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売れない作家 高村裕樹の部屋

まだ駆け出しの作家ですが、作品の情報や、内容に関連する写真(作品の舞台)など、掲載していきたいと思います

『幻影2 荒原の墓標』第12回

2014-04-04 20:36:31 | 小説
 今日は強風が吹き荒れ、私の部屋の前にある、満開の桜の花びらが、風でどんどん吹き飛ばされていました。花吹雪ですが、せっかくきれいに咲いているのに、花がなくなってしまうのでは? と心配です。
 4月から消費税が8%に上がり、それ以後、今日初めて買い物に行きました。
 1日には新作の校正原稿をレターパックで出版社に送りましたが、それを除いて、初めて消費税アップ後にお金を使いました
 売れ残って値下がりしたものを中心に買いましたが、家計に響きそうです

 今回は『幻影2 荒原の墓標』12回目の掲載です。

            

 七月に入り、さくらは卑美子より、プロとしての許しを得た。トヨのときのように、特にプロのためのテストはしなかったが、何十人にも彫らせてもらった作品を見て、卑美子は七月より、一時間一万円の料金を取ってもよろしいという許可を出したのだった。それは卑美子、トヨと同じ料金だ。彫るスピードも上がり、トヨと同額にしても引けを取ることはなかった。さくらは、私なんかが先生やトヨさんと同じ土俵に立たせてもらっていいのだろうかと思うと、申し訳ないのと同時に、とてもありがたかった。卑美子が認めた以上は、さくらはプロとしての技量は十分にある。卑美子はいい加減なことで妥協したりはしない。
 七月三日の公休日に、さっそくさくらの記念すべきプロデビュー作第一号、二号として、恵と美奈はさくらに彫ってもらった。トヨのプロ最初の作品は美奈だったので、今回は恵がさくらのプロとしての第一作めを彫ってもらった。美奈が今度はメグさんに、と譲ったのだった。
 葵からも、さくらがプロになったというので、おめでとうというメールが届いた。そして、名古屋に行く機会を作るから、記念にひとつだけ小さい絵を彫って、と書いてあった。アイリのように、腰に小さな絵を入れるつもりだ。
 葵は今、静岡市葵区の駿府(すんぷ)公園の近くにある賃貸マンションに、夫婦二人で住んでいる。葵は昼間は近所のスーパーマーケットで、レジのパートをして働いている。パートが休みの日には、運動のため、ときどき標高一七一メートルの賤機山(しずはたやま)に登っているという。秀樹と一緒に歩くこともある。
 恵は左腕、肩の近くに赤い牡丹、美奈は右の乳房に同じく赤い牡丹を彫った。美奈は左の胸に紫の牡丹があるので、左右がシンメトリーとなった。そしてトヨもさくらのプロ三号として、左胸に紫の牡丹を入れてもらった。三人とも牡丹の花だった。トヨのプロ最初の作品が、四人同じマーガレットの花だったので、今回も三人が同じ絵を入れようということになった。ただ、さくらは転写ではなく、肌に直接下絵を描くので、全く同じ絵というわけにはいかないが、似せて描くように努めた。
「メグさん、腕には入れないと言ってたのに、大丈夫ですか?」 と彫る前にさくらは確認した。
「大丈夫よ。少し長めの半袖ならはみ出ないし。この位置なら、後ろの蝶のタトゥーとマッチするでしょう」
 昨年末に卑美子に入れてもらった青いアゲハチョウを飾るのにも、ちょうどいい場所だった。
 トヨはさくらの練習で、左右の太股の後ろ側に、龍と鳳凰を彫ってもらっていた。太股の後ろは、自分の手が届かず、練習で彫れなかったため、白いまま残っていたのだ。トヨは自分の経験に基づき、実戦に向けての練習のため、さくらにあえてむずかしい注文をつけていた。もちろんそれは意地悪ではなく、自分のためを思ってしてくれるのだということを、さくらは理解していた。
 背中には入れないと言っていた恵が、龍と牡丹を背中一面に彫ることを決意し、さくらに見本の絵を描いてくれるよう、依頼した。
「あまり大きくしないつもりだったのに、私もやっぱり悪の誘惑に負けちゃったわ。でも、消すことができないほどの大きな絵を彫ったほうが、一生タトゥーを背負っていくんだという覚悟もできて、すっきりする」 と恵は笑っていた。
 さくらがプロとして初めて三人に作品を彫った日の夜、卑美子は四人を自宅に招待し、手料理をご馳走してくれた。このとき、恵と美奈は初めて卑美子の夫に会った。夫は大島隆一(りゅういち)といい、卑美子とはかつて暴走族の仲間だった。隆一は卑美子より二歳年上の、三八歳だ。隆一が暴走族のヘッドを張り、卑美子がレディースのリーダーだった。二人は手がつけられないほどの不良だったが、当時交通機動隊で暴走族を取り締まっていた、巡査長の鳥居と激しい格闘をして渡り合った。その結果、二人は鳥居と心が通じ合い、更生できたのだった。だから二人は鳥居のことを、恩人として非常に大切に思っている。隆一は 「鳥居のとっつぁん」 と親しみを込めて呼んでいた。
 隆一はかつて暴走族のリーダーとして暴れ回っていたとは思えないほどの温厚な感じだ。卑美子とはとても仲睦まじく、幸せそうな夫婦だった。二人は暴走族やレディースのメンバーを友として非常に大切にしていたので、仲間内では人望が厚かった。当時の主要なメンバーはやはり鳥居のおかげで更生し、まだ交友が続いている。何人かは卑美子にタトゥーを入れてもらった。
 トヨとさくらは、心身の鍛練と護身のために、隆一からときどき空手の手ほどきを受けている。隆一も卑美子も空手の有段者だ。
 卑美子の家に招かれたとき、恵と美奈は卑美子の妊娠を告げられた。
「え、先生、そうなんですか? おめでとうございます」
 恵と美奈が卑美子に祝福の言葉を贈った。
 最初はプロとして許可を出す前に、さくらに卑美子の肌に彫らせてプロの試験をする予定だった。試験なしで許可したのは、妊娠が判明したためだった。代わりにトヨの肌を試験に使うということは、したくなかった。試験をしなくても、さくらの技量はすでに十分だった。
 少し前に、美奈は姉の真美から二人目の子供を授かったという知らせを受けていた。姉に続いて、卑美子からもおめでたい知らせだった。
「もう三ヶ月よ。だから、これからはすでに予約を受けている分だけにして、新規の受付はしないつもりです。私ももう高齢出産になるから、大事にしなくてはね。トヨもさくらもしっかりやってくれるから、私が休んでいる間は、安心して二人に卑美子ボディアートスタジオの看板を任せられます。本当に二人とも頑張ってくれているから、私も嬉しいですよ」
師である卑美子にそう褒められ、トヨもさくらも恐縮してしまった。
 卑美子は料理に腕を揮(ふる)った。スタジオを終えてからなので、夕食というより、夜食の時間となってしまう。スタジオは遅いときには、午前様になることもあるので、つい食事の時間が不規則になる。申し訳ないと思いながらも、隆一には、一人で出前や外食で食事を先にすませてもらっている。ときには隆一が自分で調理し、遅く帰ってきた卑美子に料理を温めてくれることもある。そのときは 「今夜は俺がめしを作って待ってるからな」 などと携帯電話にメールしてくれる。隆一は理解がある夫だった。かつて二人で暴れ回っていた不良だったが、今では夫婦として、お互いとてもよいパートナーとなっている。
 子供が成長し、タトゥーアーティストとして復帰しても、トヨとさくらの信頼できる弟子たちにスタジオを任せ、卑美子は稼働時間を短くして、家庭を大切にしたいと考えている。多少収入は減っても、これまで隆一と共働きしてきたおかげで、十分な資産がある。子供が成長し、学費などで大きなお金が必要となっても大丈夫だ。それに、タトゥーアーティストを辞めるわけではない。これからも身体をこわしたりしなければ、ある程度の収入を見込むことはできる。
 また、トヨとさくらには、これから遅くとも夜一〇時にはスタジオを閉め、無理をしないように指導していこうとも考えている。以前は不定休だったスタジオも、水曜休みとした。すでに水曜日に予約が入っている分はやむを得ないが、今後水曜日の予約受け付けはしない。やはり不規則な生活で、体調を崩さないようにしなければいけない。特にさくらはスタジオに住み込みなので、休日をきちんと決めなければ、休みを取れなくなってしまう。
 トヨとさくらはときどきご馳走になることがあるが、恵と美奈は、卑美子の手料理は初めてだった。心尽くしの卑美子の料理はとてもおいしかった。この日は隆一も一緒にテーブルに着き、盛り上がった。みんなの共通の知人である“鳥居のとっつぁん”の思い出話をしてくれた。ビールや日本酒も入った。美奈は苦いビールがあまり好きではないが、最近多少は飲めるようになった。ただ、タトゥーを入れたあとはアルコールは厳禁なので、乾杯だけにしておいた。卑美子は妊娠が判明してから、酒を控えている。たばこはもうやめていた。副流煙の害があるので、隆一も禁煙している。卑美子の出産に向け、隆一も全面的に協力している。
「もしできるものなら、俺が出産の苦しみをマコと代わってやりたいぐらいだ。でもこればかりは、男には絶対無理だからな。子供との絆をより深く持てて、ある意味、母親が羨ましく思うよ」 という隆一の言葉を、美奈は微笑ましく思った。隆一は卑美子のことを、暴走族時代からの愛称で、マコと呼んでいる。その夜は皆は卑美子の家に泊まった。

