市民運動の巨星、小田実氏が30日、逝った。
とにかくけた外れの人物であった。ろくに英語を喋ることができなかった(本人の弁)のにフルブライト留学制度に合格、ハーヴァード大学で遊学した。その後、貧乏旅行をして日本に帰国、1961年、その体験談を一冊の本『何でも見てやろう』に書き、世間の度肝を抜いた。
今から思えば、「ろくに英語を喋ることが出来なかった」小田氏が選抜されるわけはないし、またたとえそうであったとしても1年間の遊学であれだけの英語の使い手になれるものではない。私を含めて多くの読者が、彼の作文に騙されたのだろう。
だが、そんなことはどうでもいいほど、この本は刺激的であった。中学生の私は、描写の一つひとつに心を動かされ、行間に隠されたさらに刺激的であったろう彼の体験に心を躍らされた。
4年後には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を始めたが、これは当時の私にとっては、「腰抜け集団」にしか見えず、その運動に関わることはしなかった。ただ、67年秋の米軍脱走兵の支援には驚かされた。
当時、泥沼化したヴェトナム戦争への兵役拒否をする米兵が出始めていた。日本でも折からの大学闘争とあいまって反戦活動に関心が集まっていた。その2つの動きから生み出された事件であった。
マスコミを集めて米兵4人の脱走と日本からの脱出幇助を発表する小田氏や他のベ兵連のメンバーは、とても誇らしげであった。日本の警察の目を盗んでソ連の船に乗せて北欧に亡命させたベ兵連は、海外からもその独特な活動が注目を集めるようになった。
そんな空気の中、翌年1月、米原子力空母「エンタープライズ」が九州佐世保港に入港した。学生・労働者、そして市民がそれに猛反発。日本全国を騒がす大騒動となった。
私は「何でもやってみよう」とばかりに、夜行列車や通勤列車を乗り継いで佐世保に入った。その時、現場でベ兵連のデモを率いて歩く小田氏を初めて見た。大柄な身体を前かがみにして歩く姿は、今で言うオーラを発するもので、私の周りでも「小田実だよ」と芸能人を見るかのようにささやくものが何人もいた。
実際に会って話したのは、それから10年近く経ってからであったが、その時には心なしか余裕を失っているようで、輝きを感じられなかった。周りを取り巻く人たちが壊れ物を扱うかのように神経質になっていたのが印象的であった。
彼は英語の使い手であったが、英語を母国語とする人たちと話す時は、堂々と「(英語は)君にとっては母国語だが僕には外国語だ。ゆっくり話しなさい」と主張した。これは、私には新鮮な視点で、自分が英米人と議論をする時は、よく使う表現である。だが、それにしては、小田氏本人は、母国語の日本語を喋る時は、たとえ相手が外国人であっても早口であった。また、一部の人が、彼をテンノーと呼ぶ空気も私とは相容れなかった。だから、私がベ兵連の活動に近付くことはなかった。
小田さんの起こした市民運動が、今の住民運動やヴォランティア・NPO活動に影響を与えたと指摘する人もいる。今朝の朝日の社説にもそういう記述がある。
確かに、住民運動に関しては影響を与えた部分があるのは認めるにしても、ヴォランティア活動やNPOに関しては、残念ながらその影響が多いとは認められない。ベ兵連の活動を経験した活動家たちが、全国各地でヴォランティア・NPO活動に関わってきたが、成功した例はあまり聞かない。
それよりも、彼が我々に訴え続けた市民の在り方に私は今でも共感するものを覚える。若い人たちには、一部で言われているような「北朝鮮の味方」「ソ連(崩壊前)の回し者」などという下劣な批判に惑わされず、今一度彼の書き(言い)遺したものに目を通されることをお勧めしたい。
とにかくけた外れの人物であった。ろくに英語を喋ることができなかった(本人の弁)のにフルブライト留学制度に合格、ハーヴァード大学で遊学した。その後、貧乏旅行をして日本に帰国、1961年、その体験談を一冊の本『何でも見てやろう』に書き、世間の度肝を抜いた。
今から思えば、「ろくに英語を喋ることが出来なかった」小田氏が選抜されるわけはないし、またたとえそうであったとしても1年間の遊学であれだけの英語の使い手になれるものではない。私を含めて多くの読者が、彼の作文に騙されたのだろう。
だが、そんなことはどうでもいいほど、この本は刺激的であった。中学生の私は、描写の一つひとつに心を動かされ、行間に隠されたさらに刺激的であったろう彼の体験に心を躍らされた。
4年後には「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を始めたが、これは当時の私にとっては、「腰抜け集団」にしか見えず、その運動に関わることはしなかった。ただ、67年秋の米軍脱走兵の支援には驚かされた。
当時、泥沼化したヴェトナム戦争への兵役拒否をする米兵が出始めていた。日本でも折からの大学闘争とあいまって反戦活動に関心が集まっていた。その2つの動きから生み出された事件であった。
マスコミを集めて米兵4人の脱走と日本からの脱出幇助を発表する小田氏や他のベ兵連のメンバーは、とても誇らしげであった。日本の警察の目を盗んでソ連の船に乗せて北欧に亡命させたベ兵連は、海外からもその独特な活動が注目を集めるようになった。
そんな空気の中、翌年1月、米原子力空母「エンタープライズ」が九州佐世保港に入港した。学生・労働者、そして市民がそれに猛反発。日本全国を騒がす大騒動となった。
私は「何でもやってみよう」とばかりに、夜行列車や通勤列車を乗り継いで佐世保に入った。その時、現場でベ兵連のデモを率いて歩く小田氏を初めて見た。大柄な身体を前かがみにして歩く姿は、今で言うオーラを発するもので、私の周りでも「小田実だよ」と芸能人を見るかのようにささやくものが何人もいた。
実際に会って話したのは、それから10年近く経ってからであったが、その時には心なしか余裕を失っているようで、輝きを感じられなかった。周りを取り巻く人たちが壊れ物を扱うかのように神経質になっていたのが印象的であった。
彼は英語の使い手であったが、英語を母国語とする人たちと話す時は、堂々と「(英語は)君にとっては母国語だが僕には外国語だ。ゆっくり話しなさい」と主張した。これは、私には新鮮な視点で、自分が英米人と議論をする時は、よく使う表現である。だが、それにしては、小田氏本人は、母国語の日本語を喋る時は、たとえ相手が外国人であっても早口であった。また、一部の人が、彼をテンノーと呼ぶ空気も私とは相容れなかった。だから、私がベ兵連の活動に近付くことはなかった。
小田さんの起こした市民運動が、今の住民運動やヴォランティア・NPO活動に影響を与えたと指摘する人もいる。今朝の朝日の社説にもそういう記述がある。
確かに、住民運動に関しては影響を与えた部分があるのは認めるにしても、ヴォランティア活動やNPOに関しては、残念ながらその影響が多いとは認められない。ベ兵連の活動を経験した活動家たちが、全国各地でヴォランティア・NPO活動に関わってきたが、成功した例はあまり聞かない。
それよりも、彼が我々に訴え続けた市民の在り方に私は今でも共感するものを覚える。若い人たちには、一部で言われているような「北朝鮮の味方」「ソ連(崩壊前)の回し者」などという下劣な批判に惑わされず、今一度彼の書き(言い)遺したものに目を通されることをお勧めしたい。