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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

ホスピス

2008-05-30 00:30:57 | Weblog
 肺がんの闘病生活を続ける叔父のホスピスへの入所が決まった。

 3年前に発病。それに衝撃を受けた叔母までもが認知症に罹った。夫婦に一挙に災いが降って来た感じだ。

 幸いなことに叔父は子供たちに恵まれ、傍から見ても羨むほどの家族愛に包まれている。だが、いくら家族の愛情が深くても病魔の進行は止められない。日に日に体を蝕んでいくのだ。

 まだ60半ばと老け込む歳ではない。一家の大黒柱の気概であろう、気丈に闘病してきたが、病気は残酷だ。今春には突然下肢の自由が利かなくなり、ほぼ寝たきりの状態になった。

 年齢が近いこともあり、兄のように慕ってきただけに、私にとって叔父の病気の進行はひどく辛い。気晴らしになればとブログを勧めたが、律儀な性格の彼は自分の病状と心の内を丁寧にほぼ毎日つづっている。

 それが私には「俺の背中を見ていてくれよ」と言われている様で頼もしくもあるが、時に涙するほど辛い。

 神風が吹かぬか、奇跡が起こらぬかと思うこともあったが、ここまで来るとその考え方は本人に却って失礼になるだろう。それよりも、ホスピスでいかに終末医療を心安らかに受けられるかをお手伝いすることの方が重要だろう。そう。そこまでは頭では分かっている。

 ホスピスの考え方は、アイルランドで始まり、イギリスとアイルランドから世界に広まっていった。1970年代前半にジャーナリストの大先輩である岡村昭彦は、私がロンドンに住んでいた頃、アイルランドを訪れた後に立ち寄り、私に「これからホスピスを日本で普及させる」と熱く語った。もちろん彼はそのために日本国中を東奔西走した。その後の日本におけるホスピスの広がりはあえてこの場で言及する必要はないだろう。

 そのホスピスがこのような形で自分の叔父に役立つことには亡き岡村に感謝したい。だが、兄を白血病で亡くしたときと同様、心穏やかに叔父を見守ることは、私には出来ない。新聞受けから朝刊を取る時、「画期的な新薬」の文字を期待したのは、一度や二度ではない。一日も早く、そのような薬が作られ、叔父の元気な姿が見られる日を夢見ている。

芝居の台本が完成

2008-05-29 02:09:07 | Weblog
 舞台劇「縄文のビーナス」の台本書きに懸命な時間を過ごした。

 いやあ、懸命とは書いたが、これが実に楽しい。次々にアイデアが湧いてきて思うような台本が出来上がった。

 約一週間前に前半部分を読んだ演出家からは「これは良いですよ。面白いじゃないですか。劇場の社長とも大笑いしましたよ」と、おほめの言葉を頂いていただけに、筆(パソコンで書いているから指?)も進んだ。この男に最初、「仲間に『学芸会に付き合わされて大変だね』と言われましたよ」と言われて、ヤル気に炎がついただけに、このままの勢いで前進あるのみだ。

 本番は、来る7月12,13日の午後1時と5時の一日二回公演。乞う御期待。

事実は小説より奇なり

2008-05-27 11:59:27 | Weblog
 「一度の人生だ。精一杯動き回って人の何倍も楽しみたい」と常々言う私は、その分、出会いも多い。当然のことながら、友人知人の数は増え続ける。

 それと同時に、旧知の人やかつて縁があった人などとの奇遇・再会も少なくない。

 先週末、私は最高レヴェルの奇遇に恵まれた。

 県北の山の中にある「茜の里(http://www.geocities.jp/akane_no_sato3/top)」という精神、ヒキコモリ、知的ハンディ等さまざまな悩める青少年(時に中高年)とのつきあい、治療的接近、カウンセリングを専門とする施設に呼んでもらった。

 この施設の責任者の丸本さんとはすでに奇遇で結ばれていた。彼は、遠く離れた愛知県岡崎市の、私と同じ高校を卒業した同い年の同窓生だ。

 彼とは高校時代、一度も会話を交わした記憶がないが、数年前、県北で行なわれたシンポジウムで司会進行役に私の名があるのを見て、丸本さんはその場に足を運んでくれたのだ。それから幾度か茜の里を訪問させてもらい、交流を続けている。

