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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

さようなら、しもさん

2008-02-28 19:17:01 | Weblog
 大切な友人をなくした。その名は、下境英夫(以下、しもさん)。私の友人であり、先輩であり、そして互いを刺激し合える良い意味でのライヴァルであった。

 彼は、埼玉県の地震対策課長、防災局長(いずれも初代)を務めた行政マンであった。だが、よく言われるところの、また批判の対象となるような行政マンではなく、仕事に誇りを持ち、受益者である県民の視点を常に念頭に置いて職責を全うした誉れ高い役人であった。

 彼との出会いは、阪神淡路大震災が起きて間もない頃であった。

 消防防災課長になりたてのしもさんのもとに、被災地で汗と粉塵にまみれた私が最初に訪れたのは、1995年4月であった。

 救援活動から埼玉に戻ってきた私は、地元埼玉の防災体制を刺激するには今しかないと、自治体を巻き込んだシンポジウムを企画、役人に市民の前で本音を語らせようと役所周りをしていた。

 だが、声をかけた埼玉県主要都市の防災担当者は、いずれもが出席に難色を示し、中には「そんな市民の前で恥をかくような事は絶対にしませんから」とまで言う者も出る始末。

 そんな中で、しもさんだけは違った。

 「今回の震災で、市民の力無くしては救助救援活動が出来ないことが良く分かりました。埼玉県としては、恥をかくことになるかもしれませんが、参加させていただきます」

 県の課長が参加表明をすると、市の防災担当者たちは、その態度を豹変させた。断り方が酷かった自治体に対しては、半分意地悪をして、もう締め切りましたと言うと、「上から出るようにと言われましたので出させてください」と哀願してきた。

 シンポジウムにおけるしもさんの発言も際立っていた。だめなところは正直に認めた上で、考慮している改革案や改善すべき点を整理して市民に説明した。また、実際にその後、彼は県の防災体制に大鉈を振るった。

 私の様々な提案にも真摯に耳を傾けて、防災行政の改革に役立ててくれた。私が紹介した防災社会学の学者たちを囲んで課員に勉強会をさせたのもその一つである。また、学校の防災体制の充実の必要性を訴えると、教育局を動かして私をあちこちの県立高校に紹介して改革に着手させた。

 そんな人物である。金銭に関しては、潔癖とも言えるほどきれいであった。当時はまだ金銭的に余裕があり、「奢り体質」そのものであった私は、誰彼構わずおごっていたのだが、清廉潔白の彼は、そんな私に困ったのだろう。一度、私がおごると、そのお返しに一席を設けて私におごり返してきた。もちろん、そのやり方はこちらに十分な配慮をしてのものであった。

 数多あるヴォランティア・グループやNPOの中で、一ヴォランティア団体の代表にしか過ぎない私が彼とそこまで深く付き合えたのは、彼にすれば、私が利権に無縁の人間だという安心感もあったと思う。彼のような力を持った役人には、利権がらみで近寄る団体や人物が後を絶たないからだ。

 生前よく言っていたが、「退職したら、ACTNOWのメンバーにならせてもらいますよ」というのは私にとっての最大の褒め言葉であった。だが、残念なことに、しもさんの退職より前にACTNOWは消滅してしまった。

 阪神大震災の約2年後に起きた、ロシア船籍のタンカー「ナホトカ号」の座礁事故がもたらした大量の原油流出の際も、救援活動を現地で行なう我々に、しもさんはトラックに満載した県の救援物資を託した。これは、下手をしたら責任問題にまで発展する可能性があり、行政の常識ではあり得ないこと。彼の部下もその豪胆さに舌を巻いた。

 私のグループが打ち出す新機軸にも理解を示してくれ、その普及に力を貸してくれた。必要とあらば、県外の自治体にまで声掛けして協力を惜しまなかった。部下が、「他の自治体に借りを作ることになる」と心配しても、「いい事をやるのに臆病であってはならない」と、ぶれる事はなかった。

 退職されてからもしもさんの防災に対する信念と情熱が変わることはなかった。防災士の資格を取り、埼玉県の防災士会の発展に尽力した。そんなしもさんだから昨年4月、私がさいたま市議選に、「防災」を争点に立候補すると、力強く応援してくれた。

 呼びかけ人に名を連ねるに止まらず、しもさんは街頭活動にも駆けつけてくれた。マイクを握ることも厭わなかった。その演説内容は秀逸で、聞く人の心を打った。特に、選挙戦の終盤に武蔵浦和駅前において演説した内容は、秀逸を通り越して凄みさえ感じさせた。

 しもさんは、自分が役人であったことを明らかにした上で、候補者たちが当選して議員バッジをつけた途端、選挙活動で使ったカネを取り戻そうと、利権に群がる実態を明らかにした。彼の感情を抑えた冷静な口調は、明かされる事実に重みを感じさせた。

 埼玉県庁の幹部であったしもさんは、議員たちが汚いやり取りをするのを見聞きする機会が多かったのだろう。抑えた口調の中に垣間見せる義憤に、彼の怒りの大きさを感じさせた。それを役人や候補者たちが聞いていたらその過激な内容にぶっ飛んだに違いない。幸か不幸か、聴衆が少なく、大きな問題になることはなかったが、私は彼の胆の太さに感動した。

 私が選挙の後も、さいたま市内の学校の建物の耐震化の促進を働きかけようと、集まりを持つと、資料を手に駆けつけてくれた。その資料からは、彼の防災に対する真摯な姿勢がうかがえた。

