浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

麻生さん、もう少しお勉強を!

2006-01-31 00:31:16 | Weblog
 麻生外務大臣は28日、名古屋氏で開かれた公明党議員の会合で講演し、靖国神社参拝について触れ、「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」「英霊は天皇陛下のために万歳と言ったのであり、首相万歳と言った人はゼロだ。天皇陛下が参拝なさるのが一番だ」と述べたと伝えられ論議を呼んでいる。

 この麻生というお方、余程靖国がお好きなようで、昨年11月にも、米通信社のCS放送で、靖国神社の展示施設「遊就館」は「戦争を美化する感じではなく、(戦争)当時をありのままに伝えているだけ。当時はそうだったと事実を述べているに過ぎない」であると、とかく批判が寄せられる“資料館”を擁護する発言をしている。

 この麻生さん、どうやら昭和天皇と靖国神社との間にあった確執をご存じないようだ。昭和天皇は、靖国へのA級戦犯、特に東条英機の合祀を忌み嫌っており、1978(昭和53)年に神社内に緘口令を敷く形までとってA級戦犯合祀を強行したことから天皇がへそを曲げ、その後一度も靖国に顔を見せていないのだ。

 外交を任されている国会議員がこんなことを知らないはずはないであろう。どのような意図で靖国問題に天皇を担ぎ出そうとしたかは分からぬが、天皇家はそうでなくても「雅子問題」で参っているところだ。これ以上、複雑な問題に関わりたくないというのが本音だろう。

 いずれにしても、政治家がこのような形であっても皇室を利用することには監視の目を緩めてはならない。これまで、歴史を紐解くと分かることだが、天皇を利用して戦争への道に国を導いた政治家は五万といる。麻生大臣の発言の真意はそこまで意図したものでないかもしれないが、我々市民は気をつけるに越したことはない。

英会話学校の倒産で泣き寝入り?

2006-01-30 00:24:39 | Weblog
 東京や大阪、札幌に全国展開する、英会話学校「NCB英会話教習所」が26日、みずからのホウム・ペイジ(HP)上で、事実上の倒産に追いやられていることを明らかにした。

 この学校は、私が10数年前、東京の英会話学校のランク付けをしようと訪問した学校の一つで、その時の評価は「やや上」。私の記憶でもそんなに悪い印象はなかった。創立が1980年と、この業界では「老舗」に分類される学校で、安定した経営をしていると思っていたのだが、内情は苦しかったのだろう。閉鎖に追い込まれた。ただ、気になるのは、そのつぶれ方だ。教育業界なのだから、せめて生徒に金銭的な裏切り行為だけはしないで欲しいのだが、閉校の仕方がこれまで倒産してきた英会話学校と大差はなく、これでまた英会話学校のイメッジ(image)が悪くなるのではないかと心配だ。

 伝えられるところによると、多くの生徒が1年半とか2年分の授業料を前払い、又はクレディット払いにしているので、中には100万円近くを払い込んでいる生徒もいたということで、ここ数日は、新宿本校などの前には心配顔の生徒が集まり、「被害者の会」の結成を呼びかける動きも出ている。

 私はこれまでこのブログで皆さんに何度か注意を呼びかけているが、英会話学校に通うのであったら、「安くつくから」という学校側の勧誘に乗らないことだ。広告を派手にやっている学校を例に取ると、1レッスンが2,000円程度、月々の授業料が6,7000円と広告に書いていても、様々なカラクリで結局は「ババをつかまされる」ことになる仕組みだ(安さを売りにする学校は、授業料の後に必ず「から」を入れているのが特徴だ)。後は、広告では月謝制を謳っていながら実質的には年単位で授業料をとる学校もあるから気を付けていただきたい。

 安さに飛びつく前に考えてみよう。第一、駅前にお洒落なビルを広く借りて、収入の2,3割を広告宣伝費に使い、スタッフも沢山雇っているのに、授業料が月額6、7000円で学校経営が成り立つはずがないのだ。その辺りを冷静に考えて学校選びをされることをお勧めする。間違っても多額のローンを組んではならない。
 

身障者に冷たすぎる日本社会

2006-01-29 10:15:40 | Weblog
 世の中腹の立つことは多いが、ビジネスホテルチェーン「東横イン」の社長の開き直った記者会見ほど腹の立つものは珍しい。

 「身障者の利用は念に1,2回で効率が悪い」「身障者用の部屋は、一般客には使い勝手が悪い」などと抜けぬけと薄笑いを浮かべながら話す西田という男の顔には誠実さのかけらもうかがえない。見ていて胸くそ悪くなるとは、正にこのことを言うのだ。

 こんな奴らがいるからいつまでたっても身障者が堂々と生活ができる社会にならないのだ。だが、よく考えると、あの男の薄ら笑いは日本の身障者に対する差別意識を代表していると言えるかも知れない。

 昨年、足を折って松葉杖生活になった時、このブログで再三再四、身障者に対する周辺の人たちの無関心、冷たさを書いたが、先日もJR駅構内で白い杖をついている女性が逆方向から来る利用客に体当たりされ悲鳴を上げたのを聞いた。彼女はそれが日常茶飯事なのだろう。すぐに体勢を立て直すと、今度は杖を大きく振って地面に叩きつけながらすごいスピードで前進していった。そのところだけを見れば、彼女の乱暴な杖使いを責める人もいるだろうが、彼女が積年の恨みをその杖に込めて健常者たちに訴えていたことは明らかである。それを見ていて私はそのストレスたるやいかほどのことかと心が痛んだ。たまらずに彼女を追いかけ、電車が到着して家路を急いで階段を駆け上がってくる集団に、「目の不自由な人がいますから注意してください」と大声を張り上げた。

