浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

パレスチナの“ポチ”

2006-11-29 10:21:31 | Weblog
 ブッシュ大統領は29日、ヨルダンを訪れてイラクのマリキ首相と会談を行なう予定だ。

 本来ならイラクまで出かけて話し合いを持ちたいところだろうが、内戦状態のイラクではブッシュ大統領の生命の保証はない。そこで、イラクの隣国であり、親米国家で知られるヨルダンが選ばれたわけだ。

 ただ、ブッシュ大統領のヨルダン訪問の目的はそれだけに止まらないだろう。イスラエルとパレスチナの関係に口をはさみに来るはずだ。ライス国務長官を同行させるのはそのためである。

 イスラエルは今週になって突然、パレスチナ側に対して一方的に停戦提案をした。これは恐らく、ブッシュ大統領の訪問によって世界のメディアがこの地域に集まることを想定してのイメージ戦略と私はとる。

 現地情報では、ブッシュ氏はアッバース大統領とは会談せずに、ライス長官に西岸地区のジェリコ(エリコ)で会わせるのではとのことだが、アッバース氏は非公式にでもとブッシュ氏との会談を迫っている。

 アメリカ大好きのアッバース氏はブッシュ大統領ご一行様の到着を歓迎するためにヨルダン入りしている。

 そのアッバース氏、イスラエルの和平提案を歓迎する旨の発言を記者団に対して行なった。これは、明らかにブッシュ氏を意識しての発言だ。

 パレスチナでは、そんなアッバース氏を蔑む声が多い。これまで米国から受けてきた仕打ちを我慢してきたのは何のためだったのかというのだ。そんな表現はないが、日本で言えば、「ブッシュのポチ」的な言い方をされている。

 故アラファト氏の側近であったアッバース氏は長年の間、「追米外交」を行なってひどいしっぺ返しを喰らって苦しむアラファト氏の姿を見てきたはずだ。援助欲しさに現地になじまぬ政策を受け入れるよりも、独自の視点で生まれてくる政策を案出して実行して欲しいものだ。

認知症のドライヴァーが30万人

2006-11-28 23:50:13 | Weblog
 高齢者による運転事故が最近目立つ。中でも、認知症のドライヴァーによる高速道路における逆走など、深刻な社会問題になりつつある。

 認知症のドライヴァーに関しては、これまで大きな社会問題となっていなかったが、高齢化社会を反映してこのところ急増しているようだ。その数が30万人に達したとの情報もある。

 日本の法律では、たとえドライヴァーが認知症であろうと、運転免許を取り上げることはできないそうだ。だから、免許更新時にたとえそれが判明しても申請通り新しい免許が発給される。

 もちろん、ことは、認知症のドライヴァーの免許を取り上げて済むことではない。その弊害を考える必要がある。特に、過疎化した地方では、車なしでは生活できないから自治体の何らかの支援なくしては、生活が成り立たない。

 現実に、田舎では、車に乗れなくて、病院通いも出来ずに苦しむお年寄りが多いと聞く。都会であれば、ヴォランティアやNPOが高齢者支援をするが、過疎化した小さな町や村ではそのようなものは夢のまた夢。家に閉じこもったまま死期を待つ。

 そんな高齢化社会のひずみが見えるだけに、この痴呆症のドライヴァー対策は、複層的で抜本的な対策が必要だ。しかし、現実に深刻な問題が起こっている。一刻も早く法律面を含めた社会整備を急ぐ必要がある。

米朝間に動き

2006-11-28 01:06:48 | Weblog
 北朝鮮核問題をめぐる6カ国協議参加国の「つばぜり合い」が熾烈なものになっている。もちろんその輪の中心は中国だ。

 米首席代表のヒル国務次官補は本国と東アジア間を「シャトル外交」、精力的な動きを見せている。韓国、北朝鮮、そして日本の首席代表も北京入りして連日各国との公式・非公式の接触を行なっている。

 いよいよ、6カ国会議再開への動きが急だが、その一方、中国を仲介役とした米朝二国間会議の可能性までもが見え出した。

 そんな中、日本首席代表の佐々江賢一郎外務省アジア大洋州局長は、拉致問題解決を「最優先課題」と位置付け、核問題とともに解決を目指す姿勢を強調している。日中協議では、次回6カ国協議での拉致問題提起や北朝鮮に対する経済制裁の討議必要性について訴えたようだ。

 日本代表団の動きを見ていると、どこか「空気を読んでいない」ように思えてならない。確かに、拉致問題は重要だが、ハッキリ言って今討議を集中せねばらないのは核問題であろう。

若者三昧

2006-11-27 00:47:20 | Weblog
 週末は、「若者三昧」。

 土曜日は、都内で主宰する「メディア塾」の三期生が持つ勉強会に顔を出して、長時間を共に過した。

 この日の課題はパレスチナ。課題図書を読み、午前中はパレスチナ問題について意見交換をする場を設けていた。午後は、私を講師として呼んでの勉強会。午後1時半から5時まで、塾生たちからの質問が引きも切らずで、その後、近くのカフェに場所を移して「延長戦」。結局閉店時間まで質問が続いた。

