教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

「オタク男=恋愛弱者」論に反論する

2009-05-17 00:02:25 | オタネタ全般
http://tomo-a.blog.so-net.ne.jp/2006-08-10
↑このblogによると、本田透の “萌える男” (※1)という著作のなかで以下のような文があるらしい。

> 自由恋愛とは,『恋愛資本主義』の中で,恋愛できるものとできないものの二極化を生産し,拡大し続ける弱肉強食,差別の構造である。

ちなみにわたしは読んでもいないし手元にもない。
したがって、当blog記事は木を見て森を見ず的な記事になるかもしれないが、ご了承いただきたい。

かりに自由恋愛というものを勝者と敗者の2種類にわけることができるとしよう。
わたしはどちらかというと、まごう事なき敗者に分類されるであろう。
勝者はわれわれ敗者にむかって
「性的弱者はコミュニケーションを磨け」
と語るであろう。
さきに紹介したblogの一部で引用している文献のように。

そこでこの解釈について、いわゆる性的敗者のわたしの立場から反論してみようではないかと思う。
中身が中身だけに、少々アレのことにまで踏み込まざるを得ないのがアレなのだが(笑)。
それから、現物の女より絵に描いた女のほうがマシだというわたしの持論もとりあえずここでは棚に上げることにする。

まず、性的勝者と性的敗者の定義からはじめよう。
わたしが男なので男視点による解説とする。以下もおなじ。

(1)
性的勝者とは女の子とデートできる者である。
性的勝者とは女の子とエッチできる者である。

これは正しいか?

正しくない。
なぜなら、カネで解決できるからである。
したがって定義は以下のようにするのがより真理に近い。

(2)
性的勝者とは女の子とタダでデートできる者である。
性的勝者とは女の子とタダでエッチできる者である。

経済学っぽく分析するとこうなる。
女の子は自分の時間や体を提供することになる。
したがって提供したもの以上のインセンティブがないと取引はなりたたない。
性的勝者はツラの良さやファッションセンスやトークの巧さなどを提供し、女の子の時間や体を調達する。
性的勝者は女の子の時間や体を調達するための労働力を惜しまない。
ツラの良さはビミョーだが、ファッションセンスやトークの巧さなどは熟練技能である。
自由競争社会においては競争力を持つ。

逆の論理もなりたつ。
性的弱者はツラの良さやトークの巧さなどに競争力を持たない。
性的弱者は女の子の時間や体を調達する労働力を惜しむ。
ファッションセンスやトークの巧さなど熟練技能を持たない。
したがっていちばん手っとり早いのは、カネを提供し、女の子の時間や体を調達する方法である。

以上の分析をもとに、(2)の分析をさらに汎用化させる。

(3)
性的勝者とは女の子の求めるもの(ツラの良さやトークの巧さなど)を提供できる能力を有し、女の子を調達する労働力も提供する者である。

つまるところ性的弱者は、性的勝者の持つファッションセンスやトークの巧さなどの熟練技能労働をカネに換算した分だけの資金力、またはカネに換算できる別の熟練技能があれば釣り合うことになる。

たとえて言うならこうだ。
バイトして稼いだ金をカッコいい服を買ったりデート資金にしたりし、女の子をとっかえひっかえして遊びほうけるイケメン大学生。こういうのを性的勝者という。
大学生のときはバイトもせずにデートもせずにひたすら勉強して司法試験に受かり、女の子は札束でほっぺをペチペチして調達する弁護士。こういうのを性的弱者という。

さて、どちらが良いかはビミョーだ。
人間とは個体差がある。
なりたいようにはなかなかなれない。

だから、欠点を克服してあらゆる意味で人並みな人物になるより、自らの得意な分野に集中して投資すべきである。
たとえば、人類が筋力を発達させるよりも大脳を発達させ、いまのような栄華を極めたように。かりに途中で筋力も大脳もバランスよく発達させた集団があるとすると、途中で大脳の発達の勝るクロマニオン人に駆逐されるハメになっていただろう。それと同じことだ。

わたしの例で書いてみようか。
わたしは大学時代に趣味関係に没頭しまくり、そのスキルをもってして今の会社に入り、今でもいくぶんかの評価をもらっている。
しかしタダで女の子を調達できたことはない。

それと正反対のことも十分ありうる。
あるひとは大学時代に女の子と遊びまくり、スキルはないものの何とか会社には入ったが、今では評価がイマイチである。
しかしタダで女の子を調達できるし、いま結婚して子供もいる。

どちらが良いかはビミョーだと言った理由を理解していただけただろうか。
もちろん両方あればマシなのは言うまでもないが。

さて、歳をとるとこれも事情がビミョーに変わってくる。
性的勝者と性的弱者の関係は、結婚できるかできないかの違いになる。

(4)
歳とった性的勝者は結婚するかしないかの選択権を持つ。

性的弱者は結婚するかしないかの選択権はあまりない。
男は相手のツラだけ見てればいいが、女は相手のツラとサイフを見ている。
したがって正確には、それに相当するだけの資金力などがあり、なおかつ相手を探すための労働力を提供できれば釣り合うということになる。

では結婚するとどうなるか。

結婚するということは、妻を購入することである。
基本的には妻がいると住宅ローンと子供が付いてくると考えたほうが良い。
したがって結婚するということは、自分の持てるほとんど全財産と全労働力をもって妻を購入することになる。

先の(3)以下の定義を思い出してほしい。
性的勝者の場合は性的勝者になるための特別な訓練を重ねているため、性的勝者の持つ熟練技能を有する。
性的弱者の場合は性的勝者の訓練の分だけ他のことに費やしており、それ以外の熟練技能を有する。

したがって確率的には性的弱者のほうが性的勝者とは別の何かを有する率が高いと思われる。
それが趣味のスキルであったり国家資格だったり外国語能力だったりするかもしれないが、それは置いておく。

そうすると、性的弱者は自分の持てるほとんど全財産と全労働力をもって妻を購入することに躊躇する。
値段が高すぎるからだ。
逆に性的勝者の場合はそういった意味で言えば持たざる者であるため、全財産と全労働力をもって妻を購入したとしても大した金額ではないかもしれない。

ちなみに性的弱者であるわたしから世間をみるとこう見える。


たとえば不動産屋さんかファイナンシャルプランナーの人を連れてくるといい。
死ぬまでにどれくらいカネがかかるかがわかる。
はっきり言って妻+子供+住宅ローンの3重シバリがあるとすると計算上カツカツだ。
ところが!
1つもシバリがなかったとすると、今のペースの生活を維持していたとしても老後は余裕だ。
だから妻というものの購入金額は高すぎる。


株や債権ならば簡単に換金できる。
しかし妻は換金できないどころか損切りでの処分もできない。
たとえば田舎のスーパーにでも行ってみるといい。
店をうろついているオバチャンのようなヤツが将来自分の家にいるとしたら、あなたはどう思うだろうか?
マジでカンベンしてほしいと思うのが妥当な印象ではなかろうか。
そういう意味では妻の価値が0以上である期間は有限である。
その有限の時間をすぎた後は、自らの全財産と全労働力を提供しつづけなければならない単なる負債でしかない。
金利分しか返済できないような首が絞まった住宅ローンと同じタコ足の資産だ。


わたしの考えかたではこうだ。
自らの全財産と全労働力を提供しつづけることになっても手に入れたいほどの妻を確保できるのでなければ結婚すべきではない。
ふつうの人のようにフルローン近くで新築の住宅ローンを組むと絶対に元が取れない投資になるので、妻にせがまれて住宅を買わざるを得なくなる状況に陥る要因はあらかじめ回避すべきである。
子供は趣味の範囲での出費を想定した余剰資金でまかなうべきであり、お金に余裕がないうちは手をつけないほうが良い。

