我が国の欠落と「新しい平和」をつくった指導者
No.835 平成25年 3月22日(金)
西 村 眞 悟
昨夜は、大手町のサンケイプラザで開催された「正論の会」で、話をさせていただいた。その概要をお伝えしておきたい。
冒頭に、医学が健康を維持するために「病気」を研究して克服しようとするように、我が国を再興するために「国家の病根」を克服しなければならないとし、そのために、まず、
!)子供達にウソを教えないこと、
!)昭和二十年九月から、GHQ(占領軍最高司令官司令部)が我が国に実施した言論弾圧により日本国民を洗脳するための「検閲リスト」を改めて点検し、今もその検閲が「GHQなき検閲」として生きていることを確認しよう、
と述べた。
!)とは、昭和二十二年五月三日に施行された「日本国憲法」を書いたのは日本人ではなく、GHQの外国人であるということ。
それを義務教育で「日本人が書いた」と教えるのはウソを子供に教えることである。国家の憲法に関しウソを教える国に未来はない。
!)については、NHKや朝日新聞に代表されるマスコミは、今もGHQの検閲事項を守って報道している。
彼らが守っているGHQの代表的検閲事項は次の通り。
日本国憲法をGHQが起草したことの広報を禁ずる
中国に対する批判を禁ずる
朝鮮に対する批判を禁ずる
以上を実行しながら、政治は何を具体的な使命として自覚すべきか。
それは、「国民を守る」ということである。
実は、日本は国民を守らない国家に成り下がっている。
北朝鮮に拉致されて放置されている数百名の日本国民は身を以てそのことを訴えている。
従って、この観点から、二年前の東日本巨大地震への自衛隊の「救出救命作戦」も点検すべきだ。
人命は、災害から七十二時間以内に助け出さねば守れない。従って、
!)なぜ、災害地に、直ちに習志野空挺団二千人を空挺降下させて人命救助にあたらせなかったのか。
!)気仙沼沖の大島は孤立して地震後二週間以上救援されずに放置され、沖縄のアメリカ海兵隊が強襲揚陸艦によって大島に上陸して救援活動を初めて実施した。それは四月に入ってからだ。
しかし、自衛隊にも直ちに島に上陸して活動を行う能力があったはずだ。
!)救援基地となった仙台空港の滑走路を直ちに修復して離着陸を可能にしたのは沖縄のアメリカ海兵隊特殊部隊だが、自衛隊の工兵隊にもその能力があったはずだ。
以上の項目について、
能力があってもしなかったのか、能力がないからできなかったのか。
仮に、?は前者で??が後者だとすれば、速やかに自衛隊に??の能力を与えるべきではないか。
この能力は、たんに災害救助にとどまらず、早急に獲得すべき海洋国家防衛のための不可欠の能力ではないか。
次に、「国民を守る」という国家防衛の基本、すなわち、我が国の防衛ラインはどこか、ということ。
驚くべきことだが、我が国においては、この「防衛ライン」が間違っている。
会場の人に聞く。我が国の防衛ラインは、次のうちのどこか。
!)我が国の海岸線
!)海の上
!)大陸側にある敵基地の背後
会場から、鴨緑江(朝鮮と満州の境を流れる大河)と答える人がいた。これは正しい。
明治初期、我が国がそれまでの鎮台兵を陸海軍に編成したとき、鴨緑江を防衛ラインに想定したと聞いている。
とはいうものの、海洋国家として、朝鮮半島を含む南北に広がる大陸を望み、我が国の防衛ラインは???のどこか。
まず、現在の我が国が想定している防衛ラインは?なのだ。
従って、陸上自衛隊は本土内部で防衛戦争をすることになっている。
よって、海を渡り大陸側で戦うことを想定していないので気仙沼沖の大島に救援に行かなかった。
また、航空自衛隊の飛行機も大陸側
で戦って帰還することを想定していない。
しかし、言っておく、
はじめから国内に戦場を想定して防衛しようとする軍司令官および彼に命令を発する最高指揮官(総理大臣)は、軍法会議で処刑されるであろう。
なぜなら彼らは、国内を東日本の巨大地震被災地と同様の戦場にするからだ。
彼らの任務は国家の防衛であり、まさに国内を戦場にしないことが防衛であるからだ。
我が国の防衛ラインは、?でも?でもない。?だ。
我が国と同じ海洋国家のイギリスの防衛ラインも?だ。
スペインの無敵艦隊を打ち破ったキャプテンドレイクは、
イギリスの防衛ラインは大陸の敵基地の背後だと言った。
海洋国家は、「国土」を戦場にしてはならない。
国土を戦場にするときは、既に惨憺たる敗北を喫しているときだ。
昭和二十年八月の国内の焼け野が原の惨状が、国土を戦場にする状況だ。
つまり、国土を戦場にすることは「防衛の失敗」で、責任者は軍法会議で処刑されるべき状態である。
しかるに、我が国の政治は、
国土を戦場にする「防衛」しか想定していない!