 そこで私が塾生たちにテーマとして与えたのは、「歴史を複眼視」する見方を身に付けること。日本では、日本史と世界史と分けてしまったことで、日本と世界の動きを関連付ける作業がおざなりにされるようになった。それが、我々日本人に世界の歴史を「別物」と見させてしまう要因の一つと考える私は、若者たちに歴史を複眼視するよう導いている。

 26日は、先月、ある大学で行なった講演会の後、私に話しかけてきた大学生と都内で歓談した。

 彼は大学2年生。専攻は政治経済学部の経営だが、大学の中国人教員の影響で、ジャーナリズムに深い関心を持つようになったという。だから、アルバイトもある新聞社で編集補助の仕事をしているとのこと。

 講演会の会場入り口で私を待ち構えていた時から、最初に私に電話をかけてきた時、そして今日と、彼の身体全身からにじみ出てくる若者らしい緊張感が私にはたまらない。

 私も若かりし頃、こうして見も知らぬ先輩たちの「門」を叩き、鍛えてもらったからこういう出会いは大好きだし、出来うる限り機会を作るようにしている。彼が将来、ジャーナリズムの世界に入るかどうかは分からないが、どんな仕事を選んでも、私の前で見せる初々しさと輝きを持ち続けて欲しいと思う。

 

嬉しい報告

2006-11-25 10:10:46 | Weblog
 「○○高校に受かりました」

 授業を終えてジラーフ井上(註)の周りに集まる生徒の一人Aが、上気した表情で私の顔を見ると、恥ずかしそうにそう報告してくれた。

 第一志望の高校に入学だ。私は嬉しくなって手を差し伸べた。Aはさらに恥ずかしそうに、上目遣いに私を見て、一瞬だが目を潤ませた。

 そんな彼を見ながら、私は彼とのこれまでを思い出し、心を熱くした。生徒たちからの合格報告は、全て嬉しいが、この報告は格別だ。

 Aとは何年の付き合いになるだろうか。恐らく10年近くになるだろう。Aはこれまでに何度も難局に直面して壊れかけた。それは、級友たちからのいじめだけでなく、厳しい親に命令されてやらされる受験勉強で心身ともに疲れ切ったこともあった。

 英会話の授業を終えて、その後10時近くまで学習塾に通う生活に疲れ切った時期は相当長かった。学校の授業を終えた後、部活の練習をやり、そして夜遅くまでの塾通いだ。いつも眠そうで、精気が感じられなかった。見るに見かねて、私は英会話を含めて学校以外の勉強を全てしばらく休もうと何度も持ちかけた。しかし、彼は私の母親へのアプローチを好まなかった。「大丈夫ですから親に言わないで下さい」と繰り返した。

 そこで、彼をほめる接し方に徹した。「もう君は充分に頑張った。少し休もうぜ」と、彼の地道な努力を幾度もほめて骨休めを提案した。言葉の端々から彼がほとんどほめられることなく、それどころか尻を叩かれ続けて毎日を過しているように思えたからだ。

 私の勘違いもあったようだ。彼は涙を目にため言った。

 「僕はASEに来たいんです」

 私に突き放されたと思ったAは涙で抗議した。その言葉は嬉しかったが、私は、彼の心身両面にわたる健康が心配だった。

 そんな彼が変化を見せたのは半年位前のこと。週一回しか会わない私には、彼が何をきっかけに変わったのかつかみきれなかったが、明らかに良い方に変化した。それからも彼に「どうだい?」と声を掛けるようにはしていたが、笑顔で「大丈夫です」を返してきた。

 そして、今回の合格報告だ。私は嬉しくなって何度も握手した。

 その後しばらく雑談をしていると、
「合格で安心しちゃったから学校の試験が…」
 と言った。しかし、それも以前と違って余裕の表情だ。

 しかしながら、彼のその後の言葉を聞いて驚いた。

 「前に、体育が1だったんで、何とかしたかったんですけど、(合格で)気が緩んだから今回もだめかもしれません」
 と言うのだ。

 いくら相対評価とはいえ、彼のように真面目な生徒に体育で1が付けられることに驚いた。授業態度が悪かったりすれば話は別だが、彼は友達に聞いてもそういうタイプではない。運動能力は確かに高くないかもしれないが、小さい頃からやっているスポーツでは優秀な成績を収めている。教師は一体どこを見て評価をしているのかと怒りを感じた。

 教師の理不尽さに腹を立てる私を見ると、Aは嬉しそうな表情を見せた。彼の表情にはここでも余裕が感じられた。私はそこに彼のたくましく成長した姿を見た。

筆者註:ジラーフ井上は、私が経営する小さな英会話学校のマニジャー。身長185センチの長身で、自身を馬に例えるが、私は密かに「麒麟」を彼の姿に重ねている。彼の持つ人間性は、子供たちの心をとらえて離さない。だから、授業の前後には、近況報告をしたい生徒たちが彼の周りを囲む。

 

公立がダメなら私立があるさ

2006-11-24 11:28:30 | Weblog
私の視点「いじめを語る有名人賛江」の欄でもご覧になれるが、「ゴクゴクさん」という読者からこんなコメントが寄せられた。