 「最高レヴェルの奇遇」は、その茜の里で起きた。

 24日の夜、私のミニ講演会が企画された。独(毒?)演会も終わりに近付いた頃、はるばる神奈川県の川崎市に住み、東京の武蔵野市で働く安藤真洋という男が到着した。体全体に温かみを感じさせる人で、好印象を持った。安藤さんは、都庁を辞めた後、今は武蔵野市で社会福祉法人「武蔵野」(http://fuku-musashino.or.jp/index.html)を率いている。

 話し終えて自己紹介を兼ねた雑談と言うか飲み会になった。

 多分、丸本さんが言ったと思うが、「安藤さんも岡崎高校出身ですよ。2年下ですけどね」との紹介があった。

 「え~っ」と言いながら、事情聴取(?)すると、次々に驚きの事実が発覚していった。

 彼は、同じ柔道部に所属していた。私が2年足らずで退部してしまったのでそこでの二人の接点はなかった。

 実家を聞くと、そこは私の父親の実家に近かった。幼少期を父の実家や、その近くで過ごしたこともあり、安藤さんの実家がある町の「名電山中駅」を利用することがあった。

 父の実家のある村の名を言うと、安藤さんの父上がその小学校の教師をしていたという答えが返ってきた。

 「ん?」と思ったが、「私の母親も教師でそこの学校の教師をしていたんですよ」「そういう経歴をお持ちの方なら『浅井千代子』と言って頂ければ恐らくお分かりになりますよ」と答えた。

 すると、「えええっ、浅井千代子先生ですか?」と凄い反応が返ってきた。その名をよく知っているという。

 「父親も親しくさせていただいていましたよ」と、彼はさらに付け加えた。

 「お父様のお名前は?」

 「あんどうとらおです」

 あの安藤先生の息子さん?今度は、私が仰天してしまった。 

 話のルーツはナント、54,5年前にまでさかのぼる。

 私は、愛知県額田郡の山奥で幼少時を過ごした。バスも電車も近くに停留所や駅はなく、ひと山ふた山越えなければならなかった。その“最寄り駅”が、前述した安藤さんの実家がある名電山中であった。私の通った小学校は全校生を合わせても100人に満たぬ「やまびこ学校」だった。

 若くして未亡人になった母親は、その小学校の教師をしていた。教師は数名しかおらず、一人の教師が複数の学年を担任していた。実は、その学校の同僚と言うか、先輩に安藤という教師がいた。新米教師の私の母親が教え方の手ほどきを受けるなど、何かとお世話になった方である。家に遊びに来ることもあった。

 生意気な腕白坊主であった私は、村でも有名なガキ大将であった。その悪事の数々は村中に轟き渡っていた。

 一年生の時、今思えば、恐らくサル山のボス猿のつもりであったのだろう。6歳にして怖いもの知らずであった私は、教室と廊下の間にあるガラス戸の台座に座り、行き交う人たちを睥睨するのが日課であった。

 「くんちゃん、おはよう」

 安藤先生が私に挨拶をした。

 すると、ナント、

 「ああ、アンドートラオか」

 と、私が言ったのだ。恐らく、親しさゆえにとった生意気な態度であったろう。

 その辺りを分かっていたのではないか。温和な安藤先生は表情を変えることなくそのまま歩き去った。ところが、その夕刻、“オニババア”が顔を真っ赤にして帰ってきた。

 「あんたは、安藤先生に向かって何てこと言うの!」

 まさに鬼の形相で母親は私を叱った。後で聞けば、安藤先生は「くんちゃんは、本当に面白い子だね」程度の言い方をしたとのことだが、母親にとってはとんでもないことだ。母は怒ると、しばしば私を柿の木に縛り付けたからその時もそうしたのかは、今となっては母親も私も記憶にないが、とにかくこっぴどく叱られた。

 安藤先生にその後お会いした記憶はないが、「アンドートラオか」事件を母親に再三持ち出されたこともあり、安藤先生のことを忘れることはなかった。それだけに50年余の時を経て、私の目の前にいる初老の男性が、その安藤先生の長男だと知り、腰を抜かさんばかりに驚いた。まさしく超ど級の驚きであった。