したがって、わざわざ妻を買ってきて人生設計に窮するようなアホなことはするべきではないとわたしは判断した。
(この議論は恐らく女の視点では別の結論が出るだろう。なぜなら、女の場合は結婚相手に自分を養わせることになるため、むしろ結婚したほうが良いという結論が出る可能性が高いと思われる。)

さて、(5)の定義を思い出してほしい。
これまでの考察のように、もはや結婚は選択権を持つかどうかの差ではなくなった。
新たに定義しなおしてみよう。

(6)
最終的に性的勝者は誤って結婚してしまう可能性が増す。

さてどうだろう。
性的勝者の価値を発揮しやすいのはせいぜいハタチ過ぎまでだ。

若いときは自分の稼ぎがほとんど無いから性的勝者と性的弱者の差分に相当するカネを提供するのは困難であり、若いときは相対的に性的勝者であることの価値は高い。
しかし20代後半くらいになってくると、自分の稼ぎも出てくるうえに能力差に応じて稼ぎの度合いも変わってきだす。
性的弱者であっても別の能力をもってして高い労働対価を得ることができるのならば、性的勝者と性的弱者の差分に相当するカネを提供して女の子の提供を受けることができるようになってくるからだ。

性的勝者であるほうが良いのは間違いない。
しかし、他の能力を磨くの惜しんでまで性的勝者を目指すべきではないと、わたしはそう考える。

まとめよう。
つまり何が言いたいかというと、「オタク男=恋愛弱者」論に対し、われわれは言葉どおりに哀れむべき状況にはないと言いたいのだ。

世のなかには相手もいないのに結婚したいという男もいるらしい。(たぶん女の場合は人生のスポンサー募集という意味合いもあるからちょいと違うかな。)
わたしには理解できないが、結婚生活そのものに特別なインセンティブを感じるのだろう。
そういう人たちはわたしの到達した結論を見て、損得勘定に走りすぎているとでも言って一笑に帰すかもしれない。
そういう人たちはどう考えどう行動するか、それはそれで知りたいとも思う。



【※1 萌える男】
http://www.amazon.co.jp/%E8%90%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%B7-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9C%AC%E7%94%B0-%E9%80%8F/dp/4480062718

いまさらSchool Daysを見たが・・・

2009-05-16 00:01:23 | オタネタ全般
ここ何回か分の当blog記事でSchool Daysネタをチラチラと使ってみた。
なぜなら、いまさらSchool Daysをちゃんと見てみたからだ。

むかしSchool Daysを見ていたことがあった。
そのときは、最初のころの甘ったるい話のところで
「うげぇ・・・もう甘すぎて正視してらんねえ・・・」
ってので、途中で見るのをやめてしまった。

どれくらい甘ったるいかってえと、ハチミツをコップいっぱい渡されて、さあどうぞ♪っていわれたくらい甘ったるい。
上のほうの1cmくらい飲んだところで甘さで食傷気味になってしまったってぇ寸法だ。

School Daysは最近の男性向けの、いわゆる気がついたらハーレム的なアニメである。
ただ、ハーレム的な要素が異常に強い。
まさに絵に描いたような、それなんてエロゲ的アニメである。
アニメだから絵に描いたものなのはもちろんのこと、あとで調べたら原作がエロゲだった・・・。
まんまじゃねぇかコレ!
しかし、それなんてエロゲ的アニメという感想は後半でみごとにくつがえされる。
実は全く正反対の意味で、それなんてエロゲ的アニメだったということだ。

主人公は誠というのだが、ネットでしょっちゅう ”誠氏ね” と書かれていたのを見る。
てっきり、さいしょのほうの甘ったるいころの、モミモミしたりチューを迫ったりするラブコメ要素のことを言っているのだと思っていた。
せいぜい、宇宙のステルヴィアの ”小唄氏ね” と同レベルのものだろうと思っていた。
このときわたしは「これくらいだったら許してやれよ(笑)」と思っていた。
しかし、その ”誠氏ね” の根拠もみごとにくつがえされる。
全12話まで見たひとでなければ ”誠氏ね” の意味は理解できないし、そして全12話まで見たひとならば誰しもが ”誠氏ね” と思うのは無理からぬことだと、やっとわかる。

このアニメを半分以上みていると、最初のころのアレは何だったんだ?というくらい、どんどん黒くなってくる。
ハチミツをコップいっぱい渡されて、さあどうぞ♪っていわれたかと思ったら、半分から下はコールタールのような得体の知れないどす黒い何物かが入っていた・・・なんてことだったのだ。

それに、本アニメは地上波TV放送タブーの限界にチャレンジしている。
たとえばだ。
地上波TVなのに出し入れシーンがあったり、さら凄まじいことには白い妖精さんが出てきたりとか(笑)。
それはダメだろ、おい!!
というか、最終話なんかTV放送が急きょ中止になったくらい凄まじいのだから。
地上波でのTV放送が中止になってお怒りモードだったみなさんも、真に最終話を見たら
「やっぱり、これ地上波じゃダメだな・・・」
と思うほどだったという。

エロゲ版は3大鬱エンドと呼ばれる非常に物議をかもしだしたエンドが用意されているようだ。
だが、エロゲ版をたしなんだひとにとってもアニメ版の最終回はその3大鬱エンドを上回る神がかり的な最終回だったと高い評価を得ている。
わたしもアニメ版を見終わったあと、ニコニコを徘徊してエロゲ版のエンドだけいくつか(といっても3大鬱エンドをふくむ半分以上)見てみた。
個人的にはエロゲ版の” 鮮血の結末”のほうが狂気の描写がナイスだと思うけど。

エロゲ版エンドの1つ:鮮血の結末
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3828051

3大鬱エンド以外にも多くが破壊的なバッドエンドだし、かろうじてハッピーエンドと言えなくもないようなのでもかなり壊れていて救いがない。
しかしよくできている。
アニメ版もそうだが、たいがいの昼ドラのようなストーリーのつごうで取ってつけたように出したクレイジーキャラクターが出てくるわけでもなく、見ていると感情移入してしまうほど恐ろしくよくできた狂気だ。
仮にわたしが中学生のころ見たとしたら、これからの長い人生を生きていく自信がなくなるほど狂気じみている。

アニメ版の最初のころの見ていられないほどの甘ったるい描写にくらべれば全く想像もしないような後半。
そして一見いいやつっぽい顔をしている主人公の誠が本性パワー全快になる最後らへん。
もはや主人公の誠が早々に事故死でもしてくれないかぎり、丸くおさまる方法は考えられないような、ストーリーにしても主人公にしても酷い有様だった。

ニコニコの書き込みに ”誠氏ね” と書かれていたのを多数見る。
さらにいうと ”刹那以外みんな死ねばいいのに” とまで書かれているのまである。
恐らくこれがSchool Daysの本質を最も的確に見抜いた発言だろう。

これらを見ずしてSchool Daysを語れないことはよくわかった。

そしていまさら当時見てないのを残念に思う今日このごろ。

萌えキャラにハマる理由はなんですか?

2009-05-15 00:03:26 | オタネタ全般
http://urasoku.blog106.fc2.com/blog-entry-682.html

↑これの一部から転載する。

> 「現実じゃないからはまる」
> 「汚れを知らないところがいい」
> 「自分を裏切ることがないから・・・」
> 「興味はあるけど、彼女をつくろうとは思わない」
> 「かわいい女ってもういないのかなぁと思っていると」
> 「主人公が男の子で回りがみんな女の子」

恐らく
「萌えキャラにハマる理由はなんですか?」
と取材を受けたオタの回答だろう。

わたしもこの手の人種であると公言してはばからない男だ。

しかし!

