「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         ”天使の涙” バーレーンの真珠

2011-02-19 08:12:40 | Weblog
ペルシャ湾(アラビア海)に浮かぶ鳥取県ほどの島国、バーレーン王国が反政府デもの波にさらされている。17、8日と2日間にわたって大規模なデモ隊と治安部隊との間で衝突があり、数百名の死傷者を出している。この事態に対し、湾岸諸国協力機構(GGI)は急遽、緊急外相会議を開いて対策を協議したが、この反政府の浪は外電によれば、クウエートにも押し寄せてきたという。

バーレーンの衝突は首都マナマの中心地にある「真珠広場」で起きた。49年前の1962年(昭和37年)僕は新聞社の移動特派員として、マナマに1週間滞在し「真珠」を取材したことがある。当時バーレーンは英国の保護領だったが、この地域で最初に石油が採掘されただけに、他国に比べてインフラ整備は進んでいたが、今のように高層ビルなどはなかった。

取材の目的は「アラビアンナイトは生きている」という夕刊の連載読物であった。バーレーンでは、クレオパトラのローマ時代から有名なペルシャ湾の真珠を取り上げた。湾岸地域では真珠のことを”天使の涙”と称し「アラビアンナイト」にも王様の貴重な装飾品として登場してくる。戦前、世界の真珠市場の6,7割はバーレーンを中心としたペルシャ湾産だった。

今や、湾岸といえば石油である。UAE(アラブ首長国連邦)で代表されるようにオイルマネーで、奇跡的な発展ぶりをみせている。湾岸諸国民の生活も真珠を”天使の涙”と仰いだ昔と違って大変様変わりし豊かになってきた。反政府デモは、支配階級(スンニ派)と大多数を占める庶民(シーア派)との宗教対立だといわれているが、石油の発掘で短期間に豊かになったことによる生活のひずみもあるのではないのだろうかー。

          何がエジプトを変えたのか?

2011-02-18 07:54:41 | Weblog
NHKラジオの「深夜便」で放送されたカイロからの中野真由美さんのワールド・ネットワーク(18日午前零時台)は、時期が時期だけに大変参考になった。中野さんはカイロ在住20数年、どういう経歴の方か知らないが、今回の反政府デモの主会場のタハリール(解放)広場にも実際に足を運ばれて取材されている。

僕は第2次中東戦争(1956年)から第3次(67年)まで新聞社で中東情勢を取材、実際現地にも行ったことがあるが、今回のエジプトの反政府をテレビの画面などで見て、僕の体験と印象と一つ乖離し、引っかかるものがあった。それは18日間の長期間のデもで大変な犠牲者が出ているが、その割にはデもが統率がとれていたことである。

デもが終息に向かったタハリール広場では、解散するデモ隊の青年が壊れた広場を修復し掃除する姿があった。略奪にあったエジプト考古学博物館の前では、これを防御しようと若者中心のピケ隊もテレビのカメラに映っていた。こういったことは、僕のこれまでのエジプト知識では考えられないことだった。僕はこれが疑問になっていた。

中野さんのレポートでも、エジプト人は一般的には、ゴミはポイ捨てし掃除人が片付けると思っている人が多い。僕のカイロの街の印象もけっしてクリーンなものはない。中野さんは、この変化を新しいエジプト人の誕生に求めている。今、エジプト人の平均年齢は若返り、日本人が40何歳なのに比べ30何歳なのだという。(正確な年齢をいわれたが、メモをせず忘れてしまった)

事実上追放されたムバラク氏も1952年の王制が倒れた革命のさいは24歳。ナセルの「革命の哲学」に共鳴して空軍に参加、第2次、第3次、第4次の中東戦争で武勲をたて、国家の英雄と称えられた。ムバラク氏の世代は、亡命するファルーク王一家を21発の礼砲で送ったそうだが、ムバラク氏は武勲をたてた「シナイ勲章」の地で隠遁されている。

      おかしいぞ 民主党の”小鳩”の言動

2011-02-17 07:07:38 | Weblog
衆院予算委は昨日から予算関連法案の審議に入ったが、テレビの国会中継をみているとおかしい。審議よりも野党は一斉に鳩山前総理の”方便”発言に対する集中砲火だ。小沢元代表の国会喚問問題について党員資格の一時停止という苦肉の策で逃げたつもりの菅政権は、今度は鳩山氏の国会への参考人招致で揺さぶられている。

鳩山前総理は普天間飛行場の県外移設を断念した理由として在沖縄米海兵隊を抑止力としてあげたには”方便”にすぎなかったと地元メディアに語った、という。さかんに弁解しているが、誰がみてもどうみても非常識な発言である。

