浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

藤原校長はエリート養成教育の先兵

2008-01-30 21:23:30 | Weblog
mixi仲間の現役教師、ジマさんからの書き込みに応える形で、和田中で始まった「夜スペ」こと、「デキの良い子養成学級」に少し書き加えておきたい。

 今回の一連の騒動は、文部科学省がこれまで音頭をとって来た「エリート養成教育」の一環であり、多くのマスコミが「民間出身のユニークな校長の勇気ある試行錯誤」と称えたが、私の眼には茶番としか映らない。

 10数年前から教育改革の嵐は東京都から吹き出し、全国に台風となって吹き荒れてきた。日の丸・君が代の強制もそのプログラムの一部だが、その陰に隠れて、改革の柱である「エリート養成」のための構造改革が深く静かに進められてきたのだ。

 作戦としては、時間をかけて日教組の弱体化がまず行なわれ、その後に様々なマスコミ受けする陽動作戦が繰り広げられてきた。

 かつては一大抵抗勢力であった教員組合の最大組織である日教組は、今や完全に骨抜き状態となった。文科省が教育委員会を使って仕掛けてくる攻撃にお手上げだ。教育の現場を支配する閉塞感はかつてないほど悲惨なもので、ここから豊かな発想が生まれることは夢のまた夢。理想的な教育をしようと志を持って教育界に若者が入ってきてもその力が発揮されることなく、大きな力の前に刀折れ矢が尽きていく。

 エリート教育については、あまり広く知られていないことだが、具体的には、「国にとって必要なのは、一部のエリートであって、凡人は不要、切捨て」との方針だ。

 子を持つ親たちは、そんな御国の政策を知らずに「良い学校に入れさせたい」と、子供の尻を叩いているが、文科省の高級官僚たちの、また永田町のドンたちにとっての「良い学校」とは、東大などホンの一部の大学に限られていることを知ってのこととは思えない。

 そこで、私は声を大にして言いたい。

 オトーサン、オカーサン。もういい加減に文科省の役人に踊らされることの愚かさに気付きましょうよ。子ども達にお受験を押し付けて親子関係を崩してしまうよりも、ゆったりした関係の中で豊かな想像力と創造力を持ち、鋭い分析力で情報を判断できる若者に我が子を育てようではありあませんか。

和田中の夜間特別授業 11人の生徒を大報道陣が囲む

2008-01-29 21:00:59 | Weblog
 公立中学校で夜間、進学塾の教師が優秀な生徒を集めて特別授業をするという新企画「夜スペシャル(夜スペ)」が26日に始まった。

 この学校の校長は民間出身のアイデアマンとしてマスコミが好んで取り上げてきた。今回の企画も、これまでにない新しい試みと、好意的な論調が目立った。

 この新企画が抱える問題点については、以前の記事で触れているのでここでは書かないが、いずれにしても多くの問題を内包する。

 都教委が横槍を入れて計画が暗礁に乗り上げそうになり、マスコミがまたそれを書きたてたこともあり、何人の生徒が集まるかと注目されたが、最初の授業に出席したのはたった11名。校長名で12月に生徒に配られた募集のビラでは、生徒数を15~30名としていたので拍子抜けだったようだ。

 応募者があまりに少なく、焦った校長サイドは特定のクラブに受講を依頼したらしいが、いずれにしても最終的に集まったのは19名との事だ。だが、ふたを開けてみれば、それをはるかに下回る数字。設備費や教員の残業代などは当然都の税金が使われるだけに各方面から疑問の声が上がっている。

 それにしても、11名の子ども達を40名もの報道陣が囲むというのは明らかに異常事態だ。生徒が見えなくなってしまうほどで、茶番としか言いようがない光景であったらしい。しかも、生徒たちの顔を画面いっぱいに映し出してしまったTV局の危機意識の欠如した姿勢も大問題だ。

 教育は奇をてらったやり方で成功するような生易しいものではない。最近の傾向として、学校側が進学塾のやり方を評価して「学習塾に見習え」などという空気も生まれていると聞く。

 先生方よ、そして教育委員会の関係者や校長・副校長よ、教育の原点に今一度戻ろうではないか。教育は決して教え方の良し悪しだけで決まるものではない。技術だけでなく心のこもった熱心な指導があってこそ生徒たちの心をつかむことが可能になり、その延長線上に成績の向上がついてくるのだ。 


追記:
 06年3月、朝日新聞が発行する週刊誌「AERA」に「『東大合格公立日本一』岡崎高の勉強法初公開」という現地ルポが紹介されている。それを受けて私が一文を書いている。一考に価すると思うので是非お読みいただきたい。 http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/fcb29b3f8915d4e7fedd497a75d3d29e

クリントンかオバマか。

2008-01-29 00:33:58 | Weblog
 クリントンかオバマか。

 世界の耳目が二人の選挙戦に集まっている。

 確かに、かつてダンナがオネエチャンにうつつを抜かしていても上手に“操縦”して高い人気を維持したまま大統領の任期を終えさせた元ファースト・レイディか、それとも不幸な少年時代をばねに政界を上り詰めて来た初の黒人指導者か、マスコミ受けする二人が繰り広げる選挙戦は人の目を引くことは確かだ。

 だが、待てよ。これは、ただ単に一国の大統領を決める選挙戦ではない。「世界の警察(誰が頼んだわけでもないのだが)」の親玉を決める選挙だ。それだけではない。「アメリカがくしゃみをすれば、日本は風邪を引く」と言われるほどの、親密と言うよりも主従関係にある国の指導者が決められるのだ。我々にとって無関係と無関心を装ってはいられないのだ。

