浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

ベッカム様の英語が分からない方へ

2008-07-31 20:34:10 | Weblog
 日本語に訛やアクセントがあるように英語も様々な特徴がある。

 英国は大きく分けて4つの地方に分かれるが、日本で言えば関東甲信越にあたるイングランドでも、バーミングやマンチェスターなど都市によってアクセントに違いがある。それに、階層や環境が複層的に加味されると、さらにその違いが細かく変わる。

 ロンドンに行って英語が理解できずに自信を喪失する人も少なくないが、そう、ロンドンでも幾つかの違ったアクセントが存在するのだ。特に、コックニーと呼ばれる下町英語に悩まされる日本人は多い。コックニーとは、最近になって知られるようになったが、paperをパイパーと言うように、一般的に「エイ」と発音するところを「アイ」と発音する言い方だ。

 サッカー界のスーパースターである「ベッカム様」の英語が理解できないで自信をなくした人がいるかもしれないが、彼の英語こそコックニーだからあまり深刻に捉えない方がいい。

 その他に、育った環境で話し方にも特徴が現れる。話し方の癖を見分ける方法の一つに持っている新聞で量る方法がある。

 タイムズやガーディアンなどの高級紙と言われる新聞を持っている人達の多くが、鼻にかかった「Received Pronunciation(RP-容認発音)」(総人口の内、数%の人だけが話すアクセント。「オクスフォード」「オクスブリッジ」「クイーンズ」アクセント等とも言われる)で話す。一方、テレグラフやエクスプレスなどを持つ人は、使う表現を含めて理解しやすい標準的な話し方だ。また、サンやミラーといった大衆紙を愛読する人たちにはコックニー・アクセントで話す人たちが目立つ。

 コメディアンの話すアクセントは、大衆的なコックニーが多いと思われがちだが、実は英国のコメディアンには、有名大学を出た人が多く、結構RPの使い手が多い。

 では、イギリス人たちは、どのアクセントを一番好むものなのか。

 7月29日、音声テキスト変換サービスを行う企業SpinVoxが興味深いアンケートを行いその結果を発表した。英国の成人2181人を対象にオンラインで「もしも自分の話し方を選べるならば、どんなアクセントで話したいか」と調査したもので、「一番人気」はクイーンズ、「二番人気」はアイルランド訛りとなった。

 一方、最も嫌われた話し方は、ロック・ミュージシャンのオジー・オズボーンなどが話すバーミンガムの訛りだった。バーミング訛りは、昔から嫌われることが少なくないが、この調査結果はバーミンガムの人たちには嬉しいことではないだろう。

 またその調査で、73%の人が現在の自分の発音や話し方に満足していなかったことが分かった。日本でやったらどんな結果が出るか。興味はあるが、特定の方言に否定的な見方が集中する恐れがあるから方言好きの私は率先して調査することはしない。

不明朗な自治会費

2008-07-29 18:18:53 | Weblog
 三日前のこと。インターフォンのモニターに映った訪問者を見て「何か起きたか」と思った。

 訪問者のSさんは、同じ建物(西洋風の長屋)に住むご近所さんだ。数ヶ月前、脳梗塞で倒れただんなさんが、残念ながら回復が遅く、自宅に戻ることなく今も病院生活を続けている。

 そんな事情から「何か私たちに出来ることがあったらいつでもお声掛け下さい」とSさんに言ってあったので異変があったのかと一瞬思ったのだ。

 幸いなことに緊急な事態ではなかったが、残念ながら引越しの挨拶であった。色々な事情を言われたが、やはり今後の生活の不安が大きな理由だとの事。もう少し家賃の安いところに引っ越される。それと、建物がバリア・フリーでないことも大きな悩みとなったらしい。だんなさんが退院されてきても生活できないのだ。確かに、玄関先の階段も車椅子生活者には他人の助けなくしては上り下りできないし、家の中の階段は急で狭い。足腰に不安があればとても使いづらい住まいだ。

 本来ならSさんが自治会の班長をする番であったが、そんな事情もあって私たちにお鉢(順番)が回ってきた。そのことへの礼もSさんは忘れなかった。

 一昨日になってそのことに関連してあることを思いついた。7月に班長になった私たちの初仕事が町内会費の徴収。月額にして200円だから1年分を集めるようにと言われて各戸から2400円をいただいたばかりだ。

 ならばSさんに会費を返すべきではないか。そう考えた私は自治会の幹部に電話で聞いた。ところが、規約ではいったん徴収した会費は返金しない方針だという。他の自治会も多くがそうしているはずだとその幹部は言った。

 そこで区役所に電話を入れてどのように実情を把握しているのか、またその辺りをどのように指導しているのかを聞いてみた。

 担当者は、自治会は任意団体であり、会費のことは区や市のあずかり知らぬ事だとのたもうた。確かに表向きはそうなっているが、自治会活動は自治体が住民にお願いしていることだ。自治体と自治会とは金の動きを含め、密接な関係にある。

 電話に出た担当者は、会費の徴収に関しては実態を知らないと言いながらも「店などの年会費でも途中解約したからといって返していないのでは?」と言って会費を返す必要はないのではと回答してきた。

 私が、店の会費は年会費であるが、自治会の場合は、月額200円と定めてあり、集金の面倒を考えて一年分集めているのだから比較する方がおかしいと言うと、彼は黙り込んでしまった。

 彼の後ろの方で誰かが指図しているようで、女性の声が聞こえていた。

 「あなたに指図している人と話しましょう」と、私は彼に電話を代わる様指示した。

 すると、上司の女性は、「会費を集めるような小さなことに市は関わっていません」とのたもうた。

 冗談ではない。何が小さなことか。私は彼女に厳しい口調で迫った。

 自分の失言にすぐに気付いた彼女は、「そんな言い方はしていません」と防御に入った。こうなると、役人は始末に終えない。

 そこで私は「失言があったかどうかをここで言い争っていても仕方がない。それよりもあなたはそれでは何をしたらいいと思いますか」と逃げ道を作ってやった。

 自治会長に注意するからという彼女に、それでは角が立って私がやりにくくなる可能性があるし、他の自治会も改めさせるべきだから他の方法はないのかと聞くと、近く全自治会の役員が集まる役員会があるからそこで注意を促すと約束した。

