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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

私的「むち打ち症物語」 その3

2005-12-30 10:25:41 | Weblog
 喫茶店に行くに際し、私は金を受取ったら身体一つでその町をすぐに飛び出せるように準備した。

 指定された場所に1時間ほど早めに出かけた。いや、厳密には、その店が見えるところまで行った。それは、私が無鉄砲の命知らずではないからだ。いや、「ええかっこしい」はよそう。正直な話、そこに行くのが怖かったのだ。

 その喫茶店を遠目に様子を窺った。すると、店に出入りするのは、“その筋”と思われる風体の者ばかり。一般客が利用している様子は無かった。

 「ああ、あの店ね。XX組がやっているのよ」
 近所の住民はそう教えてくれた。

 相手の関係者に自分の姿を見られぬよう、喫茶店の様子を窺った場所からさらに遠くに場所を移し、「一人作戦会議」を始めた。30分は考えていただろうか。私の自問自答、葛藤が始まった。いや(いやの連発で申し訳ありません)、葛藤は、その時始まったわけではなく、相手から場所と日時を指定された時から始まっていたと正直に言っておこう。

 「20万円」と「命」とが頭の中でぐるぐる回る。当時の20万円は、今の100万円に相当するほどの大金だ。これから海外に行けば、いろんな場面で役立つだろう。

 「俺はまだ若い。これから働けば金はどうにでもなる。今ここで欲を出して駿河湾に浮かぶわけにはいかない」
 私は、自分にそう言い聞かすと、その場を離れて電車に乗り東京に向かった。

 その日は、梅雨寒で気温は高くはなかったが、私の脇の下と両手は異常に汗ばんでいた。その朝は忘れていた後頭部の痛みも、落ち着きを取り戻すと重くのしかかってきた。

 東京に戻ってから、人の薦める病院に行き、脳外科の診断を求めた。今で言う、セカンド・オピニオンというものだ。

 各種検査の結果、脳や頚椎に目立つ異常は無く、医者からは以前言われたように「完治には時間が必要です。無理をしてはいけませんが、落ち込みがちになることが多いですから適度な気分転換を忘れずに」と、こちらは私立の個人病院だからか、優しく言われた。

 気分転換というわけではなかったが、6月15日の「70年安保(日米安全保障条約の改定に反対する運動。10年前のこの日、デモに参加していた学生、樺美智子さんが警官隊に殺された)と沖縄返還闘争(当時、沖縄は米政府の施政権下に置かれたままであった)」デモに参加した。だが、60年代後半のような熱気というか、熱い想いは人の群れの中に無かった。デモを終えて帰る足は重かった。警官隊に向かって石を投げたり「ゲバ棒(ただのこん棒。独語の暴力を表すゲバルトに由来)」を振るえず、全共闘運動になじめなかった頃の自分が再び蘇ってきて、デモへの参加が悔やまれた。だが、救いは、国会議事堂前をジグザグ・デモで激しく動けたことだ。不思議に、頭の痛みや重みも感じられなかった。

 「沖縄に行こう」
 私は、イギリスに飛び立つ前に、米軍に占領されたままの沖縄を見ておこうと思った。厳密には、前述したように「施政権下」と言われていたが、実質的には軍事占領下にあった。そんな沖縄もその頃には日本への返還が噂されていた。

 パスポートと米ドルを持っての沖縄行きであった。沖縄で見たものは、ひと言、激しい屈辱感であった。米軍の占領下にあるなどという表現ではとても言い尽くせない、人間性を否定されることの意味を深く考えさせられる状況が目の前にあった。軍事占領の醜悪な顔が沖縄の町のどこに行っても姿を現すのだ。

 学生と交流がしたいと琉球大学に行き、自治会の事務所を訪れた。快く受け容れてもらったが、しばらくして数名の学生がそこへ怒鳴り込んできた。それまで私と話していた自治会の学生達と乱入者との間で激論が交わされた。

 「XXXX」「○○○」
 両者が琉球訛りで怒鳴り合う内容は、まるでチンプンカンプン。ただあっけに取られて成り行きを見ていることしかできなかった。

 しばらくして激昂した数名の学生がもみ合いとなった。こうなると、私も黙っているわけにはいかない。両者の間に止めに入った。

 「スイマセン。私東京からわざわざ話を聞きに来ているので後でやってもらえますか」
 私はとっさに嘘をついた。ナンダこいつ?という怪訝な表情をした相手は、それでも大人しく引き下がってくれた。

 その時はいさかいが収まったのでヨシヨシと思い、しばらくして自治会の事務所を出るまでは上機嫌であった。ところが、もみ合った時に首に衝撃があったらしく、痛みを感じ出した。それから2,3日、ブルーな気分の日々が続いた。
 
 街や店で出会った人たちに街を案内してもらったり、そのまま彼らの家の居候になったりした。沖縄の人たちの暖かさが、熱さが私の胸に心地良く響いてきた。彼らは無性に優しいのだ。沖縄が大好きになっていく自分が嬉しかった。それだけにその人たちにむち打ち症のことを気付かせまいと気遣った。

 放浪の旅は、今度は宮古島へと続いた。当時はまだ宮古島に飛行場はなく、船での往復となった。それも、定期便というにはあまりにちっぽけな船だった。

 その頃島にはホテルの姿はほとんどなかった。ほとんどと書くのは、はなからそういところに泊まるつもりはなかったのでその存在すら目に入らなかった可能性があるからだ。地元の人にただで泊めてくれる所を聞くと、植物園を教えてくれた。そんなに遠くはないと言われ歩き始めたが、行けども行けども植物園は見えてこない。行き交う車や人さえ見えないのだ。見えるのは「ざわわざわわ」のサトウキビ畑だけ。かなりの距離を歩いたが、不思議なことに後頭部の痛みは感じられなかった。

 日が暮れかかる頃、植物園に到着した。宿直の職員は、「ここで良かったら歓迎しますよ。宿直はつまらないから丁度良かった」と、即快諾してくれた。土産も何も持たずに「一宿一飯」ならぬ「三飯」くらいの歓待を受けた。その方の優しさは、心の奥底から出てくるもので、何事に対しても斜に構え、好戦的であった私に無言で「もっと肩の力を抜きなさい」と教えてくれている様であった。ほんわかと心温まる状態で床に就いた私であったが、その夜、後頭部から腰にかけて強い痛みが走り、それは明け方まで続いた。慣れぬ酒がムチ打ち症に影響を与えたのかもしれないと、調子に乗って飲酒したことを悔いた。