 これからもしもさんと共に埼玉県の防災体制に刺激を与えようと想いを馳せていた時に飛び込んできた訃報である。残念などという表現では尽くせない悔しさだ。しもさんは25日夜、他界した。享年66歳。くも膜下出血による急死であった。電話で話した奥様の言葉に、早く先立たれた悔しさが、長年連れ添った伴侶への慈しみが滲み出ていた。また、今日の昼に行なわれた告別式で、会葬者への挨拶の際に号泣したご長男の姿に、しもさんへの愛情の深さがうかがわれた。多くの会葬者の涙を誘ったのは言うまでもない。

 棺の中で眠るしもさんの表情は、いつものように穏やかであった。今にも目を開いて語り掛けてきそうであった。私は、棺に花を手向けながら、しもさんに、学校の耐震化をやり遂げると誓った。

 

元護衛艦乗員に聞いた

2008-02-27 11:44:34 | Weblog
 海上自衛隊の護衛艦にかつて乗り組んでいた元自衛隊員二人から話を聞くことができた。

 彼らから聞いた話で、今回の衝突事件の裏に潜む幾つかの問題点が見えてきた。

 一つは、あたごが事故直前に衝突を避けようと全力で後進した点だが、訓練でもそれを経験したことがなかったと言うのだ。後進する場合は、プロペラの向きを変えるのだが、プロペラへの負荷が大きく、高価なプロペラを破損したくないためなのか、そのような訓練はしていないらしい。

 二つ目は、艦内の複雑な人間関係である。乗組員は長期間生活を共にするために、団結心が生まれる場合もあれば、その逆に気持ちがばらばらになることもあるらしい。階級社会だから、上意下達でなんとか秩序は保たれるものの、戦闘集団としては心もとない状況が生まれることもしばしばだという。

 三つ目に挙げられるのは、隊員の雇用形態だ。見張りを担当する隊員は、通常海士クラスが行なうが、彼らは任期付採用職員で、会社に例えれば、正社員ではなくアルバイト。何か事が起これば、幹部クラスの保身のために海士クラスが利用される構造になっている。彼らに責任のなすりつけがされ、「トカゲの尻尾きり」が行なわれる可能性がある。今回も、「監視が明かりを見失った」などといった見張り員への責任のなすりつけで防衛省は逃れようとした。それをマスコミは、鵜呑みにして、一時的にせよ、大きな見出し(本ブログ2月23日付「情報操作に踊らされる朝日新聞」参照)で伝えていた。

 四つ目は、慣れない航路を進んでいたことである。あたごの母港は、日本海側の舞鶴だ。話をした元自衛官はいずれも横須賀を母港とする護衛艦に乗っていたが、「舞鶴の船を見た記憶はほとんどない」と口を揃えた。事故現場は、大分前から過密な航路であり、「ニアミス」は少なくなかったという。

 最後になるが、一番深刻なのは、やはり自衛隊員の危機意識の欠如だ。最高責任者である艦長からして、事故当時、「危険水域」を進んでいるのに、就寝中であった。また、事故発生時点における、最高責任者の当直士官も、事故に至るまでの行動や事故後の対応(救助活動をしなかったことなど)を見る限り、危機管理能力があったとは言いがたい。

 話を聞いた元自衛隊員に共通するのは、起こるべくして起きた事故だという見方だ。ところが、自衛隊も防衛省も、自己弁護に終始するばかりで、現実に向き合おうとはしない。こんなことでは、また同様の事故を繰り返すことになるのではないかと危惧するのは私だけではないはずだ。

 マスコミが本腰を入れて、徹底追跡をし、問題点を白日の下に晒し、それを元に論議が交わされる事を切実に願う。


かわいいのテンコ盛り

2008-02-26 10:58:21 | Weblog
 ASE(我々が経営する英会話スクール)で仕事をした日、直子の「かわいい」の連発がしばらく続く。

 その対象は、おさな子から中高生、果ては、自分よりかなり年上の中高年の生徒にまで及ぶ。

 まあ、中高年の生徒は別にして、確かに子供たちは、本当にどの子もかわいい。「どの子もかわいいって、それ、偽善では?」と言われる事もあるが、その子をよく知りたいという眼で見ると、どの子にも良さやかわいさがある。悪たれをつく子供たちにはその子なりの原因があって、それを分かってやるとかわいさは見えてくる。

 私などは、長年の経験でようやくその辺りが分かるようになってきたが、直子は若くして子供を広く受け入れる土壌を備えている。他の子達からはそっぽを向かれるような子でも、直子はいつの間にか心を開かせている。

 先週のこと、高校生の一人Hが遠慮がちに自分が加わっているバンドの話を始めた。彼は口数が少なく、いつも控え目で、目立たない存在だ。服装も性格も地味で、ひと目見ただけでは、ロックバンドをやっているとはとても思えない17歳の少年だ。

 「お兄ちゃんと組んでいるバンドで今度ライブをやるんですけど…」
 Hの口から消え入りそうな声が発せられた。周りの生徒たちの騒がしい声にかき消されそうなか細い声だ。

 それに対して「行きたい、行きたい」と直子がすぐに反応した。

 彼とすれば、一枚2000円のティケットの金額があまりに高額で言い出しにくかったのだろう。だが、何ら躊躇することなく直子は、「ねえ、行こう」と私に訴えた。確かに実力の程も分からないアマチュア・バンドのライヴに2000円は高いが、小学校の時から見ているHと兄のRの初ライヴとあっては行かぬわけにはいかない。

 23日の午後6時。我々は強風が吹き荒ぶ中、新宿のライヴ・ハウスに足を運んだ。詰め込んでも30人は入らないような小さな小屋だ。隣には、ジャズ・スポットとして有名な「ピット・イン」がある。