 話を進めていくと、その他にも、我々二人がほぼ同じ時期に同じ病院に入院していたこと、安藤さんの祖母が私の甥が勤める特別養護老人ホームに入所していたこと等など、いろんな接点が出てきた。

 残念ながら安藤先生は他界されていたが、安藤先生の雰囲気をそのまま受け継いでいる息子さんを見て本当に懐かしく、心温まる思いがした。そして、自分の人生の楽しさを噛み締めた。

「この指、と~まれ 第二弾」報告

2008-05-27 10:09:20 | Weblog
 25日に2回目の街頭募金を行なった。

 前日まで天気予報は「雨」。そこで、「晴れ男」の面目を躍如すべく前々日から空を見上げていた。土曜日になると、雲の動きが変ってきた。「もしかしたら」と思ったが、家人にはただひと言。「晴らすから」。

 協力者も、天気予報のせいか今回の参加表明はゼロ。

 前夜は同じ埼玉県でもちょいと背伸びすれば群馬県が見えてしまう(?)という寄居町の山の中。携帯電話も通じないところで、協力への呼びかけをすることもできなかった。

 こうなれば夫婦二人だけでやるしかないか。ならば、浦和駅前でやると言ったが荷物を運ぶ人手が足りぬ。そこで、場所を、電車を使わずに済む南浦和駅前に勝手に変更した。

 この判断が悪かった。ASEの生徒でこのブログの読者であるKさんが告知していた活動場所に来てくれたのだ。彼女に事情を説明して南浦和に足を運んでもらった。Kさん、本当に申し訳ありませんでした。

 実はKさん。前日の授業で四川大地震のことが話題になった時、13年前の阪神大震災のことを含めて反省することがあり、孫と遊ぶ予定があったのに足を運んでくれたという。その心意気や良し。いや、凄い。私と同年代だが、言動がいつも若いのは、こういった真摯な生き方をしているからだろう。

 大学生のNにも連絡がつき、結局4人で街頭募金を南浦和駅東口前で始めた。

 反応は芳しくなく、途中で場所を西口に変えた。それでも足を止める人は少なかった。ただ、目立ったのは高校生諸君の反応。立ち止まってポケットから小銭を出し、請願書に署名をしてくれた。

 次回はいつになるか分からないが、近くまた「この指、と~まれ」告知をしたいと思う。その時は皆さん、是非足を運んでください。結構、人数が多いと、それも“人種(年齢、職種、性別)”がばらばらだと通行人の反応も違うのです。

この指、と~まれ 第二弾

2008-05-24 00:21:20 | Weblog
 来る5月25日、第二回目の街頭募金と署名活動を行ないます。

 ヒマな方、ヒマでない方、ヤル気のある方、そうでもない方、ええい、その辺りの細かいことはいいや。なんだったら、隣のミケや野良犬のノラでもいいですよ。日曜日の午後のひと時を、ちょっと人と違ったことをして過ごしてみませんか。「この指」に止まりませんか?少しでも多い方たちの参加をお待ち申し上げております。

日時:5月25日(日)午後2~4時。現地集合。
(午後1時から来られる方を募集しています)
活動目標:チェンマイのサイクロン(旧ビルマ)の被災地支援
     中国四川省の大地震の被災者への支援
     さいたま市の学校校舎の耐震化促進の請願

活動内容:JR浦和駅西口前広場にて募金と署名の呼びかけ

寄付金送付先:チェンマイ:日本NGO「難民を助ける会(AAR)。現地で活動中
       四川省;国際赤十字
       署名:さいたま市長・市議会議長・教育委員会教育長

寄付金受付先:みずほ銀行南浦和支店 普通 2139810
名義「Media Literacy Institute 浅井久仁臣」

(註:Media Literacy Instituteとは、私が2004年から代表を務める組織です)



