浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

銀輪生活者の週末

2004-11-28 21:29:19 | Weblog
 25年間の「車生活」から離れて「銀輪(若者よ、銀輪とは自転車のことを指すのじゃ)生活」になり、2ヶ月が経過した。半年くらい前に若き家人に「ウチはクルマ要らないんじゃない?」と突然言われた時は、予想外の提案にうろたえて、「買物」「震災対策」等と御託を並べてみたものの、いざ車を手放してみると、予想したほどの不便さは感じない。いや、逆に駐車場を考えずに行動できるから身軽に動ける部分も増えた。

 車の代わりに購入した自転車は、家人は念願であったマウンテンバイク。一方、私はと言えば、少々高級なママチャリだ。

 こうして購入した自転車で週末は周辺散策をするようになった。先日は、自宅から歩いていくには少々遠すぎるが、車だと駐車スペースがなくてちょいと面倒、でも外観がとても気になるという喫茶店に行って来た。この喫茶店、今では珍しいお茶屋さんの納屋を改造したもので、庭の柿の木といい、店内に置かれた調度品といい、とても温かみのあるスペースである。母屋の商売が商売だから喫茶店のメニューは日本茶が中心だ。

 店内で見たその建物の建築年が書かれた札を見て驚いた。明治24年とある。つまり、あの関東大震災を耐え抜いたのだ。日本建築恐るべし。木造建築は地震に弱いとされるが、建て方さえまともであれば、耐震できるものも少なくないことの証明である。

 そして今日は南浦和から北浦和まで、距離にすれば7、8キロの所に足を延ばした。家人がどこぞから仕入れてきたパンフレットを頼りに、幾つかの店を覗いてみた。まずは、無農薬食料品屋。これが、恐ろしく感じが悪い。店番をしている中年女性の陰気さが伝染する前に(我々のような性格の人間に伝染するわけないか)、店を出た。アノネ。もう、無農薬というだけで売れる時代は終わったんだよ、とひと言言い残したかったが、気の弱い我々は無言で退散。

 3件目に飛び込んだ小物屋がとてもいい雰囲気でふたりはご機嫌。ついついナンダカンダと買ってしまった。今日の目玉は、南部鉄瓶。ボンビーな我々は、1万5千円の値札に怖気づいて一度は手を放したが、彼女の「鉄瓶でお茶を飲むのが夢だった」という言葉に、再び手に取り、お勘定。

 素敵な買物をした二人はご機嫌で帰宅。すると、我々の姿を見た“愛猫”ジミーが飛んできた。嗚呼、いい週末だ。
 

お塾天国

2004-11-22 14:45:23 | Weblog
 南浦和はどこを向いても「ジュク、じゅく、塾」。そう、進学塾が林立している町なのだ。駅前に何年か前、NHKが「日本一の塾通り」と名付けた大通りがあるが、そこには夜9時10時になると、青白い顔をした小学生が、立ち並ぶビルから吐き出されてくる。中には、ジャンクフードを口にしながら家路を急ぐ小学生もいる。
 最近塾の周辺で目立つのが迎えの車の列だ。引ったくりだけでなく子供を巻き込んだ事件が急増したことから親達が車で我が子を迎えに来るようになったのだ。だから、その時間になると、道路の両側は車で一杯になる。当然のことだが、通行する車にとってはいい迷惑だ。運転手同士の口論を良く見かけるようになった。
 住民の苦情もあって進学塾はガードマンを雇って交通整理をやらせている。だから南浦和の駅周辺は、やたら塾の腕章をしたガードマンが目立つ。それが、単純思考の親にとっては安心材料なのだろう。どうせ塾通いをさせるなら南浦和に、となるようだ。いくつも先の駅から通う子も少なくない。
 迎えに来る親の特徴だが、周りが見えていない。塾の前の歩道では、通行人に迷惑であろうと、大きな顔をして輪を作って親同士で話し込んでいる。話題は何かと耳を貸すと、決まって塾や目標とする学校の情報交換だ。熱心なあまり、通行人が邪魔だからと声をかけようものならキッとにらんだりする者もいる。オイオイ、そうではなくてゴメンナサイだろうが、と思わず口出ししたくなる。電車で帰宅する親子の場合は、降りてくる客がいるのに子供を乗り込ませ、席に座らせようとする。優先席であろうと平気で座らせる親もいる。傍若無人とはまさにこのことだ。半額しか払っていないガキなんかに座らせるなと言いたい。
 「日本一の塾通り」が飽和状態になり、その周辺に塾が広がっている。私の帰宅ルートにも最近新しく塾ができた。その塾の脇にある道は、一方通行だが歩行者用にスペースを取ってある。目立つようにと、わざわざ緑色に塗られている。ところが、そのスペースに、ここは駐車スペースだといわんばかりに迎えの車が並ぶようになった。
 一昨日のこと、そこを通りかかると、通行人が車道部分を歩かざるを得ない状態で、通過する車に追いやられていた。帰宅を急いでいたが我慢できずに、子供を待つ車列に私は文句をつけてまわった。「あなたたちが駐車している歩行者スペースは、歩行者のためのものです。特に、車椅子が通ったり、お年寄りが他人を気にせずにゆっくり歩けるために作られたものですよ」と言っても誰一人として車を動かすものはいなかった。中には、うるさがって少し開けた窓を閉めてしまうものもいた。
 こんな親達に育てられる子供に「公共心」が育つはずはない。「他人を思いやる気持ち」の大切さが身に付くのも、ほぼ奇跡に近いだろう。こんな親子を見ていると、ホント暗澹たる気持ちになってくる。
 そして最後にひとこと言いたい。世の中の親達よ、自分が果たせなかった「受験の夢」を子供達に託すのは止そうよ、と。鳶が鷹を産むことは、奇跡的でしかないのだから。