”方便”という言葉は広辞苑によると、元来は梵語で「仏が巧みに工夫して衆生を導く知識」とある。が、一般には“嘘も方便”として使用されている。意味は「事態をうまく収めるためには嘘をつくことも必要な場合もある」(三省堂「慣用句ことわざ辞典」)とある。

鳩山前総理は、先日も日露外相会談を前にして「北方領土問題解決に四島一括返還のアプローチでは、未来永劫解決できな」と政府の公式見解とは異なる、いわずもがなの発言をして前原外相を当惑させている。今度の”方便”発言でも北沢防衛相に対して”生涯に一度か二度”という衝撃を与えている。

小沢元代表の党員資格の停止処分に抗議して,親小沢派の若手議員が国会での民主党派を脱退するという。それでなくとも、ねじり国会で予算関係法案の通過で苦慮している菅政権である。鳩山氏といい、小沢氏といい、言動をみていると、とても同一政党のしかも、かって指導者だった人とは思えない。

            80歳 傘寿の喜び

2011-02-16 07:08:04 | Weblog
日本では昔、自分の歳を”数え”で言った。1950年(昭和25年)1月「年齢のとなえ方に関する法律」が施行される前までは、今のような”満年齢”は一般的ではなかった。だれもがが新年を迎えると一つ歳をとった。戦前、子どもだった僕はそれが凧あげやコマまわしなどより何よりも嬉しかった。

今日、僕は馬齢を重ねて80歳、傘寿の誕生日を迎えた。ここ数年誕生日が来ても”冥土の旅の一里塚”ぐらいの感慨だったが、今年は若干違う。あの少年時代の一つ歳を貰った時のわくわくした喜びと似た気持ちだから不思議だ。

何故なのだろうかー考えてみた。その結論の一つは、やはり自分が日本人として平均寿命(2009年 79・59歳)を越えた達成感みたいなものからきている気がする。”人生50歳”という言葉を若い時よく聞いた。調べてみると、その通り、日本人の平均寿命が50歳を越えたのは戦後の昭和22年なのだ(50・06歳)。さらに70歳を越えたのも40年まえの昭和45年だ。

先日与謝野・経済担当大臣が人生90歳時代を想定して税と社会保障問題に言及していたが、米国の人口問題研究機関も2050年には日本人の平均寿命が90歳になると予測している。正直いって一回限りの人生である。寿命ガ伸びることは嬉しいことだ。ただそれは足腰がしっかりして頭もぼけず、他人に迷惑をかけずに生きられての話だ。

傘寿を迎えての決意。僕より長寿の方の生き方を見ていると、やはり人一倍健康には留意している。それと何事に対しても好奇心を持っている。僕もできるだけ、これを見習らうことにしよう。

         入城式がなかったシンガポール陥落

2011-02-15 07:31:36 | Weblog
「就寝前の10時すぎ”敵は幾万ありとても、すべて烏合の勢なるぞ”の勇ましい音楽でシンガポール陥落の大本営発表あり」と亡父の昭和17年2月15日の日記に記されている。その3日後の18日、僕は学校の呼びかけで日の丸の小旗を振って旗行列に参加した。69年前の遠いかすかな記憶が甦った。

今年は大東亜戦争勃発70年に当たるので、僕は前から書き留めて置いた「マレー・シンガポール」の戦争記録をブログ「1000都物語」にインプットしているが、改めて驚いたことが一つある。それは赫赫たる勝利だと思っていたのだが、シンガポールでは、日清日露の戦役以来、日本陸軍の伝統行事である”萬歳、萬歳”のあの入城式が行われていない、のである。

シンガポール攻略戦には第25軍隷下の三師団(第5、第18、近衛)が参戦、5日間の戦闘で陥落不可能とまでいわれた要塞を陥れた。開戦のマレー上陸作戦から数えても50日たらずの電撃作戦だった。しかし、戦後知ったのだが、この5日間の激戦で第25軍全体で1713人が戦死、3387人が負傷している。僕の知人の近衛師団の方も上陸作戦で左足をなくしている。

戦史によれば、敵味方どちらが勝っても負けても判らないほどの熾烈な戦いであった。降伏式のあったブキティマのフォード工場周辺は、まだ硝煙が立ち込めていたという。まさにこの戦闘は”遺骨を抱いて”そのままのすさまじいものだった。そんな空気の中で翌々日から、不幸な華僑への粛清が実施されている。山下奉文・第25軍司令官にとっては入城式を挙行する気持ちにはなれなかったのだろう。19日には近衛師団、20日には第25軍全体の犠牲者を弔らう慰霊祭がとり行われている。