 会場には、兄弟の母親と親戚が姿を見せていた。それは、兄弟と母親との良好な関係を如実に物語っている。早くして夫を亡くし、女手一つで二人を育て上げてきた母親の心境を考えると、何度か相談を受けていただけに感慨深いものがあった。ただ、“今時の”若者ではありえないことかもしれないなとも思った。

 直子は、開演する前から「興奮してきちゃった。なんか、母親になった気分」と眼を輝かせている。

 母親を亡くしたばかりで落ち込んでいただけに、無理をしてでも聴きに来て本当によかったと思った。

 バンドは4人組で、兄はギターとヴォーカル、弟はベイス・ギターを担当していた。

 ドラムのリズミカルな演奏で幕が開いた。

 兄のRは長髪をなびかせ、サングラスをスポット・ライトに時折り反射させながら、かなりのテクニックでギターを操り、マイクにシャウトする。一方のHは、緊張した面持ちで一生懸命他のメンバーに迷惑をかけまいと、演奏する。

 その姿がかわいいと直子は興奮する。その表情は、母親そのもの。

 3曲目になると、Hも落ち着いたのだろう。動きと表情に余裕が出てきた。バンドの演奏もノリノリになってきた。だが、30分の持ち時間はあっという間に終了した。

 私は、拍手をしながら「アンコール」と声を出した。すると、他の客からもアンコールの合唱が沸き起こった。照れながらも嬉しそうなメンバーたちがなんともかわいい。スポット・ライトの後ろにいるらしい進行係に延長が可能かとRがジェスチャーで聞くが、残念だがダメだしをくらった。

 演奏後、他のバンドが登場したが、我々は次の約束もあり、兄弟と母親に挨拶をして会場を後にした。再び寒風に晒されたが、私たちの心の中には大きな温かいものが残された。

 

近所付き合い

2008-02-24 19:15:38 | Weblog
先日、近所のYさんが、大根がたくさん手に入ったからと、大根スープを届けてくださった。中々の美味で、その優しい心遣いと共に美味しく頂いた。

 お返しというわけではないが、直子のお付き合いいただいている、愛媛に住む旧日本兵の方から伊予柑が送られてきたので、おすそ分けにと少しYさん宅に持っていった。

 すると、10分もしない内にドアフォンが鳴った。

 ドアを開けると、Yさんがニコニコと寒い中、外に立っている。手には新聞紙にくるんだ四角いものが…。

 「これね、さっき作ったの。こ~んなにいっぺんに作るからさ、食べてください」

 こちらが恐縮していると、Yさんは包みを開けて、容器を広げ、
 「ほら、ちょっとつまんでくださいよ」と言う。

 中には、高菜の炒め物が入っていた。一つまみ口に入れると、香ばしい香りと、高菜漬けと油の絶妙な組み合わせの絶品が口の中全体に広がった。

 「ね?これがあったら私は他におかずがなくても何杯でもご飯が食べられちゃうんですよ」

 私の幸福感溢れる表情を見ながらYさんは嬉しそうにそう言うと、では失礼します、と去っていかれた。

 今から土鍋でご飯を炊き、いただいたおかずで夕食を摂ろうと思う。これだったら2合位ご飯を食べられそうだが、がまんして1合半にしておこう。

情報操作に踊らされる朝日新聞

2008-02-23 09:16:24 | Weblog
 自衛隊の軍艦と漁船の衝突事故で、朝日の論調がここのところおかしい。

 今日の朝刊の大見出しも「事故の船 見失う?」と見張りの過失の可能性を強調している。

 朝日の記者や編集部員も分かっているはずだが、軍艦の乗員で前方を見ていたのは一人ではない。前方監視の見張りが2人。レイダー確認が2ヶ所(人数は不明)、操舵室がある環境にも複数名の乗員が前方を注視していたはずだ。

 自衛隊や政府としては、乗員の、それも少ない数の位の低い兵士のミスに事故の原因を留めたいはずだ。この時点で、このような情報の伝え方をする朝日新聞の姿勢が私には理解できない。

 朝日の記者たちは、事故現場を利用する小型船舶の関係者にどれほど会っているのか、話を聞いているのか。もし、彼らから実情を聞いていれば、このような分析は生まれないはずだ。

 彼らは声を揃えてこう言っているはずだ。
 「軍艦が自分からよけることはありえない」

義母の死

2008-02-23 08:44:47 | Weblog
直子の母親が17日の朝、他界した。約10年前に乳がんを発病して手術したが、3年前に転移が発見されて長い闘病生活を送っていた。享年55歳であった。

 親族の死には、いつものことながら難しいことがつきまとうが、今回も多くの人生模様を見たり、色々な体験をさせられた。理解を超える出来事に、二人で天を仰ぐことも幾度かあった。

 私は兄の死を経験していたが、直子にとっては成人して初めての親族の死だ。それも、影響を深く与えた母親である。

 立ち直るには時間が必要だ。必ずしも良好な母娘関係ではなかったが、それでも生来の優しさから直子は心の底から悲しみ、そして、死後も「母さんが何をして欲しいのか」という観点から母親のために懸命に動いてきた。また人前では精一杯に元気を振舞ってきた。

 その疲れから食欲もなくし、気力も失せてしまった。のろけるわけではないが、私と常に行動を共にしたがる。

 来週早々には、自分の主宰する活動で、フィリピンに行かなければならない。言葉の上では、気分転換になるから行きたいと言っているので予定通り旅立たせるが、心配この上ない。幸い、活動を一緒にしてくれているメンバーが同行するので、その点は心強い。

 それにしても、今回も実感させられたのだが、直子にとっての財産は、友人・知人だ。母親の死を聞きつけた人たちが、次々に見舞ったり、温かい声を掛けてくれる。だから、彼女の周りに集まる人の輪で徐々に心の傷は癒されていくに違いない。

 そこで、皆さんにお願いがあります。こんなことを言う必要はないと言われてしまうでしょうが、これから直子と会う方にお願いします。彼女に会ったらひと言優しい言葉をかけてやってください。そのひと言ひと言が、彼女に力を与え、「直子スマイル」の復活につながります。


一億総健忘症?

