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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

頬っぺたが落ちる

2005-01-31 23:50:40 | Weblog
 立て続けに宅急便の配達人が荷物を持ってきた。
 1つは小倉から、もう1つは下田から送られてきた。
 小倉からの小包には辛子明太子が入っていた。送り主は、この欄にも本人の承諾なしに一度登場させた私の高校時代からの親友である。彼は時折り日本各地から名産品を送ってくれる。その場所を調べれば、まず間違いなくその地で競輪の大きな大会が開催されている。たまたま回したTVのチャンネルで知ったのだが、昨日も小倉では大きな競輪大会が開かれていた。
 そう、その男は読者の中には記憶にある方もおられようが、プロのギャンブラーなのだ。恐らく大穴でも当てたのであろう、小包の中には最高級(と思われる)の辛子明太子が鎮座ましましていた。「最高級(と思われる)」と書いたのは、あまり高級な明太子を食べた事がないので、私はそれが最高級と言い切る自信がないからだ。
 早速銀シャリを炊いて食してみた。家人も私も明太子が特に好物と言うわけではないが、シャリと明太子を舌に乗せた途端、2人して「なんじゃ、コレ?」。
 不味かったのかって?いや、美味すぎるのだ。こんなに辛子明太子が上手いものだとは2人とも知らなかった。競輪を馬鹿にした発言をしたりしたが、ここで改める。競輪も悪くないんじゃないかと?いや、大いにやるべきだと(!?)。
 下田からの小包からはパンが出てきた。私の弟子であった男がジャーナリズムから「足を洗った」後、行きついた先が「食の文化」。しかも、マクロビオティックなどというお年寄りに言わせたら舌をかみそうな世界に入っていった。将来、福島でパン工房を開くため今は修行の身だが、夫婦して朝早く起き、天然酵母パン作りをしている。
 これまでに何度か食べさせてもらったが、このパンの美味さは格別である。噛めばかむほど材料一つ一つの味がじっくり舌に伝わってくるのだ。私にその美味さを表現する文章力はないが、王道を行く重量感のある美味さとでも言おうか、とても食べることの喜びを味あわせてくれる。
 私は格別、グルメと言うわけではない。と言うか、そんなカネもないのだが…。
 だが、こんな美味しい食べ物に出会えた時、頬の筋肉が思い切り弛緩していくのが分かる。「頬っぺたが落ちる」とはまさにこのことを言うのだろう。美味いもの、バンザイ。

カルチュア・ショック

2005-01-28 01:17:25 | Weblog
 これまで何度か登場した「武蔵坊」。昨日遅い昼飯を食べようと、店に行くと、店長が私の顔を見るなり、「素晴しいものを紹介していただきました。ありがとうございます」と言う。
 ところが忘れっぽい私は相手に気付かれぬように記憶の糸を手繰り寄せるが思い出せない。すると、それを察したか、店長は私の健忘症を気にする様子はなく、食べた五平餅がいかに素晴しかったかを語り始めた。そこで私は、以前店で郷里のある店の五平餅の味自慢をしたことを思い出した。
 味自慢をするくらいなら、注文して送ってやればいいものを、私は言いっ放しで、しかも話したことすら忘れていた。
 そんないい加減な客が紹介した食べ物を彼らはわざわざ岡崎から取り寄せたらしい。
 店長は、ミソダレの美味しさをひとしきり褒めた後、あの串と言うか塗りつぶしたご飯を貼り付ける縦長の薄い板に使われた杉の香りとのハーモニーを「カルチュア・ショック」とまで言って絶賛した。
 私は彼らの食に対する真摯な姿勢にほれ込んでいる客の1人だが、いつぞや「カルチュア・ショック」が彼らの手によって進化して武蔵坊のメニューに加えられることを楽しみにしている。