 話を戻すが、それにしても発覚後に行なわれた記者会見で、記者達はなぜあんなに大人しく西田に“独演会”をさせたのか私には理解できない。もしかしたら、TVで放映された部分だけかもしれないが、記者からの厳しい質問は一切聞かれなかった。もし、記者会見全体がそうであったとすれば、やはりこの辺りにも日本社会の弱者への偏見が反映されているのかもしれない。

 「交通バリアフリー法」なるものがあるが、昨年12月末現在で197市町村が「基本構想を受理」したに止まっている。最近の市町村合併で全国の市町村の数は減り続け、今では3,000を切っているが、その1割にも満たない数字だ。しかも、基本構想を受理したといっても必ずしもきちんと条例化してそれを実行しているということではない。

 さらに驚いたのは、先程、この法律のことを調べようとインターネットで国土交通省都市・地域整備局まちづくり推進課が管理するこの法律のホウム・ペイジ(http://www.mlit.go.jp/crd/city/bf/)をのぞいてみると、項目の半分以上が開けない。この辺りに役人のこの法律に対する“意気込み”が感じられると言ったら洒落がきつすぎるだろうか。

引っ越しパーティ

2006-01-29 08:53:04 | Weblog
 昨夜は都内某所で「House Warming Party(引っ越しパーティ)」。主催者は、日本人女性Yさんと米国人男性Sさんの夫婦。YさんがかつてあるNGO職員であったことから私のパートナーが知己を得たのだが、お祝いに駆けつけた人たちの数の多さもさることながら、それぞれがとても個性的な人たちで、私などは世代的には“孤立”してしまいかねない立場であったが、とても楽しい一夜を過ごさせてもらった。

 引っ越しと言っても、新築で、二人の思いがこめられたステキなお宅であった。パーティも米国スタイルで、集まり方も三々五々ドアフォンが押されて、笑顔と共に友人・知人が訪問してくる。その数も、50人は超えていたように思われる。

 こういう席では、日本人、特に我々のような世代は社交下手で、中々打ち解けないが、ここに集まった若者達は、積極的に目が合えば話しかけてくるし、話しかければ笑顔で応えてくれる。こういう若者がもっと増えれば日本社会も暮らしやすくなるのにな、と自分の世代に見切りをつけかかっている私は、無責任にそう思った。

 料理もメキシコ、パレスチナ、インドネシアと、国際色豊かで、味も中々の出来栄え。パレスチナ料理は、パレスチナに2年間住んでいた女性Mさんが作ってくれたのだが、それを口にしただけで、パレスチナのことが思い出され、ただひと言、カンゲキ!

 いい出会いがいくつもあった。その中から2人(というか、1人と1組)を紹介すると、1人は、かつて政府系国際協力組織のスタッフであった男性Iさんだ。在職中にコウチング(coaching:コウチが相談者の本来持っている機能を発揮して目標を達成するよう導いていく)に出会い、退職してその道を究めた経歴を持つ。同僚であった妻をIさんが主夫になって支え、コウチの資格を取ったそうだ。それも、生活の場がトルコであったというから面白い。そんな体験が言わせるのだろう。自分の紹介に「男性でありながら女性の感性を持つコーチ」と書いている。

 Gさん夫妻との出会いは、ひょんなことからであった。妻は寒がりのようで、暖房機の前にしがみついていたので、隣り合わせた私の方から半分茶化すような形で話しかけた(室内温度は人いきれもあり結構高かったように感じられた)のだ。彼女と話す内、夫がロボットを研究するイタリア人と分かり、その話の内容に惹かれた。やがて、夫のMが近くに来たので話の輪に入ってもらい、その話は当然のことながら、さらに広がり深みを増した。

 私が特に興味を持ったのは、彼の研究の中に、災害救助ロボットが含まれていたからだ。災害救助は、読者の中にはご存知の方もおられようが、私が特に力を入れている分野でもあるので話の一つ一つがとても面白く、そして即刻研究室にお邪魔させていただく許可をもらった。彼から聞いた話は、Confidential(マル秘)なものも当然含まれているので、全てを明かすわけにはいかないが、その内「訪問記」を皆さんにも読んでいただけると思う。

 10時になってもまだまだ多くの方たちが談笑していたし、美味しそうなデザートも目の端に入ったが、残念ながら次の約束があったので後ろ髪を引かれながらお別れの挨拶をすることになった。家の外は、寒風が体の芯まで冷やすほどであったが、出会った人たちとの会話を思い出しながら歩く私は、温かい気持ちでホカホカしていた。

 
 

 

お受験の影で

2006-01-28 11:51:44 | Weblog
 一昨晩のこと、中学3年生の男子が一時行方不明になった。その夜は私の処に来る予定であったが、私の仕事場に電話をしてきて、スタッフに「殴られて左目が見えなくなったからそちらに行けない」とだけ言い残して電話を切ったとのことであった。

 心配になって自宅に電話をすると、「そちらに行っているのでは?」と母親が驚きの声。何でも、暴行沙汰は校内で起きたようで、担任からも連絡が入っており、大事に至らなかったと高をくくっていたとのこと。

 何か背後に事情があると考えた私は、母親には、すぐに携帯で彼を呼び出さないで欲しい、私から電話があったことも黙っていて欲しい、また帰ってきたら質問攻めにしないでいただきたいとお願いした。

 生徒の携帯を鳴らしたが、応答はなかった。いつもならすぐ出るので、恐らく気まずくて出られないだろうと判断、彼の気持ちがほぐれるようにと考えた内容の伝言を残した。

 しばらくすると、彼から連絡が来た。彼の居場所は、ゲーセン(ゲイム・センター)辺りかと思っていたのだが、近くの公園であった。ゲーセンと邪推していた自分を恥じた。奴を信用していないからそんな発想になるのだ。この寒い冬の夜というのに、どうしていいか分からずにひとり公園で寂しくしていた彼がいとおしくなった。