(続く)
 

国家機密漏洩事件スクープに疑問

2005-12-29 10:40:34 | Weblog
 今週発売の週刊文春に、在上海日本総領事館の領事の自殺を扱ったスクープがある。
 記事によると、当時46歳の領事は2004年5月、中国情報機関の脅迫に堪えかね、総領事館の宿直室で首吊り自殺をしていたとのことだ。
 今朝のTVのワイドショーは、早速この問題を扱っていたが、何か釈然としないものを感じる。ワイドショーの解説者は、これまで中国や旧ソ連を含む共産圏諸国はこのような諜報活動をしてきた、などと煽るような発言をしていた。
 私は、この記事を事実無根などと言うつもりはない。と言うか、そのような情報は手許にないから私には反論のしようが無い。領事の遺書の内容にまで触れられているから、恐らく、概ね記事の内容のようなことが起きたことは間違いなかろう。だが、情報の“漏洩”のされ方やその時期に何か胡散臭さを感じてしまうのだ。 
 文春の記事を読むと、これまで1年以上、この自殺の真相は、外務省の中で封印されてきたとのことだ。それが、ここにきてなぜ明らかにされたのか。それも、「見てきたようなXX」という古典的な野次馬の作り話のような“証言”が各所にまぶされた記事の構成だ。これを読むと、あくまでも推測だが、女性問題で中国人(当局?)から脅迫された領事が、自殺したことは間違いないが、そのほかに書かれている証言や状況証拠には、そのまま鵜呑みに出来ない“ニオイ”を感じる。もしこの証言が本当に外務省の関係者、特に総領事館の同僚から提供されたものであるとしたら、外交を担うものとしては失格である。こんな感情的で推測に基づいた証言をしたら、日中外交にどのような影響を及ぼすのか、考えれば容易に分かることだ。このような情報を握っているのなら、外交カードに巧みに使って“復讐”するくらいのことを考えるのが外交官というもの。あまりに甘っちょろいとしか言いようがない。
 中国当局が女性を使って極秘情報を入手することがないと言えるか。これは、残念ながら充分にありうることだ。これまでにも、中国は何度かそのような仕掛けをたくらんできた疑いがある。記憶に新しいところでは、橋本元首相や谷垣財務大臣のケースだ。橋本氏が「中国人女性通訳」との関係を疑われ、谷垣氏が「中国人買春」で問題を起こしているように、どうも日本の男は公職にあるものでも下半身がだらしなく、付け込まれる余地は充分あるのだ。
 いずれにしても、またまた、反中国感情を煽るような記事の登場だ。今後この話がどのような展開を見せるのか、私は非常に心配だ。
 最後に付け加えておくが、このような諜報活動は、古典的手法で、TV解説者が言うように共産圏諸国だけが行なっているものではなく、欧米各国も頻繁にこのやり方で諜報活動を行なっている。
 

師走の街から

2005-12-29 02:30:15 | Weblog
 師走の銀座を歩いた。景気回復はやはり本当なのだろうか、道路は買い物客の車で溢れ、歩道には大きな荷物を抱えた人たちが気ぜわしく行き交う。どの店にも客が押し寄せ、師走独特のあわただしい雰囲気をかもし出している。
 そんな表通りから一歩裏通りに足を踏み入れると、ホームレスと思われる人を何人か見かけた。かつては、表通りを家族と歩いていたかもしれない。背広に身を固めて企業戦士として闊歩していた人もいるだろう。どちらが本当の幸せと断じるほど私は独善的になれないが、裏通りにうずくまったり、ぶつぶつと独り言を言いながらよろよろとあてもなく歩く姿に「幸福」という言葉を重ねることは出来ない。
 寒風が吹きすさぶ街から暖を取ろうとデパートに一歩足を踏み入れてみた。暖房のありがたみが全身を包む。体の芯まで冷えていたせいだろう。幾度か身震いした。だが、デパートにいる買い物客の無表情な顔を見ていると、なんともやるせない気持ちになり、外に出た。
 寒風の中、体を丸めて歩いていると、新橋に出た。時折り、立ち寄る「立ち食い寿司屋」に顔を出した。サーヴィス面では、ギリギリのところまで経費削減したこの寿司屋では、普段はネタの新鮮さと共に、「速さ」が売り物だが、今日は何故か、「早く注文しろ」「ぐだぐだ喋ってないで食べろ」と言われているような錯覚に陥るような「無言の圧力」を感じて、充分に腹を満たさぬまま「おあいそ」という言葉が口をついて出てしまった。
 寿司屋を後にすると、駅前の「億万長者が出ることで有名」な宝くじ売り場をしばらく人間観察。
 億万長者を夢見る人たちの表情は、まさに人それぞれで、見ていて飽きない。でも、見ているだけでは億万長者になれないのでその場を離れ、近くのパチンコ屋をのぞいた。
 師走の夜だというのに、多くの人たちが小鉄球の行方を真剣に目で追っていた。これも東京と埼玉の違いかもしれないが、埼玉のパチンコ屋でよく見かけるような、台を叩いて画面の絵柄を思った所で止めようとする人たちは見当らない。
 「1000円で腕試し」
 と、新台コーナーと書かれた処で空いた席を見つけ、機械に札を入れてみた。
 すると、ナント、数字が3つ揃った。大当たりである。チンジャラチンジャラ、勢いよく鉄の玉が受け皿に出てくる。大当たりが5回続き、2万円の儲けとなった。 「タバコ臭いと嫌われるんだよな」と、タバコ嫌いの家人を思い少々反省しながら帰りの電車に乗った。
 電車は思いの外、空いていた。それでも座れるほど空いているわけではなく、つり革につかまりながら本を読んでいると、後ろからドン、ドンと体をぶつけられた。振り向くと、そこには、立っているのがやっとという酩酊状態のサラリーマンがいた。
 彼は、何を思ったか、次の駅で降りた。狭いプラットフォームの上でゆらゆら体を揺らせていた。最後部車両だったので、それを見た車掌が彼を支えた。だが、車掌はその泥酔状態の男を柱に寄りかからせると、発車のベルを押した。
 駅名は憶えていないが、その駅のプラットフォームの幅は数メートルしかない。下手をしたら男は線路に転落してしまう。危険を察知した私は下車しようとしたが、時既に遅し、電車のドアは閉まってしまい、発車した。
 今のところ、京浜東北線で人身事故は報告されていないので、その男に危険は及ばなかったと思うが、あの車掌の対処には大きな疑問を感じた。車掌には、時間通り電車を運行させなければならないというプレッシャーがあったにしても、もう少し血の通った方法があったのではないだろうかと思う。
 何か一つでもいい。心温まる光景を見たかったが、結局この日は、大都会特有の無機質な冷たさを感じることばかりで、収穫はなかった。今日も仕事で遅くなった家人と南浦和駅で待ち合わせて一緒に帰宅した。せめて、「我がいとしのジミー」に会いたかったが、この寒さだ。ジミーが外で我々を待っていることはなかった。 

