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日本語の諸問題 (22) 国語(日本語)教育はどうあるべきか

2011年05月03日 | Weblog

 義務教育での国語(日本語)教育は大きな問題をはらんでいる。それは義務教育で学んだ国文法は日本語文法のはずであるのに、普通の日本人には全くと言っていいほど記憶に残っていない。基礎語彙である「広い」や「賢(かしこ)い」の品詞は形容詞であることは誰でも分かるが、「広く」「賢明な」となると、私の周囲にいる誰に聞いても正確には答えられなかった。(正しくは、「広く」は「広い」の連用形、「賢明な」は形容動詞、「賢明に」はその連用形)。こんな言語は世界中でおそらく日本語だけであろう。「賢い」と「賢明な」は同じ意味なのにその品詞名は違う。こんな馬鹿げたことがあるだろうか。国文法は日本語文法として統一される必要性がある。それを書く。

(1)日本語は「現代語」と「文語」に分類すべき
 国文法では「口語」と「文語」と分類されている。「口語」とは普通、会話体(話し言葉)の意味であり、世界のどの言語でも会話体(口語)と文章語は大なり小なり違うものである。「口語」との用語は誤解を招く。日本語でも「あちら」「こちら」を「あっち」「こっち」と言うように、後者が口語(会話体)である。また、現代語の中にも古語(文語)起源の言葉が数多くあり(例、「私ならそうはしない」の「なら」など、これを国文法では助動詞「だ」の仮定形としているが、文語「なら・ば」からきている)。これは「私だったらそうしない」の意味であるので、文語起源の助動詞と説明すればよい。

(2)動詞は「連体形」と「名詞形」が根幹をなす
 日本語動詞はきちんとした法則がある。名詞を修飾する連体形と名詞形である。終止・連体形はまた動詞の基本形と決められていることをまず教える。「読む」「走る」は基本形であり、かつ終止・連体形でもある。
 
 1.第一型動詞・・「読む」「書く」「取る」などが基本形であり、これらは「読む人」のように名詞を修飾し、かつ「本を読む」と終止形にもなる。つまり、連体形は終止形を兼ねるのである。
 名詞形は「読み」「書き」「取り」のように、五十音図の「イ」列段で終わる。この第一型動詞の名詞形がいかに普通名詞として日本語に定着しているか生徒に考えさせる。それらは無数にある。(例、遊び、楽しみ、釣り、おにぎり、お好み焼き)
 次に、この名詞形が他の名詞と結び付き、多くの熟語を作ってゆく日本語の豊かな造語法を教える。(例、切り札、読み手、手書き、渡り鳥)これらも無数にある。
 「か、き、く、く、け、け」など暗誦させるより生徒はずっと興味を持つはずである。
 
 活用(語尾変化)は次の3種類
  ア)発展形・・「読ま」(「読まない」「読ませる」「読まれる」)
  イ)名詞形・・「読み」(「読みます」「読みたい」「読みながら」など)
  ウ)完了形・・「読め」(「読めば」、「読めた」)
 * それぞれ色々な接尾語が付き、文を作ってゆく。命令文は別項目でよい。
 * 未然形(まだ起きていない意味)では「漱石はよく読まれている」が説明できない。
 * 発展形なら「花咲か爺さん」とか「行こう(行か・う)」がよく説明できる。
 
 2.第二型動詞・・「得る」「出る」「着る」「見る」「捨てる」などが基本形であり、連体形(終止形を兼ねる)でもある。この型の動詞の名詞形は語尾「る」を取った語幹部分である。「得(え)」「出(で)」「着(き)」「見(み)」「捨て」がそれである。つまり、この型の動詞は語幹に連体形と動詞形成の二つの機能を持つ接尾語「る」が付いたものである。(トルコ諸語に特有の機能であるが、日本語は L 音がないので「る」だけである。ウズベク語では動詞形成接尾辞 -LA と、連体形形成接尾辞 -R の区別がある)
 この場合も普通名詞化した多くの言葉があることを生徒に考えさせる。(例、こころ得、出口、思い出、着物、晴れ着、見所、花見、捨て猫) これらも無数にある。これらを上一段活用動詞とか下一段活用動詞などと言われると、私だけでなく誰でもウンザリする。

 活用(語尾変化)は次の2種類
  ア) 発展形と名詞形は同じ・・「見(み)」「見よう」「見ない」「見せる」「見られる」「見ながら」「見た」「見たら」)
  イ) 完了形・・「見(み)れ」・・接尾語「る」が「れ」に変わる。これで仮定形をつくる「見れば」
  * つまり、活用は動詞形成の接尾語「る」が音変化するだけである。
  * 命令形は「見ろ」、「見よ」、「見なさい」など多様な表現があるので、別項目を立てて説明した方がよい。

