浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

清楚

2006-12-31 00:20:25 | Weblog
 大阪から上京してきた母子三人が久し振りに私を訪ねてきてくれた。

 子供は高校1年の男子と中学2年の女子。私を「ゴッド・ファーザー」と慕ってくれているから来訪を歓迎しないわけがない。

 電話やメイルで時折りやり取りはしているが、彼らに会うのはほぼ6年ぶり。母親とは、今年初め、一度会っている。その時の彼女の使命は、「どうも浅井のおやじが、30歳年下のケバイおねえちゃんにつかまったらしい。母ちゃん、その目でおねえちゃんの品定めをしてきて欲しい」といったもの。

 母親は、直子に会って安心して帰っていったが、やはり二人は自分の目で確かめないと納得がいかないのだろう。祖父母の家に来たついでにどうしても会いたいといってきた。

 私が先に待ち合わせ場所に行き三人と話していると、しばらくして直子が現れた。

 直子の姿を見て、それまでしゃべりまくっていた二人は極度の緊張の面持ちになった。男の子などは、直子を隣に座らせると、目を逸らし、顔を赤くしている。妹に「お兄ちゃん、顔赤い」と言われ、ますます顔を赤らめた。かく言う妹も兄と大して変わらぬ緊張度合いで、正面に座った直子を正視できず、時折りそっと上目遣いに見る。

 「会ってどうだった?ケバイねえちゃんだったか?二人に直子を見た印象を言ってもらおう」と私が言うと、

 長男は恥ずかしそうに、「清楚」と小声で答えた。長女も「清楚」と続いた。

 抱きしめてやりたいくらいその表情が可愛かった。そんな二人を私がからかい、そして、しゃべりやすい環境を作ってやった。すると、二人は普段の「大阪のしゃべくり」を取り戻し、軽妙トークを復活させた。

 親子三人のやり取りを見ている内、私は感慨深い想いに浸るようになった。両親のキューピッドであった私は、二人が知り合って結婚した舞台裏を知っている。また子供たちが生まれ、その後、現在に至るまで、母親が苦労しているのを見守ってきた。だから、三人が、口では相手をコケ下ろしたりしながらもいい雰囲気を醸し出している姿を見ていると感慨深いのだ。

 彼らがお笑いが大好きで、私たちも同様だと言うと、今度は『花月(大阪の笑いの殿堂)』で会いましょうということになった。何年後になるか分からぬが、その時が楽しみだ。

フセイン元大統領の処刑

2006-12-30 23:40:12 | Weblog
 フセイン元大統領が30日朝、死刑執行された。

 フセイン氏は80年代にシーア派住民を大量虐殺した責任を問われて4日前に死刑宣告を受けてここ数日間、マスコミ各社が死刑執行時期を予測する報道を繰り返しており、「X-Day」がいつになるかと注目を集めていた。

 フセイン氏の執行室に連れられる姿や遺体の写真がマスコミやインターネット上に載せられ、イラク各地では多くのシーア派住民が長年の圧政から完全に解放されたと喜んでいる。

 一方、フセイン元大統領がスンニ派だったことから、スンニ派居住区では重い空気が漂っている。住民の中には、シーア派への“復讐”を口にするものもいる。現実に、30日にはイラク中部のイスラーム教シーア派の宗教都市クーファの市場で、自動車爆弾が爆発、情報を総合すると36人が死亡、50人以上が負傷した。

 クーファは、シーア派強硬指導者サドル師派の拠点の1つである。爆発があった市場は、イスラーム教の犠牲祭を前に買い物する人々で混雑していた。爆発は死刑が執行されてから数時間後に発生しており、これに反発した元大統領を支持するスンニ派武装勢力による犯行の可能性が高い。

 この写真のように、衝撃的な映像が公開された。中東各地では、公開処刑は珍しいことではなく、大都市の中心広場で「見せしめ」に行なわれることもある。

 だが、一国の大統領であった人物の公開処刑が今後どのような影響をもたらすか、私は憂慮する。米政府がこんな処刑を許可したとすれば、今後ますます武装勢力による反米活動が活発になるはずだ。イスラーム社会では、イラクのシーア派教徒を除き、多くの一般大衆が対イラク戦争を国際法に反していると考える。そんな間違った戦争で政権を崩壊させられたフセイン氏が処刑されること自体間違っていると信じている。そのような市井が今後、公開処刑に怒りの声を上げ、ますます西側社会との距離を置くようになる気がしてならない。

クリスマス・イヴ 光と影

2006-12-29 02:19:47 | Weblog
 来年早々にでも発表することで走り回っているために、ブログへの書き込みの量が激減している。決してサボっているわけではないので御理解いただきたい。

 さて、もう何日も前になってしまったが、今夜はクリスマス・イヴについて書いてみたい。

 日本全国がどこか落ち着きを失う日であるクリスマス・イヴ。私はひと仕事を終えた後、指輪を買いに家人と街に出かけた。

 そう、我々は4年半の恋人期間を経て来年入籍することになったのだ。ただ、懐が寂しいので「収入の何倍」もするようなゴーカななものではなく、安価だが心のこもったものを二人で付けようということになった。だから、ふかふかのじゅうたんが敷いてあるような店ではなく、恋人たちが「2006年クリスマス・イヴ」を記念して思い出の品を買おうという群れの中に身を置いた。

 少ない予算の中で一生懸命気に入ったものを選ぼうと、私も直子と一緒になって頑張ったが、いかんせんそういったセンスは皆無だ。結局、彼女のセンスに委ねることになった。

 「カップルズ・リング」を指に光らせて私たちはそこから今度は「クリスマス・ディナー」へと足を運ぶ。

 これまで何度か書いてきたが、我々、ことクリスマスや誕生日といった日の食事で満足感に浸ったことはあまり記憶にない。演出として食事の時に頼んでおいた「サプライズ・ケイク(ケーキ)」が出されなかったり、お洒落なのは外見と店の名前だけで、出される食事は「ここはファミレスか」とテイブルをひっくり返したくなるようなひどいものであったり、そういうデキゴトは枚挙にいとまはない。数少ない例外は、メディア塾の塾生たちにしてもらった「サプライズ・パーティ」くらいなものだ。

