浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

生き続ける青春ドラマ

2007-12-30 10:56:44 | Weblog
我々夫婦の友人のひとりに、若かりし頃、ほんの一時期だが俳優としてTV出演していた女性Rがいる。

そのドラマは、NTVが「青春もの」として放映していたシリーズの一つであった。この青春シリーズは、竜雷太や中村雅俊といった当時無名の若手俳優を世に知らしめたものでもある。

昭和世代は、その甘酸っぱくも熱いドラマに心躍らせ、時代を共有していた。だから、その時期に青春時代を過ごした人たちには、主題歌を聴いただけで熱いものがこみ上げてくるようなところがある。

先日、Rの家に招かれてドラマが話題に上った時、共通の知人であるYが青春ドラマに今も熱い想いを抱いていることを言うと、今度ドラマの関係者が集まる同窓会があるから誘ってみようかしらと言ってくれた。

早速、Yに電話を入れた。すると、彼は二つ返事で参加を希望した。さらに、小声で妻の参加も可能かと聞いて来た。それも可能と伝えると、もうその時点で完全にスイッチが入ったようで大喜び。興奮した時の彼の特徴だが、声がでかくなった。

そして昨日。同窓会は都内で開かれた。会場からYのメイルが届いた。「死にそうです。夢の夢。後ろに○○○○さん(主演俳優)がいます」携帯メイルのたった二行だが、彼の興奮がこちらに伝わってきた。

そして3時間後。彼から再びメイルが入った。その返答にと私はYの携帯を鳴らした。彼と妻が交互に熱い想いを私に語った。

そんな彼らの弾んだ声を聞きながら思った。

彼らはもう50近い人たちだ。家庭を設け社会人として立派に活躍している。そんな人たちが若い頃影響を受けたとはいえ、30年後の今もその想いを温かく心に持ち続けていることの凄さを実感させられた。これは、俳優冥利に尽きることではないか。

日頃から○○○○さんこと、中村雅俊氏の人柄の良さはRから何度も聞かされて来たが、Y夫妻の話を聞いて思わず拍手をしてしまった。幾つになっても、中村氏が視聴者に支えられている原点をそこに見た気がした。

100万回生きた?オレ

2007-12-25 10:30:04 | Weblog
クリスマス・イヴを横浜で過ごしてみようと京浜東北線に揺られること一時間。

 窓外の景色を見ながら、丁度この辺りを歩いていたなあ、と隣で「白河夜船(辺り構わず寝てしまうこと。でも、本来の意味は、何も知らないくせに、いかにも詳しく知っているような言動をする事だそうな)」の直子を尻目にそう思った。私は、40年前の年末、日本橋から東海道を歩いて故郷岡崎まで帰ったのだ。最初の夜は、横浜・戸塚の寺に泊めていただいたっけ。確か、その寺の名は善了寺だった。

 石川町駅から直子に引かれて善光寺参りならぬ山手の洋館巡り。だが、そこに向かう時、元町商店街から素敵な歌声が聞こえてきた。路上パフォーマンスが大好きな二人は、迷わず歌声に向かって進んだ。

 商店街に50人の若者達が歌い上げるゴスペルが木霊していた。我々がこれまでに聴いた日本人が唄うゴスペルの中では最高レヴェルの歌声であった。感涙しながら歌う歌手もいた。それにつられて直子の目にも光るものが…。

 洋館巡りは今ひとつ。しかし、その雰囲気だけは味わった。そそくさと坂を下りて中華街に向かった。やはり、「花より団子」派夫婦だ。食べることになると、目の色が変る。

 肉まんが、ナントカ団子が、と言っていた直子が中華街に向かう途中、突然、北京ダックが食べたいと言い出した。

 ナヌ?ビンボーな我々が北京ダックだと?