腕立て伏せ

2005-01-21 01:10:09 | Weblog
「98回まで出来るようになりました」
 私の最年少の弟子である加藤慧がそう報告しながら腕をまくった。
 慧は今高校3年生。大学受験真っ只中の18歳である。彼と私との出会いは、彼がまだ母親の腹の中にいた頃だから約18年前のことだ。小さい頃から私のところで英会話の勉強も始め、10代になるといつの間にか「ジャーナリストになる」と言い出した。
 中学2年までは「小学生?」と言われるほどの小柄で可愛い坊やであった。しかし、師匠の「君は中2になったら背丈が急に伸びる。俺を信じろ」と口から出まかせに発せられた言葉を信じた彼は、本当に14歳から急に背が伸びだし、今では180センチ近くの長身になった。それを見て私は、「これが信じれば通じるということだ」等と訳の分からないことを言っている。最初は私の“予言”を信じたかに見えた彼だが、それでも最近は大分おつむの方も成長してきて、私が「最近は君に見下ろされているな」と言うと、「見下ろしても見下してはいませんから」と口答えが出来るようになってきた。
 しかし、急に背丈が伸びたせいか、鉛筆のようにひょろ長いだけで力強さがない。当然のことながらただでさえ腕っ節の強い師匠には到底かなわない。そこで私は、「昔話をして自慢をするとは俺も焼が回ったかな」と思いつつも自分の中学生の頃の話をした。身体を鍛えようと、腕立て伏せを毎日欠かさずして、それも一回ずつ増やしていき、100回までできるようにした経験を話した。
 その後、母親から「なんか毎日腕立てをやっているようですよ」との話は聞いていたが、どこまで続くかなと半分は懐疑的に、しかし続いたら嬉しいな、頑張れよと思う気持ちが半分と複雑な気持ちで見ていた。
 まくって見せてくれた二の腕はまだまだ師匠のものには遠く及ばぬが、明らかに力強さを感じさせる青年の腕になっていた。若者の成長を見る楽しさを味わわせてもらう我が人生に乾杯! 

47日坊主

2005-01-20 13:01:17 | Weblog
 この欄を愛読いただいている方ならすでにご存知だが、私は昨年12月10日から「冷水摩擦」を毎朝行なってきた。「きた」としたことでお分かりになろう。そう、1月16日をもって私は皆さんのご期待に応えて(?)冷水摩擦を止めてしまったのだ。
 最初は、冷水で絞ったタオルで身体全体を肌が真っ赤になるまで摩擦していた。これがまことに快適であったが、肌にとってはよろしくなかったようだ。まず、「キスマーク疑惑」を引き起こし、ついでは身体の各所が蕁麻疹のようになってしまった。どうやらそれは年齢的なもので、ただでさえ油分の分泌が少ないところにそうしてタオルでゴシゴシやったものだから肌が悲鳴を上げたらしい。
 そこで今度は、ならばと冷水かぶりを始めた。これがなかなかよろしい。風呂場から出てきても身体がほかほかと温かいのだ。外に出ても寒さ知らず。コートも着ないで自転車で走り回っていた。
 それがここ数日、身体の変調を感じ始めるようになった。寒気がして、鼻と喉の奥に違和感があるのだ。そう。風邪の初期症状である。「冷水摩擦=風邪知らず」との信仰が崩れた瞬間だ。私にとっては、人類が「地球は平らではない」と知った以上の衝撃であった。そして、47日間の“修行”は終わりを告げた。
 しかし、よく考えてみれば、風邪を引くのは当然かもしれない。隣には常に寄り添うパートナーが2ヶ月間、鼻をグスグス、咳でゴホゴホやっている。彼女が残した食べ物も平気で食べていた。なにのろけてるかって?そう、結局はそれを皆さんに言いたかったのだ。

明るい頑固者のススメ

2005-01-19 10:51:22 | Weblog
 日本から「頑固さ」が消えてきています。頑固親父だけではありません。社会構造そのものから頑固さが消えかかっているのです。
 頑固とは、屁理屈と勘違いされそうですが、そうではありません。温故知新の温故の部分を言うのです。社会の屋台骨、根幹を形成する基本理念を指しています。ただ、頑固さを大事にするからといって「過去に生き」ていたのでは仕方がないですね。過去にこだわるあまり、新しきを受け入れられないというのでは、「過去」に縛られて堂々巡りしているただの守旧派です。
 上は憲法から下は日常生活の躾・マナーまで、今の日本では「何が正しいのか、間違っているのか」社会全体が見えなくなって迷走しているかのように見えます。「平和憲法を守ろう」と主張すれば、“危険人物”と言われ、「半額の運賃しか払っていない子供を、それも優先席なんかに座らせんじゃない」と注意すれば(もちろん、そんな強い言い方はしてませんよ)、親に逆切れされます。今の世の中を観れば、そういったことだらけです。でも、それを見て見ぬフリをする大人のナント多いことか。しかも、そういったことに声を上げる私を、何か間違ったことをしているかのような視線を向ける人たちもいます。「正しい事が正しいと言えない世の中」ほど不自由なものはありません。
 マナー1つとっても、混んだ駅での喫煙、駅前の歩道の駐輪、電車内での携帯電話等など、目に付くことは山ほどあります。私は、その中のほんの一部、目に余る行動だけ「マナーを守ろうよ」と声がけをしています。でも、注意をした相手に逆切れされることも少なくありません。警察沙汰に発展したこともあります。今までは何とか無事でしたが、将来、下手をすれば相手から傷害を受けることもあるでしょう。でも、私はこういった行動をやめるつもりはありません。
 そこで、お願いとススメです。これをお読みの皆さんの中にも、街で不快な思いを持ったり、嫌な経験をした方は少なくないと思います。皆さんも、私と同じように声を上げてみませんか。「『ダメなものはダメ』と声を上げる」人たちが多くなれば、空気は絶対変わっていきます。「世直し」等と大げさなことを言うつもりはありませんが、「この指、とーまれ」、一緒にやってみましょう。