 今年は予約もせずに街をさ迷い歩いた。「まともなところ」は無理だろうと思っていたところにホテルのレストランの看板が目に入った。ヴァイキングだから大食いの我々にはピッタリだ。中に入って問い合わせると、予約で一杯だが待っていれば入れるとのこと。“クリスマス・イヴ難民”にはなりたくないと、その店で待つことにした。ロビーで待っているとコーラス隊が現れたりして目を耳を楽しませてくれた…と言いたいところだが、これは大したことはなく二人で来年の豊富を話して盛り上がっていた。

 食事は大満足。最初に通された席が、通路やスタッフの待機所に面しているところで、「今年もまたか」と運命的な悪い予感がしたが、すぐに席を移してもらい事なきを得た。途中、隣のテイブルに座った親子連れの娘が急性アルコール中毒になったようで、担架で運び出されるという“演出”はあったもののその他には全て順調、二人は満足してレストランを出た。

 帰宅途中、直子が「さいたま新都心に寄ってみない?」と提案をした。この歳になると、同世代の友人は、「めんどう」を連発するが、私は幸いこの歳になってもそういう気持ちよりも好奇心の方が強く、「何かイヴェントをやっている」という保証があるわけではないが、二つ返事で提案に同意した。

 イヴェント広場に近付くと、そこではなにやら催しが開かれていた。「いいじゃないか、我々もついているね」と言った途端、その言葉を発したことを後悔させられた。ダンス・グループがステイジ上を跳ねているのだが、およそプロと呼ぶには相応しくない。ただただ、若者風に言えば、“エロかわいい”格好をした女の子たちが音楽に合わせて身体を動かしているだけ。

 次に出て来た女性歌手に至っては、会場の寒さも手伝い、石を投げて“帰れコール”をしたくなるような気分にさせられるひどいレヴェルの歌唱力であった。

 席を立ち時間を潰して戻ってくることにした。それは、最後に残されたグループが、その名は知らなかったが、気になったからだ。ポスターを見た感じがなんとなくいいのだ。

 我々の予感は当たった。そのグループは無名だが、とても歌唱力があり、いいハーモニーを醸し出す、女性一人と男性三人の「ピアノとコーラス・グループ」である。その名は、『ジュレップス』。

 うまいなあとそのハーモニーによっていると、案の定、彼らは埼玉県の所沢市を中心に活動している「歌手の卵」だが、あの新人発掘で有名な作詞家の秋元康氏に認められて今年、本格的に売り出される予定だとのことだ。

 演奏が終わった後、CDを売っている彼らに地元のFMラジオの関係者の名前を紹介したくて声を掛けた。

 彼らの思いがかなって多くの人たちに認められるといいねと、我々は帰宅の途につきながら話していた。

 地元の南浦和駅のパチンコ屋の前を通ると、イヴだというのに結構多くの客がパチンコ台に向き合っていた。離婚の前の自分の姿をそこに見たような気がした。夫婦仲が悪くなり、家に戻りたくない私は、卑怯にも賭け事に一時期逃げていたことがある。何度かのイヴをパチンコ屋で過していたのだ。客の中に同じ境遇の人がいるとは限らないが、なんとなく寂しさを感じずにはいられない光景だった。

 




新たな道

2006-12-27 08:58:50 | Weblog
 今の閉塞的状況の中で自分が何をしなければならないか、また自分に何が出来
るか。新たな道を模索し始めた。その為に連日、人と会っている。

 その方たちの意見をいただくのが主な目的だが、私にとって未知のことも多い
だけに感心したり、呆れたりで口をあんぐり状態だ。だからもし私を見かけるこ
とがあっても、「浅井もだらしなく口を開けて、ついにぼけてきたか」と勘違い
(本当だったりして)しないでいただきたい。

 具体的なことはまだ明らかに出来ないが、年明けにでもこの場を借りて発表する
つもりだ。それまで楽しみにしていていただきたい。

教育再生会議

2006-12-25 00:14:33 | Weblog
 安倍内閣が鳴り物入りで始めた教育再生会議だが、これまでの流れを見ていると、教育を再生させるには程遠い論議が繰り返されている。

 この会議は、17人の“有識者”から構成されている。まず、私はこの有識者たる言葉の持つ意味に疑問を持つものだが(私も時折り、この括りに入れられる)、委員の経歴や発言内容を聞いても、「何でこの人が選ばれたの?」という思いに駆られるような委員がいる。委員の選考基準がよく分からないのだ。もちろん、教育関係者だけでなく、様々な分野を代表して人を選ぶのは良い。だが、誰とは言わぬが、こんな人に多額の税金を払うのならタウンミーティングの時の「エレヴェイター係や送迎係に数万円」の方がマシ、と思わせる人もいる。

 このような会議の特徴だが、まずは事務方から出される要望に基づいて有識者に意見が求められる。それを事務局が次の会議までにまとめ、次の会議で、前回の話し合いを発展させていく。だが、私も良く経験させられることだが、事務方というか、その後ろにいる官庁なり自治体の意向にそぐわぬ意見が活字になって反映されないことがよくある。

 この会議も例外ではない。その典型例が、12月8日行なわれた「規範意識・家族・地域教育再生分科会(第2分科会)」だ。この日の議題の一つであった「放課後子供プラン」で活発に話し合われた大事な議論が、21日にまとめられて発表された第一次報告書には見当らない。

