浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

奈良の放火殺人事件に想う事 その2

2006-06-28 00:43:53 | Weblog
 ポケットに残されたコインを集めてラーメン屋に入った。ラーメンを待つ間、テイブルの下からスポーツ新聞を取り出して求人広告を見た。紙面を埋める募集広告を見て、仕事は何とかなりそうだと安心した。だが、その前に東京に住む叔父に相談をしてみようと思いついた。母親の兄弟は6人いたが、末っ子の彼とは5,6歳の年齢差しかなく、“アニキ”のような存在であった。

 叔父の会社の名前は電話帳で苦もなく探せた。私は迷うことなく公衆電話から電話を入れた。彼にとって私の家出はまさに青天の霹靂であったに違いない。その口調から電話口で驚いているのが見て取れるようであった。だが、だからといって叱責したり取り乱すことなく優しく対応してくれた。その時叔父が違う態度で接していたら私は間違いなく職探しをしていただろう。今にして思えば、大学を卒業して東京の会社に就職して間がなく、自分のことだけで精一杯の彼には相当重荷に感じられたはずだが、嫌な顔一つせずに面倒を見てくれた。

 当然のことだが、叔父からは家に帰るよう説得された。ただ、頭ごなしに説教をするのではなく、彼自身の父親との軋轢を話しながら私の心の内を真剣になって聞いてくれた上での説得であったから彼の言葉は私の耳に素直に入ってきた。

 高ぶっていた気持ちも、次第に冷静さを取り戻すことができた。「岡村さんの弟子になるのだ」と言いながらもそんなあてがあるわけではなく、「弟子になれなくても自活できる」と言い張っていた私は、まさに支離滅裂であったに違いない。だから、下手をすれば、そのまま大都会・トーキョーに吸い込まれてしまったかもしれない。

 ただ、家に帰っても母が珍しく涙を浮かべて「捜索願を出すとこだったんよ」と声を掛けてきたが、嬉しさよりも嫌悪感が先に立った。兄との距離も縮まることはなかった。

 私は小さい頃から兄と喧嘩すると、逃げ出して父親の実家に救いを求めていた。伯父伯母は私には常に優しく接してくれ、大好きな人たちだった。だから苦しくなると、そこに逃げた。奈良の高校生も祖父母を慕っていたと聞くが、私には彼の気持ちが良く分かる。「逃げ場」が必要だったのだ。

 そんな私にある時、親戚の一人が言った。
「くんちゃん、何でそんなに家出するの?お母さんを心配させて何が嬉しいの?そんなことしてると、受験勉強も疎かになるでしょう?東大に受からないわよ」

 男の子は東大に行かなきゃ、と自分の子供には小学生の頃から徹底した受験体制を強いていた彼女には、私の行動が、甘ったれていて、なんとも歯がゆく思えたのだろう。だが、少年Aの心にはぐさりと深く刺さった。

 「お前みたいなヤツは労働組合の幹部になるかヤクザの親分が一番向いとるな」
 と言い放つ親戚もいた。教育者の彼には、私の言動が理解の枠を大きく超えていたようだ。

 勉強への意欲をますますなくし、成績も下がり続けた。だが、私には多くの友人がいた。私の通っていた岡崎高校は地方の名門校には違いなかったが、伝統的に友達を大事にする校風がある。彼らの多くとは今も付き合いがあるが、友達の存在なくしては私は高校生活を続けられなかったであろう。奈良の高校生も、聞くところでは、かつては明るい人気者で友達もいたとのことだが、恐らく、最近は受験重視の空気が支配する故にそうなったのか、個人的な事情が重なったのか分からないが、交友関係は狭められていたとのことだ。

 高校三年生の時だったと思う。放課後、校庭でスポーツに興じる私の元に同級生が伝達に来た。

 「おにいさまが亡くなられたそうです」

 私はその言葉を冷静に聞いていた。恐らく、私の顔は無表情であったに違いない。同級生は私の表情を見て「大丈夫?」というような顔をした。だが私の無表情は、ショックのあまりそうなるのではなく、本当に悲しい感情がこみ上げてこなかったからそうなったのだ。

 「これで、次男の俺が母親の面倒を見なけりゃいけないんだな」

 私はそんなことを思いながら職員室に行った。すると、死んだのは兄ではなく、祖父であったことが分かった。いや、私が同級生の伝達を聞き違えたのだ。

(続く)

奈良の放火殺人事件に想う事 その1

2006-06-27 01:31:08 | Weblog
 奈良の高校生による放火殺人事件の報を聞いて皆さんはどうお考えになられたであろうか。私は自分の生い立ちに重ね合わせたり、今自分の周りにいる奈良の高校生と似たような環境に置かれている子供たちの顔を思い浮かべた。その気持ちをあえて言葉にすれば、暗澹、索漠というなんとも無力感を伴なうものでしか言い表わしようがない。

 そして、時間の経過と共に飛び込んでくる事件の詳報を聞けば聞くほど、私の心に出来た空洞は、その大きさをさらに広げて私の全身全霊に痛みを伝える。

 事件後、世論は大きく分かれ、殺害された家族や父親への同情と「医者の息子」という枠に入れられて苦しんだ末に犯行に及んだ高校生への思いやりとが、様々な場で論議を巻き起こしている。

 だが、そのような論議を聞くにつれ、私は視点のズレを感じてしまう。家族の“愛情”に名を借りた「激励」や「環境作り」がどれだけ子供たちの心を傷つけ、時に殺意を抱かせるに至ってしまうのか、それを理解できないままにいくら大人たちが議論を重ねても、子供たちは暗闇で一条の光を見出すこともできずにさまようばかりだ。