2008-02-22 08:33:40 | Weblog
今回のイージス艦衝突事故の報道やネット上にあげられている情報を見て、日本人が本当に忘れっぽいことを痛感した。

私はこの事故の一報を聞いてまず思ったことは、「自衛隊は雫石事故を経験してもどこも変わっていない」。

雫石事故とは、1971年、岩手県雫石町上空を飛んでいた全日空機(乗員乗客162名)と自衛隊のジェット戦闘機が衝突した事故だ。

戦闘機を操縦していたのは訓練生で、編隊飛行訓練中であった。訓練内容は、あらかじめ高度や飛行ルートを定めずに教官の指示のままに操縦するものであった。

このような飛行訓練が民間機の飛行ルートで行なわれること自体が考えられないことであったが、民間機が“標的”になったのだ。

教官とすれば、「ギリギリのところで回避させる」つもりであったのだろうが、そこは訓練生の悲しさ。限界を超えて全日空機に接触、墜落させてしまった。

訓練生は、のうのうとパラシュートで脱出したが、162名の乗員乗客は帰らぬ人となった。

当時、私はロンドンにいて、毎日新聞ロンドン支局の助手をしていた。支局ではスタッフ全員、自衛隊の愚挙に涙を流さんばかりに怒っていた。日本でも、自衛隊に対して怒りが嵐のように巻き起こっていた。

しかし、37年後の今、当時の怒りを身体にしみこませている記者がほとんどいなくなったためか、過去の出来事が忘れ去られたためか、今回の事故を雫石事故につなげる論調はほとんど見られない。

ウィキペディアを見ると、当時の市民が抱いた怒りを知らぬ人が書き込んだのだろう。自衛隊擁護とも思われる解説になっている。こんな解説を読んだら、遺族や関係者はどう思うだろうか。

日本人は歴史を忘れる民族だとよく言われるが、今回の事故なんぞは36年半前のこと。この程度のことも覚えていられない我々は、「一億総健忘症」に罹っている。


私の視点 イージス艦衝突事故から自衛隊を考える

2008-02-21 08:19:42 | Weblog

自衛隊の護衛艦「あたご」が、まぐろ延縄漁船「清徳丸」と衝突した事故について、これまでに分かった情報を基に考えてみたい。

事故が起きたのは午前4時7分。現場は、房総半島の南約50キロの海上である。天候は、日の出前の暗さがあったとはいえ、視界良好で風も弱く、波もほとんどない状態であった。

清徳丸には、父子の二人が乗船、僚船数隻と連れ立って漁場に向かっていた。一方のあたごは、マスコミではイージス艦と分類されているが、基準排水量7750トンの護衛艦で、世界最高レヴェルのレイダーとミサイルによる迎撃機能を有する最新艦である。太平洋上における長い訓練航海を終えて横須賀港に入港目前であった。船内には恐らくやれやれという空気が漂っていたと思われる。ちなみに、あたごの母港は、横須賀ではなく日本海側の舞鶴である。

清徳丸は、7トンの小型漁船で、写真を見ても分かるように強化プラスチック製である。この種の船舶は、正面からの荒波や衝突を想定して縦の圧には強いが、横からの衝撃にはもろいとされる。一方のあたごは、装備を合わせれば約1万トンにもなる。そんな巨大な鉄の塊からみれば、清徳丸はまるでプラスチックのおもちゃのようなもの。衝突すればひとたまりもない。横腹にまともにぶつけられ、まるで刃物で立ち切られたかのように二つに裂かれた。

衝突現場は、世界でも最も多くの船が行き交う海域として知られる。船舶を航行させる者たちにとってもっとも神経を配らなければならない海域だ。特に、巨大な軍艦を操る側は、最大の配慮が必要のはずである。

そんな場所で、気象条件も決して悪くない状況でなぜこのような事故が起きたのか。

あたごのような、俗に言うイージス艦(正式には、イージス・システム搭載艦)は、敵のミサイルや航空機からの攻撃に備える防空の要で、装備だけでなく、人員配置も含めて千数百億円の莫大な税金がつぎ込まれている。あらゆる局面を想定しての危機管理体制もしっかりしていたはずである。なのに、このような悲惨な事故を起こしたのは、あたごの側に人為ミスを含めて重大な過失があったと見るべきだ。海上自衛隊や防衛省の対応を見ていると、情報の隠蔽が謀られている可能性が少なくないが、遺族のみならず、国民誰もが、事故の真相を知る必要がある。

このクラスの護衛艦には、最低でも前方確認に二人、後方に一人の見張りが常時立っているはずである。それらの見張り役の他にも操舵室には他に複数の乗員が前方を見ているものだ。

また、護衛艦には当然のことながら水上監視レイダーが装備されている。あたごが最新式のレイダーを装備、特に100以上のミサイルや航空機を認識するフェイズドゥ・アレイ・レイダーを付けている事から水上確認も他の船舶よりも格段に優れているように思われるかもしれないが、一般艦艇と変わらない通常の水上確認レイダー装備である。

だが、そのレイダーでも清徳丸や他の船の陰はくっきりと映し出していたはずだ。そのレイダーを確認する役も、艦橋だけでなく、この種の艦船には戦闘指揮所があり、そこでレイダーの画面を見ている乗員がいなければならない。

