喫茶店に行くに際し、私は金を受取ったら身体一つでその町をすぐに飛び出せるように準備した。
指定された場所に1時間ほど早めに出かけた。いや、厳密には、その店が見えるところまで行った。それは、私が無鉄砲の命知らずではないからだ。いや、「ええかっこしい」はよそう。正直な話、そこに行くのが怖かったのだ。
その喫茶店を遠目に様子を窺った。すると、店に出入りするのは、“その筋”と思われる風体の者ばかり。一般客が利用している様子は無かった。
「ああ、あの店ね。XX組がやっているのよ」
近所の住民はそう教えてくれた。
相手の関係者に自分の姿を見られぬよう、喫茶店の様子を窺った場所からさらに遠くに場所を移し、「一人作戦会議」を始めた。30分は考えていただろうか。私の自問自答、葛藤が始まった。いや(いやの連発で申し訳ありません)、葛藤は、その時始まったわけではなく、相手から場所と日時を指定された時から始まっていたと正直に言っておこう。
「20万円」と「命」とが頭の中でぐるぐる回る。当時の20万円は、今の100万円に相当するほどの大金だ。これから海外に行けば、いろんな場面で役立つだろう。
「俺はまだ若い。これから働けば金はどうにでもなる。今ここで欲を出して駿河湾に浮かぶわけにはいかない」
私は、自分にそう言い聞かすと、その場を離れて電車に乗り東京に向かった。
その日は、梅雨寒で気温は高くはなかったが、私の脇の下と両手は異常に汗ばんでいた。その朝は忘れていた後頭部の痛みも、落ち着きを取り戻すと重くのしかかってきた。
東京に戻ってから、人の薦める病院に行き、脳外科の診断を求めた。今で言う、セカンド・オピニオンというものだ。
各種検査の結果、脳や頚椎に目立つ異常は無く、医者からは以前言われたように「完治には時間が必要です。無理をしてはいけませんが、落ち込みがちになることが多いですから適度な気分転換を忘れずに」と、こちらは私立の個人病院だからか、優しく言われた。
気分転換というわけではなかったが、6月15日の「70年安保(日米安全保障条約の改定に反対する運動。10年前のこの日、デモに参加していた学生、樺美智子さんが警官隊に殺された)と沖縄返還闘争(当時、沖縄は米政府の施政権下に置かれたままであった)」デモに参加した。だが、60年代後半のような熱気というか、熱い想いは人の群れの中に無かった。デモを終えて帰る足は重かった。警官隊に向かって石を投げたり「ゲバ棒(ただのこん棒。独語の暴力を表すゲバルトに由来)」を振るえず、全共闘運動になじめなかった頃の自分が再び蘇ってきて、デモへの参加が悔やまれた。だが、救いは、国会議事堂前をジグザグ・デモで激しく動けたことだ。不思議に、頭の痛みや重みも感じられなかった。
「沖縄に行こう」
私は、イギリスに飛び立つ前に、米軍に占領されたままの沖縄を見ておこうと思った。厳密には、前述したように「施政権下」と言われていたが、実質的には軍事占領下にあった。そんな沖縄もその頃には日本への返還が噂されていた。
パスポートと米ドルを持っての沖縄行きであった。沖縄で見たものは、ひと言、激しい屈辱感であった。米軍の占領下にあるなどという表現ではとても言い尽くせない、人間性を否定されることの意味を深く考えさせられる状況が目の前にあった。軍事占領の醜悪な顔が沖縄の町のどこに行っても姿を現すのだ。
学生と交流がしたいと琉球大学に行き、自治会の事務所を訪れた。快く受け容れてもらったが、しばらくして数名の学生がそこへ怒鳴り込んできた。それまで私と話していた自治会の学生達と乱入者との間で激論が交わされた。
「XXXX」「○○○」
両者が琉球訛りで怒鳴り合う内容は、まるでチンプンカンプン。ただあっけに取られて成り行きを見ていることしかできなかった。
しばらくして激昂した数名の学生がもみ合いとなった。こうなると、私も黙っているわけにはいかない。両者の間に止めに入った。
「スイマセン。私東京からわざわざ話を聞きに来ているので後でやってもらえますか」