“小娘”に教えられる親子の情愛

2005-01-15 01:28:26 | Weblog
 昨日、宅急便が届いた。母からパートナーに宛てたものだ。前日、不在票を見て眼を輝かしていたから帰って来てそれをみたら喜ぶだろうと思っていた。普段からそれがたとえ封書でも葉書でも私の母からの物には異常に反応するからだ。16日が彼女の誕生日だから中身の察しは大体ついていた。
 夜、駅で待ち合わせて帰宅したが、彼女は私の顔を見るなり届け物を受け取ってくれたかと聞いた。確認すると急ぎ足で家に戻った(お陰で駅前の喫茶店の前に止めていた自転車を忘れてきてしまった)。そして、家に帰るなり小包に飛びついた。小包を解く手が寒さでかじかんで上手く開けられぬと私に開けるようせがんだ。
 中からアクセサリーと手紙、それに数センチ四方の何か小さな四角い紙包みが出てきた。私は近くにあるコンピューターに向かい、メールのチェックをしていた。すると、奥から嗚咽が漏れてきた。覗き込むと、手紙を手にして彼女が泣いていた。涙をぼろぼろ流しながら送られてきたネックレスを胸に当てて私に似合うかと聞く。見ればそんな高価ではないネックレスだ。もっとも母は退職して年金生活だ。そんなに高いものが買えるはずはない。精一杯の買物をしてくれたのだろう。
 さらに、小さな四角い紙包みを開けると、彼女の頬は涙で洪水になった。母が自分で折ったのだろう、ちょいと角が不揃いの小さな紙箱に二つ金平糖がちょこんと入っていた。紙箱の表には「直ちゃん」と書いてあり、それが嬉しいと言う。私宛のモノにも「久仁臣」と記されている。子がいくつになろうと母にとっては、子供なのだ。
 こんな優しい母の「顔」は生まれてこのかた見た事がない。これもパートナーの心根の優しさに触発されたのだろう。私の子供の頃には「鬼」のように見えた母の顔も今では余裕のある表情だ。私とパートナーが「親子の年の差カップル」ということで、彼女がかわいそうだと最初は猛反対をした母だが、今ではすっかりパートナーの優しさの虜だ。一方、パートナーも母が大好きなようで、俳句の添削をしてもらったりしている。
 私はこの歳になって、それこそ“小娘”に親子の情愛に初めて触れさせてもらった気がする。ホント、私のような人間はいくつになっても教えられることばかりだ。

雪国 駒子との“出会い”

