「僕を呼ぶ声」
夕暮れ、蜩が鳴き始めた頃に
夕日は山影に沈み
その闇を深める山々は、もう来てはいけないよと
厳しい顔で、言い放つようだった
その山の神社で誰かが、鐘を鳴らした
一つ、二つと紫色の空が暫く
その余韻に波打ち震えていた
僕も昼間にはそこに出かけて
力任せに鐘をついていたのに
誰が一番かと、妹を連れて
勝てる勝負を楽しんでいたのに
もう直ぐ、魑魅魍魎の跋扈する闇につつまれる
古い容貌をした民家は、魔物たちが入っては来られない
護符の顔をして睨みを利かせている
だから家の中では妖怪図鑑を見ながら
軽口を叩く僕がいて
のっぺらぼうのページを眺めながら
目と鼻と口とが無いだけなんて
そんなに怖くないよねと
けれど、その2ページ先には
僕の一番恐れていた妖怪が潜んでいて
怖い物を知れば、人は臆病になり
夜に一人、外に出ることも怖くなる
その妖怪に会ったことを頭に浮かべると
怖くて体が縮こまるようだった
あやかしの世界にさらわれて、足を踏み入れたなら
深い森のようなところ、霧深く、泥濘だらけの足元
もう戻っては来られない気がして
布団の中に頭を突っ込んだ
けれど、魑魅魍魎よりも恐ろしいのは
人であることを僕が知るのは
もっと、後の後のことではあったが
ご先祖を、家に迎え入れて、もてなして
杉の木を燃やして、お見送りする
お酒を飲んで、楽しそうに、その人の話をする
あれは大人には、魔法の水だ
一時だけは、楽しみを膨らます
人は恐ろしい、けれど人は温かくもあって
そのお店に行くと、一年ぶりの夏休み
僕の成長を褒めてくれた
アイスクリームが美味しかった
都会で食べる味と変わらないはずなのに
僕のことを覚えていてくれたこと
それだけで、味は変わるものだと
もう、そのお店もなくなった
手島さん、だったと思う
アイスクリームケースに
手を入れた時の、ひんやりとした感じが忘れられない
一人では寂しい、妖に囚われそうになる
僕の名前を呼んで欲しい、僕も必死で
あなたの名前を呼んでいる
その声がこだましている、あの夕暮れる
蜩の山々の奥に、呼び合う声がいつしか
寂しさの色を深め、木霊して、妖になるのかも知れない
ばらせば、ただの、寂しさがあるだけの
その世界にはまだ足を踏み入れてはいけないと
蜩は忠告に鳴いていたのかも知れない
いつの間にか、僕は、その闇の中に足を踏み入れている
だから、良く分かる
僕のことを呼んでいて欲しい、叶わないならば
目をつむり思い出の中で、僕を呼ぶ声を探ってみるのだと
闇が濃くなれば濃くなるだけ、迷子になるだけ
僕を呼ぶ声が恋しい、その声をよすがに
闇の中を、手探りで歩く
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