 そこで、私の生い立ちを通してこの問題を皆さんと一緒に考えていただこうと思うに至った。

 私の場合、亡き兄との確執が私を苦しめ続けた。兄の私への時に病的とも思える干渉は、彼の神経質な性格もあったが、それ以上に自分達が置かれた環境を強く意識するあまり生まれた責任感に起因する部分も多々あった。

 私の父親は、戦地から復員して間もなく私が1歳の時、他界した。まだ、20代後半であった。敗戦直後の混乱期である。教員免許を持っていた母は、幸い教職に就けたが、当時の薄給では親子三人が暮らすには充分ではなく、幼い私は母や父の実家に独り預けられたこともあった。また、私の親戚への養子縁組の話が進められたこともあった。うそのような話だが、日銭稼ぎに、親子三人で「袋貼り(店は当時、新聞紙を袋にしていた)」をしたこともある。

 そんな厳しい環境にあって、母親は幼い私たち兄弟に向かって、「父(てて)無し子」と後ろ指を刺されないよう生きろと厳しく説いた。「母子家庭に生まれたあんたたちは、一生差別されることになるんだよ。頑張ってそれを跳ね返すくらいでないとね」と言って、ムチ打とうとしたのだ。母の“愛のムチ”は、当時の状況を考えれば際立って間違ったことではなかった。就職試験や婚姻に「片親」はすごく不利とされた空気が支配していたのだ。

 母の教えをまともに信じた兄は、「自分が父親代わりでしっかり躾なければ」と、暴れん坊で無神経な私を事あるごとに叱り、きつく当たった。それに対して、私の中で兄への憎しみの念が年とともに増していき、やがて「こんなアニキ、死ねばいい」と思うに至るまでになった。

 兄の神経質な性格は、大学受験に失敗して浪人生活をしていた2年間、最悪の状態となった。

 「家を出よう」
 私は、高校2年生の3学期、家出することを心に決めた。兄から逃げ出すだけでなく、その時に読んでいた本、「南ベトナム従軍記」に強い影響を受けていたこともあった。東京に行って本の著者である岡村昭彦さんに弟子入りしようとしたのだ。

 ポケットには数百円しかなかった。だが、不安よりも兄から逃げ出すことへの喜びと岡村さんに会えるかもしれないという躍動感に近い希望が勝っていた。

 国道一号線の路肩に立ち、右手の親指を向かってくる車に立ててみた。アメリカ映画で見たヒッチハイクを真似したのだ。当時、ヒッチハイクのことなど知る人はほとんどおらず、ドライヴァーの多くが怪訝な顔をしてこちらを見ていた。

 私の隣には親友のYがいた。最近になって、彼から「あの時は、なんか映画の世界にいるような気分だった」と聞いたが、私のやることを優しく見守ってくれていた。

 私は結局、トラックの運転手が休憩する溜まり場に行き、横浜まで乗せてくれるトラックを探すことができた。そして、横浜からは電車で東京に来た。東京オリンピックを終えたばかりの東京は、私の想像以上の活気を伴なう大都会であった。見るもの全てが田舎の高校生には異次元の世界に見えた。

 上京してまず岩波書店に電話をした。岡村さんに連絡を取りたかったのだ。

 「岡村さんが日本にいると思っていたんですか」
 電話に出た担当者は面倒くさそうな口調で答えた。今から思えば、当時私のような若者が何人もいて担当者を悩ましていたのかもしれない。

 お先真っ暗とはこのことかと頭を抱えてしまった。

 (続く)

米国に蹂躙された法曹界

2006-06-23 12:06:20 | Weblog
 昨日書いたように弁護士をしている先輩に会って「山口母子殺人事件」の容疑者を弁護する安田弁護士の手法や法曹界の事情を聞いてきた。

 彼はかつて多くの社会問題となった事件の弁護を担当してきたこともあり、安田氏の立場を理解できる数少ない弁護士である。

 先輩の話によれば、日本の法曹界は、法体系にまで米国の強い圧力と影響が及び、ずたずた状態にあるという。ここ10数年間の米国から日本への攻勢は凄まじいものがあり、法律の改定はもちろんのこと、米国弁護士の日本における弁護活動の大幅自由化、はたまた分かりやすいところでは米国の陪審員制度の真似事のようなシステムにまで及んでいるという。かつては平等であった裁判官、検事、弁護士の三者の関係が崩れて、弁護士の立場が弱体化しているのも相当深刻であるらしい。

 これは彼に確認したわけではないが、私のような素人でもアメリカが日本に対して無理難題を吹っかけてきていることが分かる。御存知のように、日本の法体系は、フランスやドイツの法律を核にした大陸法系である。一方、アメリカはそれとは違う英米法だ。立法・実体法を中心にして、判例はあくまでも補助的にする大陸法に比べ、英米法では判例が中心となる。

 私のあくまでも素人の感覚だが、英米法は確かに世相を反映するからよりわれわれの心情に沿った判決が出やすい。だが、世論や社会的通念に流され易く、本質を疎かにする危険をはらむ。

 ここ数年、盛んに論議されてきた死刑の是非や少年法などはまさしくその好例だ。体制側は、山口母子殺人事件を死刑存続や少年法の改定に利用しようとしている。一方、死刑廃止論者の急先鋒としても知られる安田弁護士は、それらの危険性を世に問うために奇異とも思われる行動に出ておられるらしい。ただ、どうやら彼は法曹界でも孤立無援に近い形のようで、私の目には安田氏のやり方に何か焦りに近いものが感じられる。また一般市民に対してもう少し分かりやすい説明も必要な気がする。

