浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

学校の耐震化で驚く数字

2007-02-28 08:07:43 | Weblog
 ショッキングな数字が出てきた。

 私の住むさいたま市の教育委員会に「学校施設の耐震化状況」を聞いたところ、faxが送られてきた。数字を見て驚いた。東京、神奈川どころか、全国平均にすら遠く及ばない実態が明らかになったのだ。市内小学校の耐震化率が28.8%というのだ。

 その内訳は、市内に100ある小学校の286校舎棟数の内、1981年(筆者注)以前の建物が244を占め、老朽化していることが一目りょう然だ。屋内体育館にいたっては、93の内83が81年より前に造られたものである。

 そして、改修実施済み校舎の数だが、54。体育館はゼロ。実に耐震化率は28.8%というお寒い数字だ。中学校は随分ましだが、それでも小中学校を合わせた数字は、36.8%。

 全国平均が54.7%だから、相当ここでも「ダサイ玉」だ。

 ただ、送られてきた数字を見ると、その計算方法が不可思議だ。1981年以前の建物の数が、校舎と体育館を合わせると、327。耐震改修を実施したものが54。耐震診断で補強不要とされた数が3。この数字だけを見れば、耐震化率は17.4%となる。

 あと数時間で教育委員会に問い合わせることができる。この点も質してみたい。

 改修工事が遅々として進まぬ原因は、「カネがない」ということだが、そう言いながら、サッカー博物館を100億かけて造りたいと言っている。ホント、さいたまはカネの使い方を知らぬところだ。

筆者注:1978年に起きた宮城沖地震の被害の実態を元に1981年、建築基準法が大きく変えられた。確かに、阪神淡路大震災の時も、崩壊した20棟の校舎のすべてがその年の前に建てられたものであり、大(中)破した73の校舎も、ほとんどが81年以前に建てられた校舎であった。

ダ埼玉における校舎の耐震化

2007-02-27 02:02:33 | Weblog
 mixiで、「さいたま市政、改造計画」という名のコミュニティを立ち上げた。そこに、校舎の耐震化が遅れている話を書いた。

 すると、読者の一人から次のような書き込みがあった。


 自分の母校でもあるのですが、南区にある浦和別所小学校の旧校舎は確か昭和42~43年頃に建てられその後3階部分を増築しました。…が、現在耐震問題を抱え教室は新校舎に移しています。ところが新校舎では児童が収容しきれず2年生は旧校舎の一階を利用しているんです。

 現在私はこの別所小学校で防犯ボランティアのお手伝いをさせていただいてて校長先生から良く頼まれるんです。教育委員会に行って聞くと、「予算の問題もあって古い順から手をつけています」とのこと。

 愛煙家の自分としては、年間70億円近くもある市たばこ税を一時特定財源化して建替え予算にしても良いんじゃないかと…(笑)

 だめでしょうかねぇ(^^;?

 これについては、調べてみると、埼玉県全体で見ても校舎の耐震化は遅々として進んでおらず、東京や神奈川に大きく水をあけられている。全国でも30位という恥ずかしい実態だ。

 子供は宝だの、教育基本法がドータラコータラ言う前に、こういったことに真剣に取り組むべきだ。こんなこともできないからいつまでも「ダさいたま」と呼ばれるのだ。

なぜ市議会なのか

2007-02-27 01:48:07 | Weblog
 「市議選への挑戦」は日を追って楽しさが増す。作戦会議一つとっても私にとってはやることなすこと新鮮だ。だから面白くて仕方がない。

 作戦会議は様々な形で行なうが、サポーターたちとのMLを使ってのやり取りも面白い。時に、大盛り上がりをしたかと思うと、その直後に書き込みが極端に少なくなったりする。

 すると、誰に指名されたわけでもないが、表裏両方の知恵袋たちが盛り上げるために知恵を絞ってくれる。

 恐らく彼らが後援会の空気に中だるみがあると見たのだろう。私への「シゲキ的なことを書け」との書き込み要請が来た。

 そこで私は昨日、次のような書き込みをした。

 おはようございます。今朝のメイルはかなり長文です。時間があるときにゆっくり読んでください。そして、この話を自分に置き換えて「今何が自分にできるか」を考えるきっかけにしていただきたいと、切に願います。中には、携帯メイルでこれを読まれている方もおられるので、今回は改行を少なくして書きます。

 Oさんが書いていたように、災害というのはなにも私が声をからして対策を叫ぶ大地震ばかりではありません。

 異常気象から起きる様々な被害、事故、事件も災害と言えますし、日常生活の中で起きる事故や事件も災害そのものです。Oさんが言われる、報道メディアのパニックにも似た報道も、受ける側にとっては、災害と言えるでしょう。これは、先日神戸から応援に駆け付けてくれた村井さんが演説で、またその後の懇親会で訴えていたことに通じるものがあります。