 「今家は弟の受験(中学)でピリピリしているんですよ。今日も一番の志望校の発表だったんですが、不合格だったんで、母親が…。そんな日に喧嘩したから帰れなくって」

 私は、彼が私のところに来られなかった理由をあえて聞かなかった。恐らく、腫れた顔を顔見知り、特に同年代の子に見られたくなかったのだろう。

 「左目が見えないんですよ。僕どうしたらいいんだろう?」
 彼は、寒さと辛さから声を震わせて私に訴えた。

 「全て僕に任せなさい。僕からご両親にこれから電話をする。もし、ご両親が僕の言うことに納得しないようであれば、家に駆けつけてやるから心配しなさんな。だから、もう家に帰ろう。どうだ、帰れるか?帰れないようなら一緒に帰ってやるよ」

 晩御飯を目の前にしての会話であったが、非常時だ。彼が帰れないとなれば、同行してやるしかない。だが、彼は元気を取り戻したようで、「よろしくお願いします。今から帰ります。でも、僕、本当に左目が見えないんです。うちの親は、明日は目医者に行かずに学校に行けと言うと思います」と言った。

 それに対しても、母親に朝一番で目の検査に連れて行くように言うからと約束した。

 息子が夜遅く公園でひとり時間潰しをしていたことがショックだったのだろう。電話をかけると、母親は「どうでした?」と焦った声で聞いてきた。

 両親には長男である彼がここのところどんな辛い思いをしてきたかを話し、帰ってきても絶対に今日の出来事を責めない事、明日は一番で目医者に行かす事を約束してもらった。

 それと、気になった点を一つ加えさせてもらった。それは、志望校の試験に不合格であった弟に対する気の遣い方であった。こういった受験に挑んで希望通りの結果が出なかった時、とかく親は本人の目の前で、入学する学校が滑り止めであったことを強調するあまり、「こんなところしか受からなかった」「学校の名前?ちょっと…」と言いがちである。これは、子供の立場からすると、耐えられない屈辱であり苦痛だ。これがきっかけで目標を見失い、最悪の場合、不登校にまで至ることがある。

 「たとえそれが滑り止めであっても、それまでやった努力をほめてやってくださいね」

 余計なお節介と知りつつ、そう言わないではいられなかった。私の頭の隅に同じような経験をして暗闇に迷い込んだ子達の顔が何人も浮かんだからだ。

 翌日、母親から明るい声で、検査の結果が知らされた。

 

 

センター試験のIC機器は使い捨て

2006-01-27 00:38:37 | Weblog
 今年の大学入試センター試験に「リスニング」が取り入れられ、それに使われたICプレイヤーを入手した。
 これは、受験者一人一人に支給されたものである。右上にあるのが試験問題を記憶させたメモリー・カードだ。そして、本体の左にある黒いものがお分かりになるであろう、イヤフォンである。
 これを私がどうして入手したかといえば、受験生の一人から譲り受けたからだ。つまり、これは受験生が持ち帰ることができる「使い捨て」機器なのだ。
 ということは、と受験料を調べてみた。ははあ、案の定、そういうことだったのかと膝を打った。今回の受験料というか、検定料は2000円値上がりしているではないか。
 情報をまとめてみると、リスニング・テストを行なう場合、会場に設置されたオーディオだったりすると、受験生の座った場所によって不公平になることがあるため、個人用機器を使うことになった。しかし、1台どう安く見積もっても2~3,000円するものだ。そこで、その費用の多くは、受験生に負担してもらうことにした。
 まあ、ここまでは全て納得がいくわけではないが、良しとしよう。問題はここから先だ。
 だとしても、なぜ使い捨てなのかが分からない。恐らく、役人独特の「公平第一主義」から出てきた発想だと思うが、あまりに貧困な発想だ。10数億円というカネの無駄遣いもさることながら、使われた機器ももったいないではないか。教育の現場で「モノの大切さ」を教えながら、実態がこんなにお粗末では、子供たちは「大人達の嘘っぽさ」をここでも見抜くであろう。




私の視点 ホリエモン騒動の根っこを考える

2006-01-26 02:35:10 | Weblog
 ライブドアに検察の手が入り、堀江貴文氏が逮捕された、ホリエモン騒動。まあ、なんともマスコミ、政財界から「新橋駅前のサラリーマン」までもがホリエモン叩きで凄まじい。日本人の「イジメ体質」が垣間見えるどころか、もろ丸見えである。ここは、「そうだ、そうだ」と同調しないと、こちらまでもがいじめられそうな空気さえある。
 
 (私の常套文句だが)だがしかし、私は敢えてそんな風潮に釘を刺したい。口を揃えて彼を悪く言う人(組織)たちに言いたい。「アンタ、本心ではないものの、ホンの先週までは彼を『時代の寵児』ともてはやしていたんではないの」と。

 それが、あのような「国策捜査」としか表現の仕様のない、大掛かりな検察の家宅捜査をTV画面で何度も見せ付けられたからだろう。手のひらを返すかのように、一斉にホリエモン叩きに加わっている。そういう付和雷同の行為を昔から「尻馬に乗る」というのだ。

 ここで一度冷静になって、「ホリエモン」とは一体何であったのか。その実像に迫ってみたい。ここで言うホリエモンとは、堀江貴文氏個人を指す事はもちろん、その彼の言動によって作り出された情(状)況までをも含めている。

 堀江氏が一昨年、プロ野球球団経営参画に手を上げたり、昨年、ニッポン放送の買収に動いた時、多くの若者達は彼の生き様を賞賛した。中には彼を英雄と持ち上げる者もいた。だがこの時、“隠れファン”がいたことはあまり知られていない。50代、しかも50半ばから後半にかけての団塊世代が、アンケートに堀江氏を応援する回答をしていたのだ。その中の一人が何を隠そう私であった。別にアンケートに答えたわけではないが、彼がニッポン放送株を大量取得して問題になった昨年3月、ホンの一瞬であったが、彼を見込みがある若者と勘違いしたのだ。その辺りのいきさつは、本ブログの4月2日に「ホリエモンとマスコミ改革」、そして同月19日に「なんだよ、ホリエモン」と題して発表したものをお読みいただきたい。