 昨日書いたように、私が遺族の立場に置かれれば、実行するかどうかは分からないが、また古臭い情念的な考えと非難されるだろうが、殺人犯の命を狙おうと考えるだろう。だから、遺族の極刑つまりは死刑を求める気持ちは痛いほど分かる。

 だが、その視点を少し問題から俯瞰させると、違った面が見えてくるのも事実である。昨日からマスコミで大騒ぎになっている「奈良放火殺害事件」を含めて、未成年者達の置かれた立場と心のあり方を根底から論議せずして、形ばかりの少年法改定をすれば、事態をますます悪化させることはあっても、情況を改善することにはならないだろう。

 奈良の事件については、書いておきたいことがたくさんある。もう少し情報が出てくるのを見極めて考えをまとめたいと思う。

パブリック・ヴューイングって?

2006-06-23 00:44:22 | Weblog
 今夜仕事場から引き揚げる時、東川口駅に青いサッカー・ユニフォームを着た人たちがたむろしているのが目に付いた。

 聞くと、近くの埼玉サッカー・スタジアムでパブリック・ヴューイングなるものが企画されていて、午前4時から始まる予定の対ブラジル戦を応援する人たちの群れだという。

 ゲエエッ!やっぱり、サッカーのファンは凄いなと正直驚いた。というのは、パブリック・ヴューイングというのは、ただ大きな画面を見て応援するだけのものではないかと思ってしまうからだ。それだけのもののために大切な睡眠を削ってまで出かけてくるエネルギーが凄い。しかも、入場料が3000円もするらしい。

 サッカー業界が金儲けしているのか、それとも広告代理店が介在しているのかは知らないが、いくらなんでもそいつああこぎなんでないのと思ってしまう。埼玉県とすれば、850億もの大金をこの「玉蹴り場」にかけてしまったから何とか元を取り戻したいのだろうが、サッカーファンの情熱を変な形で金儲けに悪用しているように見えてしまう。

 ネットでイヴェント情報を見ると、会場では「君が代斉唱」までやるという念の入れようだ。

 競技場から出る騒音を問題にする声は聞かないが、果たして大丈夫か。スタジアムの近隣住民は、競技場(屋根付きではないですよね?)から挙がる歓声(悲鳴?)に眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。鳴り物の使用も「近隣住民に迷惑にならないように使用しましょう」という限定付きではあるが、許可されている。深夜に鳴り物を使えば近隣住民の迷惑になるのは誰が考えても分かること。まあ、田んぼの真ん中に作られた競技場だから家の数は数えるほどだが、それでも迷惑になることは間違いない。「愛国的なイヴェント」のためには、少数の市民はがまんしろ、ということか。

 あ~あ、完全に興ざめだ。もうワールド・カップの日本ティームのことなんぞはどうでもいいや。今夜は早く寝よう。

山口母子殺人事件をどう考える

2006-06-22 11:01:16 | Weblog
 山口母子殺人事件については、その残忍性、遺族に残された心の傷の深さを考えると、マスコミが一斉に犯人を叩く気持ちが分からないでもない。恐らく私が遺族の立場に立たされれば、自分の手で「にっくき殺人者」の命を狙うこともありうる。

 だから、犯人擁護をするつもりはない。だが、だからといって今日本国中を席巻している「犯人の首を絞めろ!」コールの尻馬に乗ることは出来ない。それは、私が死刑反対の立場に立つのが最大の理由だ。「自分で殺すことも辞さない」と言いながら「死刑反対」とは矛盾しているのでは?と思われるかもしれないが、私は「死刑は第三者の手を介する殺人」と考えるからだ。

 ただ、分からないのは、犯人の弁護を引き受けた安田弁護士の態度、そしてその手法だ。今から私が尊敬する弁護士と昼飯を囲みながらその辺りの考え方の整理のお手伝いをいただこうとしている。上手く整理がついたらこの場で「私の視点」を書かせていただくので注目していていただきたい。

イラク撤退会見に見るブンヤ魂の欠如

2006-06-21 01:52:36 | Weblog
 もう読者の多くが耳にしたと思うが、イラクのサマーワに駐留する日本の陸上自衛隊が、近く撤退することになった。

 小泉首相は20日、記者会見の席上で陸自のこれまでの貢献を強調、自らの対米追随外交を賞賛してみせた。だが、その一方で、航空自衛隊の活動を拡大して、バグダッドやイラク北部にまで飛ばすのではとの情報も漏れ伝わってきているのに、この席上で小泉首相は自らその話題に触れようとしなかった。

 それにしても、またまたマスコミのだらしなさに触れるが、記者会見での覇気のない質問を聞いていて、記者諸君のやる気のなさと感性の鈍さにがっかりしてしまった。政府が陸自を撤退させるために勝手に空自の活動拡大を決めてしまい、空自の中には、「何で俺達が?」という空気が生まれていると聞く。また、空自が「何を運ぶか」で法制面での問題も生じることになるはず。たとえば、米軍から戦闘員を運んでくれといわれることだってありうる。

 ところが、約15分の記者会見で質問に立った記者はたったの4人。しかも、その誰もが空自の活動について質問しようとしなかった。

 記者諸君、あなた達の肩に重く乗しかかっているのが読者や視聴者の期待であることを忘れないでいただきたい。いや、あなた達が国民を代表して為政者に口を聞く権利を与えてもらっているのだということを今一度きちんと把握すべきだ。