 一方、我が自治会の対応はどうかと言うと、以前から規約に疑問を呈する声があったようで、私の言う通りに返金することになった。皆さんの自治会でもその辺りがどうなっているか一度調べることをお勧めする。

人材発掘

2008-07-28 17:03:22 | Weblog
 在校生の紹介で一人の高校生男子が面接に来た。

 英会話のレヴェルをチェックしてみると、高校生にしては相当高いレヴェルにある。私の言うことの8割くらいは理解できているように感じられた。

 レヴェル・チェックを終えて雑談に入った。これは、ASEではよくあることだ。小学生だけでなく中高校生も「おじさん」に付き合ってくれる。

 彼に将来の夢を聞いてみた。

 彼はなんのてらいもなくはっきりと「医者」と答えた。父親が同じ職業にあるわけではないという。

 最近の傾向だが、「将来のこと?考えたこともない」という子が多い。そんな中にあって、彼は気持ちが良いくらいにはっきりと答えた。


 それだけの想いを持つ彼だ。夢へのきっかけがあるに違いないと水を向けてみると、野口英世の伝記を小学生の時に読んだからだという答えが返ってきた。

 医者になりたいがために中学受験も今の学校を選んだと言うではないか。

 それから二人は意気投合。時間を忘れて話が盛り上がった。すると、彼の母親から電話が入った。15分位のつもりで家を出したのに長時間なしのつぶてなので心配されたらしい。時計を見ると、針は午後6時半を回っていた。かれこれ3時間以上話していた事になる。私は母親に平謝り。反省しきりで彼を送り出した。

 ASEは私にとっての人材発掘の場だが、未来に向かって目を輝かせている若者を見るとつい力が入ってしまう。「最近の若い者は…」などと言うなかれ。いつの世にも共通することだが、子供や若者たちの多くは能力を有し、やる気もあるのだ。ただ、そんな有望な若者たちも無気力で投げやりな大人を見ている内にやがて同じ色に染まっていってしまうのは避けられない。彼らを生かすも殺すも自分たちにあると我々大人は「褌を締めなおす」必要があると考えるが皆さんはどうお考えになられるであろうか。

 

私の視点 NEWS23の裏側 その4

2008-07-28 15:27:26 | Weblog
 NEWS23には多くのジャーナリストが登場した。

 中でも1993年に内戦の続く旧ユーゴスラビアの潜入報告をした山路徹氏に注目が集まった。山路氏とは、昨年ミャンマーで殺害された長井健司さんが所属したAPF通信の代表であることでも知られる。

 その頃まだ無名に近かった山路氏は、ヴィデオ・カメラを持ってサラエボに入り、「戦場のピアニスト」に光を当てたルポを発表した。彼の取材スタイルは私が10年前から実行していた手法だが、映像の質の高さから「ヴィデオ・ジャーナリスト誕生!」と山路氏に注目が集まった。

 弾が飛び交う中を走りながら、自分の息遣いを、表情を、そしてその思いをTVカメラに語りかける手法は新鮮だったし、新しい感覚のドキュメンタリーに思えた。当然のことだが、筑紫さんの思いめでたく可愛がられるようになった。私も良いドキュメンタリーを作る新人が出てきたと心強く思った。

 私はそれからしばらくして「報道特集」の幹部から「浅井さんのサラエボ報告が見たい」と言われて、現地入りすることにした。出発前にはTBSの編集室で何度も山路氏の報告を観てその内容を頭に叩き込んだ。

 それから間もなくして私はサラエボに入り、ホリデイ・イン・ホテルに旅装を解いた。

 戦場になる地域では、概ねマスコミ関係者が定宿とするホテルができるものだ。それは、ジャーナリストにとっても地元の政府や武装勢力にとっても便利だからだ。レバノン内戦の「コモドール」、湾岸戦争の「アル・ラシード」は、伝説と言っても過言ではないほどの国際報道の舞台となった。

 ボスニア内戦においても「ホリデイ・イン」の名はジャーナリストであれば知らぬ者はいないほど内外のマスコミに知れ渡っていた。

 ところが、このホテルは安全な場所にあったわけではなく、銃砲撃にさらされていた。出入りする際もスナイパーの銃口を意識しなければならないし、建物には「安全な側」と「危険な側」があり、後者には毎日のように銃弾が撃ち込まれていた。「山路リポート」はそんなホテルの一部始終までをも見せる手法でボスニア内戦を描写しようとしていた。

 山路氏の報告に登場したピアニストは、山路氏によれば、このホテルにあるレストランの専属とのことであった。ある夜、銃砲声の中をピアノの音がするのでその音を辿っていくとピアニストがいたとの紹介が番組の中で山路氏によってされていた。

 しかし、実際に件の“ピアニスト”に会ってみると、彼はレストラン専属のピアニストであるどころかプロのピアニストでもなく、ただのピアノを弾くのが趣味という外国人ジャーナリストの助手を務める男であった。

 彼の話ではレストランの外にピアノがあったので手慰みに弾いていると、日本人ジャーナリストが近寄ってきてそのまま弾いていてくれと言った。急いでカメラを取りに行ったた山路氏は撮影をしながら近付いてきたという。どんな会話をしたかと聞くと、「彼はほとんど英語が出来なかったから意思疎通はあまり出来なかった」ので彼のジェスチャーのままに演奏を続けただけであったらしい。

 “戦場のピアニスト”の正体を明らかにしてしまった私は、「NEWS23」にすぐ連絡をしようかと思ったが、報告をする前に帰国して山路氏に会い、その点を質してからにしようとTBSへの連絡は思いとどまった。