つまり、危機管理上は、多くの目が前方に注がれていて、例え一人の乗員の確認ミス、操船の誤りがあってもそれを補完する設備、制度が施されている。だから、机上で考えれば、このような悲惨な事故が起きるはずがないのである。

ならば、なぜこのような事故が起きたのか。その原因については、今後の詳しい現場検証を待たなければならないが、一番考えられるのは、乗員たちの気の緩みと軍人としてのおごりである。

長い航海を終えて、若い乗員たちは陸に近づき、明かりが見えたりすれば心が躍り、家族の、恋人の匂いまでもが感じられるものだ。いや、若くなくとも「船乗り」というのはそういうものだ。

しかし、あたごの乗務員は単なる船乗りではない。我々の税金を使い、国防を担う役割にある人たちだ。そのような任務の自衛官がこのような体たらくでは、自衛隊そのものの存在意義について考えざるを得ない。

現場のだらしなさは、自衛隊の中枢機能にも蔓延している。制服(軍人)組、私服組を問わず、危機意識の欠如は昔から言われ続けているが、今回もいっこうに改まっていないことが露呈された。

事故が起きたのが、午前4時7分。それから陸(おか)に連絡が入るまでに16分を要している。この場合の陸とは、寄港予定の横須賀にある海上保安本部又は護衛艦隊司令部を指す。第一報がどちらに入ったかは、今のところはっきりしないが、私は海上保安本部ではないかとみている。だが、ここではそれはたいした問題ではない。

報道などでは、連絡の遅れは、要救助者の捜索に当たっていたためという説明もあったが、冗談ではない。乗員は一人だったわけではないのだ。救助活動は当然必要だが、同時進行で即刻陸に連絡を入れなければならないのは誰でも分かること。なのに、連絡を入れたのが、16分後の4時33分であった。

そこから情報は二手に分かれた。一つは、自衛艦隊司令部(横須賀)→統合幕僚監部オペレーションルーム(東京)→内部部局(本省運用支援課)と連絡されている。もう一つは、海上幕僚監部オペレーションルーム(東京)→海上幕僚長のラインだ。

こうして制服組最高責任者である海上幕僚長の耳に入ったのが、48分後の午前4時55分であった。ここで「内規違反」と思われることが起きている。それは、二つのオペレーションルームが、防衛大臣に直接(秘書官を通すことを含めて)報告をしていないことだ。

さらに、不可解なことは続く。海上幕僚長も報告を受けて何をしていたのか。すぐに防衛大臣を叩き起すことはしていない。また、運用支援課の中でも約40分間情報が留まり、5時38分になってようやく防衛大臣に連絡が届いた。

石破防衛大臣は、メディアに対して「リアルタイムとは言わないが、(事故発生から)10分以内には(私に)伝わらなければならない」と不満を漏らしているが、その石破さんとて首相官邸に連絡を入れるまでに17分を要している。

そうして、重大事故発生の情報が福田首相にようやく届けられた。事故発生からおよそ2時間後のことだ。

こんなに時間がかかったのは、日本の官僚システムを考えると、あくまでも想像だが、組織の中で、情報伝達に関わる担当者一人ひとり(例:課長補佐→課長→部長補佐→部長)の決済を取っていたからではないだろうか。いわゆる「飛び越し決済」をする機転(勇気?)が誰もきかなかった可能性が高い。

自衛隊や防衛省は、他の省庁と違い、危機管理の専門家集団であるはずだ。なのに、不手際は繰り返される。これまでにも雫石事故(1971年。全日空機を標的に訓練していたジェット戦闘機が空中衝突)やなだしお事故(1988年。潜水艦「なだしお」と釣り船が衝突)というあってはならない過ちを犯しておきながら、また国籍不明船追尾などの緊急時に的確な対応が出来ずに恥をかいて、その度に危機管理の欠陥が問われて来たのに、本質的にはなんら進歩していないのだ。10年一日のごとくいつまで経ってもお宅っぽい訓練に明け暮れ、非常時対応すらできない自衛隊に私たちは何を期待するのか。

以前から私は「自衛隊解体論」を主張している。莫大な費用をかけて過剰防衛する前に我々は英知を絞って周辺諸国と緊張関係を作らない方策を考えるなど、選択肢はたくさんあるからだ。また、百歩譲って軍隊を持つにしても、こんな役に立たないどころか、雫石事故に代表される国民を軽視して場合によっては、敵に回すようなばかげたことをする自衛隊に国防を果たして任せていいものか、私は疑問に思う。今回の事故でも、昨夜になってあたご側が漁船灯を事故の12分前に確認していたことが明らかになったが、これは、「俺たちは国防を預かる軍艦だ。漁船が遠慮するのが当然だ」という、まるで江戸時代の大名行列のような「そこのけ」感覚が乗員にあったのではないかと疑いたくなる。

われわれ日本人は防衛論議をあえて避ける傾向にあるが、自分たちの国の軍隊は、予算規模で見れば、世界の中でも際立った存在で、周辺諸国にとってはもはや「どうでもいい」存在ではなくなっている。今回の事件を機に、今一度、日本にとってこんな軍隊を保有しているのが果たしてわれわれのためになるのか、また次の世代に必要なのか、一人ひとりが考える必要があるように思う。


大立ち回り 第2話

2008-02-15 12:05:16 | Weblog
 社会保険事務所の職員は、約束の時間さえ守れない人たちであった。

 昨日の午前9時3分、玄関のチャイムが鳴った。玄関先には前日私の相手をした上野職員と、その上司の課長が立っていた。彼らの口から遅刻を詫びる言葉はない。

 車で来たとの事なので我が家の駐車場に案内した。我が家に駐車場があるから良かったが、なければ狭い路上に駐車をしなければならないところであった。なぜ、事前にその辺りを確認してこないのか。社会保険事務所の車だから警察の違反駐車取締りから逃れられるかもしれないが、近所迷惑になるところであった。

