幕末掃苔屋 公式ブログ

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川路利良追っかけ日記

2010年04月20日 | 川路利良
明治初年の警視庁に在籍していた侍たちを追っかけて全国を旅している私にとって、
やはり初代大警視川路利良の存在は特別です。

「川路のファンなんですよ」と言って、警察官から
「大警視に対してそんなミーハーな言い方するな」と
叱られたことがありますが、ともかくここ数年、
川路を追っかけてきました。

これまでに国内の川路利良ゆかりの史跡は
かなりまわってきたと思っています。

東京都にある川路の墓。

寺本や河合といった殉職した部下たちのために建てた碑。

重野や水本といった師匠たちの墓。

川路大警視邸跡記念碑。警察学校にある銅像。

鹿児島県にある生誕地記念碑。先祖の墓。

横川町と鹿児島県警本部前にある銅像。

山口県や京都にある禁門の変で川路が倒した篠原秀太郎の墓。

東京、京都、宇都宮、白河にある川路が率いた兵具隊士たちの墓。

川路が影響を受けたという二本松の戒石銘碑。などなどです。

しかし、戊辰戦争で川路が負傷した磐城浅川に行ってないことが、
ずっと気にかかっていました。

磐城浅川は、川路が股間に銃撃を受けた地です。
その傷のために川路は横浜まで運ばれ、病院で治療を受けたといいます。
銃弾は嚢の上部の皮を貫通していましたが、たまは傷つかずにすみました。

戦闘中でも縮み上がらずだらりと下がっていたから助かったのだと言われ、
以後「川路ドンのだらりキンタマ」は川路の豪胆さを讃える言葉として
薩摩兵の間で広まりました。

禁門の変で篠原秀太郎を撃ち取ったことと
浅川での負傷が川路の名を大いに高め、
後に大警視への道を開くきっかけにもなったと考えています。

にもかかわらず、これまで浅川を訪ねることがなかったのは、
浅川に戦争を偲べる碑などがないためでした。

しかし浅川町史を読んだところ、永昌寺に戦争の戦死者の墓があると知り、
訪れる決心が固まりました。

郡山から水郡線で一時間ほどで磐城浅川につきます。
永昌寺で戦死者の墓を掃苔をしたあと、
戦場となった城山を遠望し、駅に戻りました。

となり駅の棚倉にも行こうかと思いましたが、
これといって訪れたい墓もなく、電車の本数もとても少ないため、
白河に向かうことにしました。

白河では、常宣寺で阿部内膳と会津藩士を、
大龍寺で森要蔵と虎雄の親子を掃苔してきました。

大龍寺は白河駅から六キロほどの場所にあり、バス便もないので
タクシーで向かいました。片道2300円ほどでした。

とにもかくにも、浅川に行けたのは、川路ファンとして嬉しいことでした。
次は川路の刀を鍛えた高橋長信や、川路と巧妙争いをした
川上助八郎の掃苔をしに、松江や鹿児島に行きたいと思っています。


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