した。そして、ぐっとアクセルを踏み込んだ。セレナはぐんぐん加速して、大井さんの車を引き離した。
「おばさん、運転、気をつけて。道は狭いし、ほかの車も走ってますから」
 若林さんがかなりのスピードで走っているので、鈴木さんが少し不安そうだった。
「任せておきなさい。運転歴三〇年は伊達じゃないよ。それに、御守護霊様もついているんだから、絶対事故なんか起こしゃあしないよ。それより、私たちを追いかけている後ろの車のほうが今に事故を起こすよ」
 若林さんは得意げになり、さらにスピードを上げた。追い越し禁止区域にもかかわらず、対向車線にはみ出して、前の車を追い越した。追い越すときに、違反を知らせるためか、クラクションを鳴らされた。
「くそっ、スピードを上げやがった。この車、ボロだで、ちょっともスピードが出ーせんがや、ちくしょう。カーチェイスになることがわかっとったなら、無理言ってでも親父のウィッシュ借りてこやあよかった」
 大井さんが悔しがった。さらに、赤信号にかかり、大井さんの車は停められてしまった。
「あれだけスピード違反や追い越し違反をしてるんだから、警察に捕まるといいんだけど」と河村さんが言った。
 大井さんの車はどんどん引き離されていった。このままでは、もし若林さんの車がどこかの枝道に入れば、大井さんは完全に見失ってしまう。
 そのときだった。運転をしている若林さんが、突然苦しみだした。
「ああ、頭が痛い、頭が割れそう、誰か助けてー!」
 若林さんは苦痛にうめいた。
「おばさん、運転が。止めて。私が運転を代わるから。ブレーキを踏んで!」
 鈴木さんは悲鳴をあげた。私はとっさに「光のお御霊、助けてください」と強く心で祈って、二列目のシートの下に身体を伏せた。セレナは緩いカーブの地点で、猛スピードで、反対車線の道路脇に停車していた軽トラックに突っ込んだ……。

『ミッキ』第31回

2013-10-29 00:31:24 | 小説
 昨日は新作『永遠の命』が文庫本になることをお知らせしました。
 そして今、『いじめ(仮題)』を書いています
 『ミッキ』は何となく過去の作品になってしまったような感じです。
 でも、『ミッキ』は20代のころから構想していた、思い入れがある作品でもあります
 続編『ミッキ それから』も近いうちにまた執筆を再開してみたいと考えています。
 そんな『ミッキ』も、今回を含め、あと3回で完結です。


         

 もう一〇月も下旬となり、まもなく文化祭を迎える。歴史研究会は日本の戦争責任、中国の三国時代、邪馬台国論争の三つの分野をテーマとしていた。私は河村さんと日本の戦争責任をまとめることになっていた。三国時代については、二年生の松本さんと竹島さん、邪馬台国の発表は部長の芳村さんと山崎君、中川さんのペアが中心となり担当した。ほかにも歴史研究会の部員はいるが、主に活動しているのはその七人だった。
 ただ、私は心霊会のことで落ち込んだり、父の怪我で集中できないなどの事情があり、河村さんの負担が大きくなってしまい、申し訳なかった。河村さんは「ミッキは今、お父さんのことで大変なんだから、そんなに気にすることはないよ。困っているときこそ助け合わなくっちゃ。私もマッタク君に手伝ってもらっているんで、心配しないで」と元気づけてくれた。今は三年生も手伝いに来ている。
 みんなは文化祭の準備で遅くなりそうなのだが、部長の芳村さんが「ミッキは親父(おやじ)さんのことがあるから、早めに帰ったりゃあ」と気を遣ってくれた。私はみんなの厚意を素直に受けて、帰ることにした。父のことが心配でもあった。みんなはいつも夜八時過ぎまで部室で文化祭の準備をしている。
