幕末史のターニングポイントとなった「薩長同盟」の条文、それに対して坂本龍馬が朱筆で裏書き保証したことはあまりにも有名な話である。これを真実との前提で、すべての幕末史が書かれている。これを怪しいと言ってる人もいるが、この間の事情を時系列で追ってみると、あまりにも不自然さが目立つ。今一度、再考してみる。
1) 薩摩藩家老、桂久武の日記
何年か前、このとき京にいた桂久武の日記を元に龍馬は薩長同盟に立ち会っていなかったとの説が出た。日記によると慶応二年正月18日、小松帯刀邸で、小松、西郷、大久保など薩摩藩幹部と長州藩の木戸との間で夜更けまで国事について話し合ったとある。(この時、龍馬は大坂におり伏見に着くのは19日)。日記は続けて20日に木戸の送別会を開くとある。20日に送別会をやるというのは、18日の深更まで同盟について話し合いの結果、合意に達っしたからであるというのがこの説の主旨である。ところが、この説を否定する人は、あとで、木戸が龍馬に書き送った同盟六カ条と手紙を拠り所にしている。
龍馬の裏書きには「小西両氏及老兄龍等も御同席ニて」とあり、これが絶対的根拠とされたわけである。ところが、20日に木戸の送別会を開くという久武の日記の文言は無視している。そこで、同盟とまでは煮詰まっていなかったのであろうと・・。つまり、20日の段階では薩長同盟は失敗していた。ところが、21日に龍馬が薩摩藩邸に現れて、小説『竜馬がゆく』が描くように、西郷と木戸を日本国の為にと一喝した結果、薩長同盟が成ったというのが定説である。もし、この龍馬の裏書きが明治以後のニセモノだとすれば幕末、維新史は天地がひっくり返るほどの衝撃である。私は桂久武の日記が真実を伝えていると思う。
2) 同盟六ヵ条の日付 正月23日は木戸が京を出発した日
木戸一行は23日夜、黒田了介、村田新八に付き添われて京を立っている。なんと同盟六ヵ条に同封された手紙の日付はその23日である。その間、木戸は京の薩摩藩邸にいた。通説どおり、龍馬が薩摩藩邸に来て、薩長同盟が成立したとして(同盟成立の日は21日と22日の二説あるが、一日ぐらいの差はこの際問題ではない)、この同盟は両藩の信頼関係に立った口約束であったはずである。それなのに、薩摩藩士が周囲にいる環境の中であのような文面を作成できるものだろうか。大いに疑問である。仮に、同盟成立のとき同行していた品川弥二郎がメモを取っていたとしても、その所作そのものが薩摩側からすれば不愉快であろうし、なによりもたった一日や二日であのような完璧な文章が書けるものだろうか。下書きが当然必要である。とくに22日夜、合意したとすれば木戸の出発まで半日しかない。時間的に絶対に無理である。
それと何よりも疑問に思うのは、木戸はあのような重要な機密文書を伏見・寺田屋にいる龍馬にどうやって届けようとしたのか。京から伏見まではかなりの距離があり、街道筋には新選組や奉行所の目が光っているし、どう見ても危険この上ない。木戸が2月22日付の龍馬への返書で、大坂から送ったと書いているが、これとて同じことである。大坂と伏見の船着場には新選組が出っ張っていた。それと、龍馬は常に飛び回っている自由人である。必ず寺田屋にいる保証はどこにもない。同行していた村田新八に龍馬に渡してくれと頼んだのだろうか。この点でも不自然である。
3)その23日は龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行所に襲われた日
なんと木戸一行が京を立ったその日の夜半、二人は伏見奉行所の捕り手に襲われ、龍馬は短銃を発射して同心二名を倒し、そのとき手に負傷してかろうじて伏見薩摩藩邸に逃げ込んだ。その時、お龍の助けがあったればこそ自分は助かったと、一年後に高知の家族宛に手紙で詳しく知らせている。両手を負傷してかなりの重傷であったようである。その後、龍馬とお龍は京の薩摩藩邸に移り、傷の治療をしている。この間、木戸が送ってきた同盟条文と手紙を龍馬は薩摩藩邸で受け取ったことになる。そうして、朱筆で裏書きして木戸の元に送り返している。その日付は2月5日である。手に重傷を負ってまだ2週間も立っていない。これも不自然である。この時点(25日大坂出港)で木戸は龍馬が伏見の薩摩藩邸に避難していることを知る由もない。どのような手段でこの機密文書が龍馬の元に届けられたのか。この点はあいまいに伏せられている。