私はとっさに嘘をついた。ナンダこいつ?という怪訝な表情をした相手は、それでも大人しく引き下がってくれた。
その時はいさかいが収まったのでヨシヨシと思い、しばらくして自治会の事務所を出るまでは上機嫌であった。ところが、もみ合った時に首に衝撃があったらしく、痛みを感じ出した。それから2,3日、ブルーな気分の日々が続いた。
街や店で出会った人たちに街を案内してもらったり、そのまま彼らの家の居候になったりした。沖縄の人たちの暖かさが、熱さが私の胸に心地良く響いてきた。彼らは無性に優しいのだ。沖縄が大好きになっていく自分が嬉しかった。それだけにその人たちにむち打ち症のことを気付かせまいと気遣った。
放浪の旅は、今度は宮古島へと続いた。当時はまだ宮古島に飛行場はなく、船での往復となった。それも、定期便というにはあまりにちっぽけな船だった。
その頃島にはホテルの姿はほとんどなかった。ほとんどと書くのは、はなからそういところに泊まるつもりはなかったのでその存在すら目に入らなかった可能性があるからだ。地元の人にただで泊めてくれる所を聞くと、植物園を教えてくれた。そんなに遠くはないと言われ歩き始めたが、行けども行けども植物園は見えてこない。行き交う車や人さえ見えないのだ。見えるのは「ざわわざわわ」のサトウキビ畑だけ。かなりの距離を歩いたが、不思議なことに後頭部の痛みは感じられなかった。
日が暮れかかる頃、植物園に到着した。宿直の職員は、「ここで良かったら歓迎しますよ。宿直はつまらないから丁度良かった」と、即快諾してくれた。土産も何も持たずに「一宿一飯」ならぬ「三飯」くらいの歓待を受けた。その方の優しさは、心の奥底から出てくるもので、何事に対しても斜に構え、好戦的であった私に無言で「もっと肩の力を抜きなさい」と教えてくれている様であった。ほんわかと心温まる状態で床に就いた私であったが、その夜、後頭部から腰にかけて強い痛みが走り、それは明け方まで続いた。慣れぬ酒がムチ打ち症に影響を与えたのかもしれないと、調子に乗って飲酒したことを悔いた。
(続く)
指定された場所に1時間ほど早めに出かけた。いや、厳密には、その店が見えるところまで行った。それは、私が無鉄砲の命知らずではないからだ。いや、「ええかっこしい」はよそう。正直な話、そこに行くのが怖かったのだ。
その喫茶店を遠目に様子を窺った。すると、店に出入りするのは、“その筋”と思われる風体の者ばかり。一般客が利用している様子は無かった。
「ああ、あの店ね。XX組がやっているのよ」
近所の住民はそう教えてくれた。
相手の関係者に自分の姿を見られぬよう、喫茶店の様子を窺った場所からさらに遠くに場所を移し、「一人作戦会議」を始めた。30分は考えていただろうか。私の自問自答、葛藤が始まった。いや(いやの連発で申し訳ありません)、葛藤は、その時始まったわけではなく、相手から場所と日時を指定された時から始まっていたと正直に言っておこう。
「20万円」と「命」とが頭の中でぐるぐる回る。当時の20万円は、今の100万円に相当するほどの大金だ。これから海外に行けば、いろんな場面で役立つだろう。
「俺はまだ若い。これから働けば金はどうにでもなる。今ここで欲を出して駿河湾に浮かぶわけにはいかない」
私は、自分にそう言い聞かすと、その場を離れて電車に乗り東京に向かった。
その日は、梅雨寒で気温は高くはなかったが、私の脇の下と両手は異常に汗ばんでいた。その朝は忘れていた後頭部の痛みも、落ち着きを取り戻すと重くのしかかってきた。
東京に戻ってから、人の薦める病院に行き、脳外科の診断を求めた。今で言う、セカンド・オピニオンというものだ。
各種検査の結果、脳や頚椎に目立つ異常は無く、医者からは以前言われたように「完治には時間が必要です。無理をしてはいけませんが、落ち込みがちになることが多いですから適度な気分転換を忘れずに」と、こちらは私立の個人病院だからか、優しく言われた。