 寮に帰ったら、ジョンが戻っていた。昨日は山川さんのところに行っていた。ジョンがいないとちょっと不自然な感じがした。今はジョンがいるのが当たり前の我が家になっている。その中で、父が欠けているのは、やはり寂しい。早くよくなって退院してこないかなと思った。ジョンはさっそく散歩をせがんだ。
 ジョンを散歩に連れて行く前に、母が「お父さんはもう大丈夫だから、心配しないでいいよ」と教えてくれた。それを聞いて、私は目頭が熱くなった。
 私がジョンを連れて歩いていると、後ろから車が近づいてきた。私は道の左側の狭い歩道を歩いていた。ジョンが歩道から飛び出さないように、リードを短くした。
 私の横を白い大きな車がゆっくり通り過ぎていった。そして、車がスピードを落として止まった。後ろのスライド式のドアが開き、鈴木さんが出てきた。車は若林さんのミニバンだった。
「あら、美咲ちゃん。ジョン君のお散歩?」
 私は身構えた。以前、車の中に引き込まれ、若林さんの家まで連れて行かれたことがあった。でも、今日はジョンもいるし、そんな強引なことはしないだろうと思った。しかし、その気持ちが油断につながった。
 鈴木さんは私の前に立った。ジョンが鈴木さんにじゃれついた。鈴木さんはジョンにはかまわず、右手に持っているものを私のおなかに突き当てた。その瞬間、私はすさまじいショックを感じた。意識を完全に失ったわけではなかったが、もうろうとして、何が起きているのかよくわからない状態だった。ジョンがワンワン吠えているのが何となく聞こえていた。ジョンはふだんあんなに鳴くことはないのにな、という思いが頭をよぎった。ギャンという悲鳴も聞こえたが、それが何なのか、判断できなかった。
 私は車に乗せられたようだった。しばらくして、ようやくショックが遠のき、意識がはっきりしてきた。
「乱暴なことして、ごめんなさいね。これも美咲ちゃんのためなんだから」
「いったい何をしたんですか?」と私は鈴木さんに問い質した。
「スタンガンよ。大丈夫。護身用で、安全なものだから。ちょっとショックはあるけどね」
 鈴木さんはそのスタンガンというものを見せてくれた。あんな大きなショックを与えておいて、大丈夫だとか安全だなんてひどいと思った。
「ジョンは? ジョンはどうしたんですか?」
「ジョン君は利口な犬だから、ひとりで寮まで帰れるわ。心配することないよ。でも、ちょっと噛まれちゃった。ジョンも美咲ちゃんを守ろうと、必死だったのよ」
 まさか、ジョンにもスタンガンを使ったのではないかと心配になった。そういえば、ギャンという悲鳴があったような気がする。
「ええ、一発お見舞いしてやったわ」
「そんな、ひどいです」
 私はジョンがかわいそうになった。ジョンも私を守るために戦ってくれたのだ。
「でも、そうしないと、私、噛みつかれて大変だったから。ほら、ここ、歯形がついているでしょう。大丈夫。小型犬ならともかく、ジョンぐらいの大きな犬なら、あの程度じゃ、死にやしないから」
 鈴木さんは左腕の袖をまくった。少し噛まれたあとが残っている。でも、もしジョンが本気で噛んだのなら、その程度ですむはずがない。なにせ、ジョンは牛の骨でもバリバリ噛み砕いてしまうほど顎の力が強い。相手がよく遊んでくれた鈴木さんなので、ジョンも加減したのだと思う。それなのに、スタンガンをジョンに食らわすなんて、本当にひどい。
「これからどこに行くんですか?」
「伊勢の方にある心霊会の鍛錬道場に行きます。少し時間がかかるけど、辛抱してね」
 運転席の若林さんが代わって答えた。
「鍛錬道場ですか? それ、何なのですか?」