だいたいにおいて彼らの発言は納得するが、どうもビミョーに違和感を覚える。
間違ってはいないけど、なんかどっかが間違ってるような・・・。
そんな違和感だ。

仮にわたしが取材を受けたらどう答えるか、ちょいと考えてみた。
そして得られた結論を以下に示す。



これは人類とオタ類との種族の違いである。
仮に人類のあなたがたが子猫を見たとして、かわいいとは思うものの、子猫に恋をするとか、子猫に欲情するとか、そんなふうに思うことはありえるだろうか?
ありえない。
なぜなら、人類は子猫とは別の種族であるから恋愛感情を共有することができないからだ。

そしてわれわれオタ類もそうである。
仮にわれわれオタ類がリアルワールドの婦女子を見たとして、かわいいとは思うことも「稀には」あるものの、リアルワールドの婦女子に恋をするとか、リアルワールドの婦女子に欲情するとか、そんなふうに思うことはありえない。
なぜなら、われわれオタ類は人類とは別の種族であるから恋愛感情を共有することができないからだ。

人類が性行為をビデオに写したものを見て欲情する愚かな行為を目撃するが、だいたいにおいてわれわれは人類の性行為をするビデオを見ても
「なんか獣姦みたいでキモチワルイ」
くらいにしか見えない。
そもそもわれわれは絵に描いた女でなければ異性とは認識しえないのである。

あなたは「子猫より人類のほうがいいのはなぜですか?」と聞かれたとすると、いったいどう答えるか。
あたりまえだとか、種族が違うからだとか、交配できないからだとか、遺伝子レベルでそうプログラミングされているからだとか、そんな理由しか答えられないのではあるまいか。
われわれが絵に描いた女のほうがいいと答える理由についても、同様に別の種族のものに気持ちを代弁してやることは非常に難しいものなのだ。



結論おわり

Nice boat.の恋のおまじない

2009-05-14 00:00:51 | オタネタ全般
School Daysにかくあり。(※1)

「好きな人の顔写真を待ち受けにして3週間、誰にもバレ無ければ恋が成就する」
という恋のおまじない。

ちなみに、わたしの携帯の待ち受けもアレだ。
我が家にある、我が生涯の伴侶を撮影して待ち受けにしてある。

ちなみに、「いる」ではなく「ある」で正しい。
わたしの言わんとする意味がわかるかな(笑)?
細かいことまで書くとわたしの身元がバレるかもしれんから書かないけど、ようはその手のヤツだ。

このまえ実家に帰省したとき、母親にも待ち受けを見られるという大惨事が発生。

そのさい母に
「どっちのか聞かなくても、(弟のではなくて)あんたのだってすぐに解ったわ・・・」
とのセリフまで頂戴した。

しっかし、いつの世も恋うらないだか恋のおまじないだか、いつまでたっても廃れないもんなのかねぇ、フシギなくらいだよな。

昼ドラとか見ててもそうなんだが、恋に思い悩む主人公とか見てて、
「おまえヒマだよな~、もうちょっと他にすることくらいあるだろ?」
くらいしか思わないんだよな。

恋に思い悩むっての、恋が成就するっての、ようは相手方をひとり占めしたいって事だよな。
問題はそこだよそこ、わたしには存在しないその感覚。

2008.12.29~.30の当blog記事にも書いたけど、わたしの初恋の人は”ときメモ”の紐緒結奈だという筋金入りの二次元愛好者である。
アイドルにハマったこともなければナマモノの女に惚れたこともない。
せけんさまのように、ふったはったという経験を持っていない。

そして二次元愛好者は、初恋の人をひとり占めしようという感覚もまた持っていない。
(そもそも、ひとり占めがどういう状態なのかすら定義できない。)

だから恋に思い悩むこともない。
恋敵がどうのといって、ひとさまに迷惑をかけることもない。

ひろく人類がかくあれば、世界は常に平和である。

しかし人類は一代で滅ぶ。



【※1】
”Nice boat.”の由来を簡単に記したい。
アニメ版School daysの最終話がアレすぎて突然放送中止になり、かわりに遊覧船だか何だかの風景画面が流れたことがあった。
オタのみなさんは放送中止にお怒りモードだったが、風景画面をひにくって”Nice boat.”と書きこみ入れたナイスガイの発言がクールすぎて面白すぎたので、それいらいオタ用語として定着してしまった。

http://www.paradisearmy.c
om/doujin/pasok_nice_boat.htm
詳しいことは↑これ参照。
(gooで禁止ワードになっているのか、アドレス書いたらblogが更新されない。なので2行にわけて書かざるを得なかったのだが、ホントは1行分なので上と下をくっつけてリンク先アドレスを作って見にいってほしい。)

女になったら(男になったら)言ってみたいセリフ

2009-05-13 00:02:57 | オタネタ全般
古今東西、人類はわけへだてなく男か女かどちらか一方に選択されて生まれてくる。
無論、あとでそれをチェンジすることはできない。
最近はそれもできるのかもしれんけど。

そして、男と女が入れ替わったらというストーリーも、らんま1/2をはじめ、世間にはいくらでもある。

そこで!

今回は、男のわたしが女になったとして、だ。
勝手に女だったと仮定してみて、言ってみたいセリフを考えてみようと思ったわけだ。



[第3位]
「二人とも、あたしのために争わないで!」

女になったとしてという事とモテるという事は全然べつのことだが、そのへんの諸事情は隅にでも投げておこう(笑)。



[第2位]
「あら、あなた、わたくしにつりあうと思って?」

これはどんな機会で言うことがありうるのか見当もつかねえ。



[第1位]
「もう、バレンタインのチョコあげないからね・・・ぷんぷん」

もはや、それなんてエロゲ状態(笑)。



よし。
じゃあ、つぎは、いま女になっているという仮定のもと、男になったら言ってみたいセリフを考えてみたい。



[第3位]
「フッ、私の勝ちだ!」

これは言ったことがある。
ぷよぷよの対戦で(笑)。



[第2位]
「命に代えても君は俺が守る!」

こんなこと言う機会ぜったい無えぇぇぇ!
ギャルゲーの選択肢で選んだことはあるかも?



[第1位]
「キミがいない世界に、いったいどんな価値があるというんだい?」

これも言う機会ぜったい無えぇぇぇ!
いや、似たようなことは言うことはありうるか・・・
「ギャルゲーがない日本に、いったいどんな価値があるというんだい?」



ついで。
つぎは歳とって爺さんになったら言ってみたいセリフ。



[第3位]
「むすめはやらん!!!」

むすめはおらん。
妻もいらん。
嫁はアレか。



[第2位]
「あれはワシの妾でねえ・・・」

いったいどうやったらそんなセリフを口にする機会があるんだか(笑)。



[第1位]
「よろしい、ならば戦争だ!」

言ってみたいけど、あるいみ言いたくない。
いやいや、今日でも北朝鮮や朝鮮総連のスポークスマンは毎月のように言ってるじゃあないですか。
実はマジで言ってみたとしても別にカッコ良くないのかな・・・、当の本人がみんなのアイドルじょんいるチャンだからかな・・・

ブシ道 と オタ道

2009-05-12 00:00:06 | オタネタ全般
5000円札で有名な新渡戸稲造の著作に「Bushido: The Soul of Japan」(和名は「武士道」)というものがある。

むかし、とある爺さんが
「女子大生が武士道を読んで「おもしろい」と言っていた。若い人が読んでもおもしろいと感じるのには驚いた」
と言っていた。
そこで、当時わたしもマネして読んでみたわけだ。

ところが!