 それは、理化学研究所理事長というよりもノーベル化学賞受賞者として有名な野依良治氏が、「塾は出来ない子が行くためには必要だが、普通以上の子供は塾禁止にすべきだと思う」と口火を切った「塾禁止論議」だ。何が気に食わなかったのか、事務方は報告書でその議論を紹介しなかった。まあ、野依氏が座長であることを考えれば、彼の了解なくして「切った」ことはなかろう。だが、それにしても不可思議極まりない。

 皆さんも時間があったらぜひこのURLから教育再生会議の議事録をご覧になっていただきたい。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/index.html


写真屋さんが潰れぬ訳

2006-12-23 01:27:27 | Weblog
 年明けにもHPやブログのリニューアルをしようと、このところ写真を整理していたらかつて戦場をハゲシク走り回っていた頃のことが思い出された。

 まあ、思い出に浸る歳でもないので、と書こうと思ったが、自分の歳を考えると一般的には結構思い出が頼りになる年齢のようだ。でも、まだまだ現役のつもりだ。思い出に浸るのはもう少し先の楽しみに取っておきたいと思う。

 いずれにしても、選んだ写真をウエブに載せるのには、私の取ったほとんどの写真はポジ(スライド)だから、紙に焼き付けるか、デジカメに収めるしかない。

 街の写真屋にポジを持ち込んだ。写真屋の主人は写真を見て、「これ、みんなお宅さんが撮られたんですか?」と驚きの表情を隠せない。そりゃあそうだ。今時戦場に出かけていく人が身近にいることはない。

 店は大盛況というわけではなかったが、それでも客は引きも切らず入ってくる。安さを売り物にするカメラ屋がわが町にも溢れているが、この店はそれらの店に比べても活気がある。待たされる間、店の様子を観察をさせてもらった。

 御主人は「こんにちは、○○さん」と顔見知りの客のひとり一人の名前を呼び、挨拶をする。そして、あうんの呼吸で客たちの求めるポイントを整理して要望に応えていく。見事なものだ。この店は、彼の親父の代から始まったから恐らく長年引き継がれてきた接客方法なのだろうが、見ていて気持ちが良い。こういう店であれば、安いかもしれないがマニュアル通りに対応してこちらの気持ちを汲み取ってくれないチエーン店に食われることはないだろう。

 街が死んでいく中、こういう店がもっと増えれば街全体が息を吹き返すのではないかと思う。皆さんも、街の古くからある専門性に溢れた店を大事にしましょう。

 

私の視点 “無責任男”青島幸男さん逝く

2006-12-22 12:01:11 | Weblog
 青島幸男さんが20日、他界した。

 まさに、「昭和」を生き抜いた男であったような気がする。それも、名前の通りに幸せな人生を歩んだ男であったように見える。

 私は30年以上前、青島さんに一度だけインタヴューをしたことがあり、その後もずっと彼の生き様に注目してきた。

 インタヴューをしたのは74年のこと。参院議員2期目の選挙の際、青島さんは街頭演説などの選挙活動を全く行なわず、選挙期間中には夫婦で海外旅行に出かけるという前代未聞のスタイルを実践して世の中をアッと言わせていた。

 旅行に出る直前、彼をつかまえて話を聞いた。当時の私は、AP通信の記者という立場であった。

 電話をかけると、青島さんは「APって、あのAPでしょう?世界のAPがどうして?」と驚きを隠さなかった。

 私は、世界各国のAP網に調べてもらったが、青島さんの選挙スタイルは前例がない。ぜひ世界に紹介したい、と頼み込んだ。

 有名人によくあることだが、取材に答える彼はマスコミの前で演じる姿とは大きく違い、とても誠実であった。しかし、執拗に彼の真意を質す私に少々辟易したのか、「このインタヴューの仕方がAPスタイルですか」と苦笑いした。

 日本のマスコミが注目したように、世界各地のマスコミも私の記事を面白がって使った。

 とにかく、青島さんはマスコミの使い方が上手かった。TVの放送作家で業界の裏の裏を知り尽くした男であったから、特にTVに関しては彼の思うがままに操っていた感がある。

 放送作家に止まらず、青島さんは多くの分野に首を突っ込み、それも関わる世界でことごとく「青島旋風」を起こしてしまう、いわばマルチタレントであった。意地悪ばあさんに代表されるお笑いタレント、人気TV番組の司会者、カンヌ映画祭で入賞するほどのレヴェルの高い作品を作る映画監督、数々のヒット曲を書く作詞家、そして直木賞に選ばれる小説家などなど、時代の寵児と呼ぶに相応しい活躍をしてきた。

 だが、政界における青島さんの活動に関しては私は失望の連続、最後の方は「国民の政治離れの原因を作った大罪人」と呼んでいた。

 彼の死を悼むマスコミ報道では、青島さんの国会答弁などを取り上げ、彼の政治活動に意義があったかのように伝えられているが、「(佐藤栄作)総理は、財界の男妾」発言にしても特別な計算があって行なった発言ではなく、かみ合わぬ討論に業を煮やして思わず口に出してしまっただけのことだ。

 自民党が金まみれの状態で世論が盛り上がると、それに乗じてハンスト宣言したが、ナント翌日には退散、かつて自分がやっていたTVコントのように国民をドミノ倒し状態にずっこけさせた。

 国会議員を辞めたり、また復活したりと、不可解な行動をして支持者を惑わしたこともあった。そして、95年、大風呂敷を広げて都知事選挙に当選したものの結局何も出来ずに都民の怒りを買った。私の高校時代の同級生が当時都庁の文書課長(法律関係の元締め)をしていたので青島評を聞いたところ「本当にやりやすい知事だね」と皮肉を込めて言っていた。その後、都知事からまた国政に転進を図り、2回に渡って参議院選挙に立候補するも落選。彼の名声に泥を塗る結末となった。

 なくなられた今、このような批判的な記事を書くのは、死者にムチ打つことになることは承知している。だが、私は、政治家のような公人は別格扱いしている。もちろん我々ジャーナリストとて同様だ。公的な場においての言動の責任は、半ば永久に問われ続けて然るべきものだからだ。