 Oさんの話で私が思い出す具体的な事例は数え切れないほどあります。それらはすべてと言っても過言ではないほど、日本の「見て見ぬふり社会」を表すものです。

 私は毎年、1回か2回、救急車の出動を要請します。それは、あのサイレンの音を聞くのが楽しくて…ではなく、街の中にそれだけ危険が潜んでいるということです。私一人でも注意深く街に目を配っていると、そういう「命に直接関わる災害」に出くわすということです。

 数年前のことです。駅の入り口付近で高齢の女性がよろけていました。私は駅に向かう予定はありませんでしたから10メートル位離れたところから様子を伺っていました。ところが、行き交う人は彼女をよけて歩くだけで、声をかけようともしません。異常を感じて近付くと、彼女の口から少量ではありましたが血がポタポタと落ちているではありませんか。道路脇に彼女を移し、症状を観察、緊急事態と判断して通行人を呼び止めました。電話で119番するようお願いするためです。しばらくして救急車が来たので救急隊員に状況説明をして、先を急ぎました。

 5,6年前のこと。これは、駅立ちなどでもよく話していますので、既に私から何度も聞いて耳にたこができている方もいるかもしれませんが、今一度お読みいただきご自分の問題としてお考えいただければと思います。

 金曜日の午後9時近い夜に起きたことです。それまでにも何度か同じ時間に見かけたので、なるべく「その時間」は彼女が「そこ」を安全に通るのを見守ることにしていました。その女性は、白い杖をついた視覚障害者です。「その時間」とは、前述した時間です。「そこ」とは、南浦和駅東口の銀行の前の歩道です。そこは、幅にして約4メートルありますが、放置自転車がズラリと並び、さらに、「自転車通行可」と書かれているため、時には自転車に乗った人が、我が物顔で歩行者のことなど気にせずに通る「危険地帯」です。

 何回目かの夜でした。いつもより放置自転車が多かったかも分かりませんが、私の目には普段と変わらないように思えました。駅の方向から歩いてきた彼女の杖が一台の自転車の後輪に入ってしまい、彼女はそのまま自転車と共に倒れました。大きな音を立てて7,8台の自転車が倒れました。

 ところが、通行人の誰もが知らん振りです。中には目を彼女にやった人もいましたが、そのまま通り過ぎていきます。私が駆け寄ったのは言うまでもありません。

 彼女は「すみません、すみません」と私に謝ります。しかし、謝らなければならないのは、この状況が見えているのに看過してきた私たちです。そう言いながら彼女を起こし、安全なところまで導きました。現場に戻ると、何人かの通行人が倒れた自転車を起こしていました。

 これを読んで、中には「なぜ、そうなるまで彼女を放っておいたのか」と思われる方がいるかもしれません。「手を引いてやったらそうならなかったではないか」と言われたこともあります。しかし、それは、できるだけ障害を持つ方が我々の助けがなくても生活できるのが基本、と考えるからです。私が毎日、彼女のケアをできるわけではありませんから、私のやり方としては、自分の目の前に起きることに目を配ることしかできないと考えていました。それが若い頃、3年間過ごしたロンドンの人たちから教わったことでもありました。

 それから私は、警察、市役所、そして現場の前にある銀行に対策を迫りました。道路管理責任が一番重いと考える市役所にはしつこく改善を要求しました。放置自転車の撤去は定期的になりました。でも、それから「違法駐輪をやめましょう」というゼッケンを付けた指導員がそこに立つまで2年近くかかったように記憶しています。ところが、この指導員たちもまるでやる気がない様子。自転車を止めていく人たちと談笑しているではありませんか。「あなたたちの仕事は、自転車を整理することではなく、放置しないように指導することなのでは?」と、一人の指導員に注意しました。すると、「ああ、あんたみたいにうるさいのがいるから気をつけろって市役所から言われたよ」と指導員は私の足元から頭までなめるように見ながら言いました。これは、ある特定の職業を経験した方の特徴的な目の配り方です。

 これをただの私の自慢話と取られるかも知れません。まあ、そう思う方はそう思っていただくしかありません。私が言いたいのは、尾嶋さんや村井さんの言われる「普段の生活の中で“災害”に苦しんでいる人がいる」ということです。ここに私たち一人ひとりが目を配らない限り、「安全な街」「過ごし易い環境」などと言ってもただのお題目にしかすぎません。

 「そんなにいつも他人のことに気を配ってなんかいられないよ」と言う方には、私は、こういう見方はできないかといつも話します。「それではあなたが体(目も含めて)が不自由になったりした時を想像してみてください」と。

 我々一人一人が見える光景にだけ注意を配れば、街全体に目が行き届いたことになります。

 ヴォランティア活動も同様です。体を使って汗を流してヴォランティア活動をするのも当然大事なことですが、と同時に、「要介護者」と言われる方たちが、自分たちの手を借りなくても日常生活が送られる体制作りも同じように重要だということを忘れないでいただきたいのです。