「いじめを完全に絶やすことは難しいとは思います。でも、先日の福岡の事件をはじめ、学校や教育委員会がいじめの事実を隠蔽し、事なかれ主義の体質を貫いていることにはとても不快感を覚えます。自分が警戒するのはこのまま、このような体質を続けている限り、常識のある家庭(親)は、公立の学校に行かせる事をますます拒むようになるかもしれません。学校選択制が導入され、PTAをやる人がおらず地域が崩壊しているというマイナス面も起きていると聞きます。学校に行かせて子供を殺されるくらいならと初めから私立、もしくは塾だけで学校には出さず、給食費や学用品などの必要経費を払わない親も増えることに繋がりかねません。これから子供を産む人、未就学の子供たちのことも考えると事なかれ主義を貫くのはいかがなものかと首を傾げます。隠蔽を繰り返した結果をよく考えて欲しいものです」

 ゴクゴクさんの憂慮されることは、もっともだと思う。だから、これから書く事は、ゴクゴクさんのコメントを引いてはいるが、反論ではなく、その一部分から話を広げさせていただいただけであること先にお断りしておく。

 「公立がダメだから私立に」という風潮は、年々広く浸透している。親たちがそこに救いを求める気持ちも分からぬでもない。現実に、中には公立に行かずに私立に行って楽しい毎日を過す子供たちもいる。だが、あまり広く知られていないことだが、私の知る限り、私立学校の場合にもいじめは公立学校同様に存在するのだ。

 ところが、私立におけるいじめなどの問題は、ほとんど新聞紙上を賑わすことはない。だから、いつの間にか、世間では、「私立にはいじめなどの問題がほとんどない」と言われるようになった。

 それではなぜ私立では大きな問題にならないのか。それは、私立が企業だからだと私は考える。公的機関である公立学校に比べて私企業である私立学校では、様々な面で自由裁量が許される。まず、情報公開だが、これは、事件でも起きない限り明らかにされることはない。それと、「停学、落第、退学」という伝家の宝刀を持ち、それをちらつかせることで事件を未然に防ぐことができる。

 それでも思うようにならなければ、私立ではいじめが外部に漏れる前に、問題の生徒を排除してしまう。そう。「臭いものに蓋」をしてしまうのだ。そして、作られたイメージを前面に押し出して学校の評判を保っている。

 そんな私立学校に比べて、公立は教育委員会や保護者会のプレッシャーにもろに晒されなければならない。情報を隠蔽していると言われるが、私に言わせれば、私立に比べたら透明性はかなり高い。

 私の周りには、私立に行って“潰れた”若者が少なくない。私立から排除された子供たちは、地元の公立に入ったり、他の私立に引き取られるが、上手く受け入れられず、やがて入退学を繰り返して引きこもりになってしまう。これを私は「学校難民」と名付けている。

 最近の例では、ミッション系の私立小学校に通ったもののうまくいかず、地元の小学校に行き始めたが、これまた同級生たちから排除され、今度はインターナショナル小学校(と言っても、児童の大部分は日本人)に転校した。この時点で、私の助言がうるさく感じられるようになったようで、それからは疎遠になってしまった。

 結局、その男子は、風の便りではインターナショナル・スクールも退学し、海外に機会を求めて渡ったとのこと。でも、それもまたうまくいかず、今は埼玉ではない県に住んで、地元の学校に通っていると聞いた。

 もちろん、子供によっては、公立学校に向かない場合もある。おっとりとした競争原理を受け入れられない子供など、特にそうかもしれない。だから、私は、私立への通学を全て反対するつもりはない。だが、公立がダメだから私立に、という風潮だけはなんとか止めたいと思う。そのような空気が支配的になれば、地元の公立校はますますだめになり、その地域社会そのものがやがては機能不全を起こしていくことになる。

石原知事の公費無駄遣い

2006-11-23 12:40:35 | Weblog
 石原都知事の浪費振りが連日明らかにされている。その超豪華海外出張ぶりは、7年間で計2億4千万円というからけた外れだ。

 その金の使い途も、ホテルの一泊の宿泊に26万円使ったり、オートバイ・レイス観戦のためにヘリをチャーター。また視察のためにクルーザーを使っている。クルーザーのチャーターにいたっては何度も行なっている。

 “海の男”を自認する彼がクルーザーをチャーターするのは仕方がないが、であるのなら自費負担にすべきであったのではとの指摘もある。私はその指摘も間違いだと思う。公費に対して我々は寛容すぎるのではないか。税金の使い方はもっと皆が厳密に考えねばならない。もし、彼がクルーザーを私的な楽しみのために使うのであれば、その土地に行くまでの旅費までも自己負担すべき、しかも、その場合、公休を使って行くべきとまで考える。