 TVのキャスターや解説者の一部はアンケートを取り上げ、意外な数字とコメントした。だが、それは、団塊の世代なるものの実態を知らない発言であった。この団塊の世代はホリエモンの隠れファンというだけでなく、実はホリエモンの生みの親なのだ。

 意外な展開に眉にツバをしたり、身を乗り出したりと、皆さんの反応はいろいろだと思うが、ここで「私の視点」を展開する前に、団塊の世代の実態を知っていただく必要があると考え、47年生まれである筆者が、自分が共に歩いてきた世代の実態を、私なりの見方で解説させていただく。

 敗戦後、戦地から故郷に戻った男衆は、軍服を脱ぎ捨て女房の、また恋人の上にまたがった。そしてこの世に誕生したのが、ベイビー・ブーマーと言われた、団塊の世代だ。

 その数の多さは他の世代に比べ群を抜き、私は団塊の世代でも一番数の多い47年生まれだが、クラスの生徒の数は小学校の時から55~60名で、しかも一学年に10クラス以上ある学校も珍しくなかった。ちなみに私の小学校6年生の時の教室は、体育館の片隅を間仕切りで囲ったものだった。
 
 両親が結ばれた時の勢いをそのままに受けて、団塊の世代はとにかく生命力が強かった。「受験戦争」なる言葉が生まれる一方で、そこからはじかれた子供たちは、他校との「戦争」に明け暮れた。けんか用に自転車のチェーンやナイフを持ち歩くものが多く、「番長ブーム」が全国で吹き荒れ、私の中学校の卒業式でも、警察官がズラリと警備に並んだ。

 大学に入ると、そんな我々が、学生運動に大挙して関わった。「大学闘争」の火がつき始めていたところへ勢いのいい新入生が参入したから学生運動は一気に盛り上がり、大学の多くは学生の手でロックアウト。授業がほとんど行なわれない日々が続いた。抗議行動、つまりはデモに参加しない学生は、「日和見」と言われ、蔑まれる。そんな異様な空気がキャンパスを支配していた。

 投石を繰り返したり、ゲバ棒と呼ばれる角材を振り回して社会が変えられるはずがなかった。やがて、行き詰まりを見せた学生運動は、失速していく。その内、一部の学生は、派閥抗争に明け暮れるようになった。当然の結末であったが、死者が何人も出るようになり、警察権力の介入を許すことになった。

 闘争に疲れた学生達の多くは、ヘルメットを脱ぎ捨て、長髪を七三分けにして背広に身を包んで就職試験に臨んだ。そうして入社した若者達は、企業戦士の道をまい進することになる。機動隊とのぶつかり合いで鍛えた体力と気力は、他の世代から一目も二目も置かれるようになった。そして、「天下を取る」のにさして時間も努力も要らなかった。

 今の日本の経済繁栄の多くが団塊の世代の猛烈な働きによるものであることは、誰もが認めることだ。団塊の世代から5,6年遅れてこの世に生を授かった50代前半の人たちにとって、団塊の世代ほど「重い」ものはなかったようで、最近のTVニュース番組「報道ステーション」でも、その世代に当たる古館キャスターと解説者が「スゴイ世代だった」というニュアンスの発言をしていた。しかし、その一方で、競争原理を社会の多くのシステムに持ち込み、「心」の通いにくい社会を作ってしまったことへの責任も問われている。

 団塊の世代は、わが国を「世界有数の経済大国」に仕立て上げた自信を家庭に持ち込み、夫婦関係や子供の教育に自分の価値観を押し付けた。かつては、受験戦争を全否定して教育改革を叫んだはずなのに、いざ自分が親になると、自分達が経験した「受験戦争」を意味のあるものとして、塾通いを当然のものと子供たちに強要した。また、受験戦争の“戦場”となる学習塾を企業化して全国津々浦々にまで浸透させたのもこれまた団塊の世代であった。塾通いは、それまでの「中学校に入ってから」から「小学生でも遅すぎる」に過熱した。

 第二次団塊世代(71年から74年生まれが中心)と言われる20代後半から30代半ばまでの世代はこうして生まれた。長年の受験戦争で疲れ切ったこの世代は、自己防衛本能からやる気を見せない術を身に着けた。すると親達は、彼らを「指示待ち世代」と切り捨てた。そんな親や世間の冷たい視線に耐え切れず、引きこもりになる者も多く、登校拒否(後に不登校と表現が変えられた)が急増し、社会問題になったのもこの世代だ。この人たちは総じて「負け犬」に分類された。

 一方、そんな劣悪な環境を生き延び、ビジネスチャンスをものにした者達には「勝ち組」の称号が与えれられた。勝ち組の代表が、ほんの数日前までは、ホリエモンこと堀江貴文氏であった。堀江氏は72年生まれで、現在、33歳。「第二次ベビー・ブーム」の中心だ。

 勝ち組といっても、それまで世に謳われてきた成功者とは趣が異なる者が少なくなかった。その実態は、矛盾と欺瞞に満ちた、ゆがんだ価値観がまん延する世の中で誕生してきた耐性変種であった。言葉を変えれば、ゴジラやフランケンシュタインと同類である。

 堀江氏は、「法律で禁止されていなければ何をしても良い」「人の心もカネで買える」といった過激な表現で、守旧派を刺激し続けた。頑迷な守旧派はある時は人情で、またある時は常識やルールでそれに対抗したが、耐性変種にそのようなものが通じるはずもなく、法の盲点や制度の不備を巧みにつく堀江氏の「ゲリラ戦法」にたじたじの場面が続いた。