 六月下旬に刊行された北村弘樹の新作、『荒原の墓標』の売れ行きはまずまずだった。初版発行後、すぐ版を重ねた。『荒原の墓標』が発売になってから、初めて北村がオアシスを訪れた。
「いやあ、よく降りますね。七夕豪雨なんてのが昔あったと聞きますが、明日も七夕ですね。今は梅雨前線が活発で、よく雨が降る時季なんですね。これじゃあ、織り姫さんと彦星さんのデートもままなりませんよ。今日は大降りだから、すぐ予約できると思ったら、夜一〇時過ぎでないと空いてないと言われました。ミクさん、相変わらず大人気ですね」
 季節の挨拶をしながらミクの胸を見た北村は、 「あれ、ミクさん、赤い牡丹が増えてますね。まだ彫ったばかりじゃないですか?」 と言って、かさぶたが張りかけたミクの乳房のタトゥーに触れた。
「いやですわ、高村さんのエッチ」 とミクは笑顔で応じた。
「高村さん、新しいご本、よく売れているそうですね。おめでとうございます」
「ありがとう。でも、この世界は、一冊や二冊、いいものを出しても、継続できなければ意味がありませんからね。以前の僕がそうでした。よかったのは七作目までで、それ以後は鳴かず飛ばずでしたよ。特に、トリックの代わりに呪いを使ったのは、大失敗でした」
 北村は以前の苦い思い出をミクに語った。
「私、その作品も読みましたが、それほど悪いとは思いませんでした。いきなり最後の種明かしで呪いの藁人形だった、なんてことになれば、まずいと思いますが、かなり呪いとか、人の念の恐ろしさなどについて、詳しく説明もあり、伏線もきちんとなされていましたし。かえって、ホラー感覚で読めて、楽しめました」
「そのような好意的な意見も一部にありましたが、やはり推理小説に呪いを持ち込んだのは、邪道だったようですね。僕は斬新なアイディアだと思っていたのに。ホラー小説としては陳腐でしたし。それ以後、僕は何とか失点を挽回しようと焦るばかりで、いい作品が書けなくなり、急坂を転がり落ちるように転落しました」
 北村は自分の失敗談などをミクに語った。そして、初めてミクに会った翌日に起きた、南木曽岳での不思議な体験も話した。
「え、そうなんですか? 南木曽岳中腹の、夜の森の中で、そんな体験をなさったんですか」
「あのときは僕も驚きましたよ。今では夢を見ていたんじゃないかと思います。でも、その声がなかったら、僕は間違いなく自殺していました。死ぬな、というあの声で、もう一度やり直してみようと思ったんです。そして、曲がりなりにも、以前ほどではないですが、そこそこ『鳳凰殺人事件』が売れ、何とか復活への道筋が見えてきました。ひょっとしたら守護霊の声だったのかもしれません」
 美奈も千尋の霊を初めて見たときは、夢なのかしらと思った。しかし今現実に、守護霊となった千尋からときどき霊界からの通信が来る。また、新しく買った車に呪縛されていた女性の霊も、今では交通事故から守ってくれる守護霊となっている。だから、北村が言っていることは、一概にでたらめだとは思えなかった。
「ミクさんは信じてくれるんですか」
「はい。実は、私にも似たような経験がありますから。私の場合は、運転中にスピードを落としなさい、という声が聞こえたので、助かりました」
「そうですか。ミクさんも霊の声を聞いた体験があるのですね。ミクさんはお寺の娘さんだというから、霊感も強いんですね」
「いいえ、そんなことはないんですが。それに私の父も兄も、霊などいない、と否定してましたし」
「お坊さんなのに、霊はいないというんですか?」
「でも、死後の世界を完全に否定しているわけではなく、念仏を唱えれば、死後極楽浄土に往生できる、と言ってます。私としては、霊の存在を否定していながら、極楽浄土があるという考え方には、ちょっと矛盾を感じて、賛成できないところもあります。宗派が違いますが、お釈迦様の根本の教えや、日蓮大聖人様の仏法のほうが、私としてはいいと思います」
「お寺の娘さんが、宗派の教えに疑問を持っているのですか?」
「私、ソープランドに勤めていたり、全身にいれずみ入れたりしたことがばれて、住職をしている兄から勘当されてしまいまして、今はお寺とは関係なくなってしまいました。もともと私、お寺の娘なのに、うちの宗派があまり好きではなかったですし」
 北村とはそんな信仰上の話をしていたが、やがて山の話に移っていった。北村が南木曽岳にはよく登った、と言ったのに対し、美奈も南木曽岳には三度登ったことがある、と応えた。
「私は上の原、尾越(おこし)のどちらからも登ったことがあります。シュラフを持参して、山頂付近の小屋で一人で泊まったこともありました。ゴールデンウィークでしたが、夜は寒かったです」
「え、ミクさんも山登りをするのですか? 無人小屋にシュラフを担いで一人で泊まったということは、けっこう山をやってますね」

  南木曾岳山頂付近の山小屋です

 南木曽岳には、南北二つの登山道がある。北の上の原から登るルートは、距離が長く、体力が要求される。南の尾越からのルートは、途中で二つに分かれる。一般には登りは左側のルートを使い、登頂後、摩利支天(まりしてん)を経由するルートを下山に使う。尾越からのコースは、上の原からの登山道より距離は短いが、急峻だ。どちらのルートも、それぞれの良さがあり、美奈は下りに距離は長くても、尾越からのルートよりはなだらかな上の原ルートを使うことにしている。直接駅まで下るので、バスの時間を気にする必要もない。
 標高一六七七メートルの頂上は樹林に覆われているが、その近くの見晴台からは、御嶽山(おんたけさん)や中央アルプスが美しい。また、避難小屋から少し上がった女岩(めいわ)の展望台からは、間近に中央アルプス連峰が望まれ、その展望の雄大さには圧倒される。上の原ルートの途中にある、巨大な樹木の森も素晴らしい。深く怪しい森の中に迷い込んだかのようだ。南木曽岳は美奈が最も気に入っている山の一つだ。
 北村は華奢(きゃしゃ)なミクが登山のベテランで、北アルプスや中央アルプス、八ヶ岳などにも単独行で登っているということを聞き、意外な思いをした。一度一緒に山に行きませんか、と誘おうかと、喉元まで声が出かかったが、それは遠慮しておいた。
 北村はソープランドのコンパニオンと、個人的に会うことはあまりよくないのではないかと思った。全身にタトゥーが入ったソープレディーと一緒に歩いている姿が報道されるのはまずい。特にミクは半年ほど前、殺人犯人の疑いで、週刊誌などにスクープされたことがある。そんなソープレディーと仲良く登山している画像がインターネットで流れでもしたら大変だ。噂はあっという間に広がってしまう。ミクとはやはりオアシスだけの関係にしておいた方が賢明のようだ。
 北村はミクにとっては、非常に好意を持てる客ではあったが、結局自身の保身を第一に考えている、一般客と変わりがなかった。三浦のように、下手をすれば警察幹部への道を閉ざす虞(おそれ)があるのも辞さず、美奈との付き合いを続けているのとは違っていた。
 その日は山の話などをしながら、ミクはサービスを終えた。


『幻影2 荒原の墓標』第11回

2014-03-28 12:58:16 | 小説
 最近はめっきり春めいてきました
 日中は汗ばむ陽気です
 花粉も飛び交い、外出すると目がかゆくなります。私の場合は、目のかゆみと、若干の鼻水が出ますが、花粉症の症状としては軽いほうかもしれません。

 今回は『幻影2 荒原の墓標』第11回目を掲載します。


            

「僕の新作ができたから、ミクさんに差し上げます」
 作家北村弘樹は新作『荒原の墓標』をミクに渡した。
「え、これ、いただいていいんですか?」
「はい、どうぞ。ただ、書店に並ぶのは、月末ですが」
「ありがとうございます。さっそく読ませていただきます。とても楽しみです」
 客からの金品の贈り物は固辞しているミクだが、この本の贈呈はありがたく受けておいた。コンパニオンの中には、かなり客から貢がせている人もいる。
 昨日は葵の結婚式で、ミクは日曜日を公休日にした。それで月曜日を出勤にしていた。北村は久しぶりにミクを指名した。前もって予約しておかなければ、なかなかミクを指名できなかった。
「この前の『鳳凰殺人事件』は、偶然とはいえ、よく似た殺人事件が実際に起こってしまいましたが、今度はそんなことないでしょうね。まあ、そのことが話題になり、また売り上げが伸びましたが。テレビのワイドショーなんかでも、取り上げられましたからね。でも今度の作品は、三件の殺人事件があるから、その通り起こってしまったら大変ですよ」
 北村は冗談のつもりで、笑いながら言った。しかしその笑いはこわばっていた。
「ええ。この前の事件の犯人は、すぐ捕まりましたし、もう大丈夫だと思います。ただ、この前の犯人は、突然人を殺したい気分になったとかいうのが、ちょっと気味が悪いです。犯人は粗暴な人で、よく動物を捕まえては虐待していて、いつかは人を殺してみたかったなんてひどいことを言っていたそうですが」
「ミクさんもなかなか熱心に事件を追っているのですね」
「はい。私も今、ミステリーを書いているので、自然と事件なんかに興味を持っちゃうんです。最近はほんの些細なことで凶悪な事件が起こるから、怖いです。本当に、人の心が荒廃しているのだなと思うと、これからの社会が心配になります」
「ほう。ミクさんもミステリーを書いているんですか? どんなものか、一度読ませてもらいたいですね」
「いえ、先生の作品に比べたら、子供の作文みたいなものです。とても見せられるものじゃあ、ありません。それにまだちょっと書き出したばかりで、あまり進んでいませんから」
「そうですか。もし書けたら、一度見せてもらえませんか? いい作品なら、出版社にも紹介してあげますから」
 美奈の作品『幻影』は、もう四〇〇字詰め原稿用紙換算で、二〇〇枚近く書かれていた。予定では、その三倍ぐらいの分量になりそうだった。葵や恵、さくらはおもしろいと高く評価してくれるものの、プロの作家である北村に見せるのは、ちょっとためらわれた。それにまだ途中だし、ある程度プロットは立ててあるとはいえ、これからどう展開させるか、自分でもわからない。実際に起きた千尋や繁藤の事件を土台にしてはいるが、創作の部分も多かった。ひょっとしたら、最初の案とは別の方向に進めてしまうかもしれない。
「はい。もし完成して、先生に見ていただいても恥ずかしくないような作品になれば、読んでいただきたいです」
「楽しみにしていますよ。それからここでは先生ではなく、高村でお願いしますね」
「あ、すみません。また言っちゃいました」
 北村と話をしながらも、ミクは心づくしのサービスを続けた。北村との五〇分はあっという間だった。ミクは北村と話しながら仕事をするのが、非常に楽しかった。かつてミクが心惹かれた客に安藤がいた。安藤はミクにプロポーズし、ミクもかなり心が傾いた。しかし安藤はミクから金を詐取するのが目的だった。結局安藤――本名は繁藤――は殺され、ミクは心ないマスコミに、ゴシップのタネにされてしまった。ミクにとっては、心が痛む事件だった。北村は、そんな安藤とは違い、恋愛感情はいっさい抜きで、接待していると、心が和むのだった。
「では、また次もミクさんを指名しますね」
「本当にいつもありがとうございます。これ、新しい名刺です。日程表が新しいものになっていますので」
 ミクは名刺にその場で、 「新しい本がミリオンセラーになることを祈っています」 とメッセージをペン書きして、入泉料の割引券と一緒に北村に手渡した。北村は美奈の心のこもった接待に満足して帰っていった。

 美奈は北村からもらった本を、そっと自分のロッカーに入れた。まだ発売されていない本なので、他のコンパニオンに見つかってはまずいと思った。客として、作家北村弘樹が来ていることは、仲間のコンパニオンにも隠しておいたほうがいい。特に有名人だけに、プライバシーの管理には注意しなければならない。