気分転換というわけではなかったが、6月15日の「70年安保(日米安全保障条約の改定に反対する運動。10年前のこの日、デモに参加していた学生、樺美智子さんが警官隊に殺された)と沖縄返還闘争(当時、沖縄は米政府の施政権下に置かれたままであった)」デモに参加した。だが、60年代後半のような熱気というか、熱い想いは人の群れの中に無かった。デモを終えて帰る足は重かった。警官隊に向かって石を投げたり「ゲバ棒(ただのこん棒。独語の暴力を表すゲバルトに由来)」を振るえず、全共闘運動になじめなかった頃の自分が再び蘇ってきて、デモへの参加が悔やまれた。だが、救いは、国会議事堂前をジグザグ・デモで激しく動けたことだ。不思議に、頭の痛みや重みも感じられなかった。
「沖縄に行こう」
私は、イギリスに飛び立つ前に、米軍に占領されたままの沖縄を見ておこうと思った。厳密には、前述したように「施政権下」と言われていたが、実質的には軍事占領下にあった。そんな沖縄もその頃には日本への返還が噂されていた。
パスポートと米ドルを持っての沖縄行きであった。沖縄で見たものは、ひと言、激しい屈辱感であった。米軍の占領下にあるなどという表現ではとても言い尽くせない、人間性を否定されることの意味を深く考えさせられる状況が目の前にあった。軍事占領の醜悪な顔が沖縄の町のどこに行っても姿を現すのだ。
学生と交流がしたいと琉球大学に行き、自治会の事務所を訪れた。快く受け容れてもらったが、しばらくして数名の学生がそこへ怒鳴り込んできた。それまで私と話していた自治会の学生達と乱入者との間で激論が交わされた。
「XXXX」「○○○」
両者が琉球訛りで怒鳴り合う内容は、まるでチンプンカンプン。ただあっけに取られて成り行きを見ていることしかできなかった。
しばらくして激昂した数名の学生がもみ合いとなった。こうなると、私も黙っているわけにはいかない。両者の間に止めに入った。
「スイマセン。私東京からわざわざ話を聞きに来ているので後でやってもらえますか」
私はとっさに嘘をついた。ナンダこいつ?という怪訝な表情をした相手は、それでも大人しく引き下がってくれた。
その時はいさかいが収まったのでヨシヨシと思い、しばらくして自治会の事務所を出るまでは上機嫌であった。ところが、もみ合った時に首に衝撃があったらしく、痛みを感じ出した。それから2,3日、ブルーな気分の日々が続いた。
街や店で出会った人たちに街を案内してもらったり、そのまま彼らの家の居候になったりした。沖縄の人たちの暖かさが、熱さが私の胸に心地良く響いてきた。彼らは無性に優しいのだ。沖縄が大好きになっていく自分が嬉しかった。それだけにその人たちにむち打ち症のことを気付かせまいと気遣った。
放浪の旅は、今度は宮古島へと続いた。当時はまだ宮古島に飛行場はなく、船での往復となった。それも、定期便というにはあまりにちっぽけな船だった。
その頃島にはホテルの姿はほとんどなかった。ほとんどと書くのは、はなからそういところに泊まるつもりはなかったのでその存在すら目に入らなかった可能性があるからだ。地元の人にただで泊めてくれる所を聞くと、植物園を教えてくれた。そんなに遠くはないと言われ歩き始めたが、行けども行けども植物園は見えてこない。行き交う車や人さえ見えないのだ。見えるのは「ざわわざわわ」のサトウキビ畑だけ。かなりの距離を歩いたが、不思議なことに後頭部の痛みは感じられなかった。
日が暮れかかる頃、植物園に到着した。宿直の職員は、「ここで良かったら歓迎しますよ。宿直はつまらないから丁度良かった」と、即快諾してくれた。土産も何も持たずに「一宿一飯」ならぬ「三飯」くらいの歓待を受けた。その方の優しさは、心の奥底から出てくるもので、何事に対しても斜に構え、好戦的であった私に無言で「もっと肩の力を抜きなさい」と教えてくれている様であった。ほんわかと心温まる状態で床に就いた私であったが、その夜、後頭部から腰にかけて強い痛みが走り、それは明け方まで続いた。慣れぬ酒がムチ打ち症に影響を与えたのかもしれないと、調子に乗って飲酒したことを悔いた。
(続く)