そうして、3月5日、龍馬はお龍と一緒に小松帯刀と西郷に同行して大坂から船で薩摩に向かっている。(この直前、小松帯刀と西郷を立会人として、お龍を正式に妻としている)。このあと、小松の計らいで霧島温泉に新婚旅行に行ったのは有名な話。ここで、最大の疑問が生じる。薩摩と長州の同盟という絶対的機密事項が書かれた手紙を、木戸も龍馬もどうやってやり取りしたのか。民間の飛脚便など利用することは有り得ない。当然、どの藩でも藩の存亡にかかわるような機密文書は、れっきとした武士が命にかけて届けるものである。もし紛失すれば切腹は覚悟の上で・・。そうして、龍馬は翌2月6日付で木戸に別の手紙を書き、寺田屋の遭難の一件を知らせている。これに対し木戸は2月22日付で裏書きの条文を受領した喜びと傷の見舞いの手紙を寄こしている。手紙のやりとりの日数が短かすぎるし、何か作為が感じられ不自然さが残る。この2通もねつ造だと思う。
とくに、木戸あての手紙は、龍馬が一年後、高知の家族あてに寺田屋遭難の顛末を詳しく書き送った手紙を元に、後世、別人が作文したと思われる。北辰一刀流の免許皆伝であり、命を捨てる覚悟で国事に奔走していた龍馬が木戸に対して、「幕府が自分を殺しにきたと思った」などのような言葉を書くわけがない。(原文では「龍を打取るとて夜八ッ時頃二十人計寝所ニ押込ミ・・・・早も殺候相見え候故・・・」とある)。これを作文した人は武士がなんたるかを知らない。いわんや坂本龍馬を。勿論、高知の家族あての手紙にはそのような表現はない。人伝てにそういうことを聞いたとは書いているが、小松と西郷はそれ(幕府が自分を殺しにきたとのこと)を聞いて大笑いしたとも書いている。この両人は龍馬がそのような根も葉もない噂(うわさ)話しを真面目に信じていることが余程おかしかったのであろう。
4)朱筆の裏書きは明治以後の墨汁(ぼくじゅ)ではないのか
墨汁は明治31年、田口精爾という人が東京精工学校(現・東京工大)で応用化学を学び、主にドイツから輸入されていた化学薬品などを調合して発明したものである。同じ明治中頃、朱の墨(硯に水を混ぜて摺る従来の黒墨と同じ用法)が奈良で開発された。また、大正時代に人工の朱が発明され、それを使って朱の墨汁も作られた。その結果、明治中期頃から朱書きの資料が多く見られるようになる。朱の墨汁にはなんと苛性ソーダが含まれている。
私は以前からこの龍馬の朱の裏書きに対してある種違和感を覚えていた。たしかに、日本史上、朱書きの文はあるにはある (幕末の国学者、平田篤胤が朱で書いた文章も残っている)。朱というのは古墳時代からあった辰砂を水で溶かしたもので、古墳の壁画にもあり、当然、浮世絵などにも使われていた。また御朱印船というように朱の印はあった。しかし、明治以前には朱書きは、武士の書状、庄屋の文書、商店の大福帳、宿帳などをみてもほとんど見かけない。たまに、漢文の読み下しのために仮名文字を書き加えたりしてあり、基本的に補助用具である。あの龍馬の朱書きを写真で見る限り、サラサラと一気に書いてある。あのような技術が確立するのは朱墨や朱の墨汁が発明された明治中期以後のことである。それに、そのとき龍馬は京の薩摩藩邸にいた。一体、だれが朱書きの道具を用意したのか。だれでも簡単に手に入るような品物ではない。江戸時代、朱は幕府により管理されていた。これも疑問である。
5)龍馬の朱筆の裏書きをねつ造したのは誰か
それはズバリ宮内大臣・田中光顕であると思う。田中は日露戦争のとき皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったとの話をつくって、国民に広く流布させた張本人である。政権の中枢から外され、薩長閥に冷飯を食わされていた土佐を、再度、脚光を浴びる存在にしたかったのであろう。そこで、坂本龍馬を維新のヒーローに仕立てあげようと一大プロジェクトを土佐系の人たちと立ち上げた。田中にはそれをやらなければならない理由があった。「薩長土肥」と言われ、明治維新にあれだけ貢献した土佐なのに、あまりにも影がうすい。この不満である。