 最初は難色を示した私だが、時間が経つにつれて舌が、胃壁がこんがりと焼き上げられたアヒルの姿を思い浮かべてよだれや胃液を全開状態にさせた。

 中華街に入ると、これまでになく直子が真剣に店のメニューと写真を見比べて歩き回った。そして、安くて感じの良さそうな店に入った。

 「巻き方はお分かりになりますか」とウエイターに聞かれたが、随分昔にしか食べたことのない私の記憶にあるはずはない。直子も同様だ。彼に巻いてもらうことにした。

 手際よく巻かれた北京ダックに私たちはむしゃぶりついた。

 美味い!二人は揃って中国4000年の歴史にひれ伏した、てなことはないが、美味しく戴いた。

 ひと息ついて店内を見渡すと、どのテイブルにも我々の何倍もの品数の皿が並べられている。アヒルの4分の1を二人で分け合っているのは我々だけだ。だが、俯瞰してみれば、満足度ではどのテイブルにも負けていないはずだ。

 店を出る時、我々とすれ違うかのように若いカプルの男性が「セットメニューはありますか?」と言いながら入ってきた。我々と同じ格安お得メニューだ。彼らが微笑ましく感じられたのは言うまでもない。

 レストランを出た後、急に中華料理に目覚めた私は、家でも何か作ろうと、北京ダックと共に胃袋に納められた甜麺醤(テンメンジャン・中国味噌)とXO醤を食料品屋で手に入れた。そして、腹ごなしにと我々は山下公園に向かった。

 だが、好事魔多し。一寸先は闇といった古人の教え通りだ。人生、幸せに浸っていると必ずナニかが起こる。

 夜も更け、寒風に冷たさが増してきたからと、私はコートの前を止めようとして手荷物を直子に渡した…はずのつもりが、嗚呼、きちんと渡してないのに手を離してしまったのだ。すると、先ほど買った「中国の旨味」はニュートンの説に違(たが)うことなく地面に落ちた。

 ガシャという鈍いガラスの割れる音。

 袋の中を見ると、2つのガラス瓶の底は無残にも砕け散り、4000年の歴史の一部がビニール袋の中に哀しげにへばりついていた。

 一瞬表情が固まった二人だが、「マ、いいか」と直ぐに気を取り直して山下公園に向かった。

 埠頭にはイヴというのに多くの人影はなかった。そりゃ、そうだ。寒風吹き荒ぶ中、鼻水をグチャグチャしながらのデイトでは白けてしまう。

 氷川丸(かつて、南極探検隊を乗せて大活躍した砕氷船が引退後埠頭に固定されている)の近くで明かりを灯してなにやら準備に勤しんでいる若者がいた。聞くと、彼は大道芸人で、これから「ファイア・ショー」を始めるという。

 大道芸の大好きな我々は、近くで時間つぶしをしてショーの始まるのを待った。

 ショーが始まると、どこにいたの?というくらいの人たちが周りを囲んだ。

 だが、残念なことに、風が強いのと寒さで手がかじかんでしまったのだろう。大道芸人は、パフォーマンスのほとんどを失敗した。火をつけた棒を何度も受け取り損ねると、音楽をかけることも忘れてしまった。

 我を失って焦れば焦るほど彼は無様になっていった。一回転して火の棒を受け取る演技をしていた時、最悪な事態が起きた。マイクを壊してしまったのだ。

 最期には、そんな自分に苛立ち、今風に言えば、マジ切れをしてしまった。

 彼は失態を謝り、投げ銭は要らないと言った。

 芸に対して厳しい私だが、この夜は違った。このまま家に帰れば、彼は散々なクリスマス・イヴを送ることになる。何か声を掛けてやりたい。

 そんな気持ちになった私を見越してだろう。直子が、「いくら上げる?」と聞いた。

 千円札を渡そうとした我々よりも前にひとりの若者が千円札を持って芸人に近付いていった。私も彼に「来年期待しているよ」と声を掛けて握手をした。その後も10人近くの見物人(ほとんどが若者)が、投げ銭ならぬカンパを彼に持ち寄った。芸人は照れ笑いをしながらも嬉しそうであった。そんな若者たちを見ていて、私はなぜか嬉しくなってきた。

