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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

関西に行って来ました

2006-11-07 12:33:55 | Weblog
 先週末、関西学院大学の学園祭に呼ばれて兵庫に出かけた。「関学」で講演をやるのは初めてなので、学生たちがどんな反応を示してくれるかと楽しみであった。

 大学は、新大阪駅からいくつも電車を乗り換えて行った先の「甲東園」が最寄り駅であった。

 いつものことだが、駅の階段を上り下りする時、関東ではエスカレイター上では先を急ぐ人は右側を歩くが、関西ではその逆だから戸惑う。また、歩行者の歩く速度が遅いのも関西の特徴だ。皆さん、一様におしゃべりをしながら歩くからだ。それだけに、町が人の声で異様にざわついている。

 阪急電車の最前列と最後部の車両が「携帯電源OFF指定」というのも関東には見られない光景だ。その車両には、ありとあらゆるところに「お願い」が張られ、つり革全てにまで「携帯電話OFF指定」とある。それが、どれだけ遵守されているかと注意して見ると、電源を切っているかどうかの確認は出来ないものの、車両でメイルをしている姿を見かけなかった。他の鉄道会社も一考の余地はあるのではと、日常的に携帯電話の使用を注意している「頑固オヤジ」は思った。

 甲東園に向かう電車は混雑していた。その大半の客は関学の学園祭に向かう人たちだ。中高生の姿も目立つ。

 私は駅を下りてから、その列を避ける意味もあって、駅前の牛丼屋に入った。学生街で良く見かけるような食堂だ。

 牛丼はひとり一人、注文が入ってから作り始める。使われている肉等の材料も牛丼チェインと比べると、格段に上等だ。味付けも丁寧にされていて、それで、一人前350円と格安である。

 腹ごしらえをした後、キャンパスに向かった。正門の前は訪問者で大盛況。講演会場の学生会館は、そこから離れたところであった。建物の前に、学生二人が私の到着を待っていてくれた。

 控え室に通され、雑談に花を咲かせていると、あっという間に講演開始時間となった。ところが、学生たちの表情が一様に硬い。こういう場合、大体の想像が付く。人(聴衆)の集まりが悪いか、機材の具合が悪いことが大部分だ。

 案の定、人が集まらないと、学生たちが私に頭を下げた。会場には30名ほどしか集まっていなかった。

 実は、彼らが事前に作ったチラシ原案を見て、私は少々不安にかられていた。それは、そのチラシが魅力的でなかったからだ。講師が有名人であれば、広報も簡単だ。「XXX来る」だけで人は集まる。だが、私のような講師であれば、「内容で勝負」だ。そこで、チラシ作成に入れ智恵を申し出た。しかし、時既に遅し。もう時間の余裕はなかった。講演会に関わった学生達は、素直でとても感じの良い若者達ばかりであった。必ずやこの失敗を次に生かしてくれるだろう。

 聴衆が少ないからといって手を抜くことはない。“熱く”パレスチナ問題を語らせてもらった。聞きに来てくれた人たちもとても熱心に聴いていてくれた。質疑応答も活気があった。ただ、開始時間が結構遅れた事もあり、私が演壇に立った時、もうすでに2人が「舟をこいでいた(昼寝中であった)」。それから彼らは2時間近く、講演が終わるまで目を覚ますことはなかった。

 講演に“命を懸ける”私にとって、居眠りされるのは最も心が痛むことだ。だが、今回ばかりはどうしようもなかった。少々古いが、ギター侍を真似て「残念!」と唸るしかない。

 講演を終えた後、またしばらく控え室で学生たちと歓談した後、腰を上げた。学生たちがタクシーに乗るところまで見送りに来てくれた。学生たちはいずれも最初から最後までとても礼儀正しく、なおかつ快活で、私は良い気分でキャンパスを後にした。

 そこから神戸の鷹取に向かった。阪神大震災の直後、支援活動を行なったところだ。

 被災地に滞在しての支援は3ヶ月ほどで終えたが、その後も様々な形で「神戸」とは関わらせてもらっている。今も、定期的とはいかないが、折を見て被災者だった方たちを訪れ交流を続けているのだ。