 そういった観点に立つからこそ、私は、「災害ヴォランティア支援ネットワーク」を構築したいのです。いざ地震が起きた時、被災者が少しでもしんどい思いをしないように普段から備えておきたいのです。また、「校舎の耐震化」も同様です。阪神大震災では、20もの校舎が倒壊しました。約70の校舎が中・大破したのです。この事実は、我々にとって教訓そのものです。カネがないからと言って耐震化をためらっている場合ではないのです。校舎は、子どもの教育の現場と言うだけでなく、災害時の我々の避難所ともなるところです。このように重要な場所が、きちんと耐震化されていないのでは、いくら「防災を!」と叫んでみたところでそれはむなしく響くだけです。

 それは、なにも議員バッジを付けなくてもできることではないか、と思われるかもしれません。しかしながら、私は過去12年間、災害支援ヴォランティアのリーダーとして活動してきて常に大きな壁にぶつかりました。その壁をぶち破るには、さいたまではバッジをつけるしかないのではと思うのです。ただ、私には組織のバックアップはありません。それだけに、ダントツのトップ当選をして発言力を高める必要があるでしょう。ですからどうぞ、私をもう一押しもふた押しも後押しをお願いします。


若きSmasaの悩み

2007-02-25 11:50:31 | Weblog
 私と仲良くしてくれる若者の一人に大学生のSmasaがいる。

 彼との出会いは、もう3年と2週間前のこと。大学に入学が決まり、英会話を学びたいとASEの門を叩いてきた。第一印象は、育ちの良いお坊ちゃま。すねることなく真っ直ぐに生きてきた、つまりはご両親の性格の良さやきちんとした育て方が彼にそのまま現れている感じが強くした。その一方で、もまれ弱さをも感じさせたが、まだ18歳だ。これは私が影響を与えられる一人だと、彼が“一本釣り”の対象になったのは言うまでもない。

 私が英会話スクールを30年間経営していることに、首を傾げる人も多い。「ジャーナリストが片手間に学校経営などして」と、言われたこともある。だが、私には最初から信念があった。子どもの頃からの夢であった、「子どもたちに生きた英語を身に付ける場」、そして「自分の生き方を見てもらえて一緒に考えることができる場」を作り、それを、「英語を道具にした人生劇場」にしたかったのだ。

 その夢はかなった。30年の間に実に多くの出会いがあった。そして、私の生き方を面白がる若者が、ジャーナリズムに、消防に、教育にと様々な分野に飛び出していった。

 その一番弟子は今、ある新聞社の特派員として活躍している(ASEとの出会いは、HPに寄せてくれた一文に詳しい http://www.ase.ne.jp/t-s.html)。彼女は、13歳の時にASEに入り、1年後には母親に「私、新聞記者になる!」と宣言して相手にもされなかったが、その後10年間、受験の時期もASEに通い続け、大学卒業後はアメリカの大学院で勉強して新聞社に入った。

 その他には、3歳の時からパイロットになりたいからと通い続けたが、私が代表を務めていたヴォランティア・グループの救助隊に入り、そこで出会ったレスキューのプロたちに憧れて“急旋回”、今は東京消防庁のレスキューになった者がいる。また、母親の腹の中にいる時から私の駄じゃれを聞き続け、ジャーナリストも視野に入れながら社会に(私にも時折)スルドイ視線を送っている大学生もいる。

 だから、Smasaを見た時、どんな影響の受け方をしてくれるか、楽しみにしていた。彼は、英会話だけでなく、「メディア塾」にも参加するようになった。

 ただ言って置くが、私は「人を育てる」と言っても、やることは「自分の生き様を見てもらう」「森羅万象の本質を見極めようとする視点作りの手伝い」「人生の軌道修正を一緒になって考える」といったことで、ジャーナリスト志望者に限って言えば、文章の書き方やカメラの使い方を教えるわけではない。

 Smasaは1昨年、米国の大学に1年間留学した。その時の体験をもとに書いたエッセーが外国特派員協会の「第1回Swadesh DeRoy Scholarship」最優秀賞を受賞、賞金も50万円という学生にしては夢のような大金を手にして一躍周囲から注目されるようになった。

 私は彼がやがて悩むであろうことは、その時容易に予測がついた。彼の書いたエッセー(英文)が何人かの人によって手を加えられ、作品としては彼の実力を大きく上回っていたからだ。特に、英語の言い回しは、ネイティブレヴェルのものだ。

 だが、私は、それを彼にほのめかすこともしなかった。それまで大きな壁にぶつかることなく生きてきた彼にとってはそれが良い試練になることは目に見えていたからである。壁にぶつかる前に警告して他の道に導くやり方もあるだろうが、私は命の危険がない限り、自分で悩み、もがき苦しませる。彼の場合、受賞した賞の大きさが並大抵ではないからその悩みも人並みはずれたものになる可能性があった。