ジミーの崇高な博愛主義

2004-11-18 15:02:01 | Weblog
 夜遅く帰っても我々の姿を見かけると、鳴き声と共に飛んでくる茶色い毛のかたまり。その毛のかたまりは、足にまとわりつき、時に階段を上がる我々の足元を危うくする。そう、この欄では既におなじみ“借りペット”のジミーの出迎えだ。手荷物を家の中にいれ、ギュッと抱きしめて顔面へのペロペロ、胸をめがけてのモミモミといった一連の儀式を受けてやり、「大好きだよ」と耳元で囁いてやると、納得して階段を降りていく。
 その儀式を怠ろうものなら大変だ。階段の手すり、トイレの窓枠などなど、ありとあらゆる隙間を求めて顔を突っ込み鳴き声を上げる。
 そんなジミーだが、やはり猫と言おうか、気ままな面もあり我々一辺倒というわけではない。これがまたこちらの“恋心”をくすぐるのだ。時に、近くの猫が気になって我々を見向きもしないことがある。また、通りかかった人に身を委ねていて知らんふりをされたこともある。どうも、ジミー君、相当な「世渡り上手」なようで、そういう状況で我々の姿を見かけてもコチラに走ってくることはないのだ。そんな“浮気”が最初に“発覚”した時はパートナーだけでなく私にもそれなりにショックであったが、「ジミーだから許せる」と自らを納得させたものだ。
 先日も、我々が夜遅く帰ると、自分の家のブロック塀にいるジミーが中年のサラリーマン風の男性に可愛がられていた。
 「あ、ジミーだ」とパートナーがジミーの姿を見て嬉しそうにつぶやいた。
 しかし、ジミーは我々の元に飛んでくることはなく、男性の愛撫に身を委ねていた。我々も見て見ぬふりをして前を通り過ぎ、でも気になって階段を上がりながら様子を伺っていた。
 するとタイミングよく、男性は「それじゃあ、これでね。お休み」とでも言うかのようにジミーに何か語りかけ、家路についた。その時振り向きざまに見せた彼の表情は、それを目撃した我々の度肝を抜いた。相好を崩すとは、正にこのことだと思った。笑顔で度肝は大げさだろうと言われるかもしれないが、声を上げるわけでもなく、大きく身体で表現するわけでもない。またニコとかニヤなどといった表現で語りつくせるものではない。しかしその笑顔は、心の底から癒された喜びを表していたのだ。
 男性が去ると、ジミーは我々の元に飛んできた。いつもの儀式が始まった。その夜のジミーの温もりはまた格別であった。「浮気」とか「世渡り上手」等という下品な表現をそれまで何度も頭に浮かべたり、口にした自分を恥じた。
 ジミーの崇高な博愛主義に敬礼!