私的「むち打ち症物語」その2 

2005-12-28 01:13:58 | Weblog
 事故から時間が経っていたが、警察から事故証明を取ることが出来、買ってきた本を読みながら自分で訴訟手続きをした。時に、吐き気を伴なう不快感と痛みが体を突き抜けたが、これ以上悪くはならないだろうと、寝込まないで自分で歩くようにした。だが、その後、容態は良くなることはなく、痛みが背中全体から土方仕事で痛めていた腰にまで影響を及ぼした。

 事故から数ヵ月後、私は簡易裁判所で加害者側の弁護士と調停の席に着いた。その場には加害者も“おじ”も姿を見せなかった。

 2回目の調停が終わった後の事。書記官の1人が私を呼び止めた。そして、彼は私の目を見ることもなく言った。
 「XXさんのバックにいるのは誰だか知ってる?XX組の幹部だよ」
 
 私は書記官の発言の内容の把握にしばらく時間を要した。だが、どう考えてもこれは脅しとしか取れなかった。しかし、相手は裁判所の書記官だ。こんなことがあっていいはずはない。私はまるで当時流行っていたヤクザ映画の一場面に自分が置かれているような錯覚に陥った。

 「あなたは僕を脅しているんですか」
 気を取り直した私は、書記官に対して強い口調でやり返した。

 「違いますよ。ただ、情報を上げただけですよ」
 私の大きい声に慌てた書記官は、顔をしかめて小声で言った。その表情は、明らかに私に声を小さくすることを求めていた。そうなると、血気盛んな若者には逆効果だ。

 「そんな脅しに屈するような相手じゃないと言っときな」
 優位に立った私は、ヤクザ映画の主人公になった気分でそう書記官に言って部屋を出た。

 調停はその後何度も行なわれた。何度話し合いを行なっても話の進展はほとんどなかった。私から見て裁判官にやる気がないことも相手方の気持ちを動かせない大きな原因に思えた。

 その間、病院通いと並行して指圧、鍼灸、温泉と様々な民間療法を試みたが、病状の改善はみられなかった。医者は、「時間が経てば良くなるでしょう」というばかりでこちらの納得の行く病状説明はしてもらえなかった。病院の待合室では、むち打ち症の患者さん達が口を揃えて、医者に対する不満をぶちまけていた。だが、これもまた異口同音に、「結局は、われわれはやられぞんなんだよ」とあきらめ顔でため息をつくのであった。

 私はそこで、担当医の“懐”に飛び込む作戦に出た。それは、手紙に真情をしたため、医者に渡すやり方である。少々「筆が走った」が、嘘を書いたわけではなかった。その内容は、体の痛みとそこから受ける精神的な苦痛。そして、自分の将来の夢にまで及ぶものであった。

 次の診察で手紙を渡すと、担当医はそれまでのぶっきらぼうな態度からは想像できないほどの柔らかい表情を見せ、後日特別面談することを約した。

 数日後、面談に行くと彼は一通の封書を私に差し出した。
 「それは、あなたの診断書です。今の日本の医学では正直言ってむち打ち症の仕組みがきちんと解明されていません。患者さんたちが一様に痛みを訴えられますが、外傷もなければ、体の構造や機能に目立った不具合が認められない以上、我々もどうしようもないのです。現代の医学では、これ以上、通院してもあまり意味がないでしょう。経験上から言える事ですが、人によってかかる時間の違いはあります。具合が悪くなることもあるでしょう。だが、必ず治ります。だから、あなたのように若くて夢がある人は、自宅療養に切り替えて、気分転換を図るほうが得策です。そのために、あなたに有利になるような診断書を書きました」
 
 私はその診断書を裁判所に提出して次の調停に臨んだ。すると、話し合いの空気は一変して私に有利な風が吹いた。裁判官の強い指導で、加害者側も渋々折れて、治療費全額、休業補償、慰謝料など総額100万円近くの金が私に支払われることになった。1970年当時、大卒の初任給がまだ5万円に達していなかったことからその額の大きさがお分かりいただけるだろう。

 私は、金を受取ったら念願の英国留学に役立てることにした。80万円を手にした段階でまず東京への引越しを決めた。住んでいた所に今後も長居をすれば、相手方から何をされるか分かったものではない。引越しをした後、残りの20万円を受取りに、相手の指定した喫茶店に向かった。

(続く)
 

 

私的「むち打ち症物語」その1 裁判所にヤクザのお友達

2005-12-26 11:52:55 | Weblog
 交通事故で起きる難治性むち打ち症の原因が脳脊髄(せきずい)液減少によるものではないかとの議論が進む中、このほどむち打ち症被害者に朗報がもたらされた。

 三重県の男性が加害者側を相手に津地裁伊勢支部(遠藤俊郎裁判官)に損害賠償請求を起こした訴訟で、同支部が「事故が原因」と判断を下し、今年7月、加害者側が650万円を支払う形で和解をしていたことが分かった。これは、この種の訴訟としては初めてのことらしい。

 むち打ち症は、自家用車が急増した60年代の高度成長期から問題となり、その「姿かたち」が見えないことから、当初は怠け病とのそしりを受けていた「難病」であった。

 私も例外ではなく、二度にわたってこの病気に見舞われている。一度は、ヤクザ関係者からの追突事故、そしてもう一度は、“空手をやっている者”から不意に回し蹴りを後頭部に受けたことによるものだ。