 案の定、彼は苦しみだした。その内、メディア塾に顔を出さなくなった。ASEには来ていたので全くの引きこもりになったとは思わなかったが、難しい局面を迎えていることは間違いなかった。

 2月の頭にSmasaは誕生日を迎えた。それを妻から聞いた私は、頃や良しと判断して彼の携帯に「ハピーバースデイ♪」と思いっ切り明るい歌声を残した。昔で言う「便所の100ワット(空気を読めない態度を指す言い回し)」というやつだ。

 しばらくすると彼から電話がかかってきた。正直に「引きこもり」であったことを言われた。丁度、父親と話す機会があり、最悪の精神状態からは脱したと言う。ならばと私は彼を自分の講演会に聞きに来ないかと誘った。講演では、彼に対して意識的に「自分の生き様」を話した。

 講演を終えた後、話し合った。

 図星であった。彼は自分の書いたエッセーへの評価と自分の力のギャップに悩んでいた。

 「あれをすべて君が書いたと思った人間はそんなにいないはずだよ」と言うと、彼の目が私の真意を性急に探り始めた。

 「まず、英語だ。あんな完成度の高い文章は英語圏の学生だってそんなに書けるものではない。そんなことは審査員はみんな分かっているさ」

 彼の肩の力が抜けた。

 「あのエッセーの視点は誰かのものか?」「いや、自分のものです」「書かれた内容は誰かに取材してもらったのか」「いや、自分でしました」

 それだけ聞くと私は彼に言った。

 「だったらなんら問題はないよ。審査員は、君の目の付け所を評価しているに違いない」

 そう言ってその日、私は彼と別れた。

 実は、私は、彼が受賞した時、特派員協会(かつて、私はAP記者だった頃、よく出入りしていた)の人間と彼の受賞について話していた。協会員の間では、彼の視点の面白さが評価されたと聞いていたからこそ言えることである。

 いずれにしても彼はこれからも多くの悩みを抱え、その一つひとつに落ち込むことだろう。だが、悩むことは若者の特権とも言える。大いに悩んで欲しい。

 彼が今後、どのような成長を見せるかも、その悩みの処し方ひとつだ。悪いけど、そんな君の姿を“楽しませて”もらうぜ、Smasa。

 

三歩歩くと…

2007-02-25 10:47:09 | Weblog
 今朝も家人は「時間がない、時間が…」と言って家の中を走り回っている。

 なのに、「ワタシ、何しようとしていたんだっけ?」とのたまうのが口ぐせ。

 先ほども、「三歩歩くと…」と歌を口ずさむようにして、コンピューターに向かう私の後ろを通り過ぎていった。

 そして今、「お茶入れてたのに忘れてた」と、お茶をいっぱいグビリ。そして、自らが主宰する「Bridge for Peace」の上映会へと出かけていった。

 そんなわけだから、いつもギリギリ。時に、大切なものを忘れるが、大体は上手くいってしまう。

 これに対してワタシはと言うか、彼女と同様にと言うべきか、いや、私はそんなレヴェルではない。それをはるかに上回る「忘れん坊」だ。だから、私は、彼女を見ていても腹が立つどころか、可愛いとさえ思える。

 この我が家の日常には原風景がある。10代の頃の私の実家だ。26歳にして夫を亡くし、教師をしながら2人の子どもを育てていた母親はいつも「時間がない、時間がない。そしてお金もない」と言って、あくせくしていた。だが、そうでありながらも抜けたところも結構持ち合わせていたから余裕をなくすということはなかった。

 ある朝のこと。出勤を急ぐ母親が私に頼んだ。

 「食卓の上にあるものを全部風呂敷に入れて!」

 食卓の上に書類の山があった。その横に目覚まし時計もあった。いたずら心が働いた。数十分後に鳴るようにセットして目覚まし時計を風呂敷に押し込んだ。

 その夜遅く帰宅した母親は、私の顔をにらみつけた。しかし、その怒った表情にも緩んだ筋肉を素早く見て取った私は、素知らぬふりをした。

 「残念でした。でも危なかった。もうちょっとで鳴るとこだったじゃん」と母は言った。

 こんな母に育てられたから私には「忘れる」ことに対する罪悪感が薄い。ただ、相手に迷惑をかけることも多いので、自分なりの危機管理はするようにしている。だが、多忙になるとそんな危機管理も機能しなくなる。その内、大きな忘れ物をするのではないかと、今から楽しみ、いやいや危惧している。だれか、私たちの「身の回りの世話」をしてくれる人がいないですかね?

私の視点 団塊、燃える?!