じつはこれが全くおもしろくない。
途中まで読んだがダルいので読むのをやめてしまった。

この本の構成は以下のようなものになっている。

いま手元にないので不正確なのだが、たとえば・・・
『欧米では自殺は不道徳でありチキンあつかいされるが、日本では名誉を保つための行為として切腹が肯定される。』
・・・といった論調になっている。

そのため、日本人から見たらあたりまえの価値観を描いているにすぎず、全く新鮮味を感じないのだ。
それもそのはず、著作「Bushido」は欧米人むけに英語で書かれたものなのだから、そもそも日本人が読むようなことを想定していない。
わたしはむしろ、日本人なのに読んでおもしろいと感じる人がたくさんいるほうがフシギに思う。

新渡戸稲造ほどの構成力や完成度は望むべくもないが、これくらいなら誰でも、たとえばわたしでも書けそうな気もしてくる。

そこで、だ。
わたしもマネゴトを考えてみたわけだ。

ブシ道はもうやられてしまった。
なので、オタ道でも書いてみてはどうかと思ったわけだ。

武士道のような論調にするとこうなる。



日常では、男性の同性愛は理解しがたいものとして敬遠される。
二次元では、ボーイズラブとして女子に絶大な人気を誇るいちジャンルとして確立している。
これは現実の男×女の恋愛には望むべくもない何かを二次元に求めた結果のものであり、男×男で女が登場しないのではあるものの実は異性愛の物語なのである。
したがって一見すると同性愛だが日常における同性愛とは全く異なり、また生物学的にも論理的にも二次元の中にしか存在することができない。



日常では、ひとりの男に多数の女が集まるのは他の男のヒガミを買う対称となる。
二次元では、ひとりの男に多数の女が集まるのは常套手段である。
二次元では主人公の視点は読者視点になっているため、主人公ひとりに多数の女が集まる状況を見ても、読者が主人公をヒガむ感情が発生しないためである。
現に、主人公とカップル化したヒロインであっても、萌えキャラとして愛され続ける。



日常では、オタはダメなヤツの代表である。
二次元では、オタはオタであるほど尊敬される。
同じ趣味を共有するもの同士のコミュニティーにあっては、少なくともその場だけかもしれないが、オタであることを悔やむ者はいない。
またオタは、より幅広い知識を保有しており、より深い洞察が可能であり、場合によっては高い完成度の創作を可能とし、より高いレベルのオタになることを欲している。
したがって、より高いレベルのオタであれば、オタ仲間から尊敬の念を獲得することができるのだ。



なんだかいくらでも書けそうな気がしてきた・・・。

新渡戸稲造クラスの構成力をもってして英語の著作におさめでもしたら、一躍欧米のヒーローになれるかもしれない。
さて、だれか書いてみようという猛者はいないものか?

貧乳の品格 (下巻)

2009-05-11 00:00:40 | オタネタ全般
(・・・前回からのつづき)



この問題はメガネっこ理論に似ている。
視力は人類が生きる上で大変重要な身体機能の1つである。
だから視力は良いにこしたことはない。

だが!
メガネをかけたおにゃのこの、あのストイックな美しさは何だ?
視力の劣る個体だからという劣等を覆す、メガネっこを見たときの衝撃は何だ?
ときメモに如月未緒が用意されていたのはナゼか?

答えは簡単だ。
メガネっこは萌えるから、メガネっこは貴重なステータスだからである。

そもそも現世ではコンタクトを武装しているのがキホン装備となっている。
メガネっこという特殊武装を施すことを選択する者は少ない。
だからメガネっこはネトゲにおけるプリーストと同じくらい希少種となりはててしまった。

貧乳もそれと同じであると考えることができる。

乳房は人類が生きる上で大変重要な身体機能の1つである。
だから乳房は大きいにこしたことはない。
・・・かのようにも思えるが、これは正しくない。

なぜなら!

シリコーンを詰めさえすれば貧乳は巨乳と化すことができるが、いくらシリコーンを詰めたところで巨乳を貧乳にすることは決してできないからだ。
よって巨乳よりも貧乳のほうが希少種であるのは明白だ。

ある男は反論するだろう。
「巨乳から脂肪をきりとれば貧乳になるではないか!」
と。

これは間違ってはいない、、、
しかしながら大間違いだ。
貧乳の美しさは乳のみにあらずという事を忘れてはならないのだ。

貧乳の美しさとは、すなわち一切のムダを削ぎ落とした完成したボディーラインにある。
例えていうなら、フェラーリのエンジンやマツダのロータリーエンジンのような、動力性能に全てを捧げ、単なる工業製品を芸術にまで高めるに至ったエンジンのみ持ち合わせる官能性のようなものだ。
フェラーリのエンジンやマツダのロータリーエンジンに惚れた男は変態だ。そして貧乳好きもあるいみ変態だ。
だがその変態どもは、自ら望んで一切を削ぎ落としたことと引き換えに、彼ら変態以外には理解することもできない原始の脳の奥底を直撃する官能を謳歌しているのだ!
いくらアクセルを踏んでも眠たいだけの、いうならば巨乳のようなブヨブヨしたエンジンとはワケが違うことを知らねばならない!!

あるいみ、これはアバタもエクボに近いものがあるかもしれない。
いやそれよりも、ツンデレに惚れる事により近い気がする。
たとえば、冷酷で非情で攻撃的な銀様(水銀燈)を見て
「こいつ、なんて性格のわるい・・・」
と苦笑しながら、またそれとは逆に銀様の挫折と絶望と敗北、それから這い上がった高貴な精神を知ることで、銀様の全てを肯定できる慈愛。
わたしにとって、これこそがまさに貧乳を受け入れる度量に近いものがある気がしてならない。
ツンデレ萌えが空前の人気を博している今、ツンデレキャラの多くが貧乳もまた具えていることもまた事実であり、いつかは貧乳萌えがひとつのマジョリティーとして語られる日はそう遠くはないであろうと確信しているのはわたしだけではないはずだ。

現代はウシチチ女と酷評される巨乳キャラが氾濫している世界になりはててしまい、実に嘆かわしい。
巨乳派が勝利を確信した世界である。
しかし、貧乳派がかねてより存在した形跡はいくらでもある。

古典を引用してみよう。
たとえば松本零士作品だ。
どいつもこいつも、そろいもそろって貧乳だ。
松本零士は貧乳派に違いあるまい。
あわれな巨乳派は作品の素晴らしさを知ることもできずに終わるかもしれない。
いやいや、逆に、メーテルやエメラルダスが爆乳だとしたらガッカリだと思わないかね?



ついでながら、貧乳の楽しみかたにもこういうのもある。

巨乳キャラの胸を見て、「なんであたしって胸がないのかしら・・・」と恥ずかしげに自分の胸をさわってモジモジするのを見て愛でるのだ。
そう、さきのSchool Daysの1シーンのように。
巨乳キャラの胸がゆれるシーンでしか愛でることができないのは、ギャルゲーにおいて楽しみの半分を失っていると同情したいくらいである。

貧乳の美しいキャラとして外せないのは”ハヤテのごとく!”のヒナギクである。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50832753.html
↑これを見てほしい。
絶壁貧乳として貧乳愛好家から絶賛されているのがよくわかる。

さて、どんな巨乳よりも美しい乳が貧乳である事を、人類においていったいどれだけの男が理解できるだろうか?

実はこれに関しては明確な根拠を提示できる。
さきのヒナギクのフィギュアは発売当時6000円ほどで取引されていたが、先日アキバのレンタルボックスをウロウロしていると12000円もの値が付けられていたものを見た。
魔改造など施していないのに、発売から何年も経っていないのに、極端な数量限定でもなかったのに、6000円ものプレミアムがつくというのもオドロキだ。
これは何を意味するか、語らずとも理解してもらえるだろう。



追伸1:

ヒナギクフィギュアの別角度ショットを堪能したい人は↓こちら。
http://kaijin.akiba.coocan.jp/main/fig/photo/kotobukiyahinagiku.html
なんというステキな胸部!