 JR鷹取駅を降り、鷹取商店街までいつものことだが、きょろきょろと町の様子を見渡しながら、ぶらぶらと歩く。

 鷹取商店街は、倒壊家屋の下敷きになって犠牲になった方もおられたが、それよりも悲惨であったのは、その後に起きた火災による被害だ。商店街とその周辺を嘗め尽くした火の海は数多くの悲劇を生んだ。

 4年前に来た時とは、「悲劇の舞台」となった商店街の姿にまた変化があった。

 救援の最前線基地となった「高橋病院」の名前が変わっていた。聞くところによると、後を継いだ息子がとても優秀で規模を拡大するために他所に移ったこととのこと。これはだが、珍しくめでたい話で、耳にする変化は、そのほとんどが「地震が落とした影」による悲劇だ。

 被災直後に無料で銭湯を開放して被災者の涙まで誘った「幸せの湯」は、外観はほぼそのままで、中身をマンションに変えていた。また、「ファミマの店長」とヴォランティアに呼ばれていた人も店の経営をあきらめたとのことで、ファミリーマートは姿を消していた。

 しかし、悲劇から見事に立ち直った人たちも多い。みなみ理容所を覗くと御主人が笑顔で迎えてくれた。

 「三年前だったかな。○○さんもお見えになったんですよ」

 ○○さんは、私と一緒に被災地で活動をしてくれた当時大学生だった女性だ。彼女は、私の指揮が上手く機能せずに、私のやっていたヴォランティア活動に失望して活動から離れていった。その彼女が、地震から8年経っても忘れずに足を運んでくれていることに嬉しくなった。

 みなみ理容所からすぐのところにカフェ「グラス アンカー」がある。私の友人松原芳雄・聖子夫妻が経営する素敵なカフェだ。

 松原夫妻とは震災直後に知り合った。子供二人と夫の両親を亡くしながらも救援活動の陣頭指揮を執り、鷹取商店街を復興に導いた貢献者だ。

 二人はいつ会っても笑顔を絶やさず、どんな時でも前向きな姿勢は崩さない。海外にコーヒー・メイカーを買い付けに行くときも含めて、いつも二人で話し合いながら先を進めて行く。本当に素敵な夫婦だ。

 二人のことを書き出したら切りがないので今回は割愛するが、今回も心が和む話をたくさんいただいた。

 店には図々しく2時間ほど居座らせていただいた。帰りには、庭でなったというライムをたくさんいただいた。

 温かくなった心はひやりとする秋の気配にとても心地よく反応した。

 愛媛から福山を旧日本兵の聞き取り調査に回っていた直子と三宮で合流、大阪に向かった。

 直子は直子で積もる話がいっぱい。大阪に向かう電車の中では語りきれず、大阪梅田で入ったお好み焼き屋でも話は続く。そんな旧日本兵からいただいた厚情を機関銃のように話す様を見ていると、そこには辛酸な想いをした戦中派世代が、何とかして次の世代に体験を語り継ぎたいとの気持ちが込められているのがよく分かる。

 そんなほんわかした気持ちだったが、世の中良いことばかりは続かない。その夜は新大阪で止まることにしていた我々は、「なに泊まる所なんぞ、すぐに見つかるワイ」と高をくくっていた。ところが、この日は連休初日。駅前のホテルは軒並み満室。どうしようかと「次の一手」を考えていると、「ホテルをお探しですか?この近くにはありませんよ。2千円だしてくれたら一緒に探しますよ」と、“親切な”運転手が声を掛けてきた。

 直子は、「良い人」と思った様だが、私は少々世間ずれしている。「こういう輩を雲助と言うんだ。引っ掛かってはダメ」と断った。

 結果的には、タクシー乗り場から乗った車の運転手がとても良い人で、新大阪から一駅のところでホテルを見つけてくれた。疲れきった我々が部屋に入った時、時計の針はもう10時半を指していた。