2007-02-24 08:06:55 | Weblog
燃える団塊

朝日新聞の朝刊の第2社会面にそんな見出しが躍っている。

記事は、今年春、大量に退職をする団塊の世代(1947~49年に生まれた戦後世代)が、来る統一地方選などにたくさん立候補すると紹介している。

何と言っても数が多い団塊の世代に対しては、マスコミや大型店舗などの数頼みの企業は、いつも好意的だ。いや、おもねるかのような姿勢さえうかがえる。

民主党の菅さんが「団塊党」を提唱した際も、マスコミは歓迎ムードの報道をした。特に、朝日新聞はそれが目立った。

だが、「団塊世代の仲間たちよ、そんなことをする前にやることがあるだろう」と私は言いたい。

数から言っても、その“実績?”から言っても団塊世代の代表的な年である47年生まれの僕は、今のような時代を作ってしまったのは誰なのか、よく考えてみようよとまずは言いたい。

確かに、企業戦士として我々は日夜仕事に追われてきた。若い頃は、「新人類」「シラケ世代」などと否定的に見られた見方を、絶大なパワーとたゆまぬ精進で押し返し、逆転させた。働く企業を「世界のブランド」にまで押し上げて日本の国際化に貢献してきた。スーパーやショッピングセンターを日本列島に隈なく作り、地域に根ざした小規模の店舗を凌駕して大量消費社会を実現させた。学習塾を立ち上げ、一大産業にまでしたのはいいが、その一方で子ども社会に「心の病気」を蔓延らせた。

このように、ほぼすべての分野で団塊の世代は幅を利かし、他の世代の迷惑を省みることなく猪突猛進してきた。

「団塊の力、恐るべし」

他の世代にそう見られて長い時間が過ぎた。半年くらい前だろうか。「報道ステーション」でキャスター(アメリカでは、アンカー・パーソンと言います)を務める古館氏が、同世代の解説者と二人で団塊の世代の話題について話していたのを聞いたことがある。

「ホント、団塊って私たちにとって重いですよね?」

古館氏の問いかけに対してその解説者も深く同意していた。

この話は、どこに行っても耳にすると言っても過言でない。それほど広く巷間で言われている話だ。ところが、猪突猛進型ゆえの特徴であろう。そんな評価があることさえ知らないのが団塊なのだ。

退職して、「カネと暇と人脈」を持つようになる団塊世代は、数年前から虎視眈々と次のターゲットを狙ってきた。狙われたのが、議員さん、特に、「5分の4(5人立候補して4人当選する)」の市会議員だ。それと、NPOだ。ヴォランティアの世界にも大量に団塊世代が流れ出している。

59歳と言うのは、若い人たちからみれば初老だが、自分がなってみてまだまだパワーが残されているに気付かされる。情熱も失われていない。だから、本気で何かに取り組めば、影響力を発することは大いに可能だと考える。だがそんな我々が、これまでの自分たちをなんら反省することなく新しいことに関わっていけば、そこでもまた数の論理で他の世代を圧倒してしまう可能性がある。

政治不信、教育の荒廃などなど、団塊の世代が作り出したとも言える「負の遺産」をきちんと総括して、他の世代、特に50歳前後の人たちが我々をどう見ているのか、また、「負の遺産」をドサッと手渡されようとしている若者たちがどう考えているのか、この機会に時間をかけて答えを出し、その解決策に取り組むべきだ。政治の世界やNPOに入るのはそれからでも遅くはない。いや、それからでなければ足を踏み入れるべきではない。

それじゃあ、お前はどうなのか、と必ずや言われるだろう。激しく団塊の世代から反発を買うだろう。私はしかし、団塊の世代の功罪、特に「罪」の部分を言い続け、その主張をこれまでマスコミを使って伝えてきたし、また活字にして訴えてきた。だが、それに対して反応してきたのは他の世代の人がほとんどで、同世代は「そうかなあ」で終わってしまっている。

だから、私は団塊の世代には今や頼る気持ちはない。頼りにしたいのは若い人たちの力だ。そこに私は力を貸して、自分たちの世代が犯した間違いを少しでも修正できるよう心血を注いで生きたい。そして、新しい風を彼らと共に吹かせたい。

mixiに見る若者像

2007-02-23 00:55:46 | Weblog
 mixiをご存知か。

 このブログを覗き込むくらいだから知らぬ人は少数派であろう。そのmixiにコミュニティの欄があるのは皆さん当然ご存知だろうが、僕も数日前、若者たちが、それも浦和レッズファンが多く集まるさいたまのコミュニティに書き込んでみた。

 私は自分の政治的な姿勢もはっきりした上で、さいたま市議会が先週、数百億円をかけて「サッカー博物館」を造ると発表したことへの疑問を書き込んだのだ。

 下手をすれば、熱烈なレッズ・サポーターの怒りを買って「場が炎上」することも考えられたが、私の意見に対してmixi族たちは、おおむね冷静に反応している。当然のことだが、賛否両論が書き込まれている。