嬉しい来訪

2008-05-22 10:31:48 | Weblog
 昨夜遅くASEでTV取材を受けていると、突然ドアが開いて、若者が入ってきた。

 若者は不登校から引きこもりがちになり、私との関わりもある誤解から拒絶するようになっていた。

 彼の家に押しかけてでも誤解を解きたかったが、グッと我慢して彼に定期的にメイルを送り続けた。返事はなくても読んでくれているに違いないと、それを信じて書き続けた。

 「外を歩いていたら電気が点いていたので来てみました」

 そういう彼の顔を見て私は本当に嬉しかった。しかし、他の来訪者の手前もあり、「来てくれて嬉しいよ」とだけ言って握手。時間を取って話を聞かずに帰してしまった。

 後になって後悔したが後の祭りだ。彼が再び連絡してくるのを願ってただただ待つしかない。

かわいい(?)ナショナリズム

2008-05-22 10:18:35 | Weblog
 「中国はカネがあるんでしょ?」
 「中国は悪い国だよ」

 ASEの受付カウンターに置かれた募金箱を見て、小学生たちが言った。

 彼らは、普段からそんな口の利き方をする子達ではない。直子が作業をしていると、積極的に手伝ってくれたりもする優しい心根の持ち主だ。彼らと話していて、ここまで反中感情が浸透しているのかと驚いた。

 ギョーザ問題が尾を引いているのであろうが、確かにTVの地震報道ひとつ取ってみても視聴者を嫌な方向に誘導しかねないような論調が目立つ。もちろん、中国の悪い面はきちんと指摘していかねばならないが、いたずらに反中感情を刺激することだけは避けて欲しいものだ。

心打つ援助隊の姿勢

2008-05-22 01:02:26 | Weblog
 四川大地震被災地での活動を終えて21日に帰国した国際緊急援助隊救助チームが、中国で絶賛されている。

 讀賣新聞の電子版が伝えるところでは、救助隊の懸命の捜索にもかかわらず、生存者救出こそならなかったが、掘り出した犠牲者に対して整列して黙とうをささげた隊員の姿が、中国人の心を激しく揺さぶったというのだ。

 隊員たちの姿を映したこの写真は、援助隊が17日、四川省青川県で母子の遺体を発見した時のもので、国営新華社通信が配信、全国のネットに転載された。

 「ありがとう、日本」「感動した」「かっこいいぞ」……インターネット掲示板に賛辞があふれたという。日本の救援隊が、二つの同胞の命にささげた敬意に中国の人たちが心打たれたのだ。

 「大事にしてくれた」ことへの感謝と同時に、失われた命もおろそかにしない姿勢は、「我々も犠牲者に最後の尊厳を与えるよう努力すべきだ」(新京報紙の論文)という、中国人としての自省にもつながったのではないか、と讀賣は伝えている。

 ネット掲示板はこれまで、「反日」の書き込みが多く見られたが、日本隊の黙とうで、「対日観が大きく変わった」との声も寄せられている。

 帰国した援助隊を成田まで迎えに出て「中国の人々は日本に感謝します」などと書かれたプラカードを掲げて隊員らを出迎えた約20人の中国人留学生もいた。これを契機に、日中友好気運がより高まることを期待したい。

私の視点 緊急援助隊の人選ミス

2008-05-20 23:51:47 | Weblog
 四川大地震で救助活動を行なっていた日本の国際緊急援助隊(JDR)救助ティームの小泉崇団長は20日午前、成都市内のホテルで会見し、生存者救出の成果がなかったことを聞かれ、「直ちに活動できなかったのは残念だ」「中国は救助隊の受け入れに不慣れな部分があり、我々が必要としている情報が得られなかった」と真情を吐露した。

 小泉氏は、JDRを率いて被災地入りしたものの、中国側のしたたかな対応に相当苦慮したのであろう。淡々とした口調の中にも悔しさが滲み出ていた。隊員に十分な力を発揮させることなく被災地を離れなければならず、隊員にも申し開きが立たなかったとの思いもあったのではないか。

 色々調べてみると、中国側の対応には、日本からの緊急援助隊を歓迎する一方で、何か「お家の事情」があったのではないかと思わせるものがある。

 それはまず、案内された被災地の特徴だ。土砂崩れの場所など、都市型災害対応を得意にする、またそのための機材を持ち込んだJDRが活動するには適切な場所選びではなかった。また、校舎や建物の倒壊現場も、人民軍がすでに手を付けて生存者がいる可能性が期待できない場所が少なくなかったとのことだ。

 そうした受け入れ側の対応を責めるのは簡単だ。だが、相手は百戦錬磨の人民軍だ。中央政府や共産党本部の意向を第一に考える組織である。人民軍の力は絶大で、消防や警察なんぞは、人民軍の前では「借りてきた猫」だ。