 それから数日してのことである。レストランで朝食を摂っていると、白人の男女が話かけてきた。二人は赤十字国際委員会(ICRC)のスタッフであった。

 男は、「APFという会社、山路という人間を知っていますか?」と言う。

 心当たりがないわけではないと答えると、「彼に金を返せと言ってくれませんか」と切り出してきた。

 これは尋常な話ではない。詳しく話を聞こうと同席を勧めてじっくり話を聞くことにした。

 「実は、山路氏はサラエボで金を使い果たして無一文になったらしく私に借金を申し込んできました。彼のことはよく知らないしためらっていると、ゴールドのクレディット・カードを見せて『僕はお金はある。東京ではジャガーに乗っているくらいだ。無事に帰国したらすぐに返金するから』と懇願してきたんです。それまでにも金がないというので彼の取材テイプなどをICRCの特別便で東京に送ってあげていたし、誠実なジャーナリストだからと信頼してお金を貸しました。でも、もう何ヶ月も経ちましたが彼から連絡もありません」

 オーストラリア人夫婦は人柄が良いのだろう。怒りよりも信頼を裏切られた哀しみを表情に浮かべていた。

 夫人は、「冗談って分かっていたけど、彼が『東京に着いたらお金をお返しするだけではなく、飛行機のファーストクラスの切符をお送りしますよ』と言った時は、本当に彼はお金持ちなんだなと騙されたわね」と付け加えた。

 私は帰国するとすぐに久木報道局長に連絡を入れた。

 ところが彼の第一声が、「浅井さん、僕は首になっちゃったよ」であった。後になって分かったのだが、TBSの中で“政変”が起きて久木体制が崩壊したのだ。

 仕方なく私は報道局の幹部と山路氏を交えて話すことにした。

 山路氏は話し合いの中で「ピアニストだと信じていた。お金は返すつもりだった」と弁明に終始した。しかし、震える声や、私の目を正視できずにおどおどする態度を見れば、彼の心中は容易に量ることが出来た。

 私は同席した幹部に、「山路さんをジャーナリストとして使うなと言っている訳ではありません。ただ、これほどのことがあってNEWS23で使い続けるのはまずいのではないか。山路さん、あなたは英語もあまりできないようだし、もっと勉強をしてもらって、それは語学だけではなく、ジャーナリストとしてもですが、それから仕事を再開したらどうですか?編集マン育ちのようだから『いい映像は何か』を知っているようだけど、ジャーナリズムの基本を勉強して欲しいな。○○(幹部)さん、筑紫さんは山路さんのことをお気に入りのようだからこのことをきちんと筑紫さんに伝えてくださいね」と言った。

 ところが、私のそんな穏便なやり方がまずかったのか、ヴィデオ・ジャーナリズムの旗手ともてはやされた事も影響したのか、それからもNEWS23は山路氏の取材報告を流し続けた。

いたんだモモ?

2008-07-25 11:43:11 | Weblog
 過日出演した芝居で出来た「青タン・赤タン」が10日過ぎた今も消えない。

 ただ、一週間を過ぎた所で大分色が薄くなってきたので20日の朝に記念撮影。吉本興業の若手芸人並みの姑息な手段と分かっていたが、笑いを取る為なら手段を選ばない私は、その日の「毒演会」で貴重映像(?)として発表した。そして、その目論見は見事に的中した。

 何故このようなことに?と思われようが、芝居を観に来られた方なら記憶にあるであろう「優先席の場面」で、若者に襲われた私が逆襲して相手を投げる演技がある。

 私のような芝居のイロハも知らない人間には体当たりで迫真の演技をお見せするしかない。そこで私は自分なりに何が出来るか考えてみた。

 稽古をしていて色々な柔道の技を試してみたが、やはり観客に迫力が伝わるのは実際に身体を使っての表現だ。私の柔道の得意技は、背負い投げや体落しなどの投げ技だが、左足を負傷しているとの設定(松葉杖姿)ではそれを使うのは難しい。そこで小外刈りから相手を大きく振って落とすという形をとった。大きな音を出す為に自分の身体を舞台に叩きつける手法も考えた。

 練習をしてみると、どうしてもクセで左手で受身を取ってしまうから迫力のある音が出ない。そこで、臀部を使って音を出すことにしたのだ。その結果がこの写真だ。

 “迫真の演技”の代償は少なくなかった。10日以上経ったが歩行困難な状態が続いている。階段を登ったり、自転車で坂道を上るのがとてもつらい。だが、「ひと夏の経験」の勲章として得たこの写真は、私の宝物となった。

報道番組の出演料

2008-07-22 21:30:40 | Weblog
 読者のモリタマさんからのTVの出演料についてのご質問にお答えします。

 TVの解説者としての出演料、つまりギャラは一般的に視聴者が考えるほど高額ではありません。1回の出演料は5万円前後です。5,6分の出演の場合だと、効率の良い仕事と考えられるかもしれませんが、それまでに取材に使った時間と労力や打ち合わせなどの時間を考えれば(時にリハーサルがある場合もある)、決して高率ではありません。また、5分の出演でも1時間でも基本的には額は変わりません。

 その額は20年前と変わっていませんね。幾人かの責任者とこのことを議論したことがあります。彼らは、「政治家たちや教授たちでも変わりません」という言い方をします。

 これには異論があります。政治家や教授には定収があります。それに比べて、多くのジャーナリストは、定期収入はありません。不安定な収入をやりくりして生活費や次の取材費にしているのですから基本的に違った人種ですし、職種です。だから、政治家や教授の何倍もの額になってもおかしくはないと私は考えます。

 長井健司さんが殺された時、ニュースキャスターと呼ばれる人達の多くは、「こういう危険を冒して取材をするジャーナリストに番組が支えられている」と発言していましたが、本当にそう思うなら自分たちのギャラを少しぐらい削ってでもジャーナリストたちの待遇改善に尽力して欲しいですね。

 評論家たちが「待遇改善」に声を挙げない大きな原因の一つは、TV出演を「顔を売る場」と考えていることにあるでしょう。確かに、TV出演をしていると、講演会などのギャラに大きく跳ね返ってきます。