 最初の被害をこうむったのは、私が21歳の時であった。大学を中退し、ジャーナリスト、岡村昭彦さんに会いたい一心である地方都市に住んでいた私は、生活維持と将来海外で役立つのではと、市内の小さな自動車修理工場で働いていた。

 ある日、修理を終えた車を客の元に届けようと、私がその車を運転し、親方が他の車で後に付いた。客の家の近くに来たときのことだ。交差点で信号待ちする私の車に後続の車がぶつかった。
 
 実は、その直前、後続車が鉄道の踏切を一旦停車せずに通過していたことをルームミラーで確認していた。運転手は若い女性で、助手席の女性とおしゃべりに夢中になっているようであった。

 一瞬気絶した私だが、すぐに復活、車外に出た。

 車は、修理したばかりだというのに後部に大きなキズが出来てしまった。親方は私の体よりも車が心配で、不機嫌そうに加害者と話していた。警察を呼ぶと面倒になるからと示談で済まそうと話を進めていた。私は、そんな弱い立場でもあり、また柔道をやっていて首を鍛えていた自信もあったので、まさか後に大変なことになるとは想像だにせず、「大丈夫だから」を連発していた。面倒な場面から早く立ち去りたかったというのが、その時の素直な気持ちであった。

 その夜、私は自分の体が急激に変調していく事に驚き戸惑った。首が動かなくなり、背中から後頭部にかけて鉄板を入れられたかのような金縛り状態に遭っていたのだ。

 翌朝、病院に行くと、むち打ち症と判定されたものの、「若いからすぐに直りますよ」と、医者は言い、頚椎カラーを装着することもなかった。だが、それから数日間、痛みが減るどころか逆に増すばかりであった。

 加害者に電話したが、見舞いに来ないばかりか、必要書類を持ってくることもなかった。私は彼女に不快感を露にした。

 翌日、私の前に現れたのは、彼女のおじを名乗る中年男性であった。その風体や物腰から、「その筋のもん」であることは容易に想像が付いた。

 彼の話し方には明らかに「この若造が何を生意気な」という不快感が感じられた。血気盛んであった私は、最初は大人しく話をしていたが、相手の態度に不愉快になった。そうなると開き直るタイプで、逆に強気になってしまうのだ。もちろん、怖くないはずはなく、脇の下から冷や汗が噴き出していた。

 “おじ”が帰った後は、若いチンピラが顔を見せた。私に向かって仮病を使って下手な芝居をするなと脅していった。その後しばらく、チンピラはほぼ毎日、顔を見せた。彼らの顔ぶれが「日替わり」であったことから、おじが相当大物であることが推察できた。

 当時、むち打ち症は、冒頭で書いたように「怠け病」扱いであった。病院を替えても、対応する医者の診方はほぼ同じであった。相談するところもなく、知人に紹介してもらって弁護士事務所を訪れた。知人の話では、人権問題では名うての弁護士だとのことであった。

 私の話を聞くと、弁護を承諾してくれた。弁護費用も、「カネがないだろうから相手から取ってからもらおう」と言ってくれた。

 ところがその数日後、その弁護士から断りの連絡が入った。驚いて事務所に姿を現した私に、弁護士はただひと言、「このケースは勝てないよ。諦めた方がいいね」と言い放った。

 孤立無援で生活費も事欠く始末。私は失望のどん底にあった。だが、悲嘆にくれている暇はない。私は本屋に行き、「訴訟の起こし方」の本を買った。

(続く)

ACTNOWとのお別れ

2005-12-25 03:04:48 | Weblog
 23日、ACTNOWの事務所に行った。これが最後の事務所通いかと思うと、向かう足が重かった。
 既報の通り、11年近く続けた災害支援ヴォランティア「ACTNOW」が活動に終止符を打ち、25日で事務所を明け渡すことになってる。
 一年前に代表の座を自らの手で後輩に譲り、後を継いでくれたメンバーがやりにくくならないようにと、できるだけ事務所に顔を出さないようにしていた。
 ドアを開けると、かつて見慣れた風景が一変し、存在感を誇示していた救助隊の赤いヘルメットや赤いエンジンカッターの箱が消えていた。いや、それだけではなく、押入れに仕舞われていた「マリリンちゃん」こと、心肺蘇生訓練人形レサシアンもリヤカーの姿もない。というか、私の荷物以外、全てが整理されていた。
 ガランとした殺風景の中、畳に座り、残された資料や写真を手に取った。
 阪神大震災直後、神戸市長田区の公園にテント基地を設け、救援活動をしているメンバー達が写真の中で生き生きとした表情で微笑んでいる。「ヴォランティア初心者」故の多くの失敗を重ねてのスタートであった。その時の活動記録を見ると、今では考えられないような初歩的ミスをしていた。それも、私が一番多くの、そして重大な過失を犯していた。数々の失敗に耐え切れず離れていったメンバーKの記述と、Kからの手紙を読み返して、今さらながら自分の未熟さを恥じた。
 消防本部から本格的な救助訓練を受ける全国初の試み、と題する救助隊の活動を紹介する新聞記事と写真は、悲喜こもごもの思い出と共に、教官を自ら買って出てくれた永堀満氏への筆舌に耐え難い感謝を改めて私に促した。近く、代表と挨拶に行くつもりだが、文字通り永堀氏には会わせる顔がない。
 今では各所で行なわれるようになった「帰宅難民(自治体では困難者と呼ぶ)ウォーク」の新聞記事と写真も膨大な数のものがあった。徒歩区間も、季節も、時間も、とにかく様々な想定をして東京と埼玉を歩いてきた。
 「秋山砦援農」「外国人向け防災訓練」「図上想定訓練」「着衣泳」「防災マップ作り」と、他にもいろいろな活動をしてきた。当時は、“奇抜な”活動と言われ、「イヴェント・ヴォランティア?」と言われたりもしたが、今ではそれらの活動が広く世の中に浸透してきており、役割は果たせたかと思う。
 活動の充実や世の中からの注目は高まってきたが、活動自体は思うような形にならなかった。それは、新潟中越地震ではっきりした。10年前の反省と総括がほとんど上手く生かせなかったのだ。それは、私の舵取りに責任があることは誰の目にも明らかであった。私は冒頭で触れたが、その責任を取って代表の座を辞任した。だが残念ながら、若手代表者の手をもってしてもACTNOWの活動が再度高揚する事はなかった。
 はっと気が付くと、日が沈み辺りに闇が忍び寄っていた。また、暖房器具がない中で資料を読み続けたせいで私の体は芯まで冷えていた。
 重い腰を上げ、ダンボールをアパートの入り口に運んだ。全部で7箱あり、中に入っている紙の重さは半端ではなく、また階段の上り下りで私の体は一挙に暖められ汗だくになり、セーターの下はびしょぬれ状態になった。
 私の帰宅は資料と写真、それに汗まみれになったシャツを抱えてのものになった。そして今日、事務所は大家に引き渡される。

