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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

ゴーマニズムの影響力

2006-10-31 11:51:05 | Weblog
 昨日は、東海大学に呼ばれて講演会。

 この「公開セミナー」は、学生たちが企画をして実施するもので、私で281回目を数える伝統的な講演会である。

 ただ、私の知名度がないためか、残念なことに「松前記念館講堂」に集まった聴衆は100名程度。その多くは、高齢者が多く、学生の姿はちらほらだ。

 人数は多くなかったが、足を運ばれた方たちはとても熱心に聴いてくださった。メモを取る方の姿も目立つ。講演の後に設けられた質疑には多くの方が手を挙げていただき、時間の関係で全ての方の質問に応えられなかったほどだ。

 講演を終えて玄関で車を待つ間、一人の若者が近寄ってきた。東海大学の学生でジャーナリストを志していると自己紹介をしてきた。「仲良くしましょう」と、再会を約束してその場は分かれた。

 家に帰ると、その学生から早速メイルが届けられていた。小林よしのり氏についてどう思うかとの問いかけもされていた。そこには、「衝撃を受けた」としか書いてなくて、果たして好意的に見ているのか、その逆なのか、その辺りは分からなかったが、いずれにしても小林氏の若者への影響力の強さを思い知らされた。

履修漏れ問題の責任はどこに?

2006-10-31 11:30:00 | Weblog
 高校の「必修科目履修漏れ」問題で、その責任がどこにあるのかと、かまびすしい。

 マスコミ、特にTVを見ていると、記者会見などに出てきて苦し紛れに矛盾した説明をする教師や校長が悪者に思えてくる。

 だが、突き詰めて考えると、又は学校教育に詳しい人は、当事者となった教師や校長の陰で糸を引く存在、教育委員会悪者説を取る。

 確かに、教育者にとって、その地域の教育委員会の存在は、人事権を持つだけに“神”そのものだ。何か問題が起きると、とかく教育者、中でも校長の責任を問う声が強く上がるが、校長とて所詮は教育委員会に首根っこを抑えられた「雇われの身」だ。

 問題は違うが、今朝の小倉智昭が司会をするフジTVの番組でも、それを象徴する場面が紹介されていた。岐阜の市立中学のバスケ部で起きた「いじめ自殺」で、誰の目にも生徒の死因がいじめによる自殺であったことは明らかなのに、記者会見に出てきた校長や教師は、一人を除いてその見方を全否定しないものの、事実認定を頑なに拒んだ。

 その校長は、事件発覚の直後には、いじめ自殺の事実を認めるような発言をしており、心変わりが奈辺にあるのかと記者団からは当然、厳しく追及された。すると、校長の横に同席した初老の男が、校長に耳打ちしたり、メモを手渡していた。

 男は恐らく教育委員会の回し者と見ていたら案の定、図星であった。

 これを見ても明らかなように、教育現場の職員は、教育委員会に首根っこを抑えられているのだ。だが、教育委員会事務局職員で学校ににらみを利かす「指導主事(先生の先生)」とて教頭、校長を務めた現役教師だ。指導主事が、論議を呼ぶような問題について、自分の考えで動けるはずはない。彼らが行なう“指導”がどこから出されたものかは、深読みしなくても分かる。文部科学省である。

 教育者にとっては「鳴く子も黙る」存在である文部科学省が教育委員会に発する指導は、言ってみれば“天の声”。それに抗えるはずもなく、地方の教育委員会は、学校長に通達を出すのだ。それは、絶対的な「お触れ」であり、学校長は教職員に有無を言わせず実行するよう指導する。

 この構造がある限り、教師達の情熱や指導力と生徒たちの個性や能力とが調和することは考えにくい。多くの教師は、校長の指導に従わずに懲戒処分を受けるよりも、生活のために服従する道を選ぶ。そんな教師達に生徒が付いていくはずはない。生徒は教師達に絶望して大きな溝が出来てしまうのだ。

 だから、このような問題が起きた時、マスコミや我々がせねばならぬのは、「犯人探し」に余計なエネルギーを費やすのではなく、問題の本質を捉えた論議をすることだ。そして、文部科学省に声を上げるなどしてきちんと提示することだ。それを怠っていれば、教育者達から密かに「教育の諸悪の根源」と言われて久しい文部科学省がその姿勢を変えることはないだろう。

医療の現場から

2006-10-30 01:43:49 | Weblog
【浅井から読者の皆さんへ】

 読者のAさんからいただいたメイルを皆さんにも読んでいただきたいと思い、Aさんに使用許可をお願いしたところ、快諾を頂きました。下記に御紹介します。なお、Aさんは医師です。

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私からメールが来るときは、あまりハッピーではないニュースが起こったときとお思いかもしれませんね・・・