 「ポスト青島」を選ぶ1999年の都知事選では、多くの浮動票が石原慎太郎氏に向かった。4年前に青島さんに投じていた都民が、青島さんへの失望を込めた批判票を石原慎太郎氏に入れたのだ。その後の都政のありようは皆さん御存知のとおりである。

 だからもちろん、青島さんには「ごくろうさま」という声を掛けたいが、それと共に、「あなたは幸せのままこの世を去ったでしょうが、最後は落とし前をつけておいて欲しかったですよ」と恨み節を唸りたい。彼の人生の最後の部分は、彼がかつて仕掛けた「無責任男シリーズ」そのものであったのだから…。

和むぜ、鍋パーティ

2006-12-19 13:27:28 | Weblog
 17日はメディア塾の生徒たちとの『鍋パーティ』。

 塾生の一人(http://blog.drecom.jp/sorayuki-1)が神奈川県の田舎に古民家を購入して住んでいるというので、会場は私の提案でそこに決められた。

 実は、最寄り駅に着く前に、いつものことだが出来事が…。

 途中二回の電車の乗換えがあり、逗子駅での乗り換え時間が3分と聞いていたので、階段をワッセワッセと駆け上り、別のプラットフォームに停まる電車に飛び乗った。見かけた塾生2人を「こっち、こっち」と呼び込み、間に合って良かったと安堵していると、乗り込んだ電車は我々が乗ろうとしていたものとは違うことが発覚、慌てて電車を降りた。すると、プラットフォームの反対側から電車がガタンゴトン(表現が古い?)。その動き出した電車の行き先を見ると、久里浜とある。そう、その電車こそが我々が乗らねばならぬものであったのだ。

 時間的には充分間に合ったのに乗り遅れてしまった我々は、もう一人乗り遅れた塾生と合流、そこでここは笑うしかないとワハハガハハの大盛り上がり。すると、同じく乗り間違えたおばさんクアルテットもそこに加わる。彼女たちはこれからゴスペルを聞きに行くのだと言うが、失礼ながら彼女たちからはゴスペルの匂いは感じられない。どちらかと言えば、氷川きよしか八代亜紀である。

 バカ話をしていて、はたと気が付いた。何か寒い。そう、コートを着ていないのだ。コートのポケットの中には鍵の束も入っている。

 逗子まで乗ってきた電車の網棚にコートを乗せたまま降りてしまったことに気付いた。だが、普段から忘れ物慣れしている私や直子に焦る気配はない。まあ、家の鍵は直子が持っていると言うし、私にとっては大した問題では無い。後で問い合わせればいいかとのんびりしていた。すると、これまたよく忘れ物をするという塾生の一人が、駅の事務室に行きましょうと言ってくれた。

 そこで彼女とワッセワッセと階段の上り下り。息を切らして事務室に行くと、目の前に見慣れたコートが丸められて置いてあった。普段の心がけが良いとナントカカントカとか、電車に乗り遅れたのはウンヌンカンヌンと言いながら、書類に書き込み、また皆が待つ元の場所に駆け戻った。その間約20分の運動量は、精神的負担を考えれば、マラソン完走とまでは言わぬが、かなりあったはず。ヨシ、今日はカロリーがドータラコータラ言わずに心置きなく食えるぞとニンマリ。

 次の電車は20分待ったが、なんのことはない、乗ってすぐに目的の駅に着いた。「前の車両に乗ると、トンネルに入って降りられなくなるから気を付けて!」という注意だけは全員覚えていて、それを避けたから無事下車できたが、我々全員、前の車両のドアが開かなくなるのを見て、ホントだ!と大喜び。

 駅を降り立つと、そこには早く着いた塾生たちが首を長くして待っていた。三浦半島の真ん中あたりに位置するローカルな駅の前には目立った店はない。確かに不便かも分からぬが、この不便さは、楽しめる不便さだなと思いながら歩き出した。

 集まる場所は駅から歩くこと約15分。細い山道を登っていくと、雑木林の中にぽつんと、古いが存在感のある家が見えてきた。

 私にとっては、子供の頃によく見た懐かしい木造の平屋だが、若者たちにはそれがかえって新鮮なようで、「オシャレ!ステキ!」の声も出る。

 家に着くと早速鍋の準備が始まった。鍋奉行は私なので仕切り始めるが、塾生のほとんどは手馴れたもので、私が大まかな指示を出しておけば自分たちのやり方で役をこなしてくれる。

 火鉢と七輪にも炭火が入れられ、七輪では私が郷里三州岡崎から取り寄せた五平餅が焼かれた。この五平餅、私の知人の料理の達人に「カルチャー・ショック」と言わせた絶品である。店(『五平もちの五平』)の主人がこれまたユニークな人生を歩んできた人で、高専に行きながら自分流の五平餅の制作に憑かれ、八丁味噌と生姜をベイスにした独自の味と香りを編み出した。

 五平餅を焼きながら談笑していると、「あ、リスだ!」という声がした。庭の木にリスがいる。前にどこかで読んだことあるが、外来種のリスが在来種を追いやってこの辺りを跋扈しているらしい。

 五平餅はやはり大好評。とても喜んでもらえた。都会で食べるのもいいが、やはり田舎で自然に囲まれて、それも七輪で一本一本焼いて食べるのは最高だ。

 海産物は塾生の一人が北海道の稚内出身で、蟹やホタテ、それに海老を母親に送ってもらったと言って、皆の前にドーンと大量に置かれた。そして、野菜はこれまた格別の新鮮さと美味しさで皆をうならせた。塾生の一人が最近始めた『やさい暮らし(http://www.yasai-gurashi.com/index.html)』という「農家さんから選ぶ しあわせ野菜のセレクトショップ」からの野菜だが、包丁を入れていて、その瑞々しさや生き生きとした感じが手に伝わってくる。他にも、同期生の梅林で取った梅を浸(漬?)けて作った梅酒を、大瓶ごと持ってきた者もいれば、お手製のケーキで景気付けをはかる者、また名古屋からお菓子『名古屋嬢』を持って駆けつけた塾生もいた。