追伸2:

ほかに有名なのといったらアイマスの如月千早とか。
http://www.hobbystock.jp/item/view/HBY-GCF-00002270

貧乳の品格 (上巻)

2009-05-10 00:01:59 | オタネタ全般
アニメ版 School Days の第5話冒頭から。



ぼよ~ん
「知ってたけど・・・」
「え?」
「あらためて見ても、桂さんって大きいよね」
「はずかしい・・・」
「いや、誇ってもいいと思う」

それを聞いていた別の女
「うぅぅ」
ぴよ~ん
もみもみ
「はぁーーー」
「なにやってるの?」
「あわわ、ちっ、ちがうの、そんなんじゃなくて・・・」
「そんなんって、なに?」
「うえ・・・」

「ぷしぷしぷしぷしぷしぷしぷし」
(胸パットに空気を入れる)
「どう? ナナミが貸してくれたやつ」
「うぅぅ、遠慮しとく、そういうのに頼りたくない」
ぴぴゅーーー
(胸パットの空気が抜ける)
「うん、世界はそれでいい」



この女(清浦刹那)、じつに良いことを言った!
巨乳の女がいるかたわら貧乳の女がいる、世界はそれでいいだ!!
(原本では世界をThe Worldの意味では使っていないけどね)

世間では巨乳が重用されている。
グラビアを見ても明らかだ。

しかし!

比較的最近になって、貧乳は積極的に肯定される貴重なステータスとなっていることも忘れてはならない。
敬意と畏敬の念、そして貧乳愛好家たちの憧憬をこめて、「微乳」は「美乳」、「貧乳」は「賓乳」と書かれる場合もあるくらいである。

なにを隠そう、我輩は貧乳派だ。
ギャルゲーをしても、ヒロイン中いちばん胸のでかい女にハマったためしは無いと断言できる。
それに、「ぽよ~ん」という乳ゆれシーンでもマジに無関心でスルーする。
筋金入りの貧乳派だ。

ちなみに貧乳派とロリコンはイコールではない。
アニオタとロリコンがイコールではないのと同様に。
・・・んー、この例ではイマイチわかりにくいかな。
集英社のコバルト文庫のヘビーユーザーと同性愛の人がイコールではないのと同様に・・・というのはどうかな。

だから、
「乳がない=発育前=幼児」
  ↓
「よって、貧乳派=幼児派=ロリコン」
この証明は間違いだ。
ここではセクシーかつ貧乳という、本来両立しえない神がかり的バランスによって完成した、ある種の奇跡について語るのだから。
それを知らなかったひとは、いまから奇跡の価値というものを少しだけでも知っていてほしい。

ついでにいうと、
「貧乏なものはお金がなくて困っている人の気持ちを理解してあげられるから、お金持ちより天国に近い」
といったような、いわゆるキリスト教的価値観においての持たざるもの同士のキズのなめあいという意味において、貧乳に価値を見出しているわけではない。
逆に単なるルサンチマンであっては、貧乳は語るに落ちると断言しておこう。

ある男の統計によると、世の中の男の半数は”巨乳派”または”どちらかというと巨乳派”であり、”どちらでもいい派”が半数弱、貧乳派は僅か数%を占めるだけにすぎない、という。
わたしは性的マイノリティーらしい。
その男(巨乳至上主義派)によると、なぜわざわざ貧乳を好むのか理解に苦しむそうな。
世の中には男の80%がデブ専という国(※1)もあるらしいが、その国にいったらわたしはまごうことなき変態さんだ(笑)。

わたしは反論しなければならない。

『貧乳は劣等ではない!』



(次回へつづく・・・)



【※1 男の80%がデブ専の国】

北西アフリカにあるモーリタニアという国。
女は太っていれば太っているほど良いとされ、ワザと食いまくってワザと太らせるそうな。
下記サイトによると、男の80%がデブ専らしい。
http://www.mauritania-jp.com/problemes-sociales.htm

エンジンのプラモが欲しい

2009-05-09 00:02:25 | オタネタ全般
2009.01.04~.06の当blog記事にて、機械のからだの萌えを書いたことがある。
その御多分にもれず、わたしはガンプラもけっこう好きだ。
ところが、車や飛行機のプラモはほとんど買ったことがない。

なぜなら!

それらの本質は外見ではなく中身にあると思ってしまうと、なかなか外見だけ表現したプラモを買う気にはならないのだ。

たとえば車のプラモでもそうだ。
車の本質はボディーのデザインにはない。
そこに投入された設計思想やテクノロジーが本質だと、わたしはそう考えている。
だから、ボディーのデザインを愛でるのが目的のプラモをなかなか買う気にはならないのだ。

そうは言ってもさすがに3万円くらい出すと、フタを開ければリアルなエンジンが出てきたりダブルウィッシュボーンのサスペンションが忠実に再現されていたりする模型も多い。
そういった模型の美しさには感動をおぼえる。
しかしそれでもボディーデザインを愛でるのが主たる目的であることには違いがないような気がしてしまい、どうしても二の足を踏んでしまう。(高額な件もあるけど。)

そういうわたしが求めるプラモはこうだ。
車全体ではなく、キーテクノロジーとなっている一部分のみのプラモ化だ。
たとえばエンジンだけのプラモ化だ。

実はミリタリー系のアフターパーツ(?)でエンジンだけというのを見たこともあるが、さほど食指は沸かなかった。全体で1つの塊だったからだろう。
だから、タイミングベルトやカムシャフトやバルブやピストンやコンロッドが別パーツになっていて、エンジンブロックが一部透明になっていて、クランクシャフトを回して遊べるようなものに仕上がっているのが望ましい。

ついでに言うと、理科実験の模型のようなものでもツマランから、イワク付きの銘機のプラモ化でないと萌えない。
たとえば車でいうと日産の直6の銘機"L20"とか、飛行機でいうと中島の伝説的に最強最悪な銘機"誉"とか。
そうは言ってもそんなプラモを出してもらえるとも思えない。

ところが、なんと!

実はそういうわたしの要望に答える商品が1つだけある。
http://www.hobby-shop.jp/products/1984.html
ロータリーエンジンの稼動模型だ。

エキセントリックシャフトを回すとギヤを介してローターが動く。
原理的に美しいロータリーエンジンの動きを眺めていると実に和む。
極めつけは、あんまり回しているとローターが擦れてサイドハウジングに悪魔の爪痕がのこるところまで忠実だ(笑)。

こいつはオンタイムという零細企業(?)が出しているため、いつ入手困難になってもおかしくない。
安いので、少しでも欲しいと思った人は今すぐ買っておくことをオススメする。
ちなみにわたしは3つ買った。

なんと北朝鮮は電線地中化先進国なのだ

2009-05-08 00:01:50 | 経済/経済/社会
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1260149.html
世間では、安倍元首相が電柱, 電線を地中化しようという働きかけをやりはじめた。
(とりあえずここでは、これの良し悪しについての議論はしない。)

じつは北朝鮮は電線地中化の先進国であるのはみなさん御存知だろうか?

日本は戦前から電線の地中化をやっているところもありはしたが、本格的に全国規模で地中化を推し進めたのは昭和50年代とか60年代とかである。
ところが北朝鮮はそれよりもっと早く、たしか昭和40年代くらいから手をつけた。
本格的に電線の地中化を普及させたのは、たぶん北朝鮮が世界初であろう。

先進国の技術屋も、当然ながら「電線を地下に埋めてしまえ」というくらいは思いつく。
なぜそれをやらなかったかというと、電線の導体の周囲にある絶縁材料の性能が良くなかったから、やりたくてもできなかったのだ。
日本は後進国で負け負けだぜぃ(笑)。

技術もお金も人材もない北朝鮮が、なぜ日本より先に電線の地中化を行えたかというカラクリには、もちろん大きなシカケがある。
北朝鮮は日本人には思いもよらないすごい方法を用いていたのだ!