男前豆腐 その効能

2005-12-24 10:00:25 | Weblog
 昨夜は、家人が友人宅で勉強会。そのまま雑魚寝の大いびき大会に入るからと寝袋を抱えて出かけていった。
 そんなわけで、私は一人で夕食。献立は、ものぐさ男の得意技の「鍋」。冷蔵庫をのぞき、台所のダンボールをひっくり返し、具になりそうなものを漁る。
 そんな中、ひと際その存在感を主張するのが、前夜の食べかけ、「男前豆腐」。これだけは他の食べ物と違って、両掌で冷蔵庫から、それこそ押し頂くようにして出した。
 さて、その調理法となると、やはり豆腐の食し方の王道しかない。冷奴だ。
 このくそ寒いのに冷奴?と言う方もおられようが、ワタクシ、冬でもアイス・コーヒーを愛飲している。
 生姜をすり、わけぎをきざみ、極上の醤油をひとタレ、ふたタレ。前夜は素で食べていたのでその豆腐の持つ素の甘味、旨味は味わっていたが、また一味違った風味が味わえた。一気に食べてしまった。豆腐を包む和紙についているかけらを箸で掬う内、その和紙を手に取ってむしゃぶりつきたい衝動に駆られた。
 「子供の頃、カステラの下敷きをそうやって食べるのと同じだな」
 独り言を言ったわけではなかったが、ふと我に返り、容器に延ばしかけたその手を止めた。 
 男前豆腐を食べた訳は、その味を楽しむことと、もう一つ。その「食の効能」に男前になるとあったからだ。いや、確か書いてあったと思う。本当かと聞かれると記憶力には全く自信がないが、紹介した若い友人がきりっとした男前だから間違いはないはずだ。
 今朝起きた私は、まず一番に鏡を見た。正面だけでなく、横から上から下から、色々角度を変えて見てみる。う~む、どう贔屓目に見ても、不細工な顔に変化は現れていない。そりゃ、そうだ。「ローマは一日してならず」何事もすぐに結果を期待してはいけないと反省。鏡の前で、カネの続く限り、男前豆腐を毎日食べるぞ、とひと足早い「一年の計」をする私であった。

男前豆腐

2005-12-23 02:12:43 | Weblog
 今日(22日)買い物に行くと、豆腐のコーナーで探し求めていた製品を見つけた。以前、私の若い友人が自分のブログで紹介していたのを読み、それ以来探し続けていたものだ。
 その名を「男前豆腐」と付けられたその豆腐、見るからに存在感がある。まずは、容器に[男]と大書された黒い太字がいい。単純なことだが、私の通った小学校が男川小学校で、校章は男一文字。これが子供心に自慢であったことが思い出されて、思わず豆腐の前で含み笑い。
 「その心意気が男前」「水もしたたるいい豆腐」と書かれたフレーズから職人の豆腐にかける心意気が感じられて、いい。300数十円(ごめんなさい。値段をはっきり憶えていません)の値段にも職人のプライドが感じられる。私の周りの主婦は、男前(私のことではないですよ)に目をやることなく安売りの豆腐をかごに入れる。そんなわけで売れないのだろう。賞味期限(消費期限?どちらであったか忘れました)は、24日となっていた。
 美味しい豆腐を食卓に乗せるのなら、当然、基本は塩か醤油をひと垂れの食べ方だ。ならば、他のおかずも和食にしたい。今夜はシチュウかカレーでもと考えていたので、その場で献立を変更。小あじの新鮮なものを見つけたからそれをフライにして、私の特製ソースで食べることにした。それだけでは寂しいので、赤カブを蛤汁で煮ることを考えた。何れも初めて造るものだから結果は食べてからのお楽しみ。
 我が家では、台所に関しては、家人が食事を作り、皿洗いを私がすることが多い。しかし、別にどちらがやると決めているわけではないから私が料理することもままある。とは言っても、私の料理は見よう見まねで作るものだから、材料も作り方も全てでたらめ。でも、一生懸命出汁を出すところからやるから概ね好評だ。
 今日も家人は超過勤務で「シンデレラ・アワー」を過ぎてからの帰還だからフライものは失敗したと思ったが、意外に美味しく出来たので全て平らげてくれた。フライが無くなった後も特製ソースが美味しいと、スプーンですくって呑む彼女を見ていると、また何か旨い物を作ってやろうという気になる。
 ところで、今夜の主役の男前豆腐だが、期待にそぐわぬ風味であった。作り立てならさぞや美味かっただろうと思われ、ちょいと悔しいが、それでも十分に満足させてくれた。これも、容器の作り(底上げが施してある)や和紙でくるむ心遣いがその美味を長期間、保たせてくれているからだろう。
 食べ物に限らず、「良い物」に出会った時は、本当に心が豊かになるものだ。明日は残りの半分をどうやって食べようかと、今から楽しみにしている。
 

記事削除のお知らせ

2005-12-21 12:54:14 | Weblog
 「耐震偽装問題 幕引きを許すまじ」と題して皆さんにお届けした記事の内容の一部が、インターネットなどで“一人歩き”する形になり、このまま放置すれば、良心的に運営するビジネスホテルへの風評被害もありうると判断、当記事を削除いたしました。

開戦前夜

2005-12-21 12:20:31 | Weblog
 昨夜は都内四谷でクリスマス・パーティー。会場となった場所は、アート・ギャラリーでありながら軽食を出す店で、楽しい夜を過ごせた。

 「平和と環境」を考える人たちのこの集まり。参加者のほとんどが若者で、私が最年長。

 参加者それぞれが近況を語るコーナーがあり、そこで2人の若い女性が印象的な話をした。

 2人は、2003年3月に対イラク戦争が始まった時、戦争に反対する声を上げたのだが、周囲から奇異な目で見られ、とても悔しくて苦しかった経験をしたという。今でこそ、イラク戦争の実態が多くの人に知れることになったためか、戦争への異議を唱えても聞いてもらえるようになったが、あの頃はそれすらも許される空気はなかったと声を詰まらせながら話していた。