 心温まる光景であったが、身体は芯から冷えた。私たちは元町の小洒落た喫茶店に入り、それぞれアプル・シナモン茶とエスプレッソを飲んだ。

 南浦和に戻ると、時計の針は11時を過ぎていた。自転車にまたがり、満月の夜を家路に急いだ。

 帰宅してしばらくすると、直子が一冊の童話を読みながら鼻を詰まらせていた。本の名は、「百万回生きたねこ」。彼女が、自分が苦楽を共にした愛猫をそこに重ねて何度も泣いている名作だ。

 だが、昨夜はそれを読んでいて、私ははたと気付いた。主人公の猫は、私そのものだったのだ。目頭が熱くなり、それを直子に見られまいと隠したが、見つかってしまった。

 私は神の領域にいないので、これまで何回生きてきたかを知る由もないが、今生きているこの人生が一番であることに違いはない。この本を読みながら、一日いち日の大切さを思い知らされた。


私の視点 武士に二言は…

2007-12-19 13:06:04 | Weblog
 巷間、またメディアでも責任ある立場の人たちの今年言い放った無責任発言が話題になっている。

 今年起きた数々の事件や不祥事を表現するには、確かに「偽」というひと文字は核心をついている。だが、これは、今年に限った特殊な流れではない。日本列島にはもう長い間、不信感が充満し、人々の生活は倦怠感と共に重い空気に覆われている。

 このところ、私はこのことに集中して想いを馳せてきた。日本人が自分の発言に誇りを持たなくなってしまったのはなぜだろう、いつからのことだろうとも考えてみた。今思えば、あの戦争(第二次世界大戦)がやはり「日本」を「日本人」を、そして我々の思考回路を大きく変えたのかもしれない。

 天皇を神と仰ぎ、その天皇から発せられた命令を、天命だと国民の前に掲げ、軍国主義について来させた軍部と一部の政治家たち。また、たとえ「天命」に対して、たとえそれに軍部の演出が加えられたにせよ、疑問の声を上げることなく従順に受け入れ、この国を戦争に突入させてしまった国民たち。

 数千万人もの人命を奪い、アジア各地の、そして日本の国土を焦土と化した戦争に対する責任はどこにあったのか。その検証・総括も本格的にしないままに一部の指導者や軍人を「あの世」に送り込むことだけで幕を引いた戦後処理。そして、スタートした「戦後ニッポン」。もうそこには、恥も名誉もなく、指導的立場にあった者も軍国教育の最前線に立っていた教育者も、乗り込んできた進駐軍に、戦時中は「鬼畜米英」と唾棄してきたはずなのに、尻尾を振って従属の道を歩んだ。

 日本には「恥の文化」が骨太く存在したはずだ。名誉も人々の精神的支柱のようにあったはずだ。あの時点で我々の親たちの世代は、文字通り恥も外聞も捨ててしまった。恥や名誉にセットのようについている責任という言葉も当然のことながら日本から消滅した。

 そんな大人たちを見て次の世代が尊敬の念を抱くはずがない。その辺りを鋭く見抜いた若者たちは、大人社会に数々の矛盾点をついた。それに対してまともに取り合わぬ大人たちに若者は身体を張って精一杯抗った。それが、団塊の世代に代表される労働・学生運動であった。東京の中心街では毎日のようにデモが起こり、警官隊との間で流血騒ぎとなった。歩道の敷石が消えたのは、学生たちがそれを割り機動隊に投げつけたからだ。

 そんな若者の反抗も対米追随外交という大きな流れの中で声を失い、敗北感に打ちひしがれた若者は、長い髪をバッサリと切り、穴だらけのジーンズを脱ぎ、ビジネス・スーツに身を固めて企業戦士に豹変した。

 団塊の世代が赤旗に代わり経済成長という御旗を掲げて仕事にまい進すると、日本経済にエネルギーが満ち溢れるようになり、国際競争力は一挙に高まり、80年代、日本は経済大国へとのし上がった。