北朝鮮というと主体思想で有名だ。
主体思想の延長線上に主体農法というものがある。
主体農法とは、科学的根拠や具体的事実を一切無視して、根性だけで何とかしようという方法論だ。
根性があれば、肥料を100倍投入して苗を100倍高密度に植えることで、計算上100倍くらいは生産性があがるはずだ!っていうくらいの、小学生でも何かがおかしいのに気付きそうなくらいの、あまりにもアホなやりかただった。
もちろん主体農法は大失敗し、農業の生産高はびっくりするほど激減することになった。
土地がダメージを受けたので、農法を元に戻しても生産性は元にもどらなくなっていた。
ちなみに科学的根拠や具体的事実をもとに反論した人は、将軍様の命令に従わない悪いヤツだということで投獄された。

電線の地中化も推してしるべし。
「いまの電線の性能で地中に埋めたらとんでもないことになるぜぃ」
と言った技術畑のひとはことごとく投獄されたので、だれもダメなことを指摘することができなくなっていた。
実際、埋めてすぐに問題が多発するわけでもないし。

いまはどうだろう。

一説によると、いまの北朝鮮では発電した電力の60%とか70%とかを漏電で捨てているらしい。
もちろん腐った電線を使っているからであり、それをやりなおすゼニもなくて使い続けるしかないからである。
そしていまゼニが無いのも、主体思想でこういった非効率どころかアホ効率といったほうがいいようなインフラ整備をしてゼニを浪費したたためだ。
悪いけどこれならチャウセスク宮殿にゼニを使った某元ルーマニア大統領のほうがはるかにマシだ。

北朝鮮ではエネルギーが無くて困っていてかわいそうだという意見もある。
まあ、たしかにかわいそうだ。
だが、これを自業自得といわず何と言おう!

車で例えていうならこうなる。

北朝鮮さんは日本ちゃんより速い車が欲しくてしかたがなかった。
けれど、腕を磨くわけでもなく本で勉強するわけでもない。
ただ根性だけはあった。
絶対に日本ちゃんよりも先に速い車に改造したくてしかたがなかった。
そして根性だけで車を改造して、なんとか車にタービンを載せるほどにいたる。
そして北朝鮮さんは日本ちゃんに向かって
「おまえの車はタービンも付いてないのかよ、いったい何馬力なんだい? プププッ」
といってあざ笑うのであった。
ところが、その車はリッター1キロしか走らん改造車になってしまっていた。
それもそのはず、吸気も排気も漏れているし、燃調はムチャクチャだし、まともに走るほうがビックリな仕様だった。
しかし北朝鮮さんは日本ちゃんに負けたくないので
「大成功だったぞ!」
と大見得をはった。
そうはいっても大失敗だと気付いてはいるので車を買い換えたい。
かといって車を買い換えるほどのゼニも無い。
そして、ガソリン代が払えないからってサラ金めぐりをし、いまでもその車に乗っている。
悔しまぎれに日本ちゃんの家にむかってロケット花火を打ち上げてウサをはらしたとさ。

たしかにかわいそうだが、まさに自業自得。

対して日本。

物性の専門家の努力により、地中に埋めてもOKな絶縁材料ができた。
これは革新的な新材料を発明したからではなくて、性能悪化の要因を調べるための基礎研究をコツコツとやっていって、少しづつ製造プロセス改善していったからなのである。
たぶん、架橋ポリエチレンの純度や充填率を極限まで高めて、水トリーを発生させないようにしたのだと思う。
ちなみに送電線の100万ボルト化も日本はロシアより遅れている。
ロシアの事情はどうなんか知らんが、国土の広さを考えたら切羽つまり具合が全然違うから何とも言えん。

これも車で例えてみようか。

日本ちゃんは北朝鮮さんが先にタービンのせようとしているのを横目で見ていた。
そのかたわら、コツコツと熱力学のお勉強をしていた。
北朝鮮さんがタービンのせ終わるころ、どうやったらノッキングを抑えられるかを仲間のアメリーさんたちとじっくり考えていた。
北朝鮮さんが有頂天で自慢しに来るのも横目で見つつ
「それでは燃調ムチャクチャなのでまともに走りませんよ?」
と忠告したが、北朝鮮さんは聞く耳もたないのでほっといた。
日本ちゃんはタービンそのものにも興味があったので、自分でプログラミングした熱流体シミュレータでブレード形状を解析し、自分でブレードを切削するところからはじめ、ついに最高のタービンを手にいれた。
日本ちゃんはコツコツと修行していたので、タービンを載せるくらい朝飯前になっていた。
そして北朝鮮さんから幾日も遅れたある日、ガソリン代にも窮している北朝鮮さんを尻目に、仲間のアメリーさんたちと改造車に乗って峠にドライブに行った。
そして北朝鮮さんは韓国さんや日本ちゃんにガソリンの無心に今でもやって来るのだったとさ。

ともあれ、日本は北朝鮮に遅れること40年、ようやく本格的に電線地中化を進めるときが来たのかもしれないね。



ついでにWikipediaの電線類地中化のリンクをはっておく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E7%B7%9A%E9%A1%9E%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E5%8C%96

バランスの悪さを楽しもう!

2009-05-07 00:00:23 | オタネタ全般
昨今のゲーム、とくにロールプレイングは実にバランスが良い。
サクサク先に進めるし、理不尽に強い敵キャラも出ないし、実に遊びやすい。

しかし!

大変バランスが良いゲームより、絶妙にバランスが悪いゲームのほうが、実はおもしろいのではないだろうか。



絶妙にバランスが悪いというと、やはりファミコン版ドラクエIIをおいて他にないだろう。
ファミコン版ドラクエIIはかなり渋いところが多かった。

たとえば、ムーンペタの町から長い長い陸路を何度も何度も全滅しながら何度も何度も挑戦してドラゴンの角たどりつき、ドラゴンの角でも2~3回は全滅しながら風のマントを手に入れて向こう側の大陸へ行き、ようやく町が見えたかと思いきや敵が強烈に強くて町の目の前で全滅して悔しい思いをし、それでも再挑戦して瀕死の重傷でルプガナの町へ到達したときの感激は、たかがTVゲームなのに言葉には言い表せないほどのものだった。全ドラクエシリーズ中においても1, 2を争う感激であるのは間違かろう。

ほかにも、異常に長いロンダルキアの洞窟で何度も何度も全滅しながら、ループする迷路や隠し落とし穴を奇跡的な幸運で攻略しながら、洞窟を出たあとに敵が強烈に強くなって戦闘のたびに全滅の危機に瀕しながら、1歩づつ敵にエンカウントしないように祈りながら、つぎのスクロールでは町や祠が出てくるように祈りながら、ついに祠が見えて安堵しつつも敵との遭遇におびえながら、そしてかろうじて祠にたどりついたときの感激も饒舌につくしがたい。これも全ドラクエシリーズ中においても1, 2を争う感激であり、ようするにわたしとしては1, 2を争う感激のどちらともファミコン版ドラクエIIで楽しめたと今でも思っている。

スーファミ版だったと思うが、そのドラクエIIもやったことがある。
ファミコン版とは桁違いに遊びやすくなっていてびっくりした。
しかし、逆に最初から最後までおしなべてなんとなく遊べてしまい、イマイチ印象には残らなかった。

サマルトリアの王子も、鉄の槍しか装備できないうえに誰よりも死にやすく、しかもこいつしかザオラルが使えないという踏んだり蹴ったりの状態だったはずなのに、スーファミ版になってからは強力な武器は装備できるわ、死ににくくなっているわ、ムーンブルクの王女がザオリク使えるわで、あろうことかサマルトリアの王子の個性が全然見えなくなってしまった。



