都市徘徊blog

徒然まちあるき日記

小林雅尚堂

2024-01-18 | 千代田区 
小林雅尚堂
所在地:千代田区 神田須田町1-4-7
構造・階数:木・2
建設年:戦前?
解体年:2005(平成17)
Photo 2005.3.25

 神田須田町、靖国通りの少し南側の通りに面して建っていた銅板張り看板建築。氏名や屋号はないが、1935年発行の火災保険特殊地図にはそれらしき建物が描かれており、これも関東大震災後の大正末期から昭和初期に建てられたものではないかと思われる。

 小林雅尚堂は表具師のお店だそうだ。戦後の1954年作成の火保図には小林としか書かれていないが、1973年発行の住宅地図には雅尚堂として掲載されている。

 この写真の後しばらくのうちに解体されたようで、翌年の住宅地図には建物はもう記載されていない。ただ小林雅尚堂じたいはWebサイトがあり、近くの神田須田町1-19に移転して営業を続けているようだ。

モダン表装・表具の小林雅尚堂
山房商店、雅尚堂/須田町1丁目 - ぼくの近代建築コレクション

Tokyo Lost Architecture  
#失われた建物 千代田区  #看板建築  #銅板張り看板建築 
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まつや米店

2024-01-15 | 千代田区 
まつや米店
所在地:千代田区 神田神保町3-25
構造・階数:木・2
建設年:戦前
解体年:2018〜19(平成30〜31)
Photo 2011.1.17

 神保町3丁目の裏通りに面してひっそり建っていた銅板張り看板建築。

 1935(昭和10)年発行の火災保険特殊地図で既に「米店」と記されているので、震災後の大正末か昭和初期に建てられたものだったようだ。

 住宅地図等での表記は年代によって少々異なる。戦後の火保図では「まつや主食販売所」、ゼンリンの住宅地図が発行されだした頃(1973年)のものでは「まつや食糧販売所」、80年代以降は「まつや米店」。主食販売所や食糧販売所といった表現は時代を感じさせる。

 撮影時は既に廃業していたが、5年ほど前までは仕舞屋として建物が存続していた。2018年5月のGoogleストリートビューには建物が写っているが、2019年6月ではなくなっている。

ビルの谷間の銅板張り看板建築 千代田区神田神保町 - 東京ノスタルジア
【×】神田神保町三丁目(1) - ずぼら堂懐古録

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福田屋/O邸

2024-01-12 | 千代田区 
福田屋/O邸
所在地:千代田区 神田神保町3-13
構造・階数:木・2
建設年:戦前?
解体年:2002(平成14)
Photo 2002.7.27

 靖国通りの南側、すずらん通りとさくら通りを西へ行った先の通りに面していた銅板張り看板建築。銅板張り看板建築は大概、関東大震災の後から第二次大戦の敗戦時頃までに建てられたものだそうなので、この連続した2棟もその頃に建てられたものだろう。奥側の庇の付いたものは福田屋酒店、手前側がO邸。

 1935(昭和10)年発行の火災保険特殊地図では外形が似た建物が描かれている。ただ、屋号や居住者名の記載はない。戦後の同地図(1951年作成、1954年修正)では、福田酒店、O邸と記されており、この時点で既に最終盤の状況とほぼ同じになっている。撮影時点では酒店は既に廃業していたらしく、翌年発行の住宅地図では更地になっている。跡地には集英社神保町3丁目ビルが2005年2月に竣工した。

 下記「ぼくの近代建築コレクション」内の記事には1987年時点の様子が掲載されている。当時は東側にも看板建築が並んでいたようだ。

尚輪社、他/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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東京都下水道局 和泉町ポンプ所

2024-01-09 | 千代田区 
東京都下水道局 和泉町ポンプ所
所在地:千代田区 神田和泉町 1-3-12
構造・階数:RC・2+B1
建設年:1922(大正11)
解体年:2023(令和5)
Photo 2001.5.9

 和泉町ポンプ所は下水処理関連の施設。公共施設ではあるが一般のオフィスや店舗ではないので、都市にとっては重要な施設だが一般市民にはあまり馴染みのないもの。RC造2階で角にちょっとした塔屋が付いているが、入口の看板を見ないと何の施設なのか判らないものだった。

 大正時代、関東大震災より前の建物だが、インフラ系施設であるからか装飾はほとんどなく、地味でモダンな雰囲気を漂わせていた。訪れた時はピンクがかったタイル張りで、白い目地がやや目立つ外観をしていたが、これは外壁の補修をした後の様子だったらしい。下記「ぼくの近代建築コレクション」には改修以前の写真が掲載されている。以前は煉瓦色のタイルを張った外観だったようだ。また、以前は頂部や窓台は打ち放しで灰色をしていたが、改修後はその部分もピンク色にペイントされていた。