 昭和20年、30年代の写真を見ると、有力政治家を囲む記者たちが高齢(ヴェテラン)であることに驚く。中には、くわえ煙草でズボンのポケットに手を入れながら取材している記者もいる。もちろん、それは無礼に違いない。だが、無礼という一面はあるが、当時の写真からは政治家とジャーナリストの間に緊張感が伺える。

 本来、政治家とマスコミとの間には、「下手をしたら敏腕記者に何を書かれるかも分からない」といういい意味での緊張関係があるはずだ。それが、最近は大学出たての新人記者が登場する場合も少なくないから政治家はなめてかかっている。そんな新人記者は、百戦錬磨の政治家から見れば隙だらけだ。赤子の手をひねられるようにもてあそばれて利用されるのが関の山だ。

 マスコミの幹部もこの辺りの危機的状況を真剣に考えて欲しい。もはや、「永田町」には、ブン屋の目が光っていないからと、政治家達は好き勝手をやり放題というのが現状なのだから。

政治家天国

2006-06-20 10:00:33 | Weblog
 80年代から90年代にかけて日本中を騒がせた統一教会が、またぞろうごめいているようだ。その模様はTBSの「報道特集」で放映されたからご覧になった方もいるだろう。

 確かに最近、都内の駅頭で行き交う人にしつこく話しかけている信者らしき姿を見かけることが多くなった。どうしてあんな霊感商法につかまってしまうのかと不思議でならないが、人の不安や不幸をたくみについて知らぬ間に高価なモノを買わしたり、財産を提供させてしまうとのこと。それも、お年寄りや体の不自由な方が被害に遭っているケイスも少なくないと聞く。

 こんな許されざる、宗教活動とは言えない団体がまだ生き延びていられるのは、政治家との結びつきが強い場合が多いが、この団体も例外ではない。

 自民党の政治家の多くがこれまで統一教会との関係を取り沙汰されてきた。この団体がばら撒く「政治献金」に政治家が群がったのだ。だがそれも統一教会の違法性が問題になる中で、政治家の足が遠のいていった。

 読者のメイルで今年5月に行なわれた統一教会の合同結婚式に、日本の次期首相最有力候補と目される安倍晋三官房長官が祝電を送っていたことを知った。ヴィデオの中で司会者と思われる男性が、安倍氏の名前を連呼し、彼からの祝電を紹介していた。

 もしこれが事実だとすれば、これまで多くの人が「みぐるみはがされた」と訴えてきた統一教会に対して祝電を送る安倍氏の神経が分からない。こんな人に国の舵取りを任すことへの不安は隠せない。

 皮肉なことだが、かつて「統一教会マネー」に群がった政治家の中で一番目立っていたのが、今「小泉後継者争い」で安倍氏のライヴァル関係にある福田康夫氏の父親、故福田赳夫氏だ。福田氏は統一教会の教祖、文鮮明の講演会に参加し、「アジアに偉大な指導者現わる。その名は“文鮮明”である」と賛美し、文鮮明と韓国式の抱擁を繰り返したことで有名だ。その福田氏も時を経れば、名宰相の1人に数える人も出てくる。ホント、この国は政治家天国だ。

私の視点 ジーコ(ズィーコ)のTV批判を報道管制?

2006-06-20 08:05:26 | Weblog
 日本のマスコミは相変わらず、ズィーコ監督の「犯罪」発言を“なかったもの”にしたいようだ。

 読者のSolaさんが指摘されているように、ネットの世界でこの発言が話題になっているものの、マスコミでは問題にならない、というか、報道されない。今日になって朝日新聞はさすがに後ろめたさを感じたのか、300字程度の小さな記事で「3時開始の試合 ジーコ監督批判」と紹介している。しかし、正確にはズィーコ監督の発言を書いていない。

 Solaさんが紹介されているように、BBC(英)TVのインターネット版を見ると、ズィーコ監督はハッキリ「It's a crime that we had to play in this heat again(こんな暑さの中で再び試合をしなきゃあいけないのはばかげている)」と発言したとある。確かに、私は何か読み物をしながら記者会見を聞いていたこともあり、通訳のcrimeという言葉しか耳に入らなかったから「犯罪」と昨日は紹介したが、BBCの記事の文脈からすると、「ばかげている」と訳したほうが良かろう。

 その後でズィーコ監督は、日本のTV局の都合でそのような時間帯の競技になったことを批判しているのだ。朝日のこの記事によると、試合開始時間は、昨年12月の組み合わせ抽選後に、日本のテレビ局の要望もあり この時間に変更されたとある。

 朝日の記事は、W杯の放映権を握っている電通への遠慮を考えれば、精一杯の“抵抗”と取れなくもない。そこで、この部分を少し調べてみた。すると、出るわ出るわ、電通とFIFAとが「蜜月関係」にあるというか、FIFAにとって電通が大事な「打ち出の小槌」であることを示す情報があちこちにある。

 情報を総合すると、電通は国際サッカー連盟(FIFA)から放送権の販売を受託し、交渉を担当しているが、今回の大会の地上波放送については、NHKと民放各社で構成するジャパンコンソーシアムとに約140億円で放送権を売っている。そして、次回の2010年と次々回のW杯の放映権も、日本国内だけでなく、アジアについても、電通が独占とある。つまり、アジア地域(日本を除く)での放映権にまで電通は手を出したのだ。また、W杯だけでなく、14年までにアジアで開かれるFIFA主催のすべての大会も電通の仕切りとなった。いくら生き馬の目を抜くというメディア・ビジネスの世界とはいえこんなことをしていいのだろうか。これがアジアの近隣諸国の反発を買わなければいいが、と心配するのは考えすぎか。

 電通とマスコミとの不健全な関係は随所に見られるが、ちょいと調べてみただけでも、サッカーにおいても相当ひどい状況にあるようだ。こんな、スポーツを愛好するファンの気持ちを踏みにじるような電通やTV局のやり方が許されるはずはない。少年少女たちの「純粋な気持ち」とだけとは言わない、おじさんおばさんたちの「お祭り気分」を悪用する電通は許すまじ。こんな電通の横暴なやり方に声を上げた「サッカーの神様」をみんなで応援しようではありませんか。

私の視点 日本の苦戦 “戦犯”はTVだ!

