「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

               早春の伊豆 冬来たりなば春遠からじ

2013-01-27 07:58:51 | Weblog

早春の伊豆である。冬来たりなば春遠からじだ。車窓から見え隠れする冨士はまだ全山雪化粧だが、里では紅梅が咲き始めてきていた。いちご園のいちごはこのように完熟。菜の花畑は黄色一色だった。

           ご存知ですか68年前の銀座空襲

2013-01-27 06:42:57 | Weblog
68年前の昭和20年(1945年)1月27日白昼、東京の銀座がB-29の空襲を受け死傷者多数を受けている。亡父の残した日記には”帝都の中枢爆撃”と赤字で大書され銀座、数寄屋橋、京橋、鍛冶橋、丸の内山水楼付近爆撃を受け死傷者多数とある。この日は土曜日であったが、今のように仕事は休みではなかった。当時、僕は五反田に住んでいたが最近までこの銀座空襲を知らなかった。

東京の空襲は昭和19年11月4日から始まり敗戦までの10か月間に106回もあった。そのうち1回の空襲で10万人もの生命を奪った3月10日の下町大空襲、4月15日の大森、蒲田地区への京浜大空襲それに5月24日、25日の渋谷、新宿方面への山の手大空襲は一般にも知られているが、他の空襲については実際に体験した関係者以外は知られていない。

僕が覚えているのは19年11月24日昼過ぎB-29一機が飛来し、通っていた中学校(旧制)の近くに爆弾を落としていった。この爆撃で下校中の級友の一人は、退避した防空壕で生き埋めになったが幸い無事であった。B-29の空襲は最初は少数機で白昼それも爆弾であったが、大晦日の夜、当時下谷の黒門町に住んでいた叔母一家が焼夷弾によって焼け出された。わが家にも5月24日夜の空襲で焼夷弾の破片が落ちててきたが、火叩きで消し無事だった。

東京空種の全容については70年近く経った今でも不明の点が多い。当時軍や警察が防諜上の理由からか被災の詳細について明らかにしなかったし、ラジオや新聞も報道の機能を失っていた。個々の空襲については実際に被災した関係者の記憶に頼るしかない。その関係者も高齢化してきた。106回の東京空襲の一つ一つを検証した記録があるのであろうかー。