今日(1月20日)から立春までを暦の上で大寒という。文字通り1年中で最も寒い季節である。現役時代10年も北海道(札幌)に勤務したこともあり、今住んでおる東京の寒さなど、どうということもないのだが、やはり加齢のせいだろう。すっかり意気地がなくなり家に閉じこもりの日が多くなった。
敗戦の年の冬(昭和19年12月―20年3月)東京は例年に比べて寒かった。僕は中学3年だったが、1月から軍需工場へ勤労動員された。毎朝7時、JR蒲田の駅に集合、約3㌔離れた工場まで行進して出かけたが、その寒かったこと。誰もコートなど着ていなかつた。ズボンのポケットに手をいれないよう縫い閉じられていた。ズック靴は先がやぶれていて雪の日など水が浸みこんできた。戦争中、中学校では軍事教練が必修で、動員下でも週に何回かは訓練があった。その訓練の成果を問う「査閲」の日、足先の保温のため、赤いトウガラシを靴に入れ暖をとった。
時代は若干前後するかもしれないが、戦時下の子供たちにはやたらと手に「しもやけ」や「ひびわれが多かった。物資が不足して手袋などなかったこともあるが、栄養不足が原因だったのかもしれない。その一方で大寒中の寒稽古が盛んで、素足で学校の道場で竹刀を振った。そのあと床の上を冷水で雑巾がけをさせられた。
最近、東京では見られなくなったが、大寒中の寒参りも昔は盛んであった。凍てつく深夜、炬燵にあたっていると、遠くから太鼓を叩いて白装束、白鉢巻の人たちがやってきた。戦勝祈願の寒参りであった。もう70年も昔の事だ。
昨日リハビリを兼ねて散歩をしていたら、近所の家の庭先に蠟梅(ろうばい)の黄色の花が咲いていた。”冬来たりなば”である。
敗戦の年の冬(昭和19年12月―20年3月)東京は例年に比べて寒かった。僕は中学3年だったが、1月から軍需工場へ勤労動員された。毎朝7時、JR蒲田の駅に集合、約3㌔離れた工場まで行進して出かけたが、その寒かったこと。誰もコートなど着ていなかつた。ズボンのポケットに手をいれないよう縫い閉じられていた。ズック靴は先がやぶれていて雪の日など水が浸みこんできた。戦争中、中学校では軍事教練が必修で、動員下でも週に何回かは訓練があった。その訓練の成果を問う「査閲」の日、足先の保温のため、赤いトウガラシを靴に入れ暖をとった。
時代は若干前後するかもしれないが、戦時下の子供たちにはやたらと手に「しもやけ」や「ひびわれが多かった。物資が不足して手袋などなかったこともあるが、栄養不足が原因だったのかもしれない。その一方で大寒中の寒稽古が盛んで、素足で学校の道場で竹刀を振った。そのあと床の上を冷水で雑巾がけをさせられた。
最近、東京では見られなくなったが、大寒中の寒参りも昔は盛んであった。凍てつく深夜、炬燵にあたっていると、遠くから太鼓を叩いて白装束、白鉢巻の人たちがやってきた。戦勝祈願の寒参りであった。もう70年も昔の事だ。
昨日リハビリを兼ねて散歩をしていたら、近所の家の庭先に蠟梅(ろうばい)の黄色の花が咲いていた。”冬来たりなば”である。