作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

本多静六氏の生涯

2005年10月05日 | 日記・紀行

 

本多静六氏の生涯

本多静六氏の生涯については、新聞の書評欄で知った。これまでも一部の人には知られていたようである。私は残念ながら知らなかった。

若い時には、特に二十代前後には、これからの人生をどのように生きるべきかという問題に悩むものである。どのような生き方をすればもっとも自分の一度きりの生涯を有意義なものにすることができるか、という問題に青年は悩む。

青年が多くの本を読んだり師を探し求めるのもそのためである。そのときによい先生、よい本に出会えるのは人生のもっとも幸福なことと言えるかも知れない。特に青年期は何事も疑うことを知らず、純粋に受け入れるから。


私たちの世代も、多くの若者が無責任な左翼知識人や学校教師の教唆を受け入れ暴力的革命運動や学生運動やその他に従って人生航路を踏み誤った。それに続く世代においても、「オーム真理教松本千津夫などの教義を盲目的に信じた若者たちが、殺人やテロ行為の破壊活動に従って死刑を宣告され、人生を棒に振った。自身の生涯だけでなく、社会にも他人にも大きな被害を与えた。

そうした多くの無責任な教師や指導者の多い中で、この本多静六氏などは、若者がこれからの人生の師として選ぶべきもっとも貴重な人物の一人ではないかと思う。書評で知り、興味をもったので、この本多静六の人物像について少し調べてみた。


彼は生涯を農業経済学者として生き、その間に日比谷公園や明治神宮の設計改良にあたり、生涯の間に、毎日1ページ分の文章を書いて三百七十余冊の著書を残し、洋行を十九回重ね、五十歳の頃には、税務署管内の最高納税者となるなど資産家としてもすでに大をなした。


そして、定年を期に全資産を社会事業に喜捨し、八十五歳で生涯を閉じるまで、宗教、哲学、経済からあまつさえ相対性原理や量子力学などの科学に至る新刊書を耽読し、生涯の最期を山紫水明の地、伊豆伊東の鎌田の地に隠棲して文字通り晴耕雨読の生活で生涯を閉じた。見事な生涯というほかはない。学ぶべき師、選ぶべき先生がいるなら本多静六氏ほど、その資格のある者はいないように思う。

青年時代にイエスに出会い、イエスの跡に従った、ヨハネ、ヤコブ、ペテロなど十二人の使徒たちは、そして、パウロやその他の有名無名の多くのイエスの弟子たちが、世俗的な眼からは悲惨な最期を遂げた。
それに比較すれば、本多静六の生涯は世俗的であるとは言えるが、世俗的であること自体は決して悪いことではない。彼自身きわめて充実した幸福な人生を生きたといえる。その実績からも、範とすべきは彼のような人物だろうと思う。

人間にとって、人生の幸福といい、人生の成功と言うべきものがあるとすれば、それは、「職業」と「家庭」という二つのものに、幸福と充足を見出せるかにかかっている。職業と家庭で目的を達成できれば、その人は人生の目的をほぼ達したといってよいほどである。楽しい職業と家庭があれば、それですでにこの世が天国のようなものである。

本多静六は、見事にそれを実現しただけではなく、どうすれば達成できるか、やさしく解説している。彼から学ぶべきことは少なくなく、これから人生の歩みを進めようとする青年たちに、是非彼の生涯を研究されるように勧めたい。

もちろん、彼は明治の人間であるが、その生き方は決して古臭いものではない。むしろ、江戸期や明治の日本人がどれだけ偉大であったか、少なくとも、私には及びもつかない優れた人たちであったかが分かる。聖書などよりも、むしろ、彼の生涯と著書にまず学ぶべきかも知れない。

もちろん、凡人は彼のすべてを学び尽くすことはできないかも知れない。しかし、本多静六の「常識的な」生き方から、少しでも学んで実行することは、私たち自身が幸福に生きる上で必要なことが多いと思う。

本多静六は青少年期の極貧の生活から、お金の大切さを肌身にしみて知っていた。これが彼を生涯においてかえって幸福にしたといえる。金のありがたみを早い時期に、徹底して知る機会を持たなかった私などは、それだけ苦労をしていると言える。彼は特に経済的な基礎を確立することの大切さを説いている。


本多静六はドイツに留学して、財政経済学を学んだとき、師であるブレンタノ博士から、「いかに学者でも、優に独立生活ができるだけの財産をこしらえなければだめだ。そうしなければ常に金のために自由を制せられ、心にもない屈従を強いられることになる。学者の権威も何もあったものではない。帰朝したらその辺のことから、ぜひしっかり努力してかかることだよ」と戒められた。


私も両親からそうした忠告を受けていたにも係らず、残念ながら、本多静六のように実際の極貧の体験もなかったために、「金の意義」を悟ることができず、その言葉の重大性がよく分からなかった。むしろ「人は金と神とに兼ね仕えることができない」という聖書の言葉を盲信して、ほとんど金銭には無頓着、無計画で通してきたし、むしろそれを誇りに思う節すらあった。実際、人をもっともよく教育するのは言葉ではなく体験である。「かわいい子には旅をさせよ」ということなのである。言葉で教えることには限度がある。