 そして、彼にツキが回り、ニッポン放送の買収騒ぎでも1000億円以上を稼ぎ出した。衆院選こそ落選の憂き目に遭ったものの、ビジネスは打つ手打つ手が当たり順風満帆、新年会では「3年後には世界を取るぞ」と社員に豪語していたという。だが、彼の言動を精査すれば、彼がいかに支離滅裂な人間であるか分かったはずなのに、時代の流れは、「ホリエモンにかけてみようよ」という空気が強まり、彼の人間性の評価やこれまでのやり方については不問にされるようになり、人気はうなぎのぼりに上昇した。

 そんな勢いに、ある時期まではホリエモンのやり方に懐疑的な目を向けていたマスコミも事実上の白旗を揚げ、時代に乗り遅れまいと、このところホリエモンを持ち上げるようになっていた。昨年末からテレビでも活字メディアでもホリエモンという言葉を目に耳にしない日はないと言っていいほど、ホリエモンで浮かれまくっていた。ホリエモン効果もあって急上昇に転じた株価を見て、マスコミは「今こそこの流れに乗るべき」という感じの取り上げ方をしてさらに市民を煽り立てた。主婦や若い女性までもが株式市場に参入するようになり、ネット取引の利便性も手伝い、兜町は10数年前のバブル景気を髣髴とさせる賑わいを見せていた。

 ホリエモン人気に乗り遅れまい、利用しない手はないと身を乗り出してきた人物や業界は、その一方で内心忸怩たるものがあり、「いつかは奴の鼻をあかせてやる」と恨んでいる者も少なくなかった。それは、一般企業からマスコミまで共通していたように思われる。ライブドアが日経連に中々入会を許されなかったのも、その辺りの事情が影響したといわれている。企業買収でホリエモンに振り回されたフジTVの日枝会長の恨みも相当根が深かったはずだ。

 そこに検察庁が動いた。恐らくこのままホリエモンを好きなようにさせておけば、本当のゴジラになってしまい、そうなると退治するのが大変だとの危機感を持ったのであろう。小泉政権は、検察にゴーサインを出した。今回は普段と違って、マスコミの理解と協力が容易に得られた。第4の権力を味方につければ、事は簡単だ。今後の捜査も大きなミスさえ起こさなければ、検察が描いたシナリオで進んでいくことだろう。そして、ホリエモン騒動は、堀江氏個人はもちろん、周囲の人間達も含めて再起の道は絶たれた形で幕引きされるのだろう。団塊ジュニアのため息と共に。

私の視点 ミュンヘン・オリンピック村襲撃事件

2006-01-23 10:10:09 | Weblog
 テレビで映画の予告編をやることが多い。最近、よく見かけるものの一つは、スピルバーグ監督の作品で、その名は「ミュンヘン」。

 これは、1972年9月、世界がオリンピックの祭典を楽しんでいる時、8人のパレスチナ・ゲリラがオリンピック村のイスラエル選手団の宿舎に乱入、2人のイスラエル人を殺害した後、9人を人質に取った事件を映画化したものだ。いつかはこういった形で映画化されるとは思っていたが、ついに「やってきたか」との印象だ。

 それは、これまで「ハリウッド」が、世界的なヒット作を世に出して来る中で、巧みにアメリカやイスラエルの政策を作品の中に織り込んで国際世論作りに寄与してきたからだ。古くは、「栄光への脱出」「ベン・ハー」のように、あからさまなものから2001年に発表された「ブラックホーク・ダウン」のような巧みなシナリオ作りと撮影技術で共感を呼ぶよう作られたものがある。

 そういった意味では、スピルバーグ監督という「インディー・ジョーンズ」「ET」「ジュラシック・パーク」という娯楽作品から「シンドラーのリスト」のようなユダヤ人の悲劇を扱ったスィリアスなものまで世に出してきたある種の天才の手にかかると、この事件がどう扱われるか、とても気がかりになる。アラブ社会では既に、スピルバーグ氏がユダヤ系であることから「反アラブ」と警戒の色を強めているが、果たしてどんなものにあるか、興味津々だ。

 この事件が起きた時、私はロンドンに住んでいた。前にも書いたが、子供の頃から無類のスポーツ好きで、取り分けオリンピックとなると異常なほどの関心を示して周りの大人を呆れさせていたから、この時も毎日、興味のある競技を欠かさずTVで観ていた。また、その一方で、事件の少し前には中東に取材旅行に出かけて帰ってきたばかりであったから事件を聞いた時は、我が目を、我が耳を疑ったものだ。

 事件の中継映像は競技用に用意された設備を使って、全世界に同時中継された。事件が起きてから私はTVに釘付けとなった。

 事件が起きたのは、9月5日未明。選手を装ってジャージー姿でゲリラ達は、宿舎に侵入したが、銃と爆発物で武装していた。事件に対応したドイツ警察は、「テロ対策」に慣れているとは言えず、狙撃手が防弾チョッキをつけていなかったり、装甲車の手配をしていないなど、私の目にも心許ない対策チームに見えた。また、TVが生中継をしていたのをゲリラ達が見ていて警察側の動きを読まれたことも、後になって分かることになる。

 ゲリラ達は、イスラエルの獄中にある数百名のパレスチナ人たちの釈放を求めていた。ドイツ側が大金を用意したり、人質の身代わりを申し出たりしたが、ゲリラ側に一蹴された。