 ギャラが支払われないことについては、意図的というよりも、ずさんな管理に原因があると思われます。私も度々出演回数と振込み回数が違うことを経験しました。ただ、だからといって何の遠慮もなく言える人は数少ないでしょう。

 数年前のこと、私はTBSの報道局長に対して意を決してこのことを含めて改善要求を出したことがあります。その時は、謝罪文書と一回分の出演料が振り込まれてきましたが、その後局長室に顔を出した私を待っていたのは仏頂面の局長の顔でした。それからは二度と局長室を訪れていません。

 スタジオ出演の他に収録した発言が使われるものもあります。これは、2万から3万円ですね。使われる長さは、下手をしたら10秒弱。まともなことは発言できません。

 そんなお粗末な「ギャラ事情」ですが、往復の車とスタッフの扱いは売れっ子並みです。黒塗りのハイヤー運転手はバカ丁寧で、こちらが偉くなったかと勘違いしそうな扱いをしてくれます。あくまでも想像ですが、ハイヤー会社への支払い(特に深夜)は、私たち解説者のギャラを上回るのではないでしょうか

 そんな惨状を見かねて、中には気を遣って、「資料代」「調査費」として額を上積みしてくれるプロデューサーもいます。「自分たちの給料が20年前に比べれば大幅に上がっているのにねえ」と言ってくれます。

 いずれにしてもフリーランサーを取り巻く環境は年々悪化してきました。これでは後を継いでくれる若者はますます少なくなるでしょう。

私の視点 NEWS23の裏側 その3

2008-07-19 05:54:09 | Weblog
 89年秋、「筑紫哲也NEWS23」が始まった。凋落した「報道のTBS」が社運をかけて一大ニュース番組を始めたかのように巷間では言われていた。

 プライムタイムで久米宏氏に挑戦状を叩き付けたものの惨敗をしたその轍は踏みたくないと、今度は番組の開始時間を午後11時に変えて二部構成で編成された。第二部は、それまであった「情報デスクTODAY」の内容を受け継いだものとなった。

 筑紫氏が親しくしている歌手井上陽水にテーマ音楽を担当させるなど、いくつもの新機軸で番組は始められたが、意外に視聴率は伸びず、当初は苦戦を強いられた。

 しかし、ライヴァルというよりも「目標」としていたニュースステーション同様大きな政治の動きが番組への関心を高めることとなり、視聴率もそれに伴なって上昇した。

 それは、番組が始まった翌年8月に起きた「湾岸危機」である。

 イラクのフセイン大統領が隣国クウエートに大軍を送り占領、欧米諸国の怒りを買ったのだ。記憶は定かではないが、「23」の編集部の天井から高視聴率を知らせる垂れ紙が吊るされるようになったのは私の記憶ではこの頃である。

 「報道番組に高視聴率の垂れ紙?」と、私は強い違和感を持ち報道局員に同意を求めたが、意外なことに時代の流れだったのだろう、あまり賛同を得られなかった。高視聴率といっても10%前後だったからニュースステーションには遠く及ばなかったが、深夜の報道番組という点を考えれば、当時では「乾杯したくなる数字」であった。

 また、日本人初の宇宙飛行士となった秋山豊寛氏(当時TBS社員)の存在も視聴率を上げる大きな要因になったことを忘れてはならないだろう。90年12月2日に旧ソ連の宇宙計画に参加する形で宇宙を旅したのだが、我々は宇宙飛行をする彼の一挙手一投足に心をときめかしたものだ。

 私は、91年1月17日に湾岸戦争が始まると、TBSの専属解説者として連日TV出演した。また、2月に入ってからは契約特派員として派遣されてバグダッドから現地取材報告をした。

 湾岸戦争では、イラク政府の機能は混乱を来たしていたものの、特に情報管理に関しては厳しく、国民とマスコミに対する監視体制はしっかりしていた。

 監視をしやすくするためだろう。開戦直前には4~500人いたであろう外国報道陣の多くは追い出され(又は逃げ出した)、世界から20数社の報道機関しか受け入れていなかった。

 我々特派員には「minder」と呼ばれる監視役が付いた。取材に行く時は当然のように監視役が同行、取材中に横槍を入れてくることもしばしばであった。筑紫さんなどのスタジオにいるキャスターと「掛け合い(同時中継)」をしたりする時も、事前に話の内容を英語で書いて情報局に提出、検閲を受けなければ放送することは許されなかった。だから必然的に使う言葉は、監視役でも分かる英語となった。

 私はTBSの報道局と社会情報局(オーム真理教事件で消滅)と契約をしていたため、早朝から深夜にいたるまで東京からの要請に応じて番組出演しなければならなかった。すると誠実な働き者と勘違いした監視役数名がホテル(アル・ラシード)の私の部屋に遊びに来るようになり、やがて情報を提供してくれるようになった。

 2月19日、監視役の一人が「戦争はもう終わる。木曜日(21日)にクウエートにいるイラク軍の主力部隊が引き揚げを開始する」と教えてくれた。

 だが、俄かには信じがたい話であった。10万もの大軍が一斉に撤退すれば、米軍の格好の餌食になってしまう。それが後になって本当だと分かり、私は世界的スクープを逃してしまうのだが、あの状況では情報の精査をする術がなかった。危険を冒して「大誤報」をするわけにはいかなかったのだ。(註)

 24日に米軍を中心とした多国籍軍がクウエートに上陸、国際報道は占領していたイラク軍が全滅したと伝えた。TVカメラに映し出されるイラク兵たちは、軍服もまともなものを着ていない、軍靴も履いていない状態で、国際メディアはイラク軍のレヴェルの低さに驚いて報道した。

 だが、実は占領軍の主体であった共和国軍はその時にはすでに国境を越えてイラクに戻っていたのだ。

 私はクウエートに周ってくれと言うTBSに対して、東京に戻ってイラクの実態を伝える重要性を主張、帰国した。

 帰国したその夜、TBSで私を見かけた筑紫さんが、「今晩出てよ」と声をかけてきた。私は喜んで出演させていただいた。

 ところが、番組の中で筑紫さんは当時大統領であったサッダーム・フセインがアルジェリアに亡命をするのではないかと私に振ってきた。それは、フランスの「ル・モンド」紙が報じていたからだ。