 それと、私のところに“別口”で出入りする大学生が、卒業旅行で行ったパレスチナの菓子と最新パレスチナdeヒット・チャートを持参して特別参加。彼女は昨年、私の講演会に来て、講演会終了後質問をしてきたことが縁で私の元に時々顔を見せるようになった大学4年生。来春から放送局に勤めることになるが、卒業旅行に欧州とパレスチナに行ってきたという変り種だ。

 鍋はやはり、同じ鍋に箸を突っ込むことからくる安心感と親近感からなのか、空気を和ます格別で特別な料理だ。塾生たちの間から様々な話題が出され、それがまたいろいろに広がり、楽しい空間となる。そこへ、アルコール特に梅酒がうまい具合に空気をさらに和ましてくれる。

 話は尽きなかったが、直子と私はその後、新橋で次の約束があり、後ろ髪を引かれる思いであったが、その場を去った。

 次の約束は、3人のマスコミ関係者との忘年会。鍋パーティに特別参加した大学生が就職するTV局と同じ社の人間も来るので誘ったところ、前日徹夜で寝不足なのについてきた。その心意気やヨシ。ジャーナリズムに携わる人間はその心意気が結構大事なのだ。

 この集まりも大いに楽しかった。70年代から80年代のTVの黄金期を全うした放送作家は、最初はお疲れ気味だったが、途中からエンジンがかかり、舌は滑らかになる一方。途中から参加した若手TVディレクターも熱く語り出し、まさに宴もたけなわという時、「ハイ、もうミセはスィまります」との居酒屋の店員のぶっきらぼうな横槍が入った。なんて失礼な言い方をするやつなんだと思ったが、その店員、見れば中国人だから仕方ないか。中国ではそんな店員の態度はごくごく普通なのだから、と皆変に納得。

 店を出ると、温かかった昼間の雰囲気とは違い、服の隙間から冷気が入り込んできて肌を刺す。電車に乗り遅れたことを感謝(?)しながらコートの襟を立て家路を急いだ。

私の視点 「最近の若くないもん」さんへ

2006-12-15 12:16:17 | Weblog
 ここに2枚のチラシがある。
 
 2枚とも文部科学大臣から出されたものだ。1枚は、「未来のある君たちへ」と題する子供へのアピール文。そしてもう1枚は、保護者や教師たちへのメッセージだ。

 目にされた方もおられると思うが、目にされていない方たちのために原文をそのまま紹介させていただく。
  
 まずは、子供たちへのアピールだ。

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 文部科学大臣からのお願い

未来のある君たちへ

 弱いたちばの友だちや同級生をいじめるのは、はずかしいこと。
 仲間といっしょに友だちをいじめるのは、ひきょうなこと。
 君たちもいじめられるたちばになることもあるんだよ。後になって、なぜあんなはずかしいことをしたのだろう、ばかだったなあと思うより、今やっているいじめをすぐにやめよう。

 いじめられて苦しんでいる君は、けっして一人ぼっちじゃないんだよ。
 お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだい、学校の先生、学校や近所の友達、だれにでもいいから、はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね。きっとみんなが助けてくれる。

平成十八年十一月十七日
文部科学大臣 伊吹 文明
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 そして、保護者や教師に向けた「お願い」は、下記の通りだ。

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お父さん、お母さん、ご家族の皆さん、学校や塾の先生、スポーツ指導者、地域のみなさんへ

 このところ「いじめ」による自殺が続き、まことに痛ましい限りです。いじめられている子どもにもプライドがあり、いじめの事実をなかなか保護者等に訴えられないとも言われます。
 一つしかない生命。その誕生を慶び、胸に抱きとった生命。無限の可能性を持つ子どもたちを大切に育てたいものです。子どもの示す小さな変化をみつけるためにも、毎日少しでも言葉をかけ、子どもとの対話をして下さい。
 子どもの心の中に自殺の連鎖を生じさせぬよう、連絡しあい、子どもの生命を護る責任をお互いに再確認したいものです。

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 この2枚の文書を子供たちに見せ、読んだ感想を聞いてみた。

 20人近くの小中高生に聞いたが、それまでにきちんと読んでいた子は何と2人だけ。後は、「そんな紙を渡されたけど、誰も読んでいないよ」との返事であった。

 ほとんどのクラスで、教師たちは特別に注意することなく、このチラシを子供たちに配布しただけだという。きちんと読んだという2人のクラスでも、担任は全員に読ませはしたものの、ただ「誰かいじめられたりしていますか」と聞いて、反応がないと、それで他の話題に移ったという。

 だが、例え読んだとしても、このような内容で子供たちの心がつかめるはずはない。

 「いじめるのは、はずかしいこと。ひきょうなこと」と言われても、子供たちは、いじめることは多くの場合結構楽しいし、加わらないといじめられる側に回されると考えている子が多いからいじめに加わるものだ。

 また、「はずかしがらず、一人でくるしまず、いじめられていることを話すゆうきをもとう。話せば楽になるからね」などという文章は、いじめの実態が分かっている大人の書く文章ではなく、分かったフリをする偽善的な大人の典型的な言葉だ。こんな言い方をして、心を開く子供がいるとでも思っているのだろうか。もし、そういう子供がいたとしても、それはあくまでも演技をしているだけのこと。 

 私が話を聞いた子供たちに、「この文章を書いている政府の人たちが、教育に関わる大事な法律を変えようとしているんだ」と言うと、彼らは一様に拒否反応を示した。さらに、「政府の人たちは法律を変えるための勉強会みたいなものを全国でやっているんだけど、こういうことをしているんだ」と、タウン・ミーティングのやらせ問題を報じる新聞記事を見せると、「ありえなくねえ?(発音の仕方は、身近にいる子供に聞いてください)」「冗談じゃない」と口を尖らせた。