 米大統領選挙は、最近になってそのシステムを理解する日本人も増えたが、まだまだ理解不足と言っていい。それは、ただ単にシステムの違いだけではないだろう。選挙に対する考え方が、日米では大きな差がある。

 我々日本人は概して代議員制度をそのまま受け入れてしまい、いったん投票して政治家に託してしまえば、後は大きな関心を払わず、議会で何が行なわれているかさえもほとんど知らないままだ。いわば、政治家への「丸投げ」だ。

 一方、アメリカは、選挙を身近に感じる有権者が多く、選挙期間中は自分たちの意見をどう候補者のアピールに反映させるかに躍起になる。企業はもちろんのこと一般有権者も「自分たちの大統領」を選出しようと真剣だ。手弁当で活動支援に駆けつけたり、資金集めにも積極的に関わる。だから、当然と言えば当然だが、大統領選挙になると巨額の金が有力候補者の下に集まるのだ。

 有名人や有力政治家も幟(旗)色を明らかにする場合がある。人によっては流れに大きく影響するから各陣営は有力者を自陣に取り込もうと躍起になる。

 中でも毎回注目されるのは、ケネディ家の姿勢だ。特に、暗殺され今でも国民的人気を集めるJFKの弟で上院の大御所であるエドワード・ケネディ氏の決断は影響力が大きい。その影響力の大きさを恐れて、ビル・クリントン氏はここのところ必死にケネディ議員に対して「中立の立場でいるように」と説得を続けてきた。

 先ほど飛び込んできた、NYタイムズのメイル便では、そのエドワード・ケネディ氏がオバマ氏への支援を明らかにしたと報じている。これが2月5日の「Super(Mega) Tuesday」の選挙結果に影響する可能性は大きいだろう。オバマ氏陣営はその報に歓喜したとある。

 だが、ケネディ家と言えば、様々な不可解な殺人事件に巻き込まれたことで知られる家族だ。JFKはもちろんのこと、その弟のロバートも暗殺された。また、エドワードも秘書であった女性をなぞの水死事件で亡くしている。

 そんな連想からオバマ氏の行く末を案じるのは非科学的と言われるかも知れないが、米国には政府を超える大きな力があるとの見方に組する私には不安な要素だ。11月までには多くのドラマが生まれ、予断を許さぬ状況が続くに違いない。

 今後、時折りこの問題の分析をお届けして参ります。御期待下さい。

 

 
 

 

化けて出るかも?

2008-01-28 23:51:43 | Weblog
昼過ぎの南浦和駅東口の南大通。行き交う車が道の真ん中を避けて低速通行するという異様な走り方をしていた。

 自転車で通りかかった私は現場に近付いた。

 そこには車にはねられたのであろう。頭部を砕かれ大量に出血した猫が横たわっている。もう既に息はなく冷たくなっていた。

 周りを見渡しても誰もその猫に救いの手を伸べる気配はない。このまま放置しておけば、間違いなくその死骸は原形をとどめないほどに車に轢かれるに違いない。塾が林立するとおりだ。子供たちに与える影響を考えれば看過してはならないはずだ。

 私はASE(仕事場)に手袋とビニール袋を取りに行った。

 現場に戻り、車を気にしながら死骸の収容を始めた。車は私を避けて走るものの誰一人として手伝いに来る人はいなかった。それどころか、遠巻きにして私を見る通行人たちは、何かひそひそと話し合っている。

 「化けて出るかもしれないですぞ」
 私は心の中で通行人たちにそう言いながら収容作業を続けた。

 こういう場合には、市(区)役所の生活課もしくは警察に連絡するのだが、私は110番を選んだ。もちろん、緊急ではないことを最初に言った上で最善の処置をお願いした。

 警察官が来る前に私は現場を離れなければならず、目の前の薬局の主人に引継ぎをお願いした。

 私は車を所有している頃は、必ず動物の死体を収容できるような袋などを車載していた。皆さんも是非、こういう事態に直面した際は、看過せずに関与していただきたい。お願いします。

私の視点 横綱の風格とは

2008-01-28 10:29:09 | Weblog
朝青龍が負けた。

 昨日の大相撲初場所での白龍と朝青龍二横綱の大一番を白龍が制したのだが、恐らく多くの方たちが「朝青龍負けろ!」と思っていたに違いない。

 それは、「サッカー問題」を含めて朝青龍が世間をなめた態度を取ってきたからである。

 格闘技の世界では、「心技体」が重んじられる。特に、相撲界の頂点である横綱には、うまさや強さだけでなく、精神面の充実が強く求められるのだ。

 ところが、朝青龍はそんなことを気にする風もなく、八方破れの言動を繰り返してきた。それが、サッカー問題で一挙に国を揺るがすような大騒ぎになり、相撲には興味がない女性や子供たちまでもが「朝青龍」を口にするようになった。もちろん、悪いお手本としてである。

 だが、待てよと、私は言いたい。

 相撲は国技であり、横綱は、全ての力士を代表する立場にあると言われる。横綱が締める白い綱は神の依り代であることの証、御神木と同じと位置付けられている。

 確かに歴史を紐解けば、古事記や日本書紀のような書物にも、相撲と思われる描写があり、国技と言われる所以が理解できないわけではない。

 だが、神事と祭り上げられる相撲界で、その辺りの事を十分に理解して実践している関係者がどれほどいるというのか。私が知る限りにおいては、皆無に近いと言わざるを得ない。タニマチと言われる後援者に甘やかされ放題で、税金問題を含めて常識外れのやり方が横行している相撲界を見ると、神事、国技という言葉が相応しくないことが良く分かる。

