「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

曾野綾子さんの高齢者社会への認識のズレ

2014-01-21 07:22:29 | Weblog
産経新聞のコラム「小さな親切大きなお世話」(1月19日付首都圏版)の中で作家の曾野綾子さんが”高齢者も働ける社会を”と主張されていた。曾野さんは昭和6年生まれの同世代、普段書かれていることには共感が多い。しかし、このコラムはちょっと抵抗があった。”高齢者も働ける社会を”といっても一般的には80代、90代の超高齢者には無理である。テレビを見ると毎日どこかの局で「認知症」「孤独死」」限界村落」などなど―高齢者社会の抱える問題を扱っている。曾野さんには現実の高齢者社会について認識のズレがあるのでは。

曾野さんはコラムの中で「わが家の屋根の下に住む3人の高齢者の平均年齢を調べてみると87歳であった。しかし3人ともまっとうに肉体労働によって経済的収入をえている。つまりまだ現役なのである。ただ椅子に座ってお茶を飲んで時々居眠りをするような生活をしていない」と書かれていた。大変結構な羨ましいことである。だけど、こんなに恵まれているお年寄りは、ごく僅かではないだろうか。

超高齢化社会である。お年寄りといっても定年を終えたばかりの60歳から、従軍体験のある90歳まで開きがある。たしかに曾野さんが言うように町には元気な”お年寄り”が多く、パチンコ屋の開店を待って行列を作っている。この中にはまだ働きたいと思っている人もいるが、実際には職がないのである。僕も同年代にしては元気な方で、後期高齢者の75歳までは働く気持ちがあれば働けた。しかし、よほどの特技でもないかぎり、簡単には職はなかった。

同年代の仲間たちと時々話し合うと、会話はいつも、どうしたら「認知症」にならないかということだ。元気で介護なんか必要ないと思われた90歳すぎの先輩たちも、ここへきて福祉のお世話になる方が多くなった。”高齢者も働ける社会を”といっても80歳代、90歳代の超老人には無理である。”お茶を飲んで時々居眠りする”のが人生の幸せだと、僕は思うのだが。

戦時下の大寒の日々

2014-01-20 06:35:25 | Weblog
今日(1月20日)から立春までを暦の上で大寒という。文字通り1年中で最も寒い季節である。現役時代10年も北海道(札幌)に勤務したこともあり、今住んでおる東京の寒さなど、どうということもないのだが、やはり加齢のせいだろう。すっかり意気地がなくなり家に閉じこもりの日が多くなった。

敗戦の年の冬(昭和19年12月―20年3月)東京は例年に比べて寒かった。僕は中学3年だったが、1月から軍需工場へ勤労動員された。毎朝7時、JR蒲田の駅に集合、約3㌔離れた工場まで行進して出かけたが、その寒かったこと。誰もコートなど着ていなかつた。ズボンのポケットに手をいれないよう縫い閉じられていた。ズック靴は先がやぶれていて雪の日など水が浸みこんできた。戦争中、中学校では軍事教練が必修で、動員下でも週に何回かは訓練があった。その訓練の成果を問う「査閲」の日、足先の保温のため、赤いトウガラシを靴に入れ暖をとった。

時代は若干前後するかもしれないが、戦時下の子供たちにはやたらと手に「しもやけ」や「ひびわれが多かった。物資が不足して手袋などなかったこともあるが、栄養不足が原因だったのかもしれない。その一方で大寒中の寒稽古が盛んで、素足で学校の道場で竹刀を振った。そのあと床の上を冷水で雑巾がけをさせられた。 

最近、東京では見られなくなったが、大寒中の寒参りも昔は盛んであった。凍てつく深夜、炬燵にあたっていると、遠くから太鼓を叩いて白装束、白鉢巻の人たちがやってきた。戦勝祈願の寒参りであった。もう70年も昔の事だ。

昨日リハビリを兼ねて散歩をしていたら、近所の家の庭先に蠟梅(ろうばい)の黄色の花が咲いていた。”冬来たりなば”である。

浜松中毒事件と戦時下の「特定秘密」

2014-01-19 06:05:18 | Weblog
浜松市内の小学校と幼稚園の給食でノロウィルスによる食中毒が発生、千人をこす子供たちが嘔吐や下痢を訴え市内で17校が学校閉鎖となった。原因は給食用のパンを製造した工場の従業員のトイレからノロウィルスが検出され、これによるものらしい。この中毒を知り、僕は戦時中浜名湖畔で起きたアサリが原因とみられる中毒事件を思い起こした。この事件では百数十人が中毒死しているが、戦時下の事、今もって原因さえ突き止められておらず全容も完全に判っていない。