 遅刻を謝らない二人にその点を指摘すると、「数分の遅れでして」とのたもうた。

 この辺りが、社会保険庁のだらしなさを如実に物語っている。友達の待ち合わせじゃあるまいし、仕事上の時間の遅れは非常識の極み。ビジネスの世界であれば、破談になっても仕方がないほど大切なことだ。それを、数分の遅れだからと、平気でいられる彼らの鈍感な神経は、やはり、仕事に現れるのだろう。時間に遅れるのは、何が起きるか分からない世の中だ、仕方がない。だが、そうであるならきちんとその見込みを私に伝えるべきではなかったか。携帯電話を使うことだって二人いるのだから運転していない者ができたはずだ。

 本題に入ると、またまたぼろが出た。彼らが持ってきた私のデイタが、前日と何ら変らず、AP通信で働いていた時のものしかないと言う。いや、他の情報については調べてもないと言う。

 冗談ではない。私は、短期間だが、若い頃に所属した出版社の名を言い、「それでは、あなたたちは今日、何のために来たのですか。僕は、そのデイタを探すように窓口の女性職員に言ったはずですよ。それを調べずに来たの?」と抗議した。

 すると、二人とも、その会社については女性職員から何も聞いていないと答えた。つまり、昨日の大立ち回りで動転した彼らは、僕が彼らに何を求めているのかさえも分からなくなってしまい、ただ二人して謝りに来たのだ。

 あきれてものが言えないとはこのことだ。私はしばらく絶句してしまった。

 ただ、そこで話を止めるわけには行かない。私は、調査を求め、その後、年金特別便がなぜ送られてこなかったかに話題を変えた。

 最初に女性職員が1月8日に送る手はずになっていたというのは間違いで、それは作成日と言うのが分かった。

 しかし、それはそれで問題だ。1月8日に作成されているのにひと月以上も放置されていたことになる。なぜそんなことになるのか、と問い詰めると、それはウチの方でやっていたことではありませんのでと逃げようとした。

 これもNTTデータに依頼していたのか、と問うと、そうだと言う。他社に丸投げをしておいて、責任逃れをしようとするその姿勢に問題がある。

 「他社に仕事を丸投げするのは仕方がないとしても、その進行状況を把握して仕事がはかどるようにするべきではないのか」と、私は社会保険庁の管理責任の欠如を指摘した。

 そして、特別便を送る期間についても、4月までに送ることになっているが、とても追いつかない状況であると言うので、社保庁のホーム・ペイジには次のように記されていることを教えた。

 「基礎年金番号に結びついていない約5000万件の記録について、平成19年11月からコンピューターによる名寄せ作業を開始し、その結果、まずは皆様の基礎年金番号の記録と結びつく可能性のある記録が出てきた方に、12月17日から平成20年3月までを目途に「ねんきん特別便」を順次お送りいたします」

 ここで分かるように、本庁の広報では、「3月まで」としているのに、現場責任者は「4月まで」と時期をずらして説明している。受益者はどうせ分からないだろうとの姿勢がありありだ。さらにその問題を追求すると、一週間に約20万件処理しているのでこれまでに送られたのは、全体の1割強だと明らかにした。ということは、4月までというのも詭弁で、マスコミの知るところになれば、まず間違いなくその内に期間延長を言い出すだろう。

 最後に私は、とにかく都合が悪い情報でも正確なものを正直に受益者に出すように心がけるようにと説諭して二人を帰した。肩を落として玄関から出て行く二人の背中に精気はまるで感じられなかった。

社会保険事務所で大立ち回り

2008-02-14 00:57:09 | Weblog
 「5000万件の宙に浮いた年金デイタ」問題は、私自身の問題でもある。

 以前送られてきた資料に、私の約4年間の年金支払いデイタが記載されていなかった。社会保険事務所にその辺りの事を確認、訂正させなければ、と思っていたが、大混雑をしていると聞いていたので、「年金特別便(宙に浮いたデイタの中から基礎年金番号の記録と結びつく可能性のある記録が出てきた人に、12月中旬から3月までに案内が送られる)」が来てからでいいやと、郵便物を待っていた。

 だが、2月も後残すところ2週間と言うのに特別便は送られてこない。そこで、私は重い腰を上げて、13日の午後1時過ぎ、さいたま市の社会保険事務所に足を運んだ。
 
 建物の中に入ると、そこには人があふれていた。50人はいるに違いない。待ち時間を聞くと、1時間ぐらいだろうとのことなので待つことにした。

 待つ人の平均年齢は高い。そのせいか、室内の暖房はガンガンに気持ちが悪くなるほど熱くされていた。

 待つこと2時間近く。ようやく私の番号が呼ばれた。

 奥に通された私に、担当者は立って挨拶。これもマスコミで叩かれた効果なのだろう。まあ、それは好意的に解釈。本題に入った。

 私の職歴と年金の支払いを説明した後、年金特別便がなぜ送られてこなかったのかと訊ねた。

 すると、彼女は、「まだ特別便が届いていないんですか。だったら、窓口が違います。2階に行っていただいて」

 私は、彼女の言葉をそこでさえぎり、「え、また、僕は違った窓口に行くの?」
と、それまでの大人しい口調から多少不快感を表しながらきつく言った。

 それを感じ取れなかったのか、彼女は「すみません。また並んでいただくことになりますが…」と悪びれた様子もなく言った。

 そこで、私の口からきつい叱声が飛んだ。私は受付で自分の置かれた状況をきちんと説明。大分前に送られてきた資料も見せて、その窓口に案内されたのだ。私に落ち度はない。

 すると彼女は慌てて席を外し、上司に相談に行った。

 そして、幾つかの資料と共に戻ってきて次のように言った。

 「手元の資料によると、特別便は1月8日にお送りするとことになっているのですが、何かのミスで送られていなかったようです。それと、確かに浅井さんは、1973年から76年の10月までAP通信東京支局にお勤めで、年金を支払われていることが確認できました。ただ、窓口が違うので…」