 さらなることに、彼の4男までもが“おこぼれに預かり”公費でヨーロッパに出張している。彼の家族思いは有名だが、ここまでくると親ばかを通り越して醜い。

 それにしても、この事実を暴露しているのは、マスコミでもなく、民主党でもなく、共産党だということだが、マスコミの腰抜けぶりがここでも明らかにされた形だ。マスコミよ、しっかりしろと言いたい。普段の石原都知事の記者会見やぶら下がり会見を見れば分かるが、記者たちがおどおどしながら彼に質問している。本来の「ブンヤ魂」を発揮して石原独裁政治に引導を渡す位の記者が出てこないものかと願うのは、問題の根本的解決にはならないが、素直な感情だ。

 そして、都民にも苦言を呈したい。選挙の時に何も考えずに彼の名を投票用紙に書いてしまったことを今さら問題にしても仕方がないことだ。だが、自分達が選んだ都知事だ。しっかり皆で監視して、こういった不祥事を起こしたら怒りの拳を振り上げるべきではないか。昨日一昨日の報道を見る限りでは、都庁への苦情は200件程度だと言うが、電話一本くらいを入れて意見をきちんと言うのが大人としての社会的責任ではないだろうか。

 そんなことをしても何の影響力を持たないよ、と言う人が多い。だが、現実に、200本程度でもマスコミ報道されるのだ。これが、桁が一つでも二つでも上がれば、大騒動になることは「亀田騒動」を見れば明らかだ。さあ、明日になったらまず一番に電話をしましょう!

私の視点 いじめを語る軽薄な有名人賛江

2006-11-21 12:00:55 | Weblog
 今朝の朝日新聞で、演出家の宮本亜門氏が、先日このサイトで紹介した「イジメ自殺関連アピール」欄(第一面)に、『いじめている君へ』と題したメッセージを送っている。

 宮本氏は、小学生だった自分の“いじめ体験”を紹介しながら、「(いじめに加わるのは)嫌だって気持ち、かっこいい」といじめる側の子供たちに呼びかけている。

 子供への呼びかけを行なう場合、こういった攻撃する側へのアピールが忘れられがちだが、最も必要なものだ。だから、着眼点としては悪くない。だが、彼の体験談がいただけない。いじめの対象が「トノサマガエル」だという。

 まだ、これを子供たちがどう受け止めるか、聞く機会はないが、恐らくそんなことを言われていい気持ちはしないだろう。そして言うだろう。「この大人は、分かっていない」と。

 いじめを受ける側の心理を分かっていない有名人のアピールを、朝日新聞はなぜこのように連日掲載するのか。それは、先日も書いたように、このキャンペーンを担当する編集者達が、いじめの本質を分かっていないからではないだろうか。

 いじめは一部の頭でっかちの大人が作り上げるイメージとは、実態は違うのだ。それは、体験したものでなければ分からないことかもしれない。「そういうお前はそんな体験を持つのか」と言われそうだが、実は私もいじめられたことがある。

 私のいじめられた体験を言うと、「そんな古いことを」と言われそうだが、最近のコメンテイターたちの発言に、「昔はこんなことはなかった」というものが目立つので、それに反論する意味でも紹介しておきたい。

 それは小学校三年生の時に起きた。二年生の夏に引越しをしてきてしばらくするとガキ大将の仲間入りをした私は、近所では顔の知られた存在になった。ところが、それから半年も経たぬうちに肺浸潤になり、半年の入院生活。その後も毎日、午前中だけ授業を受けて帰宅、午後は自宅静養を強いられた。すると、周りの子供たちとの力関係も大きな変化が生じた。

 私は、ガキ大将の頃は、ある種ストイックなまでの正義感を持つ子供で、いじめをする子供たちをいさめていた。私に力がある時は、大人しく従っていた子供たちだが、私が病気になり弱くなったと知った途端、強く当たるようになってきたのだ。これなんぞは、サル山のボス達の繰り広げる騒動と大差はない。

 私の住む街には、「朝鮮人」があった。そこには同級生のKが住んでいた。家と近いこともあって、私はしばしば顔を出していた。私も貧乏教師の子せがれだ。だからその生活レヴェルは周囲に比べても決して高いものではなかった。

 だが、朝鮮人は、そんな私にとっても衝撃的なほど劣悪な住環境に置かれていた。に入っただけで、すえたような悪臭が鼻を突いてくる。子供たちの服装も、つぎはぎだらけだ。大人たちの中には、訳の分からない言葉(朝鮮語)を話す者もいる。だがどこか、異郷の地という雰囲気が漂い、私はそこで遊ぶのが好きだった。家に帰ると、母親に「異郷地体験」を話した。すると、新婚時代をピョンニャンで過した母親は、目を細めて私の話を聞いてくれた。

 ところが、それがいじめの対象になるのに時間はかからなかった。

 「くんちゃ、クセー。朝鮮の臭いがするぞ」
 「おまん、いつもチョーセンのとこ(所)行っとる。ホントはチョーセンだら?」
 「おかあちゃんが言っとったぞ。くんちゃのかあちゃんはチョーセンだ、って」

 私にかつていさめられた子供たちが、それまでの怨みを晴らさんとばかりに私を朝鮮人だといじめ始めた。最初は笑っていた私だが、その内一生懸命に自己弁護をするようになった。