他の例でいうと、桃太郎伝説ターボとか。

たとえば・・・
金太郎の村の上のほうには雪国がある。
金太郎の村とその雪国の間には通り抜けられないように山脈が横たわっている。
浦島の村、すずめのお宿2、寝太郎の村を経由しないと本来たどりつけない。
だが、実は1マスだけ通り抜けられる抜け道があり、実はそれらをいきなりスキップしてそっちに行く事も可能なのだ。

しかし何段階かイベントをスルーして先に進むので、敵が異常に強い。
たしか、1回逃げられなかっただけで即死だった気がする。
けれど「なんじゃこりゃー!」とか「ええい!また死におった!」とかブツクサ言いながら、無理矢理ヘンテコな攻略ルートをたどるのが実に楽しい。

ほかにも、さいごのほうの黄泉の塔で何度も何度も死にながら隠れ蓑を大量にかかえて低レベル攻略にチャレンジするのも実に楽しい。
それ以外でも変なことをする要素はいくらでもあった。
ふつうにやればふつうに楽しめるのに、わざわざ変なことをするのが楽しいのだ。

しかし、桃太郎伝説2になり、大変バランスが良くなったかわりに、ほとんどヘンテコな攻略をする要素がなくなった。
変なことをしたというと、せいぜい可能な限り呪文を憶えずにクリアしたとか、金の延棒を無限増殖したとか、そんな程度の記憶しかない。
2のほうが間違いなく良いゲームだったはずなのに、なぜかわたしの記憶のなかでは初代のほうが強烈に遊んだ印象が残っている。



パソゲーにしたってそうだ。
例えばイース。
神殿の奥に行くまえに引き返して廃坑に行き、1激で即死する敵の猛襲に怯えながらもシルバーアーマーを盗って帰ったときのニヤリ感、そしてシルバーアーマー武装により神殿のボスをノーダメージで倒したときのニヤリ感はパソゲー屈指のいい思い出だ。

そして、途中の鎧をろくすっぽ買っていないままダームの塔へ入り、シルバー装備をとりあげられて
「やっべ、オレそれ盗られたら、鎧はプレートメイルしか持ってないじゃん・・・」
とあっけにとられて大苦戦したのもまたいい思い出である。



ここであげたどれも、どちらが良作かというと、どちらとも後世の作のほうがまともな出来になっているから、冷静にかんがえたら比較するまでもなく後世の作のほうが良作だ。
しかしながら、どちらがおもしろかったかというと、それは良作だったほうだとは必ずしも判定できない。

この違いはバランスの悪さを楽しめるかどうかにある気がする。
バランスが良すぎるゲームはなんとなく遊べてしまい、イマイチ印象に残らないまま終わってしまう気がする。

われわれは時にはバランスの悪さを積極的に肯定できる寛容さを持ち合わせるべきだろう。

青春時代の美人ヒロイン・・・?

2009-05-06 00:02:06 | オタネタ全般
YAHOO!ショッピングの広告にこんなのがあった。

「銀河鉄道999  メーテル」
「ルパン三世  峰 不二子」
「タッチ  浅倉 南」
「ヤッターマン  ドロンジョ」
「DVDでよみがえる!  青春時代の美人ヒロイン」
「YAHOO!ショッピング」



えっと。
どっから何をつっこみましょうか・・・・。
青春時代の美人ヒロインとしては何かがおかしい・・・。

とりあえず、、、
ガンダムのセイラさんもうる星やつらのラムちゃんも入っていないのは突っこんでおかないとだな。

そいから、ひところアニメディア読者コーナーで果てしなき大戦争をくりひろげたナウシカとナディアのどちらも入っていないのも何だな。



それもまあいいや。

メーテルに萌えを見るやつもたまにはいる。
峰不二子に萌えを見るやつもたまにはいる。
浅倉南に萌えを見るやつもたまにはいる。

しかし!

ドロンジョに萌えを見るやつもたまには、、、いや、これはないだろ!
老女から幼女まで二次元なら全てを愛するわたしでさえドロンジョはちょっと(笑)。

いやいや、YAHOO!によれば、メーテルと峰不二子と浅倉南に並び立つヒロインなのだから、きっと大変な需要があるにちがいあるまい。



正直わたしは実写のヒロインには全く興味がないのだが、深田恭子なる人物がやっているという実写ドロンジョはどうなんかをググってみた。

YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425102219

[質問]
正直・・・ドロンジョに萌えましたか?

[ベストアンサーに選ばれた回答]
萌えません。
こういうの好みではありません。

[質問した人からのコメント]
感謝ありがとうございました!!



・・・やはりそんなもんか。

怒首領蜂 Aタイプ使いの誇り

2009-05-05 00:03:45 | シューティング
はるかいにしえの時代、シューティングの自機の選択はできなかった。
コインを投入すると、自動的に自機が割り当てられた。

いつのころからか、そうではないものが現れ始めた。
複数の自機のなかから、おのれの良しとする性能をもつ機体を選択できるようになったシューティングが現れた。
始祖はなになのかまでは知らないが、アイテムによるショット変更ではなく最初から自機を選択するタイプのものはグラディウスIIが始祖かもしれない。

自機の選択の可能なシューティングにおいて、ひとつの定番が生まれた。

広い範囲にショットを打て移動速度が速く、そのかわり前方への攻撃力が弱いタイプ。
仮に広範囲タイプと言おう。

ショットは前方に集中していて攻撃力が強く、そのかわり横や斜め方向にショットが打てず移動速度が遅いタイプ。
仮に集中タイプと言おう。

ここで注目したいのは移動速度である。
集中タイプほうが攻撃力が強い。したがって移動速度が遅いというハンデがあることで広範囲タイプと釣りあう性能になるはずである。
・・・と設計される場合が多かった。

しかし!

この設計は間違いだったと気付かされる。
ちゃんと調査はしていないが、はじめてこの設計コンセプトを覆したのは恐らくケイブの首領蜂、および続編にてコンセプトの完成をみた怒首領蜂ではなかろうか。

首領蜂や怒首領蜂は東亜系とよばれる弾幕避けのシューティングであり、製作元のケイブは東亜系の直系子孫である。
これら東亜系シューティングはとにかく弾が多い。
だから弾を吐き出すザコキャラを早々に退治できたほうが有利なことが多い。
したがって広範囲タイプが有利になりがちとなる。

しかし集中タイプにも魅力が無くてはならない。
よって、集中タイプには広範囲タイプより速い移動速度が与えられた。
シューティングのセオリーが覆った瞬間だ。

この大転換には、われわれシューターには当初思いもよらぬ旨みをもたらした。

1~2面あたりの最初のほうのステージでのクリアを優先するなら、ザコキャラを退治しやすく、また移動速度が適度に遅くて弾幕を避けやすい広範囲タイプ(怒首領蜂ではCタイプ)が有利である。
もちろんこれは不慣れなころの話だ。

腕前が上がってくると、集中タイプ(怒首領蜂ではAタイプ)の魅力があらわになってくる。
広範囲タイプではなかなか倒せない硬い敵を瞬殺でき、そして画面を大きく動いて反対側のザコキャラも瞬殺する、そんなスタイルをとることができる。

いわば
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
式の戦いかただ。
実際やってみなければわからないのだが、この戦いのスタイルは実に弾避けが心地よい。
広範囲タイプしか扱えないプレイヤーにとっては理解するすべの無い、集中タイプ使いにのみ与えられた楽しさだった。
見るものにも、敵に弾を撃たせ、そのうえで弾幕を縫うようにして超絶技巧で回避するそのプレイは、広範囲タイプでは得がたい美しさを獲得した。
どちらが強いかはともかく、後々の時代までシューターの多くにこの集中タイプが愛されることになった。

もちろん、いくら集中タイプが楽しいとはいえ、集中タイプのみ難易度が上がってしまってもバランスが悪い。
だから首領蜂においては、遅い広範囲タイプでは避けにくい、広範囲タイプ特有の難所がいくつか用意された。
これによりバランスが取れ、バランス調整についての方法論が完成した・・・かのように思われた。

ところが!