 教育現場の子供たちからそんな声が上がるというのに、問題の教育基本法案が14日、参院特別委員会で可決された。

 恥ずかしい話だ。大事な、しかも子供たちの教育に直接関わる法案を国の立法府でこんな決め方をしていいはずがない。多額の税金を無駄遣いし、いくつものルール違反を繰り返ししておきながら、子供たちに「今度からこういう法律になったから守るように」と言って、こどもが納得するとでも思っているのだろうか。「最近の若いもんはなっとらん!子供たちに必要なのは愛国心だ、徳育だ」などと言う前に、自分たちの性根を叩きなおすことから始めたらいかがですか、「最近の若くないもん」さん。

安倍晋三の笑える映像

2006-12-12 09:13:33 | Weblog
 『ザ・ニュースペーパー』という劇団を御存知か?

 この劇団は、「日本で一番有名な家族」を茶化したりすることから、TVなどのマス・メディアには出られない。だから、その知名度は全国区というわけにはいかないが、“その世界”では知らぬ人はいないと言われるほどの人気グループである。

 この劇団には、小泉前首相の真似をして、本人に「似てるなあ」と言わしめた劇団員がいるが、今度は安倍晋三のそっくりさんだ。

 ニュースペーパーの物真似の特徴は、ただ単に、顔や身のこなしが似ているというだけでなく、話に落ちがあり、それに適度な毒がもられていることだ。本人が実際に発言したことを上手く批判しながら、なおかつそれを笑いに持っていく。

 まあ、私が長々と解説するよりも、「さあ、寄ってらっしゃい、観てらっしゃい」、映像をご覧いただくのが一番だ。しばし、その名演技をお楽しみいただきたい。

 映像のアドレス:http://www.youtube.com/watch?v=ZChBDYx-354&eurl=

映画『硫黄島からの手紙』を観て

2006-12-11 01:05:13 | Weblog
 映画『硫黄島からの手紙』を観た。

 相変わらずの思いつきで、直子に「観に行こうか」と言うと、彼女も「私も一緒のこと考えてた」というので、遅い昼飯を食べると、インターネットでティケットを購入、いつものようにばたばたと出かけた。

 二部作の内どちらから観ようかと一瞬思ったが、まあ大差ないかと日本版から観る事にした。

 意外にも映画館は満席ではなく、ちょっと拍子抜けしたが、いずれにしても開演時間には間に合わず、暗闇に潜り込むと既にタイトルが画面に映し出されていた。

 映画は全編、渡辺謙演じるところの栗林中将の人間的魅力と長けた指導力のオンパレイド。確かに、渡辺謙の存在感に惹き込まれたし、日本映画ではとても望めない戦闘場面の迫力にも目を奪われた。二宮和也の気弱な下級兵(階級は忘れた)もアイドルとは思えないいい味を出していた。米兵の捕虜を殺害する残虐性もきちんと描いていた。だが、何か今ひとつ、物足らなさを感じた。

 それは、やはり米国版を先に見なかったせいかもしれない。攻める側の観点から戦争を見た後に攻撃される側の断末魔の苦しみを見る方が現実味がある。

 私の中で物足らなさを感じた原因のもう一つは、日本兵たちの外見にあったかもしれない。いくつもの戦場体験を持つ私は、戦争映画を観る時、どうしても一般の観客よりも“プロの視点”で観る傾向がある。だから、日本映画のおもちゃを使ったような戦闘場面には興ざめになる。そういった意味ではこの映画は、前述したように、戦闘場面の臨場感は申し分ない。だが、硫黄島に立て篭もった日本兵たちがひと月もの間、飲まず食わずで戦ったというのにふっくらとした顔つきをしていたのはいただけない。主演の渡辺謙までもがそうだからプロ根性を持てと苦言を呈したくなった。

 ただ、太平洋戦争を美化しようとする風潮がある今の日本の若い人にぜひ観て欲しい映画であることは間違いない。

 そんな風に思って映画館を出ると、直子が私に言った。

 「若い人たちが映画を見終わった感想で、『あまり面白くない映画だったね』って言っていたのが気になったね。こういう映画に面白さを求められてもね」

 確かに、ここのところ、TVなどでこの映画の宣伝や紹介をしているのを見ると、娯楽映画と大して変わらぬ取り上げ方をしている。だからだろうが、「今一番観たい映画」の1位にランクされている。この種の映画が、一番観たい映画というのも何か違和感を感じる。

 映画館が、最近流行の大型ショッピング・センターの中にあるせいもあるだろうが、映画館の外は子供連れでにぎわうシアワセ感に溢れた別世界であった。

 だが、この「別世界」。実は、映画の中の世界とは無関係ではない。我々は今、一歩間違えれば、「いつか来た道」に足を踏み入れてしまいかねない状況にあるのだ。だが、ほとんどの人は、そんなことを考えることもないだろう。映画館の近くのレストランで食事を摂りながら、シアワセそうな家族を見て、そんな思いに駆られていた。

石原都庁に怒りの拳を!

