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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

市民運動の巨星逝く

2007-07-31 11:44:08 | Weblog
 市民運動の巨星、小田実氏が30日、逝った。

 とにかくけた外れの人物であった。ろくに英語を喋ることができなかった(本人の弁)のにフルブライト留学制度に合格、ハーヴァード大学で遊学した。その後、貧乏旅行をして日本に帰国、1961年、その体験談を一冊の本『何でも見てやろう』に書き、世間の度肝を抜いた。

 今から思えば、「ろくに英語を喋ることが出来なかった」小田氏が選抜されるわけはないし、またたとえそうであったとしても1年間の遊学であれだけの英語の使い手になれるものではない。私を含めて多くの読者が、彼の作文に騙されたのだろう。

 だが、そんなことはどうでもいいほど、この本は刺激的であった。中学生の私は、描写の一つひとつに心を動かされ、行間に隠されたさらに刺激的であったろう彼の体験に心を躍らされた。

 4年後には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を始めたが、これは当時の私にとっては、「腰抜け集団」にしか見えず、その運動に関わることはしなかった。ただ、67年秋の米軍脱走兵の支援には驚かされた。

 当時、泥沼化したヴェトナム戦争への兵役拒否をする米兵が出始めていた。日本でも折からの大学闘争とあいまって反戦活動に関心が集まっていた。その2つの動きから生み出された事件であった。

 マスコミを集めて米兵4人の脱走と日本からの脱出幇助を発表する小田氏や他のベ兵連のメンバーは、とても誇らしげであった。日本の警察の目を盗んでソ連の船に乗せて北欧に亡命させたベ兵連は、海外からもその独特な活動が注目を集めるようになった。

 そんな空気の中、翌年1月、米原子力空母「エンタープライズ」が九州佐世保港に入港した。学生・労働者、そして市民がそれに猛反発。日本全国を騒がす大騒動となった。

 私は「何でもやってみよう」とばかりに、夜行列車や通勤列車を乗り継いで佐世保に入った。その時、現場でベ兵連のデモを率いて歩く小田氏を初めて見た。大柄な身体を前かがみにして歩く姿は、今で言うオーラを発するもので、私の周りでも「小田実だよ」と芸能人を見るかのようにささやくものが何人もいた。

 実際に会って話したのは、それから10年近く経ってからであったが、その時には心なしか余裕を失っているようで、輝きを感じられなかった。周りを取り巻く人たちが壊れ物を扱うかのように神経質になっていたのが印象的であった。

 彼は英語の使い手であったが、英語を母国語とする人たちと話す時は、堂々と「(英語は)君にとっては母国語だが僕には外国語だ。ゆっくり話しなさい」と主張した。これは、私には新鮮な視点で、自分が英米人と議論をする時は、よく使う表現である。だが、それにしては、小田氏本人は、母国語の日本語を喋る時は、たとえ相手が外国人であっても早口であった。また、一部の人が、彼をテンノーと呼ぶ空気も私とは相容れなかった。だから、私がベ兵連の活動に近付くことはなかった。

 小田さんの起こした市民運動が、今の住民運動やヴォランティア・NPO活動に影響を与えたと指摘する人もいる。今朝の朝日の社説にもそういう記述がある。

 確かに、住民運動に関しては影響を与えた部分があるのは認めるにしても、ヴォランティア活動やNPOに関しては、残念ながらその影響が多いとは認められない。ベ兵連の活動を経験した活動家たちが、全国各地でヴォランティア・NPO活動に関わってきたが、成功した例はあまり聞かない。

 それよりも、彼が我々に訴え続けた市民の在り方に私は今でも共感するものを覚える。若い人たちには、一部で言われているような「北朝鮮の味方」「ソ連(崩壊前)の回し者」などという下劣な批判に惑わされず、今一度彼の書き(言い)遺したものに目を通されることをお勧めしたい。

 

 

老家老が繰り上げ当選

2007-07-31 09:34:14 | Weblog
 民主党の藤井裕久元代表代行が19日、参院選に立候補した長浜博行前衆院議員の自動失職に伴い繰上げ当選となった。

 藤井氏は、参院2期、衆院は6期目となる。小沢民主党党首とは、自民党を離脱して、新生→新進→自由→民主と命運を共にして、常に“殿”を立ててきた。いわば、老家老のような存在である。

 2年前の総選挙で次点に敗れた当初は、高齢を理由に政界からの引退を表明していただけに、繰り上げ当選を受けた藤井氏に驚く声も上がったが、永田町では、「殿の栄えある姿(首相になること)を議場で見届けたくなったのだろう」と、冷ややかな目で見られている。

 小沢政治の汚れ役を担ってきた人物でもある。大蔵省の役人出身で細川、羽田両政権では大蔵大臣を務めた。民主党に入るまでは実質的な小沢氏の金庫番とも言われており、自由党を民主党と結党させた際には、5億、10億という大金を不可思議な動かし方をして自民党から追求された。皮肉なことに、その疑惑を追及したのが、自殺した松岡利勝氏であった。

鈍感力

2007-07-31 07:17:43 | Weblog
 鈍感力、。嫌な言葉だ。ライオンヘアの鼻先のとがったお方が言い触らして巷間でもよく使われるようになったが、私は大嫌いだ。

 本来はこの鈍感力、物事に対して動じないことを言い表したいのだろうが、それが、この言葉の出現によって、対人関係や対話にまで使われるようになった。特に、永田町では“住人”の間ではやり言葉となっている。

 昨日の安倍首相の、参院選の惨敗を喫した後の記者会見でもその言葉そのものは使われなかったものの、鈍感力が随所に見られた。特に、首相の責任論など都合の悪い話になると、途端にその目はどんよりと曇り始め「鈍感モード」になった。

 選挙戦中、安倍氏は何度も選挙民に対して「私と小沢さん、どちらが首相に相応しいか、国民に聞きたい」と言っていた筈である。

 ところが、その結果は自民党結党以来の記録的な惨敗。当然のことながら記者会見で、記者の質問がこの発言に及び、安倍氏の責任の取り方が問われた。

 すると、その質問の肝心の部分は聞こえなかったかのように、まともに応えようとはしないで、「人心を一新せよというのが国民の声だと思う」などとわけの分からないことを言う。