 仕事が終わってから、美奈は恵といつものファミレスに行った。二人だけでは寂しいので、アイリ、リサも誘った。最近ときどき二人を誘う。さくらに蓮のタトゥーを入れてもらってから、アイリともよく話をするようになった。アイリは小回りがきく原付なので、美奈の車より先にファミレスに着いていた。なじみになったウエイトレスが、 「しばらくお見えにならなかったので、心配してましたが、最近、新しいお仲間がお見えになりますね」 と笑顔で声をかけた。以前は四人娘が深夜によく来たので、ファミレスでも目立っていた。
 四人は軽食とドリンクを注文した。ドリンクは飲み放題だ。
 アイリは元同僚だった葵の結婚式の様子を聞きたがった。美奈はデジカメで写した写真を見せた。
「えー、これ、ミドリさんなの? すっごくきれい。見違えちゃった。ウエディングドレス姿のミドリさん、とってもすてき。これ、欲しいから、プリントしておいて」
 アイリもリサも、まだ葵のことを、源氏名でミドリさんと呼んでいる。入店以来ずっとミドリさんと呼んでいたので、なかなかその癖は直らなかった。
「あたしもウエディングドレスからはみ出すところには、タトゥーを入れないようにしよう」
 アイリはもう少しタトゥーを増やすつもりでいるが、恵や美奈から話を聞いて、目立つ場所には入れないようにしようと思った。アイリが腰に蓮のタトゥーを入れて、嫌がられた常連客もいたが、好意的に受け止めてくれた客も多い。タトゥーを入れたことにより、指名が減った、ということはなかった。アイリ自身は、腰につけた新しいアクセサリーをとても気に入っていた。
 リサはリストカットの傷を隠すため、左手首から肘にかけて、大きく入れてしまったので、長袖の服を着ても、リストバンドでもしなければ、タトゥーを隠すことができない。しかし忌まわしい思い出がある傷痕が見えるよりは、きれいだからずっといいと、タトゥーを入れたことを後悔していない。
 おとなしいリサが、大きなタトゥーを入れたので、なじみ客は驚いた。オアシスにはタトゥーを入れたコンパニオンが増え、タトゥーも店の特色になっている。特に美奈が殺人事件に巻き込まれ、週刊誌などに書き立てられてから、そのイメージが定着した。
 リサは無口な性格のために、指名客が少なく、成績では中位から下位に甘んじていた。それが、タトゥーを入れたことによって、リストカットの傷痕の呪縛から解放されたのか、少しずつ明るい積極的な性格に変わっていった。振りの客を接待し、そのまま常連になってくれることも増えてきた。以前は暗い性格が災いして、リサを再度指名してくれる客はあまりいなかったのだが。
 恵と美奈は、葵の結婚式のことを話題にした。夕方、葵から 「今日は函館を見物して、市内のホテルに泊まる。明日は小樽までのドライブの予定」 というメールが届いていた。ホテルや車、ハートなどの絵文字が使われていた。車はちょっと贅沢をして、セルシオを借りたそうだ。そのメールの内容もアイリとリサに伝えた。
「いいなあ、レンタカーで北海道の旅なんて。あたしもハネムーンは外国じゃなくて、北海道にしようかな。北海道はでっかいどう」
 アイリは古いだじゃれを口にした。
「でも、その前に相手を見つけなくちゃあ」
「あーん、ケイさんったら、あたしが一番気にしてることを」
 四人はしばらくファミレスで楽しく歓談をした。葵、さくらがいなくなり、二人だけでは味気ないから、とあまりファミレスに行かなくなったが、最近アイリとリサが加わり、仕事後、楽しいひとときを持てるようになった。新しい四人娘の誕生だ。アイリはさくらに負けないほど賑やかだった。リサはかつての美奈のように、物静かな女性だ。美奈は以前と比べて、ぐっと明るくなった。葵に代わり、今は恵がリーダーシップをとっている。
 一時間近く話をしてから、四人は別れた。恵とリサは美奈が車で送っていく。原付のアイリに、 「気をつけて帰ってね」 と恵は声をかけた。アイリのアパートは、中村区の西にある稲葉地公園の近くで、原付でファミレスから数分の距離だ。今夜は梅雨の中休みで、バイクも気持ちいいが、雨の日はやはりバイクは辛い。アイリは雨の日には、レインスーツを羽織り、慎重に運転をする。アイリは両眼で視力が〇・五を切っており、原付を運転するときはメガネかコンタクトレンズが必要になる。ふだんはコンタクトレンズを使っているが、ときどきおしゃれなメガネも使用する。夜遅い時間に原付で走るので、外見から女性とはわからないよう、男っぽい格好をしていた。
 リサは地下鉄本陣駅の近くにアパートを借りている。オアシスへは歩いて通勤できる。
 美奈は新しい車にはもうすっかり慣れた。パッソは小回りがきき、運転しやすい。燃費も以前の軽とほとんど変わらない。インターネットの書き込みで、コンパクトカーとしては燃費が悪い、とよく書かれているが、パワーが低いので、つい必要以上にエンジンをふかしてしまうからだと思う。発進のとき、アクセルを踏みすぎないなど、エコ運転を心がければ、美奈が通勤で走る国道一九号線や三〇二号線などで、ガソリン一リットルで一五、六キロは走る。渋滞が多い名古屋市内の道路では、もう少し落ちるだろう。エコ運転といっても、美奈は車の流れを妨げない程度のスピードを出している。高速道路では、さらに燃費が伸びそうだ。気がかりだったコラムシフトのチェンジレバーや、足踏み式のパーキングブレーキも、慣れてみると、操作性は悪くなかった。助手席も後ろの席も、車体が小さい割には、思ったより広くていいね、と恵が感心した。チェンジレバーがコラムシフトのため、美奈の車の前席はベンチシートになっており、広々としている。
 千尋に加え、もう一人、多恵子が守護霊として車の安全を護ってくれることになり、美奈はありがたい思いでいっぱいだった。けれども、いくら守護霊が護ってくれるとはいえ、乱暴な運転をしては事故を起こすので、美奈は安全運転を心がけている。


『幻影2 荒原の墓標』第10回

2014-03-21 13:27:09 | 小説
 昨日は地下鉄サリン事件から19年でした。
 警視庁が選んだ100大事件の筆頭が、地下鉄サリン事件です。
 前にも書きましたが、私はこの事件の2ヶ月前に、オウムの経営と知らず、マハーポーシャのパソコンを買ってしまいました。
 あのときの代金35万円は、ひょっとしたらサリン製造の資金に……?と思うと、忸怩たるものがあります
 今回は『幻影2 荒原の墓標』の第10回目です。
 今たまたま読んでいる森村誠一先生の『炎の条件』は、邪教と戦う男の姿が描かれています。
 私もいつかは『幻影』シリーズで、美奈たちと邪教を対決させてみようと思っています。


            

 六月一一日、葵の結婚式。六月は大安に当たる土日がなかったため、結婚式には、大安に次ぐ吉日とされている友引の日を選んだのだった。式は静岡駅の近くのRホテルで行われた。午後二時開催だ。葵と秀樹は特定の宗教を信仰しているわけではないので、人前式スタイルを選択した。キリスト教式や神前式のような、決まった形がなく、二人でどのような式にするかをよく相談し合った。秀樹の友人にも、人前式の経験者がいるので、その友人にもいろいろとアドバイスを受けた。
卑美子、トヨ、恵、さくら、美奈の五人は、恵が運転するシルバーメタリックのセレナで、朝八時に名古屋を出発した。恵は卑美子ボディアートスタジオから名古屋長久手線を東に走り、名古屋インターチェンジから東名高速道路に入った。東名高速道路を利用すれば、三時間ほどで静岡まで行けるのだが、渋滞があるといけないので、余裕を持って、早めに卑美子のスタジオを出発した。三日前に梅雨入り宣言があったものの、その日は梅雨の中休みで、天気はまずまずだった。
 手首までびっしりタトゥーが入っている卑美子とトヨは、タトゥーが見えないように、服装には特に気を配った。恵、さくら、美奈もかなりタトゥーが入っており、露出が多い服は着られなかった。背中や胸が開(あ)いている服は絶対に着られない。礼服を選ぶのに、苦労した。やはり式場、披露宴ではタトゥーは隠しておきたかった。
 東名高速道路は豊田から岡崎、音羽辺りで少し渋滞していたものの、それ以外はスムーズに流れていた。
浜名湖サービスエリアで少しトイレ休憩をした。陸地深く入り組んだ浜名湖の眺めがとてもきれいだった。美奈は小学生のころ、サービスエリアの対岸にある舘山寺温泉のホテルに、家族で泊まった記憶がある。
さくらはサービスエリアの売店で買ったうなぎドッグを、おいしそうに頬張った。
「さくらって、何か食べてるとき、すごく幸せそうね」
 恵がさくらの満足そうな顔に感心した。
「うん。私、おいしいもの食べてるときが、一番生きていると実感するんだ。もし飢饉になって、食べ物なくなったら、私、真っ先に飢え死にするかもしれない」
 トヨと恵もさくらにつられて、うなぎドッグを買った。
正午過ぎに会場のホテルに着いた。晴れてはいても、空は靄がかかっているのか、遠くの山がかすんでいて、よく見えなかった。楽しみにしていた富士山の秀麗な姿はお預けだった。
 前年四月に政令指定都市に移行した静岡市は、美奈が想像した以上に大きな都会だった。名古屋駅周辺のような超高層ビルはないものの、一〇〇メートルを超えるビルもあり、静岡市の都心は、名古屋にも遜色ないほどのビル街になっている。ただ、市街地の大きさは、やはり名古屋のほうがずっと大きかった。
 静岡市は二〇〇五年二月に、高山市が周囲の町村を合併し、東京都に匹敵するほどの面積となるまでは、日本で最も広い市だった。駿河湾から南アルプスまでの広大な市域を有している。南アルプスの三〇〇〇メートル峰一三座のうち、間ノ岳(あいのだけ)、西農鳥岳(にしのうとりだけ)、農鳥岳、塩見岳、荒川前岳、荒川中岳、悪沢岳(わるさわだけ)、小赤石岳(こあかいしだけ)、赤石岳、聖岳(ひじりだけ)の一〇座が、政令指定都市である静岡市内、または山梨県、長野県との県境上にある。膨大な南アルプスの多くが、行政区でいえば、静岡市葵区なのだ。山好きの美奈にとっては、憧れの街だ。
 式までまだ二時間近くあるので、五人はホテルのレストランで軽く食事をすることにした。
「葵さんに会うの、二ヶ月ぶりだから、とても楽しみです」
美奈は毎日のように葵とメールや電話のやりとりをしているが、実際に葵に会えるのが、嬉しかった。
「葵さん、美奈のお姉さんみたいな存在だったからね」 と恵が言った。
「葵さんとさくらの最後の出勤の日、勤務が終わって、花束渡すとき、美奈ったら、わんわん泣き出しちゃったもんね」
「いやだ。メグさん、もうその話、しないでください」
 美奈は照れくさそうに言った。
「でも、あのとき、私もすごく涙が流れちゃった。葵さんも目に涙を浮かべていたし。メグさんはニコニコしてましたね」
 送られる側だったさくらも、そのときの状況を懐かしく思い出した。
「そんなことないよ。みんなと別れて、一人になったとき、私も家で泣いちゃった」
それから三人は高山への送別旅行のことなどを話題にした。宿泊したホテルは、 「入れ墨、タトゥーがある方のご入浴はご遠慮ください」 とあったので、夜中にこっそり大浴場に行ったら、背中に大きく弁財天を彫った先客が入っており、タトゥー談義に花が咲いたことも、一つの思い出だった。さくらが全国的に有名な卑美子ボディアートスタジオで修行していると聞き、彼女は驚いていた。
浴場から出たあと、その女性は美奈たちの部屋に寄って、しばらく歓談した。彼女は四〇歳近い年齢で、東京でエステティックサロンを経営しているそうだ。そこではボディーアートとして、ワンポイント程度のタトゥーも行っている。エステ等で行っているアートメイクは、基本的にはタトゥーと同じ原理だ。東京に来たら、ぜひ寄ってくださいと、エステサロンの連絡先が入った名刺をくれた。