 いちど訪れてからずっと見ないでいたら、昨年5月から解体され建て替えられたという。

和泉町ポンプ所/神田和泉町 - ぼくの近代建築コレクション
「旧和泉町ポンプ所」に解体工事のお知らせが掲示されていた。 - 歩・探・見・感
和泉町ポンプ所 - 千代田遺産
和泉町ポンプ所(千代田区・2023年解体)

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今川小路

2024-01-06 | 千代田区 
今川小路
所在地:千代田区 鍛冶町1-1・中央区 日本橋本石町4-2
構造・階数:木・2
建設年:1951(昭和26)頃
解体年:2017〜18(平成29〜30)
Photo 2017.10.2

 今川小路はJR神田駅の少し南にあったガード下の飲み屋街で、ここは昔、竜閑川という川がガードをくぐって流れていた場所。竜閑川は江戸時代に造られた堀割のひとつだが、第二次大戦後に瓦礫処理のために埋め立てられたという。そしてその跡地に1951年頃から近辺の居酒屋などが集まってガード下飲み屋街ができたのだそうだ。

 竜閑川は日本橋から北上する中央通りと直交していたが、それらがなしている碁盤目状の街区をJRが斜めに横切っているため、神田駅近辺のガードはほぼ全てがJRを斜めにくぐっている。今川小路もJRを斜めにくぐるガードに造られた飲み屋街だった。またこのあたりでは竜閑川が区界になっており、小路の北側が千代田区、南側は中央区である。

 70年近くに渡って営業を続けてきたが、JRが高架の耐震補強工事を行うことになったため、2017年9月末で閉鎖され、その後、解体された。

 私が訪れたのは10月になってからで、既に営業している店はなく解体を待つばかりだったが、写真を撮っているとぽつりぽつりと訪れる人があり、私同様写真を撮っていた。

今川小路 - Wikipedia
今川小路 - 千代田遺産
昭和の風景残す東京・神田ガード下「今川小路」 再開発の影で消えゆく戦後横丁(1/3ページ) - 産経ニュース
【現存せず】東京駅至近のド都心にある奇跡の光景!激渋昭和ガード下バラック飲食街「今川小路」 - 東京DEEP案内

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高橋靴店

2022-09-30 | 千代田区 
高橋靴店(高橋邸)
所在地:千代田区神田神保町2-11
構造・階数:木・2
解体年:1997(平成9)
Photo 1995.7.22

 1995年に研究室で東京の都市調査をした際に撮影した銅板張り看板建築。神保町のすずらん通りか、その西側のさくら通りで撮った記憶があったのだが、詳細な場所を忘れてしまっていた。

 撮影地と建物特定の手掛かりになったのは、右端の新しいビルと、後方のビルだった。特に後者は、窓の中央に外壁のプレキャストパネルの境目が来るタイプで、こういう外壁のビルはそれほど多くない。結局これは靖国通り沿いに建つ北沢書店の南側壁面が、さくら通りから見えていたことが分かった。

 「靴橋」と書かれていたので、当初はそういう店なのかと思っていたが、実は「高橋靴店」だった。戦前の建物で右から店名が書かれており、最初の「高」と最後の「店」の文字が脱落していたのだった。

 看板建築としては、それほど手の込んだ建物ではなかった。1階は大きなガラス張りの2枚引き戸の出入口でちょっとモダン、2階軒先には店名の金文字が付くが、2階の戸袋には特にデザインはなく、普通の看板建築商店。間口も狭く、小規模な建物だった。

 現在は写真左手の表具店と更にその左側も含めて、マンションに建て替えられている。

 二十年ほど前まではこの程度の銅板張り看板建築は、東京では結構たくさんあって、比較的ありふれたものだった。だが、やはりこのような建物は確実に減っている。神田と神保町界隈には戦災を受けずに焼け残った建物が多く、昔の建物を見て歩く楽しみがあったが、最近はタイル張りのマンションやオフィスが大半になって、街並みとしては次第に退屈になってきた。普通の看板建築だったとしても、残されていれば街の中でワンポイントになって、街並みに彩りを与えるのではないかと思うのだが、住み手じたいが高齢化して、いなくなっていく状況では、このような建物の存続は難しいと言わざるを得ない。