 それに対する記者もだらしがない。「はぐらかさないでまともに応えるべき」と言えないのだ。国民の多くが、安倍首相の「私と小沢さん」発言の責任の取り方を聞きたいのだからそれを代弁するのが記者の務めの筈なのに、いけしゃあしゃあと話をはぐらかす安倍首相をそれ以上追及しなかった。

 記者会見を見ていて思ったのだが、この鈍感力、政治家連中だけではなく、取材する側にも蔓延しているのかもしれない。欧米の記者会見では、政治家たちが誠意を欠いた答えをしようものなら徹底的に記者から叩かれる。それをしない、いやできない日本のマスコミが政治家たちを鈍感にさせているように思えてならないが、うがち過ぎか。

私の視点 小沢一郎時代の到来

2007-07-30 09:05:26 | Weblog
 果たして本当に、「風」は吹いたのか。

 昨日行なわれた参院選の「民主大勝・自民惨敗」に、マスコミは大騒ぎだが、では、果たして、これまで投票所に足を運ばなかった人たちが新風を巻き起こしたかと言えば、投票率を見る限りでは、その事実はない。

 ただ、自民党の体たらくに辟易とした保守層が、今回はお灸を据えておこうとしただけではないか。私にはそう見える。

 「亥年現象」という言葉がある。イノシシ年に行なわれる参院選では、「投票率が落ちる」「自民が苦戦をして公明、共産が強い」点から朝日新聞の石川記者が命名したものだ。その意味で言えば、今回の選挙では投票率は平均点であったし、公共も議席数を共に落とした。

 だが、亥年特有の「何かが起きる」という観点から言えば、自民の歴史的敗北が起きた。

 その歴史的敗北はなぜ起きたか。

 これは、年金問題や税負担増など自分の生活に直結する問題で「自民は庶民を切った」と直感した保守層が怒りの声を上げたからだ。決して新しい風、つまりは無関心層が投票行動に出たわけではない。

 そういった意味では、小沢一郎氏はさすが自民党の幹事長として辣腕を振るった「選挙のプロ」だ。彼は、「新しい風」を巻き起こすことよりも、保守層の切り崩しを謀ったのだ。彼の全国行脚を分析してみると、大都市で派手に振舞うよりも、地方を歩き回る(実際はヘリで飛び回った)ことに徹している。選挙戦最終日も鳥取と島根を演説の場として選んだ。

 これは、菅氏でも鳩山氏でも、ましてや岡田氏でもできることではなかった。「あの小沢一郎」だからできた“職人芸”なのだ。

 小沢氏は、かつて自民党において「木曜クラブ(「泣く子も黙る」田中派の前身)」で田中角栄元首相の薫陶を受け、「首相の器」として周囲の期待を集めた。ただ、田中氏と違ったところは、人情に流されることはない冷徹さで、一旦、「おやじ(角栄)の時代は終わった」と見切ると、竹下、金丸両氏と共に田中派を割り、創政会という“勉強会”を作り、「新しい保守政治」を目指した。この頃の小沢氏を知る人は、彼の怖さを今でも昨日のことのように語る。

 党幹事長時代には、企業から莫大な政治献金を集め、その力を内外に誇示して党の結束力を高め、91年の首相選びの際には、先輩候補者三人を自分の事務所に呼びつけて面接をした。

 自衛隊の海外派遣への道を開いたのも小沢氏である。90年8月の湾岸危機から91年1月の湾岸戦争に至る過程で、米政府の圧力を巧みに利用して、「普通の国家」にするのだと、自衛隊の海外派遣の必要性を主張した。さらに、米国から脅迫まがいの“支援要請”を受けて血税から捻出された135億ドルの数%をキックバックさせたのではないかとの噂は、今でも永田町では根強く信じられている。

 そんなしたたかさを持つ小沢氏である。私は、小沢氏が民主党代表になる時、彼の「怖さ」に触れたことがあるが、彼の深謀遠慮は桁外れたもの。周到なる計算から打ち出された彼の計画は、他の幹部のような「思いつき政治」とはまるで違うのだ。

 繰り返しになるが、新風など全く吹かなかった。今回の「政変」を演出したのは小沢一郎一人である。いよいよ、小沢一郎氏の時代の到来である。小沢氏の「昔の顔」を思い出させるこの選挙結果が、今後の日本の政治をどう変えていくか。私は期待よりも警戒心を強くして見守っていきたい。

 
 

小沢一郎よ、お主もやるよのう

2007-07-29 23:27:40 | Weblog
 参院選で民主党が大躍進。歴史的な勝利を収める中で、「政治生命をかけて選挙を戦う」と言い続けて全国行脚をしていた小沢一郎氏が、ドクターストップを理由にマスコミの前に姿を現していない。

 これは、彼一流の演出と見るべきだろう。実際に彼は長年、心臓病を初めとして幾度も病に悩まされてきた。だから、今回の全国遊説をする姿を見て驚いたものも少なくないはずだ。

 確かに、選挙を戦い抜いて疲労の極みである事は容易に想像が付くが、それにしても昨日の“雄姿”を見ると、ドクターストップと言われても信じ難い。ひねくれ者の私などは、これも彼一流の演出なのでは、と疑ってしまう。

 日本全国が彼の健康状態に注目する中、“病床”で次なる一手を考えているのであろう。また、彼の代理でTV出演している官直人氏のさえない弁舌を聞いてほくそえんでいるのであろう。それにしても、小沢さん、お主もよくやるよのう。

人質一人殺害か?