 ゲリラ達は、「黒い九月」を名乗った。これは、2年前の9月に勃発したヨルダン内戦で多くの仲間が殺されたことから名付けられたグループ名であった。この構成メンバーたちは、アラファト議長(当時)が率いるアル・ファタハという政治組織に属しており、「黒い九月」は、後にファタハと訣別することになる。この頃、この組織を作った黒幕がアブ・イヤド(PLO内ではアラファト氏に次ぐNO.3の地位にあったが、チュニスでイスラエルに暗殺された)氏と言われていた。後にアブ・イヤド氏の知己を得て食事を共にする機会を得た際に、その事実関係を本人に聞いたが、含み笑いでかわされた。

 事件の4ヶ月前、同グループはイスラエル行きでイスラエル人乗客の多い「サベナ航空」の旅客機を乗っ取り、仲間の釈放を要求していた。私はその時、丁度イスラエルにいたのでその乗っ取り事件の現場となったテル・アヴィヴ「ロッド空港」に取材に駆けつけた。

 そこで私が目撃したものは、衝撃的なものであった。

 「テロリストへの一切の妥協はしない」と明言しているイスラエル政府は、この時も強硬策で対応した。ゲリラ側には「仲間を解放したから」と伝えて妥協するかのように見せかけ、囚人服に身を包んだ軍人を乗せた飛行機を乗っ取り機の横に走らせた。それを見て喜び油断するゲリラ達に国際赤十字の制服を模した服装に変装した特殊部隊を機内に突入させ、イスラエルは難なく、ゲリラ達を射殺又は拘束とまさしく一網打尽にしてしまったのだ。

 その3週間後には今度、日本赤軍の3人がPFLP(パレスチナ解放戦線)と共同して、同じロッド空港で乱射事件を起こし、カリブ海から来ていた巡礼者達20名近くを殺害していた。

 そんな伏線があっての事件であったから、最初から結果は容易に推察できた。しかし、ゲリラ達は交渉ごとが苦手なのか、この時も騙されてしまう。

 ドイツ政府は、人質とゲリラ達を中東地域に移動させると嘘をつき、オリンピック村からヘリコプターで空港に移動させた。

 悲劇の第二の舞台は、空港の滑走路であった。滑走路に降り立ったヘリと脱出用に用意された民間機をゲリラの一部が往復している隙を見計らって、ゲリラ達とヘリに向けて警官隊から発砲が始まり、8人いたゲリラの内5人が殺された。人質の多くもゲリラと警察官からの発砲でこの時命を落とした。銃撃戦の後、生き残った3人のゲリラの内2人はイスラエル側に殺されたということだ(これが後に、国際法に反するのではと論議を呼んだ)。
 
 なんとも後味の悪い事件であった。だが、悪いことばかりでもなかった。この衝撃的な映像は、世界の人たちにパレスチナ問題への関心を呼ぶきっかけとなった。パレスチナの置かれた状況を何とかしなければという声が強くなり、2年後、当時のアラファト議長がオブザーヴァーとして国連総会で演説をする機会を与えられたのだ。

 その時の、「私は今日、オリーヴの枝(平和と誇り高きパレスチナのシンボルであると前述)と自由の戦士の銃を持ってきました。どうか、このオリーヴの枝を私の手から落とさせないで下さい。どうか、このオリーヴの枝を私の手から落とさせないで下さい」とオリーヴの枝を振りかざしながら世界にアピールした演説は、その後の彼への評価は別にして、世界で絶賛された。

 そんな様々な記憶が蘇ってくるパレスチナ史において重要な事件なだけに、それを扱った映画「ミュンヘン」を観たいと思うが、その一方で、これまで私の目の前で死んでいった市民や戦闘員の姿が重なってしまうだけにとても気が重い。

 

ライブドア騒動 本丸はどこに?

2006-01-21 00:51:42 | Weblog
 ライブドアの問題が、一企業のレヴェルではなく、国の経済基盤を脅かすような騒ぎにまで発展している。私には今のところ、全体像が見えておらず、情報収集に止まっている。
 それにしても、我々の常識を根底から覆されるような事態が連続して起きている。まず、一企業に司直の調査のメスが入ったというだけで、株式市場が大混乱をきたし、東京証券取引所の取引が全面的に停止してしまうなどということは、これぞ、未曾有の出来事だ。そして、日本の株式の大暴落に止まらず、ニューヨークを含めて全世界の株式市場が影響を受けて大きく値を下げるということも、これまた初耳だ。
 最初は、果たしてそんなに大げさに報道することかと思ったが、検察の力の入れようからすると、標的はライブ・ドア一社に止まらず、まだまだ新事実が明らかにされそうなかなり大規模なスキャンダルの様相だ。それも、ライブ・ドアを上回る規模の企業の名前がマスコミを賑すのではないかという気がしてならない。実際に、永田町(政界)や兜町(株式市場)ではもう既に幾つかの企業の名が取りざたされている。株式市場の大混乱は、それを読んでの動きだったのではないか。
 これは、単なる“悪徳企業”が行なった脱法行為への司直のお仕置きと違う。これまで日本の政財界からスポーツ界、そしてマスコミまでをも手玉に取って暴れまくってきたIT産業への、政財界のみならず、官界やマスコミの「守旧勢力」が一体となって行なう構造的な反撃のように思えてしまうのだ。だとすると、“本丸”はまだ他に残されているとしても何ら不思議ではない。

米本土の攻撃を示唆 ビン・ラーディン容疑者か

2006-01-20 02:04:40 | Weblog
 中東の衛星チャンネルTV局のアル・ジャズィーラは先程、オサマ・ビン・ラーディンを名乗る人物の音声テイプを発表した。
 テイプの中で、ビン・ラーディン容疑者は、対米攻撃はいつでも出来る準備はあるとしながらも、その一方で米国と「長期休戦」の交渉に応ずる旨を述べている。
 このテイプの声の主が本人だとすると、同氏の「国際舞台」への登場は約1年ぶりということになるが、このような異例の“提案”にアメリカ政府が応じるとは思われず、恐らく欧米諸国をかく乱する目的と思われる。

頑張れ、綿井健陽!