いよいよ式の時間となった。美奈たち五人も、式場となっている部屋に行った。特に宗教色がない人前式スタイルとはいえ、式場はチャペルとなっており、正面には十字架が掛かっていた。
 新郎新婦の入場。美奈は純白のウエディングドレスをまとった、葵の美しい花嫁姿に目を奪われた。オアシスでも上位の人気を保つコンパニオンだっただけあって、その美しさは際立っていた。肉付きがよかった身体も、シェイプアップされていた。エステ通いの成果よ、と葵は美奈たちにメールしていた。
 司会者による開会宣言。司会者は新郎である秀樹の友人に依頼した。職場では宴会屋という異名がある人で、結婚式などの司会もそつなくこなすそうだ。立会人代表は葵と秀樹が高校時代に所属していた、演劇部の顧問の先生だ。葵と秀樹は、高校時代、演劇部での先輩後輩の間柄だった。秀樹が一年先輩だ。葵が名古屋に来てから、一時帰郷したときに再会し、親密になった。
 最初に司会者より、人前式とはどういうものかということが説明された。普通の結婚式は、神や仏に結婚の報告をして、永遠の愛を誓い合うものだ。神様、仏様が愛の証人(?)となる。しかし人前式の場合は、式に参加した人たち、家族・親戚や会社の上司、同僚、部下、そして友人、知人など、全員が愛の誓いの証人となる。
 いよいよ結婚の誓約だ。司会が永遠の愛の誓いを求め、それに応える形で、二人は誓いの言葉を読み上げる。
「私(わたくし)中村秀樹は、日野葵さんを生涯の妻とし、幸せも喜びも、そして苦しみや悲しみもすべて二人で分かち合い、永遠に愛することを誓います。たまにはけんかをすることもあるかもしれません。しかし、けんかをしても、雨降って地固まるで、さらに堅固なる愛情を築きます。今までは仕事第一でやってきましたが、これからは家庭を第一、仕事は第二とし、葵さんに尽くします」
「私(わたくし)日野葵は、中村秀樹さんを生涯の夫とし、どんなことがあろうとも、秀樹さんと二人で協力し合い、永遠の愛を誓います。私はどちらかといえば、家事や料理が苦手ですが、秀樹さんのために、一生懸命勉強します。そして、愛にあふれた、温かい家庭を築きます」
 二人が愛の宣誓をすると、会場から、割れんばかりの拍手があった。口笛や、ちょっとしたヤジも飛んだ。
 参加者が見守る中で、新郎新婦が婚姻届けに署名した。立会人代表がその婚姻届を頭上に掲げ、参加者に披露した。全員がそれを拍手で確認した。そして指輪の交換。参加者は立会人として、全員が愛の誓いの証人となるのだ。二人の誓いの口づけのときには、美奈は感動のあまり泣き出してしまった。美奈はメガネを外し、ハンカチで目頭を拭った。今からこんなことでは、披露宴で、三人で歌を歌うとき、泣かずに歌えるかしらと心配になった。
 新郎新婦の乾杯が終わると、司会と立会人代表が、 「これで中村秀樹さんと日野葵さんの結婚が成立しました。どうぞ、列席の皆様も、拍手でもって、二人の結婚成立を、ご確認ください」 と承認宣言をした。
 会場は 「ウオー」 という歓声を伴った、大きな拍手で埋め尽くされた。中には、クラッカーを鳴らす人もいた。拍手と歓声は何分も続いた。
 感動のうちに式は終了し、閉会が宣言された。人前式には初めて参加する人が多かったが、参加者たちは、神でも仏でもない、自分たちが二人の結婚を見届け、承認したのだということに感動していた。

新郎新婦の退場後、短い休憩時間があった。新婦はその間に化粧直しをする。披露宴まで少し時間があるので、美奈たち五人はホテルの喫茶店に行った。
「美奈、やっぱり泣いちゃったわね。本当に涙もろいんだから」
 恵がシュガーとミルクを入れたコーヒーカップをかき回しながら言った。
「だって、葵さんの純白のウエディングドレス見たら、つい感動しちゃって。式が進行していくうちに、もう我慢できなくなって、涙が流れちゃいました」
「私は人前式というのは初めてだったんで、すごく新鮮に感じましたね」 と卑美子が感想を述べた。
「先生はどんな式だったんですか?」 とトヨが訊いた。
「私は神前式でしたね。打掛けだったけど、背中が少しあ開くので、タトゥーを隠すのに苦労しましたよ。ウエディングドレスなんて、とても着られなかったから、披露宴のときは、なるべく露出が少ないドレスを着ていましたよ。まあ、私の式の場合は、彫波一門の人も来て、けっこう彫り物が目立ってしまいましたけどね。披露宴には、鳥居さんも来てくれましたが、一門の彫り師より迫力があって、彫波師匠なんか、鳥居さんのこと、どこの組の親分さんかね、なんて言っていましたよ。三〇代だった当時から貫禄があったから、親分と間違われたのね。私たち夫婦の恩人です、と答えておきましたが。本当は鳥居さん夫婦に仲人をお願いしたかったんですけど、彫り師も何人か参加する式で、刑事さんに仲人を頼むのは、ためらわれました。奥さんもびっくりするでしょうしね」
 卑美子は結婚式のときのほろ苦い体験を語った。鳥居が彫り師たちから、やくざの親分と勘違いされたことを、皆は笑った。
「鳥居さんの奥さんってどんな方ですか?」 とトヨがまた尋ねた。
「あの鳥居さんからは想像がつかないほどきれいな女性(ひと)でしたよ。最近うちのかーちゃんは太ってきてまったがや、とぼやいていましたけど。娘さんも美人ですよ。鳥居さんご自慢の娘です。お母さんに似て、よかったですよ」
卑美子が笑いながら答えた。
「でも、葵さんのウエディングドレス姿、とてもきれいだった。私たち、タトゥーがあるから、絶対あんなウエディングドレス、着られないもんね」 とさくらが言った。さくらも自分で練習として彫ったり、トヨに入れてもらったりしたので、ずいぶんタトゥーが増えていた。最近はトヨに、腕に龍を彫ってもらっている。
「そうね。私も肩に入れたから、見えちゃうわ。入れたとき、さすがにウエディングドレスのことまで、考えていなかったな。結婚式のとき、どうするといいか、みんなで知恵を出し合わないといけないわね。まあ、その前に相手を探さないといけないけど」 と恵もさくらに同調した。
 美奈は、私と三浦さんでは、結婚式を挙げるなんて、とても無理かな、と思った。現職の刑事、それも敏腕の若手刑事として、県警でも嘱望されている三浦と、自分のような全身いれずみのソープレディーが、恋人同士として付き合っているということすら、公にはできないことだ。二人の交際を知っているのは、美奈の仲間以外では、篠木署の鳥居だけだった。
間もなく披露宴となり、五人は会場の部屋に向かった。

 新郎新婦は、メンデルスゾーンの結婚行進曲に乗って入場した。葵は純白のウエディングドレス、秀樹は黒のモーニングコートだった。パンツはグレー地に黒の縦縞が入っている。媒酌人に先導され、メインテーブルに着いた。
 司会が開会の辞を読み上げた。そして、簡単に新郎新婦の紹介をした。司会は秀樹の高校時代からの親友でもあり、暴露的なエピソードも短く紹介し、会場の笑いを誘った。
 媒酌人は、式では立会人代表を務めており、「先ほど執り行われました結婚式では、ご参列の皆様方のご承認により、新郎新婦は夫婦として結ばれました」 と報告をした。
 両家の家族など主賓の挨拶が終わり、乾杯が行われた。そして、クライマックスのひとつである、ウエディングケーキ入刀。映画『アルマゲドン』のテーマ曲に乗り、新郎新婦が睦まじく寄り添い、二人でケーキにナイフを入れた。式次第は順調に進んでいった。
「あー、やっと食べられるわ。お昼、軽く食べただけなんで、おなか減っちゃった」
 会食がスタートになり、さくらが目の前のご馳走を物色した。
「さくら、はしたないですよ」 と卑美子が笑いながら注意した。今や、卑美子はさくらの保護者のような存在だった。
 新郎新婦はお色直しで、一時退場した。戻ってきた葵は、薄いピンクの地に花柄をあしらった、きらびやかなカラードレスを身にまとっていた。白いウエディングドレスもよかったが、カラードレスの葵もすてきだった。秀樹はディレクターズスーツに着替えている。
 新郎新婦が戻ってから、キャンドルサービスとなった。新郎新婦が参加者のテーブルを一つひとつ回る。美奈たちの円卓に来たとき、葵は 「今日は遠いところから、ありがとうございます」 とお礼を言った。以前、脇腹に牡丹を彫ったとき、五人に会っている秀樹も、美奈たちに挨拶をした。
「今日の葵さん、すてき。すごく輝いてるよ。私も早く葵さんに追いつかなくちゃあ」
 恵が最初に葵に応えた。さくらも美奈も、間近で見た葵の花嫁姿に、目を奪われた。葵は 「披露宴の間は、なかなか話ができないから、終わってから、このホテルのラウンジで待ってて。私も都合つけて駆けつけるから」 と伝言した。
 そのあと、来賓の祝辞、そして余興が始まった。間もなく私たちの番だと思うと、美奈は胸がドキドキした。恵、さくら、美奈の三人は、安室奈美恵の『CAN YOU CELEBRATE?』を歌うことにしている。曲は長渕剛の『乾杯』、チェリッシュの『てんとう虫のサンバ』、SMAPの『世界に一つだけの花』など、いろいろ検討したが、 「私たちのように、タトゥーをしているアムロちゃんにしよう」 という恵の一声で、『CAN YOU CELEBRATE?』に決まった。三人はこの日のために、かなり練習を重ねた。
 いよいよ美奈たちに順番が回ってきた。最初に恵が代表でスピーチをした。
「今日はこのおめでたい席に招いてくださり、ありがとうございました。私は名古屋で葵さんと知り合って、五年になります。ここに一緒のさくら、美奈とで、仲良し四人娘といわれ、これまで私たちは、本当の姉妹のように仲良くやってきました。葵さんのご結婚で、四人娘は解消になりましたが、でも、私たちの友情の絆は、一生壊れることはありません。葵さんは静岡、私たちは名古屋で、直線距離にして、約一五〇キロ離れていますが、私たちの友情の前では、そんな距離なんて、何でもありません。秀樹さんと葵さんの愛が永遠なら、私たちの友情も不変です。今日は秀樹さんと葵さんに聴いていただくため、私たちは一生懸命安室奈美恵の『CAN YOU CELEBRATE?』を練習しました。下手ではありますが、心をこめて歌います」
そして音楽に合わせ、三人は歌い始めた。事前に『CAN YOU CELEBRATE?』を歌うことを知らせてあったので、カラオケが用意されていた。
 最初のうちは順調に滑り出したのだが、歌っていくうちに、美奈の感情が高ぶり、涙があふれてきて、とても歌い続けることができなくなった。そんな美奈を、恵とさくらがカバーして、最後まで歌いきった。
 歌い終えたあと、恵からマイクを向けられた美奈が、 「秀樹さん、葵さん、途中で涙で歌えなくなってしまって、ごめんなさい。でも、私は一生懸命心をこめて歌いました。葵さんは私にとって、お姉さんのような存在でした。そんな葵さんと距離的に遠くなるのは、とても悲しいけど、でも、私たちの心はひとつ、友情は、永遠です。どうか、お幸せに。ときどき静岡にも遊びに来ます」 と涙に詰まりながら語った。
 葵も三人の歌と美奈のスピーチに涙を流しながら、 「ありがとう。本当にありがとう。私たち、いつまでも親友だよ」 とお礼を言った。
 その後、祝電披露、花束贈呈、両親への手紙、閉会の辞と、滞りなく進んだ。両親への手紙のとき、葵も秀樹も泣き崩れてしまった。美奈たちも大きな感銘を受け、もらい泣きした。祝電は個人名で、オアシス店長の田川、アドバイザーの玲奈、フロントの沢村、そしてアイリ、リサなど何人かのコンパニオンたちから来ていた。