2007-07-26 07:54:46 | Weblog
 韓国人人質問題で、案の定、情報が錯綜している。

 アフガン・イスラミック・プレス(AIP)は昨夜、タリバーンは、韓国及びアフガニスタン政府と行なっていた人質解放交渉の失敗を宣言したと、タリバーン報道官の言葉を引用して報じた。


 タリバーンのアマディ報道官は「釈放を要求する拘束中の仲間8人の名簿を送ったが、まだ何の返事もない。アフガニスタンと韓国の政府の態度に誠実さが見られない」と交渉相手を非難した。


 同報道官は「タリバーンはこれ以上待てないと判断し、交渉失敗を宣言した。人質の韓国人のうち一部が、本日午後2時(現地時間)までに処刑されるかもしれない」と主張した。

 その報道と前後して、韓国人23人のうち8人が解放され、安全な場所に向け移動しているとの情報も飛び込んできた。8人全員が女性だという。その情報では8人は現在、ガズニ州近くの米軍部隊に移動中と思われるとある。だが、その後、その情報の続きはもたらされていない。

 一方、解放の情報とほぼ同時刻に、人質のうち男性1人が殺害されたと報じられた。アフガン政府が誘拐実行グループの要求を聞き入れなかったため人質1人を銃で撃ち殺害したというのだ。今後も要求に応じなければ追加で人質を殺害していくと警告したという。これに対しアフガニスタン政府は、事実と確認したと発表した。

 一部報道では、人質の一人と思われる男性の遺体が、拘束場所と推定されている地域で発見されたとのことだ。遺体には複数の弾痕があるという。


 だが、これらの情報もどれが真正のものかは判断が難しい。拉致グループのみならず、政府側も交渉を有利に導くため虚虚実実、様々な種類の情報を流すからだ。

 昨日釈放された「ドイツ人ジャーナリスト」も、実はデンマーク人ジャーナリストの間違いで、それもアフガニスタン系であった。これを見ても分かるように、この種の情報は、「下駄を履くまでは分からない」というのが、事情をよく知る者たちの“常識”となっている。

人質の一人殺害か

2007-07-26 00:10:39 | Weblog
 ロイター通信は先ほど、タリバーンが人質の韓国人23人のうち1人を殺害した、と自称タリバーン報道官の言葉を引用して報じた。

 また、カタールの衛星放送アルジャジーラも同様の報道をした

 一方、韓国政府は人質23人のうち8人が解放され、安全な場所に移動中だと発表した。韓国の聯合通信(YTN)は、タリバン報道官が現地時間26日午前1時(韓国時間午前5時半)を人質解放のための最終交渉期限として提示したと報じた。
 

混迷深まる韓国人グループ誘拐事件

2007-07-25 21:38:52 | Weblog
 タリバーンを名乗るグループが23人の韓国人を人質に取っている事件で、実行グループの情報に世界のマスコミが振り回されている。

 これまで、タリバーンのスポークスマンを名乗る男は、韓国人を拉致した翌日の20日、「韓国軍の撤退」と「拉致韓国人と同じ数のタリバーン兵の収監者の釈放」を解放条件として突きつけた。しかし、いささか事前の勉強不足であったようで、韓国軍の撤退が今年末と知らなかったらしく、それを知ると、その要求をはずし、釈放を要求する収監者の数を増やした。

 24日には初めて金の問題を取り上げたと言われる。共同通信によると、アフガン政府の代表の言葉として、タリバーンが韓国政府に拉致した韓国人との電話通話を許す代わりに、10万ドルを要求したと報道した。

 アフガン政府関係者も、交渉を続ける中で、タリバーンが状況の変化によって要求条件を変え続けていると23日になって明らかにしている。

 23日には、タリバーンと米軍との間で激戦が行なわれたが、これも見方によっては、拉致と連動した作戦ともとれる。

 タリバーン兵が70名以上死んだといわれる戦闘の翌日、タリバーンの代弁者が「人質と同数のタリバーン兵の収監者の交換」の条件を「人質1人当たりタリバーン兵5人」に増やしたと、報じられた。

 このやり方を、毎日新聞は24日、多数の人質を拉致した状況はタリバーンにとってもなじみのない経験であり、内部的に混乱が発生した可能性があると伝えた。一気に23人という多くの人を人質に取り、そのうち18人が女性である点などが、彼らに「なじみのない」状況だという点も指摘している。だが、これは、的を射たものではない。先ず考えられるのは、23人を一ヶ所に監禁するのではなく、分散させているはずだから、人数の多さに戸惑うことはありえない。また、女性だろうとタリバーンが実行グループだとすれば、彼らに特別な感情はないはずだ。これまでにも、女性が数多く拉致されている。

 タリバーンが韓国人の釈放に関する要求をしきりに変えるのは、組織内の混乱もあるだろうが、作戦であることの方が多いはずだ。これは、タリバーンに限らず、人質作戦をやる武装グループの常套手段である。緊張感を造り出してアフガン政府と韓国政府に有形無形の圧力をかけようとしているのは明白だ。

 タリバーンは今年3月、イタリア人記者を人質にとり、いろいろな手法を使い、5人のタリバーン兵の釈放を勝ち取った。この際もイタリア政府がアフガン政府に働きかけるように巧みに仕組んでいる。だから今回も犯人がタリバーンであればという仮定が付くが、様々な手を使ってくる可能性は大きいのだ。つまり早期解決の可能性は少ないとの見方だ。

 ただ、私が早期解決に懐疑的な一番の理由は他にある。それは、カルザイ大統領が弱腰姿勢を嫌うからだ。イタリア人記者の人質事件の解決策に米政府がかなり強い不快感をカルザイ大統領に示したことが大きな足かせとなり、カルザイ氏はタリバーンとの対決姿勢を崩せないのだ。

 24日には、世界中を「解決は時間の問題」といったニュースが駆け巡った。私のところにも、TV局が解説者としての出演要請をしてきた。だが、案の定、1日経たないで楽観的な見方は一転して悲観的なものとなった。

 この種の事件に一喜一憂は禁物である。冷静に相手からの要求や情報を受け止めて焦らずに対応することが大事だ。それが、人質となった人たちを無事に生還させることにつながる。日本人を対象としたこの種の事件はこれから増えることが考えられる。この事件を他人事と考えず、自分たちの問題として考えておきたい。