「心霊会の精神修養のための道場ですよ。美咲ちゃんもせっかく素晴らしい御守護霊様に巡り会えたというのに、あまり真剣に信心しようという気がないみたいなので、ちょっと気合いを入れてあげようと思ってね。これも慈悲だから、わるく思わないでね。後々(あとあと)、きっと感謝することになると思うから。伊勢自動車道を通れば、三時間ほどで着きますよ」
 三時間だなんて! 今午後七時ごろなので、その鍛錬道場とかに着くと、もう一〇時になってしまう。
「そんな。すぐ帰してください。明日は学校に行かなくちゃあいけないんですから。これじゃあ、拉致か誘拐じゃないですか。それに、私、日本超神会の光のお御霊という守護神様を信じることに決めたんです。もう心霊会に戻るつもりはありません」
「何、それ? 日本ちょうしん会? 聞いたことないわ。ノブちゃんも美咲ちゃんが訳がわからない邪教に入ったなんて言ってたけど。そんなもの信じると、罰でもっとひどいことになるよ。お父さん、死んじゃっても知らないよ」
 今度は鈴木さんが非難した。
「邪教なんかじゃありません。お父さんが助かったのも、光のお御霊に祈ったからなんです。心霊会の守護霊なんかより、ずっと強い力があるんです」
「救いがたいバカね。お父さんが助かったのは、私たちが御守護霊様に祈ってあげたからよ。でも、鍛錬道場でしっかり鍛え直してあげる。そうすれば、すぐに心霊会こそが最高だということが、理解できるようになるわよ」と鈴木さんが応酬した。
 私はぞっとした。クスリとか断食とか、不眠なんかを強いられて、マインドコントロールや洗脳を受けるのだろうか。私がまだ小さな子供のころ、いろいろと問題を起こした教団があったと聞いている。そこがそのような洗脳をしていたようだ。心霊会もまたそんな恐ろしいことをする教団なのだろうか。
 でも、信心にあまり熱心ではない信者は、ほかにもいくらでもいるはずだ。その人たちすべてがこんな仕打ちを受けるわけではないだろう。二〇〇万人以上の会員がいる教団で、そんな実態があからさまになれば、大問題になっているはずだ。なぜ私ばかりがこんな厳しい仕打ちを受けるのだろうか。
「それは美咲ちゃんは千人、万人に一人という、とっても貴い星、優れた素質といってもいいかな、それを三つも持っているからですよ。心霊会の霊能者が美咲ちゃんを霊視したら、素晴らしい素質を持っていることがわかったの。心霊会の幹部になれるだけの素質があるのよ。ひょっとしたら、次期会長候補にだってなれるかもしれないのですよ。そんな人材がみすみす退転してしまうのを見過ごすわけにはいきません。それに、美咲ちゃんには残念ながらよくない星、悪因縁の星が一つあるの。今のままでは、たった一つのその悪い星が、せっかくの貴い徳を示す星を三つとも潰してしまうから、罪障消滅のための矯正が必要なのですよ。はっきり言ってあげると、その悪い星とは、癌になる因縁です。癌はやせ細って死んでいくから、餓鬼界の因縁ね。今のままでは、美咲ちゃんは癌で若死にする運命ですよ。癌で早死にしてしまえば、いくら貴い星があっても、役に立ちませんからね。美咲ちゃん、癌なんかで死にたくないでしょう?」
 若林さんが私の問いに答えた。単なる脅しにすぎないのかもしれないが、自分が癌で若死にするということは、ショックだった。しかし光のお御霊に祈れば、きっとそんな悪い星は消滅すると私は確信した。
 若林さんは初めて私を春日井道場で見たとき、何かピンと来るものがあったので、私の写真と入信届を優れた霊能力を持つ幹部霊能者に霊視してもらった。すると、私には非常に高い霊的素質があることがわかったという。心霊会で霊能者が行う守護霊占星術で占うと、私には貴い星、つまり優れた素質が、三つもあるそうだ。普通、素質が高いと言われる人でも貴星はせいぜい二つしかないのに、三つも持ち合わせているのは、修行すれば、将来、とても優れた霊能者になれるということである。貴星を三つ持っている人は、判明している範囲では、会長の妙心と、わずかな幹部霊能者だけだ。