 朝青龍問題で盛んに問題にされるようになった横綱の品格だが、その規定はなく、マスコミが作り上げたイメージで良し悪しが決まっているような気がしてならない。一時期、貴乃花までもが名横綱と言われかけた時のことを思い出していただきたい。

 果たして「子供たちにお手本」になるような立派な横綱はこれまでに何人いたと言うのだろうか。私は小さい頃からの相撲ファンであるから昭和20年代の終わりから多くの横綱を見てきたが、「心技体」を全て兼ね備えた横綱を一人も知らない。

 名横綱の代名詞であるかのように言われる双葉山についても、伝えられた情報だけから判断すれば、確かに名横綱だ。だが、活躍した時期が戦前から戦中にかけてであり、マスコミ挙げての国威発揚に彼の言動が使われていた可能性が高いから、私はどうしても眉につばをしてしまいたくなる。

 理事長職にある元北の湖や審判副部長を務める千代の富士についても名横綱と冠をつける向きもあるが、現役時代からヤクザとの付き合いや八百長疑惑に包まれてきた。

 そんな相撲界と言うか、横綱のお目付け役である横綱審議委員会とて、横綱の品格をとやかく言うのには相応しくない御仁も見受けられる。

 御存知、讀賣グループの顔であるナベツネこと渡邉恒雄氏やNHKの元会長の海老沢勝二などは、委員長の職の名を汚すことはあっても横綱の品格を云々言う資格はない。

 何だかんだ言っても所詮は相撲は相撲。鍛えあった肉体が土俵上でぶつかり合い、迫力ある闘いを見せてくれればいいだけのこと。一力士がサボったり悪行を働けば、協会がそれに対して一刀両断に処すれば済むだけの話。マスコミが、世論が寄ってたかって一人の力士をとやかく言うことではない。今回の一連の騒動は島国根性そのもの。醜悪ですらある。

 白龍が昨日の大一番を制したことで溜飲を下げた方も少なくないだろうが、私はそういった意味から朝青龍を勝たせたかった。

 いずれにしても、昨日の熱戦を見て相撲を見直した人もいたはずだ。そう。相撲は面白いスポーツなのだ。

 最後にひと言。個人的に朝青龍を好きかと問われれば、否と言うのが私の答えだ。念の為。

私の視点 パレスチナのアパルトヘイト壁に風穴が開けられた

2008-01-26 09:10:01 | Weblog
 ガザに歓声の嵐が沸きあがっている。

 そう。もう既に日本でも報道されているので御存知の方も多いであろう、イスラエルが築いた「隔離壁」の一部が“何者か”に爆破され、10数万人の住民が食料などの生活必需品を求めて南に接するエジプトになだれ込んだのだ。ガザの人口は約150万人と言われているから、住民の約一割が境界線を越えたことになる。

 事の発端は、パレスチナ武装組織が18日、イスラエルに対してロケット砲攻撃を行なったことに始まる。

 日常化していることだが、ロケット砲攻撃に対する報復として、イスラエル政府はガザ地区の南部にあるエジプトに接する境界線を完全封鎖して生活物資の供給すら断ち切ってしまった。

 さらに、ガザへの電力供給を止めてしまい、ガザは闇に包まれる日が続いていた。

 このようなイスラエルのやり方への国際的な批判が強まり、イスラエルは小出しに電力を供給したり、ガザにある火力発電所向けに少量の燃料を渡したが(その費用は、EUが負担している)、ガザ地区では住民の怒りが充満していた。だから、23日未明に隔離壁に爆破されたと聞いて当然の結果と取ったむきも少なくない。

 ただ、この情報だけでは、この地域の情報に詳しくない読者には、言葉の羅列になってしまう。そこで簡単に状況説明を加えさせていただく。

 パレスチナ自治区は、ヨルダン川西岸とガザとでなる。両地区は分離されており、行き交うにはイスラエル領を通らねばならない。だから、現実的には、パレスチナ人が両地区を自由に動き回ることは不可能である。それは、パレスチナ自治区の境界線は全てイスラエルの監視下にあるためだ。

 ガザ地区は、かねてよりイスラーム教国設立を標榜するハマースの支持基盤であった。2004年11月にカリスマ的な指導者アラファト氏が他界すると、その勢いはさらに加速して西岸地区にまで及ぶようになり、2006年1月に行なわれた自治評議会(国会に相当)選挙では、ハマースが、与党であったアル・ファタハを圧倒、過半数の議席を獲得した。だが、大統領(日本ではいまだ議長と呼ばれている)は、アル・ファタハのアッバース氏であるため、最高権力者と政府の支持母体が2つの対立勢力であるというねじれ現象が起きた。

 イスラエルの存在そのものを認めないハマースの政権をイスラエル政府が認めるはずはなく、両政府の間に交流は生まれなかった。さらなることに、パレスチナ社会で行なわれる商取引に関わる税金の徴収を行なっているイスラエルが、パレスチナ政府にその税金の支払いを拒否、自治政府の役人たちの給料が長期間に渡り滞り、大混乱を巻き起こした。

 すると、イスラエルに対するアル・ファタハ支持者の怒りは、ハマースに向けられるようになり、両勢力の武力衝突に発展、結果的にアル・ファタハ勢力(役人を含む)は昨年6月、ガザ地区から駆逐されてしまった。