アフガンで韓国人若者23人が拉致

2007-07-24 21:27:52 | Weblog
 韓国の若者23人がアフガニスタンでタリバーンと思われる武装勢力に拉致された事件に世界の関心が集まっている。

 いくつかのメディアからコメントを求められたが、私には今回の拉致事件が起きるべくして起きた事件に見えると答えた。

 それは二つの面から考えれば当然の帰結が得られる。

 一つは、アフガニスタンの情勢だ。2001年のタリバーン政権崩壊後、一時的に米軍主導の多国籍軍によってタリバーン勢力は一掃され、カルザイ政権が全国を平定したかのように見えたが、数年前からタリバーン勢力の反抗が始まり、今では「首都カブール以外は危険」とまで言われるほどになった。

 タリバーンは世俗的なことを嫌い、欧米の影響を忌み嫌う。だから、外国人がアフガニスタンに入ることは、しかもタリバーンの本拠地ともいえるカンダハル市に近付く事はご法度に近い。だから、23人の若者にはキツイ言い方だが、今回の計画は自殺行為に近い。

 二つ目に上げられることは、韓国は、日本ではあまり知られていないが、「布教大国」であることだ。特に、福音教会は事の外海外布教に熱心で、173カ国に16,000人以上を派遣している。これは、米国に続いて世界二番目だと朝鮮日報は伝える。さらに驚くべきことにアジアのイスラーム諸国に約4,700人もの人を送り込んでいる。

 これが単なるヴォランティア活動であれば、まだ地元で感謝されることもあるが、布教活動を派手にやるから「イスラーム教への挑戦」と取られる危険性がある。昨年8月には、韓国福音教会は、アフガニスタンで2,000人規模の集会を計画、地元の人たちの猛反発に遭い、計画の中止を余儀なくされた。

 「同じアジア人」との甘えが福音教会側にあったとしたらお粗末な話だ。アメリカという超大国を敵に回して緊張感の塊となっているタリバーンにそんな甘えが通用するはずがない。

 今この事件の裏舞台では、タリバーンとアメリカとが様々なカードを使いながら陰に陽に交渉をしているはずだ。ブッシュ政権の狙いは恐らく特殊部隊による特攻だ。アフガン、韓国両政府には時間稼ぎをしてもらい、そのための準備を着々と進めているに違いない。タリバーン兵士が各地で殺されているのは、それと無関係とは言えまい。一方のタリバーンは、そのようなシナリオは当然想定済み。それにどう対抗するかを考えて交渉に臨んでいるはず。

 後どのくらいで解決するかとメディアは私に聞くが、そんなことは分かるはずもない。このような拘束者の交換は通常長時間を要する。しかし、状況が一つ変われば一挙に解決することも珍しくない。いずれにしてもしばらくは目を離せない状況が続くだろう。

中越沖地震 現地報告 その5

2007-07-24 12:30:41 | Weblog
 その夜は、麻田さんの小千谷の御自宅に泊まるようお誘いいただいたが、翌朝の交通手段を考えると、市外に出るのは得策ではないと判断。近くのビジネス・ホテルに泊まった。

 そのホテルは良心的で、水が使えないから宿泊料は3000円でいいとのこと。さらに、非常食みたいなものだが、無料で食事をしてもらえた。トイレが使えないといっても、一階の共同トイレに汲み置きの水があり、不便さは感じない。

 被災地に入ってホテル?と思われる方もおられようが、なるべく現地にお金を落とすことも大切なこと。宿泊施設が営業していない状況であれば、テントでも車の中でも構わずに寝るが、住民のための避難所では(役割がある場合は別)寝ないようにしている。

 災害支援の基本は、良く言われることだが、自己完結。被災地に入ってくるなり、「食べ物は?寝るところは?」と言うヴォランティアがいるが、その時点でその人には「失格」の烙印を押さざるをえない。被災地に出かけて、面倒を掛けているようでは災害支援ヴォランティアとは言えないからだ。

 その夜は、余震も何度か起き、市内を救急車のサイレンが鳴り響いていた。

 翌朝、埼玉県川口市から来た建築士3人と合流。建物や地盤の視察をして周った。ヘルメット姿で、地図に情報を書き込んでいく一行を見て、建物診断をしてもらえるかと住民たちは声を掛けてくる。

 仲間たちは全て一級建築士で、これまでに何度も被災地に入っている。だから、建物診断が出来ないわけではないが、行政を邪魔してはならない。先ずは、住民に巡回している行政派遣の建物危険判定士を待つように言い、緊急性があったり、深刻な度合いがさらなる被害を生む可能性があると判断した場合のみ関連機関に報告するようにしている。

 「傾いた建物が倒れて被害が出る可能性があるのでは?何とかして欲しい」
 西本町商店街で町会長を名乗る人が訴えてきた。

 確かに壊れかかった商店の建物が崩れるのは時間の問題で、そうなれば隣の建物に影響が出ると心配するのは当然のこと。また、通りかかった人を巻き込む恐れも考えられる。

 だが、3人のできることは限定されている。リーダーの大羽賀さんは、町会長の話を聞いてやり、注意点を幾つか上げて助言した。そして、市役所と建築家協会の方に報告をすると約束した。

 3人はあちこちでしきりに道路のずれを計測し始めた。各所で地面が海側に大きくずれたことが確認できるとのことだ。確かに、道路の陥没の仕方やずれ方を見て説明されると納得が出来る。

 西本町の商店街から一本道路を入ったところで倒れた塀を検分していると、中年男性が声を掛けてきた。マスコミの報道する被害に対して「家の多くが、倒れていなくても大きな被害を受けていますよ」と大きな不満を抱き、我々に訴えてきた。

 「この地域の下を掘ると、古木が沢山出てくるんですよ。山からの流木と思われるものです。ですから地盤は…」
 彼は、自分の住む街の歴史を良く知っている人で、我々の質問に冷静な受け答えをして必要な情報を提供してくれる。

