小松格の『日本史の謎』に迫る

日本史驚天動地の新事実を発表

江戸無血開城の真の功労者は

2011年11月27日 | Weblog

 慶応4年(明治元年)3月13、14日の江戸高輪の薩摩藩邸での勝海舟と西郷隆盛の会談により江戸城を官軍側に平和裡に明け渡すことが合意され、江戸城総攻撃は中止された。その結果、江戸の町は戦火から救われたというのが歴史の通説である。

 勝は後年、『氷川清話』などの自著の中でその功績を自慢げに語っているが本当だろうか。勝の話には大風呂敷が多く、あまり信用できないというのが一般的である。そこで、慶喜の使いで駿府の征東総督府に出向いた幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)の功績を主張する人がいるが、これとておかしい。山岡は微禄の旗本にすぎない。いかに徳川幕府が混乱状態にあったとはいえ、たんなる慶喜の使い、戦場でいえば伍番衆(伝騎)にすぎない。この程度の人物を(勝海舟の手紙を持参していたとはいえ)、幕府の代表とみなして総督府参謀・西郷隆盛が官軍(朝廷)の条件をいち早く提示したのにはある大きな理由があったとみるべきであろう。その理由こそ江戸の町、ひいては徳川家を救った女性の存在である。その女性とは和宮(静寛院宮)である。

 -その時の和宮の動きー
 徳川慶喜は大坂から江戸城に逃げ帰って、まず最初に取った行動は勝海舟を呼んで、後始末をせよと勝に丸投げしたことは有名な話である。そのあと、14代将軍・家茂の正室、和宮(静寛院宮)に会いたいと宮に使いを送った。この慶喜の使いに対し、和宮は2度、3度会いたくないと拒絶したらしい。当然である。自分の夫、家茂の死の直接の原因をつくったのは他でもない慶喜であったからである。(将軍・家茂の反対を押し切って長州再征を強行した張本人は慶喜であった)。
 
 それでもずる賢い慶喜は篤姫(天璋院)を使って和宮を説得してもらった。それに折れた和宮は慶喜に面会を許す。そこで慶喜は、自分は天朝にそむく意図などは毛頭なく、鳥羽・伏見での戦いは家臣たちが勝手に始めたものであり、それを抑えきれなかった自分の無力がくやしい・・などと、涙ながらに訴えたことであろう。その名演技に心を動かされた和宮は、慶喜の助命嘆願と江戸を攻撃しないように自分の実家(和宮の母親は公家、橋本家から出ている)宛てに手紙と朝廷に嘆願書を書く。この嘆願書がすべてを決定した。
 慶喜は自分の命を救ってくれるのは和宮しかいないことは痛いほど分かっていた。和宮がそれに応じてくれたことは、徳川慶喜はどこまでも運のいい男である。

 和宮の助命嘆願の手紙を託された侍女・土御門藤子は1月21日江戸を立つ。そうして、2月8日に京に着き、橋本家当主、橋本実麗に渡す。その結果、朝廷からの返書は「願いの儀については朝議を尽くす」とのみあったが、同時に橋本実麗から和宮宛ての手紙の副書には、議定・正親町三条実愛(三条実美とは別家)の名で 「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」 との文言があった。
 ところが、2月15日、大総督・有栖川宮熾仁親王率いる東征軍が進発している。この2月8日から15日までの一週間にいったい何があったのか。

 -京の新政府が下した判断とはー
 我々は普通、鳥羽・伏見の戦いに勝利した後、とりわけ西郷、大久保などの薩摩が政治の実権を握った如く思いがちであるが、実際はそれほどでもない。 前年の12月9日の王政復古の大号令とともに、将軍、関白などの旧制度を廃止し、天皇親政の元、総裁、議定、参与を置いた。総裁には有栖川宮熾仁親王、議定には仁和寺宮、三条実愛などの皇族・公家と、徳川慶勝、松平春嶽、山内容堂などの旧藩主を、参与には岩倉具視、橋本実梁(実麗の子)など公家と大久保一蔵、後藤象二郎、横井小楠などの武家が任命されている。
 
 この構成から分かることは、天皇の裁可を得るには、まず議定の承認を受けた後、総裁・有栖川宮を通してのみそれが可能となる体制である。いかに西郷、大久保が慶喜切腹を主張しても、議定の顔ぶれを見ればそんな意見が通るわけがない、慶勝、春嶽、容堂こそ、鳥羽・伏見の戦いの直前まで慶喜を擁護してきた前藩主たちである。