 それは、イスラエル政府にとっては渡りに船で、ガザ地区を四方から取り囲み、ガザの住民をかごの鳥状態に置くようになった。

 ガザの住民は、かつてはイスラエルの農場などで働くものが多かったが、ほとんどが失職、失業者であふれかえった。ガザ地区が絶望の回廊と言われるゆえんである。

 それでも、住民のハマースへの支持は固く、イスラエル政府やアッバース大統領は腕を拱いて傍観するしかなかった。

 イスラエルは、18日のロケット攻撃を好都合と見たのだろう。それまでにも制限していた境界線の出入りを完全に停めてしまった。

 一方、機を見るに敏なハマースは、ギリギリまで住民に我慢させ、その我慢が限界に達したと見たのだろう。23日未明になって高さ約7,8メートルの隔離壁に風穴を開けた。どう見ても、役者はハマースの方が一枚の上だったようだ。国際的な同情はパレスチナ人たちに集まった。

 これが今後どういう展開をもたらすかは不明だが、今回の一連の出来事はハマースの存在感をアラブ社会に改めて示したことになり、今後ますます支持を集めていくことであろう。また、ハマースが単なるテロ組織ではなく、また一筋縄ではいかないことを、イスラエル社会が実感したに違いない。

Earthを観て

2008-01-20 22:58:30 | Weblog
 映画「アース(Earth)」を観て来た。

 映画館は、浦和駅前に新しく出来たビルの中にある、最近よくあるいくつもの映画を同時上映するもので、座席もゆったり、音響効果もとても優れたものである。

 上映時間前に少し時間があったので、その上階に設けられた「さいたま市市民活動サポートセンター」をのぞいた。私の知人がセンター長を務めており、一度顔を見せねばと思っていたのだが、連絡もなしに行ったのが悪かった。彼は今日は休みであった。

 埼玉県の中では最大規模のサポセンだが、駅前ビルとあって、人の出入りもかなり多く、盛況のようであった。

 映画は、六分の入り。日曜の午後でしかも「半額デイ」という“おまけ”付きというのに意外な不入りであった。

 映画は、40カメラ・クルーが5年間かけて撮ったものから厳選したというだけあって、迫力のある画像が多かった。映画は、白熊、ゴンドウ鯨、アフリカ象という三種類の動物を核にして構成してあり、これらの動物が、地球環境の変化と密接に関係していることを丁寧なとらえ方で提供している。

 これだけの映画を製作するにはかなりの取材費が必要なはずであり、どこの会社がそんな大金を投じたのかと思ったら、BBC(英国の公共放送)が「プラネット・アース」という番組と同時進行で撮影してきたものを一本の映画にまとめたとのこと。それで合点がいった。

 映画からは、さすがBBCという部分と、やはりBBCという両面が見て取れた。「さすが」はドキュメンタリー映画の本家である英国を背負って立つBBCだからこそ作れる作品というところからでてくる感想だが、「やはり」というのは、公共放送の哀しさで、地球破壊の現実への迫り方が甘いように感じられた。

 その昔、小学生であった私は、「砂漠は生きている」に代表されるディズニーのドキュメンタリーに強く影響を受けた。今回、「Earth」を観た子供たちがどのような影響を受けて、この問題を捉えているか、しばらく経ったら聞いてみたいと思っている。

新しいブログの形

2008-01-20 12:58:39 | Weblog
 ブログについての面白い新聞記事を読んだ。

 ASEのスタッフが持ってきた「Student Times」という学生向けの英字新聞にある記事なのだが、ネット上で毎日ブログに書きこまれる言語で書き込み数が一番多いのが日本語だということである。

 英語圏と日本語圏の人口比で言っても、英語圏には10億人を超える人が住んでいる。それに、英語という道具を使ってネットに書き込んでいる人の数も世界にはかなり存在している。なのになぜ日本語による書き込みが多いのか。

 その記事(出自は米紙Washington Post)では、書き込み数の違いは、日本人の書く内容に起因していると、記者は分析している。

 自分の考え方や活動を広く世間に知られたいとブログを使う英語使用ブログに比べ、日本では「ポチとの生活」「バラに囲まれて」といったような日常生活をつづったものが多いというのだ。

 確かにそういう傾向は顕著である。日本のブログには日記風のものが圧倒的に多い。だから、私のように政府やマスコミに怒りをもって自説を展開するようなブログに対しては違和感を抱かれる人もいるようで、ごくたまにではあるが、怒ってばかりいないでもっと楽しくなるような、未来が開けるような内容を、という投書が寄せられることもある。

 ご意見をいただくのは嬉しいが、私のようなマスコミに長く携わってきたものでしか書けない物も少なくないと考えるので、傾向を変えようとはしないが、気にならないといったらウソになる。

 そんな話をしていたら、ASEの教師が、「今アメリカでは映像を使って自分の考え方を伝えようとするブロガーが多い」と教えてくれた。持病とか酷い体験を顔出しで伝え、同じような病気や体験に苦しむ人たちの支えになったり、仲間作りをする場合も少なくないそうだ。

 私も最近、このブログをどうこれから発展させていけるのか考えていた時だけに参考になる意見であった。

 いつになるか分からないが、新しいスタイルの「私の視点」がお届けできるよう研鑽していくつもりである。皆さんからの助言は大歓迎。どうぞ、良い知恵があったらお教え下さい。

バトンタッチ

2008-01-18 15:14:33 | Weblog
 授業を終えた後、数十分、長いときは一時間以上、ASEの生徒たちは私の話に付き合ってくれる。

 昨日も中学三年生から大学生まで5人の学生が10時過ぎまで話を聞いてくれた。

 昨夜の話題は、13年前の阪神淡路大震災だ。TVで最初に現場からの映像を見たときの衝撃と、被災地入りしてからのこと、また、昨日紹介した松原さんの話をした。

 当時はまだ全員が小学生か幼稚園児である。だからTVや新聞報道を見ても実感が湧かないはずだ。それだけに、私のような多くの大地震の現場に足を踏み入れている人間の話には興味を抱いたらしく、いつもの話とは大きく違う反応を示した。

