作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

詩篇第三十二篇註解

2006年07月19日 | 宗教・文化

第三十二篇

ダビデの教訓詩。

幸せだ。その咎が取り去られ、その罪を許された者は。
幸せだ。主にその不義を数えられず、心に偽りを持たない者は。

私は沈黙を続けたが、私の骨は終日のうめきによってくたびれ果て、
昼も夜もあなたの御手は私に重くのしかかり、
私の喉も、夏の日照りに涸れ果てた。セラ。

私はあなたのみ前に私の罪を認め、咎を隠さなかった。
私は言った。主に背いたことを私は告白しよう。
すると、あなたは私の罪を赦された。セラ。
だから、神を敬う人はすべてあなたに向かって祈る。
あなたを探し出せる間に。

洪水のあふれるときも、その人には及ばない。
あなたは私の隠れ家。私を苦しみから守られる。
私はあなたに救われて歓びの声をあげた。セラ。

主は言われる。私はあなたに歩むべき道を教え諭し、
あなたを見守り導く。
あなたは馬やラバのように、愚かでかたくなになるな。
くつわと手綱であなたに近づかないように
それらは押さえつけなければならない。

悪しき者には悩みが多いが、
主に依り頼む者は愛に恵まれる。
だから歓び踊れ、正しい人よ。主によって喜べ。
心のまっすぐな人はすべて、歓びに叫べ。

 

詩篇第三十二篇註解

神に反抗したのに、その咎が取り去られ、神の戒めに背いて悪を犯したのに、その罪をとがめられず許された者は、幸いであるという。

神の愛は人間の罪を許し、人間の犯した罪を忘れ、彼の犯した罪がなかったようにみなす。それは、神が愛そのものに他ならないから。その姿はイエスの中に目の当たりに見られる。「娘よ。あなたの信仰があなたを癒した。安心して行きなさい。もう病み患うことはない」とイエスは言われた。(マルコ書5:34)

冒頭に「ダビデのマスキール」とある。「マスキール」の正確な意味はわからないらしい。だから、そのまま訳されずに使われている。第8節の冒頭の「スキルハー(目覚めさせる、悟らせる、賢くする)」と語形が似ていることから、教訓や黙想を目的とした詩ではないかと言われている。文語訳では「訓諭(をしへ)のうた」となっている。英語訳には「告白と許し」という標題が付けられている。


この詩篇のテーマは「幸福な者とは誰か」である。それについての教訓を与える。私たちが詩篇を読むとき、単に祈りとしてばかりではなく、その一つ一つの語句の意味について深く考え、黙想し、そこから智恵や教訓を学ぼうとする。聖書の言葉は神の智恵の結晶であるから。ただ、その智恵は奥深く隠され(ヨブ記11:6)、人間の思いとは異なっている(イザヤ書55:8)という。

確かに、それは幸福についての考えにもいえるかも知れない。ここでは「神の戒めに背いたのに許された者、犯した過失を覆い隠された者」が幸せであるという。同じ詩篇の第一篇では、「主の教えを愛し、悪人と共に歩まない者」が祝福された者(アシュレー)、幸せな人とされ、さらに新約聖書においては、「謙虚な人(心の貧しい人)」「柔和な人」「悲しむ人」「正義を切望する人」「憐れみのある人」「心の清い人」「平和のために働く人」「正義のために迫害される人」たちは幸せであると言う。(マタイ書五章、ルカ書六章など)

こうした幸福観は、現代の日本の世間に一般的な考え方と比較してみればまったく異なっているように思われる。とくにキリスト教の幸福観については、まるで不幸が幸福で、幸福が不幸だといっているようにさえみえる。

いずれにせよ、今ここでは詩人は明らかに、幸福ではない。主の戒律に背き、過失を犯してしまったからである。しかもそれを心に秘めて沈黙を守っていたとき、主のみ手が、彼の良心に昼も夜も重くのしかかって来る。骨まで古びるようなその苦痛に詩人はうめき、夏の日照りに会ったように喉も渇ききろうとしている。

そこで詩人は耐え切れず、自分の犯した罪を認め、自分の犯した悪行を主の前に隠さずに告白することを決心する。そして、詩人が「自分の過ちを包み隠さず主に告げよう」と言ったとき、主は彼の犯した不法の罪をすべて許してくださった。だから詩人は忠告して言う。主に忠実な人々はみな、主を見出しうる間に、許しを求めて祈るべきであると。

そのとき困難が洪水のように押し寄せても、その人には及ぶことがない。主は苦難から詩人を守る隠れ場であるから。そして何よりも主は、救いの喜びを与えてくださる。

こうして、詩人は主に救われる歓びを知った。そして主は彼に言われる。あなたを悟らせて、あなたが歩み進むべき道を教えよう。そして忠告して言われる。馬やラバのようになるな。それらは鞭や棍棒でなければ言うことをきかない。分別や悟りもない。また危険だからそれらに近づくことのないようにと。

悪を行う者には悩みが多い。しかし、主に信頼するものは、主の愛によって守られる。罪の許されることがどれほど幸せなことか。だから、主に救われた正しい人は主において歓び踊れ、心のまっすぐな人は歓びに叫べと。


 

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