2006-12-09 11:40:07 | Weblog
 石原東京都知事の周辺がにわかにざわついてきた。

 きっかけは、相次ぐ「くび長(知事や市長)」のスキャンダルだが、石原知事の場合も塀の中に入れられたくび長とさして変わらぬ質の悪さ、レヴェルの低さだ。

 前にも書いたが、石原氏の「身内ビイキ」は昔からのことで、歳をとると共に巧妙かつ悪辣になってきた。

 ここのところで問題になっている、「公私混同」や「税金の無駄遣い」は、普段からの物言いが、他人に対してはとても厳しい倫理観を求める御仁だけに許されるものではなかろう。

 そんな中、日刊ゲンダイが9日付で、「石原親子、疑惑の祝宴」と題する記事を掲載した。

 記事では、石原都知事が、昨年秋の総選挙で当選した三男と共に、福嶋県知事汚職で賄賂を贈ったとされた建設会社の元会長の招きに応じて祝杯を挙げ、さらなることに、祝い金を渡されているという。

 日刊ゲンダイには悪いが、かねてよりこの新聞の情報精査能力に疑問を持っているだけに、この記事の内容を鵜呑みにすることは出来ないが、石原氏への疑惑がますます深まったことだけは事実だ。

 こんな人間を都知事の椅子に座り続けさせる都民の方々に言いたいのだが、もし自分たちの社会的責任を考えるのであれば、都庁に対して、石原氏に対して、ハッキリと、「間違っている」と声を上げるべきではないだろうか。

 石原氏は教育問題を声高に語ることで有名だが、こんな虚飾で固められた政治家に大事な教育をゆだねている親の気持ちが私には分からない。教育界の右傾化は、日の丸・君が代問題にしても、歴史の教科書の採用方法についても、常に石原都政が先陣を切ってきた。その先導役の石原氏が、ひどい倫理観を持っていることが露呈された今、都民はなだれをうって都庁に乗り込み、「無駄遣いした税金を返せ」「子供たちを裏切ってきた責任を取れ」と怒鳴り込んでもおかしくないと思うのだが、こんな私は危険分子?

卑怯だよ、アナンさん

2006-12-06 00:03:07 | Weblog
 バグダッドは5日も血塗られた一ペイジを記録した。

 シーア派教徒が乗るバスが武装集団に襲撃され、16人が銃弾に斃れた。そして、別の場所(シーア派とスンニ派混在地区)で3台の車爆弾を使った攻撃で14人が死亡した。

 2週間前に約200人もの犠牲を生んだ悲劇からこれらの住民を巻き込んだ殺し合いは連日のように続いている。

 アナン国連事務総長は4日、BBC(英)TVのインタヴューで、こんなイラクの状況を「内戦状態」と断定、「独裁者がいても今よりましだった」と強調した。

 しかし、アナンさん、遅すぎますよ、こう言うのが。あなたは、事務総長の座を去ることになるから言ったのでしょうが、影響力のある時にここまで踏み込んだ発言をしていたら、ブッシュ大統領に対する見方にも影響が出たはず。これまではアメリカが恐くて言えなかったのでしょうが、それだったら最後になって言わなければいいのではないですか。こんな発言、ええかっこしいですよ。本当にあなたは卑怯な人ですね。

ナントカの冷や水

2006-12-05 23:35:38 | Weblog
 長い間、体を動かしていなかったが、昨夜からジョギングと体操を始めた。

 ジョギングと言っても、走り出して1キロも進まぬ内に息が上がってしまい、我ながらその不甲斐なさに夜道でひとり苦笑い。何とか辿り着いた公園で、ストレッチをした後、腹筋、腕立て、スクワット、シャドーボクシングと進めていくが、これもまた散々な結果で、途中で息を入れないとどうしようもない。

 老いとは恐ろしいものだ。こんなにまで筋力が衰えるものかと深いため息をつく。さらに、鉄棒にぶら下がって、情けなさがピーンとハカリの針が振り切れるかのように猛スピードで失望のどん底へと吸い込まれていった。懸垂ができないのだ。

 若い頃は、軽々と何度も出来た懸垂が、5回以上できない。懸垂が出来ないから逆上がりも出来るはずがない。仕方なく両膝を鉄棒で折り曲げて逆さ吊りになり、腹筋を鍛えてみる。これはなんとか10回出来たが、この後がいけない。腹筋が疲れきって上半身を持ち上げられなくなり、鉄棒がつかめなくなった。

 自分の背よりもかなり高い鉄棒である。そのまま逆さ状態で両膝を鉄棒から外せば、大地に落ちた時、両手は骨折の憂き目に遭うこと間違いないし。そこで、私は必死になって腹筋を使い上半身を起こして両手で鉄棒をつかんだ。

 いやあ、まさに「ナントカの冷や水」である。よく若者をつかまえては腕相撲の相手をさせて、「まだまだだな。出直しておいで」などと言っている自分が恥ずかしくなった。そこで半年ほど身体を鍛えてみることにした。

 59歳の私が、半年でどこまで昔の身体に近づけるか、しばらく挑戦してみようと思う。だが、私が動けるのは、午後11時近くだ。これからの寒さにどこまで耐えられるか。そしていつまで続くか。

 さあ、皆さん、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。そして、賭けてみましょう。答えは、①が3日ボウズ②が1ヶ月、そして③がパンパカパ~ン、と6ヶ月。トトカルチョ(スポーツくじ)をするのなら今の内だよ。ひと口一億円で受け付けています。

 今書いている間にももう筋肉痛が襲ってきた。恐らく昨日の分が出てきたのだろう。2,3日置きにやるにしても不吉な予感だ。
 

私の視点 浦和レッズの優勝の陰で…

2006-12-03 10:39:43 | Weblog
 昨日は、「浦和」が真っ赤に染まった。

 「ALL COME TOGETHER」と題したキャンペインの効果もあり、浦和レッズの地元は、行き交う人や商店の軒先がティーム・カラーである赤色で彩られた。

 南浦和に住み東川口に職場を持つ私にとって、レッズは「我が街のティーム」だ。しかし、残念ながら野球などのスポーツに比べ、サッカーにあまり興味のないせいか、私は、どうしてもこういった場合でも一歩引いて見てしまう。