 「若くないモン」世代は、「最近の若いモンは…」と言う前に、このやり取りを読んでみるといい。

駅前講演会

2007-02-21 02:11:36 | Weblog
選挙活動も他の陣営はかなり力が入ってきた様子。

こちらはまだまだ。これからの本番に向けて次々に浮かんでくるアイデアを整理中。

そして浮かんできたのが、時間を決めての「駅前講演会」。

実を言うと、僕は全国各地で講演をしている。北は北海道から南は九州まで声がかかれば飛んでいく。残念なことにこれまで沖縄から声がかからないが、やがてお呼びがかかるはずだ。

僕を呼ぶには、「講演会依頼.com」のようなプロダクションを通せば、最低20万円かかる。それに交通費や宿泊費が必要となるから、遠隔地であれば30万を用意しなければならない。もちろん、「友達価格」「学生割引」「出世払い」「手弁当」がないわけではない。

まあ、早い話。僕の講演はある程度の価値があると言いたいのだ。実際に、私の演説に足を止めてじっと聞き入ってくれる通行人も出てきた。その自分の世間的評価を考えて、これを「駅立ち」に使おうと決めたのだ。

駅立ちだから、候補者は皆さん、通行人に自分の名前を覚えてもらおうと連呼する。実はこれ、公職選挙法違反なのだが、多くの候補予定者はそのやり方で押し通す。

私は、そういう選挙スタイルではなく、自分の考えを市民に訴えていきたいから演説をしている。だが、通り過ぎる人たちが相手だから同じことを繰り返してしゃべらざるを得ない。

そこで、時間を決めて、定期的に30分間の講演会をやることにした。例えば、○曜日の○時にドコドコに行けば必ず浅井の考えが講演スタイルで聞けるよ、というものだ。

その結果については、後日お知らせいたします。

神戸からの応援

2007-02-20 07:59:21 | Weblog
昨夜は神戸から被災地NGO恊働センターの村井雅清さんが応援に駆けつけてくれた。

村井さんの応援を受けて行なった「駅立ち」には、総勢13名が参加。迫力のある駅前演説会になった。

村井さんの話は、さすが長年の活動の重みがある。通行人は気ぜわしく行き交うが、耳をこちらに向けているのが分かる。そこをとらえて彼は幾つかのキー・ワードを演説に混ぜる。

途中、若い女性が我々の前でよろけた。駅の階段によろけたかと思ったが、駆け寄った私たちに「電磁波が…」と言って苦しむ。

直子に携帯電話を渡していた私は、彼女のケアをしようと申し出たが、「大丈夫です」と言って、よろけながらその場を去っていった。

毎日彼女は電磁波が飛び交う中、苦しんでいるのだろう。村井さんが、「普段の生活の中で“災害”に苦しんでいる人がいる」と強調していたが、まさにこのことと実感、改めて彼の鋭い視点に感服した。

「駅立ち」の後、近くの店で懇親会。話の輪が物理的に3つに分かれたりしたが、どの輪でもいい交流ができているようであった。

ハコモノばかりのさいたま市

2007-02-19 07:59:39 | Weblog
 読者からこんなメイルをいただいた。

 ハコモノ反対は、立場が違えば、「建設反対→仕事こない→地域さびれる」と思われかねぬのと、ハコモノを作る代わりに○○を作る、と言ってもナカナカ真意が伝わりにくい(上記のハコモノ建設反対→→地域寂れるのロジック持っている人には、特に)ので、建設業界の人も飛びつくようなプレゼンにするといいと思います。

 この人は、私の支援者だから好意で助言してくれているのだ。だが、さいたま市や埼玉県の現状を考えると、この意見にはのれない。たとえ、大量に票を失おうと、この場では踏ん張るしかないと考える。

 財政が健全であれば、まあ、ハコモノすべてに反対するわけではない。だが、さいたま市は、区役所建設や浦和での大型開発ラッシュで、市の借金である市債発行額は、07年度で約370億円。同年度末の市債発行残高は約3636億8千万円となる見込みだ。

 市の持ち物ではないが、さいスタ(サッカー)、アリーナ、ゲージツ劇場などなど、さいたま市はハコモノだらけの町。特に、さいスタなんぞは、W杯のためだけに850億かけて造ってその後は毎年「赤字製造ましーん」。レッズのホームと言っても、本当のホームは駒場スタジアム(市営)。そこもさいスタのちょいと前に数十億かけて改装した。レッズの活躍の陰に、汚い話がたくさん隠されているのだ。

 鉄道もしかり。W杯に合わせて作られたさいたま高速鉄道は大赤字。駅のエスカレイターも止まったまんま。それでも、“不便”だからと、高速鉄道をつなげてさいスタからさいたま新都心にLRTを走らせようとしている。