 これは私にも実感として伝わってきた。「9.11」や「イラク開戦」の時、私はTV局の特別報道番組の解説に連日呼ばれていたが、最初にTBSのスタジオに入った時の異様な空気は今も忘れない。

 実は、その約1時間前、局差し向けの車に乗り込む直前、信頼する先輩から私の携帯に電話が入った。彼曰く、「今局内の空気は、浅井ちゃんにとって最悪だからね。発言には細心の注意を払うように」。これは、その先輩が私に圧力を掛けるのではなく、その逆に私の立場を心配しての忠告だった。

 案の定、丁重に迎えられたものの、スタジオの雰囲気はそれまで私が経験したものとは違っていた。解説陣が、アフガン攻撃止むなしと「イケイケ」状態で、それに乗せられたか、司会の筑紫哲也さんの様子もおかしい。

 「これは流れを変えなければ」
 私は、その「イケイケ」解説陣に視聴者が乗せられぬよう、様々な視点から分析を試みた。その夜は、2部構成で、確か3時間くらいの枠があったように憶えているが、TBSが解説者を7人か8人も呼んでしまい、何人かを1部と2部で入れ替えたりしたので、両方通して出演していた私は、ある程度自分の考え方をその場で話すことが出来た。そして、その後もTBSで解説の機会を与えられたことで、少なくとも私の出た番組に関しては、「あの異様な雰囲気」は払拭できていたと思う。

 そして、対アフガン戦争が決着がつかないまま、対イラク戦争へと道は開かれた。この時も、9.11ほどではなかったが、「あの悪者をイラクから抹消するためには戦争止む無し」との世論があった。相変わらずTVでは、解説者たちが9.11の時の間違った分析を総括することなく持論を展開していた。ただ、持論と言っても、多くが米国の情報を借りてきただけのバイアスのかかったものであった。イラクに足を踏み入れたこともないのに、解説者、特に軍事評論家が「米軍の戦力を持ってすれば、砂漠を一瀉千里、2,3日で首都バグダッドは落とせる」といった暴論としか思えない発言で視聴者を惑わしていた。

 私はそれに対して、「イラクには、砂漠ばかりではない。川や農耕地もあり、また集落もある。池や沼だってあるのだ。また、落ちぶれたとはいえかつて中東随一と言われた共和国防衛隊がある。2,3日で落とせるはずがないではないか。また、たとえ陥落したとしても、それから『アルジェの戦い』のようなゲリラ戦になるはずだ」と反論していた。ある番組にゲスト出演していた時も、耳を塞ぎたくなるような暴言を吐いていた軍事評論家にCM中、「あなたは軍人なんだから戦略や軍事面の話はしていいだろうが、中東政治を語るのならもっと勉強すべきだ」と諌めた。

 すると、翌日、私の携帯が鳴った。前日に出演した番組の担当者であった。
「プロデューサーからXXXさんに対する発言を控えるように言われまして」

 私は、
「僕は間違ったことは言っていない。XXXさんと僕のどちらを取るかそちらが決めることだ」と、担当者に答えた。

 その答えに対しての番組側の見解は、直接私に伝えられることなく、TV画面で私が知ることになる。XXXさんはその後も番組に呼ばれ、私は一切声がかからなくなった。

 冒頭でご紹介した2人の女性が言うように、戦争の実態が明らかになることで、空気は多少変化が生じたかもしれない(彼らの場合、昨日出席したような「場」を得たことも大きい)。だが、世の中の流れは、前回の総選挙を見ても分かるように、残念ながら良い方向に向かっているとはいえない。次に何が起きるかは今のところ見えてこないが、現状では不安のほうが大きい。私の同世代と話していると、後数年で退職を迎え、「老後の過ごし方」が話題になったりするが、私にはどうやらそのようなことを楽しみにしている余裕はなさそうだ。

きっこの日記への不安

2005-12-20 12:25:50 | Weblog
 色々な人から耐震構造偽装問題に関わる情報提供をいただいている。ただ、その情報の精査をしてからでなければこの場で発表できない類のものが多いので、これをお読みの方で情報を提供していただく場合は、連絡先なり身元を明らかにしていただけるとありがたい。
 頂いたメールの中に、先日も紹介した「きっこの日記」を読んだ読者が、今きっこさんがやられようとしている、全国会議員への証人喚問に対する考え方のアンケートのことを紹介するものがあった。
 アンケートは、きっこさんが証人喚問で一躍「時の人」となった民主党の馬淵議員と組んでやろうとしているようだが、どうもそのアンケートの内容やマスコミへのアプローチの仕方に周到さが感じられない。「得体の知れないもの」を相手に闘うのだ。彼女やその周辺にも相当の覚悟があってやっていることだろうが、そのあたりが見えてこない。「2チャンネル」を含めたネット上で相当盛り上がりを見せているのは、新しい世論形成になる可能性もあるだろう。だが、こういう問題は、イケイケで目的を成就できるほど甘くはない。勢いも必要だが、「闘う」にはまずその体制作りが必要だ。「敵」をなめてかかっては、油断をしてはならないのだ。
 それと、ここまで注目度を高めた「きっこの日記」。恐らくというか、まず間違いなく様々な筋が「きっこさん」の周辺の洗い出しを進めているはずだ。ある筋では、彼女はもう個人情報の面では「丸裸」状態にされていることも考えられる。連絡手段も考えなければならない段階に来ているような気がする。民主党を含めて彼女を支援する人たちが、その辺りを考えながらことを進めているのかと不安になった。

読者のメールから 「きっこの日記」

2005-12-19 14:06:12 | Weblog
 読者の1人から、ブログ「きっこの日記」を紹介するメールが送られてきた。このきっこさんとやら、ヘアメークの専門家とのことだが、豊かな人脈を持っているようで、今回の耐震強度偽装問題では貴重な情報を提供している。
 その情報の確かさを実証するのは、あの国会参考人招致などで顔を知られるようになった「イーホームズ」の藤田社長が、きっこさんにメールを送り、さらにそのやり取りをイーホームズのHPで紹介していることだ。私には、きっこさんに対して釈明を試みる藤田氏の書いた内容を実証するだけの力はないが、少なくとも今回の問題を考える上での貴重な情報に間違いはない。
 興味があるようであればと、下記にご紹介する次第である。
「きっこの日記」
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20051218
イーホームズHP
http://www.ehomes.co.jp/SITE1PUB/sun/6/news/report70.html?t=1132554453775