若いときから生活で苦労してきた本多静六は、ブレンタノ博士からまた次のような忠告を受けた。


「財産を作ることの根幹は、やはり勤倹貯蓄だ。これなしにはどんなに小さくとも、財産と名のつくほどのものはこしらえられない。さて、その貯金がある程度の額に達したら、他の有利な事業に投資するがよい。貯金を貯金のままににしておいては知れたものである。それには、今の日本では──明治二十年代──第一に幹線鉄道と安い土地や山林に投資するがよい。幹線鉄道は将来支線の伸びるごとに利益を増すことになろうし、また現在交通不便な山奥にある山林は、世の進歩と共に、鉄道や国道県道が拓けて、都会地に近い山林と同じ価格になるに相違ない。現にドイツの富貴貴族の多くは、決して勤倹貯蓄ばかりでその富みを得たものではない。こうした投資法によって国家社会の発展の大勢を利用したものである」


子供のときに貧乏を体験していた本多静六はこのブレンタノ博士の忠告をよく聞き入れ、四分の一天引き貯金を実行し、ブレンタノ博士の貨殖訓を実行して後に財を成したのである。本多静六の生き方は、彼が若い日に「森林経営学」を専攻したことによるものが多い。林業というのは、人間とは異なって、五十年百年の長期のスパンで計画を立て実行するものである。目的意識をはっきりと持つことと計画を立てることの重要性を説いている。


若き日に良き優れた師に出会い、学ぶことの重要さを本多静六という人物を紹介して青年たちに少しでも多く知ってもらうために、そして自戒の念を新たにするためにここに書き置いた次第である。

 

 

 

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小泉首相は英雄か

2005年10月01日 | 政治・経済

およそ英雄とか偉人と呼ばれる人は、彼と同じ時代を生きた人々の、民衆の求めているもの、欲しているものを、しかも、彼らが言葉に言い現せないものを、彼らに代わって言い表わし、また、それらを実行して実現すると言われる。

だとすれば、先の郵政総選挙で国民の圧倒的な支持を受けて自民党を勝利に導き、構造改革を進め、郵政民営化を実現しようとしている小泉首相は英雄なのではないだろうか。

小泉首相までの日本の内閣総理大臣は、率先して指導力を発揮しようとせず、官僚のお膳立てにのって、一部の階層や利益団体の利益を代弁するだけで、切実な民衆の声を、国民の声を聞き届ける耳を持たなかった。その一方で、野党も空念仏を唱えるばかりで、国民の付託にこたえようとする真摯さもなく、野党の地位に安住し、その無能力、無責任を恥じようともしなかった。

官僚や一部の族議員がその特権をほしいままにする中で、国民は高い道路通行料を支払わされ、今の世代だけでは到底払いきれない膨大な借金を子供たちに付け残すという国家財政の破綻を前にして、不幸な国民は、いったい誰に、どの指導者に自分たちの未来を託してよいのか途方に暮れていたのである。

そうした情況の中で小泉首相はそれまで誰も手をつけようとしなかった、「道路公団」や「郵政公社」の民営化という困難な課題に取り組もうとした。たしかに、これまでの首相職を担ってきた歴代の自民党の総裁の中では、誰一人、時代の声を聞き取る耳を持つものはいなかった。彼らに比べれば小泉首相は英雄としての要素を多く持っていると言える。

何ら為すすべを知らない、統治能力を失ったかのような政府や官僚たちに代わって、それまで永田町では変人と言われ、それまで権力の中枢を担ってきた田中角栄の派閥系統からは遠く位置して来た、群れない一匹狼のこの小泉首相に、自民党総裁選挙でようやく国民は希望を託そうとした。

 

しかし、小泉首相は党内の族議員や官僚たちの厚い壁に阻まれて、彼の構造改革路線は、道路公団や郵政公社の改革でも、妥協に妥協を重ねて来た。しかし、それでもなお、小泉首相の言ういわゆる「抵抗勢力」は、首相の妥協に満足せず、ついには、参議院で「民営化法案」を葬り去ることによって、小泉首相の政権さえ潰しにかかったのである。

 

さすがにここに至って、小泉首相は「抵抗勢力」との妥協を断念せざるを得なかった。この点で、先の郵政総選挙は首相にとっては受身の選挙であった。もし、小泉首相の改革の意志が強固で、妥協を許さないものであったなら、国民の民意を問う総選挙は、もっと早い段階で行われ、自民党ももっと早く分裂せざるを得なかっただろう。

 

要するに私の言いたいのは、小泉首相が英雄としての資格を持つためには、もっと改革の意志が強固で、より妥協なきものでなければならなかったのではないかということである。

とはいえ、これまでの首相の中で、小泉首相ほどはっきりと国民の声を聴こうとした首相はいなかった。民主主義がたとえ一国の国是になったとしても、国民の意志を、民意を実現しようとする指導者が、英雄がいなければ、それは、建築されない家屋の青写真に過ぎない。英雄をもち得ない国民ほど不幸なものはない。小泉首相はそのことも明かにしたのではないだろうか。

いずれにせよ、小泉首相についての歴史的な評価については、もちろん私のような一個人の賢しらしい判断ではなく、後世と歴史そのものが行うだろうが。

 

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