           ギブ ミー チョコレート

2011-02-14 07:18:32 | Weblog
今日は「バレンタイ・デイ」。後期高齢者にはあまり縁がない。老妻からの義理チョコも期待できないと思い、近くのスーパーで例年どおり88円の板チョコを買ってきたところ、今年はどんな風の吹き回しか、都心のデパートの包装紙に入った本格的なプレゼントが老妻から届いた。(写真)ただし、値段のほうは秘密だそうだ。

一億バレンタイの時代である。昨夕テレビの「笑点」を見ていたら大切りにまでバレンタインが登場していた。内容は忘れたが、師匠の一人がネタに”ギブ ミー チョコレート”を使い、司会の歌丸から"古いなあ”-大笑いされていた。見たところ歌丸師匠を始め「笑点」のメンバーは"ギブ ミー チョコレート"の時代を知っているとは思えない。しかし、敗戦直後の進駐軍時代の象徴として師匠や兄弟子などから"ギブ ミー チョコレート”の話を聞いたことがあるのだろう。

僕も敗戦直後の秋、家の人形ケースからガラクタ人形を持ち出して横浜へ行き”ギブ ミー”ならぬ”エクスチェンジ ミー”と片言の英語で"ハ-シー”の板チョコをゲットした想い出がある。そのうまかった味は今でも忘れられない。

戦前を振り返ると「チョコレートと兵隊」という映画がヒットした昭和13年頃は、まだ自由に街のお菓子屋でチョコレートは買えたし、映画のストーリーのように慰問袋にチョコレートを入れて戦地へも送れた。しかし、大東亜戦争が勃発した16年には、もう菓子類は配給制になり、チョコレートは”勝つまではほしがりません”の贅沢品になっていた。

だから、ほとんどの日本人にとって進駐軍から貰うチョコレートやチユインガムは何年ぶりかの贅沢な味だったわけだ。あの時代、日本にはバレンタイの神様はいなかった。



            エジプトのネット市民革命

2011-02-13 07:21:43 | Weblog
エジプトのムバラク大統領がついに辞任し、家族を連れてシナイ半島の保養地へ逃げ出した。1月25日以来エジプト各地で繰り広げられてきた政治デモもこれでようやく終息に向かいそうだ。今回の騒動は”市民革命”と呼ばれているが、たしかにテレビの画面などでみると、デモ参加者の中には子どもを肩車した若いお父さんや、ラクダまで登場してかってのクーデターや革命とは違う。

45年前、僕はジャカルタでスカルノ大統領追い落としの政変を取材している。1965年9月30日の共産党によるクーデター未遂事件にスカルノが関与していたとして、この時も連日各地で激しいデモが展開され中国大使館が焼き討ちされたりした。デモは翌66年3月11日、スカルノが大統領の権限をスハルト戦略軍司令官(当時)に委譲するまで5か月間も続いた。しかし、この時のデモの主体はKAMI(大学生連合)kappi(高校生連合)で、一般市民の参加はほとんどなかった。

当時、僕が取材したスクラップ帖に、バンドンのkappiの短波放送局を取材した記事と写真がある。当時、大学生や高校生にとってデモ参加や政治集会を呼びかけるには、地域の短波放送が有力な手段であった。半世紀後のエジプトでは、ネットがムバラク追い落としの市民の武器だったという。ムバラク政権は強権により、市民のネットにもかなり規制をかけていたが、これをかいくぐっての革命であった。

小沢一郎氏が新聞、テレビなどのマスコミに不信を抱き、ネットによる動画の記者会見を多用しているが、さすが時代を先読みしているな、と僕は変なところで感心した。しかし、その逆もあることを小沢氏はご存知なのだろうか。

          遠くなった「紀元節」(建国記念日)

2011-02-12 06:24:09 | Weblog
昨日2月11日は「建国記念日」であった。一昔前までは新聞に「建国記念日」賛成、反対のそれぞれの集会の写真が載っていたが、わが家でとっている今朝の新聞には地方版に小さく申訳け程度"紀元節奉祝に300人”と、大きな「日の丸」をバックに剣道をしている写真が載っていたにすぎなかった。反対の集会もどかで開催されたのだろうが、その掲載がなかったのが、せめてもの救いだ。

「建国記念日」は戦前まで「紀元節」といって、国の重要な四っあった国祭日の一つであった。当時子どもだった僕らは、学校での祝典に参加"雲にそびゆる高千穂”で始まる「紀元節」の歌を斉唱、想いを建国の昔にはせ、式の終りには紅白の饅頭を貰って帰った。もう65年以上昔の想い出で、当時を知る日本人も少なくなり、同時に「建国」といっても建国の本当のいわれを知る日本人も少ないのでは。