 しかし、ただ闇雲に突き進むだけで、我々に精神的支柱はないに等しかった。目的意識がなかったといっても過言ではないだろう。だから、経済的な余裕は生まれても精神的な豊かさは欠如したままであった。一部で危惧する声が上がっても、社会全体で行く末を危ぶむ空気はないに等しく、それらの少数派の声は、「経済成長」の大合唱の前にかき消された。家庭や教育現場の崩壊の兆しは随所で見られたが、被害に遭う者は、「だらしない落ちこぼれ」の烙印を押されて社会からはバッサリと切られた。

 現在の世の中は良いにつけ悪いにつけ、団塊の世代が作り上げたと言っても過言ではない。そんな親たちの世代に何か胡散臭さを感じるのだろう。20,30代は、このところ少しずつだが疑問の声を上げ始めている。今のところ、「失われた世代」などとひどい言われ方をされ、見下されてきたせいだろうか、大声で団塊の世代に正面切ってその責任をあげつらうまでに至っていないが、このまま行けば問題点が拡大して大問題になり、「失われた世代」の団塊世代への復讐が始まることになりかねない。

 政治家で言えば、舛添要一氏なんぞは団塊世代の真っ只中の1948年生まれだ。彼が言の葉を発するたびに、恥を名誉を、そして責任を忘れた自分たちの世代の醜悪な姿を見る思いがしてならない。

 舛添氏だけではない。彼を攻める側にいる民主党の菅直人氏や鳩山由紀夫氏も同じ世代だ。彼らに共通する言葉の軽さ、責任逃れの巧みさが今の世の中を歪んだものにしていると考えるのは私だけだろうか。

 自らの過ちを認めない。また約束したことをすぐに違(たが)えて都合の良い方向に摩り替えること。こういった日本の指導者たちが平気でやることは、日本ではかつては恥と考えられていたことである。ところが現代ニッポンではこれがどうやら「恥」とは取られなくなった様だ。

 そう考えてくると、今の日本に大事なのは「恥」という言葉に代表される真摯な態度ではないかという所に行き着く。そこで、私自身への戒めも含めて、日本社会で言い伝えられてきた言葉の重さを表現した古人の金言を最期に書き加えてみた。

 君子(武士)に二言なし
 武士の一言金鉄の如し
 弓矢取る者の言葉は綸言(りんげん)に同じ
 綸言汗の如し

(注)綸言汗の如しというのは、君主の言葉は、一度出た汗が再び体内に戻らないように、一度口から出たら取り消すことができないという意味です。

平和に架ける橋

2007-12-17 11:27:28 | Weblog
 昨日は、直子が主宰する「Bridge for Peace(日本とフィリピンをつなぐプロジェクト。略称BFP)」の集まりに顔を見せた。

 BFPは、日本軍に国土を命を蹂躙されたフィリピンの人たちと、侵略側にいた旧日本兵の橋渡しを目的とする活動をしている。具体的には、旧日本兵の証言や謝罪といったものをヴィデオに記録して、それをフィリピンに持って行き、各地で上映会をしている。ヴィデオを見た現地の声をヴィデオに収録して日本でも上映会を行なっている。日本における上映会の場所は様々で、活動に共感する教員たちの計らいで学校や大学で行なう場合もあるし、様々なグループに呼んでいただくことも多い。また、自主企画をする場合もある。

 昨日の会は、その日本で行なう上映会、しかも自主的に行なう上映会の一環として行なわれたものだ。場所も少々ユニークなところで、メンバーのパートナーである英国人の紹介で外国人の多くが集まる東京・下北沢のパブを借り切って行なった。

 ヴィデオ上映に続いて、フィリピンで戦った旧日本兵がその体験を参加者に披瀝した。狭いパブに集まった40人近い参加者の多くが20代30代で、質疑応答の時間になるとそれぞれの感想、想いを熱く語った。