 式が終わり、ホテルのラウンジで美奈たちが話をしていると、葵が秀樹を伴ってやってきた。普通のスーツ姿だった。
「ごめんなさい、遅くなっちゃって。せっかく来てくれたのに、ゆっくり話もできなくて」
「そんなこと、気にしなくていいですよ。何せ、今日の主役で、忙しいでしょうし。私たちのために、こうして時間を作ってくれたことこそ、感謝しなくちゃと思います。今日は心に残る、本当に素晴らしい結婚式でした」 と、最年長の卑美子が言った。
 秀樹が脇腹に牡丹の花を彫ってもらったことで、卑美子にお礼を言った。
「何せ、葵が皆さんと離ればなれになるのが寂しいから、みんなと同じように、友情のマーガレットを入れたい、なんて何度も言いましてね。僕も特にタトゥーへの偏見がないから、それじゃあやりなさい、と許したんですが、タトゥーってすごく痛いといいますでしょう。葵だけそんな痛い目にあわせるのは気の毒だと思って、僕も一緒に入れることにしたんですよ。葵が友情のマーガレットなら、僕たちは夫婦の絆としてのタトゥーを同じところに刻もう、と話をして」
「すてきな話ですね。本当に、理想の夫婦だと思います。ぜひ、葵さんとお二人、幸せになってください。早く新しい家族も作ってくださいね。今日は友引だから、私たちもお二人に引かれて、いい人に巡り会いたいと思っています」
 恵がちょっと気を利かした対応をした。
「トヨさんに彫ってもらったマーガレット、みんなとの友情の証として、一生大事にしますね。将来、子供ができて、このお花、何? と訊かれたら、隠すことをせず、皆さんとの友情の証、お父さんとの愛の証だと、堂々と教えてあげますよ。このマーガレット、毎日見ていて、私には秀樹はもちろんだけど、ほかにも素晴らしい仲間がたくさんいるんだ、って実感してるんです」
「ありがとうございます。そう言ってくださると、私もアーティストとして、本当に彫った甲斐があったと、嬉しいです」
 トヨが葵の言葉に目を細めた。
「ところで、ハネムーンは北海道なんですか?」 とさくらが尋ねた。
「ええ。北海道は梅雨の影響が少なくて、爽やかだから。イタリア、フランスとか、オーストラリア、韓国とか、いろいろ話し合ったけど、国内の方が安気(あんき)かな、と思って、北海道にしたのよ。北海道の雄大な自然なら、外国にだって負けないわ。今夜ひかりで東京に行って、明日の朝、羽田から函館に飛ぶのよ。憧れだった知床にも行くわ。北海道では、レンタカー借りて、二人で交替で運転するの」
「わぁ、すてきですね。私も北海道、行ってみたいです」
「美奈だったら、大雪山(だいせつざん)、羅臼岳(らうすだけ)、利尻山(りしりざん)かな。彼氏も山男なんでしょう? 名探偵浅見光彦みたいな、すてきな刑事さん」
 恵が横やりを入れたので、美奈は赤くなった。
「美奈、一度は諦めた恋だったけど、うまくいくといいね。刑事とソープレディーじゃ難しいかもしれないけど、でも私たちも応援してるから」 とさくらも言った。秀樹は葵がソープランドでコンパニオンをしていたことを承知しているから、美奈たちは秀樹に職業を隠していなかった。
「へえ、美奈さんの彼氏って、刑事さんなのですか?」 と秀樹が興味深げに美奈に尋ねた。
「はい。まだ恋人と言っていいかどうかわかりませんが。それに、やっぱり刑事さんには迷惑かけられないから、あまり堂々とは会えませんし」
 美奈は頬を赤く染め、はにかみながら答えた。
 葵と話をしていると、あっという間に時間が経ってしまった。間もなく、秀樹、葵の高校時代の同級生や演劇部の仲間たちが、二次会を開いてくれるという。
「落ち着いたら、必ずみんなで遊びに行くからね。そのときは、静岡、いろいろ案内してね。たまには名古屋にも来てね」
「ええ、名古屋にも行きたいわ。静岡は見るところ、いっぱいあるからね。ぜひ来てちょうだい」
 葵と恵は約束を交わした。
「それじゃあ、葵さん、ハネムーン、しっかり楽しんできてください。お土産、期待しています」
 さくらが葵に手を振った。美奈も 「お気をつけて行ってきてください。お幸せに」 と声をかけた。


『幻影2 荒原の墓標』第9回

2014-03-14 20:20:29 | 小説
 今度100円ショップに行ったらあれとこれを買おう、なんて思っていたのに、いざ100円ショップに行ったら、何を買うつもりだったか思い出せなかったり……
 今日もこんな経験をしました。
 最近どうも忘れっぽくなっていけません

 昨日修理したパソコン、Windows7やWord、Excelなどのアップデートで非常に時間がかかりました
 何百というアップデート用のファイルがあり、インストールするだけでも大変です。
 必要なソフトもインストールし、もう使用できます
 修理といっても、新しくパソコンを自作するのと手間は変わりません。というより、古いパーツを外すので、新しく作るよりめんどうかもしれません
 最安のパーツで組みましたが、ワードや一太郎で作品を執筆するには十分です。
 動画や3Dゲームをやらなければ、十分な性能です

 今回は『幻影2 荒原の墓標』9回目です。
 いよいよ第2章に入ります。

         第二章 新たな事件


            1

 事件が解決し、殺鬼と冥が、見習いの鬼々を連れて、卑美子のスタジオを訪れた。岐阜市の皐月タトゥースタジオから、殺鬼の愛車BMWのセダンを鬼々が運転した。鬼々は殺鬼が運転を任せてくれたことが嬉しかった。ただ、師匠の車なので、鬼々は安全運転を心がけた。お互い多忙なため、殺鬼が来たのは、スタジオの営業が終わった夜遅くだった。
「まあ、いらっしゃい」 と卑美子は弟弟子を歓迎した。卑美子はトヨとさくらを伴い、半月ほど前、さくらのお祝いで食べに行った栄の寿司屋に行った。殺鬼たちが来るというので、部屋を予約しておいた。そこはおいしいし、深夜営業しているからでもあった。錦三(きんさん)や栄のクラブなどに勤務するホステスが、店がはねたあと、よく食べに来る。客と一緒に来て、ちゃっかり奢らせるホステスもいる。車では運転手が酒を飲めないので、タクシー二台に分乗して行った。
「殺鬼のところの冥さんも、お客さんにご不幸があって、大変でしたね」 と卑美子が切り出した。彫波一門では、殺鬼は卑美子の一年後輩で、女性同士、切磋琢磨する友であり、ライバルでもあった。お互いの身体を練習台として、絵を彫り合った。
 当時、一門には何人かの女性の弟子がいたが、彫波の厳格な指導に耐え、彫り師として大成したのは、この二人だけだった。もっとも男性の門下生も、過半数が脱落していった。女性アーティストが珍しくなくなった今では、彫波のところに二人の女性の見習いがいる。今は絵や技術、衛生面に関しては厳しく指導するとはいえ、以前の徒弟制度のような激しいしごきはしなくなっている。
「はい。でも、先輩も同じような辛い思いをしてみえるのですね」
 そう言いながら、殺鬼は卑美子のグラスにビールを注(つ)いだ。
「ここにいるさくらが、事件解決の一助になったんですよ。さくらが描いた似顔絵が、犯人の特徴をよくとらえていたんで、犯人を逮捕することができたんですよ」
卑美子も殺鬼に注ぎ返した。
 トヨや冥たちもお互いのグラスにビールを注ぎ合い、乾杯をした。
「今回も事件を解決したのは、鳥居刑事さんたちだそうですね」 と卑美子は言った。
「前に殺鬼にも話したことがあるけど、私たち夫婦は鳥居さんには大きな恩義があるのよ」
「鳥居さんって、あのニコチャン大王みたいな人ですね」
殺鬼が鳥居をニコチャン大王にたとえたので、さくらが吹き出してしまった。人気アニメに出ていた、名古屋弁をしゃべる宇宙人のことだ。
「そういえば、雰囲気よく似てる。殺鬼先生って、一見クールなのに、おもしろい方ですね」
「さくら、殺鬼先生に対して、失礼ですよ」 とトヨがたしなめた。
「アハ、いいのよ。私、さくらちゃんみたいな明るい子、大好きだから」
 理詰めのしゃべり方で三浦を圧倒した殺鬼も、気が置けない仲間同士では、愛嬌がある面を見せる。
 今回の事件で、冥が少し落ち込んでいたので、以前同じような体験をしている卑美子の話でも聞きに行こう、と殺鬼がこの会談を提案したのだった。トヨやさくらと話をすることも、冥の気晴らしにはなるだろう、と殺鬼は考えた。
 さくらは親友の美奈が以前の事件を鮮やかに解決した冒険譚を、おもしろおかしく紹介した。
「そのとき私と知り合った、ニコチャン大王こと鳥居刑事が、今度は冥さんの事件も解決してくれたのですね」
 少しアルコールが入ったせいで、さくらはいつにも増して、快活だった。冥は楽しそうにさくらの話に聞き入っていた。守護霊が本当に存在するのかと、そのほうの興味もあった。