2006-06-19 03:42:07 | Weblog
 サッカーW杯に参加している日本ティームがクロアチア戦で引き分け、決勝リーグ進出はほぼ絶望的となった。

 これで朝刊各紙は、初戦同様、スポーツ紙を含めてズィーコ監督の采配に批判集中の記事を載せるだろう。

 私はスポーツ大好き人間だが、残念ながらサッカーは門外漢である。英国に住んでいた頃、TV中継をよく見ていたから選手達の動きの善し悪しは分かるが、作戦などについては全くといっていいほど分からない。だからここでは「ズィーコ戦術」が適切であったかどうかの判断は出来ない。

 だが、それだけに、全体の状況や選手一人一人の表情や動きを客観的に見ることができると思っている。

 まず、第一戦だが、私の見たところ、勝負はコイントスでほぼ決まっていた。それは、気温が30度近くにまでなる中での試合で、コイントスに勝ったオーストラリアが圧倒的に有利なサイドに立ったからだ。試合をヴィデオに録られた方は今一度ご覧になると分かるが、後半になると陽光がTV画面の右側に傾き、オーストラリアのディフェンス陣は日陰の中でプレイが出来ていた。一方、日本はと言うと、その逆で、川口を含むディフェンス陣は強い日差しで体力を奪われていった。ただでさえ、体格に大きな差があり、競り合うだけで大きく体力を奪われる立場の日本選手にとって、これは大きな不利となった。

 さらなることに、日本側からすれば、後半、日差しは逆光で飛んでくるボールが相当見にくかったはずだ。

 私の見たところでは、その二つの大きな要素が最後の10分で3点を失うという稀に見る惨めな結果を招いたと思える。

 それでは、クロアチア戦はどうかというと、初戦と違って陽光は後半に入っても競技場内では大きな変化を見せなかった。また、試合の内容も中田選手などが言うように日本が勝ってもおかしくないものであった。だが、これがサッカーのサッカーたるゆえんだ。サッカーには、「判定勝ち」なるものはない。いくら試合を優位に進めようと、蹴ったボールがゴールを割らなければ勝つことはできないのだ。イタリアが昨日も格下のアメリカ相手に後半は圧倒的に押し込んだが、引き分けに終わっている。

 昨夜の試合後、解説陣は2つの試合(対豪州、クロアチア)を同系列で論ずる者が目立った。システム論と戦術論がごちゃ混ぜの解説など意味が無いことである。また、ズィーコ監督の采配ミスを指摘する意見もあったが、私は彼は本当によくやったと思っている。初戦の選手交代で、小野ではなくより攻撃力のある選手にすべきであったと問題にする声があるが、1人の選手の能力で戦術を語ることほど、無意味なことはない。戦術はあくまでもティーム全体の機能を鑑みなければならないからだ。聞いたところでは、前回のW杯の日本ティームの監督であったトルシエ氏もズィーコ采配に大きなミスは無かったとコメントしたそうだ。

 もし、日本が決勝トーナメントに進めなくなれば、恐らくマスコミによる“戦犯”探しが行なわれ、ズィーコが槍玉に上がるだろう。だが、私は彼の試合後に行なった記者会見で漏らした言葉に「戦犯」が隠されていると思う。それはTV業界だ。

 日本で高視聴率を取るために、試合時間を現地の3時にごり押ししたのは誰あろう、日本のTV業界だ。選手達もズィーコ監督同様、もっとプレイのしやすい時間帯で実力を発揮したかったに違いない。言葉の裏にそんな不満が見え隠れした。もちろん、競技場の環境などは、双方にとって同じ条件という意見もあるが、それは、スポーツの真髄を知らぬものが言い放つ「根性論」に近い科学性を一切無視したものだ。それらの条件が勝敗に影響を与えぬはずは無いし、得て不得手、向き不向きがある以上、大きな影響を与えることもある。

 ズィーコが記者会見で、日本の試合時間を真昼間にしたのは「犯罪だ!」と発言したことが、私がこれまでに見たTVでは紹介されなかった。しかし、彼の通訳ははっきりと英語で「犯罪」という言葉を使っているのを私は聞いた。

 もしこれをお読みの方で、サッカーが大好きな方がおられれば、間違ってもズィーコや宮本を責めないでいただきたい。責任はNHKと民放、そして広告代理店にあるのだから。怒りの矛先をぶつけるのであれば、そちらに向けるようにしよう。