ヤンチャ号の結ぶ縁

2004-11-13 23:01:01 | Weblog
 このコラムで幾度か登場した「ヤンチャ号」。遂に私の手許を離れ、どこか遠くへ行ってしまった。そう、手放したのである。
 9年近く乗り回し、走行距離も12万キロ近くになっていた。さらに、半年に一度位しか洗車をせず、とても可愛がっていたとは言い難い。さらにさらに、車のフロント部分に輝くは、ダイヤモンド・マーク。そう、「火を吹くエンジン」「タイヤが一人走りする車」と異名をとっていた三菱車である。「売れるかなあ?」と車に詳しいACTNOWのメンバーに相談すると「マイナス5万といったところですね」と言われた。つまり、価値はゼロで逆に解体費用を取られるらしい。
 「まだ充分走れるのになあ」と思いつつも、「まあ、ただで引き取ってもらえればもうけものかな」という気持ちで、近頃よく聞く中古車買取会社「ガリバー」に査定申込みをしてみた。
 すると、意外なことにすぐに営業担当から電話が入った。ウサン臭い会社かと思っていたので、正直その営業マンのきちんとした対応に驚いた。程なくして現れた営業マンの礼儀正しさにも、好印象!!!近頃、礼を失したセールスか慇懃無礼なモノ売りにしかお目にかかっていなかったので、そんな営業マンに会えただけでも価値を感じてしまったのだ。
 中村と名乗る営業マンが記入するようにと差し出した書類に「希望売却価格」とあった。いくら私が図々しくても、「マイナス5万」が頭についてしまい、「分からないですね」としか答えられなかった。
 会社の査定部門から買取価格の連絡が来るまで小一時間かかった。連絡を待つ間、この車の“ヴォランティア活動”を中村さんに話していた。神戸から那須、そして名古屋と、地震から水害までの活躍の数々である。その思い出話をしていたのだ。
 「時間がかかりますねえ。申し訳ありません」と言う中村さんの言葉を聞いて、時間がかかるということは否定的なことかとあきらめの境地になっていた。
 ヴォランティアの話も尽き、話が私の戦争取材に及んでいた。その時、中村さんの携帯電話が鳴った。査定結果の報告が入ったのだ。その結果を聞いて驚いた。30万円の値が付いたからだ。私が即座に契約のサインをしたのは言うまでもない。
 それから1ヵ月後、中村さんから突然の電話。「何かヤンチャ号がやらかした?」首をひねる私の表情が彼の話を聞いて破顔一笑、喜びの顔に変わった。中村さんは新潟中越地震のニュースを聞き、私のHPを見て電話をくれたのだ。そして数日後、ACTNOWの口座に彼の名で義援金が寄せられていた。ヤンチャ号の結ぶ縁に感謝!
  

デザイナー学院

2004-11-10 00:45:02 | Weblog
デザイン学校(11月9日)
 今日は東京渋谷にある「日本デザイナー学院」に呼ばれて講座。私の話を元に学生にロゴを作らせてみようという試みである。
 150人ほどの2つのクラスを対象に、「生きる」をテーマに話をした。事前に、「ウチの生徒は余り講師の話を聞かないから」と警告されていたが、私が話し始めると目を輝かせて、身を乗り出してくるものがほとんどであった(つまり、私の話が面白いと自慢しているのだが…)。彼らは決して勉強が嫌いなわけではない。能力がないわけではない。これまでその面白さに自ら気付けなかったし、また気付かせてもらえる教師に出会えなかっただけなのだ。
 授業を終わって感想文とロゴの制作にかかったが、ほとんどの学生が真剣そのもの。とても力強い感想を寄せるものが多かった。
 “優秀な”と言うよりも“鋭い感性”を感じさせる作品を選び、このHPのトップページをしばらく飾ってもらう予定である。掲載までに時間はかかるが、是非お楽しみに!

外国人向け防災訓練

2004-11-07 21:59:10 | Weblog
 今日はACTNOWが主催する「外国人向け防災訓練」の当日。朝6時半起きで川口市の現場に向かう。体調は相変わらず悪いが、今日はそんなことは言っていられない。行くしかないのだ。ただ、私の場合は、現場に行っても「高見の見物」が仕事。若い世代がやることを、フムフムとしたり顔で見ているだけだから気楽な立場だ。
 大災害が起きれば、阪神大震災も例外でなかったように、コミュニケーション不足と行政側の周知不足で、外国籍の住民が「災害弱者」になるのは、想像するに難くない。そんなことになってはならないと始めたこの訓練だが、毎回、参加者集めに苦労する。メディアが参加者募集の記事を書いてくれないことや、外国人に訓練の内容を理解してもらうのに成功していないためだが、この日は、前日の段階で、参加予定者が32人。
 ところが、いざふたを開けてみると、恐れていた事が起きてしまった。開始時間に集まった外国人はナ、ナント7人。やはり、開始時間を午前9時とした事が裏目と出たようだ。特に、イスラーム系の人たちは、今断食月「ラマダーン」の真っ最中。彼らは日の出前に食事をし、その後寝床にまた潜り込むので、休日に早起きするのは大の苦手。
 TVカメラが3台取材で来ていたので滅多なことでは焦りを感じぬ私も、これには少々目が点になりかけた。が、その後パラパラと参加者も増え、22人の外国人が集まり、なんとか「絵」になるようになって、ほっと一息。
 しかし、そんな人気のない訓練だが、参加者はその内容に大満足。高い評価を与えてくれた。今さらながら、自分の「広告宣伝能力」のなさに肝を冷やした一日であった。
 その後、新潟中越地震救援に行ったグループの反省会に顔を出すため事務所に。さらに、東京で今度は、自分が主宰した「メディア塾」の卒業生達の勉強会が予定されていたが、これ以上無理をすれば、ダウンするのは明らかであったので、断念。その足で帰宅した。
 放映予定時間を知らされていたTBSのとNHKの夕方のニュースを観ようとチャンネルを合わせたのだが、きちんと放映したTBSに対して、NHKは放映せず。NHKさんよ、あれだけ現場で協力させておいてそれはないぜ?せめて、電話連絡すべきだよ。