 旧浦和の駅前再開発にも数百億円規模の税金を注ぎ込んでいる。

 こんな危機的な状況を見れば、たとえ反対が多くても頑張るしかない。

選挙版“紙芝居”

2007-02-19 00:40:05 | Weblog
今日は、イーゼルとホワイト・ボードを使って“紙芝居”をやってみた。

これが新鮮だったのか、聴衆の反応は良く、中には足を止めて演説をしばらく聞き入ってくれる通行人が何人もいた。

話の内容で大きな変化は、さいたま市が発表した「サッカーミュージアム」構想。数百億円をかけてこんな博物館を造る必要性があるとは思えない。

そんなものを造る前に、学校の耐震化を急げと通行人に訴えた。埼玉県は全国の中で校舎の耐震化率は30番目と立ち遅れている。

今日もASEの生徒や元生徒、それにその親が立ち止まって声援してくれた。

夜に行った美容室では、もうすでに僕のパンフが待合室に置いてあった。嬉しいことだ。別に頼んだわけではないのにこうやって支援してくれる。本当に僕は友人・知人に恵まれている。

私の視点 最近の若くないモンは…

2007-02-18 11:49:22 | Weblog
最近の若いモンは…と言いたいことが全くないわけではない。だが、それとほぼ同じ確立で、最近の若くないモンは…、と言いたくなることがある。

それは、自分にも当てはまるわけで、若い人に教えることもあるが、その逆に教わることも多い。

出馬への準備を進める中で、周囲に集まってきてくれた若者たちは、僕をある意味では信頼してくれている人たちだ。しかし、だからといって僕の言うことに対して「右向けミギ!」ではないところが、心地よい。

「自慢話を控えるように」
ハイ。そのつもりはないのですが、気を付けます。
「MLに書かれた疑問や批判に対して直ぐに書き込まないで。(他の人たちが)萎縮して書けなくなる可能性があります」
これもごもっともです。辛いですが頑張ります。

そう思っている時に、南浦和に住む若い男性から「公約が分かりにくい」と声が上がった。

彼は、mixi上で「この指、と~まれ」との呼びかけに応えて「街歩き」に参加してくれ、その後も集まりに顔を出してくれている。とても聡明な思慮深い若者だが、メイルを読むと、その彼が一生懸命に読んでも私の書いたものから何をやりたいかが伝わって来ないという。

これは、一大事である。僕は、ジャーナリストとして得られた情報をいかに分かり易く読者や視聴者、聴衆に伝えられるかに取り組んできて、そこから得られた経験や知識を若者たちに「メディア・リテラシー」として教えてきた。

早速自分なりに考えをまとめてみた。

そこから新しいアイデアが浮かんだ。街頭演説をする際、僕のアピールしたい防災対策を図を使って説明するのだ。それには、キャンバス立てにホワイト・ボードを使うのがいいかもしれない。

先週からアピールし始めたこともそこに加えたい。それは、15日に市議会で明らかにされた、「サッカーミュージアム」建設への反対だ。数百億円をサッカーの博物館建設に予定しているというが、その前にやることがあるはずだ。それは、学校校舎や公民館などの耐震化だ。阪神・淡路大震災後、一斉に始まった耐震化の流れは、カネがかかりすぎるということだけで、急速に勢いがしぼんでしまった。中でも埼玉県は遅れていて(阪神大震災直後は先駆的だった)、校舎の耐震化では、全国30位だ。

さいたま市は、他からどう見られているかはともかく「サッカーの街」との自負がある。だから、この訴えは反発を食らう可能性も多分にある。だが、僕はあえてその風を変えたい。

「子供が大事」であるのならその言葉や想いを優先するのが大人の責任と考えるからだ。

ここまで書き進めたところで今、妻の直子から讀賣新聞の記事の写しが手渡された。僕たちの結婚の証人でもある日本人で初めて宇宙を旅した秋山豊寛さん(讀賣さん、元宇宙飛行士というのは間違いですよ)の講演での子供たちへの呼びかけを紹介した記事だ。

「人間という自然も大切にしなければいけない。地球の資源は限られている。みなさんの子どもや孫の代まできれいな地球を保てるよう、協力して環境問題に取り組みましょう」

秋山さんは、宇宙を旅した後、TBSを退職して福島阿武隈山系の標高620メートルに居を構え、農業に取り組み、そこから情報発信をしている人だ。彼の言動には随所に「異世代の交流の秘訣」が隠されている。「最近の若いモンは」というセリフは彼の口から一度も聞いたことがない。

サクラサク

2007-02-17 11:36:08 | Weblog
 今の時期、ASE英会話スクールには「朗報」が多く飛び込む。「サクラサク」とかつては表現された入学試験の合格発表だ。