薩長同盟イコール坂本龍馬と思われているが、実は、最初にそれを考え、その実現のため行動していたのは中岡慎太郎と同藩の土方久元であった。中岡は同盟実現のため、慶応元年(1865)5月、薩摩に西郷を訪ねている。田中は中岡の腹心の部下として後に陸援隊長になっている。龍馬と中岡が近江屋で襲われたときも一番に現場に駆けつけたのも田中光顕であった。薩長同盟締結の場にも中岡慎太郎の代理で木戸一行の中にいた。ことの顛末のすべてを知っている人でもある。同盟は口約束で18日に成立していた(『桂久武日記』)。龍馬は遅れて1月21日に薩摩藩邸にやって来て田中からその内容を聞かされた。それが真実であったろう。しかし、田中はそれを伏せ、21日か22日に龍馬の説得で西郷と木戸が折れて同盟が成立したように変えた。たしかに、龍馬は薩長同盟締結というその渦中に飛び込んで来て、それを目撃した人ではある。その現場に居たと言えないこともない。龍馬のことだから夜の酒宴のとき、この両藩の密約、「この土佐の坂本龍馬が必ず保証するぜよ」ぐらいは言ったかもしれない。田中光顕はその龍馬を最大限に利用しようとした。
龍馬こそ薩長同盟の立役者であり、土佐の坂本龍馬なくして明治維新はなかったとの新説を国民に広く知れ渡るように画策した。そのため、木戸の求めに応じて同盟の保証を龍馬がする必要があった。それほど龍馬は大物でなければならなかったのである。しかし、1月23日、木戸が京を立ったことは分かっている。そこで、その23日を同盟条文の日付に設定して、僅か、一日そこそこであの完璧な条文を書き上げたことにするしかなかった。そこに無理があった。一番肝心な点、どのような手段でその機密文書を龍馬に届けたのか。いや、届けることが出来たのか、この一点はぼかされている。
なぜなら、龍馬はその23日夜半から伏見奉行所役人に追われ、両手に重傷を負って伏見の薩摩藩邸に逃げ込んだのだから・・。つまり、23日付の木戸の手紙と同盟条文を龍馬は避難先の薩摩藩邸でしか受け取れない。23日、京を離れた木戸は龍馬が伏見の薩摩藩邸にいることを知らないはずである。23日から龍馬がそれを受け取るまで木戸の手紙は一体だれが所持していたのか。この点でも不可解である。
そうして、お龍の介護を受けながら京の薩摩藩邸で、命の恩人でもある小松帯刀や西郷には隠して、こっそり朱筆で裏書きし、密かに木戸に送り返したことになる。しかも、この同盟文書と手紙を長州まで持参した人はだれか。まったく触れられていない。幕末史の隠れたヒーローであるのに・・。もはや不自然さを通り越して絶句するしかない。だがその後、田中の思惑どおり事態は進んでゆく。昭和3年には龍馬に感動した高知県民の献金で桂浜に龍馬の銅像が立った。戦後、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によりそれは完結した。田中光顕は故郷(ふるさと)高知県の観光、町おこしに大いに貢献したことだけは事実と言える。
<追記>
龍馬の朱筆の裏書きが本物かどうかは、現代の科学鑑定ですぐ分かることである。明治に輸入された化学物質の成分が検出されればすべて氷解する。歴史のねつ造は、古今東西どこにでもあることである。今から半世紀ほど前、ヒトラーの日記なるものが世に出て、西ドイツ国内を騒がせた事件があった。結局、その使用インクに戦前には無い化学物質が検出され、ニセモノと判明した。日記を所有していた本人が一儲け企んでねつ造したものであった。また、イタリアのある教会で、キリストの遺骸がくるまれていたと言われてきた聖衣が、実はその時代には無かった繊維が含まれていたことが科学鑑定で明らかとなり、後世のねつ造であったことが判明した事例もある。この龍馬の場合も歴史の真実解明のため是非、科学鑑定をやって欲しいものである。
なお、この龍馬の朱筆の裏書きの原本は今、宮内庁・書陵部が所蔵している。なぜか、これは戦前、木戸候爵家から宮内省に寄贈されたものであるからである。つまり、木戸家が所有していたという証明でもある。これこそアリバイ工作だと思う。龍馬を維新のヒーローに祭り上げるプロジェクトに参加した土佐系もしくは長州系の誰かが木戸家に持ち込んだものだと思う、(木戸孝允先生からこれをお預かりしていましたと・・)。これを木戸家二代目の孝正氏(東宮侍従)か三代目の幸一氏(昭和天皇の側近)のどちらかが宮内省に寄贈したのであろう。あるいは、宮内大臣、田中光顕自身が宮内省に持ち込んだものかも知れない。田中光顕が死んだのは昭和14年である。