奈良県で、妊産婦死亡事例が発生しました。

今回は妊娠に伴う脳出血の事例で、大変気の毒な転帰をたどりました。

ご遺族は、ことばにできないほどの悲しみにくれているはずでしょう。こどもを授かった経験のあるものとして、こころからご冥福をお祈りします。



今回の一連の報道ではご遺族の若いご主人がテレビに登場、涙ながらに医療対応への不満を語る、という放送がなされました。



福島の事例のときと、私の感想はあまり変わりません。

帝王切開手術に麻酔科医として何度も参加し母体および胎児の管理を担当、いろいろな経験をしました。その多くが生命の誕生に立ち会うというとてもハッピーな、そして荘厳な時間でした。しかしながら母体もしくは胎児を救い得なかった非常につらい記憶もあります。

妊娠・出産はいまだに、非常に危険で、困難な側面を持つのです。

そのことを前提に、やはり現在の報道のありかたに強い疑問と怒りを感じています。



今回私が目にしたものは「ご家族の話」が情報源らしく、担当医である産科医の判断ミス・緊急搬送を断った医療機関がけしからん・そして悲嘆に暮れる若いご主人、という内容でした。内科医のアドバイスを聞かなかった、などの出所不明なサイドストーリーも付加されています。

問題に感じているのは以下の点。

① 担当医が判断ミスをした、という個人への問責。医療現場でも議論が続くようなギリギリの判断を、なぜか報道機関が「医療ミス」と断罪しています。事実と違う報道が多いのも気になります。事実と異なるようですが「仮眠をとった」ということさえ報道機関は許してくれないようです。問題と捉えてほしい救急・産科医療の疲弊ぶりにはあまり触れていただけていません。

② 毎日新聞や日刊スポーツなどマスコミの医療機関に対する極端に激しい態度。日刊スポーツのコラムでは「恥を知れ」と言っておいでです。これほどの表現はいままでお目にかかったことはありません。医療に対する敵意・悪意と解釈します。

③ 医療タレント、とでもいうべき人々の暗躍。医師を名乗る女性タレントが朝のワイドショー番組でCTを撮っていれば救えた、旨の発言をされたことは、ただ残念というだけでなく、多くの国民に誤解を招いたという意味で大問題だったと思います。

④ 医療人の多くが報道機関に対し不信感を募らせています。医療ミスを問責される医師がいても、事実でない報道により国民をミスリードしたということで「報道ミス」を問責された報道機関がこれまであったでしょうか。



改めて、亡くなられたお母さん、残されたご家族の心情はいかばかりかと思います。

しかし、なぜ彼らがテレビをはじめとする報道に引っ張り出されなければならなかったか、とも思います。

それは、ある報道機関にとって好都合であったから、という側面はありませんか?より多くの衆目を集め、よりセンセーショナルだから、という理由で。

小春日和

2006-10-30 01:34:50 | Weblog
 日曜日のさいたまは、雨の予報であったが、朝から快晴。私は、家人に公園でバドミントンをしようと誘った。

 と言っても、我が家には遊具はない。近くに買いに出るが、売っている店(お目当てのスポーツ・ショップは閉業していた)が見当らず、取りあえずは腹ごしらえにと弁当を買い公園で「ピクニック」。

 移動手段は自転車だ。小春日和の中、風を切る快感がたまらない。昼飯の後は浦和にバドミントン・セットを買いに出た。

 途中、商店街で古書市を見かけると、家人は「ちょっとだけ見ていきたい」と言う。私に異論があるはずもなくそれから1時間以上、お気に入りの本はないかと探しまくった。

 彼女は、お目当ての本があったと大喜び。それは、フィリピン・バタンバンにおける旧日本軍の記録をまとめたもので、どこを探してもなかったものがここで見つかったのだ。非売品に値段が付くのが不思議と言えば不思議だが、2千数百円の値が付けられていた。

 私は、林芙美子の小説『浮雲』と、図説『日本の歴史』シリーズの「戦後日本の再出発」編を購入した。それぞれ、100円なり。文庫本の100円は分かるにしても、図説のこの価格は驚きだ。会計をするまで半信半疑だったが、正真正銘の掘り出しモンであった。

 会計を担当する男性に「信じられない値段ですね」と声を掛けてみた。

 男性は本を袋に入れながら、「今の時代は大型本が嫌われるんですよ。家の中でも邪魔者扱いされてしまいます。だから、たとえ100円でも買っていただいた方が嬉しいんです。それでないと、リサイクルに回されてトイレットペーパーですからね」と話してくれた。

 確かに、図鑑とか百科事典の類が数百円で売られている。中には、昔、母親が「これは後になって価値が出るのよ」と言いながら集めていた図鑑の姿もあった。

 夕方からはお江戸のTV局に友人を訪ね、赤坂で食事会。と言うか、メディア塾の講師2人と今年の総括と来年の計画を話し合った。

 二人とも私の思いを理解してくれるだけでなく、講師たちにどことなく遠慮する私の尻を叩いて、活を入れてくれた。確かに、私は、安い講師料しか払えない気兼ねとか、講師の健康状態などへの気遣いから、期待されるような『浅井久仁臣メディア塾』作りに粉骨砕身取り組んでいなかった気がする。

