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日々の出来事から国際情勢まで一刀両断、鋭く斬っていきます。コメントは承認制です。但し、返事は致しませんのでご了承下さい。

突き落とし事故を読んで

2008-03-27 14:08:14 | Weblog
 電車のホームから公務員の男性を突き落として死なせてしまった18歳の若者の話を記事で読んで、なんとも切ない思いに駆られた。

 特に、13年前の阪神大震災で家を失い、移転した先でイジメにあったという事情を考えると、言葉を失ってしまう。そんな環境にあっても、若者は頑張って卒業したばかりの府立高校では、トップクラスの成績を収めていたという。

 なのに、家庭の生活状況から大学進学の夢は叶わず、仕方なく就職口を探していたらしい。

 若者の両親は真面目に働き続けていたが、生活は苦しく、子供の教育費の捻出にも困るほどであったというのだ。まさに両親は「働けど働けどわが生活楽にならざり」の心境であったのではないか。

 まあ、「働けど~」と書いた石川啄木は、収入のほとんどを遊興に費やしていたというから若者の両親とは事情が違うが、それにしても、一生懸命働いている人がまともに暮らせないというこの国のあり方に私は大きな疑問を抱く。また、これまでの情報が正しいのであれば、貧乏な家庭に育った子が高等教育を受けられないというのも教育の機会均等の面から見てもおかしい。

 もしかしたら若者は精神的に病気であったかもしれない。だが、今までに出てきた話では、その可能性に気付いた人は皆無のようだ。ならば、思い詰める内に、ものの考え方がずれていき、今回の事件を引き起こした可能性が考えられる。若者の周りに、胸襟を開いて話し合える大人や友達がいなかったのだろうか。誰か、若者に対して見方を変えるよう導いていれば、このように多くの人たちを悲しみのどん底に突き落とすような事件は避けられたのではないか。

 私も大人の一人として、これまで以上に周囲に目を配り、このような事件が起きないように注意しなければと、心を新たにした。

“未だ見ぬ弟子”との出会い

2008-03-27 13:23:03 | Weblog
昨日、東京ドームに行った。メイジャー・リーグの試合を観るためである。

 切符の手配をしてもらう時、一昨日の第1戦か昨日の第2戦にするかの選択肢があったが、松坂は現在のレッドソックスにあっては二番目の先発投手だ。そこで、第2戦を選んだのだが、当てが外れて主戦投手であるベケットが来日せず、開幕投手は松坂に。

 試合に先駆け、昨日は上尾まで歯の治療に出かけたついでに、何年ぶりだろう、久し振りにバッティング・センターに立ち寄った。

 このバッティング・センターには、高速(最高140キロ)の球を打たせてくれる器械があり、かつてはたまに(ダジャレにあらず)練習に行ったものだ。軟球でも時速140キロとなると、中々バットに当たらない客が多く、結構ヒット性の当たりを飛ばす私の後ろには、いつも観客がいたものだ。

 しかしながら、これも、60歳という歳のせいなのか。100キロを少し上回るくらいの球速ならば結構いけるのだが、145キロ(いつの間にか5キロ進化していた!)になると、ヒット性の当たりどころかバットに当てるのが精一杯。しかも、打ち方が悪いし、あたりどころが良くないからショックが手に伝わってくる。

 さて、そんなことで手に軽いしびれを残し、筋肉痛を肩に感じながら私は午後6時半、ドームに足を踏み入れた。

 弟子のマサとマサのお父さんはもうすでに観客席で試合の始まるのを待っていた。大学生のマサはと言えば、春休みでヒマいっぱい。開門と同時に入場して、両ティームの練習も堪能したようだ。

 「練習の時は、岡島はキャッチャーの目を見て投げてましたよ」
 と、嬉しそうだ。そう、岡島の変則的な投げ方では、果たして捕手の存在すらも見えないのでは、という人もいる。

 試合は、レッドソックスが相手投手の立ち上がりを攻略できないまま調子に乗せてしまう一方、相手アスレティックスには効果的に点を取られ、スコアだけ見れば、アスレティックスの一方的な試合で終わってしまった。2本のホーム・ランはあったものの、大してファイン・プレイもなかったし、大味な試合に一見見えたかもしれない。

 ただ、野球好きの私には幾つも「見処」があり、楽しい3時間であった。打者のバットを振る鋭さ、速さ、投手の投げる球の伸びと、そのどれをとってもやはり日本の野球選手よりも一枚も二枚も上であることが確認できた。

 また、日本の野球のカネや太鼓の鳴り物入りの応援が苦手である私には、大リーグの観戦スタイルは心地よい。静かだからピッチャーが投げる球がキャッチャー・ミットに納まる音が聞こえるし、バットの芯に当たれば、アニメのように“カキーン”とはいかないまでも、良い音がする。

 ドームにはもう一人知り合いがいた。7回が終わったところで、我々のところにがっちりとしたガタイの男Dがニコニコと笑顔で現れた。

 Dは、私の「ネット上の弟子」である。彼は、私と同郷で、高校生の時に米国に渡り、今ではボストン・グローブ紙の社員として活躍している。今回は、同紙の取材班の一員として来日したとのことだ。

 短い間であったが、楽しい会話を持つことが出来た。彼の素晴らしさも肌で感じられた。誘ってもらったので是非一度、今度は本場ボストンに出かけて、松坂や岡島の勇姿を見てみたいものだ。

 帰り道、若くして渡米したDの勇気に想いを馳せ、電車の中でニヤツいていた。恐らく、傍から見れば、「変なオヤジ」に見えたのだろう。前に座った若い男と目が合った時、私から目を逸らした。