「私、霊感なんてありません。これまで霊を見たこともないし、予感だって外れてばかりだし」
「それは美咲ちゃんが今までそういう訓練を受けていなかったからです。心霊会で修行すれば、素晴らしい霊能者になれますよ。だからまず鍛錬道場に行ってもらうのです」
「いいえ、けっこうです。私は平凡な一生のほうがいいです。平凡な人生の中で、平凡な幸福を追い求めていきたいです」
「何というもったいないことを。私が美咲ちゃんほどの素質があると言われれば、喜んで霊能者育成コースに志願するのだけどね。私も多少の霊感はあるけど、幹部霊能者にはとても無理なのよ」
 鈴木さんが羨ましそうに言った。
 車は高速道路に入った。外は真っ暗なので、今どの辺なのかよくわからないが、東名阪自動車道を走っているのだろう。しばらく走っていたら、大きな橋を渡ったので、今木曽川を越えたのかしらと思った。
 ジョンは無事に寮に戻れたかしら。まさか途中で交通事故に遭っていないだろうな。ジョンだけが寮に戻って、私がいないから、母や伯母が心配しているのじゃないかしら。そんな思いが頭の中をよぎった。連絡をしたくても、私は携帯電話を持っていない。携帯電話があれば、こっそり松本さんか河村さん、宏美にメールを送って、母に知らせてもらうこともできるのだが。
 車はやがて東名阪自動車道から伊勢自動車道に入った。平日の夜だから、車の流れはスムーズだ。
 途中のサービスエリアで休憩した。逃げるといけないからといって、私は車から出してもらえなかった。お金もあまり持っていないし、携帯電話もないから、逃げはしないと言っても、信用してくれなかった。二人は私が売店に逃げ込み、保護してもらうことを警戒していた。トイレはもう少し我慢しなさいと言われた。若林さんが弁当とペットボトル入りのお茶を買ってきてくれた。
「お母さんには、さっき私から電話をしておいたから、大丈夫だよ。一緒にお父さんの快復を祈るために、大きな力を持った心霊会の御守護神のところに行く、と伝えたら、安心して、よろしく頼みます、と言っていたから。ジョンも無事寮に戻ったそうだし」
 警察に捜索願を出されると面倒なので、鈴木さんが母に電話をしてくれたのは事実だろうが、母がよろしく頼みます、なんて言うはずがないと思った。父の状態が危機を脱したとはいえ、私がどこかに連れ去られて、安心するはずがない。ただ、よく知っている鈴木さんが一緒なら、警察に届けるようなことはしないと思うが。母も寮生を訴えるようなことはしないだろう。鈴木さんや若林さんの巧妙さに、私は腹が立った。
 あとで知ったことだが、ジョンは三人組の一人の永井莉子さんが連れ帰ってくれたそうだ。スタンガンの一撃を受け、ジョンはあまり元気がなかったらしい。永井さんも計画に一枚かんでおり、私がジョンと散歩するとき、こっそり後をつけていた。酒井さんは今回の計画にはあまり乗り気ではなかったという。

 夜一〇時過ぎに、目的地に着いた。夜で暗かったのでよくわからないが、かなりの山の中のようだ。伊勢といっても、伊勢神宮の近くではないのだろう。私は大きな鉄筋三階建ての建物に入るように言われた。修行者が何十人も宿泊できそうな施設だ。建物の中からは、三人の男女が迎えに出た。
 私はまずトイレに案内してもらった。逃げるといけないからといって、途中のサービスエリアではトイレに行かせてくれなかったので、かなり切迫していた。トイレは他の人も使っていた。この鍛錬道場には現在も多くの信者が泊まり込みで修行をしているようだ。