 3.変格動詞「する」「来る」
  これも基本形は連体形であり、名詞形は「し」「き(来)」と「イ」列段である法則はきちんと守られていることを教える。
 同じく、名詞形から生まれた熟語を考えさせる。(例、「仕事(し・こと)」「仕組み」「仕出し弁当」「出来事(で・き・こと)」。

 「出来る」の語源については、「広辞苑」もその他の「語源辞典」も古語「い出来(く)る」(生まれる、現れる)からきたと説明している。しかし、「出来た」はいいとしても、連体形の場合は「来(く)る」であるのに、なぜ「出来(き)る」なのか(例、出来る人)、この点についての十分な説明はない。国文法の法則では「出来(く)る人」のはずであるが・・。
 この答えは私の動詞理論で簡単に出る。「出来(でき)」は二つの名詞形がくっ付いたものであり、普通名詞として定着していた。(例、「出来心」「出来不出来」「おでき(腫物)」)、つまり、ニ型動詞の法則が適用され、名詞形「出来」に接尾語「る」が付いたものである。そこから「出来る」という動詞が生まれた。この「出来る」が可能の意味を持つようになるのは江戸時代あたりからである。
  
 4.規格外動詞、可能動詞
 「読める」「書ける」「行ける」などがそれである。この動詞は近代、おそらく明治以後に普及したもので、その由来については諸説あるが、私は次のように考えている。
「読める」の「る」は動詞と連体形形成の接尾語である。 文語の已然形では完了の意味を作る場合、助動詞「り」が付く。(我、勝てリ)。ところが、近代になって「り」に代わって「た」が使われるようになったのではないか。ところが、すでに過去・完了を意味する「読んだ(読み・た)」とか「書いた(書き・た)」が存在していたので、完了の「読めリ」と同じ意味で生まれた「読めた」が「読んだ」と区別するため可能の意味を持たせるようになったのではないかと思う。
 「読めた」は可能動詞であっても、文語の完了の意味もその中に保持しているのである。「書けた」は「書きあげた」と同じ意味、つまり完了の意味もあるのである。
 ともかく、可能動詞は日本語動詞の新参者として、動詞の法則の外にあることを生徒に分からせればよい。

 活用は基本形(連体形)「書ける」「読める」「行ける」
 その他、「書け・ます」(現在)、「書け・た」(可能・完了)、「書け・ない」(否定)、「書け・たら、れば」(仮定)となる。
 発音は同じであるニ型動詞の「かける」(掛ける)と比較してみると分かりやすい。「掛ける」の名詞語幹は「掛け」(例、かけソバ、衣紋掛け、掛け橋)、可能動詞「書ける」に名詞語幹はないことが一目瞭然で分かる。
 
(3)形容詞・・「イ型形容詞」と「ナ型形容詞」の二種類がある。
 1.イ型形容詞
 形容詞語幹を設定する。「たか(高)」「やす(安)」「ひろ(広)」「ふか(深)」
 この語幹にさまざまな名詞や接尾語が付き、造語してゆくことを教える。
「高い(形容詞)」「高く(副詞)」「高める(動詞)」「広げる(動詞)」「高窓」「安物」「広さ」「高め」「深み」「高見の見物」「高々と(副詞)」など無数にある。日本語の造語法の豊かさを生徒に考えさせる。
 例外的に「黒」「白」「赤」などは独立した名詞としても使われる。ところが、「緑(みどり)」は名詞でも「緑い」とはならず、「緑の」となる。言語というのは理科系の法則とは違い、偶然性と柔軟性があるものである。

 イ型形容詞の特徴として、状態動詞化する助動詞「かる(そういう状態にある)」を設定する。英語の  be 動詞に当たるものである。「私は若かった」の場合、「若・かり・た」から「若・かった」と音変化したことを教える。「かり」は「かる」の名詞形、そこから「若・かり・し・頃」などの文語表現が生まれた。この助動詞「かる」の活用は動詞「刈る」と同じであるが、仮定形だけ「刈れば」のようにならず、「安ければ」「遠ければ」のように「けれ・ば」と音変化している。
 発展形は「安から・う」が「安かろう」と音変化している。「稲を刈ろう」と同じ。
助動詞「かる」を設定すれば、現代語としても日常使われている「良かれと思って」「遅かれ早かれ」も十分理解できる。