 「鉄は熱いうちに打て」の例えにあるように、若い時に刺激を与えると、その影響は大きい。我々の世代から、若い連中は話を聞いてくれないという苦情を聞くことが多いが、決して彼らが聴く耳を持たないわけではない。

 団塊の世代よ。「聞いてくれない」などと諦めず、手を変え品を変え、大いに自分たちの体験と視点を若人に語ろうよ。自分たちの得てきた経験という“財産”を根絶やしにせず、次の世代にバトンタッチしていこうではないか。

13年前の今日

2008-01-17 10:50:41 | Weblog
 13年前の今日を忘れないために、なるべく地震の発生した午前5時46分前には起きているようにしている。

 朝刊を取るために玄関のドアを開けると、寒風が吹き込んできた。その寒さに、13年前の六甲おろしの厳しさを思い出した。ヴォランティアとして被災地に駆けつけ、テントの中で寝袋に包まり、あまりの寒さと余震の怖さに震えていたものだ。

 新聞には目を通したが、TVをつける気にはならなかった。新聞やTV報道は、この時期になると、ありきたりのヒューマン・ドラマを作り出し、お涙頂戴ドラマを見せようとする。だから見る気がしないのだ。

 先ほど、毎年この日の恒例にしているが、長年お付き合いいただいている神戸市長田区の鷹取商店街で喫茶店を営む松原さんと電話でお話しをした。

 松原さんは、二人の子供と御両親を一度に亡くされている。残された夫婦二人だけで焼け跡に喫茶店を再興して町の復興にも多大な貢献をされてきた方だ。

 松原さんにマスコミ報道の事を訪ねると、私がジャーナリストであることから遠慮がちにではあるが、商店街を取材に訪れる記者たちに苦言を呈した。

 記者たちの多くは若く、13年前のことは何も知らないで、勝手に「絵を描いて」入ってくるという。そして、パターンをいくつかに分けて、こんな人、あんな人はいませんかと聞いて周ってくるというのだ。

 バカもいい加減にしろといいたい。記者連中は、取材させていただくという自分たちの立場をまるでわきまえていない。

 13年前の新聞記事や資料を読めば、町にどんな方がいるかは簡単に分かること。そんな事前の準備もせずに入って来るなんぞは、記者を名乗る資格はない。

 バカな記者連中の話をしていると、私が思わず感情的になってしまうので話題を変えると、お話の中で、松原さんは塵肺の影響の心配をされていた。

 前にも書いたが、地震発生後から一年近く、建物の取り壊しとその瓦礫の搬出で、被災地は追われていた。同時に、そこから発生する粉塵の凄さは想像を絶する凄さで、粉塵マスクは半日で真っ黒になった。

 私のようにトータルにしてひと月位しか現地にいなかった者でもその影響を心配している。被災地から離れることなく、毎日生活をしていた地元住民の身体がどうなっているのか。その心配は私の比ではないはずだ。

 阪神淡路大震災から多くの地震災害に日本列島は見舞われている。地震活動期のど真ん中にある。ところが、昨年の中越沖地震に見られるように、「阪神」の教訓があまり生かされていない。そんな現状を考えると、これからも声を嗄らして防災対策、想定訓練の重要性を訴えていくしかないだろう。

援助の仕方

2008-01-16 12:07:41 | Weblog
 明石康氏がスリ・ランカ問題の政府代表として現地を訪れている。その目的は、今日を期限とするスリ・ランカ政府とタミル人反政府勢力「タミル・イーラム解放の虎」との「2002年停戦合意」が終了し、本格的な戦闘再開の恐れがでているためだ。

 スリ・ランカに対する最大の経済援助国である日本の経済力を背景に政治解決を図る明石氏に対して、スリ・ランカ政府も無視することは出来ず、前向きの姿勢を見せているようだが、予断を許されぬ状況に進展は見られそうにない。

 現地の新聞を読んでいて、援助の削減をちらつかせて妥協の道に導こうとする明石氏のやり方に私は違和感を感じる。確かに、スリ・ランカのような国にとっては、援助削減は大きな脅威となる。だが、これでは、米英独仏露のこれまで長年やってきた傲慢な手法と何ら変りはない。

 2002年にノルウェーが間に入り停戦合意に漕ぎ着けた際は、少なくともメディアにおいては多額の援助金が合意条件として使われたとの情報はなかったように記憶している。NHKが、その見事な手法をインタヴュー形式で再現した特別番組を放送したほどである。きれい事と言われようが、日本が、アジアにおけるリーダーと認められるためにも、ノルウェーに倣い、独自のやり方で話をまとめ上げて欲しいものだ。

地裁に「環境法廷」

2008-01-16 11:28:08 | Weblog
 朝日新聞によると、フィリピン最高裁はこのほど、環境関連訴訟の迅速な対応を図るため、全国にある117箇所の地裁を「環境法廷」に指定するとの方針を固めたという。

 これまでフィリピンでは、訴えても取り合ってもらえない、審理の仕方がずさんだなどの声が多く上がっており、その声に対応する形で対策が考えられてきた。

 環境法廷で扱うのは、森林の違法伐採や、希少動植物の密猟・採取、自然保護地区内の乱開発などで、特に、森林法違反の訴えが多く、審理を終えていないものも多いことから、117箇所の内45箇所を森林法に関する訴訟を専門的に扱う法廷とする予定。

