作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

3月10日(日)のTW:東京大空襲の戦争犯罪と陸軍記念日の回顧

2013年03月11日 | ツイツター

※以下の本書の読書メモノートはブログ「晴耕雨読」の方で行うことにします。


RT @encyklo: もし、1に無限に近づいてゆく左辺が右辺と異なるとすると、そこに穴が空いてしまい、連続性の仮定に反する。よって、実数の連続性を保持するためには、上記二通りの記述方法をともに等しいとして認める必要がある。


一晩でおよそ10万人が犠牲となった東京大空襲から68年。陸軍記念日を選んだ東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦を立案したのは戦略爆撃専門の軍人カーチス・ルメイである。【Reading:東京大空襲から68年 慰霊法要】 NHKニュース nhk.jp/N46Q5UTW


このカーチス・ルメイに戦後に航空自衛隊の創設に貢献したとして、日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。戦後の自民党政府や自衛隊の精神的腐敗の根源をここに見ることができる。【東京大空襲の記録映像 1945年】 youtu.be/nhUfpqsrBCg @youtubeさんから


大東亜戦争にもし日本が勝っていたら、トルーマン大統領やカーチス・ルメイが戦争犯罪者として逆にその責任を問われただろう。【: 日本焦土化作戦の立案者 カーチス・ルメイ】p.tl/wo3b


「梅の苗木を植える」「ふるさと創生」のために活動してゆくのもやり甲斐はあるかも知れない。さしあたっての実行はとにかく、そのための調査と研究は価値があ... blog.goo.ne.jp/askys/e/dd23c6…


久しぶりにブログ記事を作る。最近はツィッターでお茶を濁す場合が多くなっている。しかしやはり、ブログできっちりとした論考を展開出来るように修練してゆく重要性を痛感している。。2013年3月8日 - 作雨作晴「梅の苗木を植える」 p.tl/1l6J


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月10日(日)のTW:明治憲法の足許にも及ばない憲法論議

2013年03月11日 | ツイツター

久しぶりに数学に関連する軽い読み物を取りだして読み始める。以下、その簡単なメモをツィートしながら読んでゆくつもり。最近は本格的な読書をほとんど怠っているので、再開の切っ掛けにしてゆきたい。今日の日曜日は、久しぶりに室内で読書に耽りたい。今日一日でどこまで読めるかは分からない。


手許にある読む本は、吉田武 著『オイラーの贈り物』、この本には次のような副題が付いている。―――人類の至宝 Eiπ=ー1を学ぶ―――。パソコンで数式を打ち込むことはできないし、あらためて打ち込み方を学習するのも、時間がもったいないと思うので、ツィートするのは日本語のみになる。


この読書の目的は、最近はおろそかになりがちだった読書そのものの習慣を回復すること、と数学的な論理的にも厳密な読書を少しでも回復してゆけるかどうかという思惑からである。インターネットやツィッターで文章、テキストを読んでいると、とりとめもなく時間のみが経過して、その割りに確実な


認識の深まりということを実感できない。断片的に意識や思考を刺激はされるけれども、「認識」が深まったという「気持ち」や「印象」はもてない。できうるなら用語の定義法なども数学に学ぶことができればと思っている。それが最終的には憲法論や国家学の構築に役立てばという目的にはしているけれども


分を弁えないドンキホーテ愚か者の挑戦に終わらなければいいのだけれども。読書メモは途中で「夕暮れのフクロウ」や「晴耕雨読」のブログの方で行うことにするかも知れない。とくに、「夕暮れのフクロウ」の方では、我が国の国家形態として「立憲君主国家体制」の優越性を論証しようとしている。


安倍内閣になって、憲法改正問題などが世上の話題にもなりはじめているけれども、その議論も、憲法第99条の戦争放棄条項や自衛隊を国防軍に呼び変えると言った、どちらかと言えば枝葉末節の議論に流されてしまって、より本質的な論議、我が国の国家体制として、共産主義が相応しいのか―――


これは共産党やかっての社会党左派などが主張している立場ですが、また、それらは事実上、選挙結果などから見ても日本国民から拒否されていると言えるわけですが、しかし、共産主義やお隣の韓国やアメリカのような大統領制国家が我が国の国家体制としてふさわしいのかどうか、といった本質的な議論や


学術的な証明はほとんど行われていないと言えます。隣国共産主義中国の最近の経済的のみならず軍事的な台頭は、実際にも我が国の尖閣諸島の領海領空侵犯として軍事的な脅威として緊急の対策として、自衛隊法の改正なども、また、集団的自衛権などの憲法解釈上の課題も、もちろん、


ゆるがせに出来ない喫緊の課題ではありますが、かといって、国家体制の質の問題についての議論、本質的な考察がおろそかにされてよい訳はありません。大統領制国家、共産主義国家、立憲君主制国家など、歴史的に現実的に選択出来る国家体制は限られるとおもいますが、そうした問題