2006-01-19 00:28:13 | Weblog
 NHKテレビの「課外授業 世界で今起きていることを知る・自分の幸せを撮る」を観た。
 18日の「先生」は、ヴィデオ・ジャーナリストの綿井健陽さん。イラク戦争をバグダッドから報告し続けた若手のジャーナリストだ。
 彼ほど、画面で見ていて短期間に成長したジャーナリストは珍しい。戦争が勃発した頃は、アタフタぶりが見る側に伝わり、私などは心配で見ていて息苦しくなったものだ。それが半年もすると、すっかり落ち着きを見せるようになり、現場の空気が見る側によく伝わるようになってきた。
 その綿井さんが先生になって、彼の母校(小学校)で、子供たちを相手に「ヴィデオ・ジャーナリスト講座」を行なうのが番組の主旨であった。
 カメラを持って“取材”に出る前、子供たちに綿井さんが自分のイラク戦争報道をまとめた映画「Little birds」を見せた。
 子供たちは食い入るように画面を見つめる。自分達と同じ年代の子供たちが傷つき死んでいく姿を見せられ、脳天をド突かれたのだろう。彼らの顔から笑顔が消えた。彼らの心に「戦争」がメッセージを伝えているのがよく見て取れた。
 映画を観た後、「幸せ」をテーマに、生徒達はそれぞれヴィデオ・カメラを手に教室の外に出た。ある者は学校の中を、またある者は商店街に出かけ、またある生徒は自宅にカメラを持ち込んで情景と人の思いをテープに刻んだ。
 撮影した素材を持ち寄って次の授業が行なわれた。取材の手法が分からずに子供たちは暗中模索、格闘していた。中に、近く転校する女児の作品があった。彼女は、幸せをもらった場所として学校を選び、体育館などを紹介しながら、自分の強い想いをテープに言葉を付けて残した。それは、彼女の強くて熱い学校に対する想いを、観る者に感じさせるには充分の出来栄えであった。
 それを絶賛する綿井さんは、何か想いがあったのだろう。言葉を詰まらせ、目頭を熱くしていた。
 それを見て、私は綿井さんに好感を持った。これからも彼の成長を見守っていきたいと思う。頑張れ、綿井健陽!

私の視点 朝日新聞のイラク人助手

2006-01-18 23:16:24 | Weblog
 今朝の朝日新聞で「宗派対立 深い溝」と題した、イラク報告がある。

 イラクでイスラーム教シーア派とスンニ派の住民同士が対立する場面が増え、亀裂が深まっているとする報告だ。

 約4分の1の人口にしか過ぎないスンニ派が、長年の間、政権を握ること自体が不自然ではあったが、フセイン体制の消滅と共に米国の支援で誕生したシーア派臨時政権も舵取りがおぼつかなくて、国全体の迷走状態が続く。そこにスンニ派武装勢力の激しく、そして残忍な民間人を狙ったテロも加わり、両派の間に大きな溝が出来てしまった。

 それを報告するのは、読者にとって貴重な情報を得られるから良いのだが、皆さん、朝日新聞が手許にあるのなら「国際面」を開いていただきたい。記事の頭に、【カイロ=川上泰徳】と書かれている。これは、新聞社の特派員が、ある国を取材した後、赴任先の国に戻ってから記事を書く場合に使われる手法だ。だが、朝日新聞は自社の記者を「危険だから」とイラクに派遣していない。つまり、この記事は、川上特派員が現地入りせずに何らかの形で、バグダッドの市民の声を拾って書いたものだ。いや、それはそれでいいのだが、問題はこのような署名記事の肝心の部分が他人の手によって取材されているのに、出どころが一切明らかにされないことだ。これを朝日新聞に質せば、恐らく「そこまで明かす必要があるかは、こちらで判断すること」と答えるだろう。

 自社の特派員をバグダッドに入れない朝日新聞は、イラク人の助手に現地取材を依頼している。毎日、送られて来る情報がこのような形で記事になるのだ。だが、私は、このやり方に以前から大きな疑問を感じている。それは、朝日が署名記事の本質を履き違えていると考えるからだ。

 署名記事は、英語ではBYLINEと呼ばれる。かつて私はAP通信の記者になった時、米人編集長から、自分の書いた記事の責任を明らかにする意味から出来た制度と聞かされた。だから、記事の長短に関わらず、自分で判断してBYLINEにして良いと言われたものだ。つまり、記者は責任の所在をはっきりさせておきたい時は、通信社であろうと、署名原稿にしていいということだ。

 実は私は朝日新聞が署名原稿で犯した大きな過ちを知っている。もう30年以上も前のことだから時効と言うかもしれないが、その体質は依然として根強く残っており、私が取り上げた今朝の記事を見ても本質的に変わっていない事が分かる。

 70年代初めの北アイルランドでのこと。当時朝日新聞のロンドン支局(ヨーロッパ総局だったかもしれない)で助手をしていたA氏は、映画作りを目指していたこともあり、北アイルランド紛争の取材に出かけた。アルバイト扱いであったA氏は、個人的関心から現場に足を運んだのであり、朝日からの依頼で行った訳ではない。

 彼はその時、多数の死傷者が出た北アイルランド史上でも特筆される事件に遭遇した。命からがらロンドンに戻ったA氏は、職場に戻ると体験談を特派員に話した。すると、特派員はその体験談を原稿にした。

 まあ、それは、情報提供として時にあることだから、特派員がA氏に昼飯でも奢れば済むことであったかもしれない。だが、それを聞いた特派員は、ナント自分が現場にいてそれを体験したかのように生々しい体験ルポにして紙上で発表したのだ。それも自分の署名原稿というスタイルをとった。