 和宮の嘆願書は橋本実麗を通して参与・議定会議に出されたであろう。岩倉具視でさえ徳川家には寛大な処分を主張していたので、大久保ひとりが厳罰を主張したが結論は出ず、上の議定会議に回された。ここでは全員一致で寛大な処分が決められた思われる。この決定を受けて有栖川宮は明治天皇(当時15歳)に奏上し、自動的に裁可を得た。これですべてが決まった。この私の考えは決して創作ではない。多くの状況証拠がある。なお、和宮はその嘆願書の中で 「徳川家を朝敵として討ち滅ぼすなら、自分も徳川と共に滅ぶ覚悟」 とまで書いている。

 -これまで無視されてきた状況証拠ー
 その1) 西郷は2月2日付の大久保一蔵宛ての手紙で、慶喜の処分を厳しくすると書いている。この時点では慶喜の切腹も考えていたようである。ところが、3月9日の駿府での山岡鉄太郎との会談でいきなり寛大な処分案を提示している。(後述)
 

 その2) 先に述べた朝廷から和宮への返書の副書(口頭で伝えられたものを実麗が書いた)に、そのとき議定であった三条実愛の名で「謝罪の道筋が立てば、徳川家の存続は可能」とあった。続けて 「厚(あつき)思召も有らせられ候やにも伺候間 右の所は宮様よりも 厚御含有らせられ候様(原文)」 とあり、「厚思召し」とは天皇の意志であり、「宮様」とは有栖川宮のことであるので、この事実は重い。
 これは明らかに和宮の嘆願書が議定会議にかけられ、最終的に天皇の裁可を得た証拠である。つまり、総裁・有栖川宮の承認も得ていたことでもある。有栖川宮は2月15日に東征軍大総督として京を進発する。その段階ですでにこのことは心に秘めていたと思われる。
事実、3月6日 駿府で東征軍先鋒総督橋本実梁、参謀西郷隆盛などの幹部を集め、慶喜の助命などの内々の方針を表明している。西郷は京ですでに有栖川宮から聞かされて知っていたと思われる。

 その3) 大久保一蔵が2月16日付で鹿児島の同輩、蓑田伝兵衛に出した手紙があり、それには、慶喜が女を使って助命嘆願してきたことに触れ、「あほくさ」と書いていることである。この「あほくさ」の意味は、一つには武士にあるまじき慶喜の行為に対する軽蔑であり、あと一つは、それを受けて「助命してやれ」と言うお公家衆とお殿様たちに対する「どうしようもない連中」との思いであろう。大久保はこのとき決して権力を握っていたわけではない。それは新政府が東京に移って以後のことである。

 -西郷と山岡の駿府会談ー
 いよいよ、3月9日、慶喜の使いとして山岡鉄太郎が駿府にやって来る。山岡は大総督・有栖川宮に直接面会したい旨を述べたが、あまりにも身分が違いすぎると西郷は思ったのであろう、それは許さなかった。山岡はそこで慶喜はすでに寛永寺にて恭順謹慎しており、寛大な処分を求めた。ところが、西郷は次のような書面を提示してきた。
   

   1.城を明け渡すこと
   1.城中の人数を向島(隅田川の向こう)に移すこと
   1.兵器を渡すこと
   1.軍艦を渡すこと
   1.徳川慶喜を備前藩へ預けること

 このことを山岡鉄太郎が交渉の結果、西郷から引き出した功績だと主張している人がいるが、私がこれまで述べてきたとおり、これらはもともと京の新政府ですでに決まっていたことである。だからこそ、西郷は交渉というよりいきなりの条件提示であったのである。ただ、山岡は最後の備前藩(岡山)お預けは強く抵抗した。この時、西郷は朝命であると言っている。つまり、この書面の内容はすでに京の朝廷で決まったことであると西郷自身が認めていることでもある。この一件は次の西郷と勝の会談に持ち越された。
 山岡は、無抵抗で平和裡に江戸城を明け渡せば官軍は攻撃もしないし、慶喜以下幕臣も過酷な処分はしない、ということと理解したであろう。
 ただ、一つだけ真実がある。それは西郷が、山岡鉄太郎その人となりに惚れ込んだことである。それほど山岡の態度は立派であった。明治5年、西郷は山岡に明治天皇の教育係りを依頼している。山岡はそれを受けている。