いかなる反国家的、背信的政治であろうか!
従って、我が国が、もしこのまま有事に入るとするならば、
まず第一に為すべきは、国土を戦場にすることを想定している最高指揮官や軍司令官を「除去・駆逐」することが「有事対処」の第一歩となれねばならない。
そうでなければ、始まる前から負けることになる。そして残るのは、国内における二年前の東日本の被害地の数倍の惨害だ。
中共と北朝鮮の軍備拡張と示威行動を観れば、心ある、また常識のある政治家なら、
我が国が、真の祖国防衛の戦略を樹立すべき死活的必要性に迫られていると判断するはずだ。
政府、安倍内閣は、千年に一度の地震による津波を想定してその予想される大被害を国民に発表するのもいいが、
まず、その発表以上の大惨害を自ら国土に招き寄せることを想定している非常識な「先守防衛思想」から決別するべきではないか。
尖閣の状況に注目すれば、
何故、いつも定期航路のように領海を侵犯されるままなのか。また、領海侵犯の映像だけが映し出されるのか。
尖閣の防衛ラインを敵基地の背後とするならば、注目すべきは、領海侵犯を繰り返す船を出航させてくる大陸側の港ではないか。我が国は、この敵基地から領海侵犯船が出港することを抑止する圧力をかけてもよいし、そこを重点的に警備すべきである。
また、防衛ラインを敵基地の背後とするならば、我が国の自衛隊の装備にコペルニクス的転換を実施しなければならない。
まず、全陸上自衛隊を海を渡る陸軍つまり海兵に転換する。
強襲揚陸艦を整備する。
航空自衛隊の戦闘機は大陸に行って帰還しなければならないし、爆撃機は渡洋爆撃機、戦略爆撃機でなければならない。
そして、海上自衛隊と航空自衛隊は、南シナ海、東シナ海、日本海そして西太平洋の制海権と制空権を確保しなければならない。
さらに、敵の核弾頭ミサイル基地は、チベット大陸にもある。
従って、高精度の長距離、中距離、短距離の各巡航ミサイルをハリネズミのようにいやというほど保有する必要がある。
そしてこの装備転換を開始すれば、我が経済の総需要がアップしデフレからの脱却もなる。
さて、先の時事通信で「賢明な指導者」と「勇気ある指導者」が各々何をするかを書いた。
そこで、私の頭に浮かぶ「勇気ある指導者」を次に紹介したい。
それは、鎌倉幕府執権北条時宗、
そして、関東軍板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐だ。
1268年、蒙古の使者が来航した。強圧的な通商を求める使者である。このとき、十八歳の北条時宗が幕府執権となる。
そして、時宗は、蒙古との確執必至と判断し、瀬戸内海の水軍と北九州の御家人に動員令を下す。
その後、時宗は、蒙古からの使者を敢然と斬殺する。
1274年、蒙古軍四万(内、戦闘員二万五千)来襲。水際で迎撃する日本軍一万。
はじめに来襲してきた対馬では、六十八歳の地頭宗助国が八十旗を率いて古茂田浜に上陸した雲霞のような蒙古軍に突撃し玉砕する。
その報が狼煙で太宰府から鎌倉に伝わり執権時宗の基に「いざ鎌倉」と日本が一丸となる。
迎撃は徹底的な水際で行われ、蒙古軍は騎馬を使えず、また日本の弓の強度と射程距離が蒙古を上回っていたので、蒙古軍は二万千の損害を被って壊滅する。
1281年、蒙古の東路軍四万と江南軍十六万の合計二十万が襲来してきた。