 私がその報道に疑問を呈すると、「でもル・モンドが書いているからあるのでは」といった言い方をした。番組の後、「フセインの亡命はありえないです。フセインは戦後を考えて幾つもの手を打っていますよ。それに、ル・モンドはバグダッドに記者を入れられませんでした」と筑紫さんにあえて言うと、「あ、そう。でも、もう一度言うけどル・モンドだからね」と信じられない答えが返ってきた。

 ル・モンドは湾岸戦争当時、イラクに特派員を送ることが出来ていない。だから、亡命説は幾つもの憶測を積み重ねたものであることは、筑紫さんほどの人であれば容易に想像できたはずだ。しかも、自分が専属として働くTV局が特派したジャーナリストがイラクから帰ってきたばかりである。そのいわば同僚が言うことよりも、ル・モンドの推測報道に重きを置くとはどういうことなのか。私の中に筑紫さんに対する不信感が芽生えた。

(註)
 当時米軍トップの地位である統合参謀本部議長の職にあり、後に国務長官になったコーリン・パウエル氏は、後日談として「イラクに政治的空白を生みたくなかったからクウエートを占領していたイラク軍の主力部隊の撤退を看過した」と明らかにしている。
 

私の視点 NEWS23の裏側 その2

2008-07-16 23:58:17 | Weblog
 当時の報道局には、「報道番組は視聴率にはこだわらない、でも気になる」という、外部の人間には理解しにくい雰囲気があった。80年代前半までは、「数字がたとえ取れなくても良いものは出し続けよう」という気概が局員ひとり一人に感じられた。

 それは、「報道のTBS」という自負から来るものもあったが、欧米のTV局がゴールデンタイムに報道番組やドキュメンタリーを根付かせて結果として高い視聴率を取っていた事も影響していた。

 ところが、それまでTBSは何度もその壁に挑戦したもののそそり立つ壁を前に悔し涙を流し続けてきた。ひどい視聴率しか取れなかったのだ。私が関わった70年代から80年代前半にかけて放送された幾つかの大型ドキュメンタリー番組も、海外で栄誉ある賞をもらうことがあっても視聴率は別もので、スポンサーを喜ばせる結果は出せていなかった。

 そこへニュースステーションの「お化けの数字」の登場である。報道界の視聴率への見方があれよあれよと言う間に変わっていった。

 そこへ、経済の大きな波が重なった。「かねカネ金」と何よりも利益が優先されたバブル景気と言われた大きな波だ。

 それまでは、ゴールデンという時間帯であろうとも多くの番組が1社又は数社に限定されたスポンサーによって支えられてきた。企業の名前を頭につけた冠番組も珍しくはなかった。だが、バブルの訪れで「もっと儲かる方法を」とその枠はとっぱわれて、広告できる時間を秒単位で細切れにして販売する手法が取られるようになった。

 そうなると営業にとっては「数字が勝負」。たとえ報道番組でも甘えは許されなくなった。毎朝配られる視聴率表を見る目が皆厳しくなっていった。

 だから、ニュース番組でいくらTBS報道局生え抜きの小川氏でも容赦はなかった。もっとも視聴率はひどい時には2%台まで落ち込み、一部で「視力検査か」などと自嘲気味に言う人も出てきていた。必然と言えば必然とも言えるが、間もなく番組は幕を閉じた。

 それからしばらくして朝日新聞の幹部と話していると、筑紫さんがキャスターをやりたがっていると聞かされた。恐らく彼は私がTBSにメッセージを伝えてくれると思っていたに違いない。

 そんな“期待”に答える意味もあったし、筑紫さんへの尊敬の念も持っていた私は、TBSの幹部に「筑紫さんは(キャスターを)やりたがっているようですよ。ジャン(麻雀)卓でも囲んだら?」と持ちかけた。

 「そうですか。ならば一度」と、幹部も乗り気になった。彼は常々、商業放送だからそれなりの視聴率を取る必要はあるが、それ以上に、プライムタイムに報道番組を根付かせたい、と言っていた。彼は、「TBSの良心」と言われた「報道特集」という番組を作った、後に「報道局の天皇」との異名を取った久木保である。

 それからしばらくしてNEWS23の話が一挙に浮上してきた。


中越沖地震 1周年報道を見て

2008-07-16 21:43:58 | Weblog
 中越沖地震から今日で丁度一年が経った。

 死者や倒壊家屋の数の単純比較でとかく他の大地震よりも被害を軽く見られがちだが、残された傷は深く、今も2500人もの人が仮設住宅で暮らす。その多くは自宅再建の目途も立てられない高齢者だ。

 発災直後に現地入りしたが、目に付いたのは倒壊していなくても基盤が壊されている建物が多かったことだ。だから、映像などからはその深刻さは伝わりにくく、必然的に募金活動をしても義捐金の集まりは、その約3年前に起きた中越地震の時の約2割と格段に悪かった。

 見た目の被害に惑わされたのがマスコミであった。被害状況を的確に報道しているとは言いがたかった。幾つもの大災害を見ている私は、記者諸兄にレクチャーしたが、真剣に聞く者は少なかった。だから、今なお多くのお年寄りが仮設住宅で苦しんでいる責任の一端はマスコミにあると言って良い。

 東京電力刈羽原発についても同じ事が言える。東京電力の対応に疑問を抱いた私が、刈羽原発の正面ゲート突破を図ろうが、柏崎市役所のプレスルームに行って報道陣にアピールしようが、彼らは東京電力の言いなりで、情報開示や現場公開を求めたりして自分たちから突破口を開こうとはしなかった。

 東京電力が「大きな異常はない」と言って被害の偽装を図ったが、一年経った今になっても操業再開の目途が立たない現況を考えれば、当時はかなり深刻な事態であったことが想像される。