先日の新聞に民主党が今国会に議員立法で「祝日法改正法」案を提出するという記事が載っていた。それによると、改正案の趣旨は「観光振興」と「渋滞解消」で、全国を3ブロックに分け、祝日を整理して春のゴールデンウイークみたいな5連休を10月にも設けようというもののようだ。さらに、これを報じた産経新聞によると、民主党案は10月の第1週は、中国の建国記念日「国慶節」(10月1日)と重なり、観光にも影響があるかもしれないという理由で避けたものだという。

最近は度重なる「祝日法」の改正で"ハッピー・マンディ”まで現れ、四大節で育った僕ら年寄りは、その日の祝日がなんだったのか解らないことがある。国民の祝日は、その意義を感じて祝するのか、それともただ休むだけのものなのか考えさせられる。

       小沢一郎の”わがまま”と民主党の”ぶざま”

2011-02-11 07:43:50 | Weblog
菅総理が昨日、小沢一郎・元代表と会い"裁判が済むまで民主党を離れて欲しい”と申し入れた。案の定、小沢氏はこれを拒否した。小沢氏は菅総理との話し合いの後、ネットによる「ニコニコ生中継」に臨み”(党の決定は政党政治と民主主義の発展にとって妥当ではない”と執行部を批判した。僕はパソコンで、この生中継をみたが、ものは言いよう、随分勝手な男だ、と改めて思った。

"政治とカネ”をめぐる小沢氏への批判は、もう一年以上も続いている。ためしに昨年の今ごろの小ブログをチェックしてみたら当時の鳩山総理、小沢幹事長二人の国会喚問が衆院予算委で野党から要求され、肝腎の予算審議が事実上ストップしている。それから1年たっても、国会は予算案審議も妨げられ、国政は一向に前に進まない。

小沢一郎という男はどんな神経の持ち主なのか。かりに百歩も千歩も譲って、小沢氏が無罪であったとしても、これだけ国政を騒がせ停滞さえた責任は大きい。それよりぶざまなのは民主党の菅(代表)岡田(幹事長)の執行部だ。今回も小沢氏との話し合いを受けて来週また幹部会を開いて正式に処分を決定するようだ。昨年来、なんども同じような構図が繰り返してきており、決まるまでは国民は信じない。

先日の新聞に愛知県知事選、名古屋市長選でそれぞれ民主党推薦候補に勝利した大村秀章、河村たかし両氏と小沢一郎氏のニコニコ顔のスリー・ショットの写真が載っていた。その写真のキャプションには”菅政権にあてつけるような”と書いてあった。でも、もしかすると小沢氏は、党執行部の決定を先読みしているのかもしれない。来週の民主党決定を受けて次に小沢氏がどんな手を打つのかー。いずれにせよ国民には迷惑だ。故郷に帰って隠居して欲しい。

  インドネシア国籍特老ホーム施設長(女医)からの手紙

2011-02-10 07:17:30 | Weblog
阿武隈山系(福島)滝根町の特別老人ホームで施設長をしているインドネシア国籍の女医田中リナさんから"無農薬、天日干し、健康によい「ひとめぼれ」にひとめ惚れしました、と滝根で獲れたお米を贈って頂いた。

田中先生の義父(故人)は戦争中海軍民政部の軍属で、実母はインドネシア人、終戦後まだ幼児だった先生は、この両親に連れられて来日した(小ブログ2010年4月14日)先生は東京で教育を受けて日本の医大を卒業、医学博士号を取得した。専門は産婦人科で、縁があって7年前から滝根の特老ホーム「聖オリオンの郷」で施設長として約100人のお年寄りたちの面倒を見ておられる。

先生からの「ひとめぼれ」の贈り物には次のような手紙が添えられてあった。「東京より福島県へ移動し、あと2か月で7年目に入ります。マイナス8℃の世界を経験しました。二重に重なる山々は雄大な景観、太陽がしずむのを見るのは海とはまったく違った感動があります。四季ははっきりと訪れて来ます。真っ白な銀の世界、淺緑、深緑、ペルシャじゅうたんの様な山々の変化は待ったなしにやってきます。雪や氷が解けたら、すぐ植物が芽生え、小鳥たちがさえずり、多種類の草花が疲れを消しさります。動植物の生命の強さに圧倒されます」

「いくつかの慢性疾患の御老人方100人を医師一人で診る、介護老人保健施設に勤務して月日がたつ早さにびっくりしております。老人の看護や介護については、地元の利用者を地元の人が診る事は非常に大切だと思います。愛情深く末長く仕事に従事します」

昨年4月、僕はこの特老ホームを訪れる機会があったが、すばらしい自然環境の中で、田中先生をはじめ暖かい施設の方の心に触れ、お年寄りも幸せだなと実感した。