 3年前、後進の指導に情熱をかけると公言した身だ。3年間の経験を無駄にすることなく、自慢の講師陣の力を得て、来年度はこれまで以上の講座を組んで、世間の期待に応えられるよう頑張らねばならない。

 帰りの電車の中、私は話し合いで出てきた講師からの提言を思い浮かべながらニヤついていた。本当に私は「人に恵まれている」。

う~む、女とは…

2006-10-29 11:01:23 | Weblog
 私の家人は、アンケートというものを信じない。様々な世論調査の結果についても同様だ。

 私たちが出会った当初は、半分冗談で言っているかと思ったが、共に暮らす内、結構本気で彼女がそう言っている事が分かった。その言い分は、「私は一度も聞かれたことないし、私の周りの友達も皆そう言っている」。

 友人・知人達とそれを話題にすると、結構「信じない」とする人たちがいる。特にその割合は女性に多い。

 確かに、アンケートは非常に数の少ない調査対象から全体像を探る手法だから、実際に聞かれた経験がある人は少ないはずだ。かく言う私も、仕事に関連する調査や国勢調査以外では世論調査への協力を求められた経験がない。

 そんな彼女に、今朝の新聞に紹介されていたオーストラリア人の外国好感度調査結果を聞いてみた。「一番好きな国は?」と聞く私に、「ニューズィーランド」。「二番目は?」と聞くと、「イギリス」。

 彼女が答えているのに私が無反応なことでなんとなく自信を持ったのだろう。三番目に挙げられた国を問うと、自信を持って「日本」と答えた。

 3つの国も、その順位も全て正解だった。普段は国際問題で教える側に立つ私だが、私の完敗だった。

 私が冗談半分だが、下を向いて黙っていると、「ネ、ネ、当たってるでしょう?私、インターナショナル女なのよ」と駆け寄ってきた。その顔は、どうだと言わんばかりだ。「当たってるよね。だって、(私が)答えるごとに元気がなくなっていくんだもの」

 そこで聞いてみた。「これで、アンケート結果を信じるようになった?」

 「ううん」

 う~む、女とは…。

私の視点 必須科目の履修漏れに思う

2006-10-29 01:25:04 | Weblog
 高校の一部で必須科目であるにもかかわらず定められた授業をしていなかったということが発覚、問題化している。

 これはいずれも受験校で起きたことだが、マスコミは大騒ぎだ。だがしかし、マスコミの記者諸君、このことは、あなたたちにも身に覚えがあるのではないか?
 
 私事で言えば、もう40年以上前のことだが、通っていた高校でもそれに近いことが行なわれていた。文科系と理数系に分けられた3年生のクラスでは、受験に不要な必須科目は、授業こそ行なわれていたものの実態は履修漏れと何ら変わりはなくて授業形態をなしてはいなかった。

 私は文系クラスに属していた。そして現役受験生の時は、私立大学受験しか頭になく(浪人して国立大学受験に変更した)、理数系や社会科の授業の一部は興味の対象外となっていた。生徒の多くは国立を目指していたが、社会科と理科の選択の偏りは見られ、私のクラスでは物理と政治経済が最も人気のない授業であった。

 3年生になると、教科を選択しない生徒には、授業中の“自習”が黙認された。それらの人気のない教科の学期試験では、卒業するのに最低必要とする40点を取らせるために、くだらない問題が出されたものだ。物理の試験では、40年前のこと故記憶は正確でないが、「お酸子ちゃん(体重xxキロ)」が「お水子ちゃん(同〇〇キロ)」をおぶって体重計に乗ったら何キログラムになるか、というような駄じゃれにもならない問題が出されて、あまりのくだらなさに「反抗心の塊」であった私がでたらめを書いたら教員に呼び出されて「そういうのを親の心子知らずと言うのだ。今度やったら赤点だぞ!」と油を絞られた。

 私のクラスでは、不人気の授業が、ほとんどの生徒が無視する中、淡々と一年間続けられていた。私はそんな空疎極まりない雰囲気の中で授業を進める担当教師を「生活のために自分を押し殺す最低の教員」と軽蔑していた。

 ある時、政治経済の教師である私の担任Tが自らの授業に教育委員会が視察に来ることを告げた。視察団の前で模範授業を行うのだと言う。クラスの中で政治経済を受験科目にしていたのは、私の他にはいなかったように記憶している。だから、通常授業を熱心に聴いているのは実質的には私だけであった。ところが、私は授業中、Tの教えるのを静かに聴いている方ではなく、常に彼の教え方や知識不足に対して難癖をつけていた。早い話が、私はその教師の嫌われ者であったのだ。