 「僕の父ちゃんは、青年将校で朝鮮をやっつけた偉い人だったんだぞ。朝鮮人はみんな家来だったんだから」

 確かに私の父親は陸軍の将校で、以前住んでいた村では英雄であった。だが、彼は私が1歳の時に他界しており、その時私が移り住んでいた町では、父の姿を知るものはいない。ただ、噂で知った私の父親の情報が、人の口を幾つか経る内に、曲げられていったのだろう。大人たちの立ち話を聞いた子供たちには、「くんちゃの父親=チョーセン」という情報のみが残ったようだ。

 だが、いじめっ子達に対してそんな抗弁をしてはみたものの、私の中には深い後悔の念しか残らなかった。そして、自分にそんな見苦しい抗弁はしないと、子供心に誓った。抗弁をしない苦しさは、胸を締め付けた。苦しい毎日が続いた。その時、時を同じくして受けるようになった牛乳屋のオヤジからの性的虐待もあいまって、私の心は張り裂けんばかりであった。

 しかし、いじめは止まらなかった。確か音楽の授業だったと思うが、授業中に私の周りに座った幾人かの子供たちが、小声で「チョーセン、チョーセン、くんちゃはチョーセン」とからかった。

 私は訳が分からなくなった。そして、気が付いた時には、大声を上げて泣き崩れていた。驚いた教師の覗き込む顔で私は自分を取り戻した。音楽教師が私の大嫌いな担任ではなかったことも幸いしたのだろう。真剣に私のことを心配するその教師の表情と言葉は私を救った。

 それがきっかけであったかどうかは記憶にないが、その辺りから私に対するいじめが収まった。牛乳屋のオヤジからのセクハラはその後しばらく続いたが、それも自分で何とか克服できた。

 今思い返しても、とても辛い体験であった。死にたいとまでは思わなかったが、目の前が真っ暗になり、毎日虚脱感にさいなまれていた。だが、私はついていた。私には、ジャーナリストになりたいという夢があったからだ。それと、その後多くの素晴らしい友人や先輩、そして大人たちとの出会いがあったことも見逃せない。輝くような人生を歩む人との出会いが、その体験を逆に前向きに生かすようにしてくれた。また、自分自身をいつも「いじめられる側」に視点を置くよう意識するようにしてくれた。それが、戦争取材でも「爆弾を落とされる側」に常に立つよう意識させてくれているのかもしれない。

 だが、多くの子供たちにとって、いじめられた体験をプラスに転じさせるのは、家族の深く温かい愛情に包まれるか、その後、よほど素晴らしい人たちに出会ったり、感動的な経験を重ねない限り困難なことだ。

 いや、それよりも、いじめという暗闇から抜け出すのさえ困難だろう。這い上がろう、抜け出そうとしても、蟻地獄にはまるというか、底なし沼に足を取られるような状態が延々と続くのだから。だから有名人達よ、そしてマスコミの記者諸君。お願いだ。「訳知り顔」でこの問題を語ることだけは止めて欲しい。


ペットのいる(?)生活

2006-11-20 12:24:13 | Weblog
 昨夜は都内で上映会をしてきた直子を駅で待ち、近くで食事。残った(残した?)ハンバーグを手に雨の中を家に帰った。

 ハンバーグは、近所の柴犬「○○」のため。いつ通りかかっても鎖につながれ、寂しそうにしている○○は、近所の人たちの話では、ほとんど散歩に出されていないという。さらに、食事もまともに与えられてないとの噂で、ガリガリだ。そしていつも腹をすかしている。いけないと知りつつもそんな○○を見るに見かねて私たちは前を通りかかるときに食べ物を少しだけ与えている。

 だから○○には、我々の姿が胃袋に直結するようになってしまったようで、我々の顔を見るというよりも持った荷物に目がいく。そして、食べ物が欲しいとクンクンと鳴く。

 金網の狭い隙間を通して与えるので食べ物は小さく切らないと彼の口には届かない。昨夜はソースがたっぷりかかったハンバーグをちぎってやるから手がべとべとになってしまった。そのままべとべとの手をハンバーグを入れてきたビニール袋に包んだまま傘を握り、家に急いだ。

 雨の中家に近付くと、今度はジミー(お隣さんの飼い猫)がいた。トタン屋根の上にいて我々の姿を見ると、飛び降りてきた。抱き上げて可愛がると、異常なまでの甘え方だ。我が家は大家に動物を中に入れてはならないときつく言われているので、玄関先でお別れをしようとするが、しがみついて離れようとしない。

 そこで、ジミーを抱いて家のブロック塀に戻してくるが、すぐに私の後をついてきてしまう。二人でどうたものかと思案投げ首、ジミーの家の様子を伺った。

 ジミーは家と外は自由に行き来することを許されている猫(かつて捨て猫であったことから家の中だけでは収まりがつかない)だが、その日に限って台所の窓が閉められてしまっている。

 ジミーの家のインターフォンをピンポン。お母さんがすぐに出てきた。いつも変わらぬ快活で明るい声だ。事情を説明すると、あらま忘れて窓を閉めちゃったとベロこそ出さぬものの迂闊さを気楽に表現した。