殺鬼と冥は卑美子の自宅に泊まり、鬼々はさくらと一緒にスタジオに行った。久しぶりに会ったので、さくらは今夜は鬼々と語り明かすつもりだった。トヨも自分のマンションに帰らず、スタジオに泊まった。
 入浴後、三人は待合室にしているリビングルームで、ビールを飲みながら語り合った。タトゥーアーティストというだけあって、三人とも全身に大きくタトゥーを入れている。
「私、いつも思うけど、鬼々、よく顔にタトゥーを彫ったなと感心してるの。冥さんもそうだけど、女の命である顔に入れるのって、すごく勇気がいるよね。いくら小さな絵でも」
さくらが鬼々に言った。鬼々は左のこめかみに、五〇〇円玉大の桜の花を冥に彫ってもらった。小さな絵でも、淡いピンクから中心あたりは濃いピンク、赤とグラデーションがかかり、きれいに仕上がっている。
 鬼々は二一歳でさくらより二歳年下、美奈と同い年だ。長い髪をブロンドに染めている。殺鬼のスタジオに見習いとして入ったのは昨年の秋で、キャリアはさくらより少し長かった。去年の秋、さくらが葵、恵、美奈と一緒に彫波一門のタトゥーコンベンションを見に行ったとき、鬼々は殺鬼に弟子入りしたばかりのころで、コンベンションには参加していなかった。
さくらと鬼々は親しく友達言葉で会話する。さくらは 「鬼々」 と呼び捨てにし、鬼々は年上のさくらを、 「さくらさん」 と呼んでいる。
 鬼々は自分の肌に彫ったり、肌を提供してくれる人には、一時間一五〇〇円という、格安の値段で彫って練習している。
「あたい、これまで何をやっても、中途半端だったんだよね。高校も中退しちゃったし。だから、タトゥーの仕事だけは、絶対辞めるわけにはいかないと思って、冥先輩を見習って、彫ってもらったんだ。顔にタトゥーがあれば、もうほかの仕事はできないし、この仕事をやり抜くしかないと覚悟ができるから。冥先輩がバラなので、あたいは桜にしたの」
「ふうん。すごいわね。私も絶対やり抜くんだという決意を込めて、顔にアーティスト名でもある桜を彫ってみようかしら」
「いいよ。さくらも顔に彫るのなら、今すぐにでも彫ってあげるよ。小さな桜一つだけなんて遠慮せず、ほっぺたいっぱいにたくさん彫ってあげる。これから準備をするから、少し待ってて」
 トヨがさくらを促した。
「ちょっと待ってください、トヨさん。いくら何でも今すぐだなんて、まだ心の準備ができていません。それに、ほっぺにいっぱいだなんて」
 さすがのさくらも、トヨの言葉に慌てふためいた。
「冗談よ。やっぱり顔は女にとって、命だからね。彫るのなら、卑美子先生にも相談してからじゃなければ。たぶん先生は反対すると思うけど。でも、鬼々も冥さんもすごいわね。殺鬼先生も手の甲、指先までびっしりタトゥーが入っているし。その決意、私も敬服するわ」
「でも、どうしても隠さなくちゃあいけないときは、ファンデーション塗りますけど。それでも、うっすら透けちゃいます」
 顔のタトゥーの話が一段落すると、今度はさくらと鬼々が、今どれぐらい修業が進んでいるの? と語り合った。見習いとしての期間は鬼々のほうがやや長いとはいえ、今は肌を提供してくれる人に彫らせてもらっている、ということは同じだった。
 鬼々の場合は、一時間で一五〇〇円をもらっている。格安とはいえ、お金を取っているだけ、鬼々のほうが進んでいるように思えるが、これは卑美子と殺鬼の方針の違いでしかなかった。今のさくらでも、料金を取って彫っても十分な腕前を持っている。
 卑美子はハングリーさを身につけさせるため、プロとして認めるまでは、一切料金を取ることを許さなかった。それに対し、殺鬼はたとえ少額とはいえ、料金をもらって彫るのだから、プロとしての自覚を持て、と主張していた。時給一五〇〇円と考えれば、アルバイトとしてはけっこういい金額だ。多いときは一日七、八時間彫って、一万円以上稼ぐこともある。
 二人はお互い、負けないように切磋琢磨してがんばろう、と誓い合った。
 また、鬼々は 「今度はぜひ岐阜に遊びに来て。金華山などを案内するから」 と二人を誘った。

 美奈は少しずつ小説の構想を練り、最初の部分を書き出した。タイトルは何にしようかと迷いながら、仮に『幻影』とした。千尋をモデルとした霊的存在を示すキーワードである。北村弘樹のデビュー作『幻想交響曲』のことも頭にあった。書き進めるうちに、もっと相応しいタイトルを思いつけば、変更するつもりだった。原稿は自作のパソコンで書いた。
 辞書は高校時代から使っていたものに加え、新しい国語辞典や電子辞書などを買い足した。
 今はソープランドのコンパニオンをやっているが、いずれ作家として羽ばたく自分を夢見ていた。
 高校生のころはノートや原稿用紙に書いていた。ある程度書いてから構想を変更するのは大変だし、文章も簡単には変更できないので、しっかりプロットを組み立て、下書きをしてから書き出した。しかし、パソコンを使用すれば、途中から変更することも容易で、思いついたことだけ書き込み、あとから編集し直すことも簡単だ。漢字変換も楽なので、つい漢字を使いすぎてしまう。だから美奈は意識して使用する漢字を減らしていた。またタイプミスや誤変換に気付かないことも多いので、書いた部分を必ず何度も読み直していた。原稿用紙で書く文章と、ワードプロセッサの文章とでは、まるで別物なのだなと美奈は実感した。
 高校時代、所属していた天文部で、流星観測をした経験に基づいた連作短編集や、実家が寺であることから、仏教と宇宙人を融合させたSFなどを書いた。その原稿はもう残っていないが、いつかそれらを書き直してみようと考えた。
 ある程度書けたところで、『幻影』を恵やさくらに読んでもらった。静岡の葵にも、パソコンのメール添付ファイルとして原稿を送った。みんながおもしろい、続きを読むのが楽しみだと評価してくれた。

 さくらはいくつかの作品を手がけ、彫るスピードも少しずつ上がっていった。美奈も右脚に赤い龍を彫ってもらった。一回三時間から四時間、四回にわたって彫ったのだった。恵も右の太股に、大きく天女の絵を入れた。最初は天使を考えていたのだが、さくらと話し合っているうちに、日本風にアレンジし、結局天女の絵になった。新たに描き下ろした絵で、かなり込み入ったものなので、このときはさくらも、肌に直接手描きするのではなく、転写を使った。
「将来、こんな絵でもフリーハンドで描けるように、練習しなくっちゃ」 とさくらは意気込んだ。
 アイリ以外にも、オアシスのコンパニオン二人がタトゥーを入れた。ジュンという源氏名のコンパニオンは、胸に五〇〇円玉ぐらいの小さな四つ葉のクローバーだった。リサは左手首から肘の関節までの間に、多数のリストカットの傷痕があり、その傷を目立たなくするために、前腕部に赤、紫の濃い色のバラと、黒っぽいアゲハチョウを彫った。
 おとなしく、万事控えめなリサが、目立つ手首にタトゥーを入れていいのかということを、さくらはよく話し合った。しかしリサは、自分の過去を吹っ切るために、リストカットの傷をタトゥーで隠したいという要望が強かった。さくらは卑美子やトヨからもアドバイスを受け、リサに施術することにした。
 リサは高校生のころ、学校でひどいいじめに遭い、精神的に病んでいた。不登校になった。何度も自殺を考えながらも、実行はしなかった。けれども、執拗に自分の手首をカッターナイフで切りつけた。もし傷が深く、失血死するならば、それでもかまわない、という気持ちだった。一度は手首の動脈を深く切り、危うかったことがあった。
 あわや失血死寸前で病院に担ぎ込まれたことに驚いた父親が、信頼できるメンタルクリニックを紹介してもらい、治療したおかげで、鬱病は快癒した。しかし高校は結局中退した。鬱病はよくなっても、手首の傷痕は残ってしまった。
その後、リサは食料品を扱う会社に入社した。そこで二年ほど働いたが、失恋の痛手を受けて会社を辞め、美奈より少し遅れて、オアシスに入店したのだった。オアシスのコンパニオンの多くが、大きなタトゥーがあり、売れっ子となった美奈につらく当たったが、リサは自分がいじめられた経験があるので、いじめられる側の気持ちがよくわかり、美奈と友好的に接した。美奈の腕や太股の美しい牡丹のタトゥーに憧れてもいた。
 リサが希望する図柄は一度では完成できないので、三回に分けて彫った。傷がある部分は彫りにくい。インクの入りも悪く、むらになりやすい。それでさくらは丁寧に施術した。そのため、かなり時間がかかった。傷がある部分は苦痛も大きいようだ。それでも、傷痕をきれいにカバーアップできたと、リサは喜んでくれた。
 さくらが無料で彫ってくれるということを聞きつけ、練習で肌を提供してくれる人が何人もさくらの許(もと)にやってきた。オアシス時代のさくらの常連客も来てくれた。どれもが、トヨが 「ひょっとしたら、私よりうまいかもしれない」 と感心するほどの出来映えだ。もちろんさくらは 「トヨさんはそう言って褒めてくれるけれど、私はまだまだとてもトヨさんには及ばない」 と慢心することはなかった。