芝居小屋の舞台に立った

2008-03-23 13:09:16 | Weblog
 昨日は、7月に行なう芝居の打ち合わせに出かけた。

 今回は私の周りにいる若者二人が興味を示したので、“連行”した。一人は、大学の演劇サークルに熱中する内に演劇にはまり、舞台音響の世界に進みたいと考える大学生。もう一人は、人生模索中の大学生である。

 縄文座の座長である西垣内弁護士の事務所に行き、先ずは「縄文時代から我々が学ぶこと」を若者二人にレクチャーしてもらった。ちなみに、縄文座とは、西垣内氏が立ち上げて、内外から注目を集めている「国際縄文学協会」の“芝居部門”みたいなもので、芝居を通して縄文時代の良さを国内外にアピールすることを目的としている。

 縄文時代と言えば、なにか、縄の文様がついた土器とへんてこりんな土の人形のイメージでしかない。この時代は、1万年以上続いたと言われているのに学校で教える社会科の授業でもほとんど触れられていない。ところが、実はそこにはナカナカに深~い教えが秘められているのだ。

 まず、この時代に特徴的であったのは、1万年以上続いた縄文時代の遺跡のどこからも集団による戦いの痕跡が見つからない、つまりは「戦争のない世の中」であったことだ。これは、地球のどこかで常に戦争をしている「現代」が学ばなければならない。

 そして、縄文時代の生活が、まさに「自然の恵みを頂いて生きる」という謙虚な、今で言う環境に優しいスタイルであった。

 この時代の素晴らしさに早くから気づいていた芸術家がいた。それは、「芸術は爆発だ!」と訳の分からないことを言って世の中から奇人のように扱われていた、故岡本太郎だ。

 彼の描く画、また造形物が、縄文そのものであると知り、私も驚いたが、1970年の万博の「太陽の塔」しかり、今話題になっている原爆の炸裂する瞬間を描いた巨大壁画、『明日の神話』しかり、その根にあるのは縄文なのだ。

 そんな話を聞いた後に我々は芝居小屋「MAKOTOシアター銀座」に向かった。東京駅に程近い京橋にそれはあった。大正時代を想起させる建物の外観が良い。そこでは、シリアスな芝居から大衆演劇、お笑いライブに至るまで様々な講演が行なわれている。

 演出家の石飛仁氏が我々を迎えた。前日に石飛氏と西垣内氏が中国の民族舞踊劇『シャングリラ』を観たとの事で、二人でその素晴らしさにしばらく話に花が咲いた。
 
 公演は、我々から出される様々な想いやアイデアを石飛氏が芝居になるようにまとめていってくれることになるのだが、子役として一時期高い評価を得ていた共演者の「ユーヤ」はともかく、全くシロートの私の演技を学芸会以下と見ているのだろう。そんな口ぶりで話し合いは始まった。だが、そういう状況に置かれると闘志が湧くのが浅井久仁臣だ。自分の中で考える芝居の構想を熱く語りだした。すると、話していく内に石飛氏の表情と発言に変化が生まれた。ひょっとしたら面白いかもしれないと思ったようだ。

 戦場で傷ついたジャーナリストが、やさぐれて酒とギャンブルに溺れ、落ちぶれた果てに競馬場に吹きだまり。そんなぼろ雑巾のようになった初老の男に優しく声をかける若者がひとり。目の澄んだ青年は、縄文時代からタイム・スリップしてきていた。その青年に誘(いざな)われて男が出会う世界とは…てな感じのストーリーだが、まあ、その後の展開は観てのお楽しみ。

 あと2ヶ月もして私に会うと、切符を押し付けられるかもしれないから皆さん用心された方が良い。芝居を観に行かなくてはならないというだけではない。2,500円が必要なのだ。

 有料?と素っ頓狂な声を上げた人もいたが、そう、当然有料で、しかもお代の2,500円は少々どころか、シロート芝居には考えられない値段だ。だが、私はこれから芝居の質を高めるために努力は惜しまない覚悟だ。一見の価値のあるものにする自信もある。その後には恐らくどこかの映画会社から声がかかり、やがては縄文やユーヤと共にハリウッド進出もと夢は広がる。

 60男の悪あがきとなるか、それとも大化けに成功するか、いずれにしても答えは二つに一つだ。7月は、そんな浅井久仁臣の生き様を目の当たりにするチャンスだ。興味のある方は、切符の売り切れない内にお早目に!ハハ。
 

私の視点 ガソリン税論争 頑張れ、民主党!

2008-03-23 02:49:58 | Weblog
揮発油(ガソリン)税などの暫定税率が期限切れとなるX-DAYまで残すところ後10日。新聞各紙が22日、そろいも揃って、民主党に対して「話し合いの場につけ」と、強い論調で迫った。

 この問題は多くの読者が既に理解をされていると思うが、簡単に解説すると、与党自民党が34年間、“暫定的”に特定財源として揮発油税を利用して全国に道路を造り続けてきた。だが、その利権が一部の「道路族」と言われる政治家周辺に集まったり、無駄な道や施設作りに使われてきたので一般財源化して税金の使い方の正常化を図ろうという声が上がった。それも、野党からだけではなく、小泉元首相を含む自民党議員からも聞こえてきた。

 だが、一筋縄ではいかないのが「道路族」と言われる政治家たちと、それに群がるギョーシャと国土交通省の役人たちだ。荒業師と謳われた小泉氏でも道路族の牙城は突き崩せず、あえ無く打つ手を失った。

 そこに目を付けたのが小沢一郎氏である。さすが、かつては自民党幹事長として辣腕を振るい、恐れられた実力者だ。眼の付け所が違う。政権を倒して与野党逆転を図るにはここが攻め所と執拗に政府に対して絡んでいる。