 そこで私は再び彼女の発言を制して言った。

 「冗談ではない。私は、何も間違っていないのに、あなたたちの3度にわたるミスで不便を味わわされる。人間誰でもミスはするものだ。だが、ミスをした側が責任を負うものではないのか。あなたたちは、ミスをしてからの対処がお粗末過ぎる。人を間違った窓口に導いておきながら、その責任を取ることなく、私にその失敗の後始末をさせようとする。僕の職歴デイタにしたって、5分もしないで見つけられたじゃないか。それも僕がここまで足を運んだから出来たことだ。何で僕があなたたちのミスの尻拭いをさせられるのか!」

 すると、近くのブースから拍手が聞こえた。恐らく、問い合わせに来ていた一人が同意の意思表示をしてくれたのだろう。

 焦った女性職員は、慌ててまた奥に消えた。代わりに、上野という男性職員が出てきた。

 この男がまた最悪で、「ちょっとお話をお聞かせいただけますか」とのんきな言い方をした。

 「ちょっとお話を?また僕に最初から説明させるつもりか!部下からきちんと話を聞いてから出直して来い!」
 私の怒りは頂点に達した。

 すると、その上野職員、言われたとおり、女性職員に話を聞きに奥に引っ込んで行った。

 だが、中々戻ってこず、私は仕事の時間に間に合わないからと、奥に声をかけた。

 すると、上野職員は、今度は課長を伴なって現れた。

 彼らが出した結論は、直ぐに善処するので云々カンヌンというもの。つまりは、出直せと言うことだ。

 「冗談じゃない。何で僕が出直さなければいけないんだ。人の金をネコババしたのだからそちらから私の方に出向くのが本筋だろう」
 私は、そう言うと、自分の携帯番号を書き残してその場を去った。

 小一時間すると、上野職員から電話が入った。こちらの都合の良い時に自宅に来るという。

 14日の午前9時に来ることになった。つまりは彼らが8時間後に我が家に来るということだ。どんな面をして来るかは分からないが、この続編は明日また書かせていただく。

 

舞台デビュー

2008-02-12 21:06:01 | Weblog
 芝居に出ることになった。それも主役級だ。

 公演日は、7月12日(土曜)13日(日曜)の二日間。それぞれ2回の公演が予定されており、計4回舞台にあがることになる。

 出演するのは、MAKOTOシアター銀座で行なわれる「一人芝居・二人芝居のための『1and2』」と題する6月から7月にかけて行なわれる演劇祭の参加作品だ。

 「役者だったんですか」
 この話をすると、相手の人はそう言う。だが、驚くなかれ、私は役者経験どころか演劇のイロハも知らないズブのシロートだ。学芸会でさえまともな役を与えてもらったことはない。

 そんな私がいきなり主役とは?と、多くの人が首を傾げながら質問をする。

 この話は、いきなり何の前触れもなく私に持ちかけられた。そして、それを私はなんらためらうことなく受けてしまった。

 国際縄文学協会という団体を主宰する鬼才弁護士、西垣内堅佑氏が先日、縄文座の設立を宣言した。この協会、日本にかつて1万年もの間続いた縄文文化や生活を見直し、日本に限らず世界にまで「ジョーモン」を広めようとするもの。演劇分野への進出も、芝居という媒体で縄文を紹介してみようと考案された。

 縄文時代については、日本の歴史であるにもかかわらず、一般的にはほとんど知られていない。土器と埴輪のイメージ位は持っていてもそれ以上の知識はないのが普通だ。

 だが、聞いてみると、そこには今我々が必要としている智恵が、人間の英知が詰まっている。

 今話題の平和憲法についても縄文に学ぶべき点がある。平和国家と言うと、とかくコスタリカが話題になるが、この我々が住む日本列島には、一万年以上も本格的な戦がなかった時代があるのだ。発掘された遺跡からは、狩猟用の武器が見つかるものの対人兵器は見つかっていないそうだ。戦をした形跡も見当たらないという。

 また、自然との共生という面からも、縄文人は「自然の恵みを分けていただく」「必要なものだけを収穫(獲)する」を徹底していたとの事だ。もちろん、温暖で食うに困ることはなかったと言われる時代だ。現代との単純比較は出来ぬが、その生き方に我々は学ぶべきであろう。

 そんな話の後の出演依頼だ。西垣内氏の見事な話の進め方というしかない。私の「チャレンジ精神」を最優先させる性格を熟知した彼ならではの采配に私はなす術もなく、「やりましょう」と答えていた。いや、その言い方は適切ではない。正直に言おう。私は仕方なくではなく、喜んで大役を引き受けた。

 縄文座では、演劇に興味がある人を広く募集している。これをお読みの方で、首を突っ込んでみようと思う方、浅井から主役の座を奪ってやろうという気概をお持ちの方がおられたら、縄文学協会に直接連絡していただくなり、私宛に連絡をいただきたい。お待ちしています。

クリントン陣営、選挙参謀を更迭

2008-02-11 23:36:56 | Weblog
 「スーパー・テューズデイ」後の民主党候補指名争いでワシントン州などの3州を制したオバマ氏は10日、さらにメイン州の党員集会で過半数を勝ち取り、クリントン陣営の焦りを誘っている。

