「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             女子挺身隊と一人の姉の死

2013-01-29 07:11:55 | Weblog
一人だけの姉弟だった姉が生きておれば今日1月29日は満90歳の誕生日である。その姉が21歳の若さで他界したのは昭和19年5月2日であった。正月に風邪をこじらせたと思われたのが、実は肺結核だった。あっという間にこの世を去ってしまった。昭和19年といえば戦争が激化し若い男性は皆、徴兵されて戦地に送られ、銃後の職場は極端な人で不足になっていた。

「女子挺身勤労令」が国家総動員体制下で実施されたのは19年6月であった。姉は旧制女学校を卒業後すぐ生命保険会社に勤務していたので、挺身隊ではなかったが、会社は次々と男性が戦地に赴き、人出不足から連日過勤が続いていたようだ。その無理がたたって姉はダウンしてしまった。僕は今でも姉は”銃後の戦死”だと思っている。

         「輝く黒髪女子挺身隊の歌」(西条八十作詞 古関祐而作曲)
           輝く黒髪きりりと結び 今朝も朗らかに朝霧踏んで
           行けば迎える友の歌 ああ愛国の陽は燃える
           我等乙女の挺身隊
この歌は19年8月発表だが、翌20年1月、僕も中学校から挺身隊員として工場へ勤労動員され、駅から工場まで”花も蕾の若桜、五尺の命引っさげて、国の大事に殉ずるは”という勇ましい学徒挺身隊の歌を歌いながら行進した。

挺身隊とは当時僕らは”国の大事に殉ずる”学校あるいは職場ごとに結成された勤労隊という認識だった。事実女子挺身隊の第一号は女子学習院のOG組織「常磐会」であった。それだから、ソウルの大使館前で今毎週水曜日に行われている「半島女子勤労挺身隊協議会」という団体が、戦時中挺身隊に応募した韓国の女性が”従軍慰安婦”に強制的にさせらという抗議には、全く違和感を感じる。歴史に対する冒涜である。
(女子挺身隊については「半島女子勤労挺身隊」(高崎宗司)に詳述されているので参照ください)

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2 コメント

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労働力 (chobimame)
2013-01-30 08:52:12
親類にやはり同じように戦時中に肺結核で亡くなった女学生がいるそうです。あの頃の食料事情は悲惨ですし、労働は過酷ですから肺結核にはなりやすかったでしょうね。kakekさんの仰る通り確かに戦死です。戦場で亡くなるだけが戦死ではありません。
韓国は頭がおかしいとしか言えません。もともとモラルの無い国ですから恩を仇で返すのも平気です。お金の欲しい時と、助けて欲しい時だけ猫なで声で、あとは恐喝のような外交です。韓国の通貨は安定せずに、日本の円高円安で簡単に金融不安に陥りますからヒヤヒヤでしょう。国を成り立たせる手段が日本に恐喝外交することなのですから、いかに狂った思考かわかります。
日本の政治家が謝ってしまった事が最大の汚点です。そして言いなりの外交も、余計に間違った歴史に信憑性を持たせます。
反日感情しかない国民は、金のために日本に出稼ぎは平気です。このような図々しい思考ですから相手にしてはいけません。突き放して距離を保つべきです。
たかり (kakek)
2013-01-30 13:08:35
chobimamae さん
朝鮮の女性が戦争中”挺身隊”名で強制的に集められ慰安婦にされたと、今でもソウルの日本大使館に定期的にデモがかけられ、大使館前の道路脇には”犠牲者”のような少女像が建っているそうですね。そして同じような像が米国内のいくつかの地にも建っているそうですね。前から僕は同時代を生きてきた”挺身隊”の名前に引っ掛かり、そんな馬鹿なことはありえないと思っていました。これは多分朝鮮の女衒が、職業的な売春婦集めに使っていた言葉だと想像していました。
しかし、当時の資料を調べたわけでもなく専門家でもないので黙っていましたが。最近ネットで高崎宗司氏(津田塾大学教授)の議会証言をみて目から鱗が落ちました。当時の半島における女性挺身隊の記録がきちんと残っているのです。高崎氏はアジアのための女性基金の委員もされていた人ですから、先方にもこの記録は伝わっています。にもかかわらず、いまだに慰安婦問題にこだわっているのは、頭がおかしいか、意識的にカネをたかろうとししているしか思えません。
政治家がよくも調べずに頭をさげるから問題をこじらせるだけです。きちんと対応すべきです。

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