 幸いなことに、ジミーは我々のことを気にすることなく、お母さんに甘えてしがみついた。愛情を独占したいのは山々だが、我々の猫ではない。こちらだけになつかれても困ってしまう。そうは言いつつも、何となく寂しさを感じるのも正直な気持ちだ。早く動物と一緒に生活できる空間に住みたいと痛感した。


 

若者たちとの交流

2006-11-19 08:25:34 | Weblog
 昨夜は、報道の世界に足を踏み入れたばかりの若い友人の来訪を受けた。

 彼とは、ある大学院で行なった講演を彼が企画する側にいたことがきっかけになり、付き合い始めた。卒業後、TVの世界に入ったが、今年になり、念願の報道番組に配属された。

 直子の手料理に舌鼓を打ち、楽しい会話が続いた。彼はとても礼儀正しく、快活な青年だが、食べ方も、「美味しい、美味しい」と、見ているこちらが気持ち良くなるような食べ方をする。ご飯粒の一つひとつ、おかずの切れ端まで丁寧に口に収めていった。

 私の、中には今では古くなった話にまで目を輝かせて聞いてくれる。話の一つひとつを自分なりに整理しながら、「報道の世界にいても今の気持ちを忘れないようにします」と、ありがたがってくれた。私は調子に乗ってしゃべり続けた。気が付くと、時計の針は「シンデレラ時間」を過ぎていた。「泊まっていけば?」と直子が水を向けたが、電車はまだありますから、と帰って行った。

 闇の向こうで手を振る彼の姿を見て、「今の気持ちを忘れんなよ」と心の中で声を掛けた。同じせりふを言っていた何人もの後輩が、年月を重ねると共にギョーカイに染まり、嫌な変わり方をしていったからだ。

 だが、もちろん、素晴らしい成長をしていい仕事をしている後輩もいる。だから、若者達との交流は止められないのだ。

N・Yからの便り

2006-11-18 09:31:11 | Weblog
 N・Yで現地法人の社長を務める友人から久し振りにメイルが入った。他人からは羨まれる立場の彼だが、案の定、多くの問題を抱えて大変のようだ。

 中でもスタッフの現地採用の難しさは想像以上のものらしい。

 「誰だ、こんな奴、よりによって採用したのは、というレベル」という社員でも中々クビを切れないとのこと。それは、クビの宣告の向こうには、相手方の訴訟が待っているからだ。

 彼によると、日系企業の裁判沙汰の8割が嫌がらせの提訴だとのこと。まあ、彼の地では、陪審員の心象で裁かれるからその恐さはある。

 面倒を嫌って、日系企業はこういう場合、水面下で処理、つまりは、和解という方法を取るらしい。だから、「差別だ!」と相手が騒ぐと、経営者は数千万円の和解金をまずは頭に思い浮かべなければならないらしい。

 彼の会社の場合、社長業といっても、2,3年で終えて帰国することになるから、「臭いもの」には「蓋」をしたまま後任に託すのが慣わしになっていたようで、彼が着任した時もそんなことが山積みになっていた。

 蓋を開けずに任期をまっとうできた筈だが、それが出来ないのが彼の性格だ。「地雷を踏んでしまった」と書いてきた。つまり、どうしようもない社員の首切りを断行したようだ。また、事務所の契約更新でも前任者がいい加減にしてきた部分に手をつけたという。そんな内容のメイルを見ながら、彼らしいなと思った。

 単身赴任で、セントラルパークに間近いところに住んでいるとのことで、いつでも遊びに来いと言ってくれる。久し振りに会いたくなった。

 彼の任期中にどうにかして時間を見つけ、邪魔したいものだ。

択捉島沖地震の続報

2006-11-17 23:55:49 | Weblog
 「択捉島沖地震の伝え方に異議あり」とする記事で、日本の報道機関の伝え方に疑義の声を上げたが、幸いにして北方領土においては目立った被害はなかった様だ。

 ロシアのタス通信(電子版)が伝えるところによると、15日に起きた地震は、その震源地が陸地からかなり離れた深海の海底であったため、大きな津波も揺れももたらさなかったようだ。

 地震発生直後、サハリン津波センターが津波警報を出したが、後になって取り消したのことだ。つまり、北方領土の領海では日本の沿岸よりも津波は目立たなかったらしい。タス通信によれば地震の規模を示す、マグニチュードも8.1から7.9に下げられている。

自殺の連鎖に見る無責任な呼びかけ

2006-11-17 12:22:07 | Weblog
 「あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。 あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、 とことん逃げ続けることです」

 「若い子が自分で命を絶ったら、あかんよ。今いじめられてる子に『頑張れっ 』て言うのも酷やけど、『人生、捨てたもんやない』って、きっと思える日が来 るから」

 「どうかあと一日、生き延びてみて。それだけです。絶望や痛みを抱えたまま、 もう一日だけ生きてみてください。一日生き延びれば出会える可能性をあなたは 持っているのです」

 ここのところの新聞には、有名人たちが「子供たちへのメッセージ」を書き連ねている。だが、子供たちがこういった呼びかけをどういう気持ちで読んでいるのか、新聞社の担当者は考えたことがあるだろうか、私には疑問に思えてならない。