 トイレから出た後、地下室に案内された。さっき私を出迎えた三人を紹介された。女性二人に、男性一人だった。三人とも真っ赤な服を着ていた。その三人は、私の精神修養を担当する霊能インストラクターだそうだ。男性は格闘技でもやっているのか、大きな体格で、いかにも鍛えられているという感じだった。まるで力士かプロレスラーだ。頭を丸刈りにしており、何となく海坊主を連想させた。逃げようとしても無駄だぞ、と圧力をかけられているように思われた。
 部屋は赤一色だった。壁も、天井も床も、家具も、ベッドも布団も、血の池地獄のように真っ赤だった。とても気持ちがわるい部屋だ。
 私はまずビデオを見せられた。五〇インチ近くある、大きな液晶テレビだ。それは地獄をイメージした、惨憺たる情景を映像化したものだった。巨大な地獄の獄卒どもに徹底して虐待されている男女の亡者たち。コンピューターグラフィックスを多用してあり、亡者の頭が獄卒の鉄棒で殴られ、砕ける様子が非常にリアルに鮮明に描かれていた。剣でばらばらに切り刻まれている亡者もいる。亡者同士で殺し合っている者もいる。たとえ死んでも、涼やかな風が吹けば肉体は再生して生き返り、また獄卒に痛めつけられたり、亡者同士で殺し合ったりする。画像だけでなく、音声も――鉄棒で殴る音、頭が砕け散る音、獄卒のかけ声、亡者の悲鳴など、真に迫っていた。私は思わず、画面から目を背けた。
「目を背けてはいけません。じっと見るのです。これは死後のあなたの姿なのですよ。今のまま心霊会の信仰から退転すれば、間違いなくあなたは無間地獄に堕ち、このような苦しみを、何億年、何兆年と受けなくてはなりません。これは地獄の中でも、一番軽い等活(とうかつ)地獄ですよ。これから黒縄(こくじょう)地獄、衆合(しゅごう)地獄、叫喚(きょうかん)地獄と、だんだん恐ろしい地獄になっていきますよ」
 女性のインストラクターの一人が、顔を背けた私の頭をつかんで、画面の方に向けさせた。地獄のビデオは、無間地獄以外の七大地獄を映像化し、延々二時間近く続いた。無間地獄がないのは、そのあまりの恐ろしさゆえに、無間地獄のことを聞いただけで人間は死ぬと言われるからだ。こんな映像を二時間も見せられてはたまらない。顔を背けると無理やり正面を向けさせられ、目を閉じれば、びんたが飛んだ。ただ、私はメガネをかけていなかったので、鮮明な映像が多少ぼけて見えるから、まだよかった。あんな残酷なシーンがまともに見えては、たまらなかった。
 ビデオが終わると、もう夜中の一時近い時刻なので、そろそろ眠らせてもらえるかと思ったら、インストラクターから、心霊会を辞めた人がどうなったか、実例を長々と聞かされた。それらの人たちは、多くが事故や病気などで死んでしまった。中には殺人事件に巻き込まれた人もいる。そして、その人たちは皆、さっきのビデオでさえ、あまりの恐ろしさのために映像化できなかった、最も悲惨な無間地獄に堕ちているのだという。妙法心霊会の信仰を退転した者の罪は、殺人罪よりはるかに重い。この世で最も重い罪は、正しい信仰に出会いながら、それを信じず、辞めてしまうことだ。
「鮎川さんもこのまま退転すれば、悲惨な末路をたどった末、行き着く先は無間地獄ですよ」と脅された。守護霊占星術に基づく、私の未来も示された。
 私は三四、三五歳のころに運気が最も衰退し、そのときに癌の因縁が出るのだそうだ。私の余命は、宿命転換をしなければ、あと二〇年と告げられた。
 そしてまた先ほどのビデオを見せられた。それから自分が犯した退転という罪障に対する反省、懺悔(さんげ)。