 -勝と西郷の江戸会談ー
 3月13,14日の薩摩藩邸での両者の会談はあまりにも有名である。この会談は後年、勝が語ったことが史実と信じられている。つまり、官軍が江戸城を攻撃するなら、江戸中の火消しを使って江戸を焼土にするなどがそれである。すべて勝のホラ話である。
 また、当時横浜にいたイギリス公使パークスから横やりが入ったから、江戸城総攻撃は中止されたと主張する人がいるが、これとて荒唐無稽の説である。もともと、西郷には江戸城を攻撃する意図などなかったのだから、(勿論、幕府の無条件降伏が条件ではあったが)。
 
 勝は西郷が駿府で山岡鉄太郎に提示した条件を必ず履行すると約束しただけであろう(つまり、無条件降伏の受け入れ)。その時点でも江戸城内には徹底抗戦を叫ぶ主戦派の幕臣たちが多数いた。これら主戦派をなんとか説得して城外に出すのが勝に課せられた大仕事であった。そうして、翌15日の江戸城総攻撃は中止されたことになっている。この劇的な舞台を演出したのはたしかに勝と西郷の二人であったが、後年、西郷の死後、勝はすべて自分の功績として吹聴している。
    
  この勝の大仕事に和宮も積極的に協力している。3月18日、和宮は田安慶頼(徳川宗家の後継者)の依頼を受けて主戦派の幕臣たちに向け、徳川家存続の朝廷の内意を知らせ 「今は恭順謹慎を貫くことが徳川家への忠節であり、家名を守ることになる。」 との書付を出し、幕臣達の説得にあたった。これとて、裏で勝が田安慶頼に頼んだのであろう。これを受けて主戦派幕臣たちは江戸城を出た。
 これより前にも、和宮は官軍先鋒総督・橋本実梁(和宮のイトコにあたる)に対して、江戸攻撃猶予と徳川家に寛大な処分を求める手紙をやはり土御門藤子に持たして送っている。3月10日に沼津で手渡された、この手紙には、大総督宮様へのお取りなしの事を幾重にもお頼み申す、と書かれていた。
 

 そうして、4月4日に勅使(柳原前光、橋本実梁)が入城して朝廷の命を伝えた。その後、4月11日には官軍(尾張藩兵)が入り、江戸城明け渡しが平和裡に行われた。この日、慶喜は数十人の遊撃隊士に守られひっそり江戸を去る。
 この後も和宮は徳川家存続のため奔走している。慶喜の赦免と徳川家存続が決定した後 (3月20日、西郷が京に戻り、天皇の裁可を得た)、4月21日、和宮は朝廷に寛大な処分に対してのお礼の手紙を書いている。
 
 勝海舟の功績と言えば、慶喜の備前藩お預けを水戸謹慎に変えさせたこと(これは勝のねばり勝ち)。それと、江戸市中で乱暴を働く幕府洋式歩兵隊の隊長に金を渡し、北関東に追いやったことと、主戦派の幕臣たちを寛永寺の輪王寺宮御守衛という名目で上野の山に集めたことぐらいである。これが後に上野・彰義隊戦争に発展する。勝海舟はけっして江戸を戦火から救った真の功労者ではない。

 <追記>
 これまで見てきたように、鳥羽・伏見の戦いの後、江戸無血開城それと徳川家に対する寛大な処分について和宮の果たした役割は大きい。しかるに、日本史上ではこのことはほとんど無視されている。戦前の皇国史観の時代においてもそうである。おそらく、男尊女卑の時代背景があり、皇女とはいえ、一人の女性の力で時の政府が動かされたことに触れたくなかったのであろう。また、民主主義全盛の現代では、逆に天皇や朝廷の役割を認めたくない一部の歴史学者の意見が主流をなしているからと思われる。

 どの時代でもその時代特有の背景がある。西郷隆盛は大総督・有栖川宮や天皇の意思を無視して勝手な行動はしていない。過去の歴史を現代人の感覚もしくは自分の個人的感情で判断してはいけない。
 後日談として、慶喜は後年、和宮の命日(9月2日)には必ず芝・増上寺の和宮のお墓にお参りし、口ぐせのように「命の恩人だ」と言っていたことが、慶喜の息子(九男)の嫁の話として伝わっている。

  

 

 

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