2008.9.5に投稿した記事を再編集しました。

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文化学院

2022-02-24 | 千代田区 
文化学院
所在地:千代田区 神田駿河台2-5
構造・階数:RC・4
建設年:1937(昭和12)
解体年:2006(平成18)
Photo 1988.11.1

 御茶の水近辺を知る人の多くが記憶している建物。文化学院といえば、やはりこの玄関アーチがシンボルだった。

 文化学院については、解体中の2006年8月11日にも採り上げているので、その際の文を再編、加筆して以下に掲載する。

 表現派的な玄関アーチはデザイン上の大きな特色だが、実はその他には装飾的なものはあまりない。表通り側では3階にバルコニーがあるのがちょっと目立つ程度で、これとて夏場になれば街路樹の緑に隠れて気づく人も少ない。確かにクラシックなカレッジの雰囲気を持つ建物なのだが、建築デザインとしては、一部に放物線も使ったアーチ玄関が目立つこと以外にはさしたる特徴が無いように見える。


 Photo 1988.11.1

 壁面には一面に蔦が絡まっている。この年期の入り具合が存在感に繋がっていた。


 Photo 2005.3.25

 薄暗いアーチの途中に建物(学校の事務所など)への入口があるのも印象的。


 Photo 2002.2.24

 アーチを抜けていくと、右側にも上階への階段がある。そして奥には中庭が見えている。


 Photo 1995.7.22

 通り沿いの校舎の下を潜り抜けると四角い中庭に出る。周囲の校舎から声をかければ話ができるぐらいの手頃なサイズの中庭は、学生の溜まり場であり、小さいながらもキャンパスというものを感じさせる重要な空間だったに違いない。周辺の建物が次第に大きくなっていく中で、ボリュームとしては埋もれがちだったが、それにも関わらず一定の存在感を保ち続けてきた。個性的な卒業生を多く輩出したという伝統から来る存在感も勿論あるのだが、そういう個性を育んだ建物、空間だったのだろう。

 通り沿いの校舎は、北側には大きなガラス窓のある開口部が設けられていた。ここはデッサン室とかだったのだろうか。クラシックな印象のある建物だったが、このあたりは近代的でモダンなデザインだった。

文化学院 - Wikipedia
美術と文芸の専門学校|文化学院(2018年閉校)
与謝野晶子が教えた文化学院が閉校 有島武郎らも教壇に:朝日新聞デジタル

文化学院/神田駿河台2丁目 - ぼくの近代建築コレクション
文化学院 取り壊し決定 - Anthology -記憶の記録-
続続・文化学院の由緒ある建物が消えてしまう : 本の人生 本との人生 末端古本屋雑記帳

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九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2

2022-02-21 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2006.1.27(記事中記載のないものは全て同日)

 内部にも入ったことがあるのでそれらの写真も記録として(居室には入っていない)。上写真は入口から2階への階段。

 記事中の写真が建物内のどの部分のものだったかは、昔のことでもあり記憶が定かでない。ただ、前の記事でも記したが、1階が店舗で2階は店主の部屋、3階は一般の賃貸住宅だったという。また下記、土木学会の資料内にある平面図から考えると、東西に貫通した廊下は3階だけだったようだ。従って、廊下の写真は3階だったのだろう。


 3階の廊下

 1階の店舗は最期の頃まで営業していたので、そちらは外観も店内もきれいにされていた。また使われていた部屋の中は改装されたりして、掃除もされてそれなりにきれいだったのかもしれないが、階段や廊下、屋上といった共用スペースはあまりメンテナンスされておらず、2000年代に訪れた頃にはかなり傷んだ状態で、まるで廃墟のようだった。

 廊下の天井は、モルタルが一部剥落して天井裏が見えていた。

 共用トイレの扉が開きっぱなしで、階段室からトイレが見えている。壁の塗装は剥げ、鉄製手摺は錆びていた。

 一部の階段は荷物かゴミで埋まり、屋上へ上れない状態。

 この階段室には洗面があった。

 老朽化してくすんではいたが、この洗面は多少利用されていたらしく比較的きれいだった。

 一方、トイレはかなりマズイ状態。このような建物で働いたり住むのはやはりためらわれてしまう。

 屋上はいろいろなものが溜まって散乱した状況。

 屋上への出入口だったのか、屋上の倉庫だったのかも分からない状態。

 東日本大震災の後、耐震性が保証できないとして解体が決まり、九段下ビルは2012年に解体された。その後、しばらくは駐車場になった後、ここには専修大学の新校舎が2020年に竣工している。