 外国人も、韓国、フィリピン、英国、米国、それに外国籍ではないが、インドネシアに生まれて現地で育った日本人の若者も参加した。

 そのインドネシア育ちの若者が、恐らく現地で様々な言われ方や感じ方をしたのだろう。旧日本兵に怒りをぶつける場面もあり、同席した多くの参加者が肝を冷やす場面もあったが、旧日本兵は冷静にその怒りを受け止めて返答してくださり、事なきを得た。

 在日20年というアメリカ人男性が、たどたどしい日本語で最大級の賛辞を述べた。彼は後ほど私をつかまえ、「この活動は素晴らしい。こんな活動はこの国で初めて知った。国際機関の財政支援を得られるように尽力したい」と言ってくれた。

 上映会の後は、所を変えて近くの店で交流会を行なうことになった。会場を出ると、外にニューズィーランドの友人がいた。彼は会への参加を表明していたが姿を見せていなかった。聞くと、3歳の幼子に手間取り欠席しなければならなかったとのこと。しかし、律儀に会の終わるのを見計らって一家全員で寄ってくれたのだ。

 私はBFPにあまり姿を見せないようにしている。それは、どうしても私の戦争特派員としての履歴などを含めて私の“濃いキャラ”が、活動を邪魔しかねないと思うからだ。この活動が着実に日本に、そして海の向こうにも根を張っていくことを心の底から願っているが、昨日の集まりを見ていると、間違いなくその根は広がりを見せている。

 このサイトをお読みの皆さんも、お時間のある時、いや時間を作ってでも彼女の活動に興味を持ち、できれば活動そのものに関わっていただければ幸いである。

 為政者や高級官僚は世を問わず、我々市井を欺き、私利私欲に走り、自分の方に利益を誘導する。それは、汚職や今世を騒がしていることだけでなく、戦争に国を導く場合もそうだ。そんな流れにこの世の中を任せないためにも我々は何をしたら良いか。

 そんなことを考えながら集まりで交わされる議論を聞いていた。

朝の隠密行動

2007-12-16 01:25:02 | Weblog
家人が新居に越してきてから「早起き運動プラス早朝散歩」を始めた。

 それは、友人でもあり、英会話学校のスタッフでもあるKが彼女を誘った事がきっかけで始まったようだ。

 約ひと月前、週末と雨天を除いて毎日歩くと意気込んで二人が早朝散歩を宣言した時、どうせ三日坊主に終わると茶化したが、それに憤慨したか、これまでのところほぼ「皆勤賞」だ。

 昨日の朝、早起きの私は、まだ床の中にいる家人を尻目に彼らの散歩コースである調整池周辺を歩いてみた。

 土曜日の早朝だというのに、多くの人が、ある者はジョギングを、またある人は逆歩きを、皆それぞれのペイスで行なっていた。私は新聞を読みながら徒歩を楽しんだ。

 この調整池は、これまでに何度か洪水に見舞われたことから造られたものだが、散歩コースとしては中々よろしいが、かつての風情は感じられない。

 この籐衛門川、昔はうなぎが多く採れたことから周辺に多くのうなぎ屋が立ち並び(一時期は浦和市にうなぎ屋が67軒あったと聞いている)、東京からもたくさんの人が訪れたことで知られる。

 そういった川沿いの風情は画家たちをひきつけ、旧浦和には多くの画家が住んでいたそうだ。ところが、宅地開発に伴なって川岸はコンクリートで固められ、画家たちの足は遠のくようになってしまった。さらに、その後、防災対策で調整池とされ、昔の面影は消えていった。

 かつての面影はなくても、都市化したこの地域の貴重な憩いの場である。それぞれのスタイルで楽しむ人たちの姿を見ているだけでも楽しいものだ。

 冬晴れの中、清々しい気持ちに足元も軽やかになり、私は上機嫌で家に戻った。しばらくして二階の寝室から起きてきた家人は私が散歩に出たことは知るよしもなく、寝ぼけ眼で「やっぱり朝のウォーキングがない日はだめね」と言い訳をしながら朝食を作り始めた。