私の視点 大規模人的災害指定を急げ

2005-12-17 12:09:54 | Weblog
 耐震強度偽装問題のマスコミ報道を見ていても、政府や自治体の対応を見ていても、日本社会の危機管理のレヴェルの低さには改めて驚かされる。というか、あきれて開いた口がふさがらない。こうなると、危機管理以前の問題で危機意識そのものが欠如する国民性と言わざるを得ない。

 今朝の新聞各紙を読んでも、国会の証人喚問で「峠を越した」とでも思っているのだろうか。完全にトーンダウンしている。恐らく、ネタ切れで書くことがなくなっていることもあるだろうが、それにしてもお粗末だ。

 こんな報道の仕方だから「永田町(政界)」や「霞ヶ関(官界)」も息(手)を抜いてしまう。マスコミが、このような事態の場合、積極的に息の長い報道をして、世論作りをしていくことは言うまでもないことだ。

 まず、はっきり、明確にしておきたいことだが、今回の偽装問題は、今や国家規模の「人災」である。それも、多くの命を奪いかねない緊急事態だ。いずれきちんとした形で取り上げねばと思っている「アスベスト問題」と並んで、国の根幹を揺るがしかねない災害である。私が小泉さんの立場であれば間違いなく、それこそ「抵抗勢力」が政界なり支持政党内に存在しようとも、有無を言わせず、この問題を大規模災害に指定して「緊急対策本部」を立ち上げる。ところが、小泉さんには、ブッシュ大統領からもらったのスクーターの方が気になるらしく、得意のパフォーマンスをしている。

 確かに、生活には余裕が必要だ。その辺りは、遊び大好き人間の私は重々承知している。だが、国民の命が脅かされているというのに、それにきちんと対処せず、人気取りパフォーマンスをしている神経が分からないのだ。

 「そんなに大げさに、ヒステリックに叫ばなくても」と言う人がいるが、私は「人の生命」に関わることに手抜きは許さない。時に、企業も自治体も政府も、また個人も間違いを犯すことはある。だが、それはそれとして、どう対処するかが大切なことなのだ。

 総理官邸のホームペイジを見て分かることだが、「マンションの耐震性コーナー」を設けているに過ぎず、まるで緊張感が感じられない。その内容も、「指定確認検査機関とは?」と題する項目一つを取ってみても。

 「建築確認は、地方公共団体(特定行政庁)に置かれている建築主事により受ける以外に、国土交通大臣または都道府県知事が指定した「指定確認検査機関」の建築確認を受けることもできます。指定確認検査機関としての指定を受けるには、確認検査を専門的に行う職員の数が十分であること、確認検査業務の実施計画が適切なものであることなど、法令に定められた基準を満たしていることが必要です。この制度は平成10年の建築基準法改正により導入されたものであり、最も早く確認検査業務を開始した指定確認検査機関は平成11年5月から業務を開始しています」

 等という説明を載せている。イーホームズなどの指定確認検査機関が、天下り役人も多くいて、ずさんな検査をしていたことが明らかになってきているのにもかかわらず、まだこんなことを書き込んでいるのだ。こんな国土交通省のホームページにあるものをそのまま精査することなく転載する手抜きを許してはならない。これ一つを取ってみても、官邸サイドがいかにやる気がないかが分かる。
 
 また、監督官庁である国土交通省についても同様だ。「TOPICS」扱いで、「重点施策」には入れていない。「TOPICS」に「構造計算書問題とその対応について」と題する項目があるが、これとてただの資料の発表だ。

 私がこれほどまで「吼える」には訳がある。つい最近我々が見たパキスタン地震で倒壊した高層マンションのことが頭にあるからだ。その時我々は、このような欠陥建築を、「発展途上国の悲しさ」という目で見ていた気がする。しかし、今回のスキャンダルで他人事でないことがはっきりした。自分達の身の上に正に危険が迫っていることが次々に明るみに出ている。耐震強度偽装がここまで広がってくると、想起するのは10年前の阪神大震災で壊れたビルやマンションだ。建築家達が首を傾げ、「常識を覆された」と衝撃を受けていた倒壊建物の中に偽装物件があったことも考えられるからだ。

 今朝の朝日新聞に「耐震偽装マンション 退去1割どまり」という記事があった。これは、国の建て替え支援策の対象となった分譲マンション10棟288世帯のうち、16日までに退去したのが全体の1割である30世帯にしか過ぎないと報告するものだ。この記事を読んで情けなくなった。これが、経済大国日本の実態なのか。

 私は、この小さなメディアで今声を上げるが、政府は直ちにこれを「大規模人的災害」に指定して災害対策本部を作り、徹底的な不良建物の洗い出しをして、住民の安全を速やかに確保すべきだ。いついかなる時起きても不思議ではないという段階にまで迫っている大地震の可能性を日本列島全体に抱えているというのに、「予算が確保できない」などといった理由で住民たち、特に子供たちの命を危険にさらしてはならない。


