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川路大警視の『龍泉遺稿』と鱸松塘

2011年06月23日 | 川路利良

川路利良の趣味は漢詩を作ることでした。
川路は生前、「吾雖職事整頓、稍得餘間、然後邀鱸翁、與論詩、豈不亦樂乎(私はもし官職上の仕事が片づき、僅かに余った時間を自分のものにしたら、そこではじめて鱸翁に出会って、一緒に詩を品定めすると、きっと非常に喜ばしいだろう)」と語っていたそうです。
鱸翁とは漢詩人の鱸松塘のことです。

鱸松塘は文政六年(1823)に安房国安房郡国府村谷向の名主の家に生まれ、天保十年(1839)に江戸に出て梁川星厳に詩を学び、星巌門下三傑と謳われました。
脇坂安宅・山内容堂・松平春嶽・松平確堂などとも交遊があり、浅草向柳原に開いた私塾・七曲吟社で学ぶ者は数百人を数えたと言われています。

川路の死後、家を継いだ利恭は川路の遺した漢詩の批閲を鱸に依頼しています。
鱸は川路の師であった重野安繹とともに批閲を引き受けました。
そして明治十四年(1881)、自ら『龍泉遺稿』と題し、川路の漢詩集を出版しました。

鱸は川路の漢詩について、『龍泉遺稿』の序文で「蓋君之詩清秀温雅、間發警語。雖専門名家、或不能過焉(思うに君の詩は高尚で美しく優しく上品であり、時々僅かな字数で実情をうがった辛辣な文句をハッキリと示す。たとい(漢詩だけを)学ぶ優れた専門家であっても、ある人は(君の漢詩より)勝ることが出来ない)」と評しています。
また、生前の川路が鱸に会いたがっていたことに対して、「但余不得承君餘間。杯酒談論、一吐肝胆。是爲無窮之憾也已(しかし私は(川路)君の余った時間(に君の漢詩)を(君から直接に)承ることが出来ない。(君と共に)酒を飲んで語り論じ(漢詩につい)て意見を述べて、一度(私の)真心を述べたい。これが(私の君に対する)無限の恨みであるのだ)」と書いています。

川路が仕事の合間に作った漢詩は、鱸松塘のお陰で現在に伝わっています。
川路大警視ファンにとって恩人ともいえる鱸松塘の墓は、故郷である千葉県安房郡三芳村谷向の蓮華院にあります。
旅を愛した鱸ですが、最晩年は故郷に戻り、明治三十一年(1898)に亡くなりました。
本堂前にある墓には「鱸松塘之墓」と彫られています。この文字は高橋是清によるものだそうです。
墓のまわりは草が欝蒼と繁り、湿り気もあるため、小さな雨蛙やカタツムリがたくさんいました。


※写真は鱸松塘の墓
『龍泉遺稿』の現代語訳は、『甦る大警視川路利良の人物像 現代語訳付き 龍泉遺稿(編者 肥後精一・西岡市祐 発行所 東京法令出版株式会社)』を参考としています。