ポケットに残されたコインを集めてラーメン屋に入った。ラーメンを待つ間、テイブルの下からスポーツ新聞を取り出して求人広告を見た。紙面を埋める募集広告を見て、仕事は何とかなりそうだと安心した。だが、その前に東京に住む叔父に相談をしてみようと思いついた。母親の兄弟は6人いたが、末っ子の彼とは5,6歳の年齢差しかなく、“アニキ”のような存在であった。
叔父の会社の名前は電話帳で苦もなく探せた。私は迷うことなく公衆電話から電話を入れた。彼にとって私の家出はまさに青天の霹靂であったに違いない。その口調から電話口で驚いているのが見て取れるようであった。だが、だからといって叱責したり取り乱すことなく優しく対応してくれた。その時叔父が違う態度で接していたら私は間違いなく職探しをしていただろう。今にして思えば、大学を卒業して東京の会社に就職して間がなく、自分のことだけで精一杯の彼には相当重荷に感じられたはずだが、嫌な顔一つせずに面倒を見てくれた。
当然のことだが、叔父からは家に帰るよう説得された。ただ、頭ごなしに説教をするのではなく、彼自身の父親との軋轢を話しながら私の心の内を真剣になって聞いてくれた上での説得であったから彼の言葉は私の耳に素直に入ってきた。
高ぶっていた気持ちも、次第に冷静さを取り戻すことができた。「岡村さんの弟子になるのだ」と言いながらもそんなあてがあるわけではなく、「弟子になれなくても自活できる」と言い張っていた私は、まさに支離滅裂であったに違いない。だから、下手をすれば、そのまま大都会・トーキョーに吸い込まれてしまったかもしれない。
ただ、家に帰っても母が珍しく涙を浮かべて「捜索願を出すとこだったんよ」と声を掛けてきたが、嬉しさよりも嫌悪感が先に立った。兄との距離も縮まることはなかった。
私は小さい頃から兄と喧嘩すると、逃げ出して父親の実家に救いを求めていた。伯父伯母は私には常に優しく接してくれ、大好きな人たちだった。だから苦しくなると、そこに逃げた。奈良の高校生も祖父母を慕っていたと聞くが、私には彼の気持ちが良く分かる。「逃げ場」が必要だったのだ。
そんな私にある時、親戚の一人が言った。
「くんちゃん、何でそんなに家出するの?お母さんを心配させて何が嬉しいの?そんなことしてると、受験勉強も疎かになるでしょう?東大に受からないわよ」
男の子は東大に行かなきゃ、と自分の子供には小学生の頃から徹底した受験体制を強いていた彼女には、私の行動が、甘ったれていて、なんとも歯がゆく思えたのだろう。だが、少年Aの心にはぐさりと深く刺さった。
「お前みたいなヤツは労働組合の幹部になるかヤクザの親分が一番向いとるな」
と言い放つ親戚もいた。教育者の彼には、私の言動が理解の枠を大きく超えていたようだ。
勉強への意欲をますますなくし、成績も下がり続けた。だが、私には多くの友人がいた。私の通っていた岡崎高校は地方の名門校には違いなかったが、伝統的に友達を大事にする校風がある。彼らの多くとは今も付き合いがあるが、友達の存在なくしては私は高校生活を続けられなかったであろう。奈良の高校生も、聞くところでは、かつては明るい人気者で友達もいたとのことだが、恐らく、最近は受験重視の空気が支配する故にそうなったのか、個人的な事情が重なったのか分からないが、交友関係は狭められていたとのことだ。
高校三年生の時だったと思う。放課後、校庭でスポーツに興じる私の元に同級生が伝達に来た。
「おにいさまが亡くなられたそうです」
私はその言葉を冷静に聞いていた。恐らく、私の顔は無表情であったに違いない。同級生は私の表情を見て「大丈夫?」というような顔をした。だが私の無表情は、ショックのあまりそうなるのではなく、本当に悲しい感情がこみ上げてこなかったからそうなったのだ。
「これで、次男の俺が母親の面倒を見なけりゃいけないんだな」