 跡地に完成した専修大学神田キャンパス新校舎(10号館)
 Photo 2020.6.23


 九段下ビルは震災復興建築としての歴史的価値はあったが、定期的な手入れがされていなかったらしく、かなり傷んでいた。鉄筋がむき出しになって錆びるところまでにはなっていなかったようだが、あちこちの天井や壁が剥がれ、トイレや洗面も傷んでいる状況ではかなり修繕をしない限り再生は難しい。電気関係も貧弱だろうし上下水道の管などもボロボロだっただろう。それら全てを取り換えて耐震補強もするとなると、建て替えとあまり変わらない費用が掛かってしまうかもしれない。かなりの補助をしない限り、所有者だけで改修するのは無理なように感じられた。

 自治体が買い取ったり、所有者が寄贈すれば存続もできたかもしれないが、装飾がきれいな洋館とかではないどちらかというと地味な居住兼用店舗+オフィスで、結構傷んでいる状況では、やはりなかなか残せないのかもしれない。

 ところで、個人的には古い建物は好きだが廃墟はさほど好きではない。外観だけで十分。本当は廃墟などではなく手入れして使われている方がいい。以前の記事の原美術館や旧相互無尽会社本社などは内外が共にきれいだっただけに惜しかった。その意味で九段下ビルは微妙な建物だった気がする。

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
九段下ビル - 廃墟系
九段下ビル取り壊しへ〜ビルの内外 - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
九段下ビル内部潜入〜神田神保町 | 東京街歩き〜旅と車窓と徘徊の日々
東京の古いビル 九段下ビル - 御光堂世界~Pulinの日記 九段下ビル/神保町3丁目 - ぼくの近代建築コレクション

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九段下ビル(旧 今川小路共同建築)
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九段下ビル(旧今川小路共同建築) その1

2022-02-18 | 千代田区 
九段下ビル(旧今川小路共同建築)
所在地:千代田区 神田神保町3-4
構造・階数:RC・3
建設年:1927(昭和2)
解体年:2012(平成24)
Photo 2005.3.25

 関東大震災後の震災復興の際に、復興助成を受けて設計建設された共同建築。1階が店舗で2階は店主の住宅、3階は一般の賃貸住宅だったという。建設当時の詳細については研究論文があるので下記を御覧頂くとして、ここではその後期(末期?)の様子を少し記していく。

 靖国通り沿いに長く伸びる姿を見せていた。震災後の復興期、小規模な店舗をそのまま建て直すのでは、また木造になりがちで耐火建築とするのは大変。なので共同建築にして、かつ賃貸部分を設けることで、コストを下げ不燃化を進めようと考えたということだろうか。その結果、一つの街区の東西いっぱいに長く連なるファサードを持つ建物が造られた。街並み形成についてどれだけ考えていたか分からないが、その街並みは興味深いものだった。


 西側から Photo 1992.7.31

 1階の店舗の間口は木造家屋と似たスケール感だったが、共同建物なので隙間なく店舗が並んでいる。大型の一つの店とは異なり、店ごとに様子がさまざまなので歩いていて飽きない。


 西側・俎橋から Photo 2002.7.27

 俎橋側の端部は鈍角で、通り沿いと同様の立面が回り込んで連続している。2000年頃以降は、外壁の一部にタイルの剥落防止用のネットが掛けられていた。


 北東側から Photo 2006.7.9

 一方、東側のコーナーは西側とは異なり素っ気なく切れている。改修の結果なのかもしれないが、もしかすると当初はもっと東側の街区でも同様のものを建てようとしていたからかもしれないなどと思った。小路は敢えて無視して、靖国通り沿いに専大通りの方にまで統一感のある長い街並みを創り出そうとしていたのではないかと考えるとおもしろい。


 北側・ビル裏側から Photo 2005.3.25

 増築のせいもあるが、靖国通り沿いの表側に比べると装飾もなく殺風景な印象。表通り側の表情をやはり重要視していたのだろうと想像される。


 中央部 2、3階 Photo 1995.7.22

 中根速記学校は昭和30年代から長期間入居していたという。消えかかった「中根式速記」の文字が記憶に残る。「写植 版下 デザイン トレス」の看板も昔風の雰囲気。
 下の方で引用した当初の外観写真には、「女子タイピスト学院」や「関東特許事務所」の看板が掲げられているのが見える。神保町あたりは当時から出版などのビジネス街だったことが分かる。


 中央部 3階 Photo 2005.3.25

 最上部、パラペット上端部はU字が連続する波型。壁面の穴は換気口だろうか。屋上以外の階にも同様のものがあるので雨樋ではなさそう。窓と窓の間の壁はスクラッチタイル張り。その他の壁面はモルタル塗りコンクリートだったようだ。