特定秘密保護法が今、有識者の会合で審議されているが、戦時中にはこの浜松湖事件のように、政府が国民へ影響を考えて事件を秘密にしたケースが多い。昭和18年から20年にかけて北海道壮瞥の麦畑で溶岩ドームが突然隆起して「昭和新山」が出来たことも当時一般には公表されず、観測さえ十分には行われていなかった。戦争末期の20年1月13日に起きた三河地震もM.6.7の直下型地震で死者2300人も出しているが、その報道は現地と近隣だけで全国的には大きく報道されなかった。

昭和20年、東京では3月10日をはじめ何回か大空襲にあっているが、いまだに、その全容は判らない。新聞が2ページ建てでスペースがなかったことあるが、自分が体験した空襲さえ、被害の規模がどの程度なのかさえ解からなかった。高射砲が襲来したB-29を撃ち落としたという大本営の発表があったが、その場所がどこなのかさえ、はっきりしなかった。浜松の食中毒から変な連想で「特定秘密」を思い起こした。僅か70年ほど前にはこんなこともあった。

小野田寛郎さんの死と旧日本帝国陸海軍

2014-01-18 07:37:24 | Weblog
フィリッピン.ルバング島のジャングルの中で戦後30年近く経ってから発見された小野田寛郎さんが91歳で亡くなられた。小野田さんが旧日本軍の戦闘帽をかぶり直立不動敬礼姿で捜索隊の前に現れた、あの時の写真は”平和ボケ”していた当時の日本人を驚かせた。思うと、あの時(昭和49年)からでも40年の歳月が流れている。戦争の時代は、いよいよ遠い遠い過去になってきた。

昭和49年は第一次石油危機があった年で、ちょうど小野田さんが発見された頃、巷では主婦たちがトイレット.ペーパー漁りをしていた。しかし、時代は平和そのもので、過去の戦争など忘れ去られていた。ところが、この年の暮、今度はインドネシアのモロタイ島で旧日本の軍属、台湾高砂義勇軍の中村輝夫さんが発見され帰国している。モロタイ島はモロッカ諸島の小島だが、戦争末期再上陸してきた米軍との間で激戦があったところだ。昭和31年にも旧日本軍関係者6人が発見され帰還している。

南方総軍の占領地はフィリピン、インドネシアなど島嶼地域が多い。戦後10万人を超す軍関係者を無事日本に帰還させる復員計画は一大事であった。しかし、昭和23年までにはほぼ無事終了している。が、戦後も自分の意思で現地に残留した日本兵も多かった。詳しい数は不明だが、戦後インドネシアに残留した軍人、軍属の会「福祉友の会}の資料によると835人とある。(内訳はジャワ333人、スマトラ478人、その他地域24人)このうちジャワ、スマトラは「福祉友の会」が直接調査したものだが、その他地域は旧厚生省時代に調べたもので、「福祉友の会」には資料はない。

戦時中海軍の軍政下であったセレベス、カリマンタン地域での戦後の残留者の記録はバリ島以外はない。しかし、カリマンタンには数人の旧軍関係者の足跡は確実にある。しかし、今となってはそれを調べるエネルギーも80老の僕にはなくなった

大丈夫かなか深刻な建築業界の人出不足

2014-01-17 07:51:17 | Weblog
全くお門違いの問題で失礼。ただ小ブログが取り上げるほどだから、深刻な問題に違いない。先日テレビの報道番組を見ていたら、東日本大震災による茨城県の被災地住宅が1月、完成予定なのに、まだ骨組みままなのに驚いた。原因は建築業界の人出不足からだという。一方、別のテレビでは福島県の会津若松市の公共事業が昨年秋以後、応札がなく工事がストップしているという。これも建築会社の人出不足が起因しているとのことだ。

これは東北の被災地だけだと思っていたら全国的なものらしい。ネットに出ていた大阪労働局の昨年11月の労働倍率は、鉄筋工、とび職などの職種は9.2倍、土木、測量でも4.2倍。特定の職種によっては、もっと高率だとのこと。アベノミクスの効果で、経済が上向いてきているのに意外な現象だ。

今年新春(7日)の記者会見で菅義偉官房長官が”2010年の東京五輪に向けて建設業の中には人出不足から外国人労働者受け入れの動きが出ている。しかし、受け入れは国民生活への影響を慎重に検討すべきだ”(ロイター通信)と発言していた。この時、僕は建設業界の人出不足が、こんなに深刻だとは思わなかった。東京五輪の工事が本格すれば、人出不足はさらに厳しいものになろう、素人の僕がみても心配だ。