 かつて、46年前のローマ・オリンピックを真夜中、時に明け方、ラジオにしがみついて聞いていた「少年A」は吼える。

 「どんな悪条件をも乗り越えて実況を見聞きしながら応援するのがホントのファンというものだ!TVよ、スポーツを汚すんじゃねえ!」

今日もイラクでは…

2006-06-18 01:24:36 | Weblog
 内戦だから当然といえば当然のことだが、イラクではスンニ派とシーア派の殺し合いが止まる気配がない。

 17日も各所で自爆攻撃や仕掛け弾などで少なくとも31人の死亡が確認され、60人以上が負傷した。その全てが、自爆実行者以外、一般市民であったということだ。

 日本では、自衛隊をいつ引き揚げるかという話題がマスコミで中心になり、「イラクで何が起きているのか」という視点がいつの間にか忘れられかけている。

 ブッシュ大統領は先週、バグダッドを隠密に電撃訪問したが、結局話題づくりでしかなかった。

 イラク市民が毎日、いつ訪れてくるやも知れぬ死との恐怖と闘っていることなどもう世界は忘れようとしているかのようだ。今日届いた元日本陸軍特務機関員の方からの手紙に、「日本はW杯サッカーに浮かれてしまい、世界で起きていることに目をやろうとしない」という主旨の嘆きが書かれていたが、もちろん、彼もサッカーを観る事を否定しているのではなく、「浮かれている」日本人を見て不安になられたのだろう。先輩からのこの言葉をきちんと心に止めておかねばと思った。

私の視点 福井日銀総裁の扱いにひと言

2006-06-17 22:37:53 | Weblog
 福井日銀総裁の村上ファンドへの関与が取りざたされているものの、今ひとつ世論の盛り上がりに欠ける。それは、いつも私が書いていることだが、マスコミの報道に原因がある。今朝の主要各紙を見ても分かるように、関連記事はほぼ一(トップ)面から消えてしまった。確かに、今日もちらほらと散見できるが、あまり目に付くものではない。また、これまでにも批判的な取り上げ方をしているが、普段の勇ましい報道振りからすれば大人しいものだ。

 この問題を、秋田の男児殺害事件のように連日、「てえへんだ、てえへんだ、お上の台所を牛耳る金庫番がとんでもねえことをしでかしやがった」と、報道しまくり、本人を付回すだけでなく、家族や関係者まで追い回していたら、怒り狂った市民達は日銀の前に押しかけているかもしれない。いや、まあそこまでいかないにしても、小泉さんが落ち着かない状態に追い込むことは出来るはずだ。

 ところが、マスコミは、相手が一市民であれば正義を振りかざして平気で袋叩きにするのに、藤井総裁のような公人になると、追及の手を途端に緩めてしまう。いや失礼、「過熱報道」にならないように「気を配る」。

 こういったマスコミ報道のその訳は奈辺にありやと聞かれることがあるが、私はズバリ、現場(取材と編集)の人間の意識の問題と答えている。具体的に言えば、原稿を書く記者(TVの場合はディレクターや記者)や、上がってきた原稿の生殺与奪の権を握るデスクに「本質を見抜く」眼がないからだ。

 秋田の男児殺害事件のマスコミ報道について書いたように、過熱報道がどのような波及効果をもたらすか、という視点すらない(持てない)人たちに、藤井総裁の問題の本質を見抜けというのはどだい無理な話かもしれないが、自分の置かれた立場を冷静に見つめれば、そんなに難しいことではない。

 新聞記事や専門家の論評に、「民間人であった時にやったことだから問題なし」とするものも見受けられるが、冗談ではない。だとしたら、日銀総裁になる時、ファンドを処分しておくべきであったはずだ。藤井氏の釈明を聞いていると、そんなことも分からないのかと情けなくなってくる。また、記者会見でそのような釈明を聞いて、藤井氏に突っ込んだ質問が出来ない記者も記者だ。

 日銀と言えば、一国の経済の根幹部分を牛耳る中央銀行だ。米国で言えば、連邦準備制度理事会(FRB)、英国では、イングランド銀行にあたる。国の経済に関わる情報の全てを握るだけでなく、銀行への貸出金利や世の中へのカネの出し入れを操作出来る、経済政策のいわば「本丸」だ。そのトップである総裁がこんな投資に手を染めているというのは、日銀の役割を分かっているものであれば、いかに許されない「悪事」であるかということは分かるはず。案の定、米英国の新聞は、この問題に手厳しい論評を加えている。

 このブログの読者には、少なくないマスコミ関係者がいる。これを読んだら今からでも遅くはない。社を挙げてこのような不正を質すキャンペインを張ろうとデスクを含む編集幹部に迫ろうではないか。そして、このような非見識で、非常識、なおかつ厚顔無恥な男を総裁の座から引き摺り下ろすまで論陣を張ろうではないか。それでこそ、あなた達もジャーナリストだ。

私の視点 罪を憎んで…

2006-06-15 14:44:25 | Weblog
 私の小学生の頃の遊び場の一つに「大岡越前の守忠相邸跡」があった。大岡越前の守は、江戸に呼び寄せられる前は、私の生まれ育った愛知県岡崎市大平に本拠を置いていたのだ。邸跡は私が通った男川小学校のすぐ近くにあった。

 そんなことから大人たちはよく子供たちに大岡裁きの話をしたものだ。学校の教師も例外ではない。特に、私が大好きであった、5,6年生の担任であった山田徳丸先生は、得意の社会科の授業だけでなく、折に触れて大岡裁きを授業や生活指導に取り入れていた。

 それだけに、罪を憎んで人を憎まず、という精神は、私の座右の銘というわけではないが、大きな影響を与えてきた。そして今も要所要所で警鐘を鳴らして教えてくれる。

 そんな私に“埋め込まれた”「体内警報機」は、事件や事故が起きて、社会全体がひとつの方向に流されると確実に作動する。「9.11」「対イラク戦争」「福知山線事故」の時には、体が震え上がるほどの音量で警報が鳴ったものだ。