私はそんなことを思いながら職員室に行った。すると、死んだのは兄ではなく、祖父であったことが分かった。いや、私が同級生の伝達を聞き違えたのだ。
(続く)
叔父の会社の名前は電話帳で苦もなく探せた。私は迷うことなく公衆電話から電話を入れた。彼にとって私の家出はまさに青天の霹靂であったに違いない。その口調から電話口で驚いているのが見て取れるようであった。だが、だからといって叱責したり取り乱すことなく優しく対応してくれた。その時叔父が違う態度で接していたら私は間違いなく職探しをしていただろう。今にして思えば、大学を卒業して東京の会社に就職して間がなく、自分のことだけで精一杯の彼には相当重荷に感じられたはずだが、嫌な顔一つせずに面倒を見てくれた。
当然のことだが、叔父からは家に帰るよう説得された。ただ、頭ごなしに説教をするのではなく、彼自身の父親との軋轢を話しながら私の心の内を真剣になって聞いてくれた上での説得であったから彼の言葉は私の耳に素直に入ってきた。
高ぶっていた気持ちも、次第に冷静さを取り戻すことができた。「岡村さんの弟子になるのだ」と言いながらもそんなあてがあるわけではなく、「弟子になれなくても自活できる」と言い張っていた私は、まさに支離滅裂であったに違いない。だから、下手をすれば、そのまま大都会・トーキョーに吸い込まれてしまったかもしれない。
ただ、家に帰っても母が珍しく涙を浮かべて「捜索願を出すとこだったんよ」と声を掛けてきたが、嬉しさよりも嫌悪感が先に立った。兄との距離も縮まることはなかった。
私は小さい頃から兄と喧嘩すると、逃げ出して父親の実家に救いを求めていた。伯父伯母は私には常に優しく接してくれ、大好きな人たちだった。だから苦しくなると、そこに逃げた。奈良の高校生も祖父母を慕っていたと聞くが、私には彼の気持ちが良く分かる。「逃げ場」が必要だったのだ。
そんな私にある時、親戚の一人が言った。
「くんちゃん、何でそんなに家出するの?お母さんを心配させて何が嬉しいの?そんなことしてると、受験勉強も疎かになるでしょう?東大に受からないわよ」
男の子は東大に行かなきゃ、と自分の子供には小学生の頃から徹底した受験体制を強いていた彼女には、私の行動が、甘ったれていて、なんとも歯がゆく思えたのだろう。だが、少年Aの心にはぐさりと深く刺さった。
「お前みたいなヤツは労働組合の幹部になるかヤクザの親分が一番向いとるな」
と言い放つ親戚もいた。教育者の彼には、私の言動が理解の枠を大きく超えていたようだ。
勉強への意欲をますますなくし、成績も下がり続けた。だが、私には多くの友人がいた。私の通っていた岡崎高校は地方の名門校には違いなかったが、伝統的に友達を大事にする校風がある。彼らの多くとは今も付き合いがあるが、友達の存在なくしては私は高校生活を続けられなかったであろう。奈良の高校生も、聞くところでは、かつては明るい人気者で友達もいたとのことだが、恐らく、最近は受験重視の空気が支配する故にそうなったのか、個人的な事情が重なったのか分からないが、交友関係は狭められていたとのことだ。
高校三年生の時だったと思う。放課後、校庭でスポーツに興じる私の元に同級生が伝達に来た。
「おにいさまが亡くなられたそうです」
私はその言葉を冷静に聞いていた。恐らく、私の顔は無表情であったに違いない。同級生は私の表情を見て「大丈夫?」というような顔をした。だが私の無表情は、ショックのあまりそうなるのではなく、本当に悲しい感情がこみ上げてこなかったからそうなったのだ。
「これで、次男の俺が母親の面倒を見なけりゃいけないんだな」
私はそんなことを思いながら職員室に行った。すると、死んだのは兄ではなく、祖父であったことが分かった。いや、私が同級生の伝達を聞き違えたのだ。
(続く)