 小沢氏の凄いところは、今回の報道でも見えてこないが、裏で「霞ヶ関(官僚)」の有力者たちの一部を味方に付けているところだ。参院選での過半数獲得を機に潮の流れを読むことに敏な官僚たちに接触、彼らを次々に一本釣りにして味方に付けている。そして、彼らから得た情報を元にまた攻め所を模索していくのだ。これは、かつて、自民党で「真の実力者」と言わせた経歴もものを言っている。

 だから、経験不足の福田首相では相手になるはずはない。自民党内では、「福田では百戦錬磨の小沢に対するには役不足」と、森元総理を中心として「ポスト福田」の模索が今年に入って急ピッチだ。

 そんな小沢氏に頑張れ!と応援するのは私の本意ではないが、道路に関する税金に関しては、あまりに国民をバカにしているものであり、看過できない。この際、徹底的に膿を出し、根本から変えなければ、未来永劫、変ることはないと私は見る。だから、民主党案を、日銀総裁選びの問題と同様支持するのだ。

 道路特定財源は、どこから見ても「民意不在」の典型的なものだが、新聞各社の論説委員にはその辺りが理解できないようだ。

 第一、ガソリン税は、道路族が暫定法案といって国会を通して何年経つというのだ。34年だ。そんな長期に渡る法律のどこが暫定なのか。政府や道路族に国語辞書を贈って差し上げるから暫定の意味を良く知って欲しい。

 そんないい加減な暫定法案を、さらに今回、“暫定的に”10年間延長させると言うのだからバカも程々にしてくれと言いたくなる。10年間に集まる税金が59兆円と試算されている。それだけの金を道路だけに使う発想がどこから生まれるのか、私には不思議でならない。論説委員ほどの頭脳明晰な方々がなぜこんな単純なことが分からないのか。これも私には不思議だ。

 朝日新聞は、与党自民党を批判した後、「民主党にも注文がある。なにがなんでも暫定税率を撤廃させて福田政権を追い込む、といった態度は慎むことだ」
 「衆参両院議長のあっせんが無に帰せば、政治への国民の信頼はさらに失われよう。与野党は修正協議のテーブルに着くべきだ」
 と、お得意の“喧嘩両成敗”的な書き方で、自民・民主両党を諌める。

 財界の意見を代表する日本経済新聞は、
 「両党は国や地方自治体の予算執行にも配慮し、1月末に衆参両院議長のあっせんで年度末までに解決案を得ることで合意している。この合意をほごにせず早く協議に入り成案をまとめるべきである」
 と、中立を装いながらも、

 「民主党は暫定税率廃止にこだわるのを再考してほしい。暫定税率については据え置くべきだと考える。道路財源の大宗を占める揮発油税(ガソリン税)の税率を下げればガソリン消費の拡大につながり、地球温暖化対策が急がれるときに世界の理解を得られまい」
 と、今や流行語になった地球温暖化まで持ち出して、道路財源の確保を支持している。

 その他、讀賣は、
 「1月末の両院議長の斡旋(あっせん)では、『年度内に一定の結論を得る』『合意が得られたものについては立法府で修正する』ことを民主党も受け入れたはずだ。
 福田首相は、道路特定財源について、全額を一般財源化することも視野に入れる、と発言した。画期的な姿勢転換ではないか」

 毎日は、

 「気がかりなのは、民主党の対応だ。『年度内に一定の結論を得る』とした衆参両院議長のあっせんを受け入れた後、同党はガソリン代の値下げ一辺倒から、一般財源化の実現に軸足を移したかに見えた。
 ところが、ここにきて再び暫定税率問題で福田政権と対決する姿勢を鮮明にし始めた。鳩山由紀夫幹事長は『足して2で割るような修正案に乗ることはあり得ない』と発言している」
 と、多少の違いはあれ、各紙は話し合いを拒む民主党に手厳しい。

 だが、その論調は穴だらけだ。

 まず、「チョット、待った」と論説委員各氏に言いたいのは、「両党、両党」と鸚鵡(オウム)返しに「両党合意」を言うが、1月31日の両院議長の斡旋の場に臨み、署名をしたのは、自民と民主だけではないということだ。両党の他に、公明、共産、社民、国民新党が書記長クラスを代表として送り込んでいる。二大政党にばかり目が行き、少数政党の存在をないがしろにするのは、マスコミのすることではない。

 また、民主党が、両院議長の斡旋案を無視しているかのように書いているが、それも違う。各党書記長クラスの署名された議長斡旋文書を見れば一目りょう然だが、そこにははっきりと、
 「総予算および歳入法案の審査に当たっては、公聴会や参考人質疑を含む徹底した審議を行った上で、年度内に一定の結論を得るものとする」
 と書かれている。

 ところが、政府自民党は、論(審)議は尽くしたと、一方的に強行採決に踏み切った。確かに、審議に割かれた時間は短くはない。だから、民主党などの野党が時間切れを狙って引き伸ばしを図っているように見えなくもない。だが、野党の参考人招請は一度として認められなかった。また、公聴会についても国民の視点に立って行なわれたものは一度も実現しなかった。

 だから、私の目には政府自民党のお偉方の説明よりも民主党の主張の方が理にかなっているように見えてしまう。民意を反映しているように感じてしまうのだ。

 民主党には大きな賭けだが、ここは一つ最後まで頑張り、道路族の正体を暴き、特定財源の一般財源化を果たして欲しい。必要な道路は、一般財源から金を出して造ればいいのだ。

私の視点 実は分かり易い「日銀総裁人事」問題

2008-03-18 23:56:24 | Weblog
 日銀総裁人事で日本経済は大揺れだ。国会が空転している間に、円高は加速して一挙に90円台に突入。株価はと言えば、大暴落だ。

 恐らく、毎日のニュースに触れていても何がなにやら分からんというのが一般市民の率直な印象だろう。確かに、新聞を読んでも、政党の説明を聞いても、わざと複雑にしているのではと思えてしまう。

 でも皆さん、この問題は、決して難しくはないのだ。いや、非常に単純と言ってもいいだろう。

 まず、民主党の反対理由を整理してみよう。

 ①日銀総裁に財務省OBは好ましくない
 ②財務省出身者でも特に、「主計」にいた人は絶対阻止する。


 そうです。色々言っているが、要はこの二点に集約されるのだ。

 では、なぜ財務省OBは好ましくないのか?主計は避けたいのか?

 財務省は言わずと知れた、日本の台所を預かる専門家集団である。財務省の中でも主計局というのは、国家財政を握る核になる部署だ。極端な話、政府が「右向け右」と言えば、たとえ間違った方向でも異論を唱えることなく、右を向いてしまう人たちが主流である。だから、政府にとっては、扱い易いことこの上ない。

 主計は今、政府の意向を受けて「強制インフレ止む無し」との声で支配されている。その主計局のトップである主計局長は、そこから省の事務方のトップである事務次官に上り詰めていく。そういった人が日銀総裁になれば、政府の言いなりになり、日本の針路を政権の目指す方向に持っていくことは誰の目にも明らかだ。

 それに比べて、民主党が同意している「財務官OB」は、同じ財務省でも、国際感覚とバランス感覚に優れている人が多いと言われる。テレビでもお馴染みの榊原英資氏もその一人である。だから、「妥協点」としての財務官OBからの選出は、落とし所としては、無難な選択であろう。

 マスコミで民主党の国会運営に「多数派の論理を悪用している」と言わんばかりの批判的な論調がこれまで目立ったが、これもおかしな話だ。「参院で否決されても衆院に差し戻して議決できる」一般法案と違って日銀総裁人事は、「衆参同意」なので、その制度を悪用しているかのように言うが、それを決めたのは誰か、今一度復習するべきだ。それは、自民党が強引に決めたことではないか。あの当時は、まさか参議院で多数派の座を明け渡すなど夢想だにしなかったのだろう。だから、こんな制度に変えてしまったのだ。

 それを今さら、「民主党はけしからん。徒(いたずら)に国会を空転させている」と言うのはいかがなものか。また、その尻馬に乗ってこれまで民主党に批判的な論調を繰り広げ、世論をミスリードしてきたメディアの責任も大きい。

 政府は、「主計-事務次官」の武藤氏ではだめだと言われると、代替案として、福井現総裁の任期延長を言ってみたり、今日になって田波元大蔵次官の名を出してきた。

 これも国民をバカにしていると思わざるを得ない。福井総裁は、外貨定期預金に約1400万円預けていたり、村上ファンドに1000万円を拠出して問題になりながら、総裁の座に居座り続けた人だ。そんな人に再登板させようと言うのだ。政府の神経を疑ってしまう。また、田波氏は、財務省の前身である大蔵省で主計局次長や理財局長、そして事務次官を務めた人だ。

 こんな人事は、絶対に認めるべきではない。5年後10年後、強制インフレが現実のものとなって、その時泣いたり怒っても時既に遅し。反対するのなら今どんな手を使ってでも阻止しなければならないのだ。

 このように、情報をきちんと整理すれば、この問題も理解できること。チベット問題もそうであったが、マスコミにいる人たちは、渦中に身を置く内に、全体が見えなくなってしまうようだ。

 どうです?わかり易いでしょう?でも、結果的に民主党を応援することになってしまいましたね。

世の中、間違っておるよ

2008-03-18 00:26:50 | Weblog
 今の時間では昨日となるが、一日で三人の相談を受けた。

 いじめ、家族不和、離婚と、あえて分類すればそうなるが、そのどれもが一つひとつ重い。共通しているのは、相談者が純粋で傷つきやすく、問題を一手に引き受けてしまっていることだ。

 私は専門家ではないから多くの場合は真剣に聞いてあげることしか出来ない。必要な場合は、知り合いの専門家に紹介したりもするが、ただひたすら耳を傾ける。

 長い場合には、10年以上も相談が続くことがある。相談者の中には自暴自棄になって事件を引き起こしたり、巻き込まれることもある。そんな時は、正直に言って疲れを感じる。だが、相談者が自分を取り戻し、会いに来てくれると、そんな疲れは一挙に霧散解消する。

 昨日の三人が心の底から出てくる笑顔を見せるようになるのはいつになるか分からぬが、そうなることを信じてこれからも聞き続けるつもりだ。

 それにしても、悩み深き人たちのナント多いことか。やはり、この国はどこか間違っている。

パキスタンの爆発で外国人死傷

2008-03-16 11:51:27 | Weblog
 BBC放送は、15日夜、パキスタンの首都イスラマバードの中心街にあるイタリア・レストランの奥庭で爆発があり、トルコ人女性1人が死亡、10人以上の外国人客が負傷したと報じた。

 負傷者に日本人が含まれていると伝えられていたが、共同通信が16日、同通信社の記者二人が重軽傷を負ったと発表した。

 これが外国人を狙った爆弾テロであるとすると、6年ぶりのことであり、パキスタン政府のアメリカ寄りの政治姿勢に対する作戦であると思われる。

私の視点 チベット問題の読み方

2008-03-16 09:21:31 | Weblog
 家人から「チベットの問題教えて」と言われた。

 専門外なのでこのブログでは触れずにいたが、この問題に無関心でいたわけではない。簡単な歴史と「私の視点」を説明した。

 だが、今朝の朝日新聞を見て、俄然書く気になった。

 確かに、チベットの現況については網羅されているが、チベットの問題そのものについては、首を傾げてしまう内容だ。「森を見ずして木を見る」とはまさにこのことだ。全体像を描かずに一部を切り取って説明している。昨日から今日にかけての記事を読んでも、チベット問題に疎い読者がきちんと理解できるとは思えない。

 チベットの問題は、中央アジアにおける覇権争いが一番の核だ。18世紀から20世紀半ばまでは、ロシア(後のソ連)、清国、英国がこの地域を政争の場としてきた。第二次大戦後は、中国が占領したが、それに対してインド洋に影響力をつなげようとする(南下政策)ソ連が陰に陽に介入し、そこへ米国が加わって醜い覇権争いが続けられてきたのだ。

 だから、単純に、中国がチベットを占領して、人権を蹂躙している、けしからんという話だけではないのだ。

 確かに、中国政府の取ったチベットの占領政策は許されるものではない。清国や英国に翻弄されて疲弊していたところに、建国宣言したばかりの中国が「チベットは歴史的にいって中国の不可分の一部である」と主張して支配下に置いたが、元朝や清朝が支配していた時期が長かったからといって、チベットを自らの領土だと主張するにはあまりに無理がある。

 だが、それを利用して中国を責めるアメリカのやり方にも強い憤りを感じる。「911」以降、アフガニスタンだイラクだと忙しかったブッシュ政権だが、その間に急速にその勢いを増してきた中国の勢いをそぐ手段の一つとして、チベット問題を使いだした。五輪前、しかも全国人民大会の開催にぶつけてこのような仕掛けをすることは、喧嘩を売るようなもの。したたかな中国のことだ。体勢を建て直したら必ずやアメリカに対して“報復”に出ることは間違いない。これが、今後の米中関係にどのような影響を及ぼすか、私は憂慮する。

 中国がチベットをもはや手放すことは考えにくい。領土の西端にチベット以外にもウィグル(イスラーム教の影響が強い地域)という大きな爆弾を抱えているが、インドという長年のライヴァルとの関係を考えても手放すわけにはいかないだろう。

 理想論と言われようが、中国は、やはり両自治区を、地元の人たちに返すべきだ。覇権争いの面からも、領土的にも両自治区を手放すことになれば、「アジアの盟主」としての存在に影を落としかねないと考えているのだろうが、人権問題をないがしろにして真のリーダーになれるはずがない。

 嗚呼、それにしても、朝日さんよ。もう少し勉強しなさいよ。

匿名の抗議に対して

2008-03-15 12:23:49 | Weblog
 「私の視点『三丁目の夕日』が落とした影」に対して、「中国の肩を持つな」という内容の抗議二通が寄せられた。こういう抗議に共通するのだが、二通とも匿名である。

 こういう人たちの頭には恐らく中国や北朝鮮とは対立関係しかないないのだろう。外交関係において、対立をも恐れぬ毅然とした態度が必要な時もある。だが、対立を常套手段とする危うさは、アメリカを見れば分かること。それよりも、互いの利益を生み出す努力をするべきである。

 中国の環境問題は、我々日本人にとっては他人事ではない。食糧を中国に大きく依存している現実や我々の空を汚している越境大気汚染に目を向けて今こそ根本的な対策を講じなければ、後の世に必ずや禍根を残すことになる。

私の視点 「三丁目の夕日」が落とした陰

2008-03-13 23:47:41 | Weblog
 映画「ALWAYS三丁目の夕日」の話題性もあって昭和20年代から30年代にかけての戦後復興期への郷愁を耳にすることが多い。

 「昔は良かった」は、古今東西、常に高齢者たちが、自分たちの影響力が失せると、又はそれを意識しだすと口にする台詞である。それが今、私が属する「団塊の世代」が職場からの引退を余儀なくされていく中、捨て台詞のように言い出した。

 だが待てよ、と私は言いたい。

 果たして、「三丁目の夕日」時代は、今と比べてそんなにいい時代であったのだろうか。

 社会的弱者の位置付けは、時代の一指標と言っていいだろう。「三丁目の夕日」の時代は、それ一つ取ってみても、「いい時代」とは言いがたい。

 特に体の不自由な人たちは、差別表現で呼ばれ、社会参画などは夢のまた夢、いつも社会ののけ者にされ、片隅に追いやられていた。心の病を持つ人たちは、「社会のくず」扱いであった。中には、存在そのものが「家の恥」とされ、その存在そのものも否定され、屋敷の中に作られた牢屋の様な格子で囲った部屋に封じ込められている人もいた。

 町のあちこちに、乞食と呼ばれる物乞いをする人たちが多くいた。過当競争である。物乞いも町行く人たちの同情を買おうと、「傷痍軍人(戦争で負傷した軍人。中には、偽装した者もいた)」「赤チン乞食(消毒薬の赤チンを体に塗りたくっていた)」など、趣向を凝らした。

当時は女性も社会的弱者であった。今とは比較にならないほどの差別の中で女性は生活していた。

 数年前にアホ大臣が失言したように、当時は、女性はまだ「子作り機械」と見なされていた。だから、子供が出来ぬ嫁は、うまずめ(石女)と後ろ指を差されたものだ。

「一姫二太郎」という言い方がある。つまりは最初に女の子、その後に二人男の子をもうける(儲けるという漢字が当てられる!)のが良いとされたが、要するに、最初に娘ならば、下の子の面倒や家の手伝いをさせられるという姑息な大人の都合がその言葉には込められていた。

 「おなごに高等教育を授ける必要はない」と、女子に高校や大学に行かせなかった家庭も多かった。中学を卒業すると、農村から集団就職で泣く泣く大都会に追い出された。

「処女で25前に嫁に行く」ことがジョーシキで、26歳になった女性は「売れ残り」と後ろ指を指された時代でもあった。私たちの少し前の世代までは、「純潔」を結婚の絶対条件とする男も多く、セックスを経験しただけで“キズモノ”呼ばわりされた。そんなご時世だから「処女膜再生手術」が流行したり、初夜に新郎を騙す術(シーツに赤チンをこぼすなど)が、雑誌の特集記事になったりもした。

 嫁に入れば、女たちは馬車馬のようにこき使われ、指は節くれだち、足の裏は深くひび割れた。私のおば(父の兄の嫁)は、どんな時にも笑顔を絶やさずに接してくれたが、一緒に寝た時に触れたおばの足の裏が古い鏡餅のように硬く割れていたので「おばちゃんの足は痛くて嫌だ」と言うと、悲しそうな眼をしていたのが今でも忘れられない。

 そんな20年代から30年代当時の日本を思い出すと、現在の中国の姿がそこに重なってくる。今我々は中国の農業を散々こき下ろし、北京などの大都市の空気汚染を他人事のように批判しているが、それはかつて我々が歩いた道である。温かい眼を注げば親近感も互いに増すはずだ。

 「三丁目の夕日」当時、朝鮮戦争特需で一挙に息を吹き返した日本経済は、昭和39(1964)年の東京オリンピック開催に向けて全力疾走していた。経済成長至上主義に危機感を持ち、環境問題に疑問を呈する声は、大型建設機械の轟音と「オリンピックを成功させよう」という国家的スローガンの前にかき消された。

 私は小学校2年生の途中まで愛知の山奥で少年時代を過ごしたが、その頃の農業はひどいものであった。村全体が「農薬漬け」にされていた。お先棒担ぎは、農協であった。村人たちは、農協の奨励する農薬を湯水のように使っていた。小川や用水に農薬を撒いて浮いてくる魚を獲って食べたりすることもあった。農民にとっては、農薬が持つ毒性よりも農薬がもたらしてくれる「草取りをしなくてすむ」「害虫の心配がなくなる」という画期的な効能が堪らない魅力だったのだ。

 その影響ではないかと思うのだが、父親の実家の人たちは、多くががんで命を落としている。私の兄も47歳でがんに命を奪われた。かく言う私も、14年前、大腸に悪性ポリープが出来て切除した。

 工場や車からの水や大気の汚染も酷かった。水俣では汚染された魚を食べて多くの方が犠牲になった。四日市などでは大気汚染から住民が喘息で苦しんだ。東京の空は、風がない日は厚い「汚染雲」に覆われていた。スモッグ(スモークとフォッグをとって作られた)という言葉が聞かれない日はないほど大気汚染が日常化した。そんな日は、決してきれいな「三丁目の夕日」は、見られなかった。きれいな夕日が見られるのはスモッグが風で飛ばされていた日に限られていたのだ。一日を終えて鼻をかむと、ちり紙(当時はまだティシューは高級品)には黒く汚れた洟があった。

 そんな日本の姿を「高みの見物」をしていたのが、欧米の先進諸国であった。日本の高度経済成長への脅威やねたみが根底にあり、それに環境汚染にまみれた日本への蔑視が複雑に絡み、欧米メディアでは、「汚染列島ニッポン」を面白おかしく取り上げる記事や映像が目立った。それは、人種差別と言っても過言ではないほどひどかった。

 昭和40年代。市民、特に子を持つ母親たちが危機感に突き上げられて立ち上がり、当時広がりを見せていた市民運動と協働して幅広い消費者活動を展開していった。それに企業が突き動かされた。すると、政府や自治体も重い腰を上げた。そうしてようやく本格的な環境汚染対策が実現したのだ。

 そんな歴史を持つ日本は、そのまま時を移して今、立場を替えて中国を見下す位置に立つ。安い農産物や工業製品を散々利用しておきながら、問題が起きれば、「高みの見物」だ。

 そこから建設的な結果は何一つ生まれないだろう。生まれてくるのは、上下関係か対立の構造だ。われわれはあれだけの犠牲と痛みを経験して、もがき苦しんだのにそれではあまりに悲しい。今我々に求められるのは、悪戦苦闘している中国を冷ややかに見るのではなく、貴重な経験を中国と共有して問題解決に力を貸すことではないのか。日本の経験と高度技術をもってすれば、中国を救うことは可能だ。

 それは、長い眼で見れば、中国の健全な発展のみならず、いずれは日本の利益にもつながるものだ。中国の大気汚染は他人事ではない。日本海側の山林が酸性雨で大きな被害を受けているが、その原因の多くが中国から飛来する汚染した空気だ。

 「三丁目の夕日」がこれからも長い間見られるためにも我々は今、対中国姿勢をどうするか、真剣な議論を戦わす時に来ている。



不条理に対する宣戦布告

2008-03-10 12:09:03 | Weblog
 世の中、理不尽・不条理なことが多い。いや、理不尽だらけだ。

 最近、裁判所から一通の封書が送られてきた。その中身は、「労働争議の話し合いの申立書」なるものである。こちらへの請求額は、ナント300万円とある。その根拠は、文書を読んでもいっこうに理解できない。友人の弁護士も、首を傾げてただ笑っていた。

 以前にも書いたが、ASEで働いていた女性講師が、わがまま言い放題、「一人労働組合」を結成して、主張し得る権利を全て使って、引っ掻き回していた。それに、「外国人労働者差別は許さん」とばかりに、正義の御旗を振り回して労働組合支援組織(全国一般労働組合東京南部)が関与してきた。

 スタッフ数名でほそぼそと31年間、「街の英会話」として子供たちの居(逃げ)場所、母親たちの相談所としてやってきた零細組織にとっては、そうなるとひとたまりもない。私に運営を任されていた責任者は、半ば精神こう弱状態に陥った。

 その結果、生徒数は激減、他のスタッフも生気を失い、雰囲気は最悪になってしまった。昨年の今頃の日誌を見ると、この女性講師が引き起こす問題のこと、それを苦慮するスタッフの悩みがほとんどを占めている。

 その一方で、当の女性講師は、女王様状態。責任者や私に挨拶すらしないで、授業内容の助言や苦情に対しては全て猛烈に反発で答えて来た。また、時折り、あることないこと作り話をして(また、事実関係を捻じ曲げて文書にしてきたこともしばしば)スタッフを困らせもした。責任者が通勤に1時間半かかることを知っているのに(知っているから?)夜9時半に授業を終えても、3,40分教室から出てこない。また、休憩時間になると、椅子を並べて教室でお昼寝。とにかく、“女王様”の言動は、眼に余った。

 そんな現状に居ても立ってもいられず、私は「職場復帰(私の給料が捻出できなくなり、しばらくの間、“出稼ぎ”に行っていた)」、彼女と対峙する事になった。

 やがて、労働支援組織は、女性講師のわがままに手を焼いたのと、不実な態度を私になじられて撤退していった。

 私は、彼女が私や労働支援組織の説得を無視して昨年8月2日から22日間の有給休暇を一方的に取ったことを理由に解雇した。もちろん、友人の弁護士と綿密に連絡を取りながら行なったことである。その際、彼女に損害賠償請求することも念頭に入れて、彼女が国外に逃げない手も打った(実は、10数年前、契約違反の外国人講師を訴えて勝訴したが、相手は国外逃亡しており、賠償金を取れなかった経験がある)。

 ただ、悪化した経営はどうしようもない状態にあった。倒産寸前に追い込まれ、私は生徒の保護者全員及び、全ての成人生徒に実情を明らかにして恥を晒し、その上で、ASEの継続を希望するかどうか訊ねてみた。

 すると、一部の生徒は混乱を恐れたか退会したが、ほぼ全ての人たちは、ASEや私の存在を必要、と熱く語ってくれたり、その気持ちを書面で伝えてくれた。残ったスタッフは減給を申し出、「ASEがなくなったらだめです。力を合わせて頑張りましょう」と力強く言ってくれた。結婚したばかりの直子も「貧乏なんて苦にならないから頑張ろう」と頼もしく後押ししてくれた。

 女性教師の下宿する老夫婦からもこの頃助けを求められた。
 「かわいそうだからと下宿させたのに、今ではまるでご主人様のよう。家賃も何か月分も払ってもらっていません」
 「彼女が怖くて仕方がありません。私が彼女の部屋を覗いた、50万円払えと言われています。どうしたらいいのでしょう?」

 生徒や生徒の親からの熱い気持ちと、彼女の数々の悪行に対する義憤が私の中にヤル気と勇気を与えた。窮状を見かねて二人の先輩が、要職を用意してくれたが、熟考の末、お断りした。

 主戦力になっている講師の感謝しきれないほどの貢献もあって、ASEの雰囲気に“らしさ”が戻り、生徒数も微増だが、経営改善の兆しが見えるようになってきた。31年間で今が最高と胸を張れる状態になってきた。

 そんな中、他の労働者支援組織(首都圏移住者労働ユニオン)から“宣戦布告”が送りつけられて来た。恐らく、全国一般から丸投げされたのだろう。だが、私は、それを恐れたり逃げるつもりはない。受けて立つからどうぞ裁判を起こしてください、と応えた。そして、先日裁判所から前述の手紙が届いたというわけだ。

 現状の労働法を考えれば、私にどれだけ勝ち目があるかは分からない。だが、私はこのような不条理が許せないのだ。ただひたすらに、子供たちのことを考えて31年間、私はこの南浦和で頑張ってきた。中には、戦争ジャーナリストが片手間に金儲けで英会話学校を経営しているという者もいたが、そんな生半可の気持ちで教育が出来ると思ったら大きな間違いだ。経営を続けたことから私が払わねばならなかった代償も、人に言ってこなかったが、少なくはない。

 そんな地道に営々と作り上げてきた子供たちや母親たちの居場所を、ミーイズム(自己中心主義)の権化のような彼女一人の手で壊されたのではたまったものではない。

 ここで彼女の不実の数々を挙げても仕方がないので控えるが、気に食わぬことには次々に牙をむけ、これまでのASEの教育・運営方針はおかしいと従わず、わがままし放題の女性講師に比べ、「授業に支障がないようにするのが我々の務め。彼女との契約雇用期間まで後○ヶ月がまんしよう」と日本人スタッフはじっと堪えてきたのだ。ただ、ひたすら我慢してきたのだ。いや、それだけではない。責任者は職を辞した。

 これを不条理、理不尽と私は呼ばずにいられない。友人の弁護士が、「浅井さんは、不条理を許さないですもんね」と、申立書を見ながら笑った。そう。私は、何があっても堂々と正面からこの問題と徹底的に闘っていくつもりである。

 
 

わや弁企画

2008-03-10 00:35:17 | Weblog
 今日、「ふるさと上谷沼地域創造塾」という名の上谷沼調整池(旧藤右衛門川遊水池)周辺の自然を守り、地元の歴史や自然を生かしたまちづくりを目指すグループに呼ばれて、地域防災の取り組み方の講演をさせてもらった。

 この塾の代表、貴家(さすが)章子さんは、遊水地を一望する家で育ち、自然の恵みをいっぱいに受けて育った女性である。彼女が東京の学校に通っていた頃は、浦和に帰ってくるとほっとするほど辺りには自然が残っていそうだ。それが、彼女には誇りであったとも言う。

 ところが、ここ20年位であろうか、洪水対策などの名目で、遊水地や川がコンクリートで固められ、雑木林や雑草地が開発の名の下で切り(刈り)取られ、次々に姿を消していった。周辺の緑に育まれてきた彼女にとっては、竹林や雑木林が住宅に変り、慣れ親しんだ動植物が姿を消すなど、いたたまれない状況が続いてきた。

 そんな思いを胸に、貴家さんは近所の人たちに、自然を取り戻そうと呼びかけたのだ。それに対して応えたのが、彼女の親の世代にあたる年齢層を中心とした住民たちだ。若い世代を上の世代が暖かく支える図は、傍から見ていてなかなか微笑ましい。

 今日の講演はそんな訳で、自宅の直ぐ近くの自治会館で行なわれた。

 集まった人たちは、塾のメンバーの他に、自治体職員や民生委員、それに御近所の知り合いなどで、楽しい集いとなった。

 防災や災害支援の話に、皆さんとても真剣に耳を傾けてくれた。これを機会に、この周辺の学校の建物の耐震化や防災対策を推進できたらと思う。

 講演の後、貴家さんに鰻屋「幸楽園」で御馳走をしてもらった。この店は、私たちの家の大家でもある。

 食事をしながら貴家さんは、「夢」を語ってくれた。

 それは、調整池なり、藤右衛門川を鰻やかつて多くいた水中生物の棲息できる川に復活させることと、「わや弁」を作ることだという。

 「だって、変でしょう?今私たちの食べている鰻は、ここで獲れたわけではないんですよ。他の所で獲れたものを運んできているんです。だったら、ここを鰻が棲める様にしてみたいじゃないですか」

 確かに、以前にも書いたが、この地域では、かつて鰻が獲れたということだけで、有名な鰻屋が今も大手を振っている。一種の「偽装」と言われても仕方がない。

 「わや弁」と言うのは、かつてこの地域が上谷(うわや)であるのに、言い難いためか、「わや」と言われていたのに因み、上谷でとれた鰻と野菜、それに近くの見沼田んぼの米を使って弁当を作りたい。その名も、ズバリ、「わや弁」にするのだという。

 「ならば、まずは手始めに『わや弁』企画をやりましょう!」
 彼女の意気込みに賛同した直子と私は、鰻をほお張りながらいつの間にかイヴェント手伝いモードに入っていた。 

 

ギョーザ問題に見るしたたかな中国

2008-03-05 08:59:00 | Weblog
 「ギョーザ事件」が、何ら解決への糸口すら見つけられないまま沈静化(少なくとも日本では)しようとしている。

 この事件が我が国に残したものは、一体何であったのか。

 まず言えるのは、中国製品への不信感の増大と、反中国感情の増幅だ。一部では、食糧自給率の低さと、「安ければいい志向」への反省も見られるが、そういった冷静な見方は、前者の圧倒的な勢いにのまれて社会の片隅に追いやられてしまった。

 一方、中国ではどうか。これまで日本の報道を見る限りでは、大きな動きは見られず、中国当局の頑迷な姿勢のみがマスコミによって伝えられてきた。だが、私が以前お伝えしたように、中国人たちが書き込むウエブサイトでは当初から日本の中国への「一方的」で「断定的」なおかつ「差別的」な捜査に対しての異論が書かれている。それは、中国側の報道姿勢をそのまま映していると言っていい。

 中国の公式通信社である新華社通信の報道を見ると、事件直後から世論操作しようとする姿勢が明白である。餃子を食べて重態に陥った子供の場合は、私が見た限りではどこにも書かれておらず、「少なくとも10人が吐き気や腹痛を訴えた/
倒れた」という情報と表現に留めている。これを読めば、「余程の証拠がない限りは、非が中国側にあったとは認めない」との中国当局の意図が読めるはずだ。

 5日の朝刊で、朝日新聞が現地からの報告で、「中国、巧みな世論操作」「沈黙一転、日本批判」という見出しを付けて、中国側の動きを伝えているが、こんなことは最初から分かっていたことではないか。何を今さらという気がする。

 今回の事件の扱い方を見ていても、日本の外交のお粗末さが良く分かる。外交は、日本の政府や外務省のやり口を見ていると、親密か対立の二つの選択肢しか頭にないようだが、そればかりではない。

 外交には様々な選択肢があるはずだ。日本政府や捜査当局の中国当局とのやり取りを見ていると、最初から喧嘩を売るつもりなのかという拙いやり方であった。捜査方法や情報交換についても、来日した中国捜査官に対してただ情報提供をするだけで、協力する姿勢はなかったと見る。本当に、日本の警察当局が中国の協力を得たいのであれば、共同捜査なり捜査への関与を許すべきであったのではないか。

 日本の捜査当局の中に、中国の警察を見下した見方が定着している。今回の中国側への対応にもそれが現れた形だ。だが、中国はこれまで警察のレヴェルを上げるために、有能な人材を積極的に海外研修させてきている。なめてかかっていると、やがてしっぺ返しを喰らうに違いない。