 地下室なのでわからないが、もう夜が明けているのではないか。私は腕時計をはめていなかった。結局、一睡もさせてもらえなかった。うとうとしようものなら、コップの水を頭から浴びせられた。水はタオルで拭いてはもらえるが、濡れた服はすぐには乾かないので、非常に寒かった。なんで私がこんな目に遭わなければならないのだろう。そう思うと泣けてきてしまった。
 その日は食事は抜きだった。水だけ少し飲ませてもらえた。ときどき休憩は与えられたものの、十分な睡眠は取らせてもらえず、頭がもうろうとしてきた。地獄のビデオと反省の強要が続いた。そして、私は心霊会の教えに従います、会長の妙心先生を敬い、御守護霊様を心から信じます、と何時間も続けて大声で唱えることを強要された。
 父はどうなっているのだろうか。まさか、悪化していることはないだろうな。昨夜は帰らなかったので、母も心配しているだろう。学校、結局行けなかったな。私が行方不明になったと聞いて、松本さんや河村さんたちが心配しているだろうな。ジョンは散歩に連れて行ってもらっているかしら。
 もうろうとした意識の中で、そんなことが次々と浮かんできた。赤一色の部屋の中に長時間いるだけで、頭がおかしくなりそうだ。まさに拷問だった。
「どうですか。心霊会の信仰を辞めたら、とんでもなく恐ろしい目に遭わなければならないということは、理解できましたか? 改心しないとあなたは癌で若死にしますよ」
 女性のインストラクターの一人が言った。私はあまり深く考えることもなく、「はい」と頷いた。もう考える気力はほとんど失せていた。
「では、少しだけ睡眠を取ることを許してあげます。目覚めたら、食事もあげましょう」
 私は真っ赤な布団の中で、死んだように眠った。
 私は三時間ほど眠っただろうか。もう時間の感覚がなくなっていた。地下室なので、外の状態もわからない。少し眠ったら、気分がすっきりした。軽い食事も与えられた。お風呂に入りたかったが、入浴は許されなかった。下着が少し汗臭くなっているので、着替えをして、さっぱりしたいと思った。
 眠ったら気分が少しすっきりしたので、「そうだ、お父さんが早くよくなるように、光のお御霊にお祈りをしておこう」と考えた。心霊会の施設で、超神会の祈りをするというのは、私のささやかな抵抗でもあった。心の中に、光のお御霊のご神体でもある、光という文字をしっかり思い描いて、その光という文字からエネルギーを引き出し、全身にその光を充満させる光景を思い描く。そして父の姿を心に描き、体中に充満させた光のお御霊のエネルギーを父に向かって浴びせかける。それだけで父に光のお御霊のエネルギーが届くのだ。父の枕元に置いてあるお札からも、エネルギーが父に放出されている。
 光という文字をしっかり思い描くことにより、実在する神である光のお御霊とつながることができるのだそうだ。本来の光のお御霊のお姿は、まばゆいばかりの光の塊なので、便宜的に光という文字を思い描いて祈るというのが、超神会の祈り方の基本だ。金色(こんじき)に輝く光という文字が光のお御霊のお姿だと信じて、真心を込めて祈れば、それで光のお御霊と心を通わせることができる。
 また、後日河村さんから聞いたことだが、心霊会で出してもらった訳のわからない憑依(ひょうい)霊も、光のお御霊の聖なる霊流を浴びて浄化され、本物の守護霊になっている可能性もあるとのことだ。
 光のお御霊に祈ったおかげで、私の気分も清々しくなった。
 部屋に入ってきた女性インストラクターが、「あれ? なんか部屋が爽やかになったみたい」と言った。さすがに霊能者だけあって、私が光のお御霊のエネルギーを引いたので、何かを感じ取ったようだ。感覚が鋭い人になら、光のお御霊の清浄なエネルギーが感じられるのだろう。つまり光のお御霊の力は、私の独りよがりなものではなく、実際に他人にも感じられるものなのだ。