 日本でもこれに倣って、今回ようやく合意に漕ぎ着けた薬害訴訟など命に関わる問題の審理を早めるために制度改革を考える必要があるのではないだろうか。

私の視点 学歴詐称

2008-01-14 08:28:26 | Weblog
 12日発売の週刊現代に大学教授のニセ博士号にまつわる記事が載せられている。

 記事は25人の現職大学教授が、まっとうな形で博士号を取らずに、聞いたこともないような外国の大学から金を払って入手したとある。その中に二人の私の知人の名があった。

 ひとりは、吉村作治氏だ。彼は、アラブ問題研究を専門として長く早稲田大学の教員をしてきた。と言うよりも、一般的にはピラミッドの研究者として広く知られる。

 その吉村氏が、パシフィック・ウエスタン大学なる学校の博士号を、通学や研究の実績もなく取得していたとのことだ。この大学、一時期日本の雑誌に博士号や学士の資格をスクーリング無しで取らせると宣伝。多くの金満日本人が群がったと言われていた。論文の提出と1万ドル程度で博士号が取れたらしいから、低学歴に苦しんできた一部の人には福音だったに違いない。

 吉村氏に関しては、大分前のことだが、そのことが問題になり、早稲田に居辛くなって退職をしたと言われていた。しかし、その後、サイバー大学なる、ソフトバンクの孫正義氏が作った通信制大学の学長の職に収まったから、そのあたりの詳しい事情は分からない。

 もう一人が、蟹瀬誠一だ。

 彼は、TVの幾つかの番組のニュース・キャスターを務めた後、明治大学の教員になり、今春から新設学部の学部長に内定していた。明大はHPのトップで顔写真付きで蟹瀬を紹介しており、その力の入れようは際立っていた。

 その蟹瀬。実は、呼び捨てにしていることで推察されるように、私の後輩である。彼はAP通信社に私より一年遅れで入ってきて、暫くは机を並べて仕事をした仲である。

 その後、彼の耳には入っていないであろうが、彼がTBSの報道番組『報道特集』のキャスターになることを希望した時、当時のTBSの幹部に蟹瀬を強く推薦したのが私である。ところが、しばらくしてTV朝日の引き抜きにあうと蟹瀬はそちらに転籍した。私がその幹部から嫌味を言われたのは事情を考えれば仕方のないことであった。

 先輩としてひと言言っておく必要があるかと思い、一度会食したが、嬉しそうに新番組のことを語る彼に私は何も言えなかった。

 新番組は残念なことに注目を集めず、その後彼は幾つかの番組のキャスターを務めたが、いずれも高い評価を得られず、TV業界から姿を消した。そして、風の便りに大学の教員になったと聞いていた。

 私の弟子の一人から昨年になって蟹瀬が明治大学の新設学部の学部長になることを知らされた。会食をした時に御馳走になったお礼も兼ねて一度祝いに駆けつけようと思っていた。

 だから、新聞の週刊誌の広告に彼の名を見つけて私は自分の目を疑った。蟹瀬の名が吉村氏と並んで書かれているではないか。蟹瀬もランバート大学という聞いたこともない大学から名誉博士号をカネで買っていたという。私の記憶では、彼は上智の新聞学科を出て、欧米の大学ではないが、どこかに留学をしていたはずだ。別にそんな怪しい大学の紙っぺらに頼る必要はない。

 記事によれば、週刊現代の取材に対して、蟹瀬は訳の分からないことを言って弁明しているが、まるでそれはわれわれジャーナリストがよく聞いてきた、みっともない政治家どもの釈明と何ら変らないみっともない言い訳だ。

 このようなウソは大したことではないと考える向きもあろうが、教える側の人間がこのようなチョンボをするようでは失格だ。教壇に立つ資格はない。厳しいようだが、直ちに蟹瀬は職を辞すべきだと考える。教育とはそういうものだ。

 学歴詐称と言えば、ある有名人が世界の有名大学の博士号を金で買い漁っている事実がある。これは複数の大学関係者から聞いた事だから間違いはない。この御仁に比べたら蟹瀬や吉村氏のやっていることはかわいい事と言えなくもないが、いずれにしてもこのような小ざかしいやり方が横行するのは、学歴偏重社会だからだ。

 もういい加減に、「何十年も前に何を勉強してきたか」ではなく、「これまで社会人として何をしてきたか」という実態のある社会活動歴や研究で人が判断されるような成熟した社会に変って欲しいものだ。

私の視点 お受験から考えた教育改革

2008-01-09 11:52:07 | Weblog
 正月3日の朝、午前9時過ぎに南浦和駅に自転車を走らせていた。反対方向から小学生たちがこちらに向かってくる。彼らに共通するのは、精気が失せた表情だ。

 中には、車で保護者に連れて来られて重い足取りで道に降り立つ子供の姿もある。

 南浦和駅東口の目抜き通りである「南大通」には、塾とパチンコ屋が立ち並ぶ。ここはかつて、NHKスペシャルでその塾の数の多さから「塾通り」と紹介された。そこへ最近、パチンコ屋が乱立。午前10時前には、平日でも開店待ちの客が立ち並ぶ。なんとも下品な空気の漂う通りとなった。

 通りの要所にスーツ姿の若者が立って子供たちに挨拶をしている。塾の教師たちだ。彼らはスーツ姿に身を固めてプロの教師を装う(筆者注1)が、実はその多くは大学生。そんな彼らも遊びたい盛りだろうに、カネの為とはいえ寒い中を外に立たされているのだ。