 あるとき、名古屋市中区の大須で“メビウスの輪”というアクセサリーショップをやっている、亜希子という女性が卑美子のスタジオを訪れた。そのとき、美奈もスタジオに来ていた。
彼女は世界的に有名なタトゥーアーティストのS氏やG氏と親しく、二人の作品をいくつも身体に入れてもらっている。さくらもファーストタトゥーはG氏の作品だった。G氏のショップは二〇歳にならないと施術しないので、さくらは二〇歳になったらすぐ入れてもらえるよう、前々から予約していた。
 卑美子もS氏、G氏には一目置いている。亜希子の身体は、そのS氏、G氏、卑美子の三人のタトゥーで飾られている。
 亜希子はときどき卑美子のスタジオに遊びに来るので、トヨやさくらとも顔なじみだった。
 亜希子は美奈を見て、 「ひょっとしてあなた、この前のタトゥーワールドに載っていた人じゃない?」と声をかけた。
 昨年の秋、彫波一門がタトゥーコンベンションを開催したとき、見学に行った美奈を、タトゥー専門誌『タトゥーワールド』の女性カメラマンが見いだした。美奈の騎龍観音や牡丹のタトゥーにいたく感銘を受けたカメラマンの長谷川は、タトゥーワールドの編集長を動かして、見開き二ページで美奈のタトゥーを紹介した。さくらも一緒に載った。その記事は、三月中旬発売の号に掲載された。そのおかげで美奈のタトゥーは全国のタトゥーファンに知られ、街を歩いていると、ときどき声をかけられるようになった。中には事件に巻き込まれたことを知っている人もいた。一緒に写真を写させてください、と依頼されることもある。美奈はそんなときは快く応じていた。
 亜希子は美奈のタトゥーの実物が見たいので、見せてくれない? と頼んだ。
 亜希子は写真撮影当時、まだ美奈の身体になかった右脚の龍や足の甲のバラを見て、 「これは卑美子さんの絵とは、ちょっと感じが違うわね。トヨさんが彫ったの?」 と尋ねた。
「あ、これ、さくらさんに入れてもらったんです」
「え、さくらちゃん、もう彫ってるの?」
「はい。先月の初めに許可をいただきました。でも、まだ修業中なので、無料でやってます」 とさくらは答えた。
「へぇー、修業中だといっても、すごくうまいじゃない。この龍なんか、へたなプロより、ずっとうまいわ。さくらちゃん、もう彫ってるなら、私も記念にやってもらおうかな」
 亜希子は美奈の右脚の龍に感心した。それで、亜希子もさくらの練習台になることを承知した。亜希子は有名なタトゥーアーティストを友人に持っているので、タトゥーに関しては目が肥えている。その亜希子が、さくらの絵を高く評価したのだ。亜希子とさくらは図柄についていろいろ話し合った。そしてさくらが描きためた見本帳も参考にして、左前腕部にピンクの蓮の花を入れることに決まった。アイリに彫った蓮とは、少し絵柄が違う。
 亜希子は施術のときに服が汚れないように、上着を脱ぎ、上半身下着のみになった。亜希子の両腕や背中、足首は、S氏、G氏の見事なタトゥーでカラフルに彩られていた。卑美子の作品は、胸や腹、腰など、男性には見せづらい部分を飾っている。美奈は亜希子のタトゥーに目を見張った。
「超有名なSさんの作品のすぐ横に、私の絵を入れるなんて、ちょっと気が引けちゃうな」
 さくらは大いに気後れした。しかしそんな弱気な心には負けまいと、奮い立った。
 自分の胸に蝶を彫ってもらったG氏はもとより、気さくなS氏ともさくらは懇意になっていた。
 準備をすませ、さくらは作業にかかった。さくらが直接亜希子の肌に下絵を描き始めたので、 「あら、さくらちゃんは転写じゃなくて、フリーハンドで直接下絵を描くの?」 と訊いた。
「はい、私もSさんやGさんみたいに、フリーハンドで彫れるアーティストを目指しています」
 さくらは赤いペンで補助線やおおよその輪郭を書き、黒で細かく描き込んでいった。
 施術は二時間ほどで終わった。初めて美奈の足の甲にバラを彫ったときに比べれば、かなり彫るスピードが上がっている。亜希子は 「まだ修業中とはいえ、これだけ彫れれば、すごいよ。私なら、二万円出しても、惜しくはない」 と出来映えに満足した。タトゥーに目が肥えている亜希子に褒めてもらい、さくらは素直に喜んだ。
 亜希子は美奈に 「私、大須でメビウスの輪というアクセサリーショップをやっているから、大須に来たら、ぜひ寄ってね。ボディピアスなんかもたくさん取り扱っているよ」 と言いながら、名刺を渡した。
「はい。私、パソコンのパーツなんか見に、ときどき大須に行きますから、そのとき寄らせてもらいます」 と美奈は応えた。
 その後、メビウスの輪に行った美奈は、店でいろいろな話をし、亜希子と親しくなった。メビウスの輪には、亜希子と共に、メビウス三人娘といわれる明日香(あすか)と古賀が手伝いに来ていた。古賀は名前で呼ばれず、 「コガちゃん」 と姓で呼ばれていた。明日香も腕や背中にS氏の作品を入れている。腕はカエルや金魚などの水棲動物、背中は人魚姫だ。コガちゃんは耳のほかにも、ラブレツト下唇の真下に黒いピアスをしている。タトゥーは痛いし、親ばれしたらまずいから入れないと言っている。美奈はその二人とも仲良くなった。


『幻影2 荒原の墓標』第8回

2014-03-07 19:26:57 | 小説
 デスクトップパソコンがピンチです
 昨日、全く起動しなくなったので、Windows7のDVDから起動させ、Windowsを回復させました。それで起動するようになりましたが、先ほどまたフリーズ。
 本のイラストをPhotoshopで仕上げなければならないのに……
 Windowsが原因ではなく、ハードに問題があるように思われるので、パーツを買ってきて、直すつもりです。

 今回は『幻影2 荒原の墓標』第8回です。



           

 その日、篠木署で“浅宮公園絞殺事件”第一回の捜査会議が行われた。まず流しの犯行か、それとも顔見知りによる犯行かが議論された。
 被害者は財布など金目のものを持ち去られていた。金銭目当てによる、流しの犯行の可能性もある。しかし、運転免許証や携帯電話など、被害者の身分を示すものもなくなっていた。流しなら、犯人と被害者を結ぶ関係はなく、身元を隠す必要はない。
 また殺害現場は浅宮公園なのか、それとも他の場所で殺され、そこに運ばれたのかも話し合われた。
 第一発見者は現場の近所に住む六〇歳過ぎの男性で、早朝、犬を散歩に連れている途中、植え込みの中で遺体を見つけたのだった。検視の第一所見では、死後六~八時間、死因は紐などで首を絞められたことによる、窒息死だった。現場の捜索では、凶器になった紐は発見されなかった。衣服の乱れから、被害者はかなり抵抗をしたようだ。後の司法解剖で、検視の所見はおおむね裏付けられ、死亡時刻は、四月九日午後一〇時から一二時の間と推定された。右手の爪から、犯人のものと思われる皮膚の組織が検出された。抵抗した際、犯人の皮膚の一部を爪で削り取ったのだろう。また、殺害される直前、直後の情交の事実はなかった。
第一発見者は、被害者とは全く面識がなかった。家族が証明するアリバイではあるが、犯行時間帯は家から一歩も出なかったとされている。夜一〇時過ぎに、友人から自宅の固定電話に電話がかかり、一五分ほど話をしていたことが確かめられた。それだけでは、十分なアリバイとはいえないが、その男性が被害者を殺害する必然性はなく、事件とは無関係と断定された。
 三浦は作家北村弘樹が書いた『鳳凰殺人事件』との類似性について、発言をした。偶然ではないか、という意見もあったが、名前が同じ“徳山久美”であり、背中に鳳凰のタトゥーがある点、そして、死因が絞殺であることの三点が共通しているのは、単なる偶然とは思えない、と主張した。
 いちおう北村弘樹にも事情を訊いてみようということになった。
 それ以外に、この日の捜査会議では、次の三点を中心に捜査するという方針となった。
 ① 現場付近の聞き込み捜査
 ② 被害者の殺害されるまでの足取り捜査
 ③ 被害者の知人、友人への聞き込み。特に異性関係
 しかし、被害者の徳山久美は、家族と連絡が取れなくなってから、どこで何をしていたのか、両親も知らなかった。家出人捜索願を出してあったものの、その後の消息は、杳(よう)として知れなかった。久美が失踪後、どうしていたかを探る必要があった。三浦はタトゥーアーティストの冥に電話して、久美のことを再度尋ねてみた。しかし、冥も久美の詳しいことを知らなかった。タトゥーを入れていることを隠したい人も多いので、冥は特に親しくなった客以外は、客のプライバシーにはあまり踏み込まなかった。客の中には、施術を受けている最中、いろいろと自分のことを話す人もいるが、久美は施術中、必死に苦痛に耐えていたのか、無口だった。

 その日のうちに、三浦と鳥居は北村弘樹を自宅に訪ねた。北村は実家を出て、名古屋市昭和区のアパートで一人住まいをしている。実家には兄夫婦と子供もいるので、落ち着いて執筆できない。両親はもう東京には行かず、名古屋の近くにいてくれと懇願した。北村もしばらくは名古屋にいるつもりだ。最近本が売れ出したとはいえ、北村の住んでいるアパートは、2DKのこぢんまりとしたものだった。
北村は日曜日、月曜日は東京の知人のところにいた。犯行時間は、知人の家で、旧交を温めていたとのことである。
 その知人は、かつて作家として羽振りがよかったとき、北村を担当してくれた、文学舎という出版社の、飯田という編集者だということだった。最近北村の作品が再び注目されるようになったので、また作品を出す予定があれば、ぜひうちも検討してくれ、と誘いを受けており、次作のことで打ち合わせをしに行った。『鳳凰殺人事件』は自費出版で、発行部数も少なかったため、再版の出版権を文学舎が引き継いだのだった。
 警視庁に依頼し、飯田に当たってもらったが、飯田とその妻も、北村はその時間帯は間違いなく飯田の家にいたことを証言した。北村はその夜は飯田の家に泊まり、翌日、文学舎に寄って、かつての企画担当者や編集長に挨拶をしたとのことだ。北村のアリバイは完璧だった。
 しかし、北村自身、自分が書いた小説と瓜二つの事件が起きたことに、大きな衝撃を受けていた。『鳳凰殺人事件』は、全くの空想の産物であり、北村自身、そんな事件が起こったのは、思ってもみないことだと驚いていた。