 昼前、JR南浦和駅に行くと、武蔵野線のプラットフォームは「埼スタ」に向かうファンで埋まっていた。武蔵野線は、「首都圏のローカル線」とも「ギャンブル線」とも言われる。それは、元々、武蔵野線が「新宿駅騒擾事件」(筆者注)の影響で山手貨物線の代替のために貨物専用線として計画された線で、30年前に開通した当初は貨物列車の合間の住民への見返り運転という感じが色濃く、走る電車も昼間は1時間に1本という、まさしくローカル線であったからだ。また、沿線に、東は中山競馬場、西に東京競馬場、その間に様々なギャンブル場が点在して、ねずみ色のジャンパーを着て耳に赤鉛筆をはさんだ“制服”姿のおじさんたちが、「負け馬新聞」や「それ行けケーリン新聞」を持って目の色を変えて行き交うことからギャンブル線と嫌われていた。沿線に住民が増えて、武蔵野線のイメッジも大分変わったが、電車の本数は増えたとはいえ、今も昼間は1時間に5,6本だ。

 プラットフォームから人があふれ出てしまうのではないかと思う頃、電車が滑り込んできた。車内はラッシュ時と変わらぬ混雑で、乗車率200%という感じである。ただ、7分間我慢すればいいこと、私は赤いレプリカ・ユニフォームを着た応援団の会話を楽しんでいた。

 中には、ようやくデイトゥに誘うことに成功した印象のカップルもいて、「オフサイドと言うのは」と一生懸命サッカーを知らない、相手の女性に説明をしている若者の会話を聞いているだけでも楽しい。だから、7分間はあっという間に過ぎてしまった。

 車内では大人しかった乗客だが、駅に着くと豹変した。先を急いで降りようとするのだ。私は思わず、「押すんじゃない!子供もいるぞ」と大声を出した。黒ジャンパーのどことなく目付きの悪いオヤジの怒声に落ち着きを取り戻したか、私の周りで押す者はいなくなった。

 駅を出たファンたちは、そこから埼玉高速線という都内を南北線として走る地下鉄に殺到していった。埼スタはそこから一駅のところにある。東川口駅は、すでに「決戦」一色となっていた。警備員が大量に動員され、物売りも出ている。駅のコンビニは、この日が勝負とばかりに客引きに大声を張り上げる。

 私はお祭り騒ぎは大好きである。だから、この騒ぎに乗って行きたいと思う。だが、こういったサッカー人気に便乗して作られた埼スタの誕生の裏側を知るだけに素直に喜べないのだ。

 埼スタは、2002年ワールド・カップのために作られた競技場だ。当時、「土屋天皇」と言われた土屋義彦知事が、国との太いパイプを使って大金を国庫から引き出し、850億円をかけて作った。もちろん県の金庫からも大金を持ち出すことになるため、反対する声を大きくしないとのもくろみから、計画を打ち出した時は、650億円と低く見積もった。それを後になって、阪神大震災で活断層が話題になったことに便乗、「耐震費」として150億円を追加した。また、その後、いくつもの理由をつけて50億円を余分に計上した。

 そうして作られることになった埼スタだが、「ワールド・カップ後」を問題にする声が上がるようになった。世界的イヴェントの熱狂が冷めれば、競技場からも熱がなくなり、まさに閑古鳥が鳴く競技場となることは目に見えていた。

 その頃、レッズのホーム・グラウンドは、同じく浦和にある駒場スタジアムだった。そこで土屋天皇の「ツルの一声」が飛んだ。

 「浦和レッズの試合を埼スタで組め」

 それには当然、駒場スタジアムを所有する浦和市(現さいたま市)から「異論・反論・オブジェクション」だ。95年に大金をかけて大規模な改修を行い、観客収容人数を1万人から2万1千まで増やしたばかりだったからだ。

 県庁所在地とはいえ、市と県では主従関係そのもの。それに、当時、埼玉県は土屋知事の一人天下。土屋知事に敵う政治家は誰一人としていなかった。市長が呼びつけられて黙らされた後は、浦和市役所では誰一人として異論を唱えるものはいなくなった。そうして埼スタは浦和レッズの共同ホーム・グラウンドとなったのだ。

 大金を使った影響は各所で出た。幾つかの予定されていたプロジェクトが泡と消えた。その一つが、私が深く関わっていた県庁内に設ける「防災拠点ビル」案だ。また、設立準備会の委員として関わっていた、県のボランティア・センター作りも金がないからと頓挫した。
 
 そして、代替案として出てきたのが、埼スタを防災拠点にする案だ。冗談ではない。活断層があるから150億円をつぎ込んだということを忘れたのか、と私は県の防災局長に抗議した。現場は、活断層があるだけではない。地盤が悪く、大地震が起きれば大規模な液状化現象が起きる典型的な場所だ。それは、県の液状化マップにもきちんと記されている。

 だが、全てが「埼スタありき」で、県政が進めらた。私の抗議など、恐らく記録にもとどめられていないだろう。

 案の定、この「金食い虫競技場」は、毎年大幅な赤字を出して、税金を食い物にしている。しかし、史上最長の景気と言われながらも、実感の湧かない庶民にとっては、お祭り騒ぎに目が奪われがちだ。県民の多くは、自分達の税金が埼スタに吸い取られていることは、恐らく意識していないだろう。

 仕事帰りに、勝利に酔う「赤い集団」に囲まれていると、まあこんなに多くの人たちが喜んでいるからいいか、と思いたくもなるが、いやいや、やはり経緯を知るひとりとしてこれはいつまでも許すわけにはいかない。私ひとりの声は小さいが、語り続けようと小さく拳を握り(これは、ウソ)決意した。
 

註:新宿駅騒擾(そうじょう)事件
 
 前年の67年に新宿駅構内で貨物列車同士が衝突。米軍のジェット燃料を満載したタンク車が炎上する事故となった。当時、米国の行なうヴェトナム戦争に反対する声が強かったため、事故後大きな問題となった。約1年後の10月21日、国際反戦デーに集結した4,5000人の“極左暴力集団(と警察から言われていた)”は、支援者や野次馬約1万人を巻き込んで新宿駅に乱入、線路内を“解放”して、長時間にわたり電車を止めてしまった。私も尻馬に乗った一人であった。