仰木監督の死を悼む

2005-12-17 10:25:27 | Weblog
 多くの名選手を育てたプロ野球界の名将が逝った。
 その名は、仰木彬。「急死」と受取ったが、癌の再発を繰り返しての闘病生活の末にこの世を去られたとのことだ。
 彼は名将というだけでなく、人間的な魅力に溢れた男と聞いていた。その風貌は、高齢になってからもパンチパーマにサングラスと、街のヤクザ顔負けのもので、夜のネオン街を夜な夜な飲み歩く仰木さんに「地回り」が挨拶することもしばしばであったという。「親分肌」なのは、その風貌だけでなく、人柄も包容力に溢れていたようで、後輩達に心から尊敬され、慕われていたようだ。
 昨夜のニュースで、かつて仰木さんの下でプレイし、今はメイジャー・リーグで活躍する田口壮選手がインタヴューに答えていたが、目に涙を一杯ためて仰木さんのことを語っていた。また、日本の野球界で世話になり、その後、アメリカに渡って活躍した吉井理人投手も記者会見で涙ぐみながら「心から信頼できる大将。終わりかけていた選手にチャンスをくれた。感謝のひと言」と語っていたという。吉井投手は数年間の野球生活だけでメイジャーからマイナーに転落し、米球界からお払い箱になってしまった。失意の帰国をした同投手に関心を払う日本の球団はなく、日本でも「もう吉井は終わった」との見方が大勢であった。その時、吉井投手に声をかけたのが仰木さんだったのだ。吉井投手が渡米前に所属した近鉄バッファローズで監督をしていた仰木さんと確執が噂されていただけに周囲は驚いたが、仰木さんはそんなことはお構いなしに声を掛けたらしい。仰木さんの「プロの目」がそうさせたのか、人情の篤さだったのか、その辺りは知らないが、吉井投手はそれに応えて、見事に復活した。
 仰木さんと言えばイチロー選手というくらい、二人の仲は有名だ。
 そのイチロー選手は、渡米後も仰木さんと親交を続け、昨年仰木さんが野球殿堂入りした時にはシアトルから駆けつけ、今年のシーズン後に一時帰国した時には、仰木さんの病床に空港から直行したと言われている。訃報はロサンゼルスで聞かされたとのことだが、同行している所属事務所の職員の話では、ショックでコメントも出来ない様子だという。
 私は残念ながら仰木さんとは何の面識もないが、個人的に言えば、1995年の仰木監督率いるオリックスが、阪神大震災で破壊された神戸の街から「がんばろう神戸」のスローガンの下、リーグ優勝したのを避難所のTVで観て感激させていただいた。あの優勝がどれだけ被災者を励ましたか、恐らくあの時神戸で同じ空気を吸う者のみが味わえた感激だっただろう。その優勝の胴上げに加わっていたのは、言うまでもない、イチローと田口であった。その1年後、今度は「日本1」になる瞬間を神戸市内の設けられた特設会場で体験させてもらったのも印象に残る思い出だ。
 日本球界から次々に、名選手、名監督が消えていく。その人たちのプレイや采配振りが記憶にあるだけに寂しさはあるものの、仰木さんの死は、本当に惜しまれる。
 「もう少し、あなたの生き様を見たかったですよ、仰木さん」。
 
 

まぶち議員周辺でも不穏な動き

2005-12-16 11:21:17 | Weblog
 構造偽装問題を調べれば調べるほど、不可解で不透明な情報が飛び交い、全体が黒い霧で覆われているかのような印象を受ける。私には今、残念ながらその正体を突き止めるための取材をする余裕はないが、ジャーナリズムはこの機を逃さず、徹底的な調査報道をして欲しい。

 報道の世界で今、問題になっている会社や人物と、ある宗教団体の関係が強い関心事となり、実態の解明に動きを見せている記者もいるが、この際、徹底的な洗い出しを期待したい。

 昨日取り上げた馬渕議員について調べようと、彼のホームページを見ると、12月9日付の「不易塾」と名付けたブログで「不穏な周辺の動き」と題して気になることを書いていた(HPの管理者側の技術的なミスで現在HPでは見ることができず、馬淵議員事務所から送っていただいた)。

□■不穏な周辺の動き

 この耐震強度偽装問題に取り組みだして以来、次々と新たな事実が浮かび、まるでドラマのような登場人物のキャラの濃さもあいまって、連日の報道が続く。

 一視聴者としてみてる分には面白いかもしれないが、やはり当事者には相当なプレッシャーがかかってくる。とりわけ、被害にあわれた方々の痛みは大変なものである。

 そんなことを感じながらも、調査を進めていくのだが、だんだんと核心に近づいているなぁ、と呑気に構えている私だった。

 しかし、周りからは、「チョット注意したほうが良いんじゃないの!?。」と「身の安全」を問われだした。

「そんなこと、ないやろー!。」と笑い飛ばしていたのだが、地元事務所と国会事務所では本気でセキュリティ会社に問い合わせをしだした。何々、「身辺警護」が必要だ!?。
 ヒェ~、そんな、恐ろしいこと、起きるの?!。
 エーッ、ウッソォーッ、てな反応である。当然。
 しかし、確かに注意は必要かもしれないな、などと思っていたのだが...。
 そして、な、な、なんと、事実、起きた。

 昨晩、更なる調査のために人と会うことになり、赴いた先。
 とあるホテルの個室となっているところ。
 話をしていると、名前も正体も名乗らぬ男性が入ってきた。そして、「議員の権限を振りかざして何をやっている!。」とたいそうな剣幕で怒鳴られた。名前も名乗らぬ人に言われる筋合いはない。また、私にそんな強制力などあるはずもなく、行使した記憶もない。普通にお聞きしているだけだ。ひと悶着後、「こうして言った事はハッキリ覚えておけ。」と言い残して出て行った。

 私とオニケン(筆者注:事務所に確認したところ、馬淵議員の政策秘書の大西さんのこと)と、話をお聞きしていた方と三人は、あわててそこを飛び出し、場所を変えた。

 何かが動いているのか。不穏な動きが起きているようだ。

 昼、情報を持ち込んでくれた記者さん自身の周辺でも、チョット気色悪いことがチラホラある、と聞かされた。

 一体、どうなる!?、俺!?。どうする、俺!?。って○○○カードのCMみたいだなー、と呑気にしてる場合ではない。

 まだ、まだ何かがあるのかもしれない。

 と、以上が馬渕議員の書いた日記の内容だ。もちろん、だからといって、この脅迫に来た男と前述した宗教団体と関係があるといっているのではない。時に「切った張った」のヤクザまがいのやり取りになる建設業界だ。全く違った関係からの圧力も十分考えられる。

 ただ、いずれにしても、こういう話が本当であれば、馬淵議員の活動は、是が非でも中折れになることなく、真相解明まで続けて欲しいと思う。民主党も全面的なバックアップ体制を敷くべきだ。昨日は、彼に対しての印象が余りよくないことを書いたりして失礼したが、その部分は撤回させていただき、今後の活動に注目したいと思う。余談だが、彼のホームページ上にある6人の子宝と伴侶に囲まれた写真が私を含めて見る者の心を和ませるが、セキュリティー上好ましくないので余計なお節介と思ったが、何らかの配慮をされるよう事務所の方に助言させていただいた。