 クリントン氏は10日、陣営立て直しのためパティ・ソリス・ドイル選挙対策本部長を更迭したと発表したのだ。ドイル氏と言えば、1991年に夫のビル・クリントン氏が大統領選挙のために雇って以来の選挙戦には欠かせない存在で、ヒラリー・クリントン氏も全幅の信頼を置いているとされてきた。

 ドイル氏の解雇は、ただ単にドイル氏が優秀な選挙参謀であったというだけでなく、ヒスパニック系アメリカ人であることも重ねて考える必要があるだろう。ご存知の方も多かろうが、ヒスパニック系住民の多くがこれまでクリントン支持を明らかにしているのだ。

 そのあたりの事情を考えると、また指名争いのヤマ場での決断であることを考慮に入れると、クリントン陣営が相当の危機感を抱いていることがうかがいしれる。

 8月の民主党全国大会で党の代表を決める選挙の代議員の獲得数は、この時点ではまだ辛くもクリントン氏がオバマ氏を上回っているが、逆転するのは時間の問題と思われる。余程の大きな失敗をしなければ、オバマ氏がこのまま民主党の大統領候補指名争いに勝つ可能性が高くなってきた。   



オバマ氏、3州を制す

2008-02-10 23:54:25 | Weblog
 米大統領選に向けた民主党の予備選・党員集会が中盤の山場である「スーパー・テューズデイ」を終えても勝敗の行方が見えてこない。

 オバマ候補が勝利を収めた州の数ではクリントン候補を上回るものの、獲得した代議員の数では、逆にクリントン候補がオバマ氏を上回る。

 そんな中、9日には、中西部ネブラスカなど3州で予備選・党員集会が行われ、バラク・オバマ上院議員(46)が全勝、獲得代議員数でヒラリー・クリントン上院議員(60)に肉薄した。

 民主党はネブラスカ州と西部ワシントン州で党員集会、南部ルイジアナ州で予備選を実施。オバマ氏がいずれも6~7割の得票率で大勝した。出口調査では、ルイジアナの投票者の半数を占める黒人票の8割がオバマ氏に投票したとのことだ。

 オバマ氏は確かにここ数ヶ月で支持の上昇に加速がついた感がある。このまま行けばクリントン氏を抑えて民主党の代表になる可能性が出てきたが、まだまだ11月の本選までには多くの難問が待ち構えている。いよいよ目が離せない展開になってきた。


橋下氏、シンタロー節に感激

2008-02-10 01:00:53 | Weblog
 橋下大阪府知事は8日、東京都庁に石原慎太郎知事を訪問、会談後、「人生経験や行政経験、政治家としての経験を踏まえた一言一句がすべて勉強になった。何十年ぶりかにノートをとった」と、記者団に感動した様子で語ったという。

 まあ、選挙期間中から橋下氏が石原氏に憧憬の念を抱いていたと聞いてはいたが、実際に彼の口から出た言葉を聞くと、不快感はぬぐえない。

 それにしても、東国原、上田(埼玉)、松沢(神奈川)、それに元職だが田中康夫といったマスコミで話題になる知事はなぜ揃いもそろって石原氏に擦り寄るのだろうか。

旧友を訪ねて

2008-02-09 09:06:08 | Weblog
 昨日は、埼玉県北部の寄居町へ。

 ここには、同じ高校に通っていた友人、丸本が「茜の里」という施設を運営している。ただ、同じ高校に通っていたと言っても、同学年であったというだけで、言葉を交わした記憶がない程度の関係であった。

 時が移り、今から4,5年前のこと。私が埼玉県から「北部でもNPOのネットワーク化を図りたい」との依頼を受けて、基調講演の講師とシンポジウムの司会を務めたのだが、丸本はその時、私の名を聞いてわざわざ会場にまで足を運んでくれた。

 その時には会えなかったが、後日私は茜の里を訪れた。同じ高校と言っても、私たちが通ったのは、愛知県の岡崎高校だ。そんな遠くの高校を卒業した生徒同士が、埼玉の山の中で40年後に再会したのだ。感慨深いものがあった。

 彼は、大学を出た後、都庁で福祉の仕事をしていたが、枠にはまるような人物ではなく、30代で役人を辞め、山奥に移住してきた。

 私は彼の生き様を見て共鳴した。しっかりと大地に根ざし、ぶれない生き方は、必ずや彼の助けを求めてくる人たちに癒し効果だけでなく、力強さも与えるように思えた。

 茜の里は、心に傷を負った人たちが、ここで藍染や農作業をして寝泊りをしながらその傷を癒す場である。

 「茜は、他の施設では相手にされない人たちを拾う場ですよ」と、自嘲気味に丸本は言うが、そうではない、私の目には、たとえ、それを大規模にしても、彼の信念とぶれない姿勢があれば、多くの人を救える場が作れるはずだ。

 だが、残念ながら、現状では公的な助成を受けようとすれば、当然のことながらそこに組織の論理が持ち込まれ、役人の横槍が入ったりして彼のやり方は捻じ曲げられてしまうだろう。恐らくそれを分かっているから丸本は施設を拡大しようとしないのだ。

 今回の訪問は、妻の直子が関わっている仕事の相談と、私が見ている引きこもりの少年の引き取りの可能性を探ることが目的であった。

 丸本は、とても穏やかな表情で対応してくれた。また、長年スタッフとして彼を支える田子さんという女性が、絶妙のタイミングで合の手を入れてくれ、いい雰囲気で話が進んでいった。

 4時間はあっという間に過ぎ、最後は挨拶もそこそこに慌しく茜の里を後にした。私の手には丸本から持たされた袋から生命力あふれる大根と青菜が顔を覗かせていた。