 新しいパッソが納車になった。美奈は今までの愛車のミラを引き渡す前に、公休日に、最後のお別れドライブで、知多半島先端の師崎(もろざき)まで走った。往復約一六〇キロのドライブだ。師崎へは今年の初めに、繁藤(しげとう)と篠島で一泊したときにミラで走っている。この旅行で美奈は繁藤との結婚を決意した。しかし、それは美奈から一〇〇〇万円を詐取するための繁藤の策略だった。その二週間ほど後に繁藤は殺害された。美奈にとっては、悲しく、ほろ苦い思い出だ。
 しかしこのとき、宿で知多四国八十八ヶ所霊場巡礼をしていた、三人の初老の女性と知り合ったことは、美奈にとって、嬉しい出来事だった。今でもときどき彼女らと手紙のやりとりをしている。
 美奈はさっそくパッソに乗り、オアシスに出勤した。初めてパッソを運転したとき、車両感覚が、軽自動車と全然違うことに驚いた。乗ってみると、車の広さが全く違う。パッソは小型車の中でもコンパクトなほうだが、今まで乗っていたミラより、ずっと広く感じられた。
 アクセルを踏むときの感じも違う。軽く踏んだだけで、すぐに時速六〇キロに達してしまう。以前の軽は、発進するとき、ぐっと力を入れてアクセルを踏まないと、六〇キロまでなかなか加速しなかった。しかも、走っているときの感覚は、せいぜい四〇キロ程度にしか感じられなかった。スピードメーターを見て、初めて六〇キロを超えていることに気づき、美奈はびっくりした。美奈は新しい車に慣れるまでは、特に慎重に運転しようと思った。
 その日は恵も出勤で、美奈は新しい車の感想を恵に話した。
「そりゃあ、軽と普通車では、車両感覚が全く違うよ。私も初めてミニバンのセレナに乗ったとき、それまでのワゴンRと全然違うんで、びっくりしちゃった。座席の位置がすごく高く感じたわね。オーバーに言うと、前の車と、視界が全く違うの。車の大きさの感覚も全然違うんで、初めて駐車場にバックで入れたとき、危うくぶつけるとこだったわ」
 恵は自分の体験を美奈に語った。
「それより、美奈、今日、ちょっと体調悪いんじゃない? 少しえらそうだけど」
「新しい車で慣れなくて、気を遣っちゃったんかしら。それとも風邪ひいたのかもしれないです。ちょっと頭が重いから」
「仕事、大丈夫? この仕事、けっこうハードだからね。無理しないほうがいいよ。辛ければ、玲奈さんに一言断って、早めに帰らせてもらったら?」
 恵は美奈の身体を気遣った。玲奈はオアシスのコンパニオンのアドバイザーで、講習指導員でもある。以前はオアシスのナンバーワンを長いこと務めたトップスターで、三〇代後半となった今は、経営側に携わっている。頼りになるお姉さんとして、コンパニオンたちから慕われている。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。予約も何人か入っていますし」
 その日の夜、ミクの客として北村が来店した。
「あ、先生。今日はご指名ありがとうございます。先月の終わりに見えたばかりなので、びっくりしちゃいました」
 個室に入って、ミクは北村に挨拶した。
「先生はやめてくれよ。ここではただの高村(こうむら)でお願いします」
「ごめんなさい。この前、そう言われていました。以後、気をつけます」
 ミクは謝って、失敗しちゃったとでもいうように、舌をぺろりと出した。
「でも、ミクさん、さすが大人気ですね。四時頃予約の電話したのに、八時過ぎまでずっと指名が入っているっていうんだから」
「すみません。私ももう少しのんびりしたいのですけど、なかなかゆっくり休んでいられません」
「売れっ子というのも、大変なんですね。それだけ大きなタトゥーをしていると、お客さんに怖いお兄さん方も来るんじゃないですか?」
「はい。たまにですけど、やはりそういう方もお見えになります」
「そういう人が相手だと、怖くないですか? 中には大きなもんもんが入った人もいるでしょうし」
「でも、ここでは皆さん、優しくしてくれます。もちろん、いくら優しいといっても、ここだけの関係ですが」
 そんな会話をしながら、ミクはコンパニオンとしてのサービスを続けた。
「ところで、一昨日(おととい)、僕のところに刑事が来ましてね」
 そう言われ、美奈はどきりとした。三浦に北村の作品のことを話したのは美奈だった。昨夜、三浦から、北村には完璧なアリバイがあり、犯人にはなり得ない、という電話があり、美奈も安堵した。北村のことをしゃべってしまったのは、申し訳なく思った。
「僕が書いた作品の通りに殺人事件が起こるなんて、本当にびっくりしました。たまたま東京にいたので、よかったけれど、もしアリバイがなければ、犯人にされていたかもしれません。刑事さんから聞いて、初めて事件のことを知ったんですが、あまりによく似ているんで、書いた本人の僕もびっくりですよ。犯人は僕の作品を真似て事件を起こしたのかもしれませんね」
 北村は作品との類似性を話したのが美奈だということには、全く気づいていなかった。しかし、多くの読者がいるのだから、美奈が言わなくても、きっと誰かが指摘しただろう。事実、そういう指摘がほかにもあったそうだ。だから、そのことはあまり気にすることはない、と美奈はあえて考えた。それより、北村が犯人ではなく、本当によかった。
 仕事が終わったあと、美奈は恵に、 「いつものファミレスに行きませんか」 と誘ったが、 「美奈、今日は体調悪そうだから、早めに帰ったほうがいいよ」 と恵は断った。以前は葵、さくらを加えた四人で、勤務が終了後、よくそのファミレスに寄ったのだった。しかし二人が辞めてから、あまり行かなくなった。二人だけで話すのは、やはり寂しかった。行くときはアイリを誘ったりしている。
美奈は恵の言葉に従い、帰ることにした。客への接待のときは、体調の悪さはおくびにも出さないよう、気を張っていたが、待機室では少し辛かった。
「気をつけて運転してね。車、変わったばかりなんだから」
 帰りは美奈が車で恵をマンションまで送ることが多いが、その日は 「私はタクシーで帰るから大丈夫。無理しないで」 と恵が気遣ってくれた。
 運転中、美奈は気分が悪くなってきた。なぜか胸が苦しい。頭が重い。おなかの具合も悪い。吐き気がする。何か変なものでも食べたのかしら、と美奈は最近食べたものを思い起こした。家まであともう少しだから、何とか頑張って、事故を起こさないように気をつけなくては。
 家に着いたら、美奈は我慢ができなくなり、すぐにトイレに駆け込んだ。ひどい下痢だった。腹痛が激しく、頭も重い。美奈はそれからしばらく、頭を抱え込んだまま、便座から動けなかった。嘔吐もあり、食べたものをすべて吐ききり、最後は胃液しか出なくなるまで吐いた。
 ようやく下痢は治まったが、今度は頭痛がひどく、ベッドの上に横になっても、なかなか寝付けなかった。胸も痛んで、苦しかった。今までこんなに胸が苦しくなったことはなかった。ひょっとして、心臓なのかしらと思った。

 翌日の金曜日、美奈はオアシスを休んだ。とても勤務できる状態ではない。早い時間から予約の連絡が入るといけないので、美奈は開店時刻少し前に、欠勤の連絡をした。その日は沢村が早番で、フロントで電話を受け、 「ああ、ミクちゃん。昨日少し辛そうだったから、心配してましたよ。ミクちゃんは本当にいつも忙しいから、今日はゆっくり休んでくださいね。明日も辛かったら、無理しないで連絡してください。明日の予約の電話があっても、受けないようにしておきます」 と言ってくれた。沢村は昨日から美奈の変調に気づいており、気遣ってくれた。
 美奈はずっと寝込んでいた。ときどき下痢で、トイレに駆け込んだ。熱も三九度を超えている。これは胃腸風邪かなと思った。また、今まで経験したことのない、胸の苦しさがあった。それで、団地の中にある診療所に行った。タトゥーを入れてから行くのは初めてだから、びっくりされるのではないか、と気になった。
 オアシスでは、性病などの予防のために、毎月検診を受け、その結果を提出することを義務づけている。検診はオアシスと提携している、近所の病院の女医さんがやってくれる。その女医さんは、美奈のタトゥーのことを知っているので、病院に行く必要があるときは、その女医さんに診てもらおうと思っている。しかし、今回はそこまで行く余裕がなかった。
 医師は美奈のタトゥーを見ても、顔色一つ変えなかった。美奈の肌には何もないかのように、診察をした。淡いピンク色の看護衣を着た看護師さんたちが 「わー、きれい」 とはしゃいだ。変な目で見られることなく、よかったと思った。胸が苦しいので、念のため心電図をとり、胸部のX線撮影をした。撮影のとき、乳首(ニップル)のピアスを外すように指示された。
 胸には特に異常は見られなかった。風邪という診断で、飲み薬を処方してくれた。
 病院から帰ったあと、自分の部屋がある五階まで階段を上るのが、辛かった。美奈が住んでいる五階建ての棟には、エレベーターがない。登山が趣味の美奈にとっては、五階まで上るのは、ふだんなら何でもない。しかしそのときはとても辛く感じられた。
 美奈は軽く食事しただけで、一日中寝ていた。恵から 「今日休んでたけど、身体、大丈夫?」 とメールが届いた。葵やさくらからもメールをもらった。返信するのが少し辛かった。
 その日の夜、ようやく胸苦しさがなくなった。熱もかなりひいてきた。
「美奈さん、苦しい思いをさせて、すみません。もう大丈夫です」
 うとうとしていたとき、千尋の声が聞こえた。
「新しい車に乗ったとき、前の持ち主が美奈さんに憑依したので、美奈さんに苦しい思いをさせてしまいました。胸が苦しかったのは、その人の胸の病気のせいです。風邪は憑依され、体力が弱ったので、ウイルスに負けてしまったのでしょうね。風邪であんなにひどくなるなんて、私も思いませんでした。でも、もう大丈夫ですよ。その霊、生前は多恵子さんといいましたが、もう浄化され、救われました。これからは、あの車が事故を起こさないよう、守護霊として見守ってくれますから」
 千尋は瞬時にそれだけのメッセージを美奈の心に送った。多恵子の生前の面影も、脳裡に浮かんだ。五〇歳ぐらいの、優しく上品そうな女性だった。
「そうだったんですか。前の車のオーナー、たえこさんというのですか。もう救われたんですね。よかったです」
 美奈を二日にわたって苦しめた相手だが、救われたと聞いて、よかったと安堵した。もしあの車に、美奈以外の人が乗っていれば、もっとひどい苦しみに襲われ、きっと大事故を起こしていただろう。千尋が護ってくれたからこそ、美奈は無事に自宅まで戻ってこられたのだ。美奈はそう信じた。
 翌日、美奈はもう元気になった。熱もすっかりひいた。それで、美奈はオアシスに出勤することができた。恵が 「もう大丈夫なの? もう一日ゆっくり休んでいればよかったのに」 と心配してくれた。美奈はそんな先輩の優しさが、とても嬉しかった。
 昨日沢村が言っていたように、その日は予約が入っていなかった。しかししばらくすると、当日の予約が三件も入った。

 久美を殺害した犯人を逮捕したという連絡が三浦から入った。事件は一週間で解決した。犯人は被害者と全く面識がなく、行きずりの犯行だった。現場近くで見かけた不審な車の情報から、容疑者が浮かび上がった。山岡道明という、名古屋市北区に住む、三三歳の男だった。篠木署に任意同行を求めたとき、山岡は頑として犯行を否認した。久美の右手の爪に残されていた皮膚の血液型と、山岡のそれとが一致した。それを聞いても、四種類しかない血液型が一致したところで、何ら証拠にならないと、山岡はうそぶいた。しかし車のラゲッジルームから徳山久美の毛髪が発見されたので、言い逃れができなくなった。山岡は犯行を自供した。
 山岡はなぜあんなことをしてしまったのか、よくわからない、なぜか突然人を殺したくなり、たまたま夜道で出会ったあの女の首を、自分のネクタイを使って絞め殺してしまったと自供した。絞殺に使ったネクタイは焼却した。殺害したのは自宅から少し離れた、東区出来町(できまち)公園で、車を使って遺体を浅宮公園まで運んで、捨てた。出来町公園なら、国道一九号線を介して、遺体遺棄現場まで、それほど遠くない。道が空いている深夜なら、車で二〇分ほどだろう。容疑を顔見知りの犯行と見せかけるため、携帯電話や免許証など、身元がわかりそうなものを奪ったのだという。携帯電話などは、もう捨ててしまった。
 事件は解決したが、被害者の久美のことが全く不明だった。家も両親もわかっているとはいえ、失踪以後二年間の足取りが全くわからなかった。三浦はその辺りのことがしっくりこなかった。
 事件は解決したかに見えた。しかし、これまでのことは、ほんの序奏でしかなかった。美奈たちを巻き込んで、本当に恐ろしいことが起こるのは、これからであった。