 3人の建築士は口を揃えて、「よく見ると危ない建物が多い」と言った。

 行政の派遣する被災建築物応急危険度判定士は、講習を受けた役人や建築士がその役を担うが、柏崎で見かけた判定士は、どうみても建築のプロではない。仲間の建築士の話では、彼らが安全との判定を下したからといって必ずしもその建物が安全とはいえないのだ。逆もまた言えることで、「赤や黄色」の「危険・要注意」判定スティッカーを張られたからといって必ずしもその言葉の意味する通りではないということもあるらしい。

 近くの主婦の訴えの場合も深刻で、家の前の高さ4メートルくらいの擁壁が日に日に自分の家の方向に傾いてきており、いつ倒れてしまうかと心配でならないと言う。

 これは、この主婦の家族だけでなく、道路を通る通行人にとっても恐怖だ。市役所への報告を約束してその場を離れた。

 30度近い暑さの中を歩き続けた我々は、なんと目の前に喫茶店を見つけてしまった。営業中の文字が見える。4人全員寝不足である。特に3人組は、川口から深夜車を飛ばしてきており、睡眠時間は1,2時間だ。年齢的に言っても無理はきかないメンバーばかりである。また、持ち歩いた水も残り少なくなった。この際は休むのが得策だ。

 だが「休もう」と言う前に、気が付くと、「地域の店の復興につながる」などとそれぞれに理由を付けて店の階段を上がっていた。

 美味しいアイスコーヒーを飲んで元気を取り戻した我々は、市役所に戻り、早速災害対策本部を訪れた。先ほど集めてきた情報を共有してもらい、危険度の高いものについては迅速な対処をお願いしたかったからだ。

 対策本部では対処しきれないからと、都市整備の部署に連れて行かれた。それ自体はいいのだが、対応した役人がまるでヤル気なし。名刺を出してもお返しはない。また、事情説明を大羽賀さんがするのだが、その役人はメモを取るわけでもなく、大羽賀は仕方なく自分の名刺に情報を一つひとつ書いて相手に渡した。

 そうされて彼は何を言うかと思いきや、木で鼻をくくったような態度で、「公平性を欠くことになりますからこういう個別の話は対応できません」と言った。

 それまで黙っていた私がそこで口を開いた。

 「私たちは、市民からの全ての苦情や要求に応えてくださいとは言っていません。ただ、生活道路のように公共性の高いものや命に関わることについては話は別ではないでしょうか。情報の精査をして対応をしていただけないですか?人の手が足りないようであれば、外部に助けを求めるのも一法だと思います」

 役人から約束は得られなかったものの、それだけ言うと我々は次に避難所に向かった。

 柏崎小学校の体育館は、200余名の被災者で埋まっていた。半数近くが高齢者だ。床には薄いマットが敷かれているだけで、寝たきりのお年寄りもいる、これでは寝心地が悪い。

 話を聞くと、避難民は、最初は一様に感謝の言葉を並べ立てたが、しばらく話していると、お年寄りは居心地の悪さを訴えた。床が固い。うるさくて寝られない。暑い。おにぎりなど非常食のようなものばかりで食べ物が喉を通らない。

 中には、20数種類のクスリを並べて飲む男性もいた。話し始めると、戦時中の話から始まり、話が止まらなくなってしまった。

 寝たきり状態の女性の所に目隠しとなるパーティションが置かれてあったので話題にしてみると、周りからうっとうしいから止めてくれと言われ、着替えの時だけ使うようにしているとのこと。

 その日の昼食は白米にハンバーグが1つポンと乗せられているだけのもの。味噌汁が付いていたが、具はほとんど無い。地震が起きて4日目だから贅沢はいえないが、もう少し配慮があってもよいのでは?との疑問が湧いた。(続く)

川田龍平さんの選挙を見て

2007-07-23 16:31:01 | Weblog
参院選挙を一週間前に控えて“お江戸”の表情を昨日、垣間見に行った。

 先ずは銀座だ。マリオンの前は、選挙カーの人気スポットである。左手に国民新党の車が見え、晴海通りには「動けば変る」というスローガンを掲げたのぼりが何本も見えた。

 のぼりには候補者・川田龍平の顔写真も印刷されている。薬害エイズ訴訟で知られる川田さんは、無所属で東京都選挙区から立候補している。

 20名ほどの支援者が手に手にパンフレットを持ち、間もなく候補者が現れると声を上げていた。川田氏が現れるまでの場つなぎとして支援者がマイクを握るが、いずれも高齢者が多く、その話の内容も通行人の足を止める魅力はない。

 程なくして川田候補が現れた。清潔感あふれる雰囲気があり、見た目は二重丸。演説も良い。10分ほどの長さであったが、思わず聞き入ってしまった。

 演説の後は聴衆の中に入っての通行人との握手である。TVカメラがいたこともあり7,80名の人が集まっていたが、やはり握手というのは親近感をもたらすのだろう。結構良い雰囲気で「握手会」が行なわれていた。

 時間にして30分もその場にいなかっただろう。彼は車に乗り込み、次の演説会場へと向かった。フジTVから取材を受けた僕は、川田氏の清新なイメージに新しい政治家のタイプを見たとほめた。

 5時半から7時まで、今度は新宿の駅頭で集まりをやるというので、直子と僕は新宿に向かった。

 新宿駅アルタ前の集まりは、銀座とは一転して「集会」という空気を漂わせていた。のぼりの数は倍になり、特製大型ウチワがあちこちに掲げられている。応援演説も市民運動や政治活動に関わる人たちが中心だ。中でも、関西からの応援が多かった。彼のような立場であれば、もう少し幅広い分野からの応援があると、支援も広がるような気がするのだが、僕の気のせいかもしれない。