 ところが、私が見た限りでは、マスコミ各社はそんな一年前の自らの姿を検証する気配がない。お願いですからマスコミさん、自分たちの社会的役割をしっかり把握して報道を続けてください。そうでないと、同じ間違いを未来永劫続けることになりますよ。

私の視点 NEWS23の裏側 その1

2008-07-15 21:28:28 | Weblog
 先週発売の週刊朝日が「TBS『NEWS23』の『解体』が始まった」と題して番組が消える可能性を示唆する記事を掲載した。

 これまでにも書いてきたが、私はこの番組には誕生以前から関わってきた。そこで、私が見てきたこの番組の誕生からつい最近までの状況を裏事情をまじえながらご紹介したい。一部には私が直接聞いたのではなく、伝聞の部分もあるのでその辺りを承知置きの上でお読みいただきたい。

 話は80年代中頃に遡る。その頃、前の年に誕生し、しばらくは10%に満たない視聴率であったニュース番組「ニュースステーション」が86年2月のフィリピン政変で“大化けして”連日20%を超える信じがたい視聴率をたたき出していた。

 実は、ニュースステーションのキャスターを務めていたのがかつてTBSでアナウンサーをしていた久米宏氏。当時のTBS報道局には、「報道のTBS」との自負があり、アナウンサーを見下す空気があった。

 そんなTBS報道局を意識していたのではないか。久米氏は自分の番組をニュース番組とは言わず、ニュースショーと公言していた。

 番組が始まって間もない1985年10月、自局のワイドショー番組「アフタヌーンショー」で「激写!中学生女番長!セックスリンチ全告白!」というタイトルで番組ディレクターが知り合いの暴走族に女子中学生をリンチするように依頼し、暴行映像を撮影していたことが発覚して番組は打ち切りになった。ニュースステーションは、異例のことだが自局の起こした事件を取上げた。その報道の仕方を含めてTV朝日に怒った行動右翼が街宣車を連ねて毎日のように局舎に押しかけていた。

 それを取材していた通信社のカメラマンが右翼から暴行を受けた。その直後、私はその右翼団体の会長から相談をされた。通信社に暴力を振るったことへの正式謝罪をしたいから通信社との間を取り持ってくれというのだ。そんなバカなことに私を巻き込まないでくれと言ったものの、話を聞くと右翼団体にも意見を聞いてやる事情があるように思えた。

 会長の言い訳では、TV朝日の対応に誠実さが見られず、局員が右翼の若者の顔を撮影して刺激していたりしたことが暴行事件の伏線にあったという。だから若い構成員がカメラマンをTV朝日の社員と勘違いして暴行を働いてしまったというのだ。それだったらと私は間を取り持った。

 通信社の写真部長と右翼の会長は同じ大学の卒業ということもあり、スッカリ意気投合、その問題は右翼側が謝罪と弁償をすることで収まった。

 さて話をTBSの報道局に戻そう。

 86年に入って快進撃をするニュースステーションに対してTBSは“宣戦布告”を決めた。同じ時間帯に“帯(月-金)”のニュース番組をぶつけようということになったのだ。キャスター候補に何人かの名が挙がったが、筑紫哲也氏を推す声が強かった。筑紫さんは当時、朝日新聞の出す週刊誌「朝日ジャーナル」の花形編集長として人気があった。それに、以前、TV朝日の「こちらデスク」でキャスターを務めていて安心感もあった。

 問題は、「TV朝日‐朝日新聞」「TBS‐毎日新聞」というTVと新聞の資本系列で、そのねじれが心配された。

 それだけに筑紫さんとの交渉に入ったTBSは、筑紫さんに退社して専属契約を結ぶよう迫った。しかし、恐らく筑紫さんの脳裏に不安がよぎったのであろう。筑紫さんはその条件を受け入れなかった。「朝日の旗」を捨てられなかったのだ。そして、当然と言えば当然だが交渉は決裂した。

 いったん走り出した企画である。筑紫キャスターの目はなくなっても「ニュースステーション」をぶっ潰すために新番組は作られた。キャスターには社長の「鶴の一声」でNHK出身のアナウンサー、森本毅郎氏に決まった。

 森本氏は奥様方の人気者で、80年代に入って「NHKの顔」とも言えた。TBSはそこに目を付けて高額の契約金とギャラで引き抜き、「TBSの朝の顔」つまりは朝のワイドショー番組のキャスターに仕立て上げていた。

 期待していたほどの数字(視聴率)ではなかったものの、森本氏の人気は高く、それまでよりは数パーセント高い数字になっていた。

 「鶴の一声」は、報道局の幹部から聞いた話で直接私が聞いたわけではないが、「なんだ、森本かよ」と報道局にしらけた雰囲気が漂った。前述したようにTBS報道局には当時、変なエリート意識(他局の人たちや他の部署に対して)とコンプレックス(新聞記者に対して)があり、「NHKのアナウンサー上がり」の森本氏を面白く思わない空気が広がった。

 かくして87年秋、「JNNニュース22プライムタイム」が始まったが、報道局のそんな空気を反映して番組は盛り上がりに欠け、数字は低空飛行のまま推移した。

 また森本氏もストレスの多い毎日であったのだろう。現実逃避で女性の存在に依存していたのかもしれない。週刊誌に妻とは違う女性と親しくしていると報道されてしまった。

 番組が始まって誕生日を迎えてもいなかった。だが、それをいいことに、TBSは何の躊躇もなく森本氏を切った。そして、報道局のヴェテラン記者の小川邦夫氏に白羽の矢を当てた。

 

スター誕生!そして幕は下りた

2008-07-14 23:20:14 | Weblog
 嗚呼、終わってしまった。イヴェントや期間限定の仕事に共通することだが、思えば長いようで短い役者体験であった。

 この話が持ち上がったのが半年前。「その他大勢」のつもりで出演依頼に乗って第一回目の会議に足を運ぶと、それがいつの間にか主役。それも唄って踊って縄文の良さを語る舞台にしたいと言われた。