風邪の悪化とイラク取材

2004-11-05 10:27:34 | Weblog
 風邪がますますひどくなり、セキが気管支の奥から聞こえるようになってきた。毎夜寝る時、起きたら良くなっている、と想像して床に入るのだが、どうも上手くいかない。子供の時には、そんな夢でも叶ったものだが、大人になって邪心がありすぎるためか、願いが叶わなくなった。遠くに住む医者の後輩が心配して薬を送ってくれたが、良くなる気配はない。
 さて、アラファト氏の病状が最悪だ。昨日も一日、パレスチナの情報提供者と連絡を取り合っていた。私の情報提供者には、議長府にいる氏の側近だけではなく、反対勢力に属するメンバーもいる。
 中の1人が、久し振りに電話をすると、僕に強くイラク入りを勧めた。彼は、パレスチナの公安関係の人間で、以前からイラクとは太いパイプを持っていた。それは、名前は明かせぬが、彼の上司が、アラファト氏と袂を分かち、サッダーム・フセイン氏と親密であったことによる。1991年の湾岸戦争時、私の目の前で彼の上司がアラファト氏と大激論を交わした事がある。その後、その幹部はPLOの主要ポストを維持したまま完全に「サッダーム派」になった。
 イラク取材は、私の頭の中にないわけではない。しかし、現況を考えると、余程の準備をしないと実行しないだろう。彼と彼の上司が持つ「ザルカーウィ一派と在イラクの反米勢力」との太いパイプは魅力だが、私の重い腰を上げるまでには至らないだろう。

病気はち(き)から?

2004-11-04 10:31:48 | Weblog
 グラフィティを模様替えしての「第一弾」。襟を正して(着ているのはTシャツだが)お届けしていきましょう。

 風邪がひどい。引いてから10日経つのだが、なかなか治らない。やはりこれも年のせい、と言われそうだが、そうでもない。私は風邪を引いて3日以内に治さないと長引く傾向にあるのだ。
 長引いた原因は分かっている。風邪を引いて調子が悪かったが、新潟中越地震救援の街頭募金に出て大声を出したのと、現地との連絡、その後の救援グループの派遣と思うがままに身体を動かしていたからだ。また、講演を含む仕事ものどを酷使した。
 私は、仕事柄に加えて性格面から、風邪を引くと「鬼の霍乱」、腹を壊すと「意地汚い」と取られがちだが、実を言うと、結構病気はするのだ。人並みに風邪は引くし、人並み以上に腹は壊す。ただ、基礎体力は年代からすると桁外れのものがあるので、この年になっても周りから化け物扱いされたり、若者から「浅井さんと会うと元気がもらえる」と言われる。だから、風邪を引いてじっとしているのがとても苦手だし、苦痛になる。冷静に考えてみると、私のような体力と性格だからこの位病気になった方が、自分を見つめるということにおいてはかえっていいのかもしれない。そんなことから、「病気は力」等とふざけた見出しを付けてみた。
 昨日は朝9時から夜7時まで、ずっとTVとコンピューターの前に座りっぱなしでHPとブログの読者に米大統領選の解説をしていた。たかが、あんたの読者なんて、と思われる方もおられるだろうが(思っても私が恐いのか口に出す人はいない)、私には幸いなことに読んで下さる方が2千人近くいるのだ。こんな幸せなことはない。中には、海外に住む方もおられる。今朝もカルフォルニアからメールを頂いた。だから、ついついしっかりしたものを送ろうと頑張ってしまうのだ。
 その結果、考えてみれば、玄関を出たのは「借りペット」ジミーが遊びに来たときだけであった。そのためか、熱っぽさは引いたが、咳とのどの痛みは相変わらずだ。
 嗚呼、病気に縁遠い身体が欲しい。