 2.ナ型形容詞
 国文法で形容動詞とされているものであるが、実は、イ型形容詞は助動詞「かる」を付けて状態動詞化しているのに対し、ナ型形容詞は接尾語が「な」が付く(文語の助動詞「なる」の「る」が落ちたもの)。
 漱石の「吾輩は猫である」を「猫だ」「猫なり」とも言えるように、文語「なる」も助動詞としては「そうある」「・・である」の意味を持つ。この「なる」の「る」が消失して助詞化して「な」が生まれた。その機能は「なる」と同じである。また、文語表現として「静かなるドン」「遥かなる宇宙」などがあるが、これらも現代日本語である。
 
 このナ型もイ型同様語幹を設定する。「静か」「あざやか」などがそれである。イ型との違いは語幹が名詞機能を持っていることである。このことが両者の根本的な違いである。その結果、漢語(これは名詞)に「な」を付けて形容詞化できる。(「平和な」「賢明な」「華麗な」)、「静かな」の「静か」のように語幹が名詞機能を持っているので「静かだ」「静かに」のように使える。この「静か」を「平和」に置き換えても同じことである。「静かに」も助詞「に」が付いて副詞になっているだけである。

 どうして形容動詞なる用語が生まれたのか。この理由は単純なところにある。江戸の国学者も明治の国語学者も、名詞というのはそれだけで独立した意味を持っていなければならないと考えた。たしかに「静か」も「あざやか」「明らか」も独立した名詞としては使われない。「山」とか「川」とは違う。(「国語辞典」も「静か」は形容動詞に分類されている)。つまり、「静かな」「静かだ」「静かに」で言葉としての機能を持つ。そこから「静かな」を一つの言葉と決めて、活用するとしたのであろう。
 
 しかし、これでは外国人どころか日本人にも理解しがたい。形容動詞とは何か、と聞かれて即答できる人はまずいない。「な」が付くと形容動詞だと答えるだけであろう。つまり、国文法は全く理解できない。ではどうすべきか。
 答えは簡単である。「静か」「あざやか」は普通名詞ではなくとも、言語として名詞機能を持っているとすればいいのである。だからこそ「とても静かだ」と言えるのである。
また、イ型の「高い」も「たか(高)」だけでは当てはめる品詞名はないので、国文法では「高い」で一つの言葉(形容詞)として活用するとしたのである。これらはイ型形容詞語幹として特に品詞を決める必要はない。「美しい」の「美し」も同様である。(中には「いとしのクレメンタイン」とか「うるわしのサブリナ」などのように普通名詞の機能を持つものもある。言語の柔軟性である)。
 
 また「賢明」「華麗」「多彩」のような漢語を国語辞典は形容動詞と分類しているが、これらは抽象名詞として、助詞(接尾語)の「な」が付き形容詞化するとするべきであろう。同様に、助詞「に」が付くと「賢明に」「華麗に」と副詞になる。(なお、同じく漢語を大量に使っている朝鮮語はこれら漢語は名詞としているが、中には単に「漢語」としている辞書もある。日本語の「な」に当たる -han を付けて形容詞化する)。
 また「フレンドリーな人」のように、英語に「な」を付けて形容詞化もしている。日本語の造語法は豊かである。
 
 -おわりにー
 「日本語は世界一難しい言語だ」「日本語に文法はない」、誰が言ったか知らないが、このような発言が出る根本原因は国学の思想に基いた国文法にある。 国文法が言語の機能を無視して、意味の上から日本語を分類しているからである。
 今、「国語辞典」を開いてみると「遊び」や「楽しみ」は名詞として出ている。ところが、「読み」や「書き」は辞書に出ていない。基本形の「読む」「書く」が出ている。(「読み、書き、算盤」と寺子屋の時代から言われてきたのに)
 つまり、言語の機能からして「遊び」「楽しみ」も「読み」「書き」も同じ名詞形(国文法の連用形)なのである。たまたま「遊び」「楽しみ」が独立した言葉としてよく使われているにすぎない。「遊び方」「書き方」となると双方その使用頻度は拮抗してくる。言語の機能としては両方とも同じものである。
 日本人には文法の説明はしてもらわないと言ったドイツの日本語の教授は、おそらく私の理論と同じ方法で学生たちに教えているのではないかと思っている。つまり、語幹を設定し、それに様々な接尾辞(語)が付いて言葉や文を作っていく。これなら学生たちも理解しやすい。 日本語は決して難しい言語ではなく、表記法は別として、むしろやさしい言語なのである。
 



    
 

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