 集まった聴衆も200人程度いたと思われるが、あの場であれば1,000人は欲しい。

 銀座で見せた輝きが新宿では今ひとつ見られなかったのも残念な発見であった。応援演説が続く間も常に手を挙げて振っているのだが、何か元気がないのだ。

 真摯な姿勢は変わらないが、国を引っ張って行く立場に求められる強さが感じられない。母親の演説に目頭を熱くする姿に心を打たれた人もいただろうが、これからは魑魅魍魎(ちみもうりょう)の「永田町(国会があるところ)」にひとり無所属で、住まいを構えようというのだ。もう少したくましくあって欲しいと思った。そうでなければ、たとえ議員になっても周りの声に耳を奪われ、右に左に迷走をはじめ、自分を見失ってしまう可能性がある。

 川田候補の選挙カーの隣を、拡声器から大音量でテーマ音楽を流しながら「ドクター中松」の車が通り過ぎて行った。周囲の人たちは「あ、ドクター中松だ」と言いながら写メで写真を撮っていたが、あまりの下品な雰囲気に怒りを覚えた。

 「政(まつりごと)」を「祭りごと」にすれば、また政治は生活から遠のいてしまう。やはり、川田氏のような若者を永田町にひとりでも多く送り込むことが、この日本を変える有力な方法になるであろう。

 皆さん、参院選には必ず投票に行きましょう!

原発内部を初公開

2007-07-22 00:44:19 | Weblog
 私が主張し続けていたことだが、新潟県中越沖地震で放射能漏れや変圧器火災を起こした東京電力柏崎刈羽原子力発電所の建物内が21日、ようやく報道陣に震災後初めて公開された。読者の中には、TVを見て報道陣への公開があったのではないかと言ってくる方もいたが、恐らくそれらの人たちは、震災前に撮影された資料映像を見て(見せられて?)そのように誤解されたのだと思う。

 微量の放射能を帯びた水が原子炉建屋から外部に漏れ出た6号機では、床がシートで覆われ、汚染された水をためるバケツが置かれていた。1号機の消火系配管付近では、地盤沈下が人の背の高さ近くにまで達した場所もあった。

 6号機のタービン建屋の周辺も地盤沈下が激しく、東側の車道にはいくつも亀裂が走っていた。自動停止した7号機の中央制御室のディスプレーには各機器の状態が示され、「重故障」「軽故障」などの文字が並ぶ。

 中越沖地震では、火災を起こした3号機の変圧器の他にも、計4基の変圧器で油漏れが起きた。油漏れはいずれも、まだ止まっていないという。

 報道陣は大人しく案内されていたという。TV映像を見ている限り、これまで施設内を公開しなかった理由を問い質すとか、情報の出し方への不信感を質す記者はいなかったようだ。あんな通り一遍の質問しかできないのか愕然とした。

中越沖地震現場報告 その4

2007-07-21 09:30:37 | Weblog
被災直後の救助現場を映すTVカメラの画面には、自衛隊や警察の制服が目立った。オレンジのユニフォーム、つまりは消防のレスキューの姿があまり見られなかった。

 ある救出現場では、自衛隊、警察、消防の三つのレスキュー・ティームが合同で活動しているのだが、自衛隊が壊れた家屋の屋根から救出作業を行い、“大活躍”していた。消防のレスキューはと言えば、下の方で支援に回っている。

 こんなバカな話があるだろうか。最前線で救出活動を行なう自衛隊ティームも、警察の救助隊同様、私の目にはシロートに毛が生えた程度。プロのレスキューと言うにはあまりにお粗末な動きをしていた。

 日本で人命救助のプロと言えば、消防である。彼らは厳しい訓練を受けた集団と言うだけでなく、日夜現場に出かけ、多くの救出活動を日常的に行なっている。それに比べ、自衛隊や警察の救助ティームはどう見ても「付け焼刃」。救助の訓練を受けて入るだろうが、現場経験がほとんどないから「何をして良いのか分かっていない」。

 そこで、私は被災地から帰った昨日、周辺取材をしてみた。

 すると、前回書いたように、警察庁は地震発生後間もなく、救助隊の出動を決めている。自衛隊も同様だ。だが、なぜか消防庁は動きが鈍かった。

 警察には、「広域緊急援助隊」があり、全国で約4千人の警察官が登録されている。「大規模災害に全国から駆けつける災害対策のエキスパートチーム」と自らを紹介するが、何せ訓練はしていても出動回数はほとんどない。私は今回、彼らがどのくらいの実力を有しているのかと期待していたが、私の見た範囲では、エキスパートとは名乗って欲しくないレヴェルの救助隊だ。

 警察の緊急援助隊の現場出動で注目されたのは、2年前の福知山線の脱線事故だが、実はあの時、警察の救助隊員がとんでもない事故を起こしていた。救出活動をしている時、機材の扱いで信じられないミスをして隊員の一人が4指を落としていたのだ。あまりに初歩的なミスに、警察も事実の公表をためらったのだろう。当時の新聞を見てもその情報は見当たらない。

 その事故がきっかけで尼崎警察は、消防に指導を仰ぐようになった。だが、首都圏の警察は、消防に頼るのは沽券に関わるという縄張り意識から独自の訓練に留まっている。それは、自衛隊も同様で、独自のやり方だ。

 救助が分かっている者であれば、まずは消防のレスキューが最前線に立ち、それを警察や自衛隊が支えるのが妥当、と考えるのが普通である。しかし、警察や自衛隊の救助隊には、残念ながらそういった謙虚な面は見られなかった。消防の一人が言っていた言葉が印象的だ。

 「優太ちゃん救出を意識していますよね」

 確かに、3年前の母子3人ががけ崩れの下敷きになった現場で救出に当たったレスキュー隊員たちの勇気ある行動は我々の心を打った。しかし、あのような見事な救出活動の裏には、日夜のたゆまぬ努力と多くの出動実績が隠されているのだ。一朝一夕でできるものではない。それを分からずして「心を打つ活動」ができるはずはないのだ。

 私が見た埼玉県警の“救助現場”では、最初はだらだらと雑談をしながら活動をしていたが、野次馬が増え、TVカメラが一台また一台と増える内に真剣さを増していった。そんなわざとらしが鼻に付き、私は瓦礫の下を確認することなくその現場を離れた。

