幕末掃苔屋 公式ブログ

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黒田清の墓 川路にまつわる黒い噂について

2010年11月25日 | 川路利良
青山霊園に行ってきました。
これといった目的がなくとも、青山霊園と谷中霊園にはよく足を運びます。
霊園を歩いていると、私の頭の中にある明治10年の警視庁幹部名簿(200人ほどを暗記)に掲載
されている人物の墓に巡り会うことがよくあるからです。
しかし青山も谷中もこれまでに数十回訪れてきましたので、最近では巡り合える確率も低くなって
きました。
それでも霊園の開放的な雰囲気と墓に引き寄せられ、月に一度は訪れています。

警視庁関係者ではありませんが、北海道開拓使長官や第2代内閣総理大臣を務めた黒田清隆
の墓が青山霊園の1種イ1号9~10側にあります。
墓域の正面に建つ黒田の墓のとなりには、妻・清の墓があります。
夫の墓と比べても見劣りしない立派な墓です。
墓には清が静岡県士族中山勝重の長女で、明治11年3月に23歳で亡くなったことが記されて
います。

この墓の前に立つと、後ろめたい気分に襲われる川路ファンは私だけではないと思います。

若くして亡くなった清の死因は肺病とされています。
しかし当時の新聞は、泥酔した黒田が清を殺したのだと書き立てました。
さらに後年に出版された本には、黒田と同郷の大久保利通が、同じく同郷の川路利良に命じて
事件の揉み消しを図ったと書かれています。
これらの本によれば、川路は自ら青山霊園にある清の墓をあばいて形だけの検視を行い、死因を
病死と断定したのだといいます。
そのように書かれた2例をします。
明治36年に岡本経朝が書いた「近世百ものがたり」では、「スルト川路総監は腹心の警官を
引連れて、発掘した屍体を見分していたが、半ば見て、変死ではない!最う宜し、速く埋めて
置けと云って引取ったさうだ」と書かれています。
大正15年に尾佐竹猛が書いた「法曹珍話・閻魔帳」では、「川路自ら進んで、棺の蓋を少し開けて
見て、之は病死ぢゃ、変死ぢゃない」といふて直に蓋をして埋めたのである」と書かれています。
川路の検視についてはウィキペディアにも掲載されています。
いずれも専門家には見せず、川路の関係者のみで検視したという書き方です。

私が気になるのは、黒田が清を殺したかどうかではなく、川路が同郷の黒田を守るために清の墓
をあばき、形ばかりの検視を行った事実があるかどうかです。
川路の追っかけを自任する私としては、この話をにわかには信じられません。しかし、否定する
根拠も持っていません。
私の手元には警察関係者が執筆した川路利良の本が十数冊ありますが、どの本にもこの話に
ついては否定どころか触れてすらいません。まるでタブーであるかのように…。
この話の信憑性について調べねば、と思いました。

清の墓を訪れてから数日後、「追跡・黒田清隆夫人の死」という本に出会いました。
この本には、この件について私が知りたいと思っていたことがすべて書かれており、川路に
まつわる黒い噂を根拠を示して否定していました。
著者の井黒弥太郎先生に感謝です。
ちなみに、川路にまつわるもうひとつの黒い噂である西郷暗殺計画については、後藤正義先生が
「西南戦争警視隊戦記」で根拠を示して否定しています。
川路ファンの方は、上記の2冊を読まれることをおすすめします。

※写真は清の墓