迎撃の日本軍三万が勇戦奮闘して、蒙古勢の上陸をなかなか許さない中を台風が蒙古の船を襲い、蒙古軍は十万五千の損害を被り壊滅し敗走する。
この元寇という国難に勝利できた由縁は、十八歳の執権北条時宗が瓶のような肝っ玉を持ち、蒙古の使者が来た時点で「戦争を決断」したことである。
そのとき彼が動員令を発せず、「平和を長く維持」しようと蒙古との対話に努力しておれば、鎌倉のとき我が国は滅ぼされていたであろう。
次に、その蒙古の故地の二十世紀初頭の満州。
清朝が滅びた後、支那大陸は蒋介石の北伐によって内戦状態になったが、ソビエトのスターリンに指導されたコミンテルンは、「暴力と無秩序」の中から共産主義革命を成功させる戦略にしたがい、中央政府の統治が及ばない満州において、朝鮮半島出身者を含む日本人襲撃殺戮と南満州鉄道へのテロを繰り返した。
コミンテルンは、昭和二年、反共姿勢を示す満州の軍閥張作霖を爆殺したが、その子張学良は、父親の三十万の軍隊を率いて反日行動を繰り返した。それに加えて総数不明のロシア人、支那人そして朝鮮人からなる共産パルチザンが日本人と満鉄襲撃を繰り返した。
これに対して、満州の治安を守る関東軍は一万人しかいない。
従って、張学良の三十万の軍隊と共産パルチザンの組織的な統制のとれた日本人一斉攻撃が為されれば、関東軍は包囲殲滅され数十万の日本人は虐殺される危機に直面していた。
人数の多い方が先手を取れば、我が方の敗北は必至であった。
そこで、関東軍の板垣征四郎大佐と石原莞爾中佐は、先手を取って、昭和六年九月十七日に南満州鉄道を爆破して一挙に奉天の軍閥拠点を制圧し、以後、翌年三月までに全満州を平定して満州国を建設した。
世界が驚くべき軍事的手腕である。
現在の超大国アメリカがイラクで難渋した例を見れば、板垣大佐と石原中佐の手腕がいかなるものかがわかる。
その結果、満州に初めて秩序と繁栄がもたらされ満州は昭和二十年までに豊かな大地に変貌することになる。
この満州の豊かさを一番享受したのが支那人である。
満州事変後に、彼らは百万単位で国共内戦の南から万里の長城を越えて満州に移住してきた。
もし、板垣大佐や石原中佐が、少人数故に無理をせず、膨大な兵員を要する満州の軍閥やパルチザンと共存の道を模索していたら、満州の日本人や善良な住民は殲滅されていたであろう。
彼らが「戦争を決断」したから満州の平和がつくられたのだ。
(了)
☆ 西村先生のお話は、ドキドキする。 「歴史を直視」とはこういうことなのだ。
父が肺気腫になり、その上に認知症の様子が現れ始めた時、入院中の父は元気そうで並んで座り、石原莞爾の話を少しした。
音楽一途だった私が、ようやく父に戦争の話をきこうとしたときはもう遅かった。
しかし、この時、父は上機嫌で西村先生のようなことを語った。「天才軍師、世界的な参謀だ」と言って笑った。
そして翌日、父は意識不明になった。医師がよく尽くして下さり、無事だったが、認知症は進んだ。
私は「どうか助けて下さい」と医師にお願いし、命が助かったことで大喜び、認知症が進んでも私の大切な父、父の世話を喜んでした。 それからこのような話はできなくなった。今から思っても大変辛い思いがする。
毎年、父を連れて桜見物をした道を歩いた。父なき今、はじめて私ひとりで桜を見た。護国神社の見事な桜はもう少しあとのようだ。