 そんな人民軍との交渉を速やかに行なえるのは、かなりの交渉力を持つ者でなければならない。なのに今回救助隊を率いた小泉氏の経歴は、在外公館の参事官や臨時大使を経て緊急援助室長になったというだけのもの。今回の役割はいささか荷が重すぎたのではないかと思えてならない。外務省の人間に聞いた範囲では、小泉氏は中国政界や人民軍にパイプを持つわけでもなく、中国語の達人でもない。救助のプロでもない。東チモールの日本大使館員としての活動実績くらいが目立つ程度だという。

 可哀そうなのは、そんな団長に率いられて現地入りした救助隊員たちだ。存分な力を発揮する機会を与えられず、不満の溜まる日々であったに違いない。

 生存者を救出できなかったことについては「今は気持ちの整理がつかない」と苦渋の表情を浮かべた隊員がいたとのことだが、そういう心理状態になるのは当然だ。悔しさが募るはずだ。

 私はこれまで機会があるごとに、交渉人と言うか、コーディネイターの重要性を説いてきた。JDRには是が非でも豊かな専門知識と経験を備え、なおかつ交渉力の優れた専門スタッフを置くべきだと、ことあるごとに力説してきた。

 「いつ起きるか分からないことにそんな投資は出来ない」と答え続けてきた総務省や外務省の幹部に、今一度私は強調したい。「優秀な交渉人を就けろ」と。それでなければ、我が緊急援助隊の名が廃るというものだ。

 これまでJDRは13回海外に出動した。しかし、救助のプロたちは、そのほとんどが十分に力を発揮できないまま帰国してきた失敗例と見ている。彼らが積み重ねてきた国内での経験からすれば、海外における救助活動実績はあまりに低レヴェルだ。これは、ひとえに受け入れ側との調整不足に私は原因があると見ている。

 JDRは、日本には数少ない「外交使節」である。それに見合う予算と時間を十分にかけた上で、世界に誇れる救助機関を作ることが、日本の評価を高めるだけでなく、安全保障にもつながるのだ。調整能力に劣る外務省に任せないで、今こそ新たな形の調整機関を設けるべきである。


【筆者からの訂正と謝罪】
 ここで一点、私がこれまで論調としてきたことで訂正しなければならないことがあります。それは、日本が救助技術の協力を中国に対して熱心に行なってこなかったとしたことです。

 レスキューの専門家たちに確かめたところ、これまでに消防庁は、多くの中国からの研修生を消防大学などに受け入れたり、中国に指導者を派遣して技術援助をしてきたそうです。だから、両国の消防の交流に関しては、私の見方は間違っていました。

 ここに訂正をしてお詫びいたします。

悔しさ噛み締める救助隊員

2008-05-20 00:35:13 | Weblog
 外務省の「国際緊急援助室」に今日(今になっては昨日)、町村発言について問い合わせたところ、やはり北山県からの撤収は間違いはなく、四川省の省都である成都に「ひとまず戻り待機することになった」とのことだ。

 その理由は、「一週間以上経って(被災者が生存する)可能性が極めて低いため」としているが、同室の職員は「現場の判断も考慮した上で中国側との話し合いによって決めたこと」と答えた。

 私はそれを額面どおりには取らない。

 考えられることとしては、中国政府が外国からの救助隊を受け入れたものの、あくまでもシンボル的なものと考えており、もうお役ごめんとばかりに撤収を言い出したか、日本の外務省が「これ以上の活動は面倒を引き起こす可能性がある」として切り出したかのどちらかであろう。前出職員の話では、現地にいる救助隊の判断や意向を汲み入れた上での決断だと言うが、救助隊員であれば、被災地に足を踏み入れた以上は、ひとりの命でも救いたいと考えるはず。被災地に入ってまともに活動をしないまま引き下がれるかとの思いに駆られるのが普通だ。だから、今回の判断には、現場の声は生かされていなかった気がしてならない。

 日本の救助隊の中国における評判は、マスコミ報道を見ても、ネット上でもすこぶる良い。巨額の経済支援でもここまでの評価は得られない。それだけに、思う存分力を発揮させてあげたかったと思うのは私だけではないだろう。