 唄ってはともかく、踊りの素質はないからとその部分は断ったが、乗せられるとどんどん舞い上がる性格である私はいつの間にか二人芝居の出演を快諾していた。

 そして、台本まで任せられるようになり、書いて送ると演出家はほめまくる。本読みをした時も演出家は面白い、おもしろい、スターの誕生だ!とまで言う。

 すっかりその気になっていたのだが、いざ本稽古になるとそれまで仏の顔であった演出家の表情がガラリと変わり、ダメ出しの連続。頭にきちんと叩き込んだはずの台詞が出て来ない。あれほど時間をかけて憶えたはずなのにとの思いがあるが、そんな言い訳が許されるはずもない。

 家では居間でくつろぐ時は当然だが、長風呂に浸かったり“朝のお努め”をする時も台本を片時も離さなかった。自転車や電車に乗ってももごもごとやっていた。テイプリコーダーに相手役の台詞を入れて練習もした。そこまでやってもそれでも肝心な時に台詞がスムーズに出てこないのだ。記憶力にはこの歳になってもある程度自信があっただけに正直な話し、気が重くなりかけた。後になって演出家に言われたのだが、それは台本が悪いからだとのこと。シェイクスピアの戯曲を読めば分かるが、名作の台詞は頭にすっと入ってくるし、すんなり口から出るのだそうだ。

 それだけではない。頭から最後まで出ずっぱりの私は、舞台の引き際や出のタイミングやその方向(上手と下手)、小道具をどこで身に付けるか等など覚えることがあまりに多すぎる。

 舞台監督が救いの手を出してくれた。前半部分ではジャーナリストの役なんだから台本を手に持っていてもいいのではというのだ。

 相手役のユーヤももがき苦しんでいた。台詞を覚えていないだけでなく、声が全然出て来ないのだ。映像や音響係で手伝いに来てくれたマサやKeiに聞くと、「後ろではほとんど聞こえません」と言う。

 公演前日に行なったゲネプロ(最終リハーサル)のデキは散々な出来であった。演出家だけでなく舞台監督や照明・音響係は恐らくこの時絶望的になっていただろう。

 私はユーヤと話し合った。彼の潜在能力に語りかけた。すると、そこでユーヤの目付きが変わった。彼のやる気に火がついたのは私の目に明らかであった。

 一方、ナマケモノの私はと言えば、ユーヤにはそうは言ったもののずるいやり方に逃げた。幾つかのカンニング方法を思い付いた。また、舞台を図にして自分の動きをそこに描いてみた。すると、自分が求められている動きが見えてきてすっと気が楽になった。助手に直子を付ける悪知恵も思いついた。

 そして、本番当日。早めに出かけて稽古をしようとしていたのだが、降車駅である東京駅の一つ手前の神田で乗っていた電車が急ブレイキ。車内アナウンスは非常信号に従って停車したという。幸い電車の半分はホームにかかっていたので、最悪でも神田で降りたらタクシーを使おうと思っていたら、他の路線の非常信号に誤作動したとの事でそれからしばらくして乗っていた電車は動き出した。

 10時に小屋に入り、早速稽古に入った。すると、前夜ユーヤが見せた表情はウソでないことがすぐに分かった。彼がひと晩で化けたのだ。まさに新星の誕生であった。

 朝の稽古はかなりの出来栄えとなった。

 午後1時45分。幕が開いた。

 本番になると、何回か私にミスが出た。案の定、台詞が飛んだのだ。だが、それをユーヤが見事にフォローしてくれた。彼はそして堂々と「縄文の若者(本当は女神)」を演じ切った。あれほど心配した声量も全く問題ない。私は見事に演じる彼を見ていて嬉しくなった。感動で目頭が熱くなった。すると、台詞は不思議なことにすんなり出てくるようになった。

 そして無事、幕を閉じることが出来た。

 4回の公演に200人を超える人が観に来てくれた。遠く愛知、静岡、新潟、山梨から足を伸ばしてくれた人もいた。山梨の加藤さんや埼玉北部の“タロー君”は、12,13の両日足を運んでくれた。しかも、高校教師の加藤さんは、自分の教え子を連れてきてくれた。

 カーテンコールを終え、ユーヤと私は舞台上で互いの健闘を称えあった。そして、舞台裏で支えてくれた人たちと乾杯。三本締めで成功を祝った。

 嗚呼、芝居は楽し。そして役者の世界は限りなく奥深い。演出家や劇場の社長は、私に役者としての才能があるかのようにべた褒めしてくれたが、残念ながら私は客観的に自分を観察する術を身に付けてしまっている。可能性はあるかもしれないが、とても一流の役者とは言えないのだ。

 私を魅了してやまない演劇だが、今後も関わり続けるかと聞かれると、今の私にそのつもりはない。

 

幕は開けられた

2008-07-12 23:50:58 | Weblog
 いよいよ芝居「縄文のビーナス」が開演された。

 台詞も満足に覚えられず、公演前日まで不安だらけでどうなるかと思われたが、いざ幕が開くと、私はともかく共演のユーヤが大変身。途端に芝居がしまってきた。若者の成長を見るのは本当に楽しい。

 残念ながら小屋は満員御礼とはならなかったが、遠くは新潟、愛知、静岡、山梨からも足を伸ばしてくださり、客席からは思いのほか熱い反響を頂いた。楽屋は花束とお菓子の差し入れであふれている。

 私の身体は満身創痍。稽古で喉は嗄れ、右肩は上がらず、左肘や左でん部は打撲で腫れ上がっている。腰はと言えば、パンパンに張った状態だ。だが、やる気は衰えることを知らない。

 明日の2回の公演で終わりかと思うと寂しい。芝居の面白さがようやく分かってきていただけにもっと味わいたいと思う。そこで、秋にはまた、何か違った形になるかもしれないが、公演をやりたいと思っている。