 この種の呼びかけを読んだ子供たちの多くが、「心のこもった大人からの訴え」とは取っていないはずだ。少なくとも私の周りにいる子供たちは、「キレイ事を言うんじゃない」と引き気味だ。

 確かに、子供たちに「嫌なら学校に行かなくていいんだよ」「逃げることは恥ずかしいことではない」と呼びかけることは悪いことではない。と言うか、必要なメッセージの一つだ。だが、「もう少し、あと一日だけ、未知の明日を生きてみてください。誰かが、何かが必ず待っています」とどうして言えるのだろう。私には不思議で仕方がない。

 こんな“分かったような”大人たちの物言いが、硬く心を閉ざした子供たちの心の奥底に届くはずはない。子供たちは、これらの大人たちを敬うどころか、「キレイ事を並べる」と、まるで信用しないのだ。

 17日付の朝日新聞朝刊の一面で、「死なないで 逃げて逃げて」と題する鴻上尚史氏の呼びかけなどその際たるものだ。

 「自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう」と言うが、アピールしたことによる逆効果(いじめ側からのさらなる攻撃や教師の不適切な対処)が恐くて出来ない子が多いことを知らないのだろうか。

 「思い切って、『遺書』を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ぶらぶらして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです」とも書いている。

 これも、それだけのことをして帰宅した時、親から怒鳴りつけられたり、無視されたりしたらその子がどんな気持ちを持つか考えていない。

 鴻上氏はさらに、「親があなたを無視するなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです」と、親に無視された場合のことを書いているが、子供にとってそれをすることがどれだけ勇気が必要か考えているだろうか。ただでさえ、親に無視された辛さで子供は絶望の状態にあるのだ。それを克服するのでさえ大変なことなのに、何とか乗り越えて、学校(教師)に訴えたとしても、学校側がきちんとした対処が出来る保証などまるでないことは、今回の一連の不祥事で明白だ。そんなに無責任に学校に訴えろと呼びかける鴻上氏は、学校の回し者か、さもなくば、物事の本質を見抜けぬ御仁としか思えない。

 鴻上氏は、呼びかけ文の中で、一貫して、「この地球上にはどこかあなたたちの安住の地がある」と言い続け、最後に「それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。どうか、勇気を持って逃げてください」と言っている。

 こんな雲をつかむような話をされて、「人生の淵」で行く末を迷っている子供たちが、自殺を思いとどまるとでも考えているのだろうか。この文章を一面で、それも鴻上氏のカラーの顔写真付きで掲載した朝日新聞の品性が疑われる。こんな呼びかけ文を書く鴻上氏も、それを紙面で目立つ扱いをした朝日新聞も、これは、無礼を承知で言うが、子供たちを理解していない、と言う前に、子供たちに対して失礼だ。

 子供たち(大人も同様)がなぜ死を選ぶか。それは、一つに、自分の考えを死でもって周囲に分からせたいということがある。復讐に近い気持ちもあろう。だが、自殺の連鎖に関して言うと、自分が死ぬことによって社会が初めて自分を認知してくれると感じるからではないだろうか。人間なんて、どんなに強がりを言っていても弱いものだ。特に、誰からも相手にされず、社会的な認知をされていないと考えると選択肢は狭められ、自死が視野に入ってくる。その時、自殺がこれほどの社会的インパクトを持って見られるとなれば、追い詰められた者が引き込まれていったとしても不思議ではない。

 だから前から言っているように、報道関係者にはこの問題を慎重に扱って欲しいと強く要望するのだ。

 私は、誤解を避けるために最後に言うが、各紙が掲載する呼びかけを全面的に否定しているのではない。キャンペーンをやるのなら理想論を掲げるだけでなく、具体的に言論機関としてどのような社会参画が出来るかを示した上で呼びかけて欲しいのだ。鴻上氏の呼びかけ文を例に取ると、鴻上氏なり朝日新聞が、「死の淵」をさまよっている子供たちの受け皿(専門家を配した駆け込み避難所や相談所など)を作った上(又は緊急に創設)でメッセージを発信していれば、子供たちに与える印象はまるで違っただろう。

 正論を言ったり、正義を大上段から振りかぶるのであれば、それ相当の覚悟がないと、子供や若者の鋭い感性や視線に見抜かれますよ、朝日(鴻上氏)さん。 

「子供たちに愛国心を!」法案可決

2006-11-16 09:18:50 | Weblog
 「自殺の連鎖」「履修漏れ」「タウン・ミーティングのやらせ」

 教育界を揺るがす大きな問題の原因究明が充分になされないまま15日夕、衆院特別委員会は、教育基本法の改正案を野党議員の欠席する中、単独採決した。

 子供の心の内を、教育の持つ意味を、そして愛国心とはどのようなものかも分からぬ連中が、「教育基本法が出来て来年で60年だから古くなった。変える必要がある」「学校が荒れるのは徳育、愛国心教育を充分していないからだ」と法律を変えようとしている。