 先ほど、書き込まれた讀賣新聞の電子版によると、やはり救助隊員が自分たちの力を十分に発揮できないまま撤収命令を受けたことに不満を感じているようだ。

 讀賣新聞の記事によると、成都への撤収の指示が伝えられたのは19日午後1時すぎだ。別の現場での活動に備えて待機していた隊員たちは「出番を待っていただけに全員が無念の表情を浮かべた」とのことだ。

 「今の思いは簡単には言い表せない」
 「中学校では、まだ子どもが生き埋めになっている可能性があるのに」
 と、隊員たちはうなだれたり、唇を噛んだという。

 日中両国政府の間にどのような思惑があったにせよ、日本の救助隊の日頃から積み重ねてきた研鑽が発揮されることなく、撤収に至ったのは残念でならない。

 近日中に救助関係者を取材して、その辺りの事情や思惑を探ってみたいと思う。

救助隊を撤収?

2008-05-19 14:59:03 | Weblog
 発生から丸1週間を迎えた「四川大地震」の被災地では、地震による被害で危険なダムが約1500あり、洪水発生など2次災害の危険も続いている中、救助隊による懸命な捜索が行なわれている。

 日本の国際緊急援助隊は19日、震源地に近い北川県曲山鎮の中心街で捜索活動を行う予定だったが、崩れた土砂で川にできたダムに決壊の恐れがあるため、捜索を取りやめた。

 すると今日、町村信孝官房長官は会見で、国際緊急援助隊の撤収を含め検討する方針を明らかにした。

 人命救助のイロハも分かっていない発言だし、外交面にどのような影響をもたらすかも配慮しない愚かなやり口だ。

 町村氏は一体人命救助を何と考えているのだろうか。彼らが現地入りして何日経ったというのだ。救助隊員の一人ひとりがどうにかして生存者を救い出したいと懸命になっているときにこのような発言は、プロの彼らに失礼だし、活動に水を差すことになる。確かに、隊員たちは疲労困憊しているだろうし、二次被害も心配される。だが、そんなことは承知の上で行っている筈だ。彼らは最後の望みが消えるまで全力を尽くそうと日夜頑張っている。それが、日中友好推進になることも願いながらの救出作業だ。

 国を挙げて彼らを応援しようではないか。これまでの自然災害を見ても分かるように、確かに人命救出の鍵となるのは発災後72時間だが、一週間以上経過しても助かった例もある。

 ここまで書きかけたところで、先ほど、徳陽市と北川県で被災から160時間以上経過して、2人ががれきの中から救出されたとの情報が入ってきた。

 これから外務省に町村発言の背景にある事情を取材するつもりである。

街頭募金と署名活動

2008-05-18 23:25:41 | Weblog
 ミャンマーのサイクロンと四川大地震の被災者への支援を呼びかけた。

 その手法は、街頭募金。

 日曜日の午後4時から2時間、JR南浦和駅の駅頭に立って義捐金を求めた。それに加えて、さいたま市内の学校の耐震化早期実現を請願する署名活動を行なった。

 かけつけてくれた仲間は7人。募金箱の製作や配布物の作成から駅頭における募金活動までブログやメイル・マガズィンの読者もわざわざ足を運んでくれ、直子と私を入れると、存在感のあるグループになった。

 ただ、これまで数百回募金活動をしているが、ことがミャンマーや中国という外国の自然災害であるためか、反応が今ひとつ。目立ったのは、在日中国人が足を止めて寄付をしてくれたり、お礼を言ってくる姿であった。

 15年前の阪神・淡路大震災の時、全世界から多くの支援が届けられた。金額的にも、その支援の輪の規模も記録的なものであった。だが、今回の街頭募金を通して見た我々日本人の外国の被災地を見る姿は、日常に疲れているのか、こちらの問いかけに無反応に近かった。

 学校の建物の耐震化への関心も今ひとつ盛り上がらなかった。これは、恐らく事実を知らされていないからだと私は思っている。それだけに、これからの私たちの活動が重要になってくる。

 いずれにしても、さいたま市のように、公立小学校の校舎の耐震化が30数%、屋内体育館に至ってはゼロというのは、看過するわけにはいかない。これからも折を見て活動を続けていくことを心に誓った。