 Tは、視察のためにだけ模範授業の予行演習まで行なった。綿密なシナリオが作られた模範授業は普段の授業とはまるで違う内容であった。「模範解答」をする役を仰せつかったのは、いわゆる優等生。だが、彼は「東大一直線」タイプの生徒で、受験科目以外の授業など、普段は「時間の無駄」と注意を払うことすらしなかった。

 私は予行演習が終わった後、「俺はあの授業をぶっ壊してやろうかと思う」と何人かの友達に相談した。「内申書に何が書かれるか考えろよ」と諭す者と「俺もお前を後押ししてやるよ」と背中を押す者に意見は割れた。背中を押してくれると言ってくれた友達には、彼らを巻き込みたくなくて「俺一人に好きにやらせてくれ」と釘を刺した。

 数日後、いよいよその時がやってきた。視察団が教室の後ろに並ぶと、シナリオどおりに授業が進められていく。私は大人しく“模範授業”が終わるのを待っていた。

 授業が終わると、ぞろぞろと視察団が出口に向かい動き始めた。

 「教育委員会の方たち、こんな授業で何か参考になるんですか」私は立ち上がるなり声を上げた。そして、T教師がこの日のために予行演習までして実態とかけ離れた授業をしたことを告げた。

 Tは顔を真っ赤にして「心外だ、心外だ」とうろたえた。そして、言い訳をしよ
うとした。

 視察団は何事もなかったように静かに教室を出て行った。

 この問題は、停学処分を覚悟した私を肩透かし。私はその後、学校側から呼び出されることも処分されることもなかった。ただ、大学受験の内申書には、担任であるTの「仕返し」がハッキリとした形で記されていた。政治経済の評価は、ほぼ満点を試験で取っていたはずだが、5段階評価の3。私の人格の評定も、「協調性」から「自主性」まで10項目ほどあったと思うが、見事に最低評価が並んでいた。

 今回の出来事に、私の40年前もの経験を披瀝しても何の参考にならないと考えられるかもしれないが、私の目には、文部科学省から教育委員会、そして、教育現場までもがこの半世紀の間、何ら変わっていないように見えてしまい、黙っていられないのだ。もちろん私の投じた一石など、教育界に影響を与えるどころか、記録にもとどめられていなかっただろう。

 マスコミのカメラの前にただただ頭を下げ続ける人たちを見ていて、思わず40年前のことを思い出したが、それにしても可哀想なのは、これまで学校側の(受験)実績作りに振り回されてきた生徒たちだ。聞くところによると、これから卒業までに、今までの「ツケを払わされる」という。具体的には、休みの日や放課後を使って行なわれる授業を受けねばならぬらしい。

 これから受験の追い込み態勢に入る生徒に何の責任があるというのだろう。どう考えても彼らに落ち度はないはずだ。この問題の責任を取らねばならぬのは、教育委員会や学校側ではないのか。教育委員会や学校側の幹部はカメラの前で世間に謝るのも結構だが、まずは、生徒たちに謝るべきだと私は考える。

 また、このところ連続して明らかになっている、イジメ事件の隠蔽工作を見ても、問われるのは、体制側のそういった「臭いものに蓋」「見て見ぬフリ」体質であることは誰の目にも明らかだ。抜本的な教育制度の改革が叫ばれて久しいが、この辺りから掘り下げていかないと、しばらくすればまた元の木阿弥になりかねないだろう。

 では、安倍内閣の肝入りで始まった「教育改革」に期待を寄せられるかというと、それは無理だろう。ずらりと並んだ委員の顔ぶれを見ると、どの御仁も本気
で教育問題に取り組む方たちではない。「教育の専門家」と言うよりも、どちら
かと言えば、マスコミ受けするパフォーマンスを得意とする人たちの集まりに思
えてならない。

 教育が「国の骨格を形成する」と本気で思うのなら、「美しい心」とか、「国
歌斉唱」などをスローガンに掲げてその下に集わせるなどといった「魂不在」の
やり方ではなく、遅きに失したとはいえ、教育現場の抜本的な改革に正面から取
り組む正攻法で挑むべきだ。親たちも、目の前の受験に左右されるのではなく、
子供たちを将来、少しでも暮らしやすい社会に送り出したいと考えているのであ
れば、体制側にいい意味での圧力をかけていくべきだと考える。
 

男泣き

2006-10-28 02:22:34 | Weblog
 日本ハムファイターズが優勝。最後の試合で、新庄選手が泣いた。彼の男泣きにもらい泣きした人も少なくなかっただろう。

 それにしても、今年は男の涙をたくさん見る年だ。何かと言うと、男たちがTVカメラの前で泣く。

 昔から日本男児はどんなことがあっても人前で涙を見せることはなかったはずだ。ホント、ここまで日本の男は軟弱になったのかと嘆き、ここで一つ「男泣き」について書いてやろうと腕まくりしたが、はたと気が付いた。

