「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「戦犯だった祖父と私と”永遠の〇”」

2014-01-24 07:17:09 | Weblog
東日本大震災のあった2013年7月、小ブログは戦時中(昭和20年7月、8月)2回にわたる釜石艦砲射撃と、この砲撃で連合軍捕虜を”殺した”との理由から戦後、横浜のBC級裁判で7年の刑を言い渡され、5年も巣鴨プリズンに収容されていた稲木誠氏(故人)の事を書いた。僕は稲木氏と面識ないが、稲木氏は広島文理大(広島大)卒業の学徒兵で、釜石にあった連合軍捕虜収容所の所長(中尉)をしていた。連合軍の砲撃のさい、稲木所長は捕虜たちを誘導してトンネル内に避難させたが、土砂崩れで数名の捕虜が死亡した。連合軍裁判は、これを稲木氏の管理不十分だとして裁判にかけた。

戦後半世紀近く経ってから僕は稲木氏の自伝「茨の冠」(ペンネーム中山喜代平 昭和51年時事通信)を読んだ。戦争中海外各地から2万名を超す連合軍捕虜が日本に連行され、各地の炭鉱などで強制労働させられ、過労と食糧不足から多数が亡くなっている。しかし、釜石収容所所長であった稲木氏は、あの時代に捕虜にクリスマスを祝わせたり、周囲の日本人から批判が出るほど、捕虜たちの栄養に気を配っていた。

昨年の暮だったと思う。このブログに対して稲木氏のお孫さん二人からお礼の「コメント」が届いた。うちお一人は米国在住の女性の方で、ご自分のブログ「祖父と私と”永遠の〇”ニュースウイーク日本版」を紹介して頂いた。お孫さんは、百田尚樹の小説「永遠の零」(講談社文庫)のように祖父の足跡を求めて、米国で、かって釜石の祖父の収容所にいた米国人捕虜(91)を訪ね、捕虜一家から心から思いもよらぬ歓迎を受けている。

「永遠の〇」に触発されたのであろうか。友人の主宰する「セラウェシ情報マガジン」でもtwitterを通じて友人が探していた、インドネシア独立戦争に参加して戦死された方のお孫さんの消息が分かり、お孫さんから当時の貴重な写真と資料がが送られてきた。戦後70年、従軍世代三世の時代になり、改めて戦争について新しい光が当たり始めてきた。