 部屋に来たインストラクターは一人だった。そして、若林さんと鈴木さんも部屋に入ってきた。二人もこの鍛錬道場に泊まっていた。若林さんがこれからお勤めをすると言った。守護霊のお札を部屋に置き、お札に向かって、私を含めた四人が正座した。私は若林さんが持ってきた数珠とお袈裟、経巻を受け取った。お勤めはあまりやりたくなかったが、ここは従っておいたほうがいいと思った。
 お勤めは若林さんが導師を勤め、四〇分ほどかけて、丁寧に行われた。お勤めの間、私はときどきうとうとして、鈴木さんに突っつかれた。終わってから、今何時ですか、と若林さんに訊いたら、午後六時過ぎだと答えた。ということは、私がジョンとの散歩の途中で拉致されてから、まもなく丸一日が経つ。いったいいつになったら家に戻してくれるのだろう。
「美咲ちゃんがしっかり信仰を続けるつもりになれば、いつでも帰してあげますよ」と若林さんが言った。
「ただ、口先だけでやりますと言ってもだめですよ。ここにいる霊能者の方々は、嘘を言っても、すぐにわかりますからね。本当にやる気にならなければ、これからもっと辛い修行が続きますよ。地獄のビデオ拝聴など、まだ序の口ですからね。本当に、美咲ちゃんには素晴らしい力が眠っているのだから、一生懸命やれば、すごい霊能者になれるんですよ。どうですか? 多くの人々を救う、素晴らしい霊能者になりたくないんですか? それとも癌で若くして死ぬほうがいいのですか?」
「癌では死にたくありません。でもまだよくわからないんです。どうしたらいいか」
「心霊会の霊能者になるということは、とても徳を積むことになるんですよ。退転すれば癌で苦しんで、無間地獄堕ち。信仰を続ければ、一生をご守護霊に護られ、光り輝く霊界に行けるのです。考えるまでもないと思いますけどね」
 若林さんはそう言い残して、鈴木さんとともに部屋から出て行った。代わりに二人の霊能インストラクターが入ってきた。
 また私には辛い時間がやってきた。地獄のビデオを延々と見せられた。ただ、今回は短い時間だが、光り輝く霊界の映像も見せてもらえた。心霊会の信仰を貫けば、死後、そんな輝かしい世界に行けるというのだ。そして、反省。退転することがどれほど罪深いものかを聞かされ、その感想を述べさせられた。睡眠を取ることを許されなかった。先ほどはわずかしか眠らせてもらえなかったので、非常に辛かった。食事も軽く取っただけで、水以外は何も口に入れさせてはもらえなかった。インストラクターは交替で食事や休養を取っているのに。
 私はトイレに行かせてもらい、用を足してから、トイレの便座に腰を下ろしたまま眠った。ちょっと恥ずかしい格好だが、そんなことを気にしてはいられなかった。たとえわずかな時間でも、眠っておきたかった。しかし、長いことトイレから戻らないと、女性インストラクターに、トイレのドアをドンドン叩かれた。
 二日目は私はさらに参っていた。真っ赤な部屋もうんざりだった。もうやりますと言って帰してもらおうかとも考えた。一言、やりますと言えばいい。しかし、霊能者には嘘は通じないという。心の底から心霊会の御守護霊様にすがる気持ちにならない限り、帰さないという。
 でも、こんな犯罪行為が許されていいものだろうか。宗教とはいえ、こんなことをすれば拉致、誘拐、監禁の犯罪行為でしかない。私がもし訴えると言ったら、どうする気なのだろう。いや、完全に妙法心霊会に帰依し、告発する気がなくなるまで、帰してくれないのではあるまいか。いつまで私の身体や精神は保(も)つのだろうか。私はもうろうとする頭で、そんなことを考えた。