 昨日も、“目を付けている(と言っても、変な意味ではないですよ)”中学三年生Tクンが、嬉しそうに報告してきた。

 具体的な話をする前にASEがどのような「場」であるか説明しておく必要があるだろう。

 私はこの英会話スクールを1977年、小さい頃からの「子供たちが生きた英語を学べる場を作りたい」という夢を実現するために立ち上げた。さらに、「ヤンチャなおやじが人生を満喫するのを見せる」場にしたいとも思っていた。だから、目を付けた生徒には折を見て“センノー教育”、ジャーナリズムなどの道に導いている。

 30年の間に多くの子供や若者たちが巣立っていった。しかし、もちろん、巣立ちに失敗して巣の中にこもりきりの若者も少なくない。その子達(今では40代の者もいる)との付き合いも今も続く。そんないろいろな出会いの場であるASEでは、人と人の架け橋の役割も担う。

 TクンはASEが大好きな中学生。小学校の時、短期間だがASEに通う内に“浅井菌”に感染し、父親の転勤で東北に数年暮らす間も菌は体内に生き続け、浦和に戻ると直ぐにASEに復学してきた。

 毒性の強い浅井菌に侵されたTくんのサイボーだが、その後、井上酵母菌によってうまくT君の中でまろやかに熟成されたようで、いい少年に成長した。英語が得意科目になったことは言うまでもない。

 だが、何を間違ったか、数学が苦手科目になってしまった。それを心配した親が学習塾に通わせようとしたが、頑として聞き入れない。そこで親から私に相談が持ちかけられた。

 妙案が浮かんだ。やはり、親ぐるみで浅井毒性菌と井上酵母菌に毒された大学生がいるのだが、彼に数学の面白さを教えてもらえれば道は直ぐに開かれると考えたのだ。これが、ピタリ的中。Tくんの数学の成績は短期間でぐ~んと急上昇したのだ。

 実はその大学生も、高校受験の際には塾に行かずにASEの井上の隣のデスクを勉強机にして時折勉強を見てもらい見事、埼玉県の代表的な高校に合格している。いわゆる井上イズムの継承者だ。

 こんな楽しみがあるからさして儲からないASEを30年も続けてきた。私が議員になれば、「2足のわらじ」は履くまいと心に決めているから井上酵母菌に全てを任せることになるが、いずれにしても「街の英会話スクール」というだけでなく、「多くの出会いの場」としてもいつまでも続けていかれればと思う。

 昨夜はさいたまも本格的な冷え込みとなったが、そんなくそ寒い中(失礼)、今年も生徒さんからいただいたたくさんのチョコを自転車のカゴに入れて、鼻歌を口ずさみながら「新婚家庭」に戻る「ヤンチャな初老」であった。

 

組織票

2007-02-17 07:58:04 | Weblog
 県内に住む方から連絡が入った。

 その方は、県外の私の知人からの「(浅井君は)面白いやつだから何とかしてやってくれ」との依頼に応えるべく支援を申し出てこられた。いわゆる組織票というやつだ。

 これは悩ましい。

 悩ましいといっても、それを受けるか受けないかではなく、どう断るかだ。

 これまでにも何人もの知人・友人から組織票の申し出があった。それに対しては、私も長年人生を“営業”してきた。具体的なものでなければなんとなく話をうやむやにできる。だが、具体的な話になると、市民団体のようなものであれば、「メンバーの方たちに私の考え方を理解していただければ嬉しいですね」と、支援に対して前向きな姿勢が取れるが、他の組織票の場合、対応を慎重にする必要がある。

 「選挙に出るのに何を堅いことを言っているのか」と、思われる方もいるだろう。また、そう言われたこともある。

 だが、私が若者たちに、「僕が先ず『地盤(組織票)、看板(知名度)、カバン(資力)』がなくても勝てるやり方を実践するから後に続いてくれないか」と呼びかけるのに、ここで“ずるい手”を使うわけにはいかない。「学歴偏重にNO!」の姿勢も同様だ。日本の悪しき伝統や風習に「否」のひと文字を叩きつけるには、そのくらいの気概を持たないとならないのだ。

学歴偏重にNO!

2007-02-17 01:38:12 | Weblog
 朝日新聞に続いて、毎日新聞も私の学歴について問い合わせをしてきた。中退の場合は、単位がどうたらこうたら言ってきた。電話をしてきた記者は、朝日と違って感じは良かったが、私にとっては候補者名簿の学歴なんぞどうでもいいこと。

 学歴偏重の流れに同調したくない私は、「岡崎市立美川中学校を卒業しています。義務教育終了で結構ですよ」と答えた。ホント、ばからしい。AP通信に入社するのに「獨協大学外国語学部英語学科中退」で通用するはずはないことは誰が考えても分かるはず。それだけに、マスコミの報じ方のばからしさを世に知らせるにはいい方法と考えて中卒にした。

 これが原因で落選するのであれば、それだけのこと。私は潔く政治の世界から手を引くことにする。