中越沖地震現地報告 その3

2007-07-20 12:43:01 | Weblog
 市役所を出ると、私たちは麻田さんの知り合いの寺に行くことにした。

 今回の地震で一番被害が集中したと言われる西本町地区の商店街を視察しながら寺に向かった。

 時折り、車から降りてみるが、今回の地震の特徴は、倒壊した建物の多くが古いものだ。しかも、土が多く使われている。雪国で海風が強い地域性もあり、屋根は重い瓦が使われ、さらに瓦と屋根板の間に厚く土が盛られている。これが耐震性に劣る建物であることは素人目にも分かるが、長年の経験で大工たちが建ててきたものだ。この地域では、非常識ではない。ただ、それをきちんと指導するのが役所の役目のはずだ。それをしなかった行政の側により重い責任があるように感じた。

 阪神大震災では家屋が軒並み倒れた。それはたとえ新しい建物であろうと影響は大きかった。それに比べると、建物の被害はかなり小さいように思えた。

 被災者の中には、私が多くの被災現場に立ってきたことを知ると、「神戸とどっちが酷い?」と聞いてくる人もいたが、「それぞれの特徴がありますから…」と言葉を濁すしかなかった。

 神戸で「プレハブ伝説」が生まれたが、ここでも軽量のプレハブには無傷のものも多く、「プレハブは大地震でも倒れない」という神話になるのではとふと思った。プレハブを否定するわけではないが、食器に例えれば、プレハブはいわばプラスチックの容器だ。一方の在来工法は陶器に例えられる。つまり、用途や環境によって使い分ければどちらも利器になる。ところが、世の趨勢は、「家を建てるのならプレハブ」という短絡的な考えが主流になりつつある。今回の地震被害がそれをまた加速させるのではないかと危惧する。

 歩いてみて気付いたのは、塀の倒壊の多いことだ。破損した部分を見ると、鉄筋の入っていないものも少なくない。これは明らかに違法だ。30年前に起きた宮城県沖地震で死者16人の内、11人が塀の下敷きになった教訓はあまり生かされていなかったことになる。後で合流した川口防災ネットの仲間たちに聞いてみたが、*大谷石をよう壁や塀に使ってはならないのに使っているところが多い*鉄筋が入っていなかったり、入っていても数が少ない、等の事実を教えられた。

 麻田さんの知り合いの寺に着いた。寺の建物は一見、重厚な瓦が使われ、外壁は銅板で覆われ、柱も太くてしっかりとしたものが使われている。だが、被害はかなりのもので、取り壊しかと思われた。ところが、建築の専門家は、修復可能と判断したとのこと。住職一家はほっとされた様子であった。

 寺で近所の人たちのために炊き出しをやると言うので手伝おうかと思ったが、手は足りるとのことであったので私は西本町地区をひとりで歩いてみることにした。

 奥の道に入ると、被害が集中しているところもあり、住民が輪を作って話し込んでいる。その輪に入れていただき話をうかがった。

 多くの住民が、「中越地震よりも酷かった」と言った。また、倒壊した建物の所有者や住民の多くが高齢者でこれからの生活を心配する声が次々に上がった。

 中越地震との比較については、TVなどで紹介されて、一部で反発を買っていたが、これは被災者が心の中を率直に言葉にされているだけのこと。取り立ててどちらが凄かったと目くじらを立てて論ずることではない。

 高齢者が多いのは、中越地震の被災地でも同様で、今後の日本を象徴する姿でもある。その面から見ても街の防災力は年々衰えていくと言って過言ではない。

 その時、息を切らせてひとりの住民が駆け寄ってきて、「壊れた家の下敷きになった人の救出作業をしている」と言うので、私は現場に急行した。

 現場は、目抜き通りから入った小道で、道路沿いにあった家が倒壊して道にかぶさっていた。捜索活動をしていた埼玉県警に話を聞くと、行方不明者が一名見つかっておらず、その人が埋もれている可能性がある現場をしらみつぶしに捜索する作戦の一環だとのことであった。

 救出作業は遅々として進まなかった。それは、警察の救助隊員の士気が低いこともあるが、はっきり言って救助隊員の技術レヴェルの低さが目に付いた。瓦礫の排除の仕方。エンジンカッターの使い方。どれをとってもプロのレヴェルには遠い。

 今回、警察庁がいち早く関東周辺の警察救助隊の出動を決めたようだが、あの2年前に起きた「福知山線脱線事故」での警察救助隊のお粗末振りを聞いていただけに、警察庁が考えることが理解できていなかったが、この現場を見て合点がいった。警察庁にとっては、被災現場で目立つことだけが重要だったのではないか。そんな疑問が湧いた。(続く)

中越沖地震 現地報告 その2(書き直し版)

2007-07-20 06:57:18 | Weblog
 7月18日早朝、私は電車に乗り、被災地柏崎に向かった。

 大宮駅から新幹線に乗った。昨夜の短い睡眠時間を補おうと、うとうととしたが、車内の効き過ぎた冷房に目が覚めた。

 原子力発電所が問題になっているというのに、なんともノー天気な話だ。原発を云々言うのであれば、こういうところから変えていく必要がある。降車後、駅員にその旨の苦言を呈したが、あまり心に響いている感じはなく、恐らく私の声は本社に伝えられることはなかったであろう。

 午前8時半に長岡駅に着くと、小千谷市の麻田秀潤さんが車で出迎えてくださった。麻田さんとは4年前に講演でお呼びいただいたのが縁で、お付き合いいただいている。直子のブリッジ・フォー・ピースのきっかけ作りの人でもある。

 麻田さんは極楽寺の住職で、中越地震の折には、長期間にわたって寺の本堂を近隣の方たちに避難所として開放。近所から高い評価を受けた。

 私が当時代表をしていたACTNOWの救援グループが被災地入りした時にお世話になってもいる。

 麻田さんの車で近くの店に行き、もうすでに被災地入りしている鈴木君から得た情報を元に救援物資を買い込んだ。私が買ったのは、厚手の良質なブルー・シート、大人のオムツ、ウエット・ティッシュなどである。