 直子と自転車で駅に向かっていた私は、信号のところにいた教師に聞こえよがしに「正月早々から塾通いか。子供たちがかわいそうだよな」と、直子に言った。その若者に自分が置かれた状況を考え直してもらえればと思ったからだ。

 それにしても、こんなに子供たちを「お受験(筆者注2)」に追い込んで平気でいられるニッポン。また若者たちをそこに巻き込ませているニッポン。これは、病んでいるとしか言い表しようのない社会現象ではないか。こんなやり方で子供が順調に育つと思っている人たちに私は声を大にして言いたい。

 お受験は家族をだめにして、やがて国を滅ぼす、と。

 私の周りには、こんなお受験を経験して心を傷つけられて学校に通えなくなったり、社会参画できなくなった子供や若者が何人もいる。共通するのは、彼らの家庭が崩壊状態にあることだ。

 全国的に見ても、この現象はどこにでもある。お受験で傷ついた若者や子供が毎年量産されているのだ。社会全体で言えば、それら“敗残者(筆者注3)”たちの数は、今や相当なものになっているはずだ。ただ、彼らの多くが引きこもり状態になっているために表面化していない部分もあり、深刻な社会現象と捉えられていない。

 深く潜行するこの問題は、時折り、犯罪の色に染められて浮上する。最近急増する親族殺人もその一つだ。

 5日。またまた、嫌な事件が起きた。16歳の高校生が、東京品川の商店街で刃物を振り回し、男女5人を傷つけた。その理由が、「塾で怒られた」からだという。少年の供述では、その日の午前、塾に行った少年は教師に注意されたことにキレてしまい、「100キン(100円ショップ)」で包丁を買い、犯行に及んだとのことだ。まだ事件の全容が明らかにされていない段階だからあまり断定的な意見は避けねばならないが、「またか」というのが正直な感想だ。

 お受験が問題視され出してから随分時は経つ。なのになぜ親たちは、おさな子に受験をさせるのか。その理由は様々だが、「公立ではだめだ」が目立つ。

 子供たちの将来像について触れると、彼らが共通して口にするのが、自分たちの子には、想像力豊かな大人になって欲しいという答えだ。幼い時からお受験で縛って長期に渡り管理しておいて、想像力豊かな人間になれというのは、所詮無理な話、親のエゴこれに極まれり、だ。

 私は受験全てを全面否定するものではない。短期間に集中するのであれば、また年齢が10代後半であれば、受験勉強は成長期にプラス面をもたらす場合もあると考える。思春期の良い思い出になることもある。だが、一歩間違えて、十分な精神面の発達もない状態で、狭い範囲の知識や技術を強いること、それも長期に渡ってそれを日常化させることは、教育ではない。それは、ただ偏った知識の詰め込みだ。

 第一、正月早々から子供たちをこんな勉強漬けにすることにどんな意味があるのか。また、そうすることが遊びたい盛りの子供の精神面にどのような影響を与えるのか。さらに、それが果たして学力向上につながっているのか…その辺りを親たちは一歩置いて冷静に考えるべきであろう。

 そんなにまでして鍛え上げた日本の子供たちの学力は、それでは果たして世界的に見てどの辺りに位置するのか。

 いろいろな指針があろうが、私が注目しているのは、「国際学習到達度調査(PISA)」というものだ。これは、OECD(経済協力開発機構)が15歳児を対象にして3年ごとに行なっているものだ。

 先日発表された2006年度の調査結果を見ると、日本の子供たちの学力は、「数学的応用力」は10位、「読解力」は15位であった。その調査は、義務教育修了段階の15歳児が持っている知識や技能を、実生活のさまざまな場面で直面する課題にどの程度活用できるかを評価」するものだから、未来を占う学力テストと言っても過言ではない。

 この調査が日本の教育に対して示していることは、子供たちに大金を投じて長期間、長時間、勉強をやらせても、結局は功は少なく罪が多いという結果だ。

 その調査で学力世界一になったフィンランドの教育を見比べてみれば、日本のお受験が的を外した教育方法であることが分かるはずだ。

 日本とフィンランドの教育のどこに大きな違いがあるか。それはまず、フィンランドでは、教師が答えを先に教えないようにしていることだ。

 これは、想像力、独自性を生かす為でもあるのだが、まず、よく行なわれるのは、子供たちに仮説を立てさせて、生徒の間でその仮説についての意見交換をさせる。そして、自分の考えや仮説についてもう一度考えさせる。そのプロセスを経た後に、教師は子供たちに理論を教えながら正解を提示していく、そんなやり方をフィンランドの教師たちは実践している。

 また、他人との比較や競争を教育に持ち込まないようにしているというのも日本の教育に対する警鐘とも言える。

 これは、競争を教育の核にすると、子供は自分の順位にばかり気にするようになり(大人たちも例外ではない)、テスト本来の役割である弱点や間違いの発見を忘れさせてしまう結果を招くようになる。

 評価基準も、日本では長年続けられてきた相対評価への疑問が多くなり、それを見直して絶対評価を取り入れようとする動きがないわけではない。だが、絶対評価は、到達度評価にしろ認定評価にしろ、教師の実力が必要とされる。多くの教師が大学院で研究を済ませたフィンランド等のような国では可能でも、日本の教師のレヴェルでは、失礼ながら絶対評価をさせることはとても大きな危険をはらんでいる気がしてならない。確たる知識と経験、視点に基づかない絶対評価は、子供の力を過小又は過大に判断しかねないと私は考える。

 日本の教師たちの現状を見ると、相も変らぬ古色蒼然とした大学教育を受けただけで、短期間の教育実習はあるものの、自信のないまま教育現場にいきなり立たされている。卒業直前までは半人前であったものが、卒業して教師になった途端、1.5人前を要求される世界である。