 西側玄関 Photo 1995.7.22

 1階の店舗はそれぞれが改装を重ねているので、ようすもばらばら。玄関部分はやや傷みが激しかった。


 西側階段室 Photo 2002.7.27

 階段室部分は他の壁面より前に出ていて、また2階から屋上階まで壁面が連続しており、長大な壁面の中でアクセントになっていた。


 1階・東端の事務所 Photo 2005.3.25

 1階は店舗として使われている区画が多かったが、東端の一角は後期は個人の事務所のようにして使われていた。看板などが無く、外壁や窓がよく見える状態。オリジナルに近い状態だったのだろうか。


 店舗 玄関上部 Photo 2006.1.27

 タバコ店の入口上部のガラス。木製の枠にすりガラスが嵌められ、間には色ガラスの装飾もあった。この部分は相当古かったのではないだろうか。


  当初の外観写真 土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 04-11-0923.pdf

九段下ビル(旧今川小路共同建築) その2(内部)

九段下ビル - Wikipedia
土木学会図書館|土木建築工事画報|第4巻11号 - 04-11-0923.pdf
九段下ビル - 廃墟系
九段下ビル取り壊しへ〜ビルの内外 - 東京 DOWNTOWN STREET 1980's
九段下ビル内部潜入〜神田神保町 | 東京街歩き〜旅と車窓と徘徊の日々
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大和呉服橋ビル

2022-02-15 | 千代田区 
大和呉服橋ビル
所在地:千代田区 大手町2-6
構造・階数:SRC・9+B3
建設年:1956(昭和31)
解体年:2017(平成29)
備考 :1966、1970、2009に改築
Photo 2006.1.28

 竣工以来、大和証券の本社ビルとして長い間使われていたビル。Wikipedia等によると2007年に大和証券が転出し、その後2010年からはパソナグループの本部ビルになっていたそうだ。

 容積率制に移行する前の絶対高さ規制時代の建物なので、大和証券の看板が載る塔屋以外の部分の軒高は31m以下になっていたのではないかと思う。開口部が大きくシャープな印象のモダニズムのオフィスビル。ガラスなのかブラインドなどの色なのか分からないが、薄緑色の外観が印象的だった。
 南北2ヶ所に塔屋(EVの上屋)があったが、北側の塔屋上にはロケット状の塔が載せられていた。これがアンテナ的なもので実用のものだったのか、単なる装飾・シンボルタワーだったのかは知らず。パソナのビルになった後もこの塔は屋上に載っていた。


 大和証券の転出後、パソナになる前のようす Photo 2009.1.18

 日曜日だったこともあり灯りも点いておらず、このまま壊されてしまうのかと思ったが、その後、外観は大きく変化することとなった。
 後方の黒っぽい高層ビルはJXビル、左端の超高層ビルは朝日生命大手町ビル。


 パソナの本社になってしばらく経った頃のようす  Photo 2014.5.4

 外壁が大幅に改修され窓割も替えられた。外壁は半分ほどが壁面緑化され、1Fには人工照明を用いた水田も作られた。当時、この水田はしばしばメディアにも採り上げられていた。


 壁面緑化のようす  Photo 2014.5.6

 季節によっては花も咲いていた。当時、壁面緑化を大々的に行った建物は都心では珍しかったので、会社の業務内容はともかく、このような建物が増えていくのも面白いなと考えていたのだが、結局、これは数年で終わってしまい、超巨大な高層ビルがこの一帯には建てられることになり、この建物もあっという間に解体されたのだった。


 屋内での稲の栽培  Photo 2011.1.9

 人工照明で光を当て、温湿度も管理されていたのだろう。1月に通り掛かった際にも青々と稲が育っていた。ただ、人工照明を当てて暖房をして稲作をすることが、エネルギー的に本当に環境に優しいことだったのかどうかは知らない。多分にショールーム的なものだったのかもしれないと、今となっては思う。

 大和呉服橋ビルとJXビルは、東京駅前常盤橋プロジェクト(大手町二丁目常盤橋地区第一種市街地再開発事業)に伴い解体された。西側の朝日生命大手町ビルや日本ビルヂングも近日中に解体されるはずである。丸の内、大手町、八重洲、日本橋、界隈の建物は次々に解体され、跡地では巨大かつ超高層のビルの建設が相次いでいる。

大和呉服橋ビル - Wikipedia

Tokyo Lost Architecture 日本橋界隈 - 都市徘徊blog
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