松本市で「たてもの野外博物館 松本市歴史の里」を見学した後、高速バスで長野県飯田市に向かいました。
目的は、飯田藩家老で維新後は警視庁に出仕した石澤謹吾の掃苔です。
石澤は宮城集治監初代典獄・樺戸集治監四代典獄として知られています。
飯田には2年前にも飯田藩主・堀親広の調査のために訪れたことがあります。
堀親広も警視庁に出仕しています。
ちなみに警視庁では飯田藩主の堀より飯田藩家老の石澤のほうが階級は上でした。
誕生間もない警視庁ではこのような上下関係が逆転した状況が多々見られますが、当事者同士はどのように感じていたのか、興味深いところです。
『幕末維新人名事典』や『三百藩家臣人名事典』によると、石澤の墓は飯田市江戸町正永寺にあると記されています。
正永寺の墓地を訪れ、十基ほどの墓が並ぶ石澤家墓域にたどり着くことができましたが、磨耗していてどれが石澤謹吾の墓かわかりません。
石澤は大正六年に亡くなっていますが、大正時代に建てられた墓にしてはどれも古すぎるように感じました。
お寺の方にお尋ねし、色々教えていただけましたが、石澤謹吾の墓の特定はできませんでした。
上記事典は墓所まで記載しているので、私はいつもお世話になっています。
しかしたまに事典に書かれている墓所を訪れてみても、実際には墓がないことがあります。
可能性は2つ考えられます。
事典が執筆された後に墓が移転されたか、かなり古い史料の情報をそのまま事典に引用したかです。
私は、“墓”=“故人の住居”=“どこよりも故人を感じることができる大切な場所”と考えています。
ブログや講演や執筆文でたくさんの墓を紹介してきましたが、自分で訪れて存在を確認し、お参りをした墓以外のことは紹介していません。
これからもその姿勢を崩すつもりはありません。
※写真は石澤家遠祖の墓域