についてのインターネット上での議論はまだ貧弱で、その本質論、あるいは概念論的な論議は、事実上存在しないといえる状況であると思います。実際に提供されている新聞社や評論家、学者などから様々な憲法改正法案が提供されているいますが、とくに政党から提出されている改正草案を見ても、


かって明治期の大日本帝国憲法制定時に、伊藤博文や井上毅などが、憲法制定のために労した学術的な研鑽の質と量の足許にも及ばないのが今日の憲法改正論議の現況だと思います。とくに、法の本質としての自然法と実定法の概念の解明がほとんど行われていないことが、いずれにしても


憲法論議の致命的な欠陥になっていると思います。憲法の国民生活に与える決定的な重要性から言っても、国家の品格、国民の幸福一般に及ぼす憲法の深刻な影響から言っても、避けては通ることのできない必然的な課題が、国民に自覚されていない。数学関連の読書メモを採ってゆくつもりが、あらぬ方向に


流れてしまいました。ツィッターはあくまで「つぶやき」ですので、論証や事実証明は疎かになりがちです。そうした課題は、ブログなどの論考で実行してゆくしかないのでしょう。閑話休題、本題に戻ります。「数学は“言葉”である。したがって用いる用語のひとつ一つの意味が確実に、しかも唯一に


定義されないと、他者との“会話”は成り立たない。定義にしたがって有意義な結果を得たとき、これを定理といい、とくに簡単な式の形で表現できるとき、公式と呼ぶ。すなわち、数学において基礎となるもっとも重要なものは、定理(公式)ではなくて定義である。」(ibid s � )


「一般に受験の影響からか、数学を暗記科目として処理しようという傾向が強い。ここでは定義よりも公式を丸暗記することが最優先され、その結果、定理の成立条件も知らず、誤用する者も多い。」(ibid s � )


我が国と欧米との数学教科書についての筆者の見解「我が国の教科書の記述は、たといそれが初等的なものであっても、抽象的であり網羅的である。理路の骨格を示すことがその目的であり、数値を代入する具体的な計算などは講義で行うか、読者の演習という形に委ねられている。その結果、a


多くの“やさしい~”と書かれた教科書はむずかしい。難解である。あるいは全く理解出来ないことが高級である、と錯覚する非常に奇妙な国民性がこれらの状況を支えている。また“分厚い本は売れにくい”という商業上の理由から本の内容はさらに洗練され、初学者にとってより敷居の高いものになっている


一方、欧米の教科書は非常に具体的である。細かな式の計算や図を用いた繊細な説明があり、著者の教育にかける並々ならぬ意欲と力量が感じられる。彼らにとって、理解できないもの、あるいは説得力に欠けるものは、存在意義のないものである。よって、当然本は分厚くなる(千ページを超えるものも  c


珍しくない)。しかし、値段は驚くほど安い。(ibid s � )※一応読書ノートということで、筆者の文章をそのままメモっているけれども、読んでいて「粗雑な論考だな、思考が荒いな」という印象を持つことがある。この個所もそうだし「よって、当然」が、必ずしも、必然性の説明に


なっていない。数学者の文章を読む機会はそれほど多くはないのだけれども、昔に数学者の藤原正彦氏の「国家の品格」という流行した新書本を読んだときも、同じ印象を受けた。この人だけの事例で全てを推論することはできないけれど、数学者が日常的な問題で、必ずし論理的な思考ができているとは


限らないという、自明の事実を証明しているに過ぎないのでしょう。私自身の個人的な経験からも、厳密な論理的思考のトレーニングは、必ずしも数学者ではなく、むしろ、それを練習させることのできる「哲学者」について学ぶべきだということが言えるようです。おそらく本書の著者である吉田 武氏にも、


かの藤原正彦氏と同様に、そうした問題意識は無いようです。「数学者」の限界かも知れません。もちろん、個別的特殊的な事例をもって数学者一般に当てはめるわけには行きませんが。


「九九の計算に始まる数値の具体的な計算練習、一本の補助線が解決の糸口を与える初等幾何などは、我々の数学的な感覚を磨いてくれる。これらの素直な延長として、本書では、登場する全ての無理数の値を8桁の電卓を用いて求めた。また、代数方程式の根、三角関数の値なども実際に数値計算し、a


天下り的な記述を排除した。詳細な計算にともなうページ数の増加は恐れなかった。我が国にも、分の厚い、独習に耐えうる本がそろそろ必要ではないかと思う。(ibid s � )良い文章は、文末に向かって上から下へ一気に読め、上下に読み直したり後戻りが必要な文章は


悪文であると言われる。本書ではこの点を徹底的に追及し、式の重複を厭わず、全体を後戻りせずに読みきれるように、文章の流れをとくに重視した。このことにより生じる記述の冗長さも、初学者にとっては、かえって理解の助けとなると考え、理工書の“常識”である式番号をあえて省略した。 �


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする