浅井久仁臣 グラフィティ         TOP>>http://www.asaikuniomi.com

日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

そろそろ?

2006-04-27 10:39:52 | Weblog
 エジプトのシナイ半島のリゾート地ダハブで24日夜、ほぼ同時発生の3件の爆発があり、これまでに20人以上が死亡、多くが負傷した。また、26日にも、今度は同半島の北部で連続爆破が起きた。こちらは今のところ死者は確認されていない。

 サウディ・アラビア半島東部にあるバハレーンでも26日、繁華街で2発の爆発が確認された。犠牲者についての情報は今のところ入ってきていないが、大規模な爆発ではないようだ。そして、少し離れたスリランカでも25日、国軍司令官を狙った反政府武装勢力の自爆攻撃が起き、司令官は重傷、随行員8名が死亡した。イラクではほぼ毎日、自爆攻撃を含む武装勢力からの攻撃が相次ぎ、もはや数名の死者ではニュースにならない状態だ。

 今のところ、これらの攻撃の実行声明は出されていないが、状況を考えると、いずれもがイスラーム系武装勢力の可能性が高い。気になるのは、23日にカタールの衛星TV局「アル・ジャズィーラ」が放送したオサマ・ビン・ラーディンと言われる人物の呼びかけだ。

 その人物は呼びかけの中で「(西側諸国による)ハマスの拒否は、イスラム教徒に対して十字軍とシオニストが戦争を仕掛けていることを確認するものだ」と述べている。

 今回は恐らく米国情報関係機関から情報が寄せられたのであろう。在米日本大使館が珍しく素早い対応を見せ、在米邦人に対してメイルを送り、録音声明が各地のテロ組織に影響を及ぼす可能性も排除できないと指摘、人が多く集まる場所では、警戒を強めるよう呼び掛けている

 アル・カーイダのこれまでの行動パターンを見ると、「そろそろ」と思うのは当然かもしれない。もちろん、これまで彼らの仕業とされてきた事件が全て真正であることが前提だが、恐ろしいことの前触れでないことを願うばかりだ。

 普段から気を付けておいていただきたいことだが、海外旅行をする場合、航空会社やホテルの選び方、訪問先の近くに米国やイスラエルのシンボルになるような建物や記念構造物がないかなど、皆さんにも出来ることはある。細心の注意を払ってご自分の身を守っていただきたい。


 


相談されるということ

2006-04-27 09:47:31 | Weblog
 「親父が27日に退院します!」
 
 10日前、大量吐血して緊急入院した友人Aの長男Bが弾んだ声で電話をかけてきた。

 安堵した。本当に嬉しかった。彼が倒れたとJR南浦和駅前で聞いた時、恥ずかしい話だが、あまりのショックに言葉を失った。その直後、電車を待つ間、そして電車に乗ってからも涙が止まらなくなった。

 「鬼の目に涙か」
 
 私を外見だけで判断している人は、その時の私を見たらおそらくそう思ってしまっただろう。実は、普段強がりばかり言っているが、これで結構涙もろいのだ。

 Aからは様々な相談をされていた。私と同じように肩で風を切って昔気質の「男の美学」を貫くAにとっては、私は相談しやすいのだろう。その彼に対して、私はひと月ほど前、檄を飛ばした。彼の仕事に対する見栄や消極性を手厳しく叱ったのだ。

 それからというもの、彼は一変、家族が目を見張るほどの頑張りを見せた。一時はそれが成果を生み、家族の中にも余裕の表情や笑いが見られるようになった。

 しかし10日前、それが一転、私は深い悩みに陥った。胃潰瘍で大量吐血して病院に運び込まれたのだ。それも、深夜2時だからかもしれぬが、30分以上も救急車に乗せられたまま病院に受け入れをことごとく拒否され、ようやく7軒目に受け入れられたという。その時の家族の心痛はいかばかりかと想像するだにつらかった。

 Aの悩みの深さを思い知らされた。胃に穴が開く寸前までギリギリのところで踏ん張っていた彼のつらさを思いやることなく、檄を飛ばした自分の浅はかさを悔いた。恥じた。私は相談を受けることが非常に多いが、これまでこうして相談者を傷つけてきたこともあったに違いない。

 だからといって、相談を一切受け付けませんというわけにはいかないだろう。Aの家族を含めて、今現在、頼りにしていただいている方たちは少なくないからだ。また、人伝に私に相談を持ちかけてくる方たちも後を絶たない。ただ、自分がやることで知らず知らず相手を傷つけてしまう可能性が常にあることを肝に銘じていかねばならない。相談されると言うことの難しさを教えてくれたAの入院であった。

朝日の名コラムニスト、小池民男さん逝く

2006-04-26 09:00:51 | Weblog
朝日新聞の小池民男さんが亡くなった。と言われても、ピンと来ない人がほとんどだろう。

 小池さんは01年から04年まで「天声人語」の筆者をされていた。毎日、インクの臭いと共に届けられる小池さんのコラムは、ブンヤの泥臭さではなく、文学者が放つものに近い繊細な匂いを感じさせた。その巧みな言葉遣いと非凡な視点・論点は、朝日の記者にならなければ、文学の世界で光り輝く存在になっていたのではないかと思わせた。

 小池さんとは長いお付き合いがあった。記憶が定かではないが、朝日ジャーナル(1992年廃刊)の書評を通じて知り合ったような気がする。ジャーナルに何回か単発で書評を書いたが、その時の担当者が小池さんだったのではないかと記憶しているのだ。

 その後、夕刊の文化面で何度かお世話になった。優しい人柄で、きつい表現は使われなかったが、私の原稿に不備があると、妥協はされなかった。文化面では珍しく書き直しを求められたこともあった。しかし、彼の指摘は的を射たものであり、その指摘に感謝したものだ。

 85年、私の「心の師」である岡村昭彦さんが亡くなった時、小池さんに「短くても良いから何か書かせて欲しい」とお願いすると、「この枠は外部の人には使えないから署名にならないですよ」と言いながら、夕刊の文化面で追悼文を書かせていただいた。

 20年近く前になるが、著書「魔術的カケヒキ学」を贈呈すると、すぐに連絡を下さり書評面の「著者に会いたい」欄でこの本を絶賛していただいた。インタヴューの際、本の内容とタイトルの落差を心配していただき、タイトルの名付け親が私でなく、出版社(作家、椎名誠さんを世に出したことで有名。タイトルも出版局長が決めていた)であると知ると、「失礼ながら、このタイトルだと売れないかもしれないですね」と厳しい指摘をされた。そして、出版社の「浅井を売り出すんだ」との意気込みにもかかわらず返品が相次ぎ、在庫の山となった。

 小池さんとはここ10年、ほとんど交流がなかったが、私が主宰するメディア塾の講師をお願いしようと2ヶ月前、電話でお話をしたばかりであった。彼の所属する論説員室でも編集委員室でも中々つかまらず、ようやくつかまえることが出来たと喜ぶと、電話口で病気療養中であることを知らされた。声に力がなく、ただ、「資料を送ってください」と言われた。「文章講座」をお願いしようとしていただけに、残念だったが、いずれにせよ声に元気がなくて話し続けるのも悪い気がして「それでは次回にお願いします」と、早々に話を終えてしまった。

 人伝に聞くと、小池さんは今年初めから入院をされていて、私が電話をしたとき、病院から抜け出してきていたようで偶然お話が出来たらしい。本人の意思を無視してお見舞いに駆けつけるのもどうかと思い、折を見て連絡してみようと考えていた。今月初めにも「時の墓碑銘」でコラムを書いておられたので、死期が迫っているとは思いもよらなかった。こんなことなら無理を言ってでも会っておきたかったと今さら言っても「後悔先に立たず」の典型だ。

 食道がんを患っておられたから、長年の過労が彼の死に影響したと断定は出来ないが、いずれにしても「仕事の虫」の典型で仕事が彼の寿命を縮めたのは間違いないのではないか。急ぎ過ぎた死だ。ご冥福をお祈りする

小沢さんの挨拶回り

2006-04-23 11:12:14 | Weblog
 民主党の代表になった小沢さん、早速たくましいところを見せている。

 代表になった後に挨拶回りをした中に、日本遺族会や農協、それに自民党の牙城と言われて来た日本医師会や経団連などの財界のネットワークが含まれている。

 小沢氏とすれば、「いや、自民党時代からお付き合いのあった団体だから」と言うつもりだろうが、自民党にすれば心穏やかにしていられないだろう。小泉首相までもが、「小沢さんは古い自民党体質」と吼えている。

 そう。私がずっと主張し続けているが、小沢さんの恐さの一つがここにある。小沢さんは自民党の幹事長時代、上記の団体をがっちり情報面でも握り、集票や集金に協力させていたのだ。表向きには、「ご協力をお願いいたします」と深々と頭を下げていたが、票集めに乱れがあったり、カネを渋ろうものなら電話一本で幹事長室や事務所に幹部を呼び寄せ、眼光鋭く「どうされました?どうぞよろしく」とやっていたそうだ。睨み付けられた側の人間に話を聞いたことがあるが、それはそれは迫力に満ちたものであったと言う。

 それだから、経団連の奥田会長のような大御所が、代表選直後の記者会見で「民主党は党としてまとまるだろう。自民党と拮抗する勢力ができるのはよいことだ」というヨイショ発言をするのだ。

 小沢さんの挨拶回りはそれだけに終わらない。自民党とがっちりスクラムを組むかの姿勢を見せ続ける公明党の“親元”、創価学会にまで足を伸ばした。創価学会の秋谷栄之助会長に突然、会談を申し込み、押しかけたのだ。

 これに慌てたのが創価学会側で、断るわけにもいかず(秋谷会長の居場所やスケジュールは事前に小沢サイドが把握していたことは十分有り得る)、10数分だが時間を作って「挨拶回り」を受け容れた。

 小沢氏は、民主党の中でも数少ない創価学会に太いパイプを持つ政治家だ。旧新進党時代にはがっちりスクラムを組んでいた仲でもある。ただ、創価学会や公明党の中には、その時、「豪腕小沢」に辟易した連中も少なくないので、小沢氏の姿勢が今後どのような波紋を呼ぶかは定かでない。

ACTNOW活動 最後の報告 最終回

2006-04-22 23:14:58 | Weblog
秋山砦の援農

 折を見計らって、ヴォランティア塾を提言した。それは、私が災害社会学の師とする大矢根淳によって開講されたものに始まり、日本初の宇宙飛行士であり、福島の山奥から「農の在り方」への鋭い視点を発信し続ける秋山豊寛の農場に行き、援農をしながら学ぶ「お出かけ塾」へと発展した。

 大矢根には「図上想定訓練」を指導していただいた。隆一郎と、当時大学8年生であった「ハチネンセー東」は、大矢根の研秋山はとても頭の回転が速く、時折り、自分の頭の回転速度に目が付いていかず目を回しているが(ウソですよ)、その頭の回転の速さゆえに見えるものがあるようで、彼の話を聞くものはその視点の鋭さに舌を巻く。
究室にまで足を運んで仕込まれたり、登下校の前に事務所の周りの調査をしていて不審者と間違えられたりと、苦労をしながら成長を重ねた。

 秋山豊寛の世界に多くの若者が惹きつけられた。若者達は、秋山と言えば、TVで見てきた、中には教科書の教材として触れてきた「別世界」の人、との思いがある。彼の「砦」は、阿武隈山系の山道を上り詰めたところにあるが、森を背後に田畑を前庭のようにどっしりと構えている。そこで来訪者を笑顔で迎え入れるおやじは、TVや教科書で見た「あの秋山豊寛」というよりも、そこらにいる汚い身なりの農夫だ。ズボンは泥だらけだし、手の爪は真っ黒だ。
 
 ただし、その笑顔と格好に気を許していると、秋山特有の鋭い指摘や表現が飛んでくる。秋山はとても頭の回転が速く、時折り、自分の頭の回転速度に目が付いていかず目を回しているが(ウソですよ)、その頭の回転の速さゆえに見えるものがあるようで、彼の話を聞くものはその視点の鋭さに舌を巻く。

 しかし、それは、感性の鈍い者には見えず、秋山のスルドイ視線に気付かずにいた者も少なくなかった。豊かな感性を持つ者にしか見えない、いわば、不可視光線は、それだけで若者に良い意味での刺激を与えていた。ただし、秋山の魅力は、その頭の良さだけではもちろんない。口ではけなしたり駄目押しをしながらも、温かい眼差しと言葉掛けを忘れないから否応なしに秋山に惹かれるのだ。そして、若者達はこれまでに出会ったことのないタイプの大人である秋山にはまっていった。


ACTNOWの閉幕


 一時的には、「救助隊」「帰宅難民」「図上想定」などで全国でも注目される存在になったACTNOWだが、時間の経過とともに活動が停滞していった。そして、昨年末、活動に終止符が打たれた。
 
 ACTNOWが活動停止したのは、決して金銭的な理由ではない。ACTNOWがACTNOWでなり得なくなったからだ、と私は理解している。つまり、行動の伴なわない「今こそ行動を」グループになってしまったからだ。

 それは、新潟中越地震の前から感じていたことであった。組織全体の動きが悪く、中心メンバーに重い負担がかかるようになっていた。それでも、「いざ」となれば動くのではないかとの期待があった。だが、中越地震が起きた時、残念ながらそのような淡い期待が、何の根拠も持たない「絵に描いた餅」であったことが露呈された。

 組織が「死に体」になったのは、メンバーの責任であるはずがない。もちろん私が責を負う事であった。そこで私は一昨年の末、代表の座を辞した。

 私から代表の座を譲り受けた菅隆一郎にとってはあまりに荷の重い役割であった。あのような状態で引き継がせたのは、間違いであったのではないかと今になって思う。

 ただ、隆一郎は、このままACTNOWを終わらせないと固く心に誓っているようだ。ACTNOWの10年を無駄にしないためにも活動を再興させたいと考えているのだ。彼が、東京消防庁のレスキューでこれまで学んできたことをどのような形で成果させるか、皆さんもぜひ注目していていただきたい。

 かく言う私はもうすでに動き始めている。川口市で「災害ネットワーク」作りに関わり、早ければ今年7月には旗揚げするつもりだ。また同様のネットワーク作りをさいたま市でもやりたいと考えている。皆さんの中で興味のある方はぜひ私の方までご連絡いただきたい。

 いずれにしても、どのような形であれ災害支援のための活動は欠かせない。関東大震災クラスの大地震が首都圏を、また他の地域を襲うのは間違いないのだから。皆さんも、地元でぜひ「災害に強い街づくり」を実践していただきたい。
(文中敬称を略させていただきました)

再度 ごめんなさい

2006-04-22 22:39:12 | Weblog
 「水俣フォーラム」情報で再度ミスを犯していました。

 今年の司会者は、劇作家の平田オリザさんです。私がご案内してしまった澤地久枝さんではありません。10年前の情報を使ってミスしたのに、性懲りもなくまたミスをしてしまいました。

 あ~、申し訳ないというだけでなく、恥ずかしい。本当にごめんなさい。

米中首脳会談 歓迎式典に乱入者 

2006-04-21 01:00:08 | Weblog
 今から2時間ほど前、中国の国家主席としては初めて米国訪問した胡錦濤氏は、ホワイトハウスの庭で行われた歓迎式典で、ブッシュ大統領と共に演説、人民元改革の推進や市場開放の拡大、知的財産権保護に引き続き取り組むと述べた。

 何か起きる予感がした私は、CNNの実況中継を見続けたが、胡主席が演説を始めてしばらくすると、女性の金切り声が聞き取れた。カメラに捉えられた女性(4,50代に見えた)は、報道カメラマン用に設けられた区域に潜り込んでおり、警備員が彼女を外に連れ出すまでにかなりの時間がかかった。

 女性が叫び声を上げても胡主席は演説を続けていたが、参列者の耳目は明らかに乱入者に集まっているように感じられた。そして、カメラは胡主席の不快感を浮かべた表情を捉えていた。

 それにしても疑問なのは、彼女が何故厳重な警戒の中、カメラマン席に潜り込めたのか。そして、警備員が彼女を引きずりだすまでになぜあそこまで時間がかかったのかということだ。

 これは、胡主席にとっては、明らかに恥をかかされたことになる。式典の後に行われている首脳会談でアメリカ側がどのようなフォロウをしたかは定かでないが、下手をすれば国家間の問題になりかねない不手際だ。大事にならないことを願いたい。

大変だ! 水俣病50周年記念講演会の紹介で大変な間違い

2006-04-21 00:20:41 | Weblog
bananaさん
そして、他の読者の皆さん
関係者の皆さん

 ごめんなさい。

 先日、「伊藤正孝さんを偲ぶ」で紹介した水俣病記念講演会の紹介で大変な間違いをしてしまいました。インターネットで「水俣フォーラム」のHPからナント10年前の情報を貼り付けてしまったのです。先ほど、ブログの読者(ハンドルネイムbananaさん)からのコメントを見てびっくり仰天。早速訂正いたしました。皆さん、今年も10年前同様、29日に開催されますからぜひ参加してくださいね。


水俣病50年記念講演会
  「『水俣』新たな50年のために」
  2006年4月29日(祝)/日比谷公会堂(東京都)/当日券1800円 前売り券1000円

  講師:緒方正人(漁師・水俣病患者)、中原八重子(水俣病患者)、石牟礼道子(作家)、原田正純(精神神経科医師)

  発言:柳田邦男(ノンフィクション作家)、田口ランディ(作家)、最首悟(現代思想)、上條恒彦(歌手)
  司会:平田オリザ(劇作家)


AP通信時代 その1

2006-04-20 12:31:04 | Weblog
 鈴木君のJFCC(日本外国特派員協会)からの受賞について情報集めをしていたら、かつてAP通信で働いた仲間(日本人初のJFCCの会長もその1人)の話がいくつも出てきた。そこで、いい機会と自分で勝手に決め付けて、私のAP時代の話を何回かに分けて書く事にした。

 私は、1973年6月から76年9月までAP通信社に所属していた。

 APは、アメリカの新聞社や放送局が出資して作った世界最大規模のマスメディアだが、日本ではAP通信と言ってもピンと来ない人が多い。ただ、「TVなんかで、AP-共同って言うでしょ?」と言うと、うなずく人も少なくない。

 そのアジア総局は、私が在籍した頃、有楽町にあった。今はマリオンがある所に日劇があり、その前に朝日新聞本社があった時代だ。仕事場は、その朝日新聞本社ビルの6階にあった。隣にはNYタイムズ東京支局があった。

 英国から帰国したばかりの私は、APとロイター(英)通信、そして広告代理店からオファーを受けた。以前にも書いたが、リンガフォンからも当時まだ26歳なのに破格の高給で英会話スクールの校長にと誘われていた。

 ただ、戦場ジャーナリストへの夢は絶ち難く、国際的に通用するジャーナリストになるには一番近道と、一番給料は安かったがAPを選んだ。

 APの入社試験は簡単なものだった。私の場合、ロンドンで毎日新聞の助手をしていた時の上司である小西昭之特派員(故人。後の外信部長)が、「あることないこと」を並べて絶賛してくれたらしく、第一関門も第二関門もクリアしてしまい、副編集長から幾つか与えられた新聞記事を英文記事にまとめることと、幹部との面接だけであった。

 当時のアジア総局長のロイ・エソイヤンは、アルメニア難民の身からまさしく立身出世をした、APの中でも「伝説の人物」であった。祖国を追われたロイ少年は、家族と共にソ連経由で香港に辿り着き、そこでAP通信香港支局のコピー・ボウイ(コピーをしたり、記者の手伝いをする職務)から記者、そして、特派員から支局長、総局長と上り詰めた。モスクワ特派員時代には、当時のソ連政府から追放処分を受けた経歴を持つ。

 編集長は、エドゥ・ホワイトゥであった。彼は、ヴェトナム戦争取材で知られた記者で、いつもパイプ煙草を銜え、相撲取りのような巨腹を突き出して「Mr. Asai」と言って、私の書いた原稿を手に“迫って”きた。彼の指摘はいつも的を射ていたので彼には頭が上がらない思いが強かったが、私の書くヴェトナム戦争の記事の言葉遣いではよく言い争った。当時、アメリカの報道機関では、南ヴェトナムの反政府勢力に対して「enemy,rebel,vietcong」という単語が普通に使われていた。当然のことだが、編集長に最終権限があるので私の原稿には、それらの言葉が書き連ねられていた。

 当時、APは共産圏のほとんどの国から支局開設を許可されておらず、我々は中国、北朝鮮、それに北ヴェトナムから入る情報を基に記事を書いていた。ただ、中国に関しては大御所がいるため、分析記事は恐れ多くて書けなかった。その名は、ジョン・ロドリックといい、「長征(蒋介石率いる国民政府の攻撃に対して共産党勢力が2年かけて反攻。この時毛沢東体制が確立された」にも同行取材、毛沢東や周恩来と知己があることで「APにロドリックあり」と言われた、世界的に有名な記者であった。 

 そんな幹部がずらり勢ぞろいした最終面接であったが、生意気盛りの私には、恐れ多いと言うよりも、国際ジャーナリズムの場にいることから来る興奮の方が大きく、結構大法螺を吹いてしまった。

 数日後、合格通知が舞い込んできた。呼び出された日に行くと、編集長から仕事の説明がされた。基本的には、半年から1年間、ジャパン・デスクをしてもらう。特別な研修はなく、いきなり仕事に入れと言う。勤務体制は、24時間を3つに割ったもので、午前7時から午後3時の早出の後は、8時間毎に割られたスケジュールだ。

 仕事の合間に記事を書けば良いと高をくくっていたが、この仕事が予想以上にきついものであった。APは全米はもちろんのこと、全世界に支局を持つ会社だ。そこから打電される記事は、ニュー・ヨークの本社に集められる。そして、その膨大な量の記事がアジア向けに東京に送られてきた。

 当時はまだ海底ケイブルを使ってニュースが送られてきていた。技術的なことは分からないが、いずれにしても送られてくるニュース原稿がgarble(乱れた状態になる)されてくることが多い。それを、文脈から判断して原稿を書き直して、日本の契約各社やアジアの支局に送るのだ。

 ところが、大きな問題がそこで生じた。タイピストに修正した原稿を渡すのだが、最初にその作業を行ったところ、「エッ、タイプ打てないの?」と言われてしまった。手書きだと時間がかかるし、私の悪筆だ。タイピスト泣かせであることは明らかだ。どうやら、記者をする以上、タイプを打てるのは当然ということで、入社試験の際、聞かれもしなかったらしい。

 「大変じゃ、大変じゃ」と、それから寝る間を惜しんでタイプを打つ猛特訓をした。タイピスト学校が当時は街に林立していたが、そんなところに行っている余裕はない。頼れるのは自分の力しかない。ところが、まあなんでも、大体はやればなんとかなるもの。1週間後には何とか形になるまでになった。

Baseballと野球

2006-04-20 00:47:07 | Weblog
 ASE(私の経営する英会話学校)の生徒で、将来スポーツ・ジャーナリストを目指す東京国際大学の学生、鈴木将啓君がこの度、日本外国特派員協会主催の「第1回Swadesh DeRoy Scholarship」の最優秀賞を受賞した。賞金も50万円と、学生にしては大金が与えられた。

 鈴木君は昨年、約10ヶ月間、米国オレゴン州に留学していたが、その時の体験を下に「Baseball and Yakyuu」と題するエッセイを書いて応募していた。

 話の筋は、留学先からスィアトゥル(シアトル)まで比較的近距離なので何度もマリナーズの本拠地である「Safeco Field」球場を訪れ、プレイ・スタイルからファンの応援の仕方まで、鈴木君自らの目で発見した「Baseballと野球」の違いだ。それも、さすが将来、スポーツ・ジャーナリストを目指すと言うだけあってスィアトゥル・タイムズのスポーツ・エディターにも意見を求めている。

 彼のエッセイを読んだが、これなら名うての外国人特派員も一票を投じるであろうという内容のものだ。また、非常にコンパクトに上手くまとめてある。

 その鈴木君が、今週末から始まるメディア塾に参加することとなった。たった半年という短い期間だが、どのような成長を遂げてくれるか、今から楽しみだ。

ACTNOW活動 最後の報告その2

2006-04-19 08:48:40 | Weblog
ACTNOW誕生
 
2回の現地活動をした上で、皆で始めたこの活動を組織化するか全員に意見を聞いた。そして、全員一致でACTNOWが誕生した。
先ずは、実行委員会を作り、組織の4本柱を打ち出した。
①大災害の直接・間接的支援活動
②支援活動で得られた体験や情報を地元で生かす
③行政との協働
④若者が活躍する場を作る。特に、調整役の発掘と養成に力を入れる

 最初の活動は、現地入りしてテント基地を作り、ACTNOWとして旗揚げすることであった。場所は、長田区役所と川を挟んだ公園の一角で2基のテントを張って、焼け落ちた鷹取商店街や区内の避難所でヴォランティア活動を始めた。
その年はとても寒く、テントの中にまで六甲下ろしが寒風を吹き込み、寝袋に包まっても寒さで寝付かれないこともあった。

 最初は戸惑うことの多かった現地活動だが、鷹取商店街の人たちにも快く受け容れていただき、やがて街の復興活動の助言や支援を求められるまでになった。
長田区役所のヴォランティア・ルームはいわば、学園祭のノリであったが、そこに少し違った空気を持ち込むためにもと、ミーティングの進め方を指導したり、ヴォランティア組織の活動を記録に残す作業を提案して回った。
 私自身がヴォランティア経験を持っていなかったこともあり、活動は失敗の連続であった。ただ、私は代表を任された以上、「最近の若い者は…」という言動は絶対に見せないと自分に誓い、また若者にウソはつかない、上から見下したり、命令したりしないといったことを肝に銘じた。
 全国から大勢のヴォランティアが押し寄せ、「ヴォランティア元年」との言葉も生まれた。だが、現場入りしたヴォランティアやヴォランティア組織に「ヴォランティア公害」と言われても仕方のないものも少なくなかった。中でも、大物演歌歌手が主宰する「じゃがいもの会」のレヴェルの低さには辟易した。その態度の横柄さもそうだが、自らは何も用意せずに被災地入りして、自分達はまるで客人であるかのように振舞う。食事は用意されて当然と言い切る者もいて、ACTNOWがヴォランティアのためにと買い込んだ食料もあっという間に彼らによって食べられてしまった。
 ACTNOWは、現場入りしてもらうヴォランティアは出来る限り面接をして指導したり、中には参加を断る場合もあったが、それでも現地で問題を起こす者がいた。だから、真摯にヴォランティア活動をする者に負担が重くのしかかった。それに耐え切れずに活動から離れて言った人もいた。その人たちには申し訳ない気持ちで一杯であったが活動を止める訳にはいかなかった。
 
シンポジウムと救助隊

被災地の支援活動を続けるだけではなく、4本柱の②と③を実現するために、埼玉県や旧浦和市、大宮市、などの行政の災害対策担当者を呼んで、市民達とのシンポジウムを企画した。
「そんな、市民の皆さんの前で恥をさらすのは勘弁してくださいよ」と、およそ役人らしからぬ正直な反応を示す担当者もいたが、県の担当者が出席を表明すると、途端に右へ倣えで参加を決めた。
その頃、私の頭の中は、ACTNOWをどうするか、で一杯であった。そう、四六時中ACTNOWの活動を考えていたのだ。
震災から約半年が経っていた。私はNHKのラジオ番組の収録を終えて旧浦和(現さいたま)市役所の近くを歩いていた。ふと見上げると、消防本部の訓練塔が見えた。そこからオレンジの制服姿のレスキュー隊員が降下訓練を繰り返していた。

「これだ。これをやらせてもらおう」
そう言いながら私は消防本部の建物に入っていった。
阪神大震災では、消防署員は動きが取れなくなり、代わって地元の消防団員や近隣の住民たちの活躍が目立った。
それを受けて、行政は住民たちの自主防災組織率向上を謳い文句にして新たな予算を付けようとしていた。だが、首都圏では、隣人の顔も知らない住人が多い。そんな人たちに、行政が自主防災を呼びかけてどれだけ効果があるか私は疑問に感じていた。それよりも、若者が参画したくなるような活動はないかとずうっと考えていた。
「なんだこの胡散臭いオヤジは」と、言葉にこそしないものの、「若者を訓練してくれ」などと変なことを要求する私に対応した消防団員は戸惑いを見せた。
だが、半年も通い続けると、相手は根負けして「ACTNOW救助隊」の訓練に同意してくれた。佐藤記者は乗り気になり、紙面を大きく割いて「全国初」と救助隊の紹介記事を書いてくれた。
そうして誕生したのが救助隊なのだ。だが、後になって分かるのだが、消防署の中は、私の要求を巡って侃々諤々状態であったそうだ。その時、裏で動いていたのが、後に我々の指導教官になる永堀満である。彼は、「市民団体がそう言って来てくれているのだから真剣に検討すべきだ。担当は私がやる」と自らその役を買って出たのだ。
救助隊は、今だから言うが、胃の痛くなることの連続であった。メンバーが夫々の自己都合で、休む、退会すると言ってくるのだ。また、朝寝坊をして遅刻する者も珍しくなかった。時には、訓練の参加者が5名。教える側がその数を上回ることもあった。隊長役を買って張り切っていた武田臣司も隊員のあまりのわがままに最後になると「天岩戸」に隠れてしまった。
そんな時でも永堀は私に苦言一つ言わず、常に笑顔を絶やさず、「代表、俺の方は大丈夫です」と言ってくれた。大丈夫なはずはなかった。彼は私と違って、役人だ。いくら彼が消防の中で評価が高いといっても、前例のないことをやって失敗すれば、大きな汚点になる。だが、それなのに彼は私を気遣って常に気丈でいてくれた。私より一回りも年下だが、私は彼を心の底から尊敬するようになった。
最近呑んだ時、そのことが話題になった。すると、永堀は、「あん時はさすがに参りました」と本音を言った。

りゅうのこと

私の後を継いで代表になってくれた若者が二人いる。出口朱輝と菅隆一郎だ。二人共若い時に私と出会い、“道を誤った”口だ。
出口は、私が彼の通っていた中学校で卒業記念講演をした時の卒業生だ。まだ、紅顔の美少年であった出口は、「こんな怪しい大人になるまい」と心に誓ったのに私の経営している英会話学校に通うようになり、いつの間にかACTNOWに誘い込まれていった。2年近く代表を務めたが、2代目救助隊隊長も兼務して大活躍してくれた。
そして、その後を継いだのが、りゅうこと菅隆一郎だ。
彼もまた英会話学校の生徒であった。それも3歳の時からだから、彼にとっては、私は両親以外ではもっとも長く付き合う大人となった。
りゅうが救助隊に入ってきたのが、中学3年の時であったと記憶している。何となく入りたそうにイヴェントに参加してくるりゅうに「入りたいのか」と聞くと、どんぐりのような眼をますます真ん丸にして「ハイ!」と力強く頷いた。
永堀さんと出会ったりゅうは、素晴らしい先輩に傾倒、消防の世界に引き込まれていった。彼が学校のカバンの他に、いつもリュックを背負って歩くようになった。中を見せてもらうと、自分で考えて品揃えした救助・救急用機材が入っている。
高校2年生の時、私は彼に呼び出され、近くの公園での自主訓練に付き合わされた。ロープワークを黙々と繰り返すりゅうに、話があるんだろう?と水を向けると、「僕、消防に入ります」と、ボソッと言った。
りゅうは小さい時からパイロットになるのが夢であった。その為に長年英会話を勉強していたのだ。だが、その夢を捨ててまで消防の世界に入りたいというのを聞いて、私はカンドーした。恐らく、貴乃花の優勝を見てカンドーした小泉首相の10倍位カンドーしたと胸を張っていえる。
りゅうは、結果的に永堀さんの下ではなく(浦和消防にも合格していた)、東京消防庁に入った。そして、レスキュー隊のメンバーになった。
そのりゅうが、出口の後に出戻り代表になった私を継いで三代目代表になってくれた。

ACT鍋

若いメンバー達から「自分達の空間が欲しい」という声が強くなり、95年の暮れ、独自の事務所を持つことになった。
これについては、ACTNOW創設メンバーで年配者たちの多くが反対した。だが、私は若い人たちの場作りを柱の一つに掲げている以上は、頑張ってもいいではないかと、代案を出した。それは、ACTNOWに財力が付くまでは私が事務所として借り上げ、それを皆に使ってもらうという案であった。
しかし、それすら猛反対に遭った。そこで、私は反対覚悟で暴走した。実行委員会のメンバーには物件の幾つかを見せ強引に承諾させてしまったのだ。
これが後になってもしこりとなり、しばらくして何名かのメンバーを失うことになる。
しかし、事務所を借りた直後に「日本海タンカー重油漏れ事故」が起き、活動に躍動感さえ感じられるようになった。
私はなるべく事務所にいるようにして、えさで釣ることもした。ストーブの上に鍋を置き、うどんすきやおでんなどを振舞った。ACT鍋と称されるようになった鍋パーティも頻繁に行われた。すると、人が自然と集まるようになり、人生相談やらなんやらかんやら、談論風発の場となった。そこからACTNOWカップルも幾つか誕生、事務所は文字通りの活動拠点になっていった。


アイフルさん、広告は計画的に

2006-04-17 12:43:31 | Weblog
 金融庁のアイフルに対する業務停止命令が出されたことが週末から今朝にかけてマスコミで一斉に報じられている。今朝の各紙のテレビ欄を見ると、民放の朝のワイドショウが軒並みトップ項目に揚げている。

 チャンネルをあちこちに回しながら、フジ、日テレ、テレ朝の番組を見てみた。いずれの番組にも共通するのが、“バランスを考えた”取り上げ方、コメントの仕方だ。アイフルの取り立て方がいかにひどかったか、社内に徹底された成果主義が根底にある、金利の二重基準が問題、でも借りる側にも甘さがあったのでは、といったことが話し合われていた。

 その中には、私が見逃しているのかもしれないが、一人として高利貸しの「応援団」にも問題ありと指摘する声はなかった。鳥越俊太郎さんくらいは、と思って見ていたが、彼の口からもその点に触れる発言はなかった。

 ここで言う応援団とは、皆さんお分かりのように高利貸しに広告をさせるマスコミのことだ。TVや新聞、雑誌がこぞって高利貸しのカネに群がり、「高利貸しなどではありません。消費者金融です」というイメッジ・アップ作戦に協力したことは、誰でもが分かっていることだ。これまでにも、消費者団体などから「高利貸しに問題あり」との抗議の声が上がったり、最高裁から「20%以上の金利は違法」との判決が出されていた。マスコミがそういった動きを自ら報じながら今さらそれを知らなかったとは言えないだろう。

 高利貸しは不況下、ここ10年で急成長してきた。それは、銀行が一斉に貸し渋りをしたことも大きく影響しただろうが、大手マスコミが「カネ欲しさ」に、広告掲載基準を大幅に緩めて高利貸しに広告を利用させるようになったのも成長に寄与したことは疑いようがない。

 今さら「そんな実態とは知らなかった」とは言わせない。ここ数年で、カネの取立てなどに関する苦情が消費者生活センターなどに殺到していることを知らなかったことはあるまい。また、今朝のTV映像を見ると昨年4月、被害者の会が出来た時、マスコミ各社の記者が記者会見に出かけている。

 高利貸し会社はおおよそ、銀行などから2%程度の金利で融資を受け、それを高利で貸している。だから儲からぬはずはない。大手金融では、年間5,600億の利益を上げているという。もちろん高収益を支えるのは、強引な取り立てである。金を返させなければ利益は上がらないからだ。

 もちろん、こういった取立ては、アイフル一社に限ったことではない。他の高利貸し会社でも同様の取立てが行われている。私自身、関係者から直接その実態を聞いている。今回アイフルが狙われたのは、“やりすぎた”からだ。「業界NO1」を目指して広告に金をかけすぎて台所が苦しくなり、苦し紛れに営業マンにハッパをかけていたらしい。

 ところで、土曜日にこの問題で槍玉に挙げた朝日新聞だが、性懲りもなく今朝も武富士とプロミスの広告を掲載している。天声人語であれほどまで書いていながら“舌の根も乾かぬうちに”広告させる朝日新聞の方針は理解に苦しむ。

 余談だが、以前、街金融というかヤミ金融をやっていたが、数年で商売をたたんだ男に話を聞いたことがある。彼は、ある大手ヤクザ組織の力をバックに商売をしていた「企業舎弟」だが、「浅井さんねえ、金は借りたら返さなけりゃいいのよ。たとえ腕一本折られてもね」と言っていた。だからといって、私は、借金に苦しむ方たちにこの話を参考にしていただこうという意味ではないのでくれぐれも誤解なさらないようにお願いしたい。

伊藤正孝さんを偲ぶ~コルチャック先生から水俣病まで~

2006-04-17 01:16:00 | Weblog
 先週の金曜日、直子の展覧会の「荷物持ち」で都内の代官山を歩いていると、見慣れた光景が目に入ってきた。だが、その記憶が、何につながるのかが思い出せなかった。

 展覧会場に荷物を置き、私は一人、来た道を恵比寿駅に戻った。

 「見慣れた光景」の場に立つと、目の前に「劇団ひまわり」の看板。

 それで思い出した。実は、もう10数年前のことだが、エルサレムに40年位住む建築家、井上文勝さんが書いた「コルチャック先生(第二次大戦時、高名であったコルチャック先生には助命の特赦があたえられたが、その道を選ばず、ナチのユダヤ人迫害から子どもたちを守り通そうとして、不幸にも 子どもらと非業の死をとげた医師)」のシナリオを舞台化しないかと、ひまわりに売り込みに何度か足を運んだことがある。

 「売り込みチーム」は、井上さんの友人と、当時朝日新聞の記者であった伊藤正孝さん、それに私の3人だった。劇団側から確かな手ごたえを得た3人は、近くのカフェレストランで昼食か「午後の紅茶」を摂った。

 伊藤さんは、その前に週刊誌「朝日ジャーナル」の編集長を務めたことで知られ、その後1995年、癌に体を蝕まれて他界してしまうが、その時も体調の不良を訴えていた。

 劇団ひまわりの建物の前に立つと、伊藤さんとのやり取りが次々に思い出されてきた。今生きておられれば、70歳になられるはずだが、私の記憶の中の伊藤さんは、50代のままだ。長い海外特派員生活でも、アフリカや中東が中心で、大手マスコミのエリート記者というよりも、「気持ちは常に野戦服」という現場主義を大切に持ち続けられる「生涯一記者」タイプのジャーナリストであった。

 筑紫哲也さんの後を継いでジャーナルの編集長になると、彼は先ず「書き手」の待遇改善に着手した。私のところにわざわざ電話を下さり、忌憚のないところを聞かせてくれと意見を求めてきた。そして、それを聞きっぱなしではなく、はっきりとした形で示してきた。当時、ジャーナルの発行部数は減り続けており、会社からそのような改善に反対をされたが、それでも彼はそれを押し通した。

 どんな話の流れかは忘れたが、小池百合子(現環境相)さんの話になった。小池さんはかつて、私同様、朝日ジャーナルの書き手の一人であった。伊藤さんが育てたジャーナリストの一人と言っていいだろう。伊藤さんが小池さんを日本新党を創設した細川護熙さんに紹介した話をした。その内容はここでは紹介できないが、ふと「伊藤さんが何故そんなお節介を?」と思ったものだ。

 今いろいろ調べていてその時の疑念が晴れた。伊藤さんは、中学から高校、大学と政治家、山崎拓氏と同じだったのだ。しかも、一度は、ブリジストンに一緒に入社した仲でもあったらしい。その後も親交はずっと続いていたとのことだ。

 だからといって、伊藤さんが政治の舞台でいかがわしいことをしていたということではない。彼ほど、人間味に溢れ、純粋さを持ち続けた人は、私の長い人生経験の中でもあまりお目にかかったことはない。政治の闇の部分に手を突っ込むとはとても思えないのだ。それらの話は、あくまでも、個人的な付き合いの中から生まれたものであったはずだ。

 その小池さんが、今環境省の大臣だ。皮肉なことだが、伊藤さんは1990年、高校時代からの親友で環境庁(当時)の企画調整局長をしていた山内豊徳さんを自死という形で失くしている。自殺の原因は公表されていないが、政府と水俣病患との間で苦しんだ末のことではなかったか、と当時言われていた。

 山内さんの葬儀で伊藤さんが弔辞を読まれた。先ほどその時書かれた弔辞を読んだ。伊藤さんの優しさが溢れんばかりのお別れの言葉である。役人のあり方や水俣のことを考える意味でも皆さんに読んでいただきたいと、ここで紹介をさせていただく。このことについては、本人はもちろんのこと、どなたの許可も得ていない。生前、可愛がってくれた伊藤さんなら笑って許してくれるだろうと、勝手にやっていることである。

弔辞

遠い窓

わたしの心にある遠い窓

いつかはその窓から そとを眺めてみようと思う

いつかは・・・と さびしい言葉だが

あヽ 遠い窓

 

 山内君 君は「おい そんな古い詩は公表するな」とにが笑いしているかもしれませんね。でも君は、高校時代に創ったこの詩を愛していて、知子さんに読んで聞かせたというではありませんか。遠い窓というのは、若かりしころ君の心に住んでいたあこがれでしょう。果たして君は、死ぬ前に遠い窓にたどりついたのだろうか。その窓からそとを眺めただろうか。私はそうではなかったのではないかと思います。窓の外にあったはずのやすらぎ、信頼、そういったものを発見する前に赴ってしまったような気がします。

 山内君

 高級官僚として、君は人も羨む栄達栄進の道を歩んだ。けれども官僚であると同時に、純粋な一人の人間であろうとした。このことは、君の人生をとても険しいものにしたと思う。君の人生は、そのスタートからして険しかった。まだ幼かったころ、お父さんは中国戦線で亡くなられた。お母さんは君から去って行った。君は一人で人生と闘わねばならなかった。もちろん、おじいさんや伯母さんのお力添えはあったでしょう。それでも君は、少年のころから一人で身じまいをする、できるだけつましく暮らす、頼れるのは自分一人だと決めていた。

 山内君

 大学を出ると君は進んで厚生省に入省した。君自信が恵まれない、なんの後盾もない弱者だったから、弱者とともに生きるというのが、ごく自然な選択だった。埼玉県庁にいたころの君が、障害者について、対策について、いきいきと語っていたのを思い出します。君が弱者を支えて生きる、弱者に支えられて君が生きる、そんな人生の充実ぶりを君はいきいきと語っていた。君は眩しいほど輝いていた。私たち同級生は、君を祝福し、同時に日本の前途に明るいものを感じていた。

 山内君

 いま私は怒っています。悲しむよりも怒っています。あんなに輝いていた君を、どん底に突き落としたのは何だったのか、職場にもっと支えてくれる人はいなかったのか、と怒っています。同時に君にも怒っています。もっと官僚に徹して生きる手はなかったのだとうかと。人のためだけに生きるのではなくて、自分のためにも生きることはできなかったのかと、「そんな生き方は僕にはとてもできなかったよ」と君は言うでしょうね。水俣病裁判をめぐって君が悩んでいたころ、私はイラクにいました。だから君の苦境を知らなかった。けれども同級生たちは君が政府を代表して記者会見をしているのをテレビで見て、「あヽ山内は随分無理をしているな。自分の信念や人柄とは違ったことを言わされているな」と危ないものを感じていたそうです。

 山内君

 君は一ヶ月近くも、満足に眠っていなかったそうですね。ある朝、出勤しようとする君に、知子さんが「そんなに命がけでやらなきゃいけない仕事なの」と尋ねたそうですね。君は「患者さんたちが“私たちは命をかけています”って言うんだよ」と答えた。弱者を支えるのを生き甲斐にしていた君が、最期は弱者と対立する立場に追い込まれた。どんなに苦しかったでしょう。

 でも山内君

 うれしいことがひとつあります。水俣病患者が「山内さんには他の人にはない何かがあった。私たちはそれを感じていた」と話したと、今朝聞きました。患者さんたちが感じとったのは、君の根本的な優しさであり、奥底で光っていた君の高潔さであったと、私は信じます。厚生省や環境庁を担当している記者たちの間で、君の誠実さや見識は定評がありました。私たちは君が同級生であることを誇りにしていました。

 山内君

 高校生のとき君は「花園のある風景」という極めて暗示的な作品を書いた。老人と幼い女の子が力を合わせて暮らしていた。「山本老人はときどき子供のように声を出して泣くことがあった」という書き出しを、私は「君の幼かったころの心象風景に違いない」と感じていました。やがて女の子は金持ちの家の犬に追われ、ミゾに落ちて死ぬ。老人は失踪してしまう。しかし老人が残した花園は、いつまでも人々を慰めた。というものでした。

 山内君

 国家機構の壁、法律の壁、予算の壁。いろいろな壁に阻まれて、君は逝ってしまった。しかし君も私たちに花園を遺してくれました。それは君の心の中に香っていた花園です。君が愛した知子さんは、君を夫に持ったことを誇りとしていることと思います。知香子さんと美香子さんは、君を父親に持ったことを誇りとしていると思います。そして私たち同級生は、知子さん、知香子さん、美香子さんを支えながら生きようと思います。

 さようなら。山内君。

 修猷館昭和三十年卒業代表 伊藤正孝


 今、マスコミを見渡してみても、伊藤さんのような取材や取材対象を大切にして、情報の収集からその裏付けまで徹底的にやる記者は数少なくなった。それだけに、このような時代だからこそ、長生きしていて欲しかったと心の底から思う。

 伊藤さんは生前、様々な社会悪に敢然と立ち向かった。水俣問題も執拗と思えるくらい熱心にジャーナルで取り上げた。その水俣病は、今年の5月1日で公式に確認されてから50年目を迎える。今では、半ば忘れられた「歴史の1頁」に押し込められた感がある。だからこそ、彼が生きていてジャーナルの編集長だったら、絶対にバックアップしていたであろうこの集まりを、最後に紹介させていただく。私は仕事の都合で顔を出せないが、時間がある方はぜひお出かけいただきたい。

先日、「伊藤正孝さんを偲ぶ」で紹介した水俣病記念講演会の紹介で大変な間違いをしてしまいました。インターネットで「水俣フォーラム」のHPからナント10年前の情報を貼り付けてしまったのです。先ほど、ブログの読者(ハンドルネイムbananaさん)からのコメントを見てびっくり仰天。早速訂正いたしました。皆さん、今年も10年前同様、29日に開催されますからぜひ参加してくださいね。


水俣病50年記念講演会
  「『水俣』新たな50年のために」

  2006年4月29日(祝)/日比谷公会堂(東京都)/当日券1800円 前売り券1000円



  講師:緒方正人(漁師・水俣病患者)、中原八重子(水俣病患者)、石牟礼道子(作家)、原田正純(精神神経科医師)



  発言:柳田邦男(ノンフィクション作家)、田口ランディ(作家)、最首悟(現代思想)、上條恒彦(歌手)

  司会:澤地久枝(作家)




 

ACTNOW活動 最後の報告その1

2006-04-16 10:06:58 | Weblog
【昨年末、約11年の活動の歴史を閉じたACTNOWは、今日の会報「ACTNOWつうしん」の発行で、正式に全ての活動を閉じた。そこで、11年の活動の総括を兼ねて文章にまとめてみた】


 1995年1月17日5時46分、阪神・淡路に激震が走った。被災地では一瞬の内に数万人もの人たちが、壊れた建物や家具の下敷きになった。

 その時私は夢うつつ。街を夜中に徘徊するジャーナリストに寝坊は付き物、などと屁理屈をつけて9時半まで寝ていた私に起床しても緊張感はない。
ところが、TVをつけた途端、私の危機管理にスウィッチが入った。

 「なんだ、こりゃ」「地獄絵だ」と叫びながら画面に見入った。しかし、現状を伝える特別番組のアナウンサーの表情にも言葉にも未曾有の災害を伝える緊張感が見られない。

 NHKのアナウンサーにいたっては、「これまでのところの死者は13名(だったと記憶している)、被害総額は北海道東方沖地震(94年10月発生)を上回る見込みです」とのんびりしたものであった。東方沖地震は、北方領土の択捉島を中心に津波などで死者・行方不明者11人、被害総額も179億円に上る被害が出たが、日本では危機感を呼び起こすような印象に残る地震ではなかった。

 「何をやってるんだ。こんな報道をしていたら救出活動が遅れる」

 私は朝食を摂るのもそこそこに電話をかけまくった。電話の相手はマスコミに勤める友人・知人だ。なんとか、彼らを通してノンビリした報道に緊張感を持たせたかった。だが、こういう時は、マスコミの編集現場は“戦場”に例えられるほどの修羅場だ。丁寧な言葉遣いの中にも迷惑がられているのが伝わってくる。

 9時45分を過ぎた頃、NHKの画面に芦屋市の「空撮」映像が映し出された。あの高級住宅街が一面へしゃげている。ただ、その映像もほんの短い間流されただけで消えてしまった。ただ、芦屋であれほどの被害だ。より地盤の悪い、海岸沿いの地域で老朽化した「文化住宅(戦後まもなくして建てられた建物)」が多いところではかなりの被害が出ていると想像が付いた。

 この映像を流し続ければ、瓦礫の下に何万人もの人が埋もれていることが分かる。そうすれば、救助・救援活動に影響が与えられるはずだ。そう思った私は、NHKに電話を入れた。しかし、電話に出てきた人たちに私の訴えを聞く余裕はなかった。

 後になって分かったことだが、この時間に当時の村山首相は閣僚を集め対策会議を開いていた。だが、それは朝食会でノンビリした雰囲気の中、テレビを観ながらの話し合いだった。そして、決められたことは、「調査団の派遣」であった。NHKの報道がより緊迫感を伝えられていれば、政府の対応も違ったのではと悔やまれた。

 私は、“戦略”を変更した。自分の仲間に呼びかけて現地支援を募る一方、被災地との連絡を急ぎ、需要の吸い上げをしようとした。ところが、現地との電話連絡が、当然のことだがままならない。被災地への電話が全国から殺到して輻輳輻状態になり、つながらないのだ。何度もかけ続けて回線が取れても相手が出ないこともあった。支援物資などについて相談をしようにも神戸や西宮の市役所が開設した災害対策本部とは3日目になっても電話がつながらなかった。また、大阪に住むマスコミで働く友人や災害発生時に明石で釣りをやっていて、そのまま小型カメラ一台で神戸市長田区に取材に入った後輩カメラマンと連絡を取りながら対策を練ったが、彼らの力だけでは全体像が見えなかった。

 新聞各紙に掲載された被災地の行政機関が開設した対策本部などの電話番号は、最初の1週間、何の役にも立たなかった。TV画面で見る限りでは、特に深夜、対策本部の電話の幾つかは空いているのだが、電話に出てくれないこともあった。
震災直後から始めた街頭募金で我々に託された金額は、予想をはるかに超えるもので、1万円札も中に混じり、最初の数日間は多い日で30数万円となった。
そこで、若いヴォランティアにマスコミ各社との連絡をしてもらい、現地への支援活動を開始しようとした。ところが、マスコミの反応が悪く、支援活動の取材に来る記者はいなかった。大手マスコミの記者は、こういう時こそ支局に入る連絡を大切にしなければならないのだが、忙しさにかまけておろそかにするものが多い。
私が代わってマスコミ担当になった。朝日新聞も毎日も興味を示さず、まただめかなと言いながらかけた讀賣が反応してきた。他の社に比べて電話対応がとても良かった。
 
 電話に出たデスク自らが取材に来てくれることになった。県版を作らなければならない大きな支局や総局に詰めるデスクは、時間に制限されていて外に出たがらないものだが、取材に来てくれると言う。相手の記者に名前を言うと。

 「アサイクニオミさんって、あのジャーナリストの?」
 「ご存知でしたか?そうすると、かつて外信部とか政治部におられたのですか?」
 「やだなあ。佐藤だよ。カイロ(支局)にいた」

 実は、私が中東取材に出かけている時、カイロから讀賣の取材を受けたことがあるが、その時の特派員が佐藤さんだったのだ。
それから話はとんとん拍子。佐藤記者が書いた記事は写真付きで大きく紙面で紹介された。それからも、イヴェントなどをやる度、佐藤記者に書いてもらい、ACTNOW誕生に大いに貢献してもらった。

 私が仕事の都合ですぐには現地に飛べないので、集まったヴォランティアから現地に救援物資を届けてもらう若者を募った。そして、瀬〆と小幡という2人の若者を大型のヴァンに物資を満載して送り出した。被災から約1週間後であった。行き先は、関東からは一番遠くなるが、神戸市長田区に行ってもらうことにした。それは、途中で他の被災地を見ることができるし、長期間の支援をするのであれば、長田区と考えていたからだ。彼らとは携帯電話で連絡を取り合い、「マスコミが寄り付かない、半倒壊の家が多い地域に行ってくれ」などとこちらからの考えを伝えて動いてもらった。

 物資を手渡しして帰って来た2人は、価値観が大きく変えられたようで、待ち受けた他のメンバーに「長い支援が必要」と熱く語った。ところが、一部の中年メンバー達から異論が上がった。彼らには現地とのパイプがあり、そこを通して支援をした方が良いというのだ。ところが、それは自分の仕事関係のパイプで、支援活動を仕事に結び付けようとする姑息なやり方、と若者の反発を食らった。

 私は、そこで意見調整に時間を取られるのは得策ではないと判断、多数決で決めることにした。結果は圧倒的に、被災地から帰って来た若者に支持が集まった。残念なことだが、そこで最初の脱落者が出た。
 2回目のキャラヴァンには、私も参加できた。

 前回同様参加した瀬〆は、生き生きと活動をした。若者の持つ力が被災現場で本物になっていくのを実感した。


天声人語を哂う

2006-04-15 08:43:01 | Weblog
 高利貸し「アイフル」の悪質な取立てに金融庁の横槍が入った。5月8日から10日までの3日間は全店。一部の店は約3週間の業務停止、という異例の厳しい行政処分だ。

 昨日のマスコミ報道を受けて、株式市場ではアイフルのみならず、高利貸し各社の株価が急落した。TVをあまり見る時間がないので、確認できていないが、いくら広告に頼っているとはいえ、昨日今日くらいは、チワワやグラマラスな女優の姿は消されていたはずだ。主要新聞も私の見た限りでは、それらの広告は見当らない。

 まあ、こういったリアクションは、いわば当然と言えば当然だ。今年始めであったと記憶しているが、これら高利貸しの高金利に対してを違法とする判決が出た時も一部の大手新聞社は広告を控えた。

 だが、ほとぼりが冷めると、またぞろチワワや女優の顔が紙面に出てくるようになったのは読者が既にご存知のことである。

 そんな中、今朝の朝日新聞の「天声人語」欄でとんでもない勘違いコラムを見受けた。

 そのコラムは「明治の借金王」石川啄木の話から始まる。天声人語お得意のパターンの書き方だ。そしてコラムの半ばから今回のアイフルの問題を論じている。結論としては、やはり、高利貸しのやり方に問題ありと片付けている。以下にご紹介するのが、コラムの結論部分だ。

【(前略)近年、この業界で客獲得の武器になっているのが、自動契約機だという。「むじんくん」「お自動さん」「いらっしゃいまし~ん」「¥enむす   び」。人と顔を合わせずに、気楽に借りられますよ、と誘う。しかし、どんどん 貸してどんどんもうけようという狙いも見え隠れする。

 安易な借金は、慎まなければならない。一方で、こんなあおり方を続けていて いいのだろうかとも思う。借金が膨れあがって、人生を大きく狂わせてしまう人 は少なくない。業界も、行政も、考え直す時ではないか】

 これこそ、「奇麗事を言う」と言うのだ。冗談ではない。「気楽に借りられますよ」とあおってきたのは、コラムニストさん、自動契約機もさることながら、マスコミですよ。あなたが禄を食んでいる朝日新聞も、その系列会社のTV朝日も大きな責任の一端を担っているのです。今調べてみたら、11日の朝刊のスポーツ面に大きなスペイスを使って「初めての方、応援します!」と女優(?)が微笑むアイフルの広告を掲載している。

 こんなお粗末なコラムを読んだら、杉村楚人冠(天声人語の提案者)が雲の上から大きなため息とともに嘆くに違いない。そして、例えに出された啄木も「私が多重債務者?君には恐らくカネを無心する者の気持ちは一生かかっても分かるまい」と、悲しそうな表情を浮かべるだろう。