芝居呼び込み

2008-07-06 10:08:28 | Weblog
【前口上】
とざい、と~ざい。遠くに住む方もお近くの方も聞いてらっしゃい観てらっしゃい。
ナント、あのあざいさん家(ち)のくにおみさんが、今度は芝居に挑まれる。花のお江戸は京橋のそこは小さな芝居小屋。普段はまげ物人情話、色男におば様たちがおひねり投げて酔い痴れる。そんな所でバカをやるかと思われようが、これが本気の二人芝居。
戦場駆けて来たヤツが、夢が破れて「飲み打つ買う」のヤサグレ人生。そこに現れし若者に誘(いざな)われたるは不思議な世界……後は観てのお楽しみ。さあ、寄ってらっしゃい観てらっしゃい。

【縄文のビーナス】
開演日時:七月十二日(土)及び十三日(日) 午後一時と五時の一日二回公演
場所:MAKOTOシアター銀座(地下鉄銀座線京橋駅より徒歩3分/東京駅より徒歩9分)
入場料:大人二千五百円(ペア券四千円) 高校生以下及び身体障害の方(手帳提出が必要です)千円。
大衆演劇の誠劇団の常設小屋なので、着物を着て来場されますよう(!)また、おひねりを用意してくることをお勧めします。金に余裕があるようであれば、福沢諭吉っつあんを首飾りにされると喜ばれます(ハハ)。
開演は、切符にある時間からは、もう一つの劇団の「ルピスカ物語」が3~40分上演され、その後になるので御承知おきを。また、開場一時間前から整理券が配られる予定。全席自由席。
では、では。終演後はどうぞ楽屋に遊びに来てくだされますようお待ち申し上げております。。

二千八年年七月吉日

                浅井久仁臣

【芝居のあらすじ】浅井は職業軍人であった父親の影響を受けて幼少の頃から「戦争をなくしたい」と戦場ジャーナリストを志した。そして、その夢が叶い、レバノン内戦、湾岸戦争、パレスチナ紛争、ボスニア内戦など多くの現場に立った。軍事封鎖された現場に潜入する手法で度々世界的なスクープ(「サラエボのロミオとジュリエット」の撮影等)を飛ばしたことから、現地で「カミカーゼ・ジャーナリスト」と異名を付けられたこともある。だが、度重なる負傷で傷ついたのは、本人だけではなく家族であった。半年前、イラクで脚を撃ち抜かれて帰宅すると家に妻子の姿はなく、一人ぼっちに…。堕落した大手TV局とのやり取りに疲れ切っていた浅井は独り酒とギャンブルにはまっていく。現代社会の理不尽さと愛情の希薄さに辟易し、いざこざの毎日。パレスチナで共に潜入取材した長井さんがミャンマーで射殺されると、その寂しさと虚しさは極限に達する。そんな浅井の前に現れたのが不思議な雰囲気を醸し出す若者ユーヤ。浅井はユーヤに誘われて別世界へと旅立つ。

NHK教育が深夜放送の停波を検討

2008-07-03 20:23:22 | Weblog
 福地茂雄NHK会長は3日、地球温暖化防止対策の一環として、今秋をめどに教育テレビの深夜放送の一部休止の検討を始めたと記者会見で発表した。

 福地会長は席上、これに先立ち、6日の教育テレビの放送終了時間を通常より約2時間半繰り上げ、午後11時から翌日午前5時まで停波する事を明らかにした。総合テレビとラジオ第1放送は災害放送への影響を考慮し、放送時間の短縮は行わないとのことだ。

 今回の停波では、NHKの試算によると240世帯の1日分に当たる約2400キロ・ワット・アワーの電力量が節約され、約864キロ・グラムの二酸化炭素削減効果がある。

 福地会長は「NHKが二酸化炭素削減を訴える中で、まず放送事業そのもので自ら削減を進めるべきだと考えた」と述べた。

 これは他の放送局に先駆けて行なうもので、出来ればBSなどの停波も考えると嬉しいが、まずは評価されるべきである。

 さあ、この動きを受けて民放がどのような動きに出るか、注目したい。

幸せな85歳

2008-07-02 23:48:31 | Weblog
 家人が母の85回目の誕生日を“サプライズ”で飾りたいと言ってきたのは年が明けて間がない時であった。それも我々の作る手料理でもてないしたいと言う。

 ただそれも条件がいくつかあり、足腰の弱った高齢の母をこちらにまで呼び出すことは出来ず、郷里まで我々が足を延ばさざるを得ないこと、サプライズである以上、母親に我々の姿を見られてはならないことなどだ。

 一人暮らしの甥っ子にアパートを貸してもらい、二人で料理を準備して母が来るのを待った。

 母を大好きな直子は、行く前から大興奮。土産だけではなく、飾り付け用に風船などを取り寄せたしてその日に備えた。

 “謀略”は大成功。母親は大喜びで、食事の最後に出したバースデイ・ケイクの大きなかたまりを「甘いものは別腹」と言いながら大口を開けて飲み込んだ。

 その後も母親を祝う人が相次ぎ、一昨日には電話を入れると、「ごめん、今お迎えが来ているから」と電話を切られてしまった。

 後になって聞かされたのだが、迎えに来てくれたのは、教え子たち。それも約40年前に教えた生徒だという。しかしよく聞いてみると、母親はその人たちの担任であったわけではない。「よく分からないけど大事にしてくれるのよ」と母が言う通り、大したことをしたわけでもないだろうにいつまでも恩義を忘れない義理堅い人たちだ。

 母は今でも毎年年賀状を毛筆で書いている。それも、両面だ。私なんぞは面倒臭いからと印刷に頼っているので大きな顔は出来ない。先日そっとその枚数を聞いてみた。すると、あっけらかんと「大体350枚。でも最近はちょっと大変だね」という答えを返してきた。

 私は、「おふくろは本当に幸せもんだよ。その歳になってそれだけの人たちに相手をしてもらっているんだからね。感謝しようね」と言ったが、心の底からそう思う。

 私は故郷から遠く離れて母親の面倒を見ていないが、おふくろと辛抱強くお付き合いしてくださっている方たちがいればこそ、寂しさをほとんど感じることなく、今も毎日外出して楽しい日々が送れている。そんな皆さん方にこの場を借りてお礼を申し上げたい。