正月3日の朝、午前9時過ぎに南浦和駅に自転車を走らせていた。反対方向から小学生たちがこちらに向かってくる。彼らに共通するのは、精気が失せた表情だ。
中には、車で保護者に連れて来られて重い足取りで道に降り立つ子供の姿もある。
南浦和駅東口の目抜き通りである「南大通」には、塾とパチンコ屋が立ち並ぶ。ここはかつて、NHKスペシャルでその塾の数の多さから「塾通り」と紹介された。そこへ最近、パチンコ屋が乱立。午前10時前には、平日でも開店待ちの客が立ち並ぶ。なんとも下品な空気の漂う通りとなった。
通りの要所にスーツ姿の若者が立って子供たちに挨拶をしている。塾の教師たちだ。彼らはスーツ姿に身を固めてプロの教師を装う(筆者注1)が、実はその多くは大学生。そんな彼らも遊びたい盛りだろうに、カネの為とはいえ寒い中を外に立たされているのだ。
直子と自転車で駅に向かっていた私は、信号のところにいた教師に聞こえよがしに「正月早々から塾通いか。子供たちがかわいそうだよな」と、直子に言った。その若者に自分が置かれた状況を考え直してもらえればと思ったからだ。
それにしても、こんなに子供たちを「お受験(筆者注2)」に追い込んで平気でいられるニッポン。また若者たちをそこに巻き込ませているニッポン。これは、病んでいるとしか言い表しようのない社会現象ではないか。こんなやり方で子供が順調に育つと思っている人たちに私は声を大にして言いたい。
お受験は家族をだめにして、やがて国を滅ぼす、と。
私の周りには、こんなお受験を経験して心を傷つけられて学校に通えなくなったり、社会参画できなくなった子供や若者が何人もいる。共通するのは、彼らの家庭が崩壊状態にあることだ。
全国的に見ても、この現象はどこにでもある。お受験で傷ついた若者や子供が毎年量産されているのだ。社会全体で言えば、それら“敗残者(筆者注3)”たちの数は、今や相当なものになっているはずだ。ただ、彼らの多くが引きこもり状態になっているために表面化していない部分もあり、深刻な社会現象と捉えられていない。
深く潜行するこの問題は、時折り、犯罪の色に染められて浮上する。最近急増する親族殺人もその一つだ。
5日。またまた、嫌な事件が起きた。16歳の高校生が、東京品川の商店街で刃物を振り回し、男女5人を傷つけた。その理由が、「塾で怒られた」からだという。少年の供述では、その日の午前、塾に行った少年は教師に注意されたことにキレてしまい、「100キン(100円ショップ)」で包丁を買い、犯行に及んだとのことだ。まだ事件の全容が明らかにされていない段階だからあまり断定的な意見は避けねばならないが、「またか」というのが正直な感想だ。
お受験が問題視され出してから随分時は経つ。なのになぜ親たちは、おさな子に受験をさせるのか。その理由は様々だが、「公立ではだめだ」が目立つ。
子供たちの将来像について触れると、彼らが共通して口にするのが、自分たちの子には、想像力豊かな大人になって欲しいという答えだ。幼い時からお受験で縛って長期に渡り管理しておいて、想像力豊かな人間になれというのは、所詮無理な話、親のエゴこれに極まれり、だ。
私は受験全てを全面否定するものではない。短期間に集中するのであれば、また年齢が10代後半であれば、受験勉強は成長期にプラス面をもたらす場合もあると考える。思春期の良い思い出になることもある。だが、一歩間違えて、十分な精神面の発達もない状態で、狭い範囲の知識や技術を強いること、それも長期に渡ってそれを日常化させることは、教育ではない。それは、ただ偏った知識の詰め込みだ。
第一、正月早々から子供たちをこんな勉強漬けにすることにどんな意味があるのか。また、そうすることが遊びたい盛りの子供の精神面にどのような影響を与えるのか。さらに、それが果たして学力向上につながっているのか…その辺りを親たちは一歩置いて冷静に考えるべきであろう。
そんなにまでして鍛え上げた日本の子供たちの学力は、それでは果たして世界的に見てどの辺りに位置するのか。
いろいろな指針があろうが、私が注目しているのは、「国際学習到達度調査(PISA)」というものだ。これは、OECD(経済協力開発機構)が15歳児を対象にして3年ごとに行なっているものだ。
先日発表された2006年度の調査結果を見ると、日本の子供たちの学力は、「数学的応用力」は10位、「読解力」は15位であった。その調査は、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活のさまざまな場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価」するものだから、未来を占う学力テストと言っても過言ではない。
この調査が日本の教育に対して示していることは、子供たちに大金を投じて長期間、長時間、勉強をやらせても、結局は功は少なく罪が多いという結果だ。
その調査で学力世界一になったフィンランドの教育を見比べてみれば、日本のお受験が的を外した教育方法であることが分かるはずだ。
日本とフィンランドの教育のどこに大きな違いがあるか。それはまず、フィンランドでは、教師が答えを先に教えないようにしていることだ。
これは、想像力、独自性を生かす為でもあるのだが、まず、よく行なわれるのは、子供たちに仮説を立てさせて、生徒の間でその仮説についての意見交換をさせる。そして、自分の考えや仮説についてもう一度考えさせる。そのプロセスを経た後に、教師は子供たちに理論を教えながら正解を提示していく、そんなやり方をフィンランドの教師たちは実践している。
また、他人との比較や競争を教育に持ち込まないようにしているというのも日本の教育に対する警鐘とも言える。