 そういう自分が人一倍涙もろいのだ。スポーツに感動して瞼を熱くし、親子愛を見せ付けられて「わざとらしいよ」と言いながら涙を浮かべる。そして極めつけは、子供や動物の悲劇だ。私はこの種の話になると、無条件で涙腺が緩んでしまう。

 そこで考え方を変えた。「男も泣きたけりゃあ素直に泣こうぜ」と。だから御同輩もこれからはあまり無理せずに気楽に泣きましょう。

三日坊主

2006-10-26 10:09:26 | Weblog
 23歳の若者が久し振りに顔を見せた。

 大学を中退し、自分の夢を実現したいと通い始めた専門学校も通う気が失せてしまった。そんな自分が嫌になり、これまで支援してくれた親に対して顔向けができず、死にたいとまで思い悩んでいたという。

 私に会う前、両親に心の内を打ち明けて理解されたとのことで表情に深いかげりはなかったが、一人暮らしの栄養不足も手伝い、頬はこけていた。

 昼飯を食べながら話を聞いていると、「だらしない」自分へのやるせなさと、もうやり直すには遅いのではと焦る気持ちを強く感じた。

 「見切りの付け方の速さ」に関しては、私の右に出るものはいないだろう。「だらしなさや怠け癖」についても同様だ。

 私は「3日で大学を退学し、数ヶ月で『大宅壮一東京マスコミ塾』をやめてしまった自分の例を引き合いに出して、彼に「やり直し」は何度だって許されるという持論を説いた。

 怠けてしまうことについても、私の煩悩の多さや怠け癖を正直に吐露して、自分を死に追い込むようなことではないことを話した。「三日坊主、大いに結構」論も彼に紹介した。

 私は子供の頃から周囲に「お前は三日坊主だ」と言われ続けた。そして、自分も一時期、そう信じていた。だが、ある時、自分を見つめなおしていた時、「確かに幾つかのことで、三日坊主だったが、そうではない事もたくさんある。言いたい人には言わせておこう」と“開眼”、それからは三日坊主と言われる事が苦にならなくなった。

 だから、若者達には「やってみようと思ったら前に進んでみよう」「嫌になったらやめてもいい」と、自分のやりたいことに臆病にならずに、まずは挑戦してみる大切さを強調する。そして、周りから三日坊主と言われる事を気にかけるなと説いている。ただそれには一つだけ条件が付く。失敗したら、そのことに正面からもう一度向き合って問題点を探る努力だ。それは、5年後、10年後、必ず自分にプラスになって返ってくるからだ。

 私は20代の頃、大げさに言えば、やることなすこと全て上手くいかず、「何で俺の人生はこんなに失敗の連続なんだ」と嘆いていた。ただ、無意識ではあったが、負けず嫌いも手伝って失敗したことの「検証」を怠っていなかった。それが、30代に入って良い結果をもたらすことにつながったと信じている。

 彼の場合も、大学を中退したり、専門学校に嫌気が差したからといってそんなに悲観することではない。コンビニで働き自活していることからして生活力はある。自分の描いていた理想や親の期待したレヴェルとは程遠いかも知れぬが、人に後ろ指を指されることではない。また、将来の夢が消え失せたわけではない。だから、やり直しは何度でも許されるのではと話した。

 彼にどれだけの気持ちの変化を与えられるかは分からないが、別れる時は明るい笑顔であったから私の話から何かを感じ取ってくれたように思う。「青春とは悩むことなり」とは、若かりし頃、酔っ払った大人から言われた言葉だが、去り行く彼の背中に聞こえない小声でそっとかけておいた。

謝罪

2006-10-25 11:47:21 | Weblog
 「玄人好み」と題した小文で、日本シリーズにおける中日ドラゴンズの「4勝1敗で優勝」との予測を書きましたが、“見事(?)”に外れました。ほとんどの読者は、読み飛ばしていたとは思いますが、中には私の“眼力”を評価している人もいたかもしれません。

 落合監督らしからぬ采配ミスなど言い訳したい部分は幾つかありますが、この際は、そんな御託を並べるよりも、それを含めて予測を誤った私の非を皆さんに謝罪すべきだと思います。申し訳ありませんでした。

訴える力

2006-10-24 09:45:24 | Weblog
 先日、都内のある駅前を歩いていた時のこと。10代後半と思われる男性が一人で大きな声を張り上げて通行人に窮状を訴えていた。恐らく長時間声を出し続けているのだろう。声がかすれている。

 彼の訴えている内容は、父親を失いながらも一生懸命自分を育ててくれている母親の姿だ。恐らく「あしなが育英会」だろうと思って近付くと、のぼりと募金箱に「あしなが」とある。あしながは、御存知のように、病気や災害、自死(自殺)で親を亡くした子どもたちを物心両面で支える民間非営利団体のことだ。

 あしながと言えば、ある程度の人数が固まって活動をしている印象を持っていた私は、“一匹狼”で頑張っている姿に心を動かされた。それと、彼が持つ行き交う人たちに訴える力に魅かれた。