続編の怒首領蜂ではそのバランス調整がくつがえることになる。
道中のほぼ全てのあらゆるところで広範囲タイプが有利になった。
攻略に関しては、集中タイプはあらゆる意味で不利になった。
集中タイプ使いのシューターでさえ、クリア優先ならば広範囲タイプを使うべし、と言わざるを得なくなった。

これについての白熱した議論が展開された。
なぜ、わざわざクリアしにくい集中タイプが継続して用意され、そして前作の首領蜂のような広範囲タイプ特有の難所がなくなったのか。

長い長い討議の末、われわれシューターは一つの結論に到達する。

蝶のように舞い、蜂のように刺す、この集中タイプのスタイルは実に楽しく美しい。
しかし広範囲タイプより弾幕が濃くなり、攻略は実に困難である。
それでもなお、われわれは集中タイプを使いつづける。
なぜならば、集中タイプ使いであるわれわれは、濃い弾幕を避けることのでき、そして集中タイプにのみ許された楽しさを知ることのできる、自らの腕前を誇りとするからだ!
だからわれわれは集中タイプの難易度上昇を肯定しよう!!

・・・と。

だが、これには1つの悪い側面が発生した。
集中タイプ使いであることはシューターにとっての誇りとなった。
だから、広範囲タイプを使うものを見下すものがあらわれた。
広範囲タイプはチキンだと影でののしられる事態にまで発展した。

シューティングは自らのサイフから捻出したコインを投入し、そして自分だけで遊ぶゲームである。
だから他人からチキンだとか言われる筋合いはない。
みずからの美学に照らし合わせ、みずからがそれを選択しなければ良いだけのことで、他人に干渉すべきではないのは明白だ。



その後、ゲーセンから新しいゲームが入ると同時に古いゲームが引退していき、シューティングが少しづつ代替わりしていくようになり、いつしかチキン論争を聞くことはなくなったことで自然に解決することになる。

いまでは、ときおり怒首領蜂大復活にてAタイプをつかうとき、かつて怒首領蜂の到達したシューティング哲学、そのスタイルに熱狂した当時のわれわれの熱き魂を思いだすのみとなったのであった。

シューティングとはシューティングにあらず (下巻)

2009-05-04 00:09:25 | シューティング
(・・・前回からのつづき)



死と隣り合わせの恐怖、精神集中によりアドレナリンが過剰分泌される弾避けのハイテンションな快感、難所をくぐりきった自らの腕前への確かな手ごたえ、それこそがシューティングの本質だ。

世間のシューターのみなさんを見てみるといい。

ボス戦で
「死ねぇぇぇい!!!」
と叫びながら戦っているか?

そうではないであろう?
逆に、ボスに
「死ぬがよい。」 @怒首領蜂の大佐
と言われて、生命の危機におちいりつつ大喜びしているのが現実だ。

そうだ。
シューティングは弾を撃つことが目的ではないのだ。
シューティングは敵の弾を避けることが目的なのだ。

当時の大人の主張はどうだったか。
シューティングでは敵を攻撃してやっつけるからそれをやった子供も攻撃的になる。

さてどうだろう。
シューティングは敵を攻撃してやっつけるのが目的ではないのを理解していない。
さきの批判は物事の本質を理解するまえに、表面だけ見て理解したつもりになっているだけのことだ。
これでは整形大国の韓国人なみに見た目で中身を判断するような愚かな行為だ。
少なくともシューティングをまともに遊べる程度には理解して批判してほしいものだ。

さて表題にもどる。
わたしはこう言いたい。

シューティング(ゲーム)とはシューティング(射撃)にあらず、と。



追伸:

最近のTVゲーム批判には、上記批判はほとんど聞こえてこない。
おそらくシューティングそのものをほとんど見なくなったためであろう。

そのかわり、民主党副代表の円より子議員のように
「アダルトゲームで青少年は心を破壊され、人間性を失う」
とまで断定で批判するようなことになっている。

世の中には、アダルト成分がはいっていなくても心温まり涙を流すすばらしい作品があることを知ろうともしない。

それに、アダルト成分についても理解不足が甚だしい。
欧米に比べて性犯罪が極端に少ない日本の事情を性犯罪の多い欧米基準に適合させようとするのだから、理解不足と思い込みと感情論とインチキフェミニズムによって本来回避したいことが逆に激増するように自ら望んで選択しようとしていることに気が付かない。

TVゲームをやったこともないようなクソ女がTVゲームを語るとこうなる。

失笑ものの愚かさとはまさにこういう行為のことを言う。

シューティングとはシューティングにあらず (上巻)

2009-05-03 00:12:35 | シューティング
のっけから禅問答のようになってしまっているが、今回はシューティング全般のお話。
今回のお題は、シューティングとはシューティングにあらず、である。

むかしむかし、ハドソンのキャラバン全盛期のころ。
ゲーセンではなく家庭にゲーム機(つまりファミコン)がはじめて普及し、TVゲームというものが一般社会に認知されてき始めたころ。

そのころ、TVゲームというものを大人は理解できなかった。
大人はTVゲームを子供の悪影響の筆頭だとして大々的にネガティブキャンペーンを実行した。
いつの時代もそんなことはあるもので、ポケベルしかり、携帯しかり、ネット環境しかり、である。

そのころ、というかTVゲーム黎明期のころ、TVゲームというとシューティングが多くある時代が続いた。
当然ながらシューティングが批判の代表となる。

その批判とはこうだ。
「TVゲームは子供を凶暴化させる」
のだとか。

まあ、目が悪くなるというものも多くあった。
あと、コミュニケーション能力が身に付くのが阻害されるというのもあったが、どちらかというと凶暴化のほうが攻撃対象だった気がする。
ちなみに、ゲーム脳といってTVゲームをすると脳が破壊されるというオカルトまがいの説もあるが、これはもう少しあとの時代の風説である。

参考までにわたしの父親もTVゲーム諸悪の根源主義者である。
まあ当時の大人は多かれ少なかれ、博打や酒やタバコ以上にTVゲームは百害あって一利なし、TVゲームは日本の将来にとって最も有害なものだと思っているだろうから、これは特別ヘンチクリンな主義主張ではない。

では、当時の大人たちはなぜ「TVゲームは子供を凶暴化させる」と主張したのだろう。

彼らの説はこうだ。
TVゲーム(代表的にはシューティング)では敵を攻撃してやっつける。
だからそれをやった子供も攻撃的になるに違いない! ・・・と。

では、それは本当なのだろうか。

シューティングでは敵を攻撃してやっつける。
まあウソではない。

しかし!
シューティングのおもしろさは敵を攻撃してやっつけることにはない。

ゲーセンでも行って、シューティングのうまい人のプレイを見ていると多くの人は思うだろう。
うまい人のプレイを見て感動するところは敵をやっつけるところにはない。
うまい人が鬼のように降り注ぐ狂気の弾幕を紙一重でひらりとかわす、そのスーパープレイに感動するのだ。

実際にプレイしてもそれは同じだ。
たった1発被弾しただけで撃墜される貧弱極まる機体をみずから望んで手に取る。
そして死と隣り合わせの危険をかいくぐりつづけ、信じられないような敵の攻撃を受け続け、残機をへらしボムストックを減らし、それでもなお先に進む。



(次回へつづく・・・)