 高速道路が開通したと言うので私はそちらを選んだのだが、これが大失敗。普段であれば、柏崎の近くの刈羽村まで30分もかからないのに大渋滞。結局、2時間半以上かかってしまった。渋滞の原因のひとつが、インターの料金所。

 麻田さんが「こんな時くらい料金所を解放したらどうですかね。そうすれば、渋滞も随分解消されますよ」と言う。確かにそうだ。出口は大混乱。ETC専用口の前には一台も並んでいない。

 二つしかないゲイトだ。機転を利かせられないものかと見ていると、ETC専用口にETC対応でない車が迷い込んだ。当然だが制止棒が車の前をさえぎる。

 すると、ETC専用ゲイトをスイスイ通れるはずの車が次々に列を成し、大混乱が始まった。職員が飛んできて慌てふためいている。人件費を削り、便利さだけを追求した末に行き当たった困難に慌てふためく姿を見て、私たちは大笑い。ETCを装備していないで渋滞にイライラしていた他の車の中からも笑い声が聞こえる気がした。

 途中、中越地震の際に皆川貴子さん(当時39歳)ら親子3人が生き埋めになったがけ崩れ現場を通りかかった。数ヶ月前にバイパス道路が完成、ようやく道は再開したとのことだ。

 現場に立ってみると、3年半前、TVの前で固唾をのんで見守っていた記憶が鮮明に自分の中で再現された。

 あの時私は、自分のHPやブログで、無神経に取材用ヘリを低空飛行させて救助隊の邪魔をしたマスコミを強く批難していた。改めて現場を見ても、幅数十メートルの川を挟んで反対岸から撮影することで十分足りることがよく分かった。あのような状況で「良い画(え)が欲しい」とヘリを飛ばすのは、マスコミの言う「報道の自由」ではなく、「生きる権利」を侵害する行為であることを確信した。

 やっとの思いで刈羽村役場に行き、ボランティア・センターの立ち上げに村に入っている鈴木君と会った。鈴木君は、阪神大震災の救援活動依頼、様々な被災現場に立ち会っているだけに、あっという間に立ち上げた。ただ、その日に立ち上げたばかりとのことで、まだヴォランティア受付もなく、その体をなしていなかった。

 私は、市役所の職員から情報を仕入れて村内を回った。だが、報道されているのと違い、軒並み酷い被害にあっているわけではなかった。だから、被害が甚大と言うわけでもなかった。だが、担当部署の職員でさえ、被害状況をあまり把握しておらず、「最初に発表されたのは30数戸でしたよね」などと他人事のような対応であった。まあ、普段ののんびりした日常を考えれば、降って湧いた一大事に戸惑うのも仕方がないだろう。

 私たちは、小千谷市で買い込んだ救援物資をその場で下ろし、次に柏崎原発に向かった。

 現場に着く前に私はヴォランティアを名乗るかジャーナリストでいくか多少悩んだ。影響力を与えられるジャーナリストの立場を取ることにした。

 原発の正門で我々の行く手をはばんだガードマンは、取材を希望するなら取材申し込みをと言って来た。だから名を名乗り、広報と話したいと伝えた。

 警備員の表情が見る見るうちに変っていき、厳しくなっていった。広報から「何か」言われたことは間違いないと瞬時に判断。私は、戦場で鍛えられた「危機対応」を使うことにした。

 「取材は全てお断りしています」
 案の定、警備員は私にそう言って来た。

 「なぜ取材に応じられないのか。危機的状況にあるから取材に応じられないのではないか」と、私は警備員に広報へ伝えるように言った。

 だが、可能性がゼロであることは、警備員の表情で分かる。

 私はあきらめるふりをして、写真を撮ろうとした。これは、東電側の言っている事を試す意味もあった。本当に、海に漏れた冷却水や大気に放たれた放射性物質が“大したことはない”のであれば、写真撮影にそんなには神経過敏にならないであろう。だが、もし「何かまだ隠していることがある」とすれば、恐らく強く写真撮影を制止してくるはず、との読みだ。

 私は、麻田さんに写真を撮るようにお願いして、警備員が麻田さんに神経を使っている間に撮ろうとその瞬間を待った。こういう場合、撮ったもん勝ちだ。だが、素早く撮るに限る。しかもその写真に、制止する警備員を入れたかった。だから、タイミングは結構難しい。

 麻田さんがカメラを構えると、警備員が大声で「撮影禁止です」と制止した。私はすかさず一枚撮影した。すると、警備員が飛んできた。

 狙った通りの構図になった。添付した写真はその時のものである。

 原発を離れた私は、麻田さんに柏崎市役所に連れて行ってくれる様お願いした。次なる標的は報道陣だ。

 その時まで、私が知る限り、原発施設内の問題になった箇所の写真は、資料映像こそ発表されるものの、発災後のものは一枚も発表されていなかった。私はそれが不満であった。記者たちは自分たちの足を使って周辺取材だけでなく、“本丸”である原発にメスを入れるべきだと思っていた。不安に陥れられている市民の代理として問題の箇所を見せろと迫るのがマスコミの役割のはずだ。東電側が安全と言っているのを真に受けてその情報を垂れ流し、市民を惑わしているようでは、「第四の権力」の名が泣く。

 市役所の4階にある記者クラブ室を訪れ、私は持論を述べた。地元の「新潟日報」の記者は、自分たちは地震報道で手一杯だ。そういう話なら本社に言ってくれと言った。

 そこで私は、地震の取材に訪れるジャーナリストたちが集まる、隣のプレス・ルームに出向き、同様のアプローチをした。ところが、そこにいる10数人のジャーナリストはまるで無反応。私が話し終えるのを待っていた。その証拠に、私の話が終わると、誰一人として質問することなく、自分たちの持ち場に戻って行った。

 そこで私は、柏崎市長が同日、原発の使用停止処分命令を出したことを聞いた(続く)。