わが国の外国人雇用は原則的には単純労働者受け入れ反対の政策をとっており”研修制度”を隠れ蓑にして中国や東南アジアから労働者を受けている。しかし、その数は欧米諸国やシンガポール、アラブ首長国連邦などに比べて、その数ははるかに低い。政府内には2050年までに外国人労働者を全就労労働者の10%にすべきだという意見もあるそうだが、少子高齢化が急速に進んでいる。建設業界の今の人出不足は、その予兆のようにも思われる。早急な対策が望まれる。

都知事選めぐるおかしな人間相関図

2014-01-16 06:49:08 | Weblog
都知事選の細川護煕元首相と介添要一元厚労相が正式に立候補を表明した。新聞は”二強対決構図固まる”としているが都民にとっては好い迷惑だ。細川氏の立候補への理由は今一つはっきりしない。細川氏は”原発は国の存在に関わる問題で、危機感を持っている”というが、この問題は国政の問題で都政ではなく、知事を選ぶ上での争点ではない。

産経新聞(1月13日首都圏版3面)に「細川元首相をめぐる人物相関図」が載っていた。それによると、細川氏立候補に小泉純一郎が”連携”し、菅直人も”全面支援”野田佳彦も”師弟”関係にあるという。過去の総理3人までが、なんとなく細川氏を支持しているような印象を与える。あの小沢一郎(生活の党代表)までが”勝手連”で細川氏を支持している。いったい、どうなっているのか。

この相関図を見て、僕は”失われた20年”が思い出された。一般には”失われた20年”とは経済的には1991年から2012年を指すのだそうだが、政治的には僕には細川内閣(1993-4年)から羽田、村山を経て小泉内閣までの20年間が”失われた時代”に思われる。正直言って、この相関図の登場人物を見てうんざりしたのは僕だけではあるまい。

安倍内閣になって折角政治が安定し、経済も上向きになってきている。その時なのに”失われた20年”の政治家たちが、再び頭を持ち上げようとしている。都政には直接関係のない「原発」を争点に国論を二分しようとしている。都民の中には”紫匂いし、武蔵野の野辺に日本の文化の花咲きみだれ(一番)大東京こそわが住むところ、千代田の宮居はわが誇り(三番)”(1926年東京市歌)時代からの東京原人もいる。2020年の五輪に向けての郷土の発展をどうすべきかが、知事選の争点ではあるまいか。

老人にもテレビ離れは進んでいる

2014-01-15 06:25:14 | Weblog
10代―20代の若者のテレビ離れが加速度的に進んでいる、とネット情報にあった。テレビには「twitter」とか「LINE」といった相互コミュニケーション機能がないため、夢中になれないとのこと。80老には、よく解からないが、別の理由から老人のテレビ離れが進んでいるのでは。昨年の暮れ1か月入院生活を送ったが、病院の有料テレビをほとんど見なかった。千時間千円と高いこともあって、朝晩のニュース番組しか見なかった。

新聞に週間視聴率(1月6日―12日)=ビデオリサーチ関東地区=が載っていたが、なんと上位30位までの3分の一以上が報道番組であった。最近、一部のドラマをのぞけば話題の番組がなくなった。とくに僕ら老人にはそうだる。同世代と話し合っても見ているのはニュースとスポーツ番組だ。そのスポーツ番組でさえ、わざわざ年寄り離れを加速させる演出をしている。

成人の日のNHKの大相撲放送がまさにそうだ。小ブログは過去何回も指摘しているが、何故”悪魔”のように仮装したタレントを出演させるのか。”相撲通”との事だが、今人気の遠藤の入幕後の回数を間違えて発言、あわてててアナウンサーが訂正していた。僕は双葉山時代からの老ファンである。相撲を国技と思っており、日本語を大切にしているが”悪魔”氏の口から”やばい”という言葉が飛び出した途端、チャンネルを民放の高校サッカー決勝戦に回した。

大相撲は数少ない老人も見る番組である。何故、若者に媚びて、こういった”悪魔”タレントを登場させるのか。起用するのなら素顔にすべきである。

記憶にない占領下の成人式とその時代

2014-01-14 06:28:57 | Weblog
僕の成人式は昭和26年(1951年)だったが、まったく記憶にない。成人式は昭和24年の祝日法改正で国民の祝日に定められている。だから26年の1月15日(月)は祝日だったはずだが、東京ではお祝いの式もなく、女性の晴着姿もなかった。敗戦から6年、世の中はだいぶう落ち着いてきたが、まだ都会には焼け跡が残っており「成人」を祝うほど精神的余裕はなかったのかも。

振り返ってみると、僕の青春前期は戦後すぐの連合軍の占領期であった。”鬼畜米英””いざこいニミッツ、マッカサー”の時代が敗戦を機に、そのマッカサーが連合軍総司令官として君臨してきた。敗戦時中学3年であった僕らにとっては、万事の価値観がコペルニクス的転換であった。成人式時には大学2年であったが、時流に媚びて僕は”鬼畜”だった米国文学を専攻していた。