 新任教師を先輩たちが温かく見守り、育てる環境があればいいのだが、それはTVドラマでのお話。教師は個人営業に近い。現実では、先輩教師たちも疲れ切っており、頼れる状況にないのだ。だから、指針を失った新人教師たちは迷走状態に入ってしまう。

 そんな教師たちを見て、親たちは、「学校の先生に任せておいたらウチの子はだめになる」と焦るのが現状だ。そして、「公立校はだめだ。私立に行かせないと後で後悔する」という風潮になり、我が子を塾に追い遣る。

 親の間に塾への評価が高まるようになると、公教育に変化が出てきた。自信を失った教師たちが、塾のやり方に目を向け始めたのだ。教育現場だけではなく、文部科学省の役人の中にも塾を肯定する空気が生まれてきた。そして、塾に教材やテストの作成を依頼する学校さえ現れるようになってきた。

 そんな風潮の中で、東京・杉並区の区立中学校が、大手塾の講師による夜間授業を企画した。学校の教室を使って、“格安”で塾の授業を提供しようというものだ。その学校の校長は、民間から招かれたアイデア・マンで知られ、これまでにも数々の新企画を打ち出してマスコミでも取り上げられている。

 それに対して、教育委員会が横槍を入れた。「生徒全員が出られない」「特定業者に教室を供するのは問題だ」と、いつもの公平性の欠如に対する指導だ。

 これに今朝の朝日新聞の『天声人語』でコラムニストが噛み付いた。

 -国の将来がかかる人づくりで、公と私をことさら分断しても無益だ。官民の知恵を合わせ、教育現場にようやく顔を出した試行錯誤の目である。どう伸びるか、全国が見ている-

 天声人語は、朝日の顔である。大学受験の題材にされるなど、世論形成にまで影響力を持つコラムなのだ。そこで、塾のやり方を、間接的とはいえ、このように持ち上げればどのような結果をもたらすか、コラムニストは考えたのだろうかと怒りに近いものを感じた。

 このところ、朝日新聞の記事に、塾の存在を肯定するものが目立つようになっているが、中には、「これが、社会面や教育面で受験地獄の実態を鋭く分析している朝日の記事?」と思えるような礼賛記事もある。今朝のコラムもその臭いを感じさせるものだ。

 ここまで読んできた読者の中には、ならばどうしろと言うのか、といった思いにそろそろ至った方もおられるだろう。そこで私からの提案だ。

 まずは、教師の育成方法を抜本的に改革することだ。

 多くの若手教師や教員志望の学生を海外に送り、少なくとも2年間、様々な経験と勉強をさせてくるのだ。欧米社会では、学生時代又は卒業直後に海外に飛び出して2,3年放浪する若者が多いが、その経験は後になって生きてくると彼らは口を揃えて言っている。

 志望者には、事前に計画を出させ、優れた企画には金を惜しまず出してやればいい。もちろん、それには大金が必要となるであろう。だが、「国の将来がかかっている」ことだ。こういうことにわれわれの税金を使わずして他に何に使うのか。また、企業とて協力を求められれば、断れないはずだ。大いに献金させればいい。

 また、短期的には、民間の知恵や経験、視点を大いに取り入れるべきだ。各学校の学区には、様々な体験をした有識者が沢山いる。それを学校は把握していないだけの話だ。学校が、そこまで手が回らないということであれば、学区内の住民にヴォランティアとして活動できる人を募ればいい。こういったことに自分の経験や知識を生かしたいと考えている住民は少なくない。

 そうして教師のレヴェルの底上げや住民参加型の風通しのいい環境作りをしていけば、やがて公教育が魅力あるものになり、地元の学校に子供をやろうとする親は増えるはずである。遠くの学校に幼い頃から通い、近くに遊び仲間がいない子は寂しい毎日を過ごしている。やはり、正月には地元の子供たちと遊ばせてやるべきであろう。

 正月の南浦和の大通りで見かけた塾通いの子供たちを見て「お受験」を考えたみた。

筆者注1:塾の教師
塾は慢性的に教師不足に悩まされている。また、人件費を削ろうとする“企業努力”もある。その二つの問題の解決策として生まれたのが、大学生を教師に仕立て上げるやり方だ。多くの塾が、彼らにスーツを着させて「プロの教師」と言わせる。中には、年齢も25歳以上と言わせる塾もある。

筆者注2:お受験
首都圏では、受験世代の低年齢化が激しい。今では、3,4歳の時から始める子も少なくない。合格しても毎日の通勤ラッシュでの厳しい通学が待ち受けている。

筆者注3:敗残者
問題は、中学受験に失敗した場合によく起こる。失敗したショックに加え、「うちの子は恥ずかしくていえない学校にしか受からなかった」などと言う親の態度が子供を傷つけるのだ。

 

  
 

小判ザクザク

2008-01-09 00:20:07 | Weblog
 相談に来た隣人から聞いた話だが、私たちが移り住んだ家がある土地にはかつて、城があったという。つまり、我が家は城址に位置するというわけだ。

 城の名は、領ヶ谷城。源頼朝が挙兵した際、佐々木守綱がここにより軍兵を催促したと言われているが、諸説あり真相は定かではない。

 ただ、城があったことは事実で、近所の工事現場から刀などが掘り起こされたこともあったそうだ。

 今週末にでも、我が家の小さな庭を掘り起こしてみようかと企んでいる。小判
ザクザク。財宝がわんさかと出たらどうしたものかとやる前からその対策を考え
るおばかな私である。