 警報機は、今回の秋田の男児殺害事件でも警報を発した。事件を巡って繰り広げられている狂乱ぶりを見ていると心が痛むのだ。確かに、容疑者のふてぶてしい言動には、心情的に心を寄せる部分は感じられない。彼女の言動に反社会性人格障害が見られるとの指摘にも反論材料は見つけられない。だが、どこまで容疑者をいたぶれば気が済むのか。これでは集団暴力ではないか。ニッポン全体が寄ってたかってこれでもかこれでもかとばかり徹底的に容疑者をいたぶっている。

 この集団イジメに似た「魔女狩り(もちろん本来の意味とは違う)」騒動はいつものことだが、マスコミの過熱報道によって引き起こされる。今回も同様だ。新聞などはさすがに数日前から流れが変わったが、テレビや週刊誌は目を覆うばかりだ。私の周りにもマスコミ報道に辟易している人は少なくない。

 これも視聴者や読者の「見たい・知りたい」という強い欲求がそうさせていることは事実だ。なぜなら、TVや週刊誌は、放送や出版したものの評価が、それぞれ視聴率又は売上げという数字で如実に現れるからだ。

 ただ、これほどの事件であっても、毎日新しいネタがあるわけではない。すると、あちこちから関係者を引っ張り出して、顔出しせずに語らせる。また、目新しい分析をする専門家がいれば、それに飛びつくのもこういった報道の特徴だ。

 今回何人かの専門家の口から「反社会的(性)人格障害」という言葉が語られているが、私などはこのような段階でこの言葉を使って容疑者の性格を断定してしまう危うさにおいおいと思わず声が出てしまった。また、昨日行なわれた容疑者を接見した弁護士が、容疑者の「(豪憲君に対して)嫉妬のような感情が無かったとはいえない」などという発言を記者会見で紹介していたが、弁護士の職務をもちっとお勉強されたらと言いたくなった。

 確かに、報道を見ている限りにおいては、容疑者が罪を犯した可能性は限りなく100%に近い。だが、だからといって、この国も法治国家だ。マスコミばかりか市民一人一人が法の精神をきちんと理解して、起きた事件を騒ぎ立てないように努力せねばならない。我々は警察官や検察ではない。ましてや、刑を言い渡す裁判官ではもちろんない。

 私が何故に狂乱報道を戒めるかと言うと、世論に与える影響の他に、このような馬鹿騒ぎが警察や検察の捜査に影響を与えかねないと考えるからだ。最近、警察や検察が必要以上にマスコミ報道を意識しているが下手をしたら警察や検察の焦りを買い、冤罪を招いてしまうこともありうる。

 冤罪事件は昔のものではない。11年前のサリン事件の河野さんしかり、バングラディッシュ人のイスラム・モハメド・ヒムさんを苦しめた「アル・カーイダ冤罪事件」にいたっては、まだほんの数年前に起きたことだ。つまり、今もいつ起きても不思議ではない土壌がこの日本にはあるのだ。その土壌を醸成しているのが、マスコミの狂乱報道であり、それを喜ぶ国民性だ。

 だからといって、誤解しないでいただきたい。私はこの事件に冤罪のニオイがするといっているわけではない。このようなことを書くと必ずといっていいほど、そのような指摘があるから事前にその点を明確にしておく。

 「罪を憎んで人を憎まず」は大岡裁きで有名だが、この考え方は、日本の専売特許ではない。この、とかくわれわれが陥りがちな傾向を戒めるための古人の教えは、古くは、キリストの教えにあるということだし、それを受けて「Condemn the offense, but pity the offender」という慣用句が生まれたと言われている。

 この辺りからして、古の代からこの種の犯罪は存在して、人は感情的になりやすく、集団いじめが発生しやすかったのだろう。形は違えど、いつになっても我々人類は集団いじめの味が忘れられないということか。 

 大岡越前の守が生きていたら、今の狂乱を見て恐らくこう言っただろう。

 「あんたら、みんなで寄ってたかってなに言っとるだん。冷静になりん。犯人の裁きはわしらがやるだで、任せとりゃあいいだがん。ほうだら?」

村上容疑者擁護論にモノ申す

2006-06-14 00:03:42 | Weblog
 証券取引法違反(インサイダー取引)容疑で逮捕されている村上ファンドの総帥村上世彰容疑者だが、彼の言動に対して批判記事を書いたところ、何人かの方から直接メイルをいただいた。

 その中のいくつかは、彼は改革者であり、それを私がマスコミと一緒になって批判するのは如何なものかという内容のものであった。だが、彼は残念ながら改革者とは程遠いただの「カネの亡者」であった。ホリエモンには一時期、日本を変える旗頭になるかもしれないとの「夢」が感じられたが、村上容疑者にはロマンのかけらも感じられなかった。彼は、80年代に全米で暴れまくった「敵対的買収仕掛け人」の焼き直しであって、旧態依然とした日本の仕組みを改革する意図などあるはずもなかった。

 私は基本的に、「アメリカの回し者」のニオイがする輩をこころよく思っていない。ここ15年の間に、日本に対して仕掛けてきたアメリカの陰謀の数々を考えると、アメリカが日本の「兄弟国」とはとても思えないからである。兄弟の振りをして日本経済をずたずたにしてきたアメリカになぜ、いつまで尻尾を降り続けるのか。私には不可解であるし、また不愉快でならない。陰謀を実現させるためにどれだけの刺客が送り込まれたかは分からぬが、日本を米国債漬けにしてしまったのも刺客が多くの分野で暗躍したためである。「郵政改革」などと訳の分からぬことを言って郵貯や簡保をアメリカに差し出そうとしている竹中氏や小泉氏は、必ずや将来、その罪を暴かれる時が来るだろう。