 私はその記事を読んでいて、体験ルポが掲載されたのが確か事件発生から1週間くらい経っていて不思議に思っていた。

 A氏は朝日新聞には強く言えないらしく、憤慨して私に怒りをぶちまけたが、その少し前に自分が同様の嫌な思い(以前書いたが、私は当時、毎日新聞の助手をしていて、撮ったスクープ写真を東京から来た写真部員に横取りされた)をしていただけに彼の怒りはよく理解できた。

 しかしながら、こんな話はまだ序の口だ。これまで日本のマスコミの特派員は、海外で助手を「使い捨て」状態にしてきたのだ。助手の多くは現地人である。ヴェトナム戦争を含むインドシナにおける戦争、中東戦争、イラン・イラク戦争など多くの現場で私は日本の特派員の「助手を人間扱いしていない」というよろしくない評判を聞かされてきた。TBSの特派員が、湾岸戦争時にイラク入りしたいがために、安い危険手当でバグダッドまで戦火の中を陸路で「入国ヴィザ」を取らせにいったケースも助手から直接聞いて知っている。

 その点だけを言えば、米国のマスコミの方が格段に良質だ。AP通信は、ヴェトナム戦争の集結前に、海外逃避を希望するヴェトナム人スタッフと家族全てを国外に連れ出して面倒を見たし、ニューヨーク・タイムズなども同様だ。米人特派員とカンボジア人助手との人間味溢れる関係を描いた映画「キリング・フィールド」は、特殊な例ではなかったのだ。ところが、そういった戦場における、特派員と現地人助手との間の「美談」は、日本のマスコミに限っては聞いたことがない。

 朝日新聞が現在雇っている助手の扱いはもっといいものかもしれない。だが、そうであるのなら、少なくとも助手の氏名を掲載するなりして、名誉ある立場を与えるべきではないだろうか。朝日新聞のクレディットを与え、イラクにおいて「朝日の旗を背負わせて」いる以上、イラク人助手は朝日新聞の立派な報道局員だと思うが、私は間違っているのだろうか。それとも、助手の選び方に自信がないから情報の精度に疑問が生じる恐れがあって名前が出せないとでもいうことなのだろうか。だとすれば、そんな情報は、私たち読者が求めているものではない。  

11年目の“神戸”

2006-01-18 12:45:36 | Weblog
 17日は就寝したのが午前4時半だったので阪神大震災が発生した5時46分には起きられなかった。家人が出かける物音で目が覚めたのが午前9時だった。
 早速、神戸の知人宅に電話を入れる。知人は長田区の鷹取商店街で喫茶店を営んでいる。とても前向きな性格で、あの大震災で家を焼失し、子供二人と両親をなくしながらも地域の復旧復興に努めるヴォランティア活動をしていた。
 家を再建するのも、足元を見て値を吊り上げる建設業者の思い通りにさせるかと、自ら北米に渡り、建材と大工をカナダから連れて来た凄い男である。
 彼の名は、松原芳雄さん。妻の聖子さんと共に、喫茶店を憩いの場として見事復活させてた。そして自らが住む商店街を再復興させた一人でもある。
 「街は人が戻りませんし、高齢化が進んでいますから活気がないですわ」
 電話口で松原さんはそう言う。ただ彼のエネルギーは、相変わらず衰えを知らない。昨年は、イタリアまで足を伸ばしてエスプレッソの機械を買ってきたそうだ。彼の声を聞いていると、なんだか励ましたつもりが、逆に元気をもらってしまった感じがする。
 だが、松原さんのような気骨のある被災者ばかりではない。いや、そうでない人が多数を占める。TV画面で見る被災地は、今や大震災の跡形もなく以前の「神戸」のように見えるが、見えないところで多くのお年寄りや体の不自由な方が苦しんでいるのだ。
 「『頑張って』と言われてもどう頑張ればいいの?」と、家を失い、住宅ローンだけ残ってしまった阪神大震災の被災者が嘆いたのを何度聞いたことか。そういう「声なき声」が復興した被災地の影に埋もれてしまったことを、私たちは心に止めておかねばならない。
 今朝の朝日新聞の「特派員メモ」で、スマトラ沖地震の1周年記念行事を取材した記者が、被災地では破壊された家のほとんどが、政府や民間団体の無償援助で再建されて予想以上の復興ぶりと報告して、個人補償はしない日本政府のやり方に疑問を投げかけているが、一刻も早い政策の見直しをする必要があるだろう。

ちょっといい話 JR職員の巻

2006-01-17 04:17:06 | Weblog
 私が時折りのぞくホーム・ペイジ『Sachi's ・・・日々是まあまあ好日・・・』からとても心温まる話を一つ。もちろん、発行人から転載許可は頂いています。文中にある「ずいずい」は、発行人の4歳の娘さんのことです。 
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 ところで、今日、JR府中本町駅の忘れ物センターから何度も留守電が入っていた。ずいずいってば、またモーリーを落としたのだ。モーリーを抱えて出かけたものの、電車に乗っている間に眠ってしまい、駅で降りるときにはモーリーの存在を忘れてしまったようだ。留守電は夜の10時近くまで入っていたので、10時半頃に念のため折り返しかけてみると、「あー、よかった。たぶん、とても大切な熊さんなんじゃないかと思いまして。できるだけ早く安心させてあげたくて、通常はお電話しない時間まで電話をしてしまいました。お子さん、もう寝てしまいましたか? じゃ、明日の朝一番に、見つかったよって伝えてあげてください」と係の方。…こういう職員さんもいるんだなぁ。じーん…。ありがとうございます。

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 ね、読んで思わず頬が緩んだでしょ?普段、JRに文句を言ってばかりいるが、こんな職員もいるんだとうれしくなって皆さんに紹介した次第。こういう職員が増えれば毎日の電車の利用も楽しくなろうというものだ。