幕末掃苔屋 公式ブログ

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丹南藩代官岡田氏の史料を探しに

2011年12月25日 | 丹南藩

浅草から東武鉄道に乗り、ぶらりと栃木方面へ行ってきました。

特急りょうもうに乗り、まずは太田に向かいました。
以前、高山彦九郎記念館を訪れた際、ソースカツ丼を食べるためにこの駅で下車したことがあります。
太田では以前から気になっていた伊勢屋のスバル最中を買い、喫茶で一服したあと、足利市に向かいました。

以前足利を訪れた時に一般的な観光は済ませてあるので、今回は足利図書館にこもり丹南藩五十部代官岡田氏の史料を探しました。
幕末の丹南藩領一万一千六石余のうち千八百二十八石は下野国足利郡にあり、岡田氏が代官職を勤めていました。
家伝によれば岡田氏の祖である岡田高吉は足利学校を創設した小野篁の二十三世の子孫であり、代々からも足利学校を研究する者が多く出ています。
寛永三年(1791)生まれの岡田東塢(名を居敬、通称を立助、号を世庵)は文人代官として知られた人物です。
幼少のころより学問を好み、江戸へ出て朝川善庵に学びました。
文政年間に伊豆下田に清国船が漂着した際は善庵とともに清国船との通訳を行っています。
天保二年(1831)、父の遺言に従い丹南藩郡代に就任しています。
足利における文化人として著名な存在となっていった東塢は、同門の画家金井烏州や儒者寺門静軒をはじめ各地の文人と交友をもちました。
天保二年(1831)、渡辺崋山と出会い、肝胆相照らす仲となっています。
東塢は、崋山が将来幕府に睨まれることになると予見し、崋山のために隠れ家を建てたという伝説があります。
10年ほど前に足利を訪れた際、岡田氏のお墓参りをするために浄林寺を訪ねたことがあります。
東塢が崋山のために建立したと伝わる隠れ家は現存していましたが、墓は改葬されたということでお参りは出来ませんでした。
未だに改葬先についてはわからず、お参りはできないままです。
1時間半ほど図書館の郷土資料室にこもり、岡田東塢の弟の萬司、養子の祐吉について書かれている本3冊をコピーしてもらいました。
足利には巡りたい史跡がいくつかありましたが、次の機会にとっておくことにしました。
丹南藩を調べていらっしゃる方々と一緒に再訪し、五十部陣屋跡を中心に史跡巡りを行いたいと思っています。

次に佐野に向かい、天応寺で井伊直弼の掃苔をしました。
天応寺は佐野駅から2キロほどで、日没まであまり時間がなかったのでタクシーで向かいました。
本堂の裏にある墓地の高台に、井伊直孝、直澄、直弼の墓があります。
井伊直弼の墓はこれまでに、東京都世田谷区の豪徳寺と、滋賀県彦根市古沢町の清涼寺と和歌山県伊都郡高野町高野山の奥の院(こちらにあるのは直弼本人の墓なのでしょうか?)にある墓にもお参りしてきました。水戸市の妙雲寺にも供養塔があるそうですが、以前訪れた時には気が付かず、お参りできていません。

帰りは館林に出て、そこから特急りょうもうで帰りました。
なお、足利ではパンジュウ(1個30円)、佐野ではイモフライ(1本50円)をいただきました。
ともに安くてうまかったです。
栃木はB級グルメの宝庫だと感じました。


※写真は井伊直弼の墓


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