 よく言われることだが、子供は大人社会の鏡である。周りの子供たちをいじめたり、受験戦争に勝つために狡賢く立ち回るのは、周囲の大人たちが“手本”を示しているからだ。そんな本質も分からぬまま、教育の根幹に立ち入るのは、それこそ「聖域」に土足で踏み込むようなものだ。

 愛国心など、これもよく言われることだが、心の奥底からにじみ出てくるものだ。日の丸を崇めたり、君が代に声を張り上げることで国を愛する心が生まれるはずがない。愛国心は、家族を、周囲の人たちを、そして自分の住む街を、さらに他の国の人たちをいつくしむ気持ちがあって初めて生まれるものだ。それらの想いが充分に育まれないままに愛国心など芽生えるはずがない。逆に、それらの想いが身体全体からにじみ出てくる大人は、「愛国心」「徳育」など言葉にせずとも、充分理解していることを言動からうかがわせるものだ。

 今、「子供たちに愛国心を!」と、ヒステリックに声を張り上げている連中を見てみると、どうだろう?

 石原都知事は確かに家族愛にかけては、他を寄せ付けない異常とも思える高レヴェルを保持している。石原氏がまだ国会議員だった頃、弟の裕次郎を入院させるために自衛隊のヘリか輸送機だったか忘れたが、救急車代わりに使った話は有名だ。そして、安倍首相と共に、「美しい日本」の復活を訴えるのに、英語やドイツ語を随所にまじえていきまいている。外国語が苦手な人たちは、それだけで尊敬すると勘違いしているのかもしれないが、「『美しい日本』と言うのであれば、まず『美しい日本語』をお使いください」と提言したい。さらに、石原氏も安倍氏も頻繁に英語の単語を羅列するのに英会話能力はあまりないということだから、小学校から英会話を必修させる前に御自分が英会話を勉強しなさいと苦言を呈したい。

 また、保守系言論機関などで論陣を張っている評論家やジャーナリストで、人も羨むような家庭を築いたり、友人に囲まれている人を見た事がないのも、彼らの発言に説得力を感じない原因だろう。

 いずれにしても今やらねばならないのは、法律をいじったりすることではない。「原因究明を」という声もあるが、もう原因は誰の目にも明らかだ。文部科学省の役人と話していても、「君が代・日の丸の強制」「小学校の英語必修化」に無理があることなど、その辺りは充分理解している。彼らを無能呼ばわりする人もいるが、そんなことはない。教育に情熱を持ち、優れた考え方をしているものも少なくない。だから、政治家が一切口出しせずに、一度は好きなように役人にやらせてみたらどうかと思う。意外や意外、好結果を出す可能性は少なくない。

 しかし、考えてみれば彼らに頑張ってもらうのは当然のことではないか。我々が税金を出しているのは、その仕事をしてもらうためなのだから。

択捉島沖地震の伝え方に異議あり

2006-11-16 01:05:00 | Weblog
 15日午後8時過ぎ、千島列島でマグニトュード8.1の強い地震が起き、日本の気象庁は、最大2メートルの高さの津波が襲ってくる可能性があると警告、北海道や東北地方沿岸住民の避難を促した。

 それを受けて、TV各局は夜のニュースで特番を組んでいた。だが、その全ては、日本中心の報道で、それを見ている限り、極東に他の国が存在しないのかと勘違いしそうだ。

 昨夜の地震の規模は、阪神大震災や関東大震災を大きく上回り、その数字を聞くだけだと、大きな犠牲を覚悟する必要がある。だが、報道を見る限りにおいては、甚大な被害は見受けられないようだ。ただ、ここでも報道の仕方に問題を感じた。日本のTVを見ていると、震源地の近くにはまるで住民がいないかの印象を受ける。だが、北方4島にはロシア人住人がいるのだ。もしかしたら、多数の犠牲者が出ているかもしれない。

 気象庁やNHKの伝え方には、奥歯が挟まったような様子が伺える。千島列島が「北方領土」としての問題をはらんだ土地だけにどこか遠慮が見られるのだ。それは恐らく、政治家達への配慮から来ているのだろう。多くの保守系政治家は、「他人の土地に住んでいる連中の心配をする必要はない」と考えている。それを意識して、情報提供や報道をしているように思えてならない。

 こんな伝え方をしていたら、もし万が一、被災地でたくさんの人が救助を求めていたらどうするのか。地図をご覧になれば分かるように、ロシア政府が救助部隊を送るよりも日本が送り込むほうがはるかに時間的に早く実行できる。人命に関わることは、政治や宗教を超えて手を差し伸べなければならないということは誰もが異論がないはずなのに、実際はこのようにして差別されているのだ。

 もしかしたら被害は幸いにして少ないかもしれない。だが、無駄になってもいいから地震の規模を聞いたら、政府はすぐにでも国際救助隊に出動準備を命じて待機させておいて欲しかった。そして、相手国であるロシア政府に、出動態勢が整っていることを知らせておいて欲しかった。そういった姿勢こそが、世界中で助け合う空気をより強めることになる。そして、万が一、日本で起きた時、その動きが我々を救ってくれることにつながるのだ。