占領時代、日本人の大人がどんな考えをしていたのかー。偶然だが旧臘、入院中に読んだ大佛(おさらぎ)次郎の作品「帰郷」が当時のインテリ文化人の一端が解り面白かった。大佛次郎は「鞍馬天狗」の作家として有名だが、この「帰郷」は戦後の昭和23年、毎日新聞に連載された小説で、ある旧海軍士官が戦前ある事件に連座して亡命、その主人公の戦中の体験と戦後帰国してからの生きざまを描いたものだが、巧みに執筆時(戦後)の文明批評にもなっている。

その一つを少し長いが引用してみる。「終戦を境として人が急に一様に日本の過去に冷淡になったせいもある。その以前から、けわしい経済の影響か、用のない過去をふりかえる余裕を失い。若い人たちは、求めて過去の影響から覚めようとしている。その意識がなくとも歴史に無関心で無知なところから、古い日本にあってよいものが段々と無感覚になってゆく傾向が不安である」

大佛次郎の言う「若い人たち」は、まさに僕らの世代である。改めて反省をこめて占領下の時代を調べてみたくなった。

「身体障害者」と認定されました

2014-01-13 06:15:47 | Weblog
東京都から「身体障害者」手帳を受け取った。区の障害福祉課に対して膝の人工関節置換について身障者認定手続をしたところ四級と認定された。”身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるが孝の始めなり”と昔修身か漢文で教わったが大変な親不孝のことをした。しかし、国の有り難い福祉政策だ。身障者と認定されたことにより、医療、福祉から税の減税に至るまで多くの特典を与えられた。

「身体障害者」という言葉は、戦後のもので戦前はなかったような気がする。戦後の占領下(昭和24年)成立した「身体障害者福祉法}のによって生まれた。英語のphysical handicap の訳である。戦前は身障によりそれぞれの差別用語で呼ばれていた。もちろん身障者に対する福祉援助などなかった。戦争で傷を負った軍人だけが傷痍軍人として年金を受けていた。

子供心に戦前昭和の時代には街に乞食が多かった。駅前の繁華街や神社の門前には何組かの乞食がいた。それも足が悪かったり、目の見ない人がめだった。今は日本中どこへ行っても乞食の姿はない。戦後の「身体者福祉法」のおかげである。しかし、僕がちょくちょく行く東南アジアの国々では、いまだに乞食が多い。とくにイスラムの人たちは「喜捨」が宗教で義務づけられているためか祝日には乞食の姿が多い。

「身体障碍者」四級と認定され、国内の鉄道料金が100㌔を越えると、半額になったり国内航空料金が割引になったり特典がある。しかし、残念ながら身障者であり、そんなに旅行を楽しめるわけではない。でも、戦前には身障者福祉なんか一つもなかった。有り難い事である。

血染め跡と銃創穴の軍服が売られている

2014-01-12 10:24:34 | Weblog
昨夕TBSテレビの「報道特集」で”戦争の記憶 軍装品が次々と売りに”という番組をみた。軍装品とは旧日本軍の軍服、巻脚絆、飯盒などの装備品から勲章、兵器類までを指し、これらが今世界的にブームになっているのだという。番組では日本でただ一軒、これらの軍装品を扱っている東京.神田の店を紹介していた。

店内には所狭しとこれら軍装品が置かれおり、旧陸軍大将の制服が380万円で売られていた。旧陸軍の大将は西郷隆盛から沖縄戦で自決した牛島満将軍まで134人いたが、おそらくその遺族の人が売りに出されたのだろう。痛ましいのは皮トランクに入った軍人の遺品で、中には血染めと貫通銃創跡が残っている軍服やお位牌まで入っている。戦後シンガポールBC級裁判で刑死された元憲兵の遺品まであった。

店主の話では戦後70年近く、世代交代で従軍世代の子供の世代から孫の世代に移りつつあり、戦争が風化してきたのが、この軍装品ブームの原因であろうという。それに住宅構造の変化で先祖代々の品を収蔵するスペースがなくなってきた。シンガポールの憲兵遺族の場合は、戦後生まれで大叔父とは会ったこともないし、遺書のあることさえ知らなかった。

靖国神社の境内には祭神(英霊)ゆかりの資料を集めた遊就館(宝物館)ある。本来ならば、こういった軍装品は遊就館に所蔵されるべきである。同じような施設が新宿の住友ビル48階の平和記念展示資料館にもある。血染めの銃創跡の残る軍服が商品として売られているのは痛ましすぎる。戦争の風化と共に、こういった戦争の遺品が散逸してゆく。なんとかならないのだろうか。