2005-01-12 00:56:21 | Weblog
 越後湯沢に着いた我々はその夜、「雪国の宿 高半ホテル」に泊まった。
 予約してあったのだが、ホテルに着いた時は、「食事タイム」はほぼ終わり。大広間にはまばらにしか客の姿がなかった。それでもあるレヴェルの食事が出てくるものと、すきっ腹を抱えてお膳の前に座った。ところがその瞬間、我々の眼は膳に並べられた数々の料理に釘付けとなった。それほど素晴しい料理?いやいや全く逆である。刺身は、これ干物?と言いたくなるくらい乾燥し、ブリの照り焼きは、照り焦がし状態。てんぷらは、ころもが鎧と化し、クリーム煮は干ばつの田んぼのようであった。酢の物に至っては、ああ、思い出すだに腹立たしいほどの状態。何とか口に運べたのは、鍋物と味噌汁、それに漬物くらいであった。
 設備の悪いのも気になった。あちこちの壁紙がはがれ、窓ガラスの結露防止用に貼られた和紙はシミだらけになっている。畳は擦り切れた部分が目立ち、階段も汚い。エレヴェーターに滅多に乗らない私だから当然階段を上り下りするのだが、ひとつの方は客の往来がないらしく、そこには大広間から下げられた膳や皿が所狭しと放置されている。またもう一つの階段のところには、UFOキャッチャーや古いパチンコの台が置かれている。部屋に戻って敷かれた布団を見ると、昔懐かしい、重くて堅いやつだ。
 まあ、今さらホテルを移動するわけにもいかないので、“口直し”に、ホテルの売りである温泉を楽しむことにした。この温泉に関しては、まあ、可もなし不可もなしといったところか。
 風呂を出たところに「ミニシアター」があった。上映されているのは、「雪国」であった。もちろん、川端康成が書いた、“あの”雪国だ。どうせ大したことはなかろうと、誰もいないミニシアターに身体を入れた。途中から加わったパートナーがまず言った。「結構私、この映画好き」。
 21世紀では考えられないゆったりした時の刻み方と、もったりとした言い回しは観始めた時は、違和感があったが、時間が経つにつれ身体に馴染んできた。駒子の奔放な生き様も何か惹かれるものがあった。観ている内に、2人とも「駒子の世界」にはまっていった。映画を見終わった後、どちらからともなく「本を読んでみようか」と言った。私は若かりし頃、本を手に取ったが、20ページも目を通さなかったように記憶している。
 恥ずかしいことに、この高半ホテルが「雪国」ゆかりの旅館だとは知らなかった。高半ホテルの前身である「高半旅館 長生閣」に川端が逗留して雪国を執筆したとのことなのだ。しかも、駒子には実在したモデル「芸者松栄」がおり、川端がその松栄と長生閣で逢瀬を重ねたという。ホテルには、川端が松栄と共に時を刻み、執筆した部屋「かすみの間」がそのまま保存されていると言う。その夜、2人は「駒子」の話題で盛り上がった。
 翌朝、食事をそそくさと終えた我々は、かすみの間に向かった。ゆかりの部屋は広さ8畳の何の変哲もない和室であったが、昨夜いろいろこの話題に花を咲かせたことも手伝い、えもいわれぬ感慨があった。2人はしばらくこの部屋から動かなかった。部屋から見る景色も、新幹線や高速道路を空想で消してみると、絶景であった。部屋を出る頃には、昨夜あれほど腹立たしかったホテルの食事や設備のことを笑って許せるようになっていた。恐らく、先代あたりが、戦後の「雪国ブーム」に乗って大規模にしてしまったのであろう。その、今では大きいが故に身動きが取れなくなったであろうこのホテルが、滑稽ではあるが、何か物悲しさを漂わせるように見えてきた。
 自宅に帰ったわれわれは自転車を飛ばして近くの図書館に行き、文庫本と全集を借りてきた。もちろん、文庫本のタイトルは「雪国」。全集は、川端康成全集である。

雪国 無口な人々

2005-01-11 11:01:07 | Weblog
 国境の長いトンネルを抜ける前から雪国であった。朝の天井も、どこもかしこも白くなっていた。信号所に電車が止まった。そして、ずっと止まったまま動かなくなった。

 小説「雪国」をパロって書いたら、「ノーベル賞作家を馬鹿にするのか」と文学ファンから叱られそうだが、そう、乗った電車が積雪で動かなくなってしまったのだ。

 1月9日、新潟中越地震の被災者の聞き取り調査に出かけようと、朝一番の電車に乗り小千谷市に向かったのだが、ナント3駅前の小出駅で止まってしまった。1時間が過ぎても動き出す気配はない。「運行の見通しが立たない」と乗務員が言うから安心して“朝のお勤め”に駅のトイレに行った。“すっきり気分”で電車に戻ろうと改札口にさしかかると、乗客が目の色を変えてこちらに殺到してきた。駅員に何ゴトかと問うと、電車は動かせる見込みが立たないので代行バスを出すことにしたと言う。

 私も駆け足で電車の座席に戻ると、同行したパートナーが不安そうにしていた。聞くと、数分前に車内アナウンスで「代行バスを手配している」と知らせたものの「乗務員が手配できていない」と言っていたのですぐに移動することはないだろうと高をくくっていたら、すぐに「バスが来た」と告げたそうだ。
 
