作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

通天閣のキッチュな美

2008年04月06日 | Weblog

通天閣のキッチュな美  

pfaelzerweinさんがドイツから日本に一時帰国されて、大阪ミナミの通天閣あたりを回遊されている記事を読みました。そこに示されている海外滞在者の久しぶりの日本帰国で感じられた印象の記録に興味をもちました。

2008-04-06 エッフェルよりも通天閣
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080406

2008-04-04 ない、ありません!
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080404

2008-04-04  近代社会の主観と客観
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080404

2008-04-03  ハイ、そう思います!
http://blog.goo.ne.jp/pfaelzerwein/d/20080403

とくに、大阪ミナミにある通天閣が、キッチュかグロテスクその他何であるかはそれぞれの主観の評価によって分かれるところでしょうが、日本文化の現状に何らかの問題意識をもつ者にとってはおもしろいテーマでもありましたし、また、4日の記事「近代社会の主観と客観」の中では、「書店の店頭に学ぶ(並ぶ?)つまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えないが、ただの旅行者の観察に過ぎないだろうか?」とか「日本の空気の重さ」というような問題認識も示されておられました。


たしかに、新聞でもテレビでも、また市民権を得つつあるブログでも、さまざまなことが論じられてはいます。しかし問題であるのは、上は総理大臣から一般庶民にいたるまで、本当に重要な問題にはほおかむりして、当たり障りのないことでお茶を濁して時間を稼いで済ませるような文化です。私はこれを「臭いものに蓋文化」と呼ぼうと思っていますが。

これらの点について、以下のようなコメントを感想をとして氏のブログに送らせていただきました。日本文化の問題について興味をもたれる方もおられると思いますので記事にしました。

以下>>

pfaelzerweinさん、ミナミに行かれていたのですね。私も先日久しぶりにキタに出ました。大阪に行くのにドイツからも京都からも大して変わらない感覚のような気がしますね。とにかく便利になった時代で。

たいていの用事はキタで済んでしまいますから、ここで足止まりです。ミナミも懐かしいですが、堺の親戚に顔を出す以外はほとんどご無沙汰です。

それにしてもミナミは食い倒れで、ほかのどこよりも実際旨いものが揃っているはずでしたが、pfaelzerweinさんのお口に偶々あわなかった、というより、すでに「ドイツ舌」に変質されかかっていらっしゃるのではありませんか?次回は何とかおいしいお店に出くわされますように。

とは言え、当地でも確かに本物の味は失われてすでに久しいです。ドイツではブドウ農場にしても有機農法の現状などどうですか。畑で自前に作った大根などは本当に柔らかく出汁もよくしみておいしいです。

久しぶりのキタは何でもありの雰囲気で、時間があれば映画でも見たかったです。友人らと地下街を遊び回った若かりし頃が懐かしいですね。

pfaelzerweinさんの記事にあるような、通天閣に「キッチュな美」を見る感覚には、どこかすでに異邦人の視線を感じますね。どうですか?想像しますに外国帰りの方の眼からすれば、今の日本は文字通りの荘子の「混沌」のような生き物の感覚を受けないですか。

食事の不味さの理由を「日本の空気の重さ」に見られているようですが、本来ならドイツよりも日本の方が地理的には「空気」はより軽いはずです。pfaelzerweinさんがそう感じられるのは、やはり根本的には文化の問題でしょうね。とくに宗教などの問題が大きいと思います。日本の政治家の現状やその「仕事」なども、所詮彼らの「宗教」や「哲学」の帰結に過ぎないからです。

日本においては新興宗教、会社教、学校教、政治教などの「諸宗教」ともども含めて、それらの「宗教文化」は明朗軽快晴明なものではありえません。それらはいずれも国民に「自由」の何たるかを教えているものではないからです。

日本国は確かに名目的には民主主義国ですが、今回の中国人監督の映画「靖国」の上映を自主規制したことに見られるように、日本国民にはいまだ自由の何であるかが知られていないからだと思います。

本当の自由を知らない国民は、その生活も憲法もやはりどこか陰鬱にならざるを得ないのです。そのことは、日本より独裁制の強固な現在の胡 錦濤の中国や金正日の北朝鮮を見ればもっとはっきりわかるでしょう。この不自由な共産独裁の国の中国で、あの自由で晴明透徹なギリシャ発祥のオリンピックを開催しようとしているのですから。不似合いであることはわかるでしょう。そして、中国も日本も、その政治的な体制はとにかく、文化的な不自由な質は似たり寄ったりのものです。

だから、平安の昔から現代に至るまで、本当の自由を獲得できてはいない国民には、おそらく春の桜を見ても晴明透徹な自由の眼では、この花を眺められないのです。小野小町の花の歌は明るく透明でしたか?

pfaelzerweinさんのおっしゃるように、日本国民は明治の維新開国以来、古来よりの伝統文化の上に、それとはまったく異質な出自のヨーロッパ文明を接ぎ木せざるを得ないのです。そして、私たちはこの異質な文明の出会いからも、まだわずか一世紀か二世紀も経たないがゆえに、異質な両文明の混迷葛藤を避けることも出来ない時代に生きざるを得ない宿命にあるということです。

笑うべきか泣くべきか、大阪のユニークでキッチュな「美」を秘める通天閣はその象徴の一つだと思います。そこに現代日本人の悲喜劇も、また、逆にそれ故の面白さもあるのだと思います。

>>

追記4月7日

コメントをお送りしてからの感想。

こうした問題―――北京オリンピックや「自由」や「通天閣文化論」などの問題―――についても議論して、またせっかくpfaelzerweinさんの感じられた「書店の店頭に学ぶつまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えない」という問題認識などについても議論して内容も深めることが出来ればよかったと思うのですが、しかし、まあ、ブログ開設の目的や趣旨も人によってそれぞれであるでしょうから仕方はないと思います。

 

コメント (2)
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