 通産省の一役人にしかすぎなかった村上容疑者が、どのようにして短期間に日米の機関投資機関から多額の資金を集めたのか考えれば、彼の発言に眉に唾してみたくなるというもの。たった数年で何百億円もの資金を集めた元官僚。それも、米国の年金資金などの主要機関投資機関や米国の覚えめでたいオリックスの宮内社長から信頼されて集めまくったというのだから、裏に何か黒い影が無いほうが不思議だ。

 そして13日の参院委員会で、日本銀行の福井総裁までもが村上ファンドに1000万円投資していたということが明らかにされた。こうなると、もう何をかいわんやである。


エレヴェイター事故から

2006-06-13 12:47:39 | Weblog
 東京の公共住宅で起きたエレヴェイター事故は、日本社会に様々な波紋を及ぼしている。

 私は前々から日本人の「ひとつ上の階に行くにもエレヴェイター」という依存症とも言える生活習慣に異論を持っており、折を見てこの問題を取り上げようとしていた。今回の事件でエレヴェイターへの関心が高まっているだけに良い機会と考え、自分の考えをまとめて皆さんにお届けしたい。
 
 ただ、今回犠牲になった高校生は、自転車で移動しようとしていたし、12階に住んでいたということだから「私の視点」の対象外であることをまず明記しておく。

 実を言うと、もう大分前のことだが、かく言う私もエレヴェイターに閉じ込められた経験を持つ。東京・虎ノ門にある先輩の事務所で勉強会をした後、小さなエレヴェイターに7,8人が乗って1階に降りたのだが、扉が開かなくなった。幸いなことに乗り切れなかった仲間たちが臨機応変に対応してくれたから事なきを得た。いや、失礼、事なきを得たわけでもない。実は土曜日だったためにエレヴェイター管理会社が対応してくれず、仕方なしに119番通報。しばらくして(約20分後くらいだったように記憶している)レスキュー隊が到着して難なく扉を開けてくれた。

 驚いたのはそれからだ。ビルの外には、救助用工作車だけでなく、放水車、救急車、指揮車など計5台が到着、赤色灯をハデに回している。そして無論のこと、野次馬で歩道は埋まっていた。まるで映画のロケ現場であるかのような光景であった。

 それは10年ほど前のことだが、それからはよほどのことがない限り、私は6階まではなるべく階段を使うようにしている。それまでも階段を使うことが多かったが、時折りサボることもあった。6階を目途にする所が私のいい加減な性格の表れだが、格別な理由や根拠があるわけではない。それ以上だとシンドイからさぼってしまう、それだけの理由だ。

 エレヴェイターは壊れるものだ。どうも、優秀なハイテクに慣れきってしまった日本人には、こちらが一生懸命にその危険性を説いてもなかなか実感として伝わりにくい。多くの人は、壊れることがあると言われても、家族を含めて経験したことはないし、想像し辛いようだ。時に、他人の話と思い込むようにしているのではないかと思うことさえある。私がどんなに「エレヴェイターを使わぬ訳」を言って“連帯”を呼びかけても、「でもね」で片付けられることが多い。

 エレヴェイターをなるべく使わないようにするのは、危険という理由からだけではない。地球環境の危機が叫ばれている今、我々一人ひとりができることから始めなければならないと言われて久しい。ならば、その位の事なら大げさに考えることでもない。私は「自分でできること」の一つとして実践している。ところが、これが意外に共感を呼ばない。地球環境を大切に!と声を大にする人たちの間でも、エレヴェイターは“普通”に使われている。

 こだわりを持って生活すると、普段見えないところも見えてくる。エレヴェイターを重視するあまり階段が隅に追いやられたり、使えなくなっているビルの多さに気づかされる。最近できたビルでは、階段の表示がないところもある。警備員に聞いても階段の在りかすら分からず、警備員室まで行って聞いたこともある。先日泊まった秋田のビジネスホテルでは「非常階段は非常時意外は使えません」と言われてしまった。

 これはやはりおかしい。我々の生活に、階段を“復権”させる必要がある。もちろん、お年寄りや体の不自由な方がエレヴェイターを使うことまでもとやかく言っているのではない。

 だから皆さんへの呼びかけは次のようになる。

「元気だったらみんな歩こうよ。体にも地球環境にも良いんだぜ。そして、地震なんかの時に閉じ込められないで済むよ」

円借款はえさではないですよ、麻生さん

2006-06-11 23:59:25 | Weblog
 讀賣新聞によると、麻生外務大臣は11日、北九州市内で行なわれた外務省タウン・ミーティングで、政府が今月6日に2005年度分の中国向け円借款の凍結解除を決めたことに関連し、「そのまま(打ち切りで合意している08年度まで)継続していくかどうかは、今後の日中間の話の流れから決まる」と述べ、06年度分以降の実施についても慎重に判断していく考えを示した。
 
 また、毎日新聞は、麻生外相がタウン・ミーティング後の記者会見でさらに、「何かことが起きたら、残り2年間、止めないといけないということになるかもしれない。さらに日中関係が悪化した場合には06、07年度分は凍結する可能性を示唆した」と述べたと報じた。

 麻生さんという人、一体何を考えているのだろうかと首を傾げたくなる。「靖国参拝問題」でこれだけ日中関係がギクシャクして多くの方面から関係改善を求める声があるというのに、まるで火に油を注ぐような発言だ。

 10日の胡錦濤国家主席の「条件が整い、適当な機会に貴国を訪問することを願っている」とした宮本駐中国大使への発言があり、ほっとしたのもつかの間、これではまた逆戻りだ。

 円借款をタネに外交を有利に進めようとするなどというのは、時代錯誤もはなはだしい、国際舞台では笑いものになる態度・発言ですよ、麻生さん。