 私が彼に気付いた時から彼に近付く通行人はいなかった。私も街頭募金に関しては、何度も街角に立っており、こういう光景は看過できない。彼の前に立ち、ねぎらいの言葉と共に募金箱に献金した。

 「ありがとうございます!」と予想以上に大きな声で、彼は頭を下げた。

 「彼の訴える力に通行人が応えていない。なぜ誰も募金に協力していないのだろう?」と私が思ったのは、ただ単なる私の勘違いであることがすぐに判明した。

 しばらく立ち止まって彼を観察していると、私の後から次々に彼の募金箱に「志」を入れていくのだ。こんなに人気のある街頭募金風景は、滅多に見られるものではない。私の経験で言っても、あの阪神大震災直後の時に見られたくらいで、他にはない。

 彼が通行人をひきつけているのは、彼の肉声で話す自らの体験を語るメッセージ性であった。それも、母親と自分のことだけを簡潔にまとめて話している。私は自分が街頭に立つ時を思い起こしてみた。彼に比べて問題にならないほど劣っていることが分かった。

 駅舎に入ると、そこでも二人のあしながのメンバーが募金活動をしていた。だが、こちらの方に注目する通行人はほとんどいない。確かに、その内の一人の若い女性も自分の話をしているのだが、訴える力がないのだ。

 私は「ピース・メディア塾」を主宰して「訴える力」の重要性を教えるが、その夜は、逆にその若者に教えられた思いがした。
 

 

「あの日」から2年

2006-10-23 14:27:13 | Weblog
 中越地震から今日で2年。あの悲惨な被害をもたらした大地震も、今では日常会話で語られることはほとんどなくなり、それだけではなく我々の記憶からも消えようとしている。

 仮設住宅には今も5000人を超える被災者が希望を見出しにくい環境の中で生活をしている。被災地を訪れると、倒半壊した建物の多くは町から姿を消している。表面的には被災者が抱える苦しみは見えてこない。だが、私が仲間と現地支援した時の拠点となった小千谷市の極楽寺の麻田住職によると、今も被災地では、震災にあった方たちが言葉にあらわせられないものを抱えているとのこと。

 そこで心配になるのが、仮設住宅や倒半壊した建物で暮らす独居高齢者の存在だ。阪神淡路大震災では、仮設住宅だけで250人を超える孤独死が報告されている。私も現地を歩く内に寂しい孤独死の現場に居合わせたことがある。

 幸いなことに、中越地震では昨年1,2件の孤独死が明らかにされて以後、その種の報告はない。だが、新潟の地域性を考えると、人知れずこの世を去る人がいる可能性は充分にある。その辺りの情報を求めて先ほど新潟県庁に問い合わせてみた。ところが、残念ながら県庁では孤独死は問題にならないとみていたようで、特別な調査もしていないし、その種の統計もないという。「事実」が埋もれていなければいいがとの思いで受話器を置いた。

玄人好み

2006-10-23 09:54:21 | Weblog
 今、日米で野球界の「一年の総決算」が行なわれている。アメリカでは「WORLD SERIES」、日本では「日本シリーズ」だ。

 「WORLD SERIES」には、マツーイもイチローも出ておらず、日本の野球ファンの間では盛り上がりに欠けている。だが、そんなことを言うことなかれ。セインルーイスの田口壮が出ている。彼は守備要員とされているが、打撃に関してもそのバット・コントロールの巧みさは、それこそ世界レヴェルだ。

 第一戦でも、ヒットにならずに見逃されがちだが、打者を進塁させるという役割を忠実に果たした。

 それは、まだ両ティーム共に得点していない三回無死一塁の場面であった。一塁走者が投球と同時に二塁に向けて走り出した。打者・田口の身体の動きを見れば、明らかにヒット・エンド・ランのサインが出ている。だが、投球は外角に大きく外れていく。ここで見逃したり、空振りをすれば、相手側の捕手は、米野球界屈指の強肩だ。下手をすれば、盗塁失敗に終わってしまう。

 田口はバットを投げ出すようにして球に当てた。そんな打ち方だから結果は凡ゴロだ。だが、一塁走者は難なく進塁して先制点につながった。このプレイは、「玄人好み」と言えるものだ。

 玄人好みといえば、日本シリーズに出場する、日本ハム、中日の両ティーム共、地味で野球好きを唸らせるプレイを見せることが多い。だが、マスコミからすると、話題性に乏しいティームの組み合わせだ。唯一の“救い”は、新庄選手位だから、話題は彼の一挙手一投足に集中する。

 だが、野球好きとして言わせていただくが、どうか大人しく試合を観て目の前に繰り広げられる好プレイを満喫していただきたい。両ティームの監督が繰り出す作戦の妙、豊富な練習に裏打ちされた「なんでもない好プレイ」等など、野球の醍醐味そのものと言える見どころ満載の対戦だ。

 私が今回応援するのは中日ドラゴンズ。それは、私が愛知県出身だからということではなく、「野球の本質」を知り尽くした落合監督の采配が好きだからだ。勝敗予想は、中日の4勝1敗。昨日の時点で1勝1敗だから無謀とも言える予想だが、2戦を終えて相手ティームの短所長所を見抜いた落合監督が今後絶妙の采配を振るいそうな予感がするのだ。しかし、あくまでも、お気楽な身びいき予想だ。お仲間との「おごる・おごらない」賭けには使わないでいただきたい。
 

かわいい、かわいい

2006-10-23 01:24:26 | Weblog
 パートナーの直子が、「写真を撮ってもらおう」と言った。とても気に入った写真家がいるから二人の写真を撮ってもらいたいと言うのだ。2年前から「撮ってもらうとしたらこの人」と決めていたと言う。

 彼女の想いは良く分かる。少々の照れもあったが、お願いすることにした。そして今日、その「X-DAY」を迎えた。

 直子は楽しいことがあると、何日も前から、いや時には何週間も前からテンションが高くなる。一日に何度もそのことを口にする。これが、彼女の「楽しみ」のバロメーターで、最高レヴェルの楽しみだと、一日に20回30回と心のときめきを言葉にする。今回の撮影に関しても、一ヶ月以上も前からほぼ毎日、聞かされた。また、一日に何度もやり取りするメイルにも登場した。

 前の晩も買ってきた服と手持ちのものを幾つか着替えて「ああだこうだ」とファッション・ショウ状態。

 そして、朝早く起きると、弁当の用意を始めた。撮影が公園で行なわれるから撮り終えたら芝生の上で弁当を広げようと言う。そんな遠足に出かける子供のような彼女を見ていて私もいつしか楽しくなってきた。

 早起きしたはずなのに、いつものごとく時間がなくなり、結局握り飯は私が握る羽目に。ただ無骨な私がやることだ。握り飯はいびつな形にしか握れぬが、ほめ上手な直子に乗せられてナントカ形を整えた。そして、二人はアタフタと慌ただしく出発した。

 電車を乗り継ぎ、着いた先は西東京の野川公園。この公園は、小金井、三鷹、調布の三市にまたがる欧米の公園を想起させる大きな自然公園だ。日本の公園によくあるいろんな機具を置いたり、造作したりというものではなく、雑木林が延々と続く、文字通りの自然公園だ。

 バスを降りると、そこには今日お世話になる写真家、橋本和典さんがにこやかな表情で待ち構えていた。写真家と言っても、読者の皆さんが想像されるような、テレビ・ドラマなどに出てくるいでたちのカメラマンではない。橋本さんはママチャリにカメラバッグを積み、くたびれたTシャツ姿に身を包んだおじさんだ。

 しかし、これがこちらの安心感を誘う。公園に向かう途中、また着いてからもしばらくは雑談をしながら我々のことを少しずつ尋ねてくるが、この御仁、何か安心して色んなことが話せる雰囲気を醸し出している。

 彼の撮影の意図もきちんとこちらに説明してくれる。そして、写してはそれを見せながら被写体をほめる。それもミエミエのほめ方ではなく、こちらが「そうかな?自分って意外にイケテルかも?」と思わせる程度のほめ方だ。

 これに嬉しくなったのが、私ではなく直子の方だ。誰が見ても不細工な私を、結構イケテルと勘違いしている彼女は、普段から私をほめまくるが、この時は、橋本さんのほめ言葉にさらに図に乗って、来年還暦を迎えるオヤジを捕まえて、「かわいい、かわいい」を連発した。その姿は、富士フィルムのTV広告の樹木希林を想像していただければ分かりやすいだろう。

 カメラのモニターに再現される私の画像を見て、「かわいい」を直子が連発するのにつられた橋本さんまでもが、「かわいい、かわいい、これ、かわいい」と言い出したのには、私も呆れるやらおかしいやら。大笑いをしてしまった。

 急に笑い出した私に二人は驚いた様子を見せたが、私が理由を説明すると、二人も大笑い。雑木林の中に三人の笑い声がしばらく続いた。
 
 途中、持参した弁当を三人で食べ、その間にも自己紹介。

 橋本さんは、ナント今では珍しい4人の男の子の父親(私のHPの写真を御覧あれ)。カメラ会社に勤めた後、「青年海外協力隊」の一員としてモルディブやガーナに駐在し、写真技術指導してきたという変り種。写真技術も、写真専門学校に通ったとか、写真家に付いた経験はなく、全て独学だという。

 撮ってもらった写真を見ると、型にはまったポートレートとは違い、被写体の笑顔が自然であると同時に躍動感がある。

 気に入った。私は彼の写真に対する姿勢がとても好きになった。

 「年甲斐もなくかわいいと言われておかしくなった?」と思われるかも知れないが、(確かに全否定は出来ないが…)そうではなく被写体の良さを一生懸命引き出そうとする彼の姿勢が気に入ったのだ。

 結局、最初に言われていた「約1時間の撮影時間」が、優に3時間を越えて一緒にいたのは4時間以上になった。

 最後は近くの喫茶店でお茶を飲みながらお互いの趣味にまで話が及び、近く橋本さんのお宅に遊びに行ったり、彼が贔屓にしている音楽グループのコンサートにご一緒することになった。

 直子は帰り道、何度も飽きることなく「かわいい、かわいい」の話を口にした。それこそ20回30回ではきかなかったろう。結構込み合っていた電車の中でも、人目(耳?)をはばからず話す直子に奇異な目を向ける乗客もいたが、すっかり“洗脳”された私は、そんな目を向ける乗客が変だと思うようになっていた。

【筆者注】
 ぜひ、橋本さんの公式ホームペイジをのぞいていただきたい。特に私のお気に入りは、彼の家族の写真だ。
(http://www.kazufoto.com/)

 

7年間いじめ自殺はゼロ(!?)

2006-10-21 00:50:00 | Weblog
 小中学校での「いじめによる自殺」が後を絶たない。それを受けて、文部科学省が19日、全国都道府県の教育委員会の代表を集めて緊急連絡会議を開き、「統計上の数字(を減らすこと)より、実態把握と解決が優先」と出席者に要請した。

 これで、大きな進展を見せるとはとても思えないが、教育委員会が動き出すきっかけを作ったことは確かである。だが、これまで散々いろいろな形で、“隠ぺい工作”をはかってきただけに、教育委員会の体質が一挙に変わるとは考えにくい。マスコミも世論も、たとえここのところのいじめによる自殺の問題が落ち着きを見せても目を離さず、語り続けることが必要だ。教師や教育委員会は、世間の目が気になる人たちの集団だ。そうすれば、重い腰を上げる可能性も出て来る。

 それにしても、文科省の統計はひど過ぎる。公立小中高におけるいじめの件数が10年前の年間6万件から約3分の1の2万件に減少したとある。そして、「いじめによる自殺」にいたっては過去7年、連続してはゼロだ。教育現場に身を置くものであれば、それらの数字がいかに現実と乖離しているか、誰でもが分かること。よくぞ、抜けぬけとこんな報告を出し続けたものだと呆れて物が言えない。


北朝鮮でルーマニア革命の再現?

2006-10-19 23:57:25 | Weblog
 イラク戦争を扱ったドキュメンタリー映画『Little Birds』で知られる綿井健陽さんが、北朝鮮に入ったと今夜の『報道ステーション』は彼の現場報告を流していた。

 彼が送ってきた映像自体は、期待したほどの臨場感があったり、ニュース性があるわけではないが、いずれにしてもこの時期に北朝鮮に入ることに意味がある。彼の行動力に乾杯(と言っても、私は下戸)!

 映像に、アメリカ海軍所属であった艦船『プエブロ号』(USS Pueblo, AGER-2 935トン。乗員83名)の姿があった。プエブロ号は1968年、北朝鮮公海上で、スパイ活動に就いていた際、領海侵犯を理由に北朝鮮警備艇から攻撃を受けて拘束され、連行された。乗員1名が死亡、残る乗員82名が身柄を拘束された。

 その後、一年近く拘束された上で乗員は解放されたが、プエブロ号そのものは返還されず、現在も平壌市内の大同江で一般公開され、反米宣伝に利用されていると聞いていた。だから、特に、スクープ映像と言うわけではないが、私のようにヴェトナム戦争と共に青春時代を過ごしたといっても過言ではない世代にとっては懐かしい姿だ。

 ところで今、ヨーロッパのマスコミに、かつてルーマニアの独裁者として恐れられたニコラエ・チャウシェスク大統領と、金正日総書記が同系列に置かれ、金総書記もチャウシェスク大統領同様の運命を辿るのではないかとの見方が広まっている。チャウシェスク大統領は、軍事クーデターによって政府転覆され、夫人と共に公開処刑されるという末路を辿った人物だ。

 当時ソ連は自らの介入を否定したが、軍事クーデターを背後から操っていたのはソ連であることは誰の目にも明らかであった。

 この一連の報道の口火を切ったのは、サンデイ・タイムズ(英)紙だが、追随するメディアの中には、「中国が北朝鮮でルーマニア革命の再現を画策している」とするものもある。

 確かに、中国もアメリカを中心にした国際包囲網が予想を超えて厳しいものになれば、自らの立場を救うために金政権を切ることも考えられなくはない。

 いずれにしても、苦しむのは北朝鮮の民衆だ。その辺りの状況を見極めながら対処していかないと、取り返しの付かないことになる。飢餓に陥るのを「ゴロツキ政権を容認してきた罰」などと切り捨てることだけはすべきではない。