最高の人生

2008-05-17 05:42:30 | Weblog
 映画「The Bucket List-最高の人生の見つけ方」を観た。

 この題は、to kick the bucket(戯言で、dieつまりは死を意味する)を文字って、「死ぬまでにやることリスト」としたのであろう。

 主演のジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが素晴らしい。人間の持つ欲望丸出しのギトギト感を演じさせたら恐らく世界で最高ではないかと私は思っているが、煩悩の命ずるままに振舞うニコルソンの演技が良い。また、忍従を強いられながらも自分を見失わず生き抜く役柄がピッタリのフリーマンが、ただ単なる引き立て役ではなく、「凹凸」の一方を担っている。

 「やることリスト」には、末期がんで死期が近いと宣告された二人が、ならばとこれまで果たせなかったことが書き込まれていく。それが、「パラシュート降下」であったり、「憧れであったクラッスィック・スポーツ・カーを運転する」「泣くまで笑う」と、文字にしてしまえば“ああ、そう”程度のことだが、二人の演技力の高さと世界旅行をしながら一つひとつ書かれた事を実現していく。それもその実現の仕方が意表をつく展開で、観る者は「二人の世界」にはまっていく。

 ストーリーと演出方法が、金満ハリウッド映画の典型と言ってしまえばそれまでだが、人生の最後をどう過ごすかという重いテーマである。この位の演出方法は許される範囲だと思う。

 リストに書き込まれたことが、一つひとつ実現されていっても、「kiss the most beautiful girl in the world(世界でもっとも美しい女性とキスをする)」が実現されないまま残されていく。

 「ちょいエッチおやじ」の私は、それがどんな形で実現されるのか。正直な話、少々“期待”してしまったが、最高の話で締めくくられている。思わずほろりとさせられてしまった。その内容を書いてしまったら、読者に怒られてしまうので控えるが、この展開に込められた深い意味を映画を観た後何度も反芻している。

 周りに「人生の最期」までの時間と直面している親しい人が何人かいるだけに、自信を持ってのお勧めの作品である。

緊急援助隊、被災地へ

2008-05-16 00:16:37 | Weblog
中国外務省は15日、四川大地震で受け入れに難色を示していた諸外国からの人的援助に関して「日本からの緊急援助要員を受け入れる」と発表した。各国から申し出がある中で、日本は中国が人的援助受け入れを決定した最初の国となった。

 これを受けて政府は、直ちに消防、警察、海上保安庁、国際協力機構(JICA)などで編成する国際緊急援助隊を現地に派遣することを決めた。第1陣約30人が同日夕に成田空港から出発、16日午前には四川省の省都、成都に入る。さらに、同日、第2陣約30人が向かい、総勢60人規模となる予定。

 日本を受け入れ第1号に選んだことは、胡錦濤国家主席が今月初めに訪日したことも影響しているだろう。中国政府が、日本の豊富な災害救援経験を認めただけでなく、日中関係を重視したことを意味している。

 緊急援助隊はこれまで、12回の出動実績がある。台湾大地震では問題を色々露呈したが、被災者から高い評価を得た。今回、是非、結果を出してもらい、日中友好に弾みをつけて欲しいものだ。

この指と~まれ

2008-05-16 00:14:12 | Weblog
ミャンマーのサイクロン、中国の大地震と大災害が続いて起きています。

そこで、2つの災害への支援活動(街頭募金)と学校の耐震化促進への署名活動をやろうと思います。
時間と心の余裕のある方は、今週末、南浦和まで足を運びませんか?時間と心の余裕はなくとも懐に
余裕のある方は、寄付をお願いします。

(註:さいたま市の公立小中学校の校舎及び体育館の耐震化が30数%と、全国の中でも極端に低いレ
ヴェルにあります。そこで、耐震化促進活動を昨年から始めました)


日時:2008年5月18日(日) 午後4時から約2時間。
場所:JR南浦和駅前
寄付金届け先:ミャンマー(AAR-難民を助ける会)中国(赤十字社)

募金活動の前に募金箱やビラ製作などの仕事があります。早く来られる方は、ご協力下さい。

浅井久仁臣

寄付金受付先:みずほ銀行南浦和支店 普通 2139810
名義「Media Literacy Institute 浅井久仁臣」

(註:Media Literacy Instituteとは、私が2004年から代表を務める組織です)