これは、競争を教育の核にすると、子供は自分の順位にばかり気にするようになり(大人たちも例外ではない)、テスト本来の役割である弱点や間違いの発見を忘れさせてしまう結果を招くようになる。
評価基準も、日本では長年続けられてきた相対評価への疑問が多くなり、それを見直して絶対評価を取り入れようとする動きがないわけではない。だが、絶対評価は、到達度評価にしろ認定評価にしろ、教師の実力が必要とされる。多くの教師が大学院で研究を済ませたフィンランド等のような国では可能でも、日本の教師のレヴェルでは、失礼ながら絶対評価をさせることはとても大きな危険をはらんでいる気がしてならない。確たる知識と経験、視点に基づかない絶対評価は、子供の力を過小又は過大に判断しかねないと私は考える。
日本の教師たちの現状を見ると、相も変らぬ古色蒼然とした大学教育を受けただけで、短期間の教育実習はあるものの、自信のないまま教育現場にいきなり立たされている。卒業直前までは半人前であったものが、卒業して教師になった途端、1.5人前を要求される世界である。
新任教師を先輩たちが温かく見守り、育てる環境があればいいのだが、それはTVドラマでのお話。教師は個人営業に近い。現実では、先輩教師たちも疲れ切っており、頼れる状況にないのだ。だから、指針を失った新人教師たちは迷走状態に入ってしまう。
そんな教師たちを見て、親たちは、「学校の先生に任せておいたらウチの子はだめになる」と焦るのが現状だ。そして、「公立校はだめだ。私立に行かせないと後で後悔する」という風潮になり、我が子を塾に追い遣る。
親の間に塾への評価が高まるようになると、公教育に変化が出てきた。自信を失った教師たちが、塾のやり方に目を向け始めたのだ。教育現場だけではなく、文部科学省の役人の中にも塾を肯定する空気が生まれてきた。そして、塾に教材やテストの作成を依頼する学校さえ現れるようになってきた。
そんな風潮の中で、東京・杉並区の区立中学校が、大手塾の講師による夜間授業を企画した。学校の教室を使って、“格安”で塾の授業を提供しようというものだ。その学校の校長は、民間から招かれたアイデア・マンで知られ、これまでにも数々の新企画を打ち出してマスコミでも取り上げられている。
それに対して、教育委員会が横槍を入れた。「生徒全員が出られない」「特定業者に教室を供するのは問題だ」と、いつもの公平性の欠如に対する指導だ。
これに今朝の朝日新聞の『天声人語』でコラムニストが噛み付いた。
-国の将来がかかる人づくりで、公と私をことさら分断しても無益だ。官民の知恵を合わせ、教育現場にようやく顔を出した試行錯誤の目である。どう伸びるか、全国が見ている-
天声人語は、朝日の顔である。大学受験の題材にされるなど、世論形成にまで影響力を持つコラムなのだ。そこで、塾のやり方を、間接的とはいえ、このように持ち上げればどのような結果をもたらすか、コラムニストは考えたのだろうかと怒りに近いものを感じた。
このところ、朝日新聞の記事に、塾の存在を肯定するものが目立つようになっているが、中には、「これが、社会面や教育面で受験地獄の実態を鋭く分析している朝日の記事?」と思えるような礼賛記事もある。今朝のコラムもその臭いを感じさせるものだ。
ここまで読んできた読者の中には、ならばどうしろと言うのか、といった思いにそろそろ至った方もおられるだろう。そこで私からの提案だ。
まずは、教師の育成方法を抜本的に改革することだ。
多くの若手教師や教員志望の学生を海外に送り、少なくとも2年間、様々な経験と勉強をさせてくるのだ。欧米社会では、学生時代又は卒業直後に海外に飛び出して2,3年放浪する若者が多いが、その経験は後になって生きてくると彼らは口を揃えて言っている。
志望者には、事前に計画を出させ、優れた企画には金を惜しまず出してやればいい。もちろん、それには大金が必要となるであろう。だが、「国の将来がかかっている」ことだ。こういうことにわれわれの税金を使わずして他に何に使うのか。また、企業とて協力を求められれば、断れないはずだ。大いに献金させればいい。
また、短期的には、民間の知恵や経験、視点を大いに取り入れるべきだ。各学校の学区には、様々な体験をした有識者が沢山いる。それを学校は把握していないだけの話だ。学校が、そこまで手が回らないということであれば、学区内の住民にヴォランティアとして活動できる人を募ればいい。こういったことに自分の経験や知識を生かしたいと考えている住民は少なくない。
そうして教師のレヴェルの底上げや住民参加型の風通しのいい環境作りをしていけば、やがて公教育が魅力あるものになり、地元の学校に子供をやろうとする親は増えるはずである。遠くの学校に幼い頃から通い、近くに遊び仲間がいない子は寂しい毎日を過ごしている。やはり、正月には地元の子供たちと遊ばせてやるべきであろう。
正月の南浦和の大通りで見かけた塾通いの子供たちを見て「お受験」を考えたみた。
筆者注1:塾の教師
塾は慢性的に教師不足に悩まされている。また、人件費を削ろうとする“企業努力”もある。その二つの問題の解決策として生まれたのが、大学生を教師に仕立て上げるやり方だ。多くの塾が、彼らにスーツを着させて「プロの教師」と言わせる。中には、年齢も25歳以上と言わせる塾もある。
筆者注2:お受験
首都圏では、受験世代の低年齢化が激しい。今では、3,4歳の時から始める子も少なくない。合格しても毎日の通勤ラッシュでの厳しい通学が待ち受けている。
筆者注3:敗残者
問題は、中学受験に失敗した場合によく起こる。失敗したショックに加え、「うちの子は恥ずかしくていえない学校にしか受からなかった」などと言う親の態度が子供を傷つけるのだ。