 荷物を取って我々もバスに乗ると、2台のバスはすでに乗客でいっぱい。座るどころではない状況だ。車に弱いパートナーの事が心配になったが、他に方法はないからバスのほぼ中ほどで立ったまま出発を待った。急がせたわりにはすぐに出発をせず、10分以上もそのままの状態が続いた。排気ガスが車内に入ってくるため、気分が悪くなってきた。

 バスは何の案内もないまま出発した。外は雪景色どころか、窓ガラスが曇っていて何も見えない。そう、まさに雪中行軍だ。パートナーが不調を訴えるが、何とかがんばれると言うのでそのまま乗車を続けた。他にも1人、30代の男性が腹を抑えてしゃがみこむ。大丈夫かと声をかけると変な反応をされたのでそのまま放置した。3,40分走っただろうか、バスが止まった。数人の乗客が降りた。乗客の会話から川口駅だと知ったが、バスの運転士からは案内がない。

 それまでの対応の悪さもあり、私は前に進み出て停車地の案内を車内でして欲しいと頼んだ。すると、自分は急に狩り出されて運転しているからそんなこと言われても車内放送の使い方も知らないし、できないと言う。いや、少し大きい声で後ろに伝えてくれるだけでいいと言うと、そんな声出せないとまるでやる気なし。周りの地元の客に同意を求めながらニヤニヤ対応する運転士に腹が立ったが私を応援する声もなく「駅名だけでいいから」と言い残して引き下がった。私の背中に「『次は小千谷に止まります。小千谷を出発します』とでも言えばいいんだろう」と茶化す客の声が聞こえた。

 小千谷駅に着いても車内アナウンスはなかった。もうこれ以上運転士にとやかく言ってもだめであろうと、バスを迎えた駅員に苦情を訴えたがこれまた無反応。

 調査を進める間に帰りの電車が心配になり、何度も小千谷駅に状況を問い合わせた。調査を終えて駅に戻ると、結局、昼から1本の列車も動いておらず、運転再開の見通しは全く立たぬという。翌日も調査を続けたかったが、小千谷に営業している宿はないとのことなので、ひとまず越後湯沢まで出た方が賢明と判断していた。

 駅員とのやり取りを聞いていた自称鉄道マニアの男性が我々に話しかけてきた。
「バスで十日町まで行ってそこからほくほく線に乗れば越後湯沢に行けますよ」と言うのだ。
 風貌的には少々胡散臭さがないとはいえなかったが、話の内容からして嘘はないと判断して、ありがたくその情報をいただいた。

 バスと電車の乗り継ぎも上手くいき、小千谷を出て約2時間後、我々は越後湯沢に着いた。「さすが、鉄道マニア」と、マニアの情報網に敬意に近いものを抱き、上手く脱出できた満足感も加わり、我々は軽い足取りで改札口を出た。その時背後から構内放送が聞こえてきた。「遅れていました上越線上り列車水上行きが間もなく到着します」。う~、聞きたくなかった。

新年のご挨拶と休刊のお知らせ

2005-01-01 11:17:12 | Weblog
謹賀新年

 新年、明けましておめでとうございます。
 昨年中は本HPをご愛読いただき、ありがとうございました。
 昨年末はひと月半ほど「おお風邪」に悩まされ、満足のいくHPの内容とは言えない日々が続きました。風邪を引かぬために始めた毎朝の水浴びも三日坊主に終わらずに、元旦の朝も気持ちよく実行できました。それを祝福するかのような快晴の元旦です(チト、地球が自分を中心に周りすぎ?)。
 本年は昨年にも増して充実した内容にしていく意気込みです。出来れば、現地取材も再開したいと強く願っています。
 どうぞ、本年も昨年に引き続き、「浅井久仁臣 私の視点」をご愛読下さい。例え小さな芽でも粘り強く育てて大きくしていくつもりです。そして皆さんも、少しでも参考になるものがあれば、周りに「その芽」を紹介してください。
 尚、本HPは開設以来、これまで年中無休でやってまいりましたが、正月三箇日はお休みさせていただきます。何か、大きな動きがあれば、その時は「緊急出動」いたします。
 では、皆さんも楽しいお正月をお